2011年12月27日
はじまりは親子の愛着から -人を信じて、自分を信じて- (後半)
基本的信頼と根拠のない自信
子どもは親子間の愛着形成から、人を信じて、自分を信じていきます。自分と相手を信じることができるから、友達や先生との関係が自然に円滑に進展していくのです。
不登校や引きこもりは、その過程につまづきがあります。勉強ができないから不登校に陥るわけではありません。むしろ、不登校の生徒には、勉強ができる子どもが多いのです。授業中より休み時間を持て余す生徒です。勉強の出来不出来よりも、休み時間にクラスメイトと自由に楽しく交流できるかどうかの問題です。
もう10数年も前になりますが、私は神奈川県学校不適応対策研究協議会の座長を2期6年間務めました。その間私は、今の日本の小学生にとって、授業中の落ちこぼれよりも、休み時間に落ちこぼれることの方が、社会性を身につける上でははるかに心配なことだと訴え続けました。近年、斎藤環氏や茂木健一郎氏のような精神科医や脳神経学者は、青少年に「根拠のない自信」を持たせてやりたいと主張しています。
子どもに限らず、私たちが日々幸福に生きていくためには、根拠のない自信が必要です。人間は基本的なところで、人と自分を信じて、社会で生きていきます。当たり前のように人と自分を信じる。この感情を、精神分析家のE・エリクソンは「基本的信頼」と呼びました。多くの人は幼い頃、母親との関係の中で、愛着が十分に続くであろうと確信し、基本的信頼を育みます。つまりこれが、根拠のない自信なのです。
反対に、「根拠のある自信」とは、例えば勉強やスポーツがよくできるから自信がある、というものです。しかし、この根拠のある自信しか身につけていない場合、根拠となる勉強やスポーツが自分よりもっとできる人に出会うと、劣等感に陥ることになり、同時に、自分より劣っていると思える相手には、優越感を感じることになります。優越感と劣等感の間を行き来するような生き方は、どんなに息苦しいことになるしょう。根拠のある自信は、根拠のない自信に支えられていない限り、容易に劣等感に取って代わられるということを、昨今の子どもや若者に接しているとよくわかります。
児童館への期待
アメリカのH・S・サリバンは、人間は人間関係の中に自分の存在の意味や価値を実感し確認するものであること、人間関係に障害を持ったり失ってしまったら、必ず心の病気に陥ってしまうものであることを、説き明かしてくれています。これは子どもに限った事ではなく、人間が健康で、かつ幸福に生きるためには、共感的で豊かな人間関係を維持していくことが必要なのです。
小学校時代の休み時間や放課後、仲間と共に遊び、喜びや悲しみを共感し合いながら過ごすことが、子どもにとってどれほど価値のあることなのかを知っていただきたいと思います。私は40余年の児童臨床の経験の中で、このことを日々ますます強く実感しています。そして今、休み時間の落ちこぼれののためにも、学校以外の憩いの場としての各地の児童館や児童クラブの存在や役割の意味を、私たち地域社会の構成者は老若男女、改めて考えなければならないと思います。
佐々木正美
子どもは、幼い頃に親から無条件に愛されるという
「根拠のない自信」によって、人と自分を信じることができ、
人間関係を円滑に進められるようになります。
現在連載中の雑誌、暮しの手帖より 暮しの手帖44「母子の手帖」 (後半)
子どもは親子間の愛着形成から、人を信じて、自分を信じていきます。自分と相手を信じることができるから、友達や先生との関係が自然に円滑に進展していくのです。
不登校や引きこもりは、その過程につまづきがあります。勉強ができないから不登校に陥るわけではありません。むしろ、不登校の生徒には、勉強ができる子どもが多いのです。授業中より休み時間を持て余す生徒です。勉強の出来不出来よりも、休み時間にクラスメイトと自由に楽しく交流できるかどうかの問題です。
もう10数年も前になりますが、私は神奈川県学校不適応対策研究協議会の座長を2期6年間務めました。その間私は、今の日本の小学生にとって、授業中の落ちこぼれよりも、休み時間に落ちこぼれることの方が、社会性を身につける上でははるかに心配なことだと訴え続けました。近年、斎藤環氏や茂木健一郎氏のような精神科医や脳神経学者は、青少年に「根拠のない自信」を持たせてやりたいと主張しています。
子どもに限らず、私たちが日々幸福に生きていくためには、根拠のない自信が必要です。人間は基本的なところで、人と自分を信じて、社会で生きていきます。当たり前のように人と自分を信じる。この感情を、精神分析家のE・エリクソンは「基本的信頼」と呼びました。多くの人は幼い頃、母親との関係の中で、愛着が十分に続くであろうと確信し、基本的信頼を育みます。つまりこれが、根拠のない自信なのです。
反対に、「根拠のある自信」とは、例えば勉強やスポーツがよくできるから自信がある、というものです。しかし、この根拠のある自信しか身につけていない場合、根拠となる勉強やスポーツが自分よりもっとできる人に出会うと、劣等感に陥ることになり、同時に、自分より劣っていると思える相手には、優越感を感じることになります。優越感と劣等感の間を行き来するような生き方は、どんなに息苦しいことになるしょう。根拠のある自信は、根拠のない自信に支えられていない限り、容易に劣等感に取って代わられるということを、昨今の子どもや若者に接しているとよくわかります。
児童館への期待
アメリカのH・S・サリバンは、人間は人間関係の中に自分の存在の意味や価値を実感し確認するものであること、人間関係に障害を持ったり失ってしまったら、必ず心の病気に陥ってしまうものであることを、説き明かしてくれています。これは子どもに限った事ではなく、人間が健康で、かつ幸福に生きるためには、共感的で豊かな人間関係を維持していくことが必要なのです。
小学校時代の休み時間や放課後、仲間と共に遊び、喜びや悲しみを共感し合いながら過ごすことが、子どもにとってどれほど価値のあることなのかを知っていただきたいと思います。私は40余年の児童臨床の経験の中で、このことを日々ますます強く実感しています。そして今、休み時間の落ちこぼれののためにも、学校以外の憩いの場としての各地の児童館や児童クラブの存在や役割の意味を、私たち地域社会の構成者は老若男女、改めて考えなければならないと思います。
佐々木正美
子どもは、幼い頃に親から無条件に愛されるという
「根拠のない自信」によって、人と自分を信じることができ、
人間関係を円滑に進められるようになります。
現在連載中の雑誌、暮しの手帖より 暮しの手帖44「母子の手帖」 (後半)
2011年11月18日
はじまりは親子の愛着から -人を信じて、自分を信じて- (前半)
小学校の頃、下校後自宅で勉強をした記憶は全くなく、毎日地域の友だちと、暗くなるまで遊んでいました。そのことが、健全な社会人になるためにどんなに大切なことであったかは、後に児童青年精神医学の道を歩むことになって、大きな実感をもって知ることになります。
精神医学の一般の研修を終え、1970~71年頃、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学児童精神科に留学した時のことです。当時の小学校では3年生まで、教科書やノートを放課後に自宅に持ち帰らないように指導していることを聞いて驚きました。人間が社会的存在として健全に成熟していくためには、学校ばかりでなく地域社会で、近所の友達や仲間と自由な時間を十分に経験することが不可欠であると、カナダの人々は熟知していたのです。
ひきこもりの国
現在日本には、不登校といわれる生徒が小中学生だけで13万人もいます。不登校現象自体、日本固有のことです。大人でもひきこもっている人は、数10万とも100万ともいわれています。さらに国内では周囲の人の目が気になるという理由で、海外に行ってひきこもっている「外こもり」と呼ばれる人も、何万人という単位でいます。
私は、不登校やひきこもりに苦しむ子どもや当事者ばかりでなく、その家族にも30数年にわたって会い続け、学校や社会への復帰や再出発を励まし続けてきました。
そういう中で、M・ジーレンジガーという国際的ジャーナリストの著作『ひきこもりの国』(光文社刊)に出会いました。ピュリッツァー賞・国際報道賞の最終候補になったほどの著者です。著者は日本を名指しするようにして「ひきこもりの国」と呼びました。
彼の卓越した取材と思索は、日本の青少年が中国や韓国の若者と比べても、「驚くほどの無気力と厭世観に支配されている」ことを冒頭から指摘しています。私も毎年のように、講義などで韓国や中国を訪問しているので、ジーレンジガー氏の指摘する意味はよく分かります。
彼は日本の親子間に、愛着の形成が不十分なことを書いています。愛着とは子どもから見れば、親から無条件に、十分に、そして永遠に愛されるという実感を基盤にして、乳児期から早期幼児期に、母親との関係で育まれるものです。日本の家庭には、夫婦や親子間の会話が不足しています。特に、本音の会話は、非常に不足しています。外国のジャーナリストに指摘されるまでもなく、承知していたことです。
佐々木正美
現在連載中の雑誌、暮しの手帖より 暮しの手帖44「母子の手帖」 (前半)
精神医学の一般の研修を終え、1970~71年頃、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学児童精神科に留学した時のことです。当時の小学校では3年生まで、教科書やノートを放課後に自宅に持ち帰らないように指導していることを聞いて驚きました。人間が社会的存在として健全に成熟していくためには、学校ばかりでなく地域社会で、近所の友達や仲間と自由な時間を十分に経験することが不可欠であると、カナダの人々は熟知していたのです。
ひきこもりの国
現在日本には、不登校といわれる生徒が小中学生だけで13万人もいます。不登校現象自体、日本固有のことです。大人でもひきこもっている人は、数10万とも100万ともいわれています。さらに国内では周囲の人の目が気になるという理由で、海外に行ってひきこもっている「外こもり」と呼ばれる人も、何万人という単位でいます。
私は、不登校やひきこもりに苦しむ子どもや当事者ばかりでなく、その家族にも30数年にわたって会い続け、学校や社会への復帰や再出発を励まし続けてきました。
そういう中で、M・ジーレンジガーという国際的ジャーナリストの著作『ひきこもりの国』(光文社刊)に出会いました。ピュリッツァー賞・国際報道賞の最終候補になったほどの著者です。著者は日本を名指しするようにして「ひきこもりの国」と呼びました。
彼の卓越した取材と思索は、日本の青少年が中国や韓国の若者と比べても、「驚くほどの無気力と厭世観に支配されている」ことを冒頭から指摘しています。私も毎年のように、講義などで韓国や中国を訪問しているので、ジーレンジガー氏の指摘する意味はよく分かります。
彼は日本の親子間に、愛着の形成が不十分なことを書いています。愛着とは子どもから見れば、親から無条件に、十分に、そして永遠に愛されるという実感を基盤にして、乳児期から早期幼児期に、母親との関係で育まれるものです。日本の家庭には、夫婦や親子間の会話が不足しています。特に、本音の会話は、非常に不足しています。外国のジャーナリストに指摘されるまでもなく、承知していたことです。
佐々木正美
現在連載中の雑誌、暮しの手帖より 暮しの手帖44「母子の手帖」 (前半)
2011年08月24日
響き合う心74 「大震災の前と後で」
76歳の誕生日を迎えて、高齢者も後期に入ってきたことを自覚するこの頃です。動作が緩慢になってきたことを、妻や家族から指摘されます。もの忘れが多くなり、新しくものを憶えることができにくくなってきました。
子どもと青年と家族の精神保健に関する精神科の医者になって、40何年かが経過してきました。長かったようでもあり、あっという間であったというようにも思えます。何千人もの病んだり障害をもったりする人々に日々出会い、それぞれの悩みの解消や軽減に心を尽くしてきました。
そういう過程の中には、忘れられない人々や事柄が数々あります。
1986年アメリカ自閉症協会の年次総会に招かれて、開会式の中で講演をしたことがあります。開会式直前に控室でコーヒーをいただきながら、ちょうど開会式に当時のレーガン大統領のメッセージを携えて来られたある政府高官と,歓談しておりました。女性の方でしたが、丁重なご挨拶の後、日本について語り始められたのです。
バブル経済が始まろうとする時代であったと思います。そのことに敬意をはらうような口調で、日本は豊か国ですねと切り出してこられました.それから自由な国、さらに平和な国、さらに人々が平等な意識をしっかりもって生活をしている国ですねとも言われました。
そうですねというくらいの相槌しか打てないでいる私に、豊か、自由、平和、平等というような「人類の宝」をみんな高い水準で手に入れた日本の人々は、今後何を目標にして生きていくことになるのでしょうかというような問いかけをして、話を終えることになったのですが、私にはこの問いかけのような言葉を聞きながら終えることになった会話が、帰国後も20数年の間ずっと胸の中にわだかまりのように残ったままでいるのです。
私たちは日々何を目標にしながら生きてゆけばよいのかという問題です。今現在この問いかけをされたのであれば、東日本東北大震災の復興や原子力発電所問題の討論と解決など、多くの人々にとっての共通目標を抱きやすいのですが、バブル経済の崩壊どころか、バブルに入る直前のことでしたから、回答が困難な問いかけでした。
豊さと自由と平和のなかで、私たちの多くはただ漫然と生きてきたように思います。自由というより勝手気ままに、互いに自己愛的に孤立し合って生きてきたように思います。その結果、子どもを取り巻く環境や世界を、私たちはどのようにつくる努力をしながら生きてきたのか、自分の仕事をしながら、しばしば悲観や絶望の方向に気持ちが向くのを、どうしようもない思いで過ごしてきたように思います。
OECDの調査では、日本人の生きかたは世界で突出して孤立的になっているといいます。社会学者たちのけんきゅうでは、日本の学校でのいじめは、他の国に類を見ないほど激しいといいます。ひきこもりやニーとといわれる若者が、日本ほど多い国もないだろうといわれます。子どもへの虐待や高齢者への虐待も、日々悪化の方向にいくばかりです。
今私たちは、大災害の町や村の復興に象徴される、日本人のいわば共通目標をもつことができるようになりました。今まで、漫然と日々を過ごしていた若者が、結婚相談所を訪れることが多くなったという報道があります。何かが変わりました。変わり始めました。建設的創造的な方向に、さまざまなことが変化していくことを願わずにはいられません。
佐々木正美
子どもと青年と家族の精神保健に関する精神科の医者になって、40何年かが経過してきました。長かったようでもあり、あっという間であったというようにも思えます。何千人もの病んだり障害をもったりする人々に日々出会い、それぞれの悩みの解消や軽減に心を尽くしてきました。
そういう過程の中には、忘れられない人々や事柄が数々あります。
1986年アメリカ自閉症協会の年次総会に招かれて、開会式の中で講演をしたことがあります。開会式直前に控室でコーヒーをいただきながら、ちょうど開会式に当時のレーガン大統領のメッセージを携えて来られたある政府高官と,歓談しておりました。女性の方でしたが、丁重なご挨拶の後、日本について語り始められたのです。
バブル経済が始まろうとする時代であったと思います。そのことに敬意をはらうような口調で、日本は豊か国ですねと切り出してこられました.それから自由な国、さらに平和な国、さらに人々が平等な意識をしっかりもって生活をしている国ですねとも言われました。
そうですねというくらいの相槌しか打てないでいる私に、豊か、自由、平和、平等というような「人類の宝」をみんな高い水準で手に入れた日本の人々は、今後何を目標にして生きていくことになるのでしょうかというような問いかけをして、話を終えることになったのですが、私にはこの問いかけのような言葉を聞きながら終えることになった会話が、帰国後も20数年の間ずっと胸の中にわだかまりのように残ったままでいるのです。
私たちは日々何を目標にしながら生きてゆけばよいのかという問題です。今現在この問いかけをされたのであれば、東日本東北大震災の復興や原子力発電所問題の討論と解決など、多くの人々にとっての共通目標を抱きやすいのですが、バブル経済の崩壊どころか、バブルに入る直前のことでしたから、回答が困難な問いかけでした。
豊さと自由と平和のなかで、私たちの多くはただ漫然と生きてきたように思います。自由というより勝手気ままに、互いに自己愛的に孤立し合って生きてきたように思います。その結果、子どもを取り巻く環境や世界を、私たちはどのようにつくる努力をしながら生きてきたのか、自分の仕事をしながら、しばしば悲観や絶望の方向に気持ちが向くのを、どうしようもない思いで過ごしてきたように思います。
OECDの調査では、日本人の生きかたは世界で突出して孤立的になっているといいます。社会学者たちのけんきゅうでは、日本の学校でのいじめは、他の国に類を見ないほど激しいといいます。ひきこもりやニーとといわれる若者が、日本ほど多い国もないだろうといわれます。子どもへの虐待や高齢者への虐待も、日々悪化の方向にいくばかりです。
今私たちは、大災害の町や村の復興に象徴される、日本人のいわば共通目標をもつことができるようになりました。今まで、漫然と日々を過ごしていた若者が、結婚相談所を訪れることが多くなったという報道があります。何かが変わりました。変わり始めました。建設的創造的な方向に、さまざまなことが変化していくことを願わずにはいられません。
佐々木正美