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う人物が、南北戦争の直後に結婚したときには、それについて、かなり議論があったそうである。というのはほかでもない。じつはその花嫁の祖先というのがはっきりしない家柄で、その花嫁はニュー・ハンプシャーのマーシュ家の孤児で、エセックス郡のマーシュ家のいとこの一dermes 價錢人に当たるということがわかったからだ――しかしこの娘は、フランスで教育を受けていたので、自分の家についてはほとんど知らないといってよかった。その後見人が、この娘とその家庭教師であるフランス婦人とを扶養するために、ボストンのある銀行に資本を預金しておいてくれたが、この後見人の名前を、アーカムの人たちはだれも知らなかったし、やがてこの後見人は姿を消してしまったので、女家庭教師が法廷の指示にしたがって、後見人の責任を代行した。このフランス婦人は――だいぶ前に亡くなったのだが――たいそう口かずの少ない人で、その気にならば、もっと弁舌のたつ人だったのに、という連中もないことはなかった。
 だが、一番やっかいな問題は、ニュー・ハンプシャーの名家のなかには、この娘の戸籍上の両親たるイノックとリディア(ミサーブ)・マーシュ両人に該当するものがいないという点であった。おそらく多くの人がほのめかしたように、この娘はマーシュ家のだれか立派な人物の私生児であったかもしれないのだ。そういえばこの娘には、たしかにあのマーシュ家特有の眼付きがそなわっていた。当惑するようなことがらは、この女が、初めての子であるわたしの祖母を生んだお産の結果、年若くして死んだあとで、あらかた処理されてしまったのである。マーシュという名前を耳にすると、わたしはどうにも不愉快なことを連想するようになっていたので、マーシュという名が自分の系図に属するものであるという知らせを受けても、それを歓迎する気にはなれなかったし、またピーボディ氏が、わたしもあのマーシュ家の眼を持っているといったことばにはうんざりしてしまった。しかしわたしは、やがて価値がでるとわかっていた資料を提供してくれたことについては、氏に感謝を捧げたし、詳細に記述されたオーン家に関する覚書や参考書類のリストは写しとった。
 わたしは、ボストンからまっすぐトレドの自宅に戻ったが、その後、例の厳しい経験から立ち直るために、マウミーで一ヵ月という日時をすごした。九月になると、最終学年に備えるためにオウバリンに入学し、それから、翌年の六月までは、勉強や、その他さまざまな活動のために多忙であった。ただわたしの陳述と証言とをきっかけとして始まった法廷運動に関係のある政府の役人たちが、ときおりたずねてくるときだけ、あの過ぎさった恐るべにすぎなかった。六月のなかごろ――インスマウスであんな経験をしてからち理大腾讯ょうど一年たっていた――わたしはクリーヴランドの亡くなった母の里であるウィリアムソン家で一週間をすごしがてら、いろいろな書類や、いい伝えや、先祖伝来の家宝と、新しい系図上の資料のいくつかを照らしあわせ、どんな系図が作れるかと研究していた。
 本当をいうと、わたしはこの仕事が好きではなかった。というのは、ウィリアムソン家の雰囲気は、いつもわたしには重苦しかったからである。この一家には、一種病的な傾向があって、わたしが子供のときに母親は、自分の里かたへ、わたしを行かせようとはしなかった。けれども母は、自分の父親がトレドにやってくるといつも歓迎した。アーカム生まれのわたしの祖母は奇妙な人で、きまってわたしをこわがらせていたらしい。だから祖母が行方をくらましたときも、わたしは悲しまなかったように思う。当時のわたしは八つだった。祖母は長男であるわたしの伯父のダグラスが自殺したあとで、悲嘆にくれて雲隠れしてしまったのだそうだ。ダグラス伯父さんは、ニューイングランドへ旅行したあとで自殺してしまったが、その旅行は間違いな澳門套票優惠くわたしと同じ旅行で、だからこそ、アーカム歴史協会で彼のことを思いだすよすがになったのである。
 このダグラス伯父さんは、祖母にそっくりなほどよく似ていて、だからわたしはこの伯父も嫌いだった。この二人とも、なんだかじっと見つめるような、またたきをしない眼付きをしているので、わたしはぼんやりとした、ちょっとことばではいいようのない不安を感じた。