2016年08月20日

響き合う心121 食べることと眠ること

 ――欲求不満児への処方箋という形で、先生がよく言われているのが、夜一緒に寝てあげて欲しいとか、手づくり、スキンシップで、食べ物などの要求をかなえて欲しいとか、寝る時、明日の朝何を食べたいか注文を受けて欲しいとか、具体的です。食べることと眠ることは本能です。この点についてお話しください。

 本能に関わる部分ではしつけない

 「人間が必ず毎日することというのは、食べることと眠ることで、最も基本ですね。他にも多少ありますよ。でも顔を洗うこととかお風呂に入ることとかは、毎日とは限らないしね。トイレに行くことがもう一つあるくらいで、しかし、それは決して積極的に意欲や喜びやくつろぎを感じることでもないですね。だから積極的なことで、人間が毎日必ずやるということは、食べることと眠ることだと思うんですね。ですから本能といえば本能ですが、これは強い生理的な欲求なんでしょう。ですからこれをどうするかで、人間の健康は決まると思いますよ。健康というと、食べることと眠ることが体の健康に直結していることは事実ですが、それ以外に精神的な健康にも直結していますね。
 人間の最も深く生理的に結びつくことを、しつけの材料に使ってはいけないと私は思っているんです。だから食事指導は、私は一切自分の子どもにしなかった。確かに東洋の文化には盛りつけられた物を残さず食べることが美徳であるというのがありますね。そして女性は男性より少なく食べるのが美徳である。だから、茶碗も小さければ橋も短いですね。でもそれからのことは別にしてね、盛り付けられた物を何でも食べるのが美徳であるということについては、私はちょっと異論があるんですね。東洋の文化はいろいろ好きではありますけど。

 食べたい物を食べたいだけとって、食べたくないものは一口も食べない

 というのも、個人差があるわけですね、体質差があるわけです。ですから、自分が食べたい物を食べたいだけ取って食べる。ところが欲をかいて取り過ぎて残す、これはいけないと思います。相手が盛ってくれた物を残すのではなくて、自分が盛り付けたものを残すのはいけない。けど、お代わりはいいからということです。わが家では好きなものを好きなだけ食べるのがいいということを基本的にしています。そして、食事を作る係の者が大変な労力を使うとか、うんと迷惑をするのでなければ、できるだけ自分が食べたい物をお願いして作ってもらう。贅沢でなく、家計を圧迫するというのでなければ、この原則は守ってきました。これはね非常に安らぎを感じることです。人生にとって、子どもにとってね、食べることというのは最高の喜びの一つでしょう。大人にとってもそうかもしれません。だから、最高に楽しい喜びの時間の一つを教育だとか躾に使ったら私はいけないと思っています。自由に、食べたい物は折にふれて親に頼む。その物を基本的に重要視した食事を母親が用意する。こういうことを私の家では原則としています。そして食べたい物を食べたいだけ取って食べて、食べたくないものは一口たりとも食べなくていいというのが私の家の原則です。それで子どもたちの健康は極めていいです。病気はほとんどしないです。これは大事なことだと私は思っています。
 子どもの希望はできるだけ叶えられて、食べたい物は食べたいだけ食べれば良くて、食べたくないものは一切食べなくていいというのが食卓を非常に円満にするし、楽しくするし、そして自主性を出しますね。自分で取ったものを食べるんですから、それは残さないように。どうかなと思ったものは少なめに取っておきなさい、もう一回お代わりで食べればいいんだからと。こういうのが自主性、主体性だと私は思ってるんです。

 子どもにとって、昼間の生活が楽しい時、夜眠ることは嬉しくない

 眠ることの喜びということですが、昼間の生活がすごく楽しくて、向上心、発展心が旺盛な時期の子どもにとっては、夜眠るということはあまり楽しいことではありませんね。眠ることが、強い希望になったり楽しくなったりしたら人生下り坂ですね。言ってみれば眠ることは一種の死の時間ですよ。ある意味で眠る時間が待ち遠しい安らぎや楽しみというようになったら、それは昼間の時間にくたびれてる証拠であると思います。子どもにとっての眠る時間は大人が眠る時間とは違うんですね。義務の多い人間の睡眠と、自主的な行動を旺盛にして生き生き楽しんでいる子どもの眠ることとは大いに違います。というのは、自主的なことというのは楽しいことが主体ですから、眠る時間はもったいないくらいです。だから生き生きと輝いている子どもは、朝早く目覚めるわけです。ところが義務や責任でがんじがらめになっている人にとっての睡眠は、ここが休息の場ですから、睡眠が非常に楽しい時間になる。だから眠る時間というのは、食べることと違って意味が違いますよね、大人と子どもでは原則としてはね。元気な、昼間の時間を楽しい充実した状態で過ごしている子どもにとってはむしろ淋しい、孤独な嫌いな時間。早く寝なさいと言われるのは嫌いですね。ですからその孤独さを癒してあげる意味で幼い子どもにはお休みなさいをちゃんとしてあげる。あるいは不安を和らげてあげる。孤独を解消してあげるために、側にいて見ててあげる。昔は母親が夜なべをしている姿を見ながらすぐ脇で眠ったものですよね。あれが安らぎでありくつろぎだったんです。

 親の姿を見ながら、親に側につきそってもらいながら眠るのがよい

 自分の個室を早くから与えられ、そこで一人で眠るというのは、子どもにとってむしろ精神衛生は悪いのです。だから大家族の方が良かった。親の姿を側に見ながら、あるいは親に側にいてもらいながら眠るのが非常に良かったですね。本当に自立的な生活ができるようになって初めて個室で、あるいは自分の部屋で眠るというのはいいです。子どもにとって夜は淋しい不安の時間ですから、その不安を解消してあげる眠りのつき方が、いちばんいいと私は思いますね。寝入る時に淋しさがない、不安がないことです。眠ってしまったら不安はないですから、親は離れてしまっていいわけですけどね。食べること、そして眠る時間をどう過ごすかは、子どもの人格形成に非常に大事ですね」。

                               佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より

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2016年07月27日

響き合う心120 父母の役割

 ――父母の役割といった場合のそれぞれの違いがあればお話しください

 両親が子どもに対して与えなければならない役割は必ずある

 「父母の役割という場合に、私は、自分の家庭では父親の役割と母親の役割は分けています。一般的に分けなくてはならないかどうかは分かりません。分けなくてもいい家庭があるかもしれませんし、分けないとうまくいかない家庭もあるかもしれません。これは分からないです。だけど、家庭の中で両親が子どもに対して与えなければならない役割というのは必ずあると思うんですね。かつては、父性的なものとか母性的なものと言われたでしょう。今は母性や父性を否定する考えもあるんですね。私はそれを決して否定はしませんが。
 簡単に違いを言いますと、特別な思想や主義を持ってる人、あるいは価値観を持っている人、これは別ですよ。だけど極めて自然に、ありのままに両親ということを考えますと、こういうことが言えるんですね。

 10か月もお腹において生んだ子どもが、障害のはずがない

 私は心身障害の子どもたちに会っています。1歳半検診等で、子どもが知恵遅れであるとか、自閉症であるとか疑いがもたれます。そうすると保健所とかから私たち専門医のところへ子どもは実際どうなんでしょうと紹介されてきます。そこで診察やいろんな検査をしたり、インタビューをしたり観察をしたりしてその結果、ある一定の障害があることを家族に伝えるのですが、いろんな意味で、一般に自分の子どもの障害に対して強い拒否感をもつのは父親よりも母親の方なのです。それで、こちらが意を尽くして説明すると、それを受け入れたくないという気持ちをもつのも母親なのです。これは厳然とした事実なんですね。そして何年かして、あの時こう言われてショックでしたと言ったり、本心を自由に語れるようになった時に、多くの母親がどういう表現をするかというと、10ヶ月もお腹において自分が生んだ子どもが、障害なんかあるはずがないんだという思いであったということです。どうしてもそう強く思いたいものだと言いますよ。父親にはそういう感情が無いわけではありませんが、母親より弱いことが多いんです。父親にしたって、自分の子どもにそんなはずはないんだっていう思いはいろいろあるわけですからね。しかし、母親と父親とでは全然違いますね。

 母性は父性に比べて子どもに安らぎを与える

 ですから、スタートから子どもとの関係が違うんですね。私はそれを強く思っているんです。私自身は自分でも子どもには子煩悩だと思っていましたね。だけど、子どもが父親に対する対応の仕方や気の許し方と、母親に対する気の許し方、期待の仕方とははっきり違うんです。母親の方にはるかに安らいでくつろいでいますよ。子どもというのはそれでいいと思っているんですね。私は、休日等許す限り、子どもと何かをしているのが好きで楽しくてしょうがなかった。そういう父親を持った子どもでさえ、母親には父親とは比較にならないくらいゆったりと安らいでいるんですね。基本的にいえば、やっぱりそういうものだと思うんです。心身障害の子どもと両親の間だって、そういう違いがあっていいと思ってるんです。でも否定する人もいるんです。母性と父性は別々にあるものではないと。マザーリングとかファザーリングという言葉はやめて、ペアレンティングというアイディアにすべきだって言う人もいる。それはそれで一つの考え方としていいのかもしれません。そういうやり方で、十年二十年と経ったら、家族や親子の様子はどうなっているか分からない。今は実験だと思うんです。だけど私は父性と母性はあるという立場です。
 母性というのは、先ほどから言っているような意味で、子どもに安らぎやくつろぎを与えるものであり、基本的には自分の存在に無条件の誇りや自信を感じることを可能にしてくれる感性を育てる機能だと思っています。どうすることによってそうするかはいろいろあるでしょうが、その原点となるものは、ありのままで良いと思ってやる気持ちでしょう。

 社会的ルールを教える父親、安らぎを与える母親、両方ともないのは問題

 父性というのは社会的ルールを教え、人生のあり方や生き方の理想、価値観を教える。だけど、くつろぎや安らぎを教えるために父親の父性も多いに役割があると思います。それから、社会的ルールとか価値観を教えるのに母性だって重要な役割を果たすと思いますが、多くの家庭ではそれぞれの比重の大きさは違うように思うんですよ。そういうふうに役割の違いが重複するものが部分的にあってもいいと思うんです。両方全く同じ役割を負って、どれくらい子どもは健全に育つか育たないかは、今日の時点ではまだ分からないというべきだと思うんですね。だけど、同じ役割を負うことの方が自然だと思えるペアレンツにはその結果を教えてもらうよりしょうがないです。違うと言う人は違うやり方をやってみてその結果を教えていただく。問題は、その両方ともない、はっきりしないというのがあるんですね。社会のルールを教えない。生きる理想とか価値観を子どもに伝えきれない。同時に家庭に、本当に安らぎやくつろぎ、憩いの場や許しの場を提供できないいわゆる母性の欠けた家庭というのがあるんです。両方ともないという、こういう場合がきっと大いに問題になってくるんだと思うんですね。両親で全く均等に対等に役割を分担しあったり、あるいは極端な場合には、母性と父性を逆に交換し合ってうまくいく家庭もあるかもしれません。でも私は現在のところでは、やっぱり違うと思っているんですよね。
 私は何千組もの両親と会ってきた中で、一般の家庭でやっている母親の役割をお父さんがやって、お母さんは外で働いてかなりの高収入を得ていらっしゃるという二組のご夫婦を知っております。お母さんが外の父親的役割をして、お父さんが家事とか育児とかをしていられるという家庭です。その子どもたちはお母さんにやっぱりべたべたと甘えるんですよ。これを見ても私はやっぱり違うんじゃないかと思ってるんですね。で、お母さんの匂いがいいのか肌触りがいいのか、あるいはそんなものを越えて普遍的に何かもっとあるのか、これは本当に分からないですね。私の子どもでいえば、、例えばレストランに食事に行ったりすると、みんなどの子も母親側に座りたがりましたよ。

 母親が外で働いて、父親が手塩にかけても障害児は母親の方へ行く

 ところがね、少し子どもが大きくなってきた時に長男から順番に、じゃあ僕、パパの側に座ってあげるという言い方をして私の側に来たということがありました。障害児でない子どもの場合には不正直です。悪い意味で言ってるんではありません。ただ努力をして父親を傷つけまいとして私の方に来たりしましたけどね。ところが発達障害児はそういうことをしませんからね。真っ正直で。どんなに毎日お母さんが外で働いて、お父さんが家庭で手塩にかけて育てていても、お母さんと両方揃っている時にはお母さんの方へ行くんですね。違うんですよ。子どもが安らぐとかくつろぐとか落ち着くとかいうようなものは。そういう両親間の役割の違いが、自然に実行できなくなったら、本当に心配だなと私は思っているんです。無理矢理に不自然に曲げてしまうことがね。どうでしょう。」

 ――やはり各々、役割があった方が子どももいいでしょうね。

 児童福祉の施策をやる場合、子どもの意見を聞くように

 「いろんな事やる場合にね、私は子どもの意見を聞いてみたらという言い方をしたいですね。いつだったか誰かおっしゃっていましたよ。保育園では乳児保育をもっとたくさんやれと。それは親のためには確かに都合のいいことなんです。子どもがどう思っているかということをちっとも聞かないで。ある意味で児童福祉に反する。だけどそのために親が苛立って育児がちゃんとできないのだったら、よくないのは分かっていてもより悪くしないために乳児保育すべきかもしれない、ということはありますけど。また別の理由もあるでしょうが、もう少し子どもの気持ちや意見を聞くということが大事じゃないでしょうかね。とは言っても赤ちゃんはしゃべれませんが、けれどもその気になれば、幼い子どもの気持ちを聞くことはできるのですから」。
 
                               佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より

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2016年06月22日

響き合う心119 優しさ

 ――現代人は優しさを求め優しさに飢えていると言われます。結婚相手を選ぶときも、優しい人、面白い人、生活力のある人といった順に・・・。
 
 「なるほどね」。

 ――そういう意味で、優しくしてくれて有難う、みたいな感じの屋だしさを求める。先生は、優しくする人というのは自分も優しくしてもらいたい人なのだと言われたことがありますよね。

 淋しい子の中に動物を可愛がる子がしばしばいる

 「それはこういうことがありますね。動物をうんと可愛がる子というのは、友だちのいない子にしばしばいますね。動物を可愛がる子はみんな友だちがいないという逆の意味では必ずしもありません。けれでも、動物を可愛がる子には、淋しい子が多い。あるいは淋しい子の中に動物を可愛がる子がしばしばいるということ、これは確かに言えますね。それは対話する友だちが少ない、あるいはゆっくり安心して対話できる親とか、兄弟とかが少ないときに動物にそれを求めようとすることがあるのですね。だから自分が動物に向かって優しくしてあげる。それは本当は自分がそうしてもらいたいと感じている気持ちの裏返しの姿や表現である、ということですね。


 人にやさしくできる人は、自分が優しくされていなければならない

 けれども今度は動物なんかではなく、人間が人間に優しくできるかということですが、自分が周囲の人に優しくしてもらってなかったら、一般に私たちは人に優しくなんてできないですよ。これはとても大事なことです。だから動物に優しいということと、友人に優しいということは全然別のことなんです。現代人はペットを猫可愛がりするほど優しい。で、その優しさを隣人に与えられるかというと与えられないんです。弱いものに対する優しさと、対等のものや自分より強い相手に対する優しさは、しばしば質が違うんですね。人に優しくできる気持ちと、ペットに優しくできる気持ちは違うんです、なぜかというと、自分を裏切らないものに対しては、あるいは自分に危害を加えてこない、反抗しないものに対しては優しい。ところが、自分の方から気遣いをしなければならないものに対しては優しくない、よそよそしくなってしまうのです。まして自分より恵まれている人や強い立場にある人には、優しさどころか、反射的に無視や敵意を感じてしまう。人間には嫉妬の感情がありますからね。でも本当の優しさは、自分より恵まれているという人にも感じられる優しさのことでしょう。優しさとは、相手に対する哀れみではないのですから。そんな見下げた感情ではないでしょう。優しさとは。
 とこらが現代人は自己愛的になりましたから、そういう見下したような偽りの優しさや愛情を抱いて、酔っている人がいますね。
 本当に人間同士で優しくし合えている人は、猫可愛がりをするほどのペットは持たなくてもいいんだと、基本的には思っているんです。でも結局は、人に優しくできる人というのは自分が優しくされていなければならないんです」。

 ――先生はこういうことを言われたことがあるんですね「恋愛中の人は優しくなる」と、「そして家族に愛されている人はもっと優しい」と。

 家族に愛されている人は一段と人に優しい

 「ああ、そんなこと言ったですか。なるほど、恋愛がうまくいっている時は、自分が一番愛されていることを感じているわけですから、だから自分が愛されて、優しくされてる時は優しいんですよ。人に優しくできるんです。このようにね、自分が優しくされなければ人には優しくできないんです。恋愛中はうまくいっているから優しくできるんですね。そしてね、本当に自分が優しくされているといういちばん強い実感というのは家族に優しくされていることを深く実感する時で、恋愛なんかよりもっと安定した確かなものなんです。そういった意味で言ったんだと思うんです」。

 ――親は子どもに優しくしなければならないと。

 「そうすれば子どもは誰かに優しくできるんです。だけど親に優しくしてもらえてない子どもというのは、人に本当は優しくはできないのです。優しくしてもらおうとして、おべっかを使ったり、周囲の考えに迎合したりはしますけれどね」。

                               佐々木正美


人 愛 こころ より

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