ホームズ・ドイル・古本 片々録 by ひろ坊

ホームズやコナン・ドイル、ミステリーを中心にした古本についての紹介や身辺雑記の話。

『ジョニーは戦場へ行った』(3)

ローマの休日」  ドルトン・トランボは1947年、いわゆる「赤狩り」(レッドパージ)で一年の懲役刑を受けた。出所後、ハリウッドから追放された。しかし、これで諦めるような男ではなかった。変名・義名を使いシナリオを書き続けた。1956年には、ロバート・リッチ名義で書いた原作『黒い牡牛』によってアカデミー原作賞を受賞。驚いたことに、あの名作『ローマの休日』(1953年)の脚本を書いたイアン・マクレラン・ハンター(Ian Mclellan Hunter)は、彼の変名だったのだ。世間知らずのお姫様とスクープを狙うしがない新聞記者の淡い恋物語−−スペイン広場で食べる甘いソフトクリームのように見える映画も、トランボの筆から生まれたと知ると、ちがって見えてくる。檻に入れられた人形のように見えたお姫様が、俗世間を知った後は、強い意思をもった、生き生きとした人間に変わる。ささいなことだが、このお姫様は、トランボの姿そのもの(いや、それとも新聞記者のほうか?)のように感じられる。
  トランボは、1960年代になって映画界に復帰し、『栄光への脱出』(1960)、『スパルタカス』(1960)、『パピヨン』(1973)などの傑作を世に送り出した。巨大な権力や個人を縛り付けるものにたいする抵抗、強い意思を一貫して表現してきたのも、彼の経歴を知れば納得がゆく。
img048  トランボは、映画『ジョニーは戦場へ行った』のパンフレットのなかで(「原作・脚本・監督 ドルトン・トランボの言葉」)こう語っている。(寫眞左)

「数字が我々から人間性を失わせてしまった。/朝、コーヒーを飲みながら、われわれは読む。『ベトナムにおける米兵の戦死者は4万名』と。だが、嘔吐するかわりにわれわれはトーストへ手を伸ばす。皆があわてて出かけるのは、『人殺しだ!!』と叫んで知らせるためではなく、他人にやられるまえにこっちがやっちまおうということなのだ。/計算してみよう。4万人の若い死者は3千トンの骨と肉、1万4千ポンドの脳みそ、5万ガロンの血、誰も彼らのかわりに生きてやることができない人生184万年分、将来生まれてくる機会をなくした赤んぼは10万人に相当する。(最後だけは積極的に評価してもよかろう。今まででさえ餓えた子らが多すぎ、世界はそれを育てきれなくなっているのだから。)
 死者たちの記憶が夢に現れ、そのために叫び声をたてることが、われわれにはあるか?
ノー。
 われわれはそんな夢は見ない。なぜならそんなことは考えないから。(⋯⋯)われわれは知らない。問おうともしない。われわれは彼ら[注:ベトナム戦争で生ける屍になった兵士のこと]から眼をそむける。われわれれは彼らから眼をそむける。われわれは彼らの眼や耳や鼻や口や顔をわざと見ないようにする。『なぜ、そんなものを見なければならんのだ。私の過失のせいでもないのに。そうだろう?』と君は言う。だが、疑いもなくこれは君の過失に責任があるのだ。君の。」

――トランボがこれを書いたのは、ベトナム戦争中の1970年1月3日のことである。この文章をパソコンに書き直していると、名詞や数字を変えれば、46年も前に書かれたものではなく、今日の新聞で読んだ記事のように思ってしまう。「数字がわれわれから人間性を失わせてしまった。」という書き出し、「これは君の過失に責任があるのだ。君の。」――という終わりの1行。尖った大きな杭を胸に差し込まれたような気がする。


(まだまだ、つづく)


  

『ジョニーは戦場へ行った』(2)

 「ジョニー」角川   トランボの映画『ジョニーは戦場へ行った』は、自身の原作(寫眞・角川文庫版、信太秀男訳、昭和48年5月、6刷)と比べ、反戦思想がストレートに伝わってくる。原作を書いてから、映画化するまでに30数年もたっていることを考えると、トランボがこの映画にかける情熱がいかほどであったかが理解できる。大戦後、<赤狩り>にあって実刑を喰らい、ハリウッドから追放され辛酸な目に遇いながらも、くじけず抵抗しつづけ、この映画によって業界に復帰する彼の骨の太さには脱帽の外はない(追放後の彼のことは、別途書くことにする)。

 ジョニーの回想(意識)シーンのひとつにこんな場面がある。少年の頃、父親に民主主義を守るためにお前たち若者は戦わなければいけない、と言われたジョニーが父親に「民主主義ってなに?」と聞くと、父親はウームとうなって答えられない。このアメリカの若者が戦争に駆り出されて、命と引き換えに守るべき「自由」とか「民主主義」とはなんですか?と問われても、明確にこたえられる大人が当時どれほどいたろうか? それは今日でも同じではないか。アメリカでも日本でも。高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』でも読まないと、僕もハッキリと口には出せない。

  この映画評が『暮しの手帖』(昭和48年2月1日号)の「映画時評」欄に載っている。評者は古谷剛正(1912〜1989、ジャーナリスト、ニュースキャスター、映画評論家)。『暮しの手帖』は、NHKの朝の連続ドラマ(『とと姉ちゃん』)のモデルになった雑誌。編集長は花森安治(1911〜1978)である。『暮しの手帖』に反戦映画『ジョニー』の評論が載っているのは意外だったので、以前、切り抜いてとっておいた。古谷は、この「映画時評」をこんな風に始めている。少し長くなるが引用する。僕が説明するより、分かりやすいし適確だから。

「(⋯⋯)戦後の『わが生涯最良の年』『わが道を往く』いずれも、アメリカの建国の精神、<自由と正義>を謳歌したものだ。そこには、いささかの疑いもなく、信念に満ちていた。いかにも健全な精神にうけとれた。この連中を相手にしたのでは、戦争に負けるのも当たり前だとさえ思わされた。あのころ受けた感動は、まだよく覚えている。
 ところが、これがほんとうの健全さなのか。それは体制側にだけ都合のいい偽ものではないか。こういった疑問が、他ならぬアメリカ内部から起ってきた。ほんとうの<自由と正義>はこんなものではない。(⋯⋯)だが、若い人たちは、その欺瞞を敏感に感じとった。<自由>はいまは看板だけの形骸となり、ピューリタン精神にもとづく道徳は欺瞞にすぎない。そして、ほんとうの<自由と正義>は、いまの体制側に反逆し、それを破壊することによってのみ実現される。こう考えはじめてきた。映画(『ジョニー』)は、その先頭をいくものの一つであるらしい。」 

  最後の一行は、まだベトナム戦争が続いていて、若者による反戦運動が盛んだったころ書かれたからである。冒頭に紹介した少年ジョニーと父親の会話の部分について、古谷は次のように要約している。

「(⋯⋯)父は『お前は民主主義のために働くのだ』という。慈愛深い父親だったが『民主主義を守るための戦争なら、息子もささげる』ともいった。そのときは、ジョーは『ぼくはいやだ。戦争なんかにいくものか』といったものだが⋯⋯」

  しかし、アメリカが参戦すると、ジョニーは恋人カリーンから戦争に行かないで、と請われても「そんなことはできない。自由と正義のために戦うのだ」といって出征する。「民主主義」とはなにか? 「自由」とか「正義」とはなにか?ジョニーにもよく分からなかったろう。

  古谷は、時評の最後に、原題の”JOHNNY GOT HIS GUN”は、第一次大戦当時、戦意高揚のためにつくられた出征歌”JOHNNY GET YOUR GUN”をもじったもので、ミュージカル『アニーよ銃をとれ』(ANNIE GET YOUR GUN.1946年5月初演。1950年映画化)などにも使われた、と解説。そして、「トランボは、アメリカ人ならだれでも知っているこの題名の命令形を、過去形に変えた。つまり、鼓舞に従って、銃をとった結果はこうなったといいたいのだろう。この皮肉はよくきいている。」
  

(つづく)

slide_352214_3812256_free[1]  行軍するアメリカ兵士

『ジョニーは戦場へ行った』(1)

「ジョニー」パンフじょにー」パンフ 『秘めたる情事』、『向こう見ずの男』(1958<昭和33>年)に出演してから後、ダイアン・ヴァーシの姿は日本では見られなくなってしまった。どうしたんだろうと、思っている内に月日が流れ、万物も流れた。13年後、ヴェトナム戦争のさなか、1971年、『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny got His Gun。以下『ジョニー』と略す)に出演した。日本で公開されたのは、1973(昭和48)年。小田実や開高健が参加していた「ベ平連」を中心にしたヴェトナム反戦運動が日本でも盛んだったころである。

 この頃、僕は飲んだくれていたから、公開当時に、この映画を観た覚えはない。映画を観たのは、多分、もっとずっと後のことで、レンタルビデオ屋さんで借りたVHSだと思う。さらに、『ジョニー』にダイアン・ヴァーシが看護婦役で出演していると知ったのは、さらに後のことである。最近、テレビで放映されたので録画しておいた。看護婦役、といっても何人も出てくるし、モノクロ画面にしか出てこない(現在の部分はモノクローム、想い出部分はカラーで撮影されている)、それに初演から13年もたっているので顔つきも変わっているはず。初めに登場する看護婦さんでは歳をとりすぎている。二度ほど観てから、最後に出てくる看護婦さんだ、と気が付いた。神保町で買った映画パンフ(東宝株式会社事業部、昭和48年3月30日)の「キャスト」を見たら、「Fourth Nurse](4番目の看護婦)――Daiane Verci)とあった。モノクロ横顔の寫眞及び表紙左下が彼女である。

  こんなところで、彼女に出会うとは思いの外。それにこの映画の鮮烈、奥深いテーマに圧倒された。反戦映画というだけでなく人間とはなにか、命とはなにか――を考えさせられる傑作。「’71年カンヌ映画祭審査員特別賞」、「’72年度芸術祭大賞」(日本)を受賞している。

Trumbo_1947[1]  映画『ジョニー』の原作・脚本・監督はダルトン・トランボ(1905〜1976[寫眞左・1947年、非米活動委員会・聴聞会にて])原作『ジョニーは戦場へ行った』(johnny got his gun)が刊行されたのは、1939年。つまり第二次世界大戦中のこと。本書の反戦的内容から、発売後、再版は許可されず事実上発禁となる。第二次大戦後、再版されるものの朝鮮戦争で再び発禁となる。トランボ自身も、戦後アメリカに吹き荒れた「赤狩り」(レッドパージ)により有罪の判決を受け、脚本家として活躍していたハリウッドから追放される――。発売、発禁、発売、発禁と時代の波に翻弄された原作のことは、後程、解説することにして、まずは映画の方から要約して紹介する。

  第一次世界大戦中、ヨーロッパ戦線に派遣された若い米兵・ジョーは、砲弾により重症を負う。その結果、両手、両足を失い、さらに顔面をえぐりとられ、視覚、聴覚、嗅覚、音声を失い、残ったのは、わずか触覚と脳内の意識、性器のみ。自分がどこにいるのか、なにをされているのか、時間の経過すらも全く分からない。映画はそんな状態で生きつつづける<407号>と呼ばれるジョーの意識・記憶をカラーで表現し、現在をモノクロームで表現する。

  こんな状態なら自殺しよう、と思うもののそれもできない。そんな彼の前に4番目の看護婦(ダイアン・ヴァーシ)が現われる。ある日、彼女はジョーの胸に指先で,Ⅿ,E,R,R,Y,とつづり、そして、C,H,R,I,S、T、M、A,S。ジョーは(触覚は残っているので)、今日はクリスマスだと気が付く。記憶をたどっている内に、かつて父親から教えられたモールス信号を頭を使って枕に打てば、外部と意思疎通ができると気が付き実行する。やがて軍医達にも看護婦にも頭を使ったモールス信号で自分の意思を伝えられるようになる。自分を外に出して見世物にしてくれ、もしそれが出来なければ殺してくれ、殺せ、殺せ!――とジョーは訴える。こんな人間を作ったのは君たち軍部のせいだ、神ではない、戦争がこんな人間を作ったのだ――との意思表示である。しかし、軍医は外部への露見を恐れ、他言は無用、出入り禁止、と命令し部屋を出てゆく。ひとり残った看護婦は、ジョーの願いを聞き入れようと、空気管を外しにかかるが、戻ってきた軍医に見つかり願いはかなえられない。ジョーは再びただひとり、鍵の掛かった真っ暗な倉庫に残される。S・O・S.HELP ME,S・O・S,HELP ME、S・O・S〜〜とモールス信号を送り続ける(我々に向かって!)――。

  画面は暗転し、次のような字幕があらわれるーー

 「1914年以来の戦死者8、000万人以上。戦傷者及び行方不明者1億5、000万人以上」

(つづく)
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