2016年09月17日

響き合う心122 子どもの自立

 ――自立とはある意味で、親の力を借りなくても子どもが自分に与えられた人生をいかに開拓し、課題に挑戦していくか、そうしながら親離れをしていくことが子どもの自立という気がします。自立を果たすために大事なことは一体何かということをお話しください。

 社会の中で自立的行動をするのは、自分の主体性、人との協調性をもつこと

 「自立ということはこういうことだと思ってるんですね。自分の力をある意味で孤立して発揮することにみえますけども、人間の社会の中での自立というのは、悟りきった人が山の中で隠遁生活をするのと違って、町の中や社会の中で、人と何かをある程度の主体性と協調性をもってすることが自立だと思うんですね。主体性と協調性のバランスが自立だと思うんですよ。ですから、別の観点から言えば、人に頼ることと、人から頼られること、その中に自分のアイディアやプランを生かす、このバランスを周りの人たちと自分の個性や能力をよく考えて、バランスをとっていくことが自立だと思うんです。だから、何でもかんでも一人ですることが自立ではないわけですね。

 子どもは希望が受け入れられるほど、価値あるものと認められる

 よくトイレットの自立とか、着脱衣の自立とか、食事の自立とか言います。まあ、基本的生活習慣の自立というようなことになるでしょうか。これらは子どもが一人でするということですね。だけど洋服を一人で脱いだり着たり、ご飯を一人で食べたり、トイレットに一人で行けるなんていうことを本当の自立と言ったら間違いなんですね。そういうものの自立ということが親はよく頭にあるものですから、何でも一人ですることが自立だと思っているんですね。とこらが、本当に社会的な自立行動のできる人というのは、人との調和で何かができる人なんですね。だから人との関係で何かができるということは、人を信じ自分を信じることでしょう。人を信じるようになるためにどうするか、自分を信じることができるように育てるにはどうするかということは、先ほどお話ししたとおり、まず親を信じて親との人間関係を、それから親以外の人との人間関係をどういうプロセスで学んでいくか、ということです。そのためにまずは自分がどれくらい価値のあるものとして受け入れられているかというところから始まるわけでしょう。どれくらい価値のあるものとして認められているかということは、ああだこうだと干渉されすぎたり、注意されたり叱られすぎたりすれば、それだけ価値のないものというふうに子どもは感じるわけでしょう。だから子どもは、自分の希望がありのままに受け入れられれば受け入れられるほど、自分は価値のあるものとして認められているという実感をもつし、これでは駄目だ、ああしなくちゃだめだと言われれば言われるほど、自分の存在は価値の小さなものとして感じるわけですね。愛の鞭などと言いますが、本当に愛のある人が鞭など必要としますかね、私は疑問です。子どもはまず無条件で受け入れられることで自分が本当に愛されていることを知り、その辺の信頼から、その他の人も信じるようになり、自分自身への信頼すなわち自信をもつことができるようになると思うのです。自信がある子どもと無い子どもはそういうところで決まるわけですね。

 人との調和の中で自分のプランを生かせることが自立である

 自分に自信があるということは、親を中心に人から認められていること、愛されてること、そのまま受け入れられていることを実感することです。子どもは自立を認めてくれる人がいればいるほど、認めてくれた人を信頼することができ、その人を信頼することによってそうでない人に対する信頼感も広がっていくわけですね。ですから、人に対する不信感とか、恐怖心や警戒心が強いというのは、自分の欲求が基本的にはどれくらい認められたかどうかで決まるわけなんです。そういう意味で、自分の欲求がたくさん満たされた子どもというのは、人を信頼するし、自分の存在を肯定的に感じることができるし、人を愛することができます。ということは、人と調和した行動がとれるということになっていくわけでしょう。人との調和の中で、ある程度自分のプランを生かすことができるようになってはじめて自立なんですよ。勉強ができても何ができても、それだけでは全く自立的な力にはならない。クラスでトップクラスの秀才の登校拒否というのは、少しも珍しいことではないですね。あくまで人との調和の中で何かができなくてはだめですね。だから仲間から孤立した状態で何かをあれこれ、例えばコンピューターゲームを一人で一日中やってるからあの子は自立した生活ができてるだなんて、だれも思わないでしょう。仲間といろんなことをおもいっきりやれる子どもの方が、小学生なり中学生なりに自立している子どもといえるのだということが分かるわけですね。だから自立と孤立とは全然違うということを知らなくてはいけないのですね」。

 ――自立は急がせるものではなくて、十分な愛情をかけて、親やその他の大人や子ども、
仲間との係わりの中で育ってくるのを待っていてやるものなんですね。

 子どもに決めさせてあげるから自律心がです。待つことが大事

 「そう、自然にでてくるものなんです。個人差があってね。しっかりと自立する子の方が自立は遅いのです。ゆっくりと地ならしをして、土台をしっかり築きながらというのがありますからね。ゆっくりさを待っててあげることが大事でしょう。それから、しつけと自立という関係から言えば、自分で自分をコントロールする力が出てきて初めて自立に向かっているわけです。その前に自立を律する方の自律が身につかなければいけないでしょう。自分で自分のことを決めるという意味ですね。あるいは自律は自分の衝動をコントロールするという意味でしょう。ということは大人が決め過ぎたのでは自律心は育たないです。こうするもんだと決め過ぎたり、せっかちに内容と時期を決め過ぎるのは、子どもからみれば他律なんですね。だから待つことが大事なんですよ。大事なことは子どもに何度でも伝えるだけでいい。いつからそれが実行できるかは待っててあげるという姿勢が子どもの自律性を育てるのです。自分の存在を十分認められているという実感があって、子どもは初めて安心して、自信をもって、周囲の人に対する信頼感を持ちながら、そういう人たちとの調和をはかり、自立、インデペンデントな生活ができるようになっていくということです。

 育児の上手な人は、我慢と感じていない

 現象的には、ゲゼルとかエリクソンもいろんな表現で指摘しているように、子どもは、依存と反抗を繰り返しながら自立していくということは私も実感します。依存というのは、自分がどれくらい愛されているかを確認することです。要するに自分の価値を確認するために、自分の欲求を満たしてもらうわけです。それから反抗というのは、相手がそういう自分をどれくらい受け入れているかということを確認していることであり、同時に自分が主体的な行動をとれることを確認しているわけですね。だから、依存と反抗をしっかりしなければ子どもは自立して行けないということでもありますよね。ですから、育児の上手でない人、嫌いな人からすると子どもの行動はこちらを我慢ばかりさせるようにみえるんですね。依存してきて、反抗するわけですから。でも我慢に思えるようでは駄目ですね。育児はある意味で仕事でしょう。けれどもいい仕事というのはすごく気持ちがいいといいます。科学の実験にしろ、芸術作品を作るにしろ、それが楽しくてやらないではいられなくてやっているでしょう。育児の上手な人は、それが我慢だなんて感じてないんですよね。科学者が、いい研究が軌道にのっているときに、徹夜をして実験するのが、我慢だなんて思ってないでしょう。今、実験を中断することの方が我慢だったりしてね。いいコンピューターなりハイテクな機材を作ろうとしている人とか、いい自動車を作ろうとしている人、いい音楽を作ろうとしている人、いい絵を描こうとしている人、いい農作物を作ろうとしている人というのは、人よりたくさんの時間や労力を費やしているわけです。それを我慢だなんて思っていないですよね」。

 ――楽しみにしながら待つという感じですね。

 「草花を好きな人というのはね、決して無理難題を草花に言わないもんね。うんと手を掛け心を掛けて、花開くのを楽しみにして待つわけです。うんと努力することが基本的には楽しみや喜びでなくちゃあね。苦痛になったり、嫌になるようでは、子どもは不幸ですね、駄目ですね」。

                               佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より

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2016年08月20日

響き合う心121 食べることと眠ること

 ――欲求不満児への処方箋という形で、先生がよく言われているのが、夜一緒に寝てあげて欲しいとか、手づくり、スキンシップで、食べ物などの要求をかなえて欲しいとか、寝る時、明日の朝何を食べたいか注文を受けて欲しいとか、具体的です。食べることと眠ることは本能です。この点についてお話しください。

 本能に関わる部分ではしつけない

 「人間が必ず毎日することというのは、食べることと眠ることで、最も基本ですね。他にも多少ありますよ。でも顔を洗うこととかお風呂に入ることとかは、毎日とは限らないしね。トイレに行くことがもう一つあるくらいで、しかし、それは決して積極的に意欲や喜びやくつろぎを感じることでもないですね。だから積極的なことで、人間が毎日必ずやるということは、食べることと眠ることだと思うんですね。ですから本能といえば本能ですが、これは強い生理的な欲求なんでしょう。ですからこれをどうするかで、人間の健康は決まると思いますよ。健康というと、食べることと眠ることが体の健康に直結していることは事実ですが、それ以外に精神的な健康にも直結していますね。
 人間の最も深く生理的に結びつくことを、しつけの材料に使ってはいけないと私は思っているんです。だから食事指導は、私は一切自分の子どもにしなかった。確かに東洋の文化には盛りつけられた物を残さず食べることが美徳であるというのがありますね。そして女性は男性より少なく食べるのが美徳である。だから、茶碗も小さければ橋も短いですね。でもそれからのことは別にしてね、盛り付けられた物を何でも食べるのが美徳であるということについては、私はちょっと異論があるんですね。東洋の文化はいろいろ好きではありますけど。

 食べたい物を食べたいだけとって、食べたくないものは一口も食べない

 というのも、個人差があるわけですね、体質差があるわけです。ですから、自分が食べたい物を食べたいだけ取って食べる。ところが欲をかいて取り過ぎて残す、これはいけないと思います。相手が盛ってくれた物を残すのではなくて、自分が盛り付けたものを残すのはいけない。けど、お代わりはいいからということです。わが家では好きなものを好きなだけ食べるのがいいということを基本的にしています。そして、食事を作る係の者が大変な労力を使うとか、うんと迷惑をするのでなければ、できるだけ自分が食べたい物をお願いして作ってもらう。贅沢でなく、家計を圧迫するというのでなければ、この原則は守ってきました。これはね非常に安らぎを感じることです。人生にとって、子どもにとってね、食べることというのは最高の喜びの一つでしょう。大人にとってもそうかもしれません。だから、最高に楽しい喜びの時間の一つを教育だとか躾に使ったら私はいけないと思っています。自由に、食べたい物は折にふれて親に頼む。その物を基本的に重要視した食事を母親が用意する。こういうことを私の家では原則としています。そして食べたい物を食べたいだけ取って食べて、食べたくないものは一口たりとも食べなくていいというのが私の家の原則です。それで子どもたちの健康は極めていいです。病気はほとんどしないです。これは大事なことだと私は思っています。
 子どもの希望はできるだけ叶えられて、食べたい物は食べたいだけ食べれば良くて、食べたくないものは一切食べなくていいというのが食卓を非常に円満にするし、楽しくするし、そして自主性を出しますね。自分で取ったものを食べるんですから、それは残さないように。どうかなと思ったものは少なめに取っておきなさい、もう一回お代わりで食べればいいんだからと。こういうのが自主性、主体性だと私は思ってるんです。

 子どもにとって、昼間の生活が楽しい時、夜眠ることは嬉しくない

 眠ることの喜びということですが、昼間の生活がすごく楽しくて、向上心、発展心が旺盛な時期の子どもにとっては、夜眠るということはあまり楽しいことではありませんね。眠ることが、強い希望になったり楽しくなったりしたら人生下り坂ですね。言ってみれば眠ることは一種の死の時間ですよ。ある意味で眠る時間が待ち遠しい安らぎや楽しみというようになったら、それは昼間の時間にくたびれてる証拠であると思います。子どもにとっての眠る時間は大人が眠る時間とは違うんですね。義務の多い人間の睡眠と、自主的な行動を旺盛にして生き生き楽しんでいる子どもの眠ることとは大いに違います。というのは、自主的なことというのは楽しいことが主体ですから、眠る時間はもったいないくらいです。だから生き生きと輝いている子どもは、朝早く目覚めるわけです。ところが義務や責任でがんじがらめになっている人にとっての睡眠は、ここが休息の場ですから、睡眠が非常に楽しい時間になる。だから眠る時間というのは、食べることと違って意味が違いますよね、大人と子どもでは原則としてはね。元気な、昼間の時間を楽しい充実した状態で過ごしている子どもにとってはむしろ淋しい、孤独な嫌いな時間。早く寝なさいと言われるのは嫌いですね。ですからその孤独さを癒してあげる意味で幼い子どもにはお休みなさいをちゃんとしてあげる。あるいは不安を和らげてあげる。孤独を解消してあげるために、側にいて見ててあげる。昔は母親が夜なべをしている姿を見ながらすぐ脇で眠ったものですよね。あれが安らぎでありくつろぎだったんです。

 親の姿を見ながら、親に側につきそってもらいながら眠るのがよい

 自分の個室を早くから与えられ、そこで一人で眠るというのは、子どもにとってむしろ精神衛生は悪いのです。だから大家族の方が良かった。親の姿を側に見ながら、あるいは親に側にいてもらいながら眠るのが非常に良かったですね。本当に自立的な生活ができるようになって初めて個室で、あるいは自分の部屋で眠るというのはいいです。子どもにとって夜は淋しい不安の時間ですから、その不安を解消してあげる眠りのつき方が、いちばんいいと私は思いますね。寝入る時に淋しさがない、不安がないことです。眠ってしまったら不安はないですから、親は離れてしまっていいわけですけどね。食べること、そして眠る時間をどう過ごすかは、子どもの人格形成に非常に大事ですね」。

                               佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より

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2016年07月27日

響き合う心120 父母の役割

 ――父母の役割といった場合のそれぞれの違いがあればお話しください

 両親が子どもに対して与えなければならない役割は必ずある

 「父母の役割という場合に、私は、自分の家庭では父親の役割と母親の役割は分けています。一般的に分けなくてはならないかどうかは分かりません。分けなくてもいい家庭があるかもしれませんし、分けないとうまくいかない家庭もあるかもしれません。これは分からないです。だけど、家庭の中で両親が子どもに対して与えなければならない役割というのは必ずあると思うんですね。かつては、父性的なものとか母性的なものと言われたでしょう。今は母性や父性を否定する考えもあるんですね。私はそれを決して否定はしませんが。
 簡単に違いを言いますと、特別な思想や主義を持ってる人、あるいは価値観を持っている人、これは別ですよ。だけど極めて自然に、ありのままに両親ということを考えますと、こういうことが言えるんですね。

 10か月もお腹において生んだ子どもが、障害のはずがない

 私は心身障害の子どもたちに会っています。1歳半検診等で、子どもが知恵遅れであるとか、自閉症であるとか疑いがもたれます。そうすると保健所とかから私たち専門医のところへ子どもは実際どうなんでしょうと紹介されてきます。そこで診察やいろんな検査をしたり、インタビューをしたり観察をしたりしてその結果、ある一定の障害があることを家族に伝えるのですが、いろんな意味で、一般に自分の子どもの障害に対して強い拒否感をもつのは父親よりも母親の方なのです。それで、こちらが意を尽くして説明すると、それを受け入れたくないという気持ちをもつのも母親なのです。これは厳然とした事実なんですね。そして何年かして、あの時こう言われてショックでしたと言ったり、本心を自由に語れるようになった時に、多くの母親がどういう表現をするかというと、10ヶ月もお腹において自分が生んだ子どもが、障害なんかあるはずがないんだという思いであったということです。どうしてもそう強く思いたいものだと言いますよ。父親にはそういう感情が無いわけではありませんが、母親より弱いことが多いんです。父親にしたって、自分の子どもにそんなはずはないんだっていう思いはいろいろあるわけですからね。しかし、母親と父親とでは全然違いますね。

 母性は父性に比べて子どもに安らぎを与える

 ですから、スタートから子どもとの関係が違うんですね。私はそれを強く思っているんです。私自身は自分でも子どもには子煩悩だと思っていましたね。だけど、子どもが父親に対する対応の仕方や気の許し方と、母親に対する気の許し方、期待の仕方とははっきり違うんです。母親の方にはるかに安らいでくつろいでいますよ。子どもというのはそれでいいと思っているんですね。私は、休日等許す限り、子どもと何かをしているのが好きで楽しくてしょうがなかった。そういう父親を持った子どもでさえ、母親には父親とは比較にならないくらいゆったりと安らいでいるんですね。基本的にいえば、やっぱりそういうものだと思うんです。心身障害の子どもと両親の間だって、そういう違いがあっていいと思ってるんです。でも否定する人もいるんです。母性と父性は別々にあるものではないと。マザーリングとかファザーリングという言葉はやめて、ペアレンティングというアイディアにすべきだって言う人もいる。それはそれで一つの考え方としていいのかもしれません。そういうやり方で、十年二十年と経ったら、家族や親子の様子はどうなっているか分からない。今は実験だと思うんです。だけど私は父性と母性はあるという立場です。
 母性というのは、先ほどから言っているような意味で、子どもに安らぎやくつろぎを与えるものであり、基本的には自分の存在に無条件の誇りや自信を感じることを可能にしてくれる感性を育てる機能だと思っています。どうすることによってそうするかはいろいろあるでしょうが、その原点となるものは、ありのままで良いと思ってやる気持ちでしょう。

 社会的ルールを教える父親、安らぎを与える母親、両方ともないのは問題

 父性というのは社会的ルールを教え、人生のあり方や生き方の理想、価値観を教える。だけど、くつろぎや安らぎを教えるために父親の父性も多いに役割があると思います。それから、社会的ルールとか価値観を教えるのに母性だって重要な役割を果たすと思いますが、多くの家庭ではそれぞれの比重の大きさは違うように思うんですよ。そういうふうに役割の違いが重複するものが部分的にあってもいいと思うんです。両方全く同じ役割を負って、どれくらい子どもは健全に育つか育たないかは、今日の時点ではまだ分からないというべきだと思うんですね。だけど、同じ役割を負うことの方が自然だと思えるペアレンツにはその結果を教えてもらうよりしょうがないです。違うと言う人は違うやり方をやってみてその結果を教えていただく。問題は、その両方ともない、はっきりしないというのがあるんですね。社会のルールを教えない。生きる理想とか価値観を子どもに伝えきれない。同時に家庭に、本当に安らぎやくつろぎ、憩いの場や許しの場を提供できないいわゆる母性の欠けた家庭というのがあるんです。両方ともないという、こういう場合がきっと大いに問題になってくるんだと思うんですね。両親で全く均等に対等に役割を分担しあったり、あるいは極端な場合には、母性と父性を逆に交換し合ってうまくいく家庭もあるかもしれません。でも私は現在のところでは、やっぱり違うと思っているんですよね。
 私は何千組もの両親と会ってきた中で、一般の家庭でやっている母親の役割をお父さんがやって、お母さんは外で働いてかなりの高収入を得ていらっしゃるという二組のご夫婦を知っております。お母さんが外の父親的役割をして、お父さんが家事とか育児とかをしていられるという家庭です。その子どもたちはお母さんにやっぱりべたべたと甘えるんですよ。これを見ても私はやっぱり違うんじゃないかと思ってるんですね。で、お母さんの匂いがいいのか肌触りがいいのか、あるいはそんなものを越えて普遍的に何かもっとあるのか、これは本当に分からないですね。私の子どもでいえば、、例えばレストランに食事に行ったりすると、みんなどの子も母親側に座りたがりましたよ。

 母親が外で働いて、父親が手塩にかけても障害児は母親の方へ行く

 ところがね、少し子どもが大きくなってきた時に長男から順番に、じゃあ僕、パパの側に座ってあげるという言い方をして私の側に来たということがありました。障害児でない子どもの場合には不正直です。悪い意味で言ってるんではありません。ただ努力をして父親を傷つけまいとして私の方に来たりしましたけどね。ところが発達障害児はそういうことをしませんからね。真っ正直で。どんなに毎日お母さんが外で働いて、お父さんが家庭で手塩にかけて育てていても、お母さんと両方揃っている時にはお母さんの方へ行くんですね。違うんですよ。子どもが安らぐとかくつろぐとか落ち着くとかいうようなものは。そういう両親間の役割の違いが、自然に実行できなくなったら、本当に心配だなと私は思っているんです。無理矢理に不自然に曲げてしまうことがね。どうでしょう。」

 ――やはり各々、役割があった方が子どももいいでしょうね。

 児童福祉の施策をやる場合、子どもの意見を聞くように

 「いろんな事やる場合にね、私は子どもの意見を聞いてみたらという言い方をしたいですね。いつだったか誰かおっしゃっていましたよ。保育園では乳児保育をもっとたくさんやれと。それは親のためには確かに都合のいいことなんです。子どもがどう思っているかということをちっとも聞かないで。ある意味で児童福祉に反する。だけどそのために親が苛立って育児がちゃんとできないのだったら、よくないのは分かっていてもより悪くしないために乳児保育すべきかもしれない、ということはありますけど。また別の理由もあるでしょうが、もう少し子どもの気持ちや意見を聞くということが大事じゃないでしょうかね。とは言っても赤ちゃんはしゃべれませんが、けれどもその気になれば、幼い子どもの気持ちを聞くことはできるのですから」。
 
                               佐々木正美

佐々木正美著 人 愛 こころ より

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