太平洋戦争開戦の経緯と大日本帝国憲法の欠陥について @blogos 2015/7/23より

安保法制について考えるところがあり、太平洋戦争発端の経緯についてにわか勉強したのでその結果をまとめておきたい。

太平洋戦争は帝国陸軍の強い主張で始まった戦争だった。はっきりいって主要な行政組織で日米開戦をはっきり希望していたのは、帝国陸軍だけであった。なぜ帝国陸軍が強く日米開戦を希望していたのかと言えば、それは日中戦争の背景にアメリカを見ていたからということになる。当時帝国陸軍にとって日中戦争は最重要事項だったわけだが、完全に泥沼化していた。
~中略~

太平洋戦争を招いたのは一義的には帝国陸軍の現場の暴走であり、より広く見れば大日本帝国憲法の欠陥だった。安保法制の議論にあたってこうした太平洋戦争の失敗からくる教訓がもう少し語られてもいいように思える。

 さて皆様夏休みシーズンですがいかがお過ごしでしょうか?今年の夏は太平洋戦争終結70年であり、国会で安保法制が話し合われていることもあり、いつになく戦争関係の議論が盛んな感じがします。しかし太平洋戦争の原因に関して書いている人たちを見ると不思議な気分になる事があります。

第二次世界大戦の背景@wikipediaより
ヴェルサイユ体制と世界恐慌
ヨーロッパでは、1919年第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランドチェコスロヴァキアリトアニアなどの領土に組み込まれた。~中略~また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1922年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。~中略~
しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできなかった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズムナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[1]
 これは太平洋戦争も含む大きな枠組みに関する語られ方を見るとはっきりするのですが第2次世界大戦を語る際には第一次世界大戦の戦後処理~ブラックマンデーを契機とした1930年代の不況が背景として語られるのに対し、日本の戦争に関してはせいぜい満州事変以降、かつ軍部関係のガバナンスに偏っているのではないでしょうか?確かに軍部が正しかったわけではないでしょう、しかしまがりなりに普通選挙(所得の多寡にかかわらず選挙権を保有する選挙制度)をもち、また政党内閣も一定レベルで実現していた当時の日本しかもドイツの様に戦時賠償金と言う大きなハンデを持つ事もなかったのに軍部があそこまで力を持ちえたのか?それを考えないとあの戦争がなぜ起こったのかと言う答えは出しえないのではないでしょうか?


【中古】 昭和経済史 / 竹内 宏 / 筑摩書房 [ハードカバー]【ネコポス発送】P18より
昭和恐慌
 昭和4年(※1929年)7月、田中内閣総辞職のあとを受けて浜口民政党内閣が成立、井上準之助が蔵相に就任すると早速、金解禁の準備がはじめられた。浜口内閣は金解禁や軍縮促進を中心とする十大政綱を発表したが、この中には”財政の整理緊縮”と”非募債・減債”が含まれ、旧平価解禁のためのデフレ政策の実行を明らかにした。これとともに、金輸出再開によって流出が予想される在外正貨を補充するため欧米に一億円のクレジットを設定した。
 同時に政府は、国民大衆に向けて金解禁の啓蒙活動をはじめたが、これがかなり過大に宣伝され、意図と違った方向に解釈がされた。井上蔵相自身は、むろん、金解禁が短期的にはデフレをともなう政策であることを何度も念を押して説いた。しかしながら末端では宣伝がいき過ぎ、あたかも金解禁イコール景気回復と言うようなムードが流布されてしまった。~中略~
 このような古典的な経済学の教科書どおりの考えかたにしたがって、浜口内閣は昭和4年11月(※アメリカブラックマンデーは10月24日)に決定し、翌5年1月に実施したのである。
 しかしこれが、昭和恐慌の発端となった。
第2次世界大戦への突入は、世界の政治情勢やアメリカ、ソ連の軍事力に対する判断の誤りによる大失敗の決断だったと言われる。それと同じように金解禁もまた、世界経済に対する理解の不足に基づく大失敗の決断の決断であった。しかも、第2次世界大戦に反対して牢獄につながれ、厳しい拷問に苦しんだ人は、在野の思想家と社会主義者であった。旧平価での金解禁に反対の論陣を張った人も在野のエコノミストであったのは、偶然ではないようである
 ところで、為替レートを14%も切り上げた旧平価で金解禁を行うため、政府はすでにデフレ政策を実施し、経済は停滞しかけていた。そこへ世界大恐慌が発生して輸出は減少、経常収支が悪化した。~中略~
 こうして昭和5年には、工業生産が5%低下し、工業製品価格が19%、農産物価格に至っては34%も下落した。翌6年にも不況が続き、事態はますます深刻になっていった。~中略~
 一方農産物価格の大幅な下落からもわかるように、昭和大恐慌は農業に最も大きな打撃を与えた。これはまず、世界的に農産物が過剰の時代であり、世界大恐慌そのものが農業恐慌の性格を持っていたことによる。さらに、大正7年の米騒動以来政府は台湾などの外地での米作を奨励してきたため、このころには日本国内でも米が供給超過になっていた。~中略~
 その結果、”娘の身売り”、”青田売り”等の言葉に代表されるような窮状が農村に生まれた。これに悲憤したある若者は青年将校運動や右翼のテロリズムに走り、他の若者は共産主義アナーキストになって地下運動に潜った
 さて長々と引用してしまって申し訳ないのですが、日本が軍部主導で軍事ファシズム体制に向かった最も大きなきっかけを考えると私個人の見解ではあるのですが、昭和5年に行われた金解禁ではないかと思います。専門用語などの解説は長くなりすぎるので割愛させてもらうのですが、ブラックマンデーがきっかけとなった金融不況は日本だけでなく世界各国に影響を与えたのは確かですが日本に関しては金解禁と言う緊縮財政+金融引き締め+円高誘導策を同時並行で行ってしまった事でその傷を深めていったのは大きかったような気がします。 またその際にメディアや大学教授・金融関係者の様な知識人が無茶苦茶な啓蒙活動を行ったのは知識人の信用失墜につながるきっかけになったのも言うまでもありません

<娘身売りの時代>  昭和初期・東北地方より
<娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた。
 そしてこの金解禁で最も被害を受けたと言われるのは東北地方の零細農民、デフレで売り物である農産物の価格が大きく下落したうえで気象の影響での大凶作と言う2重の苦難が直撃しました。
 そして小作人と言う存在は大地主に安い値段で労働力を提供するというより、土地なりの生産資本の一部を借り受けて農業を経営する存在なので地主から借りてない生産設備は自前でそろえることとなり借金もあったのがこの苦難をより一層厳しいものとしました。イメージとしては田畑で収穫をした農作物の多くを地主に物納した上で借金の返済などの経費を賄うための現金収入を得るために残りの農産物を販売する、そして金解禁での恐慌と凶作の結果、収入が激減したとなったら借金の金利も賄えずやればやるほど借金が増えたという人が出ても不思議ではありません


新聞資料 東北大凶作 無明舎出版より
飢えを巡って悲惨・人と熊との闘争@東京日日新聞昭和6年
共作に悩む農村から奪われゆく娘たち@東京日日新聞昭和6年12月25日
凶作地の農民から配給米に矢の催促2月分の配給を未だ行わぬ「選挙利用」非難起る@東京日日新聞昭和7年3月19日
7万余に達した凶作地方救済児童文部省の調査完了@北海タイムス昭和7年4月2日
死に瀕する児童2千町村に徹底的救療を促す@河北新報青森版昭和7年5月20日
豚も痩せゆく借金1人当たり千円鶏卵1銭は何を語る@東京日日新聞昭和7年6月5日
この悲惨事!売られた娘千五百凶作が本県農漁村に及ぼした影響@東奥日報昭和8年5月13日
東京駅に涙の一家夢に描いた南米移民@東京日日新聞昭和9年11月11日
 そしてあふれたのは借金返済のために身売りする娘や欠食児童と呼ばれる餓死寸前の子供たち、上は秋田県の出版社である無明舎出版が発行したこの時期の東北地方に関する新聞記事のまとめから記事タイトルのみを抜粋したもの、読んでいる方は気がめいるかもしれませんがでも日本が結果的に戦争へ行く過程でこういった光景が見られたというのは忘れてはならない事であり、またこういった体験をした若者が徴兵によって兵士になりこの後戦争を行う軍部に少なからぬ影響を与えたのは無視できない事実ではないでしょうか?

昭和恐慌@wikipedia より
濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の円売り・ドル買いを誘発した。ドル買いを進めた財閥に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった
 そしてこの時期には「満州は日本の生命線」と言う言葉も聞かれた満州事変が勃発し、また金本位を巡る情勢から為替でぼろもうけした財閥に対して不満が高まった事、引用先では書かれていませんがこの時期高橋是清蔵相の元金本位制から再離脱し、大幅な金融緩和で経済再建の道がスタートしています。蔵相の決断により日本経済は再建の道を歩みますが、一方で知識人に続き財界人も信用を失い満州事変により軍部の存在感が上がり始めます

国防の本義と其強化の提唱@wikipediaより

同パンフレットの内容は陸軍主導による社会主義国家創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。軍事ファシズム体制を主張するものであった [1]

政党政治家は強い反対を唱え、議会では陸軍大臣が追及されたが、「国民の一部のみが経済上の利益特に不労所得を享有し、国民の大部が塗炭の苦しみを嘗め、延ては階級的対立を生ずる如き事実ありとせば、一般国策上は勿論国防上の見地よりして看過し得ざる問題である」といった見地に立った統制経済の提唱に対しては,革新系の中野正剛赤松克麿は賛意を表明し、なかでも社会大衆党の書記長麻生久は「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」との熱烈な賛辞をおくった

 そして昭和9年のちに「陸軍パンフレット」と呼ばれる冊子が発行されます。今から見ると軍事ファシズム体制と言う間違った体制ととられるものですが、金融に関する原則論にこだわるあまり金本位制で失敗し、財界との関係から現状の苦境への対策が出し切れない政治(高橋蔵相の施策はあくまで失敗のしりぬぐい)、それを支持した知識人、苦境を利用して金もうけに走る財界と言う構図の中で新しい希望を持てる施策を出せたからこそこののち軍部は政治の実権を握っていったのではないでしょうか?


上野千鶴子twitterより
そのとおり。円安を歓迎するのは、国民経済の国際評価の低下を意味する。

違憲戦争法案。この法を国会で成立させたら、立法府がまるごと憲法違反を冒すことになる。それでもよいのか。
 そして今を見ていきます。上は経済系ではないですがこういった意見の代表者と言う意味でとってください。確かに円安は国民経済の評価の低下を意味するかもしれません。しかし逆の円高は何を生み出すでしょうか?それは上で見た通りなのではないでしょうか?なるほど国立大学の教授と言う恵まれた地位にいた上野氏のような人にとって円高とデフレは快適なものだったのかもしれません。ただ恵まれた地位にいなかった人達にとってはどうでしょうか?過去の歴史を見る限り一つの法律が戦争への道筋を作る(一見軍部大臣現役武官制が浮かぶかもしれないがこれは一時期廃止されたこともあったり、当初は戦争への道のりを作るものではなかったというのは覚えておく必要がある)というよりもデフレ等の経済情勢から生まれた恨みつらみの方が破滅的な事態を生みやすいのではないでしょうか?
 no more war!確かにそれには賛同するもののだったらno more deflationも語れなければ結局戦争への道は防げないと思うのですが如何でしょうか?