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   先月の末だったか。新聞に桶川市で井伏鱒二が翻訳したヒュー・ロフティングの『ドリトル先生』に関する展示会が開催されている、という記事(生憎切り抜いてなかったので裏覚えだが)がでていて、昭和16年に発行された本の書影が掲載されていた。

   児童書専門の古書店に行くと、井伏鱒二訳の『ドリトル先生』シリーズが沢山並んでいるので、それが眼に焼き付いていてすっかり読んだものと思っていた。けれど、僕はこれまで『ドリトル先生』は一冊も読んでいない(番外編『ガブガブの本』を除いて)ことに気がついた。それに『ドリトル先生』は戦後に発行されたものとばかり思っていて、戦前に発行されていたなんて初耳であった。そんなこんなで、今回は、井伏鱒二の『ドリトル先生』を中心に書く。

   今、昭和15年以降の戦中戦後の本・雑誌に関心があって調べているけれど、そんな中に井伏鱒二の『ドリトル先生』のことが出ていて意外に思うことしばしば。購入した順序は違うけれど、一応、時代順に書いてゆくことにする。

   まず。昭和15年10月号『文学界』(文芸春秋社 写真上・左)。本誌の随筆欄に井伏鱒二「童話『ドリトル先生』物語」が載っている。冒頭、井伏は――今、童話の翻訳をしているので、参考のため『ドリトル先生物語』の発端を随筆代わりに発表したい、と書いて「第1章 バトルビー」の一部を載せている。ここに訳載されている『ドリトル先生物語』は、ヒュー・ロフティング(Hugh Lofting.1886〜1947)のドリトル先生物の第一巻『ドリトル先生アフリカ行き』(1920)のこと。

   井伏は、この『ドリトル先生』(Dr.Dolittle)という呼び方について、外国語の発音通りに書けば「ドウーリトル」となるが、この言い回しは子供にはなじまないので、ここでは仮に「ドリトル」と読むことにする(以後、この表記は変わらないが)――と書いてから、ヒュー・ロフティングがこの本を書いた経緯を紹介している。

  ロフティングがこの物語を書いたのは、第一次世界大戦で欧州に出征した折り、塹壕の中で自分の子供達に挿絵付で送ったのが始まり。戦線で活躍する動物(特に軍馬)は人間ほど大事にされない、それに同情して動物の気持を書いてみた、と作者の意図を紹介している。そして、井伏は「実戦の塹壕のなかで吾が児を楽しませるために書いた童話といふ意味で私は興味を覚えるのである。もし私が今度の戦争に従軍してゐたら、しかし私は吾が児を喜ばせる童話と自筆の挿絵を吾が家に送るかどうか疑問である。」。

  『文学界』に随筆「童話『ドリトル先生』物語」を寄せた翌昭和16年1月に、白林少年館から『ドリトル先生アフリカ行き』が刊行される。この「白林少年館」は石井桃子らが創った出版社で、『ドリトル先生アフリカ行き』の翻訳を井伏に薦めたのも石井桃子で、下訳もした。しかし、この出版社はこの本一冊出しただけで倒産したという(岩波少年文庫『ドリトル先生アフリカ行き』新版12刷に収録された井伏鱒二「あとがき」より)。

  この「あとがき」には、その後のことを、「(この本は)出版界では少しは反響があったようで、某出版社の児童読物雑誌が第二巻の『ドリトル先生航海記』を私の翻訳で連載することにしました。ところが連載第二回か三回目くらいまで私が訳したとき大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって、私は陸軍徴用でマレー半島の戦地へ連れられて行き、出版社の方でも軍部へ遠慮してこの原稿は立ち消えにさせました。」と記しています(井伏が陸軍報道班員として徴用されたのは昭和16年末から17年末まで)。

  この「某出版社の児童読物雑誌」というのが、大日本雄弁会講談社から発行されていた『少年倶楽部』で、本誌の昭和16年1月号から井伏鱒二「ドリトル先生船の旅」(写真上・中・左。画・河目悌二)が連載される。この物語の始めに井伏は「ドリトル先生のこと」を書いている。ざっと次のよう。

「(……)ドリトル先生は、気の毒な人や、弱い人に親切にするばかりでなく、獣や小鳥にまで親切にします。おまけにこの先生は、獣や小鳥と、話をすることができるのです。まるでほんとでない話のやうですが、大きな深い愛――やさしい心といふものは、きつとふしぎを生むのだらうと思ひます。私はドリトル先生の神に近いそのやさしい心に感心しましたので、ドリトル先生の『船の旅』といふお話を、日本文に書きなほしました。(……)」

  「ドリトル先生船の旅」連載第一回目を読むと、先生は動物語が分かるだけでなく、猿語で歴史を、カナリヤ語で詩を書いたり、かささぎ語でおどけた歌を歌い、現在は貝が話す言葉を研究している――ことが分かります。上述したように、動物を愛し、動物語も話せる「神に近いやさしい心」を持つドリトル先生の話を、「出版社の方でも軍部へ遠慮してこの原稿は立ち消えにさせ」たというのは、なんだか大げさな、と思えますが、この連載第一回が掲載された昭和16年1月号の他のページを見るとその理由が分かるような気がします。本誌に載った代表的な広告を以下に挙げてみよう。
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  この広告を見ただけでも軍事色に溢れていることが分かるし、鉛筆も「軍需品のひとつ」とされていた時代。『少年倶楽部』の表紙右上には「臣道実践 職域奉公」という標語が印刷されている。この言葉については、本誌の中面に解説「臣道実践 職域奉公とは どんなことでせう」があり次のように書かれている。

「日本は今、大仕事に乗り出してゐます。/支那事変をかたづけて、東亜の国々が栄えるやうにし、世界中をほんたうの平和にする。かういふ大仕事に乗り出してゐます。(……この大仕事をやりぬく)非常によい方法が『臣道実践 職域奉公』といふことになります。/国民は誰でも、職場々々で、なすべき務めを持つてゐる。その務を完全にはたして、/天皇陛下の御民としての道をつくす。これが、『臣道実践』であります。『職域奉公』であります。(……)」

  ――このような国家総動員(この年から「小学校」は「国民学校」と呼ばれる)国民精神総動員の軍事体制のなかに、動物を愛する優しい心の持ち主「ドリトル先生」の物語を置くとそれが如何に異質なものか分かります。

  尚、松本武夫著『井伏鱒二年譜考』(新典社 平成11年12月)によると『ドリトル先生船の旅』は昭和17年12月まで連載された。戦後、昭和27年2月に講談社世界名作全集(24)『ドリトル先生航海記』として刊行されている。

(つづく)