
今回、この中で、戦後迄活躍した橘ノ円都について調査しました。
橘ノ円都は、本名池田豊次郎、明治16年生れ。活躍は、明治から昭和にかけてですが、神戸時代が長い事もあり、それほど上方落語界では有名な噺家ではありませんが、戦後若手しかいない上方落語界において、唯一明治から活躍した噺家として、多くの落語家にネタを伝承。米朝や枝雀等の上方落語家だけではなく、東京の二代目小南や六代目円生にも伝承されました。
誕生から落語家になるまで
明治16年3月3日、橘ノ円都は、神戸市の兵庫永沢町という所で長男として生れました。父親(安蔵)は兵庫で代々続く大工の棟梁で、芸事好き、母親も同じく芸事好きで、その影響で円都や妹(妹が三人の四人兄弟)も小さい頃から、浄瑠璃を習いました。
十一歳の頃より奉公しましたが、何れも長続きせず、色々な職業を点々として、二十二歳の頃、素人噺の会に加わり、橘円助と名乗り素人連の座長になりました。
更に翌年、毎日新聞に勤務する伯父に「噺家になりたい」と云うと、桂春団治を紹介してくれたそうです。春団治は、「自分はまだ修行中なのでとても弟子をとる事はできないが、師匠の文団治と所に連れていく」と言ってくれたそうです。
入門は、明治38年の4月という事ですが、38年の1月には、既に高座にあがったようです。
この時の春団治との会話が下記の記事に掲載されました。
●「神戸寄席」 芸能懇話17号
◇第十四回パンフより(昭和33年7月)「円都むかしばなし」(三)はなし家になるまで
大阪へ出て一人前のはなし家になり、故郷へ錦をかざすと大きな広言をはいてみても、格別にええ筋や、つてがあるわけではありません。
その頃、大阪の毎日新聞へ出ていた伯父がいまして、これが中々の粋人で、芸人の出入りも多かったのに目をつけて、何はともあれ、この伯父のところにとびこみました。
わたしの話をきいて、伯父は早速自分が心やすくしていた、当時の春団治をよんでくれました。
「この極道ものの甥がはなし家になりたいというのや」。お安いことで、師匠の文団治に早速紹介しましょうが、この場で一遍聞かしてみてほしいということです。
こっちはずぶの素人でもないつもりで、春団治を前において、おなじみの「東の旅」をしっかりやりました。「……大阪はなれてはや玉造」と、くらがえり峠へさしかかるクダリを喋りはじめると、「ああよろしい」。あとは聞かんでも判ったというわけで、無事合格です。上町の徳井町に住んでいた文団治師匠のところへつれていかれて、早速入門。初舞台が第三此花館ときまりました。……
●明治37年12月28日 神戸又新日報
◆藤田席 来春元日より替る落語連の顔触れは左の如し
団寿、団吉、正六、小正楽、真二、楓橋、三助、団輔、小文、正楽、源氏節美住太夫、浄瑠璃三八&清菊、真生
すでにこの時には、団寿という名前は決まっていたのでしょうか?
何しろ、この「藤田席」というのは、当時師匠文団治が、浪花三友派から飛び出して「大阪三友派」なる組織を作った、神戸での定席です。しかし、神戸まで座員が揃わない為、半分は素人芸人が出演していたのが現状です。多分、まだ正式に入門していない団寿ですが、座員不足の為出演したようです。
さてその後、正式に入門をして、「桂団寿」の名前を師匠文団治から貰い前座修行。初舞台は、第三此花館です。初舞台といっても、所謂前叩きで、客がある程度入ると引っ込むというもの。
新聞(大阪時事)での団寿の初出は下記の記録です。光鶴とあるのは、後の五代目松鶴で、若三郎というのは、後桂米若です。この時は、見習い前叩きから通常の前座になっていたのでしょう。
明治39年7月上席
【浪花三友派】
△永楽館 光鶴、団寿、若三郎、笑鶴、新作、柳寿斎、小円、清国人李彩、文都、可楽、曾呂利新左衛門、若遊三、枝鶴、(指月、残月)、円子、松喬、円坊、(小満之助、小歌、小峰)
明治39年7月下席
【浪花三友派】
△永楽館 光鶴、円[団]寿、若三郎、小円子、松喬、一円遊、(小満之助、小歌、小峰、色葉)、円坊、小円、残月、柳寿斎、円子、福吉、枝鶴、李彩、福三、馬生、可楽、松光
その後、兄弟子桂春団治の世話で、堺の天神席の前座として出演します。
この当時の天神席は、浪花三友派の定席となっていたようで、毎月大阪から何人かの真打が出演していましたが、扇笑、団寿、団三郎等座付芸人がほとんどで、団寿にとっては、大阪の席に出るより、気兼ねのない毎日であったようです。
明治41年1月1日 堺天神金秀席 文我出席控 27丁裏
かつら団寿、かつら小米朝、桂団橘、東家扇笑、円寿、団三郎、文雀、花円蔵、文我、歌之助、文都
明治41年2月1日 堺天神金秀席 文我出席控 29丁裏
団寿、団橘、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、文我、団作、団三郎、柳寿斎、円子
明治41年2月15日 堺天神金秀席 文我出席控 30丁表
団寿、団橘、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、(小米、福吉)、団作、団三郎、柳寿斎、菊団治、文我、松光、大切社頭の松(楽屋総出)
<編者註>「十時の辻占」配役 豊三郎(福吉)松吉(扇笑)舟作(団寿)おかね(花円蔵)金助(団三郎)杉田(菊団治)宗あん(文我)与七(小米)
明治41年4月1日 堺天神金秀席 文我出席控 31丁表
団寿、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、文我、団作、団三郎、一兵衛、文雀、燕太郎、文都
浪花三友派を脱退して旅に出る
明治41年 堺の天神席で前座をしている時、兄弟子団三郎と共に、三遊亭円子の一座に加わります。
明治41年5月1日 堺天神金秀席 文我出席控 31丁裏
団寿(ドロ〳〵)、扇笑、小団、春団次、新作、歌之介、一兵衛(ドロ〳〵)、文我、一円遊
明治41年5月5日 姫路鷺城新聞
◆楽天席の落語好評 竪町楽天席において去る一日より大阪三友派落語大一座にて各自得意の技芸を演じ頗る喝采を博しをれるがその顔ぶれは左の如し
御祝儀(小円)昔ばなし(団寿)東京落語(小円字)大阪はなし(三呑回)はなし顔芸(花円遊)浮世節新内端唄(八十松)大阪はなし舞(円三郎)三味線曲引(柳寿斎)山村派舞(花扇)大阪はなし箱まくら曲(円寿)音曲手踊音楽(墺国人チアレアイブ、印度人サエモン)東京音曲はなしステテコ(円子)清元流行歌浮世節(かほる)
姫路楽天席で興行している時に、師匠の文団治からの手紙が円子宛に来ました。
内容は、団寿を大阪へ返せという内容で、もし従わねば今後円子とは付き合わぬとの事でした。たかが一人の前座の為に、浪花三友派の統領文団治と不仲になってはと、団寿を一座から脱退させます。
団寿は大阪に帰る事はせず、生まれ故郷の神戸に帰ります。この時、兄弟子の神戸の団輔が何度も団寿の家に来たらしいのですが、団輔に文団治から貰った証書を返し、正式に文団治一門から離脱しました。
その後、しばらくして(明治41年)、兄弟子団三郎から手紙が来ます。
団三郎は、円子の一座に加わり、中国地方から九州博多まで巡業しますが、博多で病となり、その後しばらく博多で「三笑」と名乗り、川丈座の座付芸人となっていましたが、再び一座を組織して巡業するので、団寿に十人ばかりを集めて福岡の門司にきてほしいとの事でした。
さっそく、昔の天狗連の連中等を集めて一座をつくり、門司へやってきました。
門司から若松、戸畑、又は下関と廻り、11月には小倉の育成座。その後長崎に行き、正月は長崎で過ごしました。
●明治41年10月21日 馬関毎日新聞
◇旭座(下関) 大阪三友派桂円三郎一座
●明治41年10月31日 大阪毎日新聞
◇東京奇術師松旭斎天一の一行は本日より豊前小倉市常盤座にて開演。同地打揚げ後は若松、馬関等を巡業し、十二月一日より京都新京極歌舞伎座に出勤する由。
●明治41年11月22日 馬関毎日新聞
◇弁天座(下関) 松旭斎天一一座の奇術
●わが心の自叙伝(五)」(のじぎく文庫 昭和48年8月発行)
小倉でのことです。三十円の前金を旅費にして到着してみると、座主が「興行やめや」といいます。理由は、有名な奇術師天一天勝が来ているからだというのです。なるほど、天勝とぶつかっては歌舞伎でもくわれます。談判の末「勝手にせい」といわせたものの、困ったことです。そこでみなが東西屋になって町をめぐりました。三筋というのが三味線、遊枝が太鼓、私が打てもしないツヅミを鳴らしました。
夕方になって一番太鼓を入れてびっくり。どんどんどんどんと客足が絶えません。一週間も大入りを続けたのです。途中、天勝も寄席に来たほどでした。
●明治41年11月18日 福岡日日新聞
◇九州三遊派の初日 博多東中洲川丈座の九州三遊派残月、団三郎等若手一座の落語音曲は一昨夜より開演、初日にも係らず八分通りの入を占めたるは幸先きよし。一座の面々何れも大勉強にて惜気もなく花々しく演じ居れるが、団三郎の落語「小僧の浮れ」は軽き大阪弁にて巧に述べて手踊りを演じ、残月は卓子(テーブル)無しに「義士本伝」を一席読みをなし、次に団三郎初め五人出場して来客よりの借り物を題として即席話をなし、夫より喜劇「秘密箱」に移り、滑稽の中に仁和加と異つた一種の可笑し味を見せて喝采を受け、引抜き七人踊は例の松旭斎天一式の七変化にて所作滑稽、大切の「曾我」は一座総出にて演じ、これまた頗る好評を博したり。
●明治41年12月15日 長崎新聞
◇栄之喜座の残月は木戸無料 昨日乗込みなる栄之喜座の講談師残月一座は、愈々今晩六時より開演するが、初日なれば特に木戸無料にて今晩だけ講演すると。
●明治41年12月18日 長崎新聞
◇栄之喜座の残月一座 再昨夜より開演したる講談、落語、喜劇一座は節季とは云へ、頗る人気ある模様にて、桂団三郎の落語は勿論、七変りは善く、残月の道具掛けにて机も置かず素手にて立った儘の講談振りは却々面白しと云ふ。
●明治41年12月19日 長崎新聞
◇栄之喜座の本日 落語講談残月一座今晩の重なる語り物は、本能寺(団三郎)南京松義士伝(残月)等にして此の外円三郎の七変り及び総出の喜劇もありて殊に団三郎の本能寺は聞き物なりと云ふ。
●明治41年12月20日 長崎新聞
◇栄之喜座の残月一座 好人気なる桂家残月、団三郎の一座、今晩の芸題は
宝の入船(団笑)棒茶屋(小円枝)おこしへり(団三)ねぶか売り(左団次)山猫(遊枝)夏の遊び(団三郎)義士伝(残月)七変化(団三郎)忠臣蔵六段目(総出の喜劇)
●明治41年12月22日 長崎新聞
◇演芸便り▲千鳥座 にては栄之喜座にて開演したる桂団三郎の落語一座、今晩より座替りして開演する由。相変らずの人気ならんが、今回は十銭均一にて早いが勝ちの大勉強なり。
御祝儀宝の入船(団笑)人喰(鯉昇)御立身(小団子)買堀(小団枝)五鳳廻し(喜劇)音曲はなし(左団治)ゆめのあわ(遊枝)辻占茶屋(団三郎)桜の宮仇討(喜劇)