2007年05月31日

ご挨拶。

2007年5月5日(土)午後6時27分
最愛なる母が天国へと旅立ちました。(享年65歳)

闘病生活約2年半、多くの方から励ましと応援を頂き、
皆様の応援を背に母はここまで頑張ることが出来ました。
今まで応援下さいましたこと心より感謝致します。

この挨拶を持ちまして「外陰部だって癌になる」は終わります。
短い間でしたが、つたない私の日記をご覧下さいまして
ありがとうございました。皆様のご多幸をお祈りしております。


「外陰部だって癌になる・・・」は母の闘病記録を記すためでもあり、
パジェット病を一人でも多くの方に知って頂きたかったので
立ち上げました。多々の混乱を避けるため旅立ち後の日記を別に移しました。
こちらはただの日記ですのでご興味のある方のみご覧下されば
と思います。新しいブログはこちら→。「人生いろいろ。」


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今の現代にして稀な病は数知れずありますが、
パジェット病もその中の1つです。

乳房外パジェット病はいわゆる”性器”に発症し、
カユミから始まり患部は白っぽくなります。
女性はカンジタやカブレ、男性はインキンタムシと
大変間違われやすいです。

「塗ればカユミが治まる」という便利な市販薬がありますが、
1週間以上塗っても改善しない場合は医師の診察を受け、
患者側から言ってでも組織検査はして貰って下さい。

女性の場合、性器でも外から見えない内部は婦人科、
見える範囲は皮膚科です。婦人科でも見てはくれます。
男性の場合は泌尿器科か皮膚科を受診して下さい。

パジェット病は癌です。皮膚癌です。
「パジェット病という癌がある」ということを頭に入れ、
カユミやカブレの話を誰かから聞いたならば、どうぞ
その方にパジェット病の話をしてあげて下さい。
その方に医師の診断を受けるよう強く勧めて下さい。

パジェット病かも知れないし他の病気かも知れない、
もしかして何でもないことだってあるんです。
何でもないならそれでバンザイです。

早期発見が一番大切です。
世の中から一つでも多くの命が救われるよう願うのみです。


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2007年05月30日

腫瘍マーカー記録。

腫瘍マーカー値の記録。

2004年
生まれて初めての数値 10月23日 118.9
11月10日 110.7
12月14日 92.9

***タキソテール開始***

2005年
1月4日 58.7
2月14日 14.4
3月22日11.8
4月 6日 10.3
5月 6日 12.3
6月20日 16.6
7月19日 17.3
8月 1日 20.1

***カンプト開始***

8月30日 22.1
9月21日 37.3
10月19日 21.8
11月30日 39
12月29日 43

2006年
1月18日 52.8
2月01日 40.2
3月08日 46.4
4月12日 48.5
5月17日 47.5 
6月21日 37.0
7月26日 41.5
8月30日 40.5
9月26日 43.6
10月18日 42.8
11月29日 56.1

2007年
1月17日 68.0

***TS−1開始***

2月26日 140.8

***タキソール開始***

3月20日 139.4

最終数値記録 239


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2007年05月05日

旅立ちの日(1)。

私が休憩を取る時は兄が、兄が休憩を取る時は私が、
交代で数十分ずつ休憩をとった。


個室に移される前の同室だった方と、入浴施設の話を
頻繁にしていた。そこは数種の湯の他に、岩盤浴や
マッサージの施設があり、貸し切り個室もある。
身体や足の浮腫みがあるため、人に見られることなく
入浴出来る”個室”でゆっくり楽しみたい、
それが、入院中最も楽しみにしていたことだった。

今朝2人になった時、「温泉、温泉。」と繰り返し母が言った。
「○○の湯?」と言うと「うん、温泉、○○の湯。」
力のない声であったが、きちんとしゃべった。
「予約しておこうね、温泉楽しみだね。」と言うと、
「うん。」と首を力強く縦に振った。

「Kちゃんは?Kちゃんは来ないの?」
「ようすけは?ようすけは来ないの?」
「みんなのお部屋に戻ります。」
「どうしてみんながここにいるの?」
意識が朦朧とする中、このような言葉を発していた。

今朝の母はここ数日と違いよく話をした。
後に兄も同じようなことを言っていた。


倒れた日、抗生剤を投与するまでの間、母の口腔内は
数え切れないほど口内炎が出来ていた。
抗生剤投与後はそれも治まり、ただ唇の乾燥が目立つ程度だった。
乾いた唇にはIさんから頂いたマヌカハニーを塗ってあげ、
湿らせた脱脂綿で水分を補ってあげたりしていた。

そんな母の口腔内に異変が生じていた。
口はおろか、喉の方まで黒に近い赤黒になっていた。
口から服用させていたオプソ(痛み止め)だったが、
それももう出来ない状態にまでなっていたため、
鼻のチューブから直接胃に入れてもらった。

チューブによって既に胃の内容物は全て出しきっていたが、
オプソを服用すると多少なり液が出て来てはいた。
しかし今日は全く液が出て来なかった
また、血混じりの尿が1日数cc出てはいたのだが、
尿も全く出て来ない状態になったいた。

昨日までは下がっても85はあった血圧だったが、
80を上回らなくなってしまったので、血圧を上げるために
イノバン注(シリンジ)の速度を速め、本数を増やしたが、
それ以上血圧が上昇することはなかった。


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旅立ちの日(2)。

この日の最後に書いたお2人が帰られ、そして父が来た。
母の手を父が握ると、母は父に顔を向け、何度も
「お父さん、お父さん。」と叫んでいた。
母は、何かを言いたいかのような、安心したかのような、
何とも言いがたい表情をしていた。

お昼を過ぎた頃には、血圧も50を行ったり来たりしており、
酸素の量も不足の数値を表していた。(酸素は限界ギリギリまで上げられた。)
この頃になると看護師が瞳孔の確認と血圧を測りに頻繁に病室へ来ていた。

しばらくして医師が病室を訪れ「連絡をとるご家族が他にいれば・・・」
言った。始めは何を言っているのか理解出来なかったが、
医師が帰った後の兄の涙を見て、ようやくその意味が分かった。


母の洋服は入院した日に持ち帰っていた。
「母が家に帰る時は洋服を着せないといけない。」と兄に言われ、
母が最後に着ることになるだろう服を取りに帰った。

数日前に「今度はお母さんと一緒に帰って来るからね、
元気なお母さんを連れて帰ってくるからね。」と、そうワンコ(犬)に
言って家を出たのだが、それが叶わなくなってしまった。
無邪気にシッポをふりふり出迎えてくれたワンコに会った瞬間、
玄関で声を上げて泣き崩れてしまった。

時間のない中での服選びは難を要した。
沢山ある洋服の中で、母のお気に入りは数多くあるのだが、
浮腫みが酷くなった3月頃よりどれも着ることが出来なくなっていた。
特に下に関しては、パジャマか私が作ってあげたズボンしか、
履けなくなってしまっていた。
母の大好きなオレンジ色のニット地で作ったズボンを、
「これはいいね、履きやすいね。」と喜んでくれていた。

母が自分で作った黒地にチューリップ柄の変形ベスト、
よく着ていたハイネックのカットソーに加え、
先の、母のために作ったズボンを選んだ。
その他、お気に入りの靴下、私が作ったニットの帽子と、
カツラも一応持って行くことにした。

お洒落な格好とはいかないけれど、母にとって着やすく、
母娘で名づけた「楽々ファッション」を母のために選んだ。


病院へ到着後、母の荷物を取りに大部屋へ行った。
ご自身の治療で大変な中、皆全員が母のことを心配してくれ、
沢山の励ましをも頂いた。皆さんに現在の状態を説明し、
置いてあった母の荷物を整理し大部屋を後にした。


何時か、血圧が50を下回るようになった頃、足にチアノーゼが出始め、
氷水に浸けたかのように冷たく、身体全体も冷えていた。
いくら擦っても、いくら温めても、これ以上体温が上がることはなかった。


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旅立ちの時。

父と兄が話をするために病室を出た。

ナースステーションから聞こえてくる「ピコッピコッ」という心電図の音と、
酸素マスクからもれる「シューシュー」という酸素の音、
「スースー」という母が呼吸をする音、この3つが病室に響き渡っていた。

母の病気が発覚してからどこに行くにも一緒で、家ではもちろん、
移動の車中でもやたらとよくおしゃべりをしていた。
よく話題がこうもあるもんだ、というくらい話をする母娘だったのに、
今は「痛くない?かゆい?」と問いかけても反応すら示して
くれなくなってしまった。

「○○(私の名前)だよ、お兄ちゃんもいるよ、お父さんもいるよ、
チビ達(ワンコ)も待ってるよ。」
「お母さん、お兄さんを生んでくれてありがとう、お兄さんは
やっぱり頼りになるよ。お父さんと再婚してくれていてありがとう。
私一人では絶えられなかったよ。」

いくら話しかけても答えてはくれなかった。


「お母さんの子供で私は幸せだった。幸せだよ。
生んでくれてありがとうね。お母さんは幸せですか?」

「お母さんは幸せですか?お母さんは幸せでしたか?
お母さんは・・・」と言った時、母の呼吸が止まった。


「お母さん!お母さん!」と声をかけながらナースコールを押した。

再度「お母さん!」との呼びかけで一度意識を戻し、2〜3度呼吸をしたが、
”スー”と息を吸ったのが最後になり、再び息をすることはなかった。

再度ナースコールを押し、父と兄を呼びに走った。
父と兄に何と言ったか覚えてないが、みんなで病室へ走ったことと、
兄が「おふくろ!おふくろ!」と言っていたことだけは覚えている。

生前母は延命処置を希望していなかった。
医師には”家族全員が揃うまで”と言っていたのだが、
幸いと言っていいのかは不明だが、家族全員その場に居たため、
母の希望通り延命処置をせずに逝かせてあげることが出来た。


心電図の数字が0になっていることを家族全員で確認し、
医師により死亡が言い渡された。

「18時27分、ご臨終です。」

母の65年間の人生に終止符が打たれた瞬間だった。


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旅立ち。

母の死因は急性腎不全だった。

今思えば、腰や腹部を痛がってたのも、便意がなくなり
尿量が減少したのも、身体の浮腫みも全て
腎臓の機能障害から来るものだったのだろう。

去年の11月頃より、以前に増して浮腫みをうったえ、
カンプトの効果も薄れ、腫瘍マーカーも上昇をし始めた。
きっとこの頃より症状が悪化し始めていたのだと思う。


死亡を確認した後すぐ、「もうこんなのいらないよなと、
涙を堪えながら酸素マスクや心電図を父と兄が外していた。

母が帰る支度を整えている間、父と兄は準備のため一足先に帰宅した。


今朝私は、既に他界している祖父母に「まだお母さんを迎えに来ないでね。
迎えに来たら一生をかけて恨むからね。」
とお願いをし、天国にいる愛犬に
「お迎えに来ないでね、まだ待っててね。」とお願いをした。

母が支度を待つ間、一時外へ出て「お母さんを生んでくれてありがとう、
お母さんに出会わせてくれてありがとう。」
と祖父母に言い、
「モモちゃん(天国の愛犬)、お母さんを宜しくね。」と頼んだ。
そして母に「生まれてくれてありがとう、私の母でいてくれてありがとう、
お父さんとお兄さんをいつまでも見守っていてね。」
と言った。

そしてまだ時間があったので、お世話になった大部屋の方々に
ご挨拶に行くと、皆さんが母を悲しんで涙してくれ、私の心配をもして下さった。
皆さんへは感謝してもしきれないほどの思いでいっぱいだった。


看護師に呼ばれ病室へ入ると、顔にガーゼをかけられた母がそこにいた。
恐る恐るガーゼをめくると、薄化粧をしたキレイな母の顔が現れた。
ついさっきまでのあの苦しみに満ちた表情はどこにもなく、
ただただ眠っているかのような、穏やかに安らかな表情をしていた。

涙を堪えガーゼを全て取ると、無造作に被されたボサボサのカツラと、
顔にかけてあったのが布ではなく、病院らしくガーゼであったことに、
流れていた涙が止まってしまった。
こんな時にまで私を笑わせようとしているのか、そう思うと、
母らしい出来事に微笑ましくも思ってしまった。


地下にある霊安室へ運ばれる際も、看護師の手際の良さに関心し、
こうして運ばれるんだな、と冷静な気持ちで流れを見ていた。
エレベーターを1回乗り換えるのだが、同じく霊安室へ向かう
医師や看護師と出くわし、何ともぎこちなく皆で地下へ降りた。

サスペンスドラマで見る霊安室をイメージしていたが
それとはだいぶかけ離れており、比較的広めの畳の部屋も
お隣にあったりする”ご休憩場”的な感じだった。

霊安室に備わっている祭壇に母を置き、皆で焼香をした。
次から次と見知らぬ医師や看護師も出席してくれ、
あまりにも長い焼香に、ここでまた流れていた涙が止まってしまった。
おいおい、長いよ、あなたは誰?これもまた母の仕業だと思った。


母の希望もあり”癌告知”はしてもらっていた。
H先生(担当医)は経験ある医師であるから、
現状や進行状態、余命などは分かっていたのだと思うが、
いつなんどきも「大丈夫、良くなるから。」と言い、
悪化していることは私にも伝えられていなかった。

もし10を10伝えられていたとしたら、母も私も
ここまで頑張って来れなかったと思うし、半ば諦めていたと思う。
だから、いつも励まし母を思って治療にあたってくれた
H先生の気持ちがありがたく、心から感謝している。


長らくの焼香が終わり、皆に見送られ、母の大嫌いな病院を
ようやく後にすることが出来た。

約2年半の間、何十回、何百回通っただろう。辛く苦しい思い出
しかないこの病院へ、母は二度と来なくていいのだ。



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2007年05月04日

症状。

尿はほとんどと言っていいほど出て来なかった。
点滴の液全てが身体に溜まっているようで、
肩下から足先まで、日増しに酷く浮腫んでいった。

痛みは痛み止めで抑えているが、痒みが胸元を襲った。
数日前に同室だった方に爪を磨いて頂いた。
キレイに整えられピカピカに光っている爪で、
自分の胸元を傷が出来るまで掻きむしっていた。
掻きむしる姿を見ていられなく、両手を押さえて
それを阻止したことが1回あった。

両手を掴んだ瞬間、今まで見たことのない、悪魔でも
見るかのような凄まじい目で私を睨んだ。
あの時の目を私は一生忘れることが出来ないだろう。


「お兄さん、お兄さん。」と何度も言う母に
「お兄さんがいいの?お兄さんの方がいいの?」と聞くと
「うん、うん、お兄さん。」と繰り返し言った。
「お兄さんの方が優しいから?」と聞くと
「うん、お兄さんがいい。」と繰り返し言った。

女の子は普段おしゃべりしたり食事に行ったり出来る、
男の子はそれがない分、いざという時に頼りになるし、
心が優しい、と生前よく母はそう言っていた。

痒みでどうしようもない今、私の「大丈夫だよ。お薬もらおうね。」
という言葉より、何も言わずに母の手をそっと握り、かゆい場所
を優しく擦ってくれる兄の優しさが嬉しかったのだろう。


父は今まで母に付き添って病院へ来たことが無かった。
病名も治療の進行状況も分かっていなかった。
高齢ということもあるが、何度説明しても理解出来ず、
それもあって母も私も多くを語らなかった。

母の病気に対して無関心的なところが多々あったが、
辛い時や痛い時に母をよく励ましてくれていた。
そして、母が個室に運ばれてからは、電車とバスを乗り継いで、
片道1時間以上かけ毎日献身的に通ってくれた。


通常はここまで排尿が無い場合、最終手段として腎臓に直接管を
通す方法をとるらしいが、母にそこまでする必要があるか、と
いったことを病室へ来た医師から言われた。

「病人は意識が無くても話声は聞こえているんだよ。」
そう母は生前からよく言っていたので、それ以上詳しい説明を
医師から聞くことが出来なかった。また、家族にも生前の言葉を伝え、
話をする時は廊下へ出て話をするように心がけた。

このままでは悪くなる一方であり、日増しに浮腫んでいく姿も辛く、
父と私は最終手段を取ってくれるよう医師に頼むつもりでいた。


私達の考えと、医師に今一度説明を聞いて欲しい旨を兄に言うと、
「延命処置の話をされたということは、それなりの意味であり、
今の治療で良くならないのであれば、治療を止めてもらい、
モルヒネを使用し、話が出来る状態にしてもらうのはどうか。
母も話したいこと、伝えたいことが沢山あるはず。」
そう言った。

日一日と状況が悪くなる一方、それを認めたくない自分と、
認めるのが怖い自分がいた。しかし兄の言葉を聞いて目が覚めた。

母は闘病が始まってからよく「最終的にはホスピスがいいな。
痛い時は痛み止めをすぐ打ってもらえるし、おしゃべりは普通に出来て、
好きなことをして過ごせれるらしいから。」
そう言っていた。


夜になって兄が医師から詳しい説明を受けた。
医師によると、腎不全が原因で排尿、排便障害を起こしており、
それらの菌が脳にまで達していることによる意識障害らしく、
それが母の”痛み”を麻痺させてくれているらしかった。
また、胸部に水が溜まっているとのことだった。
そして、心臓も弱まっているため、命を縮める可能性大のモルヒネは
使用は出来ない。痒みに関しては腎臓から来るもので、強い痒み止めは
腎臓を悪化させるだけなので使用出来ない、とのことだった。


家庭の事情で生命保険は随分前に解約をしていた。
再検討を始めた矢先癌が発覚し、どの生命保険会社とも契約が出来なかった。
母はそれ以来、自分の葬儀の心配をしていたのだが、
何かあった時は、と、2人の名前を私に告げていた。

1人は祖父母の代からお世話になっている教会の牧師で、
もう1人は母よりも全然若いのだが、その方が高校生の時から
お付き合いがあり「人生で自分を救ってくれた3人のうち1人」と
言っていた方で、葬儀関係の会社を営んでいる方だった。

夜のうちにお2人と連絡が取れ、忙しく遠方にも関わらず、
明日病院へ出向いてくれることとなった。
また、母の手帳にあった数名の方へも連絡をした。


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2007年05月03日

意識。

母はお風呂上りに蒸しタオルで足裏を温めるのが好きだった。

モンゴル地方に伝統的な発声法で「ホーミー」というものがある。
ホーミーには脳波をα波(リラックス効果)があると言われている。
そんなことを以前TVでやっているのを見て以来、
私達は”足裏温め”を「ホーミー」と勝手に名づけていた。

病院の電子レンジでタオルを温め、家に居た時のように
ホーミーをしてあげると、とても気持ち良さそうな顔をしていた。


入院当初「呼んでいい」と言った人が家族以外に2人居た。
1人は昔からの母の友人(TKさん)で、もう1人は兄の彼女だった。
そして、誰よりも会いたがっていたのは、息子である私の兄だった。

偶然にも昨日父が帰宅したと同時にTKさんから電話があり、
状況を伝え、今日母の元を訪れてくれた。

容態は昨日よりも悪化しており、TKさんが来てすぐは気づかなかったが、
私が席を外していた30分ほどの間に、一瞬ではあるが、
TKさんの存在に気づいたとのことだった。

TKさんが帰りまもなく意識が少し戻り、「Kちゃんは?Kちゃんは?」
「ようすけ(兄の名前)は?ようすけは?」
と繰り返し言っていた。


「大丈夫だよ、良くなってるからね、一緒に頑張ろうね。」
そんな言葉に一切反応を示さない母だったが、
「どうして私じゃなかったんだろう、代わってあげたい。」
そう言うと、物凄い目つきで私を睨みつけた。
そして、「奇跡は起きるよ、奇跡はあるからね。」と言うと母は
「何の奇跡が起きるの?」と冷たく言い放った。


ほどなくして兄が彼女を連れて母の元を訪れた。
やはりすぐには気づかなかったが、母の手を自分の頬へ持っていき、
「ようすけだよ。」と言うと、兄の存在に気づいた母は、
「おじさんになったね。」と無邪気に言った。

しばらくして彼女を駅まで送りに兄が病室を出ると、
「ようすけは?お兄さんは来ないの?」と寂しそうに繰り返し言っていた。


意識レベルは昨日よりも低下。処置、治療は昨日と同じ。
オプソ(痛み止めシロップ)が5mgから10mgに変わった。


ゴールデンウィークで兄の仕事が休みのため
兄妹で母に付き添った。


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2007年05月02日

急変。

「今日もちょっと調子が悪いから早めに来て欲しいな。」
朝8時前後に母からそう電話が掛かって来た。

1日も切らすことの出来ないワンコの薬を貰うため
早めに家を出て動物病院へ行ったのだが、あいにく
ゴールデンウィークで大混雑、処方に1時間も掛かってしまった。
また、母に良かれと、低反発座布団と小さなベビー用スプーンを
買いにホームセンターにも立ち寄ってしまった。
結局私が病院へ付いた時はお昼になってしまっていた。


「お母さんが大変だよ、処置室に行って!」
病室へ向かう私に同室の患者さんが気づき、慌てた様子でそう言った。

処置室の扉を開けると、意識もうろうとした母の手を握る父が居た。
父は病院からの呼び出しで駆けつけたようだった。
母は酸素マスクをし、腕には点滴、鼻にはチューブ、尿道には管を入れ、
オムツをし、あまりにも痛々しい姿となったいた。

看護師の話によると、一時意識不明に陥り、その後
焦点も合わず、様子もおかしくなったとのことだった。


父が帰りしばらくして、痛みと共に母の意識が戻った。
昨日買った低反発枕と今日買って来た低反発座布団を宛がうものの
痛みは治まらず、「一度起きたい。」と言う母の希望を受け入れ、
立ち上がらせてみた。しかしながら自分の足で立てる訳もなく、
私と一緒にベッドへ倒れこんでしまった。

ベッドの背を上げ私が座り、膝の上に母を座らせた。
「重くてあんたが大変だから。」と全体重をかけてこない母に、
「丈夫に生んでくれたから大丈夫だよ、軽いもんだよ。」と言いながら
母の頭を私の胸元へ持っていった。(私を背もたれにする格好)

母の足はよく持ち上げていたので重さは知っていたのだが、
脂肪も筋肉も落ち、すっかり痩せ細ってしまった上半身とは対照的に、
下半身全ての重さがこれほどまでか、と驚いた。
「鉛のような重さ。」と母はよく言っていたが、まさしくその通りだった。

この重さを抱えながら”腸が動くように”と、入院中の調子のいい時は
歩いてトイレにも行っていた。
この重さを抱えながらこれまでよく頑張って来たな、そう思うと、
何とも言いがたい気持ちになったと同時に、母の強さを実感した。

母の重量は全くもって”重い”とは感じなかった。
私がクッションになったことで、少しでも楽になれれば、という
気持ちだけだった。しかしながら再度の痛みと共に、
クッションの役目は数分で終わってしまった。
そしてベッドへ横になり、また意識の薄い状態になった。


1日に1回必ず看護師が身体を拭き、歯磨きをしてくれた。
身体をキレイにする時家族は通常外に出ているのだが、
昨夜は少し出遅れ、オムツを取る瞬間に出くわしてしまった。
看護師がオムツを取ろうとした時、外陰部にオムツが張り付いており、
看護師が無理やり剥がそうとした。と同時に「痛い痛い。」と泣き出した。

慌ててキシロカインゼリー(表面麻酔剤)と軟膏を手渡し、
それらをたっぷり塗るよう看護師に伝え病室を出た。


夜、「教授からお話があります。」と看護師に言われ、別室へ行くと、
そこには教授の他に2名の医師が居た。

状況は非常に悪く、今から抗生剤投与での治療を行うが、
抗生剤の効果が出るには2〜3日掛かり、進行は早い、と言われ、、
私一人で聞くには重すぎる”延命処置”の話をされた。

先に言った通り、抗生剤の効果は2〜3日しないと分からなく、
進行状況が早いため覚悟が必要な旨を言い渡された。

母は病気になる前から延命処置を嫌がっており、
「延命処置はしないでね。」と常々言っていた。
機械での無理な延命処置は断り、家族が駆けつけるまでの間の
延命処置
を医師にお願いした。

家族に相談もなく決めてよかったものかと悩んだが、
後に、生前からの母の希望であったことを伝えると、
家族もこれを了承してくれた。


夜にS医師から、腎臓機能が低下している旨を伝えられ、
原因解明のために培養検査をする旨も伝えられた。
腎臓機能を上げるためにイノバン注(シリンジ)を追加し、
点滴(ポタコールR)ラシックスを加え、
その他、サンドスタチン3A(点滴)を続けて2本、
サンセファール(点滴)も投与した。
培養検査には血液、尿、喉粘膜を採取した。

夜中に痛みをうったえたため、貼る痛み止め(デュロテップパッチ)
を貼り、オキシコンチンを看護師が服用させてくれた。

夜勤の看護師は母が一番お気に入りのIくん。
「Iくんにお世話してもらって幸せだね。」というと、
Iくんの腕を両手で掴み、嬉しそうに頬摺りをしていた。
意識レベルは低いものの、問いかけに答えることは出来ていた。


明け方また痛みをうったえたのでIくんを呼ぶと、
オキシコンチンに代わり、シロップの痛み止め(オプソ5mg)
スプーンで微量ずつ服用させてくれた。
全てを飲み終えた母は満足気な顔をし、また眠りについた。

ベビー用スプーン。
スプーン。










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2007年05月01日

最悪な1日。

午前中に病院(病棟のナースステーション)から、
嘔吐をしたこと、早めに来て欲しい言っている、と電話があった。
必要な買い物を済ませ急いで病院へ向かうと、
今日3回目の嘔吐をしているところだった。

少し落ち着いてきたところで浣腸をするも出ず、
看護師に頼んで摘便(かき出し)をしてもらった。
薄茶の柔らかい便が多少出たのだが、気持ち悪さと吐き気が
無くなることはなかった。


身体を動かす度に吐き気をもよおし、休憩しつつ
行動をしなければいけなかった。

ベッドや車椅子から立ち上がらせる際、
私の首に母の手を絡ませて持ち上げるのだが、
今日は母の足の力が抜けてしまうことが多かった。
その為、変なところに力が入ってしまうらしく、
立ち上がる度に吐き気をもよおし、
ベッドで体勢を変える度にも吐き気をもよおした。

朝昼夕と食事が取れず、食前食後の薬も”飲んだら吐く”
そんな状態であったため、プリンペランの点滴をした。


いつも私は夜8時〜8時半頃には病院を後にするのだが、
ちょうどその時間になった頃「休憩室の椅子に座りたい」
と言うので移動をし、吐き気が治まるのを待っていた。
しかしやはりここで今日5回目の嘔吐をしてしまった。

消灯の9時を過ぎても気持ち悪さは治まらず、
かといって痛み止めの薬を飲むことも出来ない状態だった。

看護師が当直のM医師(初対面)を呼んでくれ、
夜10時過ぎ、吐き気止めを投与してもらった。
吐き気止めが即効効き、痛み止めと誘眠剤を服用し、
ベッドへ戻ることが出来た。


***以下、M医師の説明***

浮腫みや炎症と抗癌剤の副作用、この2つが嘔吐の原因であり、
胃腸に直接働きかけるプリンペランの点滴で効果が無い、と
いうことは、抗癌剤の副作用が大きく関係しているのだろう。

抗癌剤が原因の場合は脳の中枢神経に働きかけるものでないと
効き目が無いので、こちらの吐き気止めを先ほど投与した。


毎日ラクテック注に加え、最小限の量でステロイド(リンデロン)
を投与しているが、明日からはステロイドの量を増やし、
まず浮腫みを抑える
ことに重点を置く。ただ、ステロイドは
2〜3日しないと効果が現れないため、先ほどの吐き気止めを
1日数回投与
の必要がある。

状態が状態であるため、一旦減らした水分(栄養)の点滴を
再開
する必要があるのと、抗癌剤の見直しも必要である。



「まだ寝付けないから見ててあげるからね。お嬢さんは
帰って休みなさい。」と、この時間になっても起きている
同室の患者さん達が言ってくれた。
皆さんご自身の具合も良くない中、母を気遣い見守ってくれる。
申し訳ない気持ちと共に、感謝してもしきれないほどの感謝である。


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多くの方に「パジェット病」という癌がある事を知って頂きたく
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