山田宗睦氏の著書「日本書紀現代語訳」から、日本書紀と卑弥呼との関係を覗いてみました。
 

気長足姫(おきながたらしひめ)=神功皇后の巻は新羅征伐や百済との交流を中心とする外交記事が非常に多いのが特徴なのですが、この巻に次のような魏志倭人伝と晋書からの参照記事があります。


神功三九年(己未=つのとひつじ)
「魏志はいう、― 明帝の景初三年六月、倭の女王が、大夫灘斗米らを遣わして帯方郡にやってきて天子(洛陽)にいくことを求め、朝貢す。太守郭夏は、吏を遣わして送って京都(洛陽)にいった ― と。」

神功四十年
「魏志はいう、― 正始元年に、建忠校尉梯携(けんちゅうこういていけい)らを遣わして、詔書、印綬を賜って、倭国に行く ― と。」

神功四三年
「魏志はいう、― 正始四年、倭王は、また使太夫伊声者、掖耶約ら八人を遣わして上献した ― と。」
  (中略)

神功六六年
「この年、晋の武帝の泰初二年。晋の起居の注はいう、武帝の泰初二年一〇月、倭の女王は通訳を重ねて朝貢した、と。」
 

卑弥呼や邪馬台国という名称は使われていませんが、内容は魏志倭人伝の記述とほぼ一致していて、この記事だけを見る限り、日本書紀は神功皇后を卑弥呼にみたてていたように見えます。魏の景初三年は西暦239年、正始元年は240年です。また、晋の武帝の泰初二年(266年)に朝貢した女王がいたことを記述していますが、248年頃に亡くなった卑弥呼の後に即位した「台予」にあたると考えられています。
(注:起居注とは皇帝の行動を記述するという意味です。)
 

ところが、このあとに「神功五五年、百済の肖古王が薨じた」という記事があります。書紀の紀年では255年に相当しますが、実際に百済の肖古王がなくなったのは三国志記では375年ですので、この記事は干支二周りの120年ほど年代が繰り下げられていることがわかります。

更に、神功皇后の新羅征伐の記事の最後の部分をみると、「高麗、百済の二国王は、新羅が(日本に)降伏したのを聞き、ひそかにその軍勢をうかがわせたところとても勝つことはできないと知り、今から以降永く朝貢を絶やしませんといった。」とあって、高句麗の広開土王碑の碑文の倭は百済、新羅をともに臣下としたという記述とつじつまがあわせてあるかのように読めます。広開土王の即位は391年(392年ともいわれる)ですから、この記事も4世紀後半を時代を繰り下げて記述されたとみることもできます。
魏志を参照している記事は他の記事と全く脈絡が通じず、1世紀以上時代の隔たる出来事を一つにまとめていることから、神功皇后の実在性を疑わせる理由の一つにもなっているようです。

もう一つみておかねばならないのが、箸墓古墳の被葬者とされている迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)です。書紀では崇神天皇の巻の中で、巫女的性格の持ち主として三輪山の大物主の妻となりますが、大物主の正体が蛇であることを盗み見て、それを悔やんで亡くなったとされています。時代的にみると崇神天皇は4世紀初頭の頃とされる説が有力で、4世紀末ごろの神功皇后の時代よりはるかに卑弥呼の時代に近いと思われ、迹迹日百襲姫命を卑弥呼とする説もあるそうです。
 

書紀の中での卑弥呼の位置づけは非常にあいまいで固有名詞すら出てきません。複数の伝承がある場合は「一書はいう」という書き出しでいくつも併記している書紀の編集形態からすると、「魏志はいう」以外に卑弥呼に関連する記事はないことから、書紀の編纂の時点では卑弥呼についての伝承は何も残っていなかったのではないかと思えてなりません。しかも、多くの中国の史書を参照していながらここだけ「魏志はいう」と極めて具体的な名称を記述しているのはやや奇異に感じます。