October 06, 2004

具体論と抽象論

今日はとある blog で出会った素敵なコラムのご紹介です。

本当は、勉強ができるようになりたい: イマドキ(ドキ)の子どもたち

勉強ができるようになりたい その2: イマドキ(ドキ)の子どもたち

管理人さんはこの blog 以外にも別の blog やら HP を持っていらっしゃり、どちらも Brunnhilde のお気に入りでこれまた定期的にお邪魔させていただいています。  

で、このコラムに書かれていることなんですが、もちろん子供の教育という視点から書かれているものではあるんですが、これって大人にも共通で言えることなんじゃないかと思ったわけです。


Brunnhilde は抽象的な概念で物を考えるということは本当に難しいことだと思います。  で、それは子供だけではなく、大人にとっても同様に難しいことだと思います。  ただ、大人の場合は子供に比べて定期的なテストがあるわけじゃなし、わからないことが表に出てこないだけのこと。  誰しも首から「私は○○がわかりません。」というプラカードを提げて歩いているわけではありません。

定期的なテストがない大人の場合、抽象論を理解できていないということが端的に表れるのは極論すると「職場」だけのような気がします。  「職場」という言い方が適当でなければ、「他人と共同で何かを成し遂げなければならない場合(行動して何らかの結果を出さなければならない場合)」という言い方になるのかもしれません。  つまり自分ひとりの世界で完結してしまうような世界では、そのことが表に出てきにくいと思うのです。

何故か?  多くの場合、人は自分にはすんなりと理解できない抽象論が出てくると、それを具体化した事象をイメージしようとします。  その時イメージするものが何なのかは本人の経験以上でも以下でもありません。  (ここで言う経験というのは実体験というだけではなく、「聞いたことがあり、覚えている」とか「読んだことがあり、覚えている」という間接的な経験も含みます。)   ここで大事なのは「覚えている」というキーワードです。  実際には経験していても覚えていないことなんていうのは、世の中に掃いて捨てるほどあります。  そういう記憶の彼方に消え去ったものは、こういう場合には影も形も出てきません。

そして大人はこのような自分なりのフィルターを通して選別された、自分にはわかる具体的な事象を「ひきあい」に出して、それをもとに判断を下し、その抽象論を結論づけようとします。  そしてわかった気になってしまう。  でも、それは抽象的に物事を捉え理解したということではなく、あくまでもその個別にイメージした「具体論」を理解したのにすぎないということを忘れがちです。  具体的な事象をイメージできなかった場合には、大人の場合、それが今日の3度の食事や日常生活に直接的な悪影響を及ぼさない限りにおいてはそのまま放っておきます。  極論すると数ヶ月後に影響を及ぼすかもしれないことであっても、今日生き抜くことができるのであれば放っておく・・・・ような気がします。    

そのことを否応なく認識させられ、考えなければならなくなるのは、他人と一緒に具体的な何らかの行動を起こさなければならない時です。  他人と議論するなかでも多少は出てきますが、議論は所詮議論。  所謂「口ばっか」の世界ですから、大した逼迫感はありません。  一方が内心では違うことを考えていても口を閉じてしまえばお終いだし、上記のようにとりあえず今日生き抜くのにさしたる影響がなければ「自分には直接関係ないこと」と放置することに戸惑う人は少ないと思います。  

Brunnhilde はこの連鎖が「思考停止」の原因のひとつではないかと思っています。  子供も大人も、自分が「何がわかっていないのか」を認識するのはとても難しいことだと思います。  そしてそれを他人に説明するのはもっと難しいことだと思います。     

それを頻繁に感じるのはニュース報道を見ているときです。  ニュース報道ではあることを報道する際に、編集という作業が行われています。  その編集の過程では編集者の物の見方が反映されます。  そして、その編集者のフィルターを通して選別されたいくつかの事例が取り上げられます。  事例は具体的なものだけに誰にでもわかりやすいものです。  でもその事例は編集者の出した結論を裏付けるためのものであることを忘れがちです。  そしてテレビを見ているとき、新聞を読んでいるとき、私達は自分の頭で考えているつもりになっていますが、編集者の意図に沿って考えさせられていることを忘れがちです。

大ベストセラーだった「バカの壁」の中で、養老さんが何度も仰っている「ああすれば、こうなる理論(?)」はこれと同じことのような気がします。  そしてこの連鎖を打ち破り得るのは、このコラムにあるように「なんとか、わかりたい、分かる喜びとやらを、自分も感じたい」と思う気持ちだけのような気がします。  子供の場合は定期的なテストで否応なく自分がわかっていないことを突きつけられ、何とかわかろうと努力するプロセスがありますが、大人の場合は罪の意識なく「放っておく」という選択ができてしまうことに気がつかなければいけないような気がします。  

自分への自戒をこめて、抽象的に物事を考えるということについて、改めて考えさせられたコラムでした。 

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この記事へのコメント
こんにちは。
リンク、トラックバック有り難うございました。
Brunnhilde さんの文、何回もなんかいも読ませていただきました。
実にさりげなく、物事の真実に到達していくような文ですね。
ちょうど、山道を登っているよう。
ゆっくりと、周りの景色を見ながら、楽しみながら、ちょっと、脇にそれて道草したり、、、
そして、気がついたら、いつの間にか、頂上に到達。
下界の眺望がなにやら心弾む、そんなブログですね。
つまり、Brunnhilde さんは、無理なく論旨をすすめていくので、すんなりと頭に入っていきます。
抽象と具象、難しいですね、、、
大人は、自分で折り合いをつけて誤魔化す知恵(?)を持っていますが、
そうはいかない子どもたちとの時間は、
私にとって、
「当たり前」を、もう一度みなおす機会でもあります。
本当に、自分自身への問いかけになります。
私の座右の銘は「後世おそるべし」。
子どもは、ゆめゆめ侮れません。

また、いろいろ教えてくださいね。
では。
Posted by せとともこ at October 07, 2004 17:36
瀬戸さん、こんにちは。  コメントありがとうございます。  こちらこそ、いつも瀬戸さんのコラムを拝見しては、いろいろなことを考えさせられています。

それに瀬戸さんの活動をHPの方でも拝見させていただいて、「凄いなぁ!」と圧倒されています。  とっても意義のある活動をされていらっしゃいますよね。  そして今回新しく始められた blog。  これまたとっても楽しみにしています!  とりあえず一番乗りでTBさせていただいちゃってちょっと嬉しかったりします。  (確か Brunnhilde が一番ですよね? ・・・でも、そんなことでしか誇れない私って・・・・ ^^;)

今後もいろいろな刺激をいただけるのを楽しみにしています♪  では、またお話しましょう。  
Posted by Brunnhilde at October 07, 2004 19:16