img375   何年か前に”師匠”から頂いた、『緋色の研究』の初訳「探偵小説 血染の壁」(無名氏訳 毎日新聞 明治32年4月16日〜7月16日 84回連載)のコピーを久しぶりに読み返してみたところ、前回読んだ時は気がつかなかった(あるいは忘れていた)新しいことを教えられた。他の場合もそうだが、再読あるいは三読して、初めて分かることがたびたびある。相手はまったく変わらないのだから、こちらの見方、考え方が変化しているからだろう。

 
 さて。この「血染の壁」。

  「われ、軍医和田進一は日清の戦役に従ひて、医務に鞅掌(おうせう)し、平壌の役、旅順の戦ひ、(……)其後、台湾に赴きて、終に匪徒のために狙撃され(……)」

――と始まる。

 再読してみると、この「血染の壁」は、舞台を日本に変えて翻案されているが、その翻案ぶりが実に上手い。アメリカを舞台にした復讐譚の部分は、場所を北海道に変えるなど、日本の読者に分かりやすく興味をそそるように書きかえられている。壁に書かれた血文字は「ふく」となっていて、「復讐」の「ふく」と女性の名前「ふく」をかけている。原作では、壁に「RACHE」の文字が書かれていて、これをレストレードは女性の名前「レイチェル」と勘違いするが、ホームズは、これはドイツ語で復讐の意味だ、と説明する――このあたりも原作の味をうまく活かしている。訳者は「無名氏」となっているが、この人、なかなかの手だれと見た。

  ホームズは、小室泰六と名を変え、歳のころは三十五、六。その姿形は、身の丈は尋常より低く、顔は角張り、鼻は低く、「疎髪蓬蓬と生ひたるさま、卵塔場(らんとうば)の薄とも見え(……)一躰に風采は上らねど(……)眼光いと鋭く」と、原作とはかなり変えている。上の写真は、連載第一回の挿絵で、ご覧の通り、達磨さんか白隠禅師かと見まごうほど、ヒゲぼうぼうである。

  言いたいのは、原作とは違う小室泰六の風貌のことではなく、この「血染の壁」には、「花婿の正体」(A Case of Identity)が付け加えられていることである。原作の通り、小室(ホームズ)は指輪を取りに来た老婆の変装を見抜けず見事にだまされるが、事件が終わり、和田に事件の経過を説明しているとき、この変装の話になる。そこで、小室は、老婆の変装を見抜けなかったことを正直に告白しながら、一年前、ある女学生から、
友達が言い交わした男が失踪してしまったので探して欲しいと依頼された事件を例にあげ、変装というのは、技術が高度になるとなかなか見破られないものだ、と和田(ワトスン)に説明している。

  和田が言及しているこの事件は明らかに「花婿の正体」である。「花婿の正体」の初訳は、中央新聞に連載された南陽外史訳「紛失の花婿」(明治32年8月15日〜20日)となっている。完全な翻訳とは言えないけれど、「血染の壁」に紹介されている物語が、「花婿の正体」の本邦初公開ということになろうか。物語のなかに他の物語を挿入する手法は、原抱一庵の「特別通信残月塔秘事」(明治32年12月〜)などにも見られるから、特に驚くほどでもないが、この無名氏は、『緋色の研究』の他、『シャーロック・ホームズの冒険』も原文で読んでいたことになる。英語が読めて、それを上手く翻案できる筆達者な人物――「無名氏」とは誰か? 新しい謎がまたひとつ生まれた……

  ――明治時代は謎だらけ??

  今回は、このへんで。
<追記 2013・4・16> 「血染の壁」の連載時を「明治34年」としましたが、「明治32<1899>年」の誤りです。訂正してお詫びします。近頃、眼が悪くなったせいか、ミスが多くてこまります。 なお、本文を訂正しておきますので、ご承知おきください。