2016年12月02日

響き合う心125 子ども観

 ――先生の子ども観をお聞かせください。子どもというのは、”授かりもの”だと先生は言われていますね。ところで、埼玉県の秩父地方の言い伝えで、3歳までは神の子、15歳までは村の子、15歳過ぎたら村の人というのがあります。

 「なるほど、それはすごくおもしろいですね。そういうことから言えば、自分にとっての子ども観であれば、私も子どもは、神から与えられたと思っています。親が自分で子どもを選択できるわけではない。例えば、男の子、女の子ひとつとってもみてもね。才能とか、個性ももうまったく親が予測しなかった子どもというか、似ても似つかない子が生まれてくる。ですから、それはもう、理屈を越えて、私は、子どもを神から与えられもの、神の子だと思っています。だから私は親として変に、作為的にあれこれ子どもを修正しようとか、気に入らないとかは決して思わないんです」。

 ――盆栽をいじるようにしない。

 「盆栽の枝を針金で巻いて形をゆがめたり変えたりしてしまうようなことはしないですよ」。

 ――盆栽って親から見た枝っぷりの良さなんですね。

 お墓を作った時、佐々木とは入れなかった

 「そう。ですから自然に沿って、私は基本的にそう思ってますよ。だから、子どもを自分の所有物だなんてまったく思いません。ただ、神から一時的に預かっている授かりものとしての子どもだから、最善を尽くして育てようと思いますよ。で、極端なことを言えば、息子が結婚する場合に、相手の姓を名乗ることがあっても、ぜんぜん構わないです。戸籍を昔風に言えば婿養子ですね。そういうものはどうでもよいと思っています」。

 ――佐々木というのにこだわりませんか。

 「こだわらないですね。だからお墓を造った時に、佐々木とは入れなかった。墓石の隅の方に”佐々木”と小さい字では入れましたが。というのも、ぜんぜん違う苗字の人が入るかもしれないしね。それは分からないから。一応、誰が何年に造った、ということは墓石に彫ってはおきましたけど、”家”とは入れなかったのです」。

 ――一時的に、わが家でお預かりしているということですね。
 

 「そう。大事に育てるという、ただそれだけですが、大切なことです」。


 ――そういう意味では、知り合った子どもたちに対しても、”よその子”という感覚ではないのですね。 

 まわりの子どもが育っていなければ、自分の子どもも育っていない

 「そう、子どもは仲間や友だちに恵まれないと、健全には育ちませんから、ぜひ自分の子どもと一緒に育ててもらおうという意味でも、かけがえのない子どもですからね。近所の子どもについても、自分の子どもと一緒に育ってくれる大切な子どもであって、近所の子どもが健全に育たないような地域社会の環境では心配ですね。あるいは自分の子どものクラスの仲間たちが育たないようなクラスの環境で、自分の子どもが育つなんて考えられません。これは決してありえないことですよ。
 自分の子どもだけが格別に育つなんて、そんな馬鹿なことを思っている親はいないと思いますが。まわりの子どもがよりよく育たなければ、自分の子どもも育たないのです。例えば、ある海流に魚がいるという時に、群れがみんな育っている所でなかったら、自分の目指す魚は一匹も育たない。この山野や畑に自分の木を一本植えるという時に、あるいは自分の草花を育てるという場合に、まわりの木や植物もちゃんと育ってくれる環境でなかったら、自分の目指す木も草花も育たないんですよ。そういう感覚を持っていないとね。お付き合いしている仲間たちが、みんな本当によく育っているから、自分の子どもも引っ張られていく。場合によっては、逆にちょっとくらい相手を引っ張り上げる役割をしているかもしれない。というふうな気持ちをいつも持っています」。

 ――子どもの声がするとホッとする、イライラはしない・・・・・・、こんなことってありますね。

 「全くその通りです」。

 ――よく講演の時に、子どもの声がうるさくてということで、講演がしづらいという講師もいますが。

 「なるほど、私はそんなことはないですよ。私は平気です。よくね、電車で遠足の子どもたちが、わっと乗ってくると電車の中の雰囲気がわーっと変わるでしょ。先生が’静かにしなさい’なんて言ってもきかない。うれしくて、遠足のことでね。ひどく嫌がっている乗客もいるよね。私はそういう子を、ながめて、ああ、あの子は大丈夫そうだとか、ちょっと仲間から外れてて、心配だなーっと思ったりしているんです。たいていの子どもたちは仲間とおしゃべりしてますね。私は電車に乗ってきた子どもと、’どこへ遠足に行くの’、’どこの学校’’何年生’などと聞いてたりするんですね。そういうのがおもしろいんです。子どもの声が煩わしいとは思いません。子どもがはしゃいでいるところで、昔から、平気で仕事してますよ。
 息子たちは今は大きくなって、はしゃぎはしませんけど、私は自分一人の静かな書斎はあまり使わないで、子どもたちのいるところで仕事をすることが多かったために、家内に’あっちで、書斎でやって下さい’と言われました。
 食卓の上の物をどけて、みんながおしゃべりしている所で原稿を書いたりするので、’どうしてこんな所に資料を持ってきてするの’と言われたりします」。

 ――子どもって好きな保母さんと好きでない保母さん、自分を好いてくれる大人と、嫌がっている大人と、何か、こう感じるようなところってありませんか。

 「犬でも感じるよね。家に来る人で、犬を好きな人は犬を恐れないよね。犬を嫌いな人は恐れるでしょう。恐れる人を吠えちゃうんですよ。犬はわかっちゃうからすごいね。
 犬を恐れないというのは、好きだからでしょ。そういう人は少しくらい吠えられたって、平気なんだけど、そういう人には吠えない。おびえる人に吠えちゃうから、本当に困るんだね」。

 ――子どもにもわかりますよね。子どもと一緒に遊んでくれる先生だとか、大好きな先生だとか子どもの方でわかって寄ってきますね。

 育児を放っといて、他にやりがいのある仕事はない

 前に、『ことばの玉手箱』という本が出版されたけど、その中で、まいんど編集長の杉浦さんが私の講演の中から言葉を選んでくれた。育児ほど創造的な仕事はないと思う。だから育児を投げ出してまでやる仕事はない。育児を放っといて、他にやりがいのある仕事なんて、本来、全くないと思う、というような意味のことを私は言ったというのですが、本当にそう思っています」。

 ――もしも、子どもがむずかしく育ったら、仕事を辞めてでも側にいてあげたいと先生は言われたことがありますね。

 「そう、絶対そうしてあげたいですね。最小限、生活に必要な収入を得るためには出掛けていきます。それは育児をするために必要なんだから。私は絶対そうすると思います」。

 ――これはむずかしいな。問題があるなと感じた時には、外の仕事よりも、家の中の子どもの方をとるという。

 「そう、その方をとります。そのために働いているようなものだから」。

 ――父親としては、めずらしいでしょ。普通は。

 「母親だって、父親だって基本的にはそうであって、子育てはそれでいいと思っています。というのは、いい自動車をつくったり、いいコンピューターをつくるより、いい子どもを育てる方がはるかに価値が大きいと思うのです」。

 ――子どもがむずかしくなると、お父さんは仕事に逃げちゃう。そういう傾向があるような気がします。そうでなく人間を育てていくという場合に、自分の存在が必要だったら、何よりも優先してやると、こんな感じですか。

 見事な肖像を描いても、実際の子どもにはかなわない

 「そう、彫刻家のロダンがどんな立派な彫刻を作ったって、実際の人間そのものにはかなわないと言っています。だから育児以上の創造的な仕事はないと思う。本当にそう思います。自分の芸術をするために、自分の子どもを放っておくとか、ないがしろにするとか、もしそんなことがあったら、主客転倒です。まして、自分の都合のために子どもを放り投げておくことがあったら、こんな情けない、心の貧しいことはありません。生活の糧を得ることが絶対必要なら、それは子どもを育てるために必要なものだということです。もちろん子どもの側に、べったりいることが育児だということではないのですが、働きに行く、子どもの学費や食事、洋服を用意するといったことは立派なことですよ。ところが、したいことをしたいために、子どもを無理やりどこかに預けるというようなことがあったら、これは人間として生き方の主客転倒です」。

                                佐々木正美

人 愛 こころ より



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2016年11月05日

響き合う心124 ストレス

――子育てをしていく上でのストレスを感じている人は多いと思います。ストレスには良いストレスと悪いストレスとありますね。

 人間関係の中でストレスを感じ、ストレスの解消も人間関係で

 「ストレスの全くないところにいる人は向上しないでしょう。我々がストレスという場合には、過剰な病的なストレスを言うんだろうと思うんですね。というのは、自分で解決できない精神的な苦痛をどういう部分で感じるかというと、基本的には、人間関係の中で感じるわけです。だけど、とても大事なことは、ストレスを解消するのも人間関係の中で、ということです。人間関係がほとんどないという人は、だいたいストレスを感じていきます。ためていきます。ヒステリーの人なんかそうですね。ボーダーラインパーソナリティーの人も、基本的にはそうですね。安らげるような人間関係を持てないのです。持てなければ持てないままでいたら、気楽でいいだろうと考える人もいるかもしれませんが、そうではないのです。黙っていたって、ストレスのない人はいないわけです。欲求不満はある意味では、向上心ですね。向上心のない人もまたいないわけです。ある欲求が、満たされれば、次の欲求が出てくるようになって、人間は必ず欲求不満を持ってしまう。自分で解消することのできないほどの欲求不満になると、それはいわば病的なストレスですからね。

 現代人はなぜストレスが多いか。ストレス解消の人間関係がない

 ストレスを解消する鍵は、人間関係の中にあるといえます。ということは、いい人間関係を持たなければ、人はストレスがどんどんたまっていく。早いテンポか遅いテンポかは別として。だから、いい人間関係を持つ必要があるのです。一人でいる方が、退屈で苦痛であって、誰さんたちとコミュニケーションする時の方が、ストレス解消になるんだというふうな人や家族、友人、知人を持たなければ人はストレスを解消していかれないのです。
 現代人が、なぜストレスが多いかというと、ストレスになるような人間関係が多く、ストレスを解消できるような人間関係を持たないからです。早い速度で仕事をこなしながら、息のつまりそうな人間関係を持たなければならない職場、その他でストレスになる。そして、人間関係の中でストレスを解消するような気心の知れた、安心できる友人、知人、家族がいないために、ストレスが解消できない。こういう状態は最悪です。孤独というストレスがあります。対人関係にストレスを感じて、逃げこんで一人でいるということは、ストレスの解消にならないのです。一時的な休息になっても、ストレスはたまっていくばかりです。ということを知らないといけないですね」。

――人間関係で感じて、人間関係で解消するということは、育児中の母親からすれば、ストレスは当然あるわけですが、夫とコミュニケーションを積極的にはかるとかすれば、かなりストレスは解消できますね。

 夫との関係でストレスを感じ、近所に親しい人もいないと、不幸な場合は子どもの虐待に

 「そうですね。それに近隣にストレスが解消できる交わりのある友人、知人がいればもっといいですね」。

――夫に対してストレスを感じる人もいますね。

 「そう。それは不幸なことですよ。これでストレスを解消できるいい友人とか、知人がいなかったら、もう大変です」。

――子どもに八つ当たりをする。

 「そうです。虐待というのはそうですよ。友だちはいない、夫との関係もよくない。子どもを虐待してしまう親というのは、例外なくそうではないですか。夫との関係にも、ある種のストレスを感じる。近所にも親しい人もいない。親類の人たちやかつての友人とも疎遠になっている。そんな人間関係の閉鎖的状況の中から、しばしば自分の子どもを虐待してしまう母親が出現するのです」。

――先生は離婚ということについては、必ずしも否定的ではないですか。
  
 

 ”離婚しない方がいいよ”という意味では肯定的です。だけど離婚しないで、無理やり一緒にいることが、もっと不幸になるのなら、まあ、次善の策として、離婚した方がいいという場合はありますね。とりわけ子どもがいれば離婚しないために最大の努力をすることは当たり前です。子どもがいなかったら、それは自由にしてもいいかもしれません。

 子どもにマイナスの負担を与える場合は、離婚した方がよい

 子どもがいる場合の離婚というのは、例外なく子どもに多大の犠牲を与えます。子どもの受ける精神的衝撃は、計り知れないほどでしょう。だけど、そのまま結婚を継続していることが、子どもにそれ以上に大きな衝撃と負担を与えるということもあります。ケンカばかりしているとか、ののしりあっているとかということがありますから。そんな場合には離婚した方がいいに違いないと思う。だけど、そんな悪い結婚ではないことは望ましいわけで、基本的には、離婚はしない方がいいと思います。例えば体の病気や怪我の場合、腕を切断するとか、足を切断するというのはギリギリ最終的な選択でしょう。怪我の状態とか、腫瘍の状態とかによって、四肢や内臓を残しておくことがより悪い結果を引き起こすのだったら、切除や摘出して無くしてしまう。でけどそれは、最終的な選択ですよね。できれば何とか四肢や内臓などを残したまま治療する努力をするように、離婚はしない方がいいという意味合いです。

――多少の波は、乗り越えるべきだということですね。

 「そう、努力して、人間としての知恵でね。もし離婚するようなことをしたら、自分の生活や生き方を相当犠牲にしても、子どもへの償いをし続けなければならないでしょう。罪の償いでね」。

――子どものこと、嫁、姑のこと、お金のことで悩んだり、健康で悩んだり、いろんなことを乗り越えながら、なんとか、夫婦は本当の愛情が生まれてくるのではないでしょうか

 前の人間の方が、夫婦の間でお互いに良さを感じていた

 「そうですね。貧しいから、姑がいるからというようなことでいえば、昔の家庭は全部離婚ですよ。80~90%の家庭は貧しかったんですね。三世代同居です。でも、今の人間ほど不満を感じなかった。今の人間の方がある意味では、わがままですよ。前の人間の方が、夫婦の間でお互いにもっと良さを感じ合っていた。今よりはお互いに感謝をし合っていました。今の人の方が互いに感謝も共感もしにくいし、成田離婚なんてあったりするでしょう。
 新婚旅行中に嫌気がさしてしまう感覚なんて、かつてはまるでなかったと思う。いやなことは些細なことでもすぐいやになってしまうし我慢ができない。人のいやな面がよく見えて、いい面が見えない。相手にいい面がないはずないのにね。そういうふうに今の豊かさと、自由さとは、人の心を変えてしまっているわけです。一言でいえばわがままになっているんです。今の文化とは、どれだけ人が、わがままにしていられるかということと同義でしょう。物質文化、物質文明というのは、人間がどれくらいわがままでいられるか、楽でいられるか、気ままでいられるか、基本的にはそういうことです。醒めた言い方をしてしまえばね。人は一生懸命豊かにと考えてきたんですけど、豊かさとはそういうことで、それ以外のものだと思ったら大変な間違いなんですね」。

                                佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より



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2016年10月07日

響き合う心123 思春期

――思春期とはどういう時期なのか、中学生の14歳というと、思春期の嵐とか、暴風雨とか言われ、親も、子どもとどう接したらよいのか悩みます。子どもの方でも何かイライラするし、むかつくなどといった言葉をよく使います。思春期とは人生の中でどういう時期なのか、先生は反抗期の総仕上げの時などと言われてますが・・・。

思春期は現実的な自分を見る時、
そして自分への客観視にギャップを感じる

 「思春期は、生涯でいちばん大きな迷いの時期だと思います。というのは、それまでの子どもの時期から、自分で人生の全責任を負って生きていく大人への自立していく過度期でしょう。いわば橋渡しの時期ですね。依存期と自立期の間にある時期でしょう。それまでは、ある程度、無責任に振舞っていてもよかった。これからは責任のある振る舞いをしていくための準備をしなくてはならないわけです。これは、言ってみれば、人生の進路についておおよその目標をつくらなければならないといったことでもあります。子どもというのは、それまでは主観的な世界にいて、だんだん思春期に向かって、自分を客観的に見つめる世界に入っていくわけです。主観的な時期というのは、主観ですから自分で自分の希望を、無限に描いていればいいわけですね。ところが、自分で責任を負わなくてはならない時になると、現実的に自分を考えなくてはならないわけでしょう。現実的に考えてみる自分と、夢のように主観的に考えていた自分と、その現実的な自分との間に大きなギャップを見つける時期でもあるわけです。というのは希望と現実の間に大きな差があるということです。すなわち思春期は、自分の容姿を鏡にうつしてよく見るように、外見ばかりでなく自己の内面も客観的な眼で見つめようとするのです。幼児期は主観の世界に生きているのですが。

 思春期は迷いと混乱、希望と絶望が変わりながら生きている

 いろいろな能力にしても、容姿にしても、さまざまなものに対して自分の欲求や希望と現実は大きく違う。その中で努力しながら、うめあわせするにしても、随分と差がありすぎるわけです。ですから、どこまで努力できるか、また不可能なことについては、おおよその折り合いをつけるわけですね。そんなにビシッと希望どおりにいくわけではないですから、さまざまに悩むわけですね。ハンス・カロッサの小説に『美しき惑いの年』というのがあります。思春期は、迷うから美しいんだというふうに、人生の中で美しく輝く時期とハンス・カロッサは言っています。また、ゲーテは、努力している限り迷うんだ。迷っていることは、努力している証拠であると言っています。思春期は、そういう時期なんですね。迷って混乱している。あるいは希望と絶望とを、コロコロと変えながら生きているんです。これはいいんですよね。この時期は、まだまだ自立していないわけですから。それを家族や教育者がどう支えるか、と同時に仲間とどう支えあって生きるかが大事だと思っています。

 思春期は、親や教師のへたな助言や忠告を嫌う

 それまでの小学校やクラブの遊び仲間ではなく、迷いや不安、混乱を支えあう仲間が、この時期必要となってくるわけです。そして、同時に親や先生からも支えられなければならないのです。けれども、思春期のこの時期というのは、主義、主張、趣味、価値観、感性などが、一致する仲間とはとても深い共感を示し合います。そうでない人の意見は、ますます迷うことになったり、イライラとしたり、むかついたりして排除するでしょう。ですから、へたな助言とか、下手な忠告はとても嫌います。この時期は、親にしろ、教師にしろ、そのことを承知していないと、いけないんです。思春期の若者というのは、そういう意味で、理想と現実との間で、ひどく苦しみ、迷い、悩んでイライラしている。このことを知ってあげないといけないんですね。まだまだ、この時期は夢の時代で、主観の世界のなごりが十分残っている時期ですから、理想を追いかけているのですが、実際、現実とはうんと違うためにとても苦しむのです。そして自分の理想を親にも教師にも、しばしば求めるわけです。ところが、親や教師は決して理想の人間ではないわけですから、弱点や欠点や不満を感じるところが、非常に目につくんです。だから強い反抗をしたり、拒否をしたり、軽蔑したり、攻撃したりすることが思春期の若者にはあるのです。社会に向かって反抗することももちろんあります。

 思春期の迷いが大きく、混乱が大きいことが、花の開き方に影響する

 それを同時に自分にも向けて苦しむことがあるんです。理想論から見て、自分がいかに至らないとか、努力が足りないとか、能力が乏しいとか、こんなことを感じるんです。そういう時期なんですよ。だから嵐なんです。それを、こっちが承知してゆっくり見守り、、待ってあげ、元気づけてあげる必要があるんですね。我が家の息子は、少し遅い点もあるんですが、三人が思春期ですよ。三者三様ですね。ああ、こういうことで迷っているなとか 苦しんでいるとか、これはよく分かりますよ。それを脱していくプロセスを毎日側で見ているのは、非常に楽しいですね。親冥利に尽きるものがありますね。このときこそ頼まれもしないのに、よけいなことを言わないことです。思春期に種々の程度に自分が傷つくことはしょうがないと思っています。人を傷つけるとか、他人さまをどうとか、これはとんでもない問題ですが、まあその傷を癒すために、いくらまわり道をしてもいいのです。長い人生なのですから。10代、あるいは20代のごくはじめで、あと50年、60年人生はあるわけです。その中の1年や3年くらいを、どう迷って、悩むかですが、この迷いが大きく混乱の大きいことが、花の開き方の大きさに影響するとも思っています。ずっと、のほほんと迷いもしないで、疑いもしない。苦しみもしないで、ボーっと行ってしまったら、たいして成長がないとさえ思ったりもします。だからこの時期の心の嵐はいいんですよ」。


―― この時、よい友人がいれば、上手に嵐をくぐりぬけていくわけですね。
 

 
「いきやすいですね」。


――なかには友人がいないで親に暴力を振るったり、弟や妹に手をあげたりすることをよく聞きます。

 共感とか感謝があって、尊敬できる人がいることが大事

 「それからもう一つは尊敬できる人がいること、これは大事ですよ。友人に抱く感情は基本的には尊敬というものより敬愛とか、共感ですね。尊敬と共感は近い感情ですが、友人は共感の対象ですよ。尊敬できる先生とか、あるいは歴史上の人物とか、親とかその他実在の人間でもいいし、架空の人物でもいいんですね。はっきりイメージできればです」。


――自分が成熟していくためのモデルですね。

 「自己同一視のモデル。だけど人を尊敬するという感性が育っていないと、本当の意味でのモデルはもてないですよ。そうでないと猿まね的になる、共生するみたいになる。ただ服装や髪形のような恰好だけをまねて行動する、すなわちアイドルと心理的に共生するといった具合に。多くの思春期の若者に、そういうことは個人差はあっても、ある程度共通した心理的傾向でしょうが、だけど、そればかりになってしまうことはありますね。尊敬するほどの対象があればいいのですが、これはやっぱり、共感とか、感謝とかの感情がなければ、ならないと思っています。仲間に共感、尊敬すべき人がいて、親や教師からは、自分の気持ちをさかなでするような干渉をされず、悩みがあれば原則的には自分と仲間の力で解消していく、親はサポートでいいんですよ。この時期の子どもを持つと親は面白いですよ」。


――第二の子育ての時期とか。

 「親に本当の意味での出番が、まわってきたという感じがしますよ。子どもの時は、やれご飯だ、やれ怪我をしたと世話をやかなければならない。動物の子育てとあまり違わないしかし今度は、そういう世話をやかないで、いよいよ人生の先輩としての本格的な親の役割が求められる時です。精神的なサポートでいいのですね。見守っていてやるだけでいいのです。それでいいのです。子どもたちのすること、考えることが手にとるように見えて楽しいですよ」。


――口では、だいたい母親の方が負けますよね。子どもの方が口が立つし、考え方が論理的です。

 「親は衝動的、感情的になりがちで、昨日言ったことと違うことをしばしば言ってますよ」。


――この時期、思春期の子どもへの親の接し方というのは、つかず、離れず、一定の距離をおきながら、愛情を掛けていくやり方でしょうか。ある程度、スタンスをもっていないと、こっちがあれこれ言っても、その時期はないですね。あれこれいうのは、小学校の時くらいまででしょうか。

 
 
 

 息子に’正直言って・・・’といわざるを得ない時があると教えられた

 「久々に、昨夜息子たちとおしゃべりしていた時、テレビで誰かが、”正直言って”こうですよ、と話していたんです。別のチャンネルでは誰かが、”はっきり言って”これはこうです、ああです、と言ったんですね。それを聴いて私が、”正直言って”とか、”はっきり言って”とか、とか言わないで普通に、”僕はこう思う”と言ったほうがいいよね、と息子たちに言ったんですね。で、子どもにも、できることならば、”正直言って”こうだとか、”はっきり言って”と断り書きをしないで、そのままストレートにものは言ったほうがいいと言ったんです。そしたら息子の一人が、それはどうしても”正直言って”とか、”はっきり言って”とか、言わざるをえないときがあるんだ、とこう言いはじめた。そこで私はどういう場合かと聞いてみたところ、本当ならこんなこと言って失礼だとか相手の気持ちを傷つけるかもしれないとか、ちょっと差し控えたい気持ちがあるけれども、やはりどうしても話しておきたいから、いきなり言ったら、誤解を招くかもしれない、だからいきなり直接言わないで”正直言うと”こうだ、という言い方をするんだというのです。お父さんのようにわりあい自由にあちこちでいろんなことが言える立場の人には、分からない感情かもしれないと、こんな厳しいこと言われました。だから、そういうふうに言わざるを得ない人の気持ちを分かってやらなくてはねと。正直に言いたいことを言える立場にいる人とそうでない人がいるんだ、と言われ、ああなるほどと思ったんですね」。


――教えられてしまいますね。思春期の子どもがいるお陰で、こちらの親もある種の感性を育てられるところがありますね。思春期の子どもがいないと、呆けに向かっていくようなね。悩みがなければ呆けですよね。

 若者は家に帰ってきて息を抜くので、不作法をする

 
 「そうです。若者というのはいろんな悩みを持って家に帰ってくるでしょう。家に帰って息を抜くわけですから、不作法をしたり行儀の悪いことをしたり、いろいろするわけです。そのときに親は”ひじをついて”とか”だらしのないことをして”とか言いたくなるでしょう。そうすると若者たちはとても嫌そうにするんですね。そんなときにはそうせざるを得ないほど、切羽詰まった気持ちとか悩みとかがあるのではと思いやってやらなければいけないこともあるのだと思いますね。ふだん、上機嫌とか調子のいい時には、そんなことはしなかっただろうに、冷蔵庫から食べ物の出し方にしろ飲み方にしろ、牛乳パックをガタっとゆすってみて残りが少ないと思ったらラッパ飲みしたりとか。そうするとひとこと言いたくなるわけです。”あとの人が飲むかもしれない”と。すると、”ちょっとしかないから僕が飲みきっちゃうんだよ”と言って怒ったりする。いちいちそんなこと言うなとも。それでも親はコップに入れろと言いたくなるわけです。だけどそういうときは、何かあるんだ、普段ならそんなことあるのに、そういうことをしたくなってしまう何かがあるんだと思ってあげたいですね。そんなことは些細なことで、その背景にどんなことがあったのか分からないわけです。そういうことがあって、何日か経って、もう自分の気持ちの中にしこりが残らなくなった時に、ふっと”あのときこうだったんだ”と親に言ったりする。親は言わなかった方が良かったのか、あのとき言っておいたためにそういうことが分かったんだから、やっぱり言っといた方が良かったのか、ということですが、その辺の問題が親の分別でして、たいていの場合はそんなこと言わなくたっていいと私は思っているんですけどね」。


――親というのは子どもが目の前に現れたら、何か教育しなければいけないみたいなこと意識しますよね。言うことの一つひとつは間違っていないと思うんですけどね。

 「だから子どもを苦しめてしまうんです」。


――教師もそうですね。 

 「おまわりさんもそうです」。


――自分を見つめ、他人に対しても意識が過剰になる。そういう時期ですね。思春期は。他人の目やスカートの丈、ズボンの太さが気になる、あらゆることが意識過剰になる時期ですね。

 人の目が気になることは、ある意味では健康なこと

 「そうです。人の目が気にならなくなったら呆け老人みたいなものですよ。思春期が、いちばん気になるわけです。だんだん気にならなくなってくる。人の目が気になるということは、ある意味では健康なことです。それは特別に悟りを開いた僧侶とかは、人の目を気にしない。それは別の意味で立派なことですけれどね」。


――だから流行っているのは思春期あたりの自立前の人たちをねらうんでしょうね。自立したら自分の似合う服を着ればいいわけですよね。

 「そうです。本当に自主性や主体性ができれば、流行に左右されなくなってね」。


――ある時期誰にでもあるんですけどね。親や教師は昔の自分のことは忘れてしまうんですね。

 「人間というのは自分がどういう気持ちでいたかということは、本当に大きな出来事でもないかぎり、詳しいことは忘れますね。忘れてしまっていて、その時その時の感情であれこれ言ってしまいやすいということですね」。


――それで自分は親孝行だったみたいなことを言うんです。思春期の頃、新聞配達をやってたとかね。正しいことを言い過ぎては駄目なんですね。

 「そう思いますね」。

                                 佐々木正美

著書 人 愛 こころ より



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