桂家残月
本名、小野菊水。明治7年11月28日、東京に生れる。
残月楼菊水
父は東北五万三千石の某藩の郡奉行をしていたが、維新後東京へ出た。十八歳の時に軍人を志して教導団(陸軍下士官養成機関)に入ろうとしたが体格により不合格となり、ならば弁護士として世に立とうと決心して明治法律学校(後の明治大学)へ入学したが、父が事業を失敗して帰国、学費が続かず中途退学した。その後、吉原貸席彦太楼の支配人をしていた浅草馬道に住む伯父の家に転がり込んだはいいが、すっかり魔界の捕虜となり、自堕落を絵に描いたような青春を送った。その内伯父がわけ合って逐電してしまったため、絶対絶命のピンチとなり、食うためにボール箱製造人となり、大道の果物売りとなって柿や林檎等の果物を背負って「柿はいりませんか、林檎はいかがですか」と景気のよい声をあげて町中を売り歩いた。最後は車夫とまでなり果てたが、やがて伯父と再会して再び居候となった。心機一転、真面目な仕事に就こうと監獄の押丁(おうてい:旧監獄官制で看守長や看守を補佐した下級の職)に勤めた。しかし不幸にも病気のため辞職することとなり、躊躇逡巡のすえ川上音二郎の門弟募集に応募して壮士俳優となったが、思うところがあってすぐに辞め、三代目真龍斎貞水(のち二代目錦城斎一山)の門人となり、残月楼菊水と名乗って釈師の道を歩みだした。それが明治26年の頃である。
講釈師としての初舞台は名古屋の富本だった。「塚原武勇伝」をやったがまったくうけず、あくびならまだしも煙草盆をコツン〳〵と叩いて妨害される始末だった。その後久本亭でもやったが客は一人も来ず、大州の桔梗家という大きな饂飩屋へ奉公して茶碗洗いの日々となった。講釈師として身を立てようと決心した以上、いつまでもこんなことをしていてはいられないと、一念発起して岐阜の今小町にある関本席へ押しかけ、無理やり出演の許可をとり、日清戦争談をやったところ、これが時流に合って大当たりをとり、ようやく講釈師としての第一歩を踏み出した。その後しばらく東京に腰を落ちつけ、時々関東周辺の地方廻りなどをしていたが、明治33年に九州方面へ巡業に出、中国地方から四国へ渡り、更に岡山、津山、鳥取から播州龍野を廻り、明治34年4月に大阪へやってきた。
以上は明治41年6月24日から7月8日まで「九州日報」に七回連載された「残月の身上話」をまとめたものである(当ブログに掲載)。講釈師見てきたような何とかで、どこまで本当なのか、まったく信用の限りではないが、ただ明治34年4月に大阪へやって来たこと、これだけは事実である。
大阪へ来る
明治34年4月10日付「大阪毎日新聞」に「 三友派の定席へ来る十五日より独楽まはしの松井源水と同菊水が出勤する由」とある。また4月15日付「大阪朝日新聞」には「客臘円遊一座と共に来阪して好評を博したる独楽廻しの十六代目松井源水、改良講談残月楼菊水は今十五日より三友派の各席へ出勤し、若柳燕嬢も帰京を見合せて前記一座と共に今く姑らく滞在する由」とある。下図は『桂文我出席控』四冊目・四十八丁裏で、「四月ニハ女燕嬢、駒源水、菊水」とあり、この三人が明治34年4月15日より東区平野町第一此花館、西区江戸堀第二此花館、堀江賑江亭、南地法善寺紅梅亭の三友派の席へ出たことが知られる。
5月1日付「大阪毎日新聞」に「新講談残月楼菊水は本日より藤田伝三郎氏の伝記を講演する」とある。6月は神戸の楠公社内第一湊亭、三宮社内第二湊亭に、7月は京都笑福亭へ出演した。そして8月は笑福亭円篤一座に加わって金沢の新富座と小福座へ出演した。新富座は15日まで、小福座は12日まで公演した。その間に菊水のやった演目で判明したのは「英語の商人、軍事探偵独芝居、軍事探偵南京松、都新聞伊達芸者好の小紫自由演説の弁士、娘演説軍人の涙花嫁の引戻し、娘演舌桐ヶ谷の嫁おどし、朝野開説軍事探偵南京松清国公使館身振芝居、軍事探偵」である。演目紹介が乱雑でわかりにくいが、このころ都新聞探偵実話シリーズが金槇堂から刊行されており、そのうちの『軍事探偵南京松』(明治31年刊)を持ちネタとしていたようだ。
桂家残月
よほど上方が気に入ったのか、金沢から帰って来た菊水は大阪に居ついてしまった。そして講釈師の仲間ではなく、当時三友派のドンであった二代目桂文団治(七代目文治)の身内になり、「桂家残月」と改名し、明治34年9月1日よりの三友派各席の盆替わりの看板にその名前を掲げ、大阪での芸能生活をスタートさせた。文団治もこのちょっと変わった東京者を暖かく迎え入れ引き立ててやった。
明治35年4月1日より京都の笑福亭へ出ていたが、政府の役人を揶揄するようなことを言って前受けを狙ったらしく、5月14日付「京都日出新聞」に「新京極の笑福亭に残月とかいふ者が居る、暗に政府の役人を攻撃して解らずやの喝采を博して居るが、こんなことは余り感服しない」と書かれている。
明治36年6月1日より姫路堅町幾世席へ出席していた時、女房が死亡したという知らせが入り、急ぎ大阪へ帰った。代りに笑福亭松光がスケに入った。『桂文我出席控』第四冊目・十四丁裏に「六月四日ニ残月の家内死去ニつき四日のひるから大阪へかへる。五日より松光は入」とある。
明治37年1月28日から30日まで京都西堀川菊の家で大演芸会が開催された。これに出席した残月は30日に「小松宮殿下御美徳」を演じた。この頃は小松宮彰仁親王(明治36年2月没)をよく講じている。探偵ものと並んで皇室ものも持ちネタとしており、さらにこの年2月から始まった日露戦争は残月に多くのネタを提供し、しばらくは日露戦争もの一色の様相を呈した。
残月の新講談は「動作入立ばなし」と標榜し、ただ立ってやるだけではなく動作まで添えてやった。同年4月25日付「神戸又新日報」に「湊亭 …次は桂家残月の身振り講談だが源氏節の身振り、浮かれ節の身振り、萬歳芝居ときて、今度は講談の身振りとなっては昔の『ご記録読み』から今の『御前講談』とまで価値をあげた先生連は泣くだろう。しかし東京ではギャフンにもせよ大阪三友派に四年も五年も尻をすえられた技量と新派の講談をやるだけは感服」とある。
残月の立ばなしについて二代目桂三木助は「新講談のやうな極くハデな立噺で、一々舞台を歩いて動作によつて見せた」(『ヨシモト』八月創刊号・昭和10年8月)と語っている。
同年(明治37年)7月1日より名古屋富本席へ出演し、日露戦争九連城より南山、得利寺、熊極城に至る実況を演じた。7月3日付「新愛知」に「目下興行中の落語家桂家残月一座は軍人の労を慰むる為、今三日午後一時より五時迄軍人に限り無料にて観覧せしむる由。尚興行中の土曜日曜は軍人に限り総て無料なりと云う」とある。14日で打ち上げ、奈良へ移った。
7月15日より奈良尾花座へ出演した。ここでも日露戦争の講談をやった。7月18日付「奈良新聞」に「さてドン尻に控へたる桂家残月の日露戦争話は先生題して『武装話』と云へり。残月の所謂『武装話』なるものは、能く幾百の聴衆に納得を与るかと危みしに、流石は残月なり。旅順閉塞の講談、有馬中佐出発の模様より天津丸が敵弾雨飛の中に突進する暗澹の光景を眼に観る如くに説き去り説き来り、其間一々形容して面白く遂に座礁するに至る迄巧みに講演にて聴衆を満足せしめしは手柄なり。残月の『武装話』は確かに成功せり、彼は尤も進歩せるハイカラ講談師として成功せるものなり」とあり、この時流にのった新講談はえらくほめられている。
小野残月と改名
同年(明治37年)9月、二代目桂文団治が浪花三友派の席亭と確執を生じ、一門を率いて大阪三友派を旗上げした。残月も客分ながらこれに従ったが、大阪三友派は経営的にも苦戦が続き、またこの分離に対する文団治のごりおしに同調しかねる思いもあり、やがて離脱した。とはいえすぐに浪花三友派へは戻りづらく、12月1日より京都の桂派の席である幾代亭へ出演した。この時「桂家」の亭号を文団治に返上し、本姓を亭号として「小野残月」と名乗った。12月19日付「京都日出新聞」に「幾代亭出勤の(小野)残月と称する講談師は昨夜より某聯隊の帰来将校の実践談を講演せる由」とある。
12月24日、京都の文化人の集まりである嚶々会の百三十三回例会が河原町の能楽堂で開催された。残月はその余興の一人として出演し、得意の小松宮殿下美談を講じた。12月26日付「京都日出新聞」に「次が新講談、小松宮殿下として小野残月丈、羽織袴で登場、突立ち乍ら湯を呑む躰はチト訝(おつ)だが、姿勢を正して演じ出したは下野佐野近傍、参謀演習に高山彦九郎翁の墓参する小学少年を御扶助あつた美談で、日清戦争が搦まり演者の動静声色の抑揚よく現状を模(うつ)し出した時節柄に適応するので、当夜の圧巻とした」とある。
翌明治38年正月より浪花三友派に「返り忠」(復帰)をした。ただ名前は小野残月のままであった。1月25日付「大阪新報」に「浪花三友派より大阪三友派へ脱走したる講談師桂家残月は、今回両派協議の上、小野残月と改名して、この程より更に浪花三友派の各席に顕れ、本紙に掲載中なる日露合戦記を連夜講演して、頗る喝采を博し居れり」とある。
同年(明治38年)7月に和歌山紀国座へ出演した。7月4日付「紀伊毎日新聞」に「…最後は例の残月の日露戦争談、其進歩したるところ喜ぶべだ。此の中に生粋の江戸子弁で以つてなめらかに喋り立つところ垢ぬけてしてよい」とある。
同年(明治38年)9月、大阪三友派は瓦解し、文団治は礼を尽して浪花三友派へ復帰した。先に大阪三友派を離脱していた残月はさすがにバツが悪かったのか、奈良を打ち揚げたあとまた京都の幾代亭へ出演した。二ケ月程居たのち、どう話合いがついたのか、11月1日より浪花三友派各席へ出演し、「桂家残月」の名に戻ることも許された。思えば、文団治のゴリガンに振り回された一年であった。
桂家残月に戻る
明治38年6月21日、俗にいう堀江六人斬り事件が起き、当時十七歳の妻吉は両腕を斬られた。傷が癒えたころ三友派から誘いがあり、11月1日より松川家妻吉と名乗り、相方の妻奴とともに高座に出ることになった。これはたちまち評判になり、いま話題の妻吉を一目見ようと大勢の客が詰めかけた。翌年(明治39年)には京都、神戸、名古屋と巡業し、4月1日より東京の三遊派の寄席へ出ることになった。東京へは二代目桂文之助と桂家残月が同行し、両人が妻吉御目見得の口上を述べた。東京でもたいへんな人気で、同じ時期に東京へ来ていた桂派の三代目桂文枝をすっかりくってしまった。妻吉は6月には和歌山方面へ巡業した。残月はこれにも二代目文団治、二代目米団治(後の三代目文団治)らと同行し、6月1日より紀国座、6月11日より黒江朝日座、6月15日より堺天神席で興行し。これまたどこも大入り満員であった。
明治40年7月、久々に神戸へ行き、1日よりいつもの第一、二湊亭へ出演した。そして7月22日の湊亭の日曜会で「閑宮院智恵子妃殿下」を講じた。翌年(明治41年)正月も湊亭へ出演した。1月8日付「神戸又新日報」の湊亭評に「…新顔の何とかいう落語家が、又もババの話、アア厭だと思つた後が、残月の講談でホットした。得意の広瀬中佐は朝日座を見るが如く背景が欲しかつた。近来残子頗る腕を上げたは事実である」と評されている。
明治41年11月16日より九州博多川丈座に出演した。9月にも博多へ来ており、上述した「残月の身上話」はその時「九州日報」に連載されたのである。その冒頭「皇族方の御令徳を身振り入りで高尚に語り一席毎に必ず聴衆を泣かしめざるなき講談社会の革命児にして、又昨今の当りッ児なる桂家残月が今日兎も角一派の芸風を樹立し真打株として成功するに至りしまでの修養談苦心談」(6月24日 九州日報)なりといささか大袈裟に紹介されている。
この当時、桃中軒雲右衛門が出て浪花節に一大変革をもたらし、日本国中に浪花節ブームを巻き起こした。中でも九州は浪花節熱が強く、座主の扱いもまるで違っていたらしい。そのことを残月は「身上話」で「…講談師社会が保守主義でばかり居つては誠に困るのです。だから浪花節に勝利を占められる。今の所では九州の席主なぞはうかれ節の先生、講釈師の奴位に思ふて居るやうです、……残念ですよ」と語っている。この悔しさが残月が新講談をめざした原動力のひとつとなっていたのだろう。
川丈座のあとは長崎栄之喜座へ行き、12月15日に初日を開けた。初日は木戸銭を無料とした。ここでは珍しく「義士伝」を読んだ。ただし古典物とはいえ、テーブルは置かず、立ったままで演じた。12月18日付「長崎新聞」に「…残月の道具掛けにて机も置かず素手にて立った儘の講談振りは却々面白し」とある。
明治42年4月にも博多川丈座に出演し、「義士銘々伝」「山本海軍大将」「探偵実話」等を講じた。
明治43年1月20日付「東京朝日新聞」に「狡猾同士の懸引」と題して「大阪の落語家桂残月は今度東京に乗込み、講釈師として打って出るに就ては、伯円の名を相続せんとて、八丁堀の住吉亭に楯籠つている伯円の意向を探らしたが、耳を揃えて五百円ならばと吹き立てたに、狡猾にかけては伯円も三舎を避くる残月のこととて、五百円は高すぎると掛合中だが夫程騒ぐ名でもあるまい」という記事がでている。この伯円は、明治時代に大人気を博した二代目松林伯円の弟子で、明治34年に三代目伯円を継いだが振るわず、この頃は逼塞していた。この話は結局オジャンになったようで、残月が四代目伯円になることはなかった。
新柳小歌
新柳(新橋トモ)小歌は東京日本橋の芸妓で、九代目市川団十郎の養子の五代目市川新蔵との間に一子をもうけたが、明治30年37歳で新蔵が死亡、その後女道楽として寄席に出、明治39年5月に大阪へ来て残月と一緒になった。いつのことなのかはっきりわからないが、残月が明治40年11月から12月にかけて小倉育盛座、門司凱旋座、博多川丈座、下関弁天座、広島胡子座、西宮戎座を巡業したときずっと一緒に廻っており、この時にはすでに結婚していたと思われる。その後も小歌は満留吉や喬之助を相方に女道楽を続け、夫婦共稼ぎの高座となった。
明治44年の正月は東京で迎えたが、1月3日付「東京朝日新聞」に「桂家残月といふ男は仲間に響き渡つたヤキ家で、女房の新橋小歌が楽しんで他の男芸人と睦じく話でも交すが最後、突然拳骨をお見舞ひ申して騒ぎを惹起(ひきおこ)す事も度々だが、此間も桂小莚と何か話したとて強(ひど)く例の病を発した所から楽屋では『残月小歌をどやす』とモジつて大に流行らせている。一方残月はまた頻りに揉消運動をやつているとは存外気の小さい奴だ」とある。因みに桂小莚は後の八代目桂文楽である。この時数えて二十一歳。
2月は大阪へ帰った。1月31日付「大阪朝日新聞」に「桂家残月、新柳小歌の両人、一日から久々で三友派の各席へヘイ替り合ひまして」とあり、2月19日に永楽館で行われた日曜会に二人一緒に出て、残月は講談「近代逸話」を、小歌は清元「里の春」をやった。しかしこれが小歌の最後の記録で、月日は不明だが、まもなく死亡した。3月25日付「東京朝日新聞」に「チン〳〵家の残月も女房の小歌が大阪の旅で死んで了つた以来、ぶん撲る相手がなくなり、昨今席へ出てもひどく無常を感じ、情けない事ばかり言つてジメジメしているさうだ」とある。なお新蔵との間に生れた子(本名増田繁太郎)は大正中頃から小残月と名乗り、残月の死後桂(桂家)残月楼と改名し、義父と同じ新講談の道を歩んだ。六代目三遊亭圓生『明治の寄席藝人』(青蛙房・昭和51年)に「おとっつァん(残月)がやったように、立って、テーブルも何も置かずに、その当時の宮様のお話といったようなものを演りました」とある。しかし義父ほと成功はせず、昭和6年前後に若死にしたという。
小歌の死が原因かどうかわからないが、5月に三友派の席を退いて互楽派へ移った。5月1日付「大阪朝日新聞」に「互楽派落語の各席等は従前の外に一日より桂家残月、松平学円、三遊亭小遊三、橘家三好が出席」とある。しかしそれもほんの束の間で、8月1日付「大阪時事新報」に「桂家残月は浄正橋の竜虎舘に一日より出席、大阪の大賊、軍事探偵、怪井戸、古武士等を独演す」とあるのを最後に互楽派を辞めている。そしてこのあと寄席芸人をやめて活動弁士となった。
三友派の日曜会
活動弁士にいく前に、浪花三友派時代に出演した日曜会の記録をまとめておこう。
大阪の日曜会へは明治36年2月15日から44年2月19日まで13回出演したが、その内で演目がわかっているのは38年4月23日の「富家致富噺」、39年6月24日の「探偵談」、同年9月23日の「貴顕の御威徳」、40年2月17日の「毎日新聞所載探偵伊予兇賊」、同年9月22日の「水害談」、44年2月19日の「近代逸話」のみである。
京都芦辺館の日曜会は毎日曜日に行われ、残月は明治42年11月から12月に6回、44年3月から4月に5回出演した。演目は明治42年が「軍人と易者、乃木将軍、忠僕元助、軍事探偵、赤穂記本文、藤吉郎初陣」、明治44年が「近世名士伝、住吉丸、将軍の誉、近世美談(二回)」である。
なお、小歌も明治39年に4回、40年に3回、大阪の日曜会に小満の助、満留吉、小峰らと余興で出ている。京都の日曜会へは明治42年に11月から12月に5回出演したが、すべて残月と同じ日で、夫婦仲良く高座を勤めている。