五代目三笑亭可楽(京の可楽)

 

 五代目三笑亭可楽(京の可楽)

 本名原吉弥。東京の噺家だが、明治の初めに京都に来て、新京極幾代亭の真打を勤めた。東京の四代目可楽(榊原鎌三郎)が明治二年に亡くなっており、五代目として継いだらしいが、その後明治二十二年三月、東京の四代目可楽門人芝楽(平田芳五郎)が五代目可楽を襲名しており、東西に可楽が二人存在することになった。当時はまだ東西の行き来が頻繁でなく、別に大問題にはならなかったようだが、現在はこの可楽は可楽代々には含まれず、「京の可楽」として区別されている。

 桂文我の「蓮盛死出魁 十八番」(明治四十年)は物故した噺家を集めた名寄せだが、その「外の部」の四人目に「おせつ徳三郎 東京 可楽」とある。文我は演題右肩に朱書きで「小さん馬」と書いている。可楽が「小さん馬」を名乗っていたことを伝える唯一の資料で、遡って探してみると、明治八年七月の番付「浪花名所昔噺連中見立」に「人情で西洋作りに笑福亭 黒人屋舗のうつくしき事 笑福亭小三馬」とある。

 その後吾竹と改名したことは明治十七年二月の京都南座落語芝居の番付に「吾竹改め三笑亭花楽」とあることから知られる。吾竹の初出は明治九年正月の番付「三国人気の大寄」の「五竹」であるが、確定し難い。はっきりした資料は明治十三年正月の番付「楳の都陽気賑ひ」で、そこには東前頭八枚目に「西京笑福亭吾竹」とある。また明治十四年に辻村藤三郎が吾竹に入門したとき、笑福亭吾妻と名付けられている。『落語系図』には二代目笑福亭吾竹門人三代目吾竹とあるが、実際にだれの指導を受けたのかは不明である。代数も三代目ではなく四代目吾竹である可能性が高い。

 吾竹から三笑亭花楽と改名し、ややあって可楽と改めているが、その理由もよくわからない。明治十九年五月八日、桂文之助改め二世曾呂利新左衛門の名披露が京都丸山円万楼で行われた。可楽も出席し「紫裏紐」なる落語を演じている。翌年十一月より曾呂利は大阪へ移ったので、その後に可楽が桂藤兵衛と共に新京極幾代亭の真打を勤め、幾代亭の顔となった。芸風は伝わっていないが、東京風の人情噺をやったようで、かなりの力量があったと思われる。

 明治二十二年八月の幾代亭出席が最後の記録で、翌二十三年五月二十日に死亡した。享年不詳。死亡記事はないが、弟子の三笑亭芝楽(師匠が可楽になったとき笑福亭吾妻より三笑亭芝楽と改めた)が、同年十一月に師匠の追福のために石碑を建立したという記事(京都日報)があり、それにより京の可楽の死亡した日が確定できる。また後年、芝楽は上京した際、明治二十八年五月四日に東京の本所本久寺に京都と同じような石碑を建てている。この行為も不可解で、東京に可楽の縁者でもいたのであろうか。

 最後に、京の可楽は『本朝話者系図』の三世可楽(武正可楽・原金兵衛)と姓が同じで血縁関係があるのではないかという説がある。確かに武正可楽は上方とも縁が深く、また若い時に「小さん馬」を名乗っており、何らかの関連があるかも知れないが、今のところ確かなことはわからない。

【参考①】落語家俳優人名番付(明治181223日より京都大黒座)

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〈編者註〉可楽は菅原伝授手習鑑車場の時平、寺子屋の女房戸浪、絵本太閤記十段目の母皐月、傾城曾我譚対面場の五郎時致を演じている。番付には布袋市右衛門も書かれているが、男達五雁金安治川橋段は俄師が演じたので出演したかどうかは不明因みに明治十七年二月一日から三日間行われた京都南側芝居の落語家芝居では恋飛脚大和往来井筒屋の屋治右衛門、新口村孫右衛門五人男東京白浪南郷力丸鬼一法眼三略巻鶴姫を演じている。 


【参考②】明治
231123日 京都日報

◇落語家の義挙 新京極の幾代席に出勤する落語家にて、米山節の名人に此人ありと知られたる三笑亭芝楽丈は、感心にも先に本年五月二十日に死去せれれたる師匠三笑亭可楽丈の追福の為に、専ら石碑の建立を周旋せらしが、該石碑は高四尺余り周り三尺余の自然石に高原院可楽日光信士と金字にて立派に彫刻したる者なるが、昨日愈出来上りたれば、本日菩提処なる東大谷に据付る由。又同丈は該供養として同夜幾代席へ出席の序手(ついで)、来客一統へ何か思付の景物を出さる由なるが、其景物[の]多少は兎も角も同丈が義心に賛し皆さん今[日]はゾロ〳〵と同席へ入ラツシヤイ。

〈編者註〉京都の石碑は現存しないが、東京のは戦災でひどく損傷したものの現存し、「高原院可楽日光信士・明治二十三年五月二十日」と戒名と命日を刻み、明治二十八年五月四日京都芝楽と付してあるそうだ。

 

【参考文献】

橋本礼一「上方で三笑亭を名乗った噺家たち」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)

桂家残月の身の上話

              桂家残月の身の上話
 はじめに

 桂家残月は講談師であるが、明治三十四年に大阪へ来て、七代目桂文治の身内となり、三友派の落語席に多く出演してお馴染みの顔となった。明治四十一年に九州へ巡業に出たとき、福岡県博多の新聞「九州日報」に七回にわたって彼の談話(身の上話)が掲載された。残念ながら我々の欲しい情報は少なく、また当時の芸人の話の常としてどこまで本当かは覚束ないかぎりだが、珍しいということだけを頼りに載せることにした。残月は明治七年生れだから、この時数えて三十五歳である。

 

明治41624日 九州日報

●残月の身上話(一)

皇族方の御令徳を身振り入りで高尚に語り一席毎に必ず聴衆を泣かしめざるなき講談社会の革命児にして、又昨今の当りッ児なる桂家残月が今日兎も角一派の芸風を樹立し真打株として成功するに至りしまでの修養談苦心談は宛(えん)として一部の小説なり。一夕同人より親しく聞き得たる處を記して其の七転八起の経路を叙することゝせり(一記者)

 はア、私の生所(うまれ)と御(おっ)しやるのですか。生れは東北五万三千石の某藩……今更言はぬが花だと思ひまするけれども、父は元と其藩の郡奉行をして居たのです。其れが何時の事でしたか東京に出まして或商業に従事することになりましたが失敗も失敗、大失敗で、其末、とウと帰国せねばならぬことになりました。處で私の志望と云ふのが其当時軍人志望で、どうかして軍人として身を立てようと思ひまして、丁度十八の歳でありました、先づ教導団に入らうと企てましたけれども、如何せん、軍人として最も大切なる体格が不合格と云ふ宣告を受けまして、どうにも斯うにも仕方がない。残念ではありましたけれども、茲に局面転回、弁護士として世に立とうと堅き決心を持ちまして、明治法律学校に入学致したのであります。然るに父の失敗と云ふのが此頃の事で、学校も間もなく廃めねばならぬことになるし、志望も糞もあつたものでない始末となつてしまつたのであります。兎も角私のみは残つて何とか一つ立身の策を講じて見ようと夫取敢(とりあえず)伯父の家と云ふのが吉原近い浅草馬道と云ふ所にありまして、之に居候をきめ込むことになつたのであります。

 伯父も伯父です。真面目にさヘして行けばよいのに、持て生れた性分でもあつたか、遊びにかけてはソラえらいものでして、其揚句が吉原貸席彦太楼の支配人様とは恐れ入つたものですネー。其以後と云ふものは美人の出入が丸で織(おる)が如しとでも云ひたい程、朝な夕なに絶へ間ない有様でした。今日の青年が堕落するだの、せぬだの云ひますけれども、コウなつては中々堕落せずには居られぬです。私も伯父がいけない、コンな所に居つては危いと口には云ひ心には思ふて居りましたが、サテ家を飛び出す勇気はない。危い所には寄りたい、怖いものは見たい、私も亦遂に之が為め此魔界の捕虜となり、申すも愧(はず)かしい失敗と堕落の歴史を画いたのであります。実に女の力は恐しいもので、男の意志は弱いものです。恐(おそら)く学者も君子も之にかけてはいけたものではありますまい。

 

明治41630日 九州日報

●残月の身上話(二)

 ソウです、する内、伯父はダン〳〵いけなくなる、トウ〳〵何處に逐電したか不図(ふっと)其行衛を瞞(くら)まして了ひます。して困るのは私、何んと云つても折角の頼りにして来た伯父には逃げられる、是れ迄は多少なりとも送り来りし学資すらも来なくなる、絶体絶命の場合は茲に決然として独立の事業を企てしむることになつたのです。独立の事業と云へば何うやら大袈裟の様ではありまするが、ナーに少し離れた吉野町で以て「にしめや」を開いたのです。併し慣れないことはせないもので、忽(たちまち)にして失敗の憂目に遭遇し、憐れ「ボール」箱製造人とはなり代つたのであります。其れからは「イガラ屋」もやる、大道の果物売り、車夫と迄もなり果てまして、やる丈けの事はやつて見たのであります。

 して茲に小説的の出来事と云ふのは、或冬の夜の事==寒イ寒イ冬の夜でした、蔵前に車を休めて客を持て居ます、すると向ふからやつて来る一人の客……御乗りなさいと云つて意外は、曩に行衛を瞞(くら)ましました其伯父ではありませんか。私はビッくりしまして、何から話してよいやら、一什仔細(いちぶしじゅう)の話に、結局伯父に連れられ再び居候の身となりました。しかし何時迄も居候と云ふ訳には行かぬ、此度こそは之を機会として一つ真面目な生涯を送つて見ようと監獄の押丁を勤めたのでした。之には色々の考へもあつた事でありまするが、不幸にも病の為めに犯されまして辞職せなければならず、復又一頓挫を来し、躊躇逡巡、何をしようかとためらうて居る時、当時住居を隅田に構へて居た川上音次郎君が門弟募集と聞いて、直に之に走り、外史何かと試験をされて、兎に角門弟とはなつたのであります。之が講釈師となりました前身で、壮士俳優として身を立てようと云ふ私は、又しても或動機のため今は故人となつて居るが、彼の一時名高かりし講釈師一山(編者註:二代目錦城斎一山)の門人となつたのであります。それが二十六年の頃で今が三十四歳ですから講釈師となりまして早や既に十五六年になる訳です。ソウですネ、初めて出ましたのが名古屋で富本と云ふ席……講じたのが塚原武勇伝……自分では余程えらい積りでやつて見ましたけれども聞くものはソウでないです。あくび迄まだしもよいが、コツン〳〵煙草盆をたゝいて妨害を初められる、丸でなつて居らぬと見へます。ソコで楽屋に帰れば御目玉頂戴!叱られる。モウ廃(や)めようか、逃げようかとツク〴〵いやな気になりました。

 

明治4173日 九州日報

●残月の身上話(三)

 一山は座敷が多い。伊藤、黒田、西郷其他毛利、細川等の諸華族から総(あら)ゆる紳士紳商二百有余も出入の邸(やしき)があります。随て席の方は御留守勝ちと云ふ塩梅式で、門弟の生計(くらし)は愈々困難となつて参ります。其れに或時の事でありました、当時電燈会社重役を為すつて居らしつた皆川四郎さんが一山をつれて浅草座に芝居見物と御出懸けになります、自分ばかりは善い気色です。門弟十三人ブツ〳〵不平を鳴らし、悉く破門を申出ると云ふ悲惨な幕……イヤ早や滅茶〳〵でした。私も予ねて不平もあり、況(ま)して此社会の弊風と云ふものが一旦いけないと見られたれば一生いけない、何時まで立つても頭が上らないのであります。ナーに己れでも最早やれぬ事はない、一つやつて見やう、恰も好し、時は日清戦役の際……之をば語り物に一当て当てさせて見ようと此處は反旗を翻して名古屋に脱走し、久本と云ふ席でやつて見ることにしました。予想は全く外れたのです。人ッ子一人聞きに来るものがないとは嘘のようで嘘でないのです。イヤハヤお話になつた話では御座いません。

 これで私の顔が立ちましようか。隠れたのが大州の角に桔梗家と云ふ大きな饂飩屋があるのです、其處に奉公をしまして茶碗、丼の洗方を勤めるのです。併し私もソウ〳〵何時までもグラ付いて居る訳には行きません、最後の決心、講釈師として世に立たうと期してかゝつた以上、久本失敗の為め饂飩屋の洗方位いを以て一生を終るが如き、是れ其男子としての面目でない。且又講釈師たるもの、芸人は芸人に相違はなかろうが、芸人強ち賤しむべきではない、遣り法(かた)如何によりては己れの理想を発揮し、以て世に酬ゆるの道なしとも限らないと云ふ信念が胸にムラ〳〵焔(も)え起つて止まないのであります。

 ソウなつた以上、最早ドウしてもヂツとしては居られない。主人には内々でしたが、岐阜今小町に関本と云ふ席が御座りまして、其處に手紙を宛てゝ其旨を通じ、先づ乗り込むことゝ致したのであります。浴衣と云つたら垢で煮しめたボロ〳〵兵児帯、自分ながら愛想の尽きるよう乞食も同然です。席元の驚きも無理ではありません。見たばかりで断はられたのであります。私もヅウ〳〵しいではありませんか、稟として動かない、是非にと嘆願致します。スルと漸くやつて見ようと開場になります、物は判らないもので、此れが大入り大当り大萬歳……聞くもの山をなすと云ふ有様でした。此れで初めて私の込めた精神が届いたのです。モウ〆たもの威張つたものです。人は能く運は天に在るとか申しまするが、天にばかりブラ下つて居るものではありません。矢つ張り自分の精神に在る、精神の込めかた如何にあると思ひました。

 兎も角、岐阜の旗揚げは大成功です。併し之は決して私の芸が上手と云ふ訳ではなく唯だ其語り物が時代に適した日清戦争談と云ふので、日清戦争談其ものが呼び物になつたのでありましよう。十五日間は毎晩札止めと云ふ盛況でした。材料は東京の読売新聞から抜いたのでありましたが、今から考へて見ると随分駄法螺も吹いたものです。

 其れから其付近七八ケ所も興行しまして飛騨の高山に参りました時の事です。突然なことには東京から伯母が大病だとの電報に接しましたので余儀なく帰京をすることに致しました。其時は大分金も持て帰りました。其後といふものは暫く休業と云ふやうな訳で亦々或学校へ通ひまして聊か勉強して居たので御座いますが、さう〳〵長くは学資が続きませず、其れに又友人仲間からも勧められるので東京を後にして目指したは信州上州野州の辺で一人で興行して廻つたのです。幸(さいわい)な事には到る處に好評を受けまして殊に野州の佐野、足利辺では二十年来斯んな名人は来たことがないなんと云ふ噂が立つたさうです。なあに芸人は上手も下手もなかりけり、行く先々の水に合はねばとは此事でしよう。

 

明治4174日 九州日報

●残月の身上話(四)

 ソレからが九州廻りでしたが、其時は東京の落語家連中と共々で、前の成功に引き換へ失敗も失敗も情けない目にあつたのです。丁度三十二年でしたらう、をまけに熊本では虎列刺と云ふ厭な病に取り付かれ、或義人の為めに助けられて漸く全快はしましたが、七十日の間と云ふものは丸で動きが取れなかつたのです。

 忘れもしません、柳河の芝居小屋に買はれて行た時……考へると話にもならない洗ふが如き貧乏……兎に角私が一人で五席を読み、ハマリましたは笹野孝子伝で初日からの大入り……是でマア一息つけたので旅費も出来たし早速東京へ帰る筈には致しましたが、サア斯うなると凡夫の浅間しさで最(も)一つやつて見たくなる、やつて当ればよいが当らない事が奇妙……失敗に失敗を重ねるのです。遂々(とうとう)九州は夜逃げ同様に出て中国から四国へ渡り、更に岡山、津山、鳥取等を歩きましたのです。何處に行つてもいけない、益々いけなくなつて来る、一行十一人丸で乞食旅行と云つても宜しい。

 鳥取から播州龍野へ出る途中の如き、夫れは〳〵惨憺たるものです。雨は降る、傘はなし、テク〳〵歩く其ざまと云つたら云へたものではなかつたのです。开(そ)して丁度千鶴と云ふ駅まで来ました時でした、或茶屋の縁先に土方の請負師らしい男が二人で酒を飲んで居まして、私共の此姿を見「何ンだらう?乞食じやないか知ら」とさゝやいている声が聞へました。血気盛りの私はムカ〳〵して堪りません、突然其家に這入り「オイ失敬な事を吐(ぬ)かすな、俺は天下の記録読みだ」「ナニ記録読み?記録読みとは何ンだ!」「天下の講釈師だ」。二人は吹き出しまして「フン芸人カ」。私は益々癪に障はりましたから「身体はボロを着て居ても腹には錦を着て居るのだ、礼儀は知つて居る、貴様達の如き失敬極まる者ではない」。スルと彼等は益々冷評しまして「イヤドウも天下の大先生大きに失敬致しました、ソンな先生なら一席聴かして貰はう、吾々はドウせ田夫野人だから大先生の講談を拝聴したら嘸や為めになることだらう」……つまり揶揄(からか)つて居るのです。余り残念ですから得意のものをやつて一つ驚かせてやらうと思ひました。「ヨシ聞きたければ聞かせてもやらうが、僕の講談は普通の講談ではない、先づ得意とするのが皇族方の御美徳談其他勤王家名士の伝記等であるが、君達にわかるか」「聞いたらわかるだらう、聞いて分明(わから)なければ其方が下手か、此方が聾(つんぼ)なんだかなんだ、アハハ……」私は愈々堪りません「ヨシ一応君達に耳の正月をさせてやらう、併し土間や門口では厭だ、座敷を清めて案内しろ」「其處でやつて呉れい」「馬鹿な事を云ふな、軒下に立つて皇族方の譚(はなし)が出来るか、貴様達も大和民族だらう、皇族の尊い事は知つて居るだらう」。彼等二人も行きがゝり上、止むえお得ず茶屋の女将に交渉して奥座敷へ通しました。一行も面白半分中へ〳〵とゾロ〳〵這入つて参ります。

 

明治4175日 九州日報

●残月の身上話(五)

 私は濡れた衣物(きもの)を其まゝに床の前に立ちました。彼等二人「サア天下の大先生、やつて呉んネー」「やる、やるが小松宮殿下の御譚(はなし)だから帽子を取れ、安座(あぐら)はいけない、正座しろ、煙草を吹かせてはならんぞ」。先刻からの遺恨晴らしに大きな意気をふきかけて遣りました。彼等も皇族方の譚と云ふので仕方なく帽子を脱し正座しました……、やりましたネ、ソラ熱心にやりました、尤も口惜しさまぎれです、例の殿下の御美徳を講じましたのです。スルとサア大変で涙ボロ〳〵出して聞いて居るです、実に可笑しいではありませんか、私此時思はず「君達も矢つ張り涙があるネー」とやッつけて遣ッたのです。彼等も存外正直ではありませんか。「ドウも恐入りやした、失敬でした、ドウか勘弁してお呉れ」と申すではありませんか。之れで私も留飲が下り、乞食と間違へられた汚名も雪(すす)げた訳です。二人の者は篤く一行を取り持ちました。尚其付近のものが二三人やッて参りまして、二三日でよりから講演して行つて呉れと頼むものですから、別段先を急ぐと云ふ旅行でもなし、此方も丁度旅費が無くて困難の折柄ですから早速承諾しまして三日程此地に滞在し、或共同の座敷に講演を致しました。土方の親分も毎夜三四十人の子分を連れて聞きにやッて来て居りました。コレで先づ龍野までの旅費は十分に調達することも出来たし、四日目の朝、一行は勇しくも車で以て乗り込むことに致しました。何が幸になるか知れません。コウなると何となく景気付いて、龍野の興行も存外大当りでした。

 ソレからは姫路をうち、尼ケ崎へ赴き清水座へ乗込みました。處で亦々癪に障つたのは席主の言葉です。「誰が此座長です」「僕です」と答へると妙な顔して私の姿を眺めて居りましたが、太夫元をヂッと小蔭へ呼び「アンな書生が座長では覚束ないじやないか、大切は仁和加でも総出でやッて貰ひたいなア」とやつて居るではありませんか。之を耳にした私はモウ気がクシャ〳〵してなりません、エー席主も糞もあつたものかと大喝一声「コラ、失敬な、御前は俺れの講談を聞いたことがあるか、いやならよせ、大切に仁和加をやらなければ聴衆に満足を与えへることの出来ないやうな講談師じやないゾ」と気焔万丈……席主を一言のもとにやりつけてやりましたが、心中では中々心配でなりません、云ふは云ふたが、若し其芸が幸にも能くハマれば宜いが、客からカスでも喰ッたらニラミが利かない……其夜一生懸命軍事探偵南京松の発端をやつたのです。天祐か是れ大ウケの様でした。スルト閉場の後、席主がやつて参りまして、明夜から大切に二席づゝやッて呉れいと申出でますではありませんか。私も皮肉に大切には仁和加をやりましようと苦笑してやりました。其後も屡々其席から出演を申込んで来ますけれども一回も出ません……私は元来チト変物(かわりもの)の方でいけません、芸人は兎角八方美人がよいのです。

 

明治4177日 九州日報

●残月の身上話(五ママ

 それからですか……それからは大阪へ参りました。初めは天満や塩町なぞの派席(はせき)に出席して居ましたが、幸に落語界の名物男桂文団治氏が社中となり定席へ出勤せよと再三再四の勧めで三十四年から浪花三友派へ加入致しまして真打格となり多少の人気を得て居り舛。全く文団治氏の引立です。

 東京ですか……東京には一昨々年中昇りをしました。大阪に比べますと芸は東京の方がやりよいのです。ナゼと申しまするに、大阪は客に辛抱がない、落語でも講談でも先づ本文にかゝる前に仕込といふ事があり舛るが、それは大略の順序を述べて、そしてイヨ〳〵人物を出すのです。其人物を活動さす迄にモウ欠伸です。一人が欠伸をすると他の客がソレに賛成して欠伸が伝染する。其れが中流或は中流以上の客です。東京は大に違ふのです。気の早い處に似合はず仕込を能く聞いてくれます。ソウして欠伸でもすると他の客が直きに制して呉れ大切まで落ちついて聞いて行きまする。東京は遅く来て遅くまで聞き、大阪は早く来て早く帰る。可笑しいようですが、東京の席は平民式で大阪の席は貴族式……一寸考へるとソウでなさゝうでソウなんです。東京の席主は職人風、侠客風で、大阪の席主は前垂の算盤式です。東京は芸人には座敷の多い所、大阪は至極少ない、東京の楽屋はズボラで大阪の楽屋は厳重です。東京は歩合で大阪は月給制度。丸で反対です。

 私の動作入立ばなしは東京ではめづらしいので人気を得まして毎年三ケ月づゝ出席の約束が出来て居ります。皇族方、紳士方へも講談に出ましたが、私は一体平民の娯楽と云ふを主義と致して居り舛るから、仰々しく某々殿の御前、何々の御席云々と表示しません方です。

 軍隊へも沢山出入致して居ります。騎兵二十四聯隊、歩兵八聯隊、土佐の四十四聯隊等は最も御愛顧を得ました。大阪神戸の小中学は皆々御出入致しております。

 材料の八九迄は新聞記者先生より得まするが、まだ〳〵修業中で未成品の講談ですから一生懸命研究致して居ります。若しあなたがたに於きまして此講談の改良と云ふ事に付き何か御考でもありますならば是非に御教示を願ひたいものです。トテも昔風のやりかたや普通の事では衰退するのみでありまする。西洋音楽と調和して琵琶でなし、うかれ節でなし、講談でなし、上るりでなし、一種不思議な者をやらふと考へて居り舛。せりふの対話などは写実にして文章丈け読むでなし、唄ふでなし、自然と出る天真爛漫と云ふ様な読方……先づ仮りに「一句は一句と弱りゆくあはれ秋野の虫の息……」とある、これを普通の詞で述べては至つて趣味に乏しいものですッて……何とか詩的にシャベリたい、詩的にして口舌にすると、どうしても音楽の調和が必要となる、だと云つて西洋音楽のみでは時代ものゝ時に困る、して見れば矢張り日本音楽も入用である。斯くて高尚に〳〵優美に〳〵勉めて居つたら講談も大改良の出来ないことないと思ひます。今日のように講談師社会が保守主義でばかり居つては誠に困るのです。だから浪花節に勝利を占められる。今の所では九州の席主なぞはうかれ節の先生、講釈師の奴位に思ふて居るやうです、……残念ですよ。

 

明治4178日 九州日報

●残月の身上話(六)

 研究〳〵、芸術の為めに戦死すれば本望と心得、日夜其工夫を凝らして居る次第で御座ります。

 第一は読物ですネー。読物はやッぱり時代物がよいようです。軍談としては太閤記、源平盛衰記、楠公記、騒動物は加賀、黒田、伊達、越後などは読んで居つても心持が宜しい。けれどもむつかしいです、騒動物二下題(ふたげだい)もやると(ソンな取り合はせはありませんが)原田甲斐も大月蔵人も同じ人物になり終るのです。併し講談師としてはドウしても時代物をやらなければ口が解けません。

 と云つて当時の事ですから旧物許りでもいけない、矢張り新物もやらなければいけません。新物と云ふても流行の恋愛小説なぞは失礼ですが感心しません。水蔭先生や柳浪先生の作物は面白い講談になり舛。二三年前でした、西国立志編の一節やグラツドストン、ビスマーク、ワシントン、ナポレオン、ヂスレリーなぞ云ふ名士の伝記をやつた事もありまするが、サツパリ聞いて呉れません。ソウでしよう、私が維新の三傑と云ふ講談を読みまするが、西郷先生の伝は喜んで聴きますが、木戸、大久保の両公になると欠伸する客が多い。なさけないではありませんか。ソレが亦不思議にも皇族方の御令嬢談になると面白くなくとも辛抱して聞く……御客と云ふものは制し能くして制し難く、制し難くして制し能いものです。

 此間も久留米の慈善会の折、皇族方の御美徳談を講じて居りますと、東の二階桟敷に居りました中等教育を受けて居る学生がアーアンと大欠伸をしてゴロリと寝転びました。がコンな者に聞かれては講釈師も助かりません。同じ九州でも一ケ月程前熊本の大和座で此講談を読みました時には入場の学生方は申合せた如く正座脱帽して謹聴して下さいました。其時は私余りに嬉しくて泣きました。楽屋に這入ると師団の将校方が三人御出になつて大に御賞美下さいました。而己(のみ)ならず明夜は家内のものよこすから今夜の講談を必ずやつてくれと迄の御詞を戴きました。コウあつてこそ私の芸人となつてからの志望が遂げられるのです。

 今回は御当地教育会が御発起になつて盲唖学校御設立の為め慈善演芸会御開きとの事に付きまして応分の御力を尽したいと思ひまして熊本から万障差繰つてやつて参つて居る次第で御座ります。余り御しやべりを致しまして失礼で御座りました。(完)

 

三代目桂文吾

 三代目桂文吾

 『落語系図』には初代桂文枝門人とあるが、「文吾」は初代林家延玉(二代目文吾・明治七年没)の前名で、三代目を名乗るからには何らかの関係を有していたと考えられる。それが証拠に明治十三年十月に初代林家延玉の七回忌法要を営み、順慶町井戸辻の席にて追善の大寄せを催している。そしてこの法要の前後に「延玉」と改名したらしく、明冶十三年十一月「浪花の見物自慢三幅」には「大三十日浮れ掛取 林家延玉」とある。しかしこの改名は短期間で、また元の文吾に戻っている。林家一門からクレームが出たのであろう。或はこの時名古屋に「林家延玉」がおり、明治十三年一月の番付「楳の都陽気賑ひ」では東前頭五枚目にあり、西前頭二段目四枚目の文吾より遥か上位に位置する。また初代延玉は伊勢桑名の生れで名古屋で長く活躍した人で、通常とは逆に名古屋からクレームが出た可能性もある。

 家業は酒屋で、山寺という看板を出していたので「山寺の文吾」と綽名された。桂文我の「蓮盛死出魁 十八番」(明治四十年)によると、文吾の得意演目は「山寺」とある。これは噺ではなく俗曲の「山寺の和尚さんは、鞠は蹴りたし鞠はなし…」を歌舞伎役者の声色などを交えながら唄うもので、本人も山寺の和尚さんよろしく、坊主頭であったらしい。これが有名となり、家の看板にまで「山寺」と書いて出したのかも知れない。出番はいつも中軸で、トリを取ることはなかった。

 噺家としての評価とは別に、性格は円満で世話好き、会の開催、年忌の執行、喧嘩の仲裁等仲間内のことはなんでも引き受ける面倒見のよさがあり、連中から落語家の取締役に選ばれている。明治十八年に落語の向上を目的に落語研究会(落語裁判)を企画し、自ら議長となって大阪、京都、神戸の寄席で実施した。昔の落語相撲の変形だが、演者に自覚を促し、もって落語の改良に資するものとして識者からは一定の評価を得た。また若手の指導力にも優れ、二代目桂文三、三代目桂文都、四代目桂文吾、三代目笑福亭円笑など彼の一門から巣立って名人、上手になった噺家が多い。

 明治十八年の末に二代目文枝と文都の間に確執が生じ、文枝が法善寺の席を追われた時、文吾は文枝に従った。しかし翌年四月、文枝のもとを離れて初代文団治一座に移っている。こうした場合、師匠に名前を返上しなければならないが、かれは文吾を返上し、林家延玉と改名した。よほどこの名前に執着があったようで、ある意味念願が叶ったのであるが、それも束の間、この年大流行したコレラに罹り、五月十七日に死亡した。「桂文我出席控」には「文吾事延玉 コレラニて死す/五月十七日 桂文吾 悪病(コレラ)ニてしぬ」とある。あれだけ新聞紙上の雑報欄を賑わした名物男としては、死亡記事が一行も出なかったのはさぞ不本意なことであったろう。享年不詳。明治三十年五月五日、三代目桂文三が天王寺区の寿法寺(別名紅葉寺)に文吾の石碑を建立している。 

四代目林家正三

 四代目林家正三 

 本名林正三。二代目林家正三(二代目林家菊枝)門人。竹枝から林家の名門四代目正三を襲名し、のち三代目菊枝を継いだ。

 安政年間と云われる番付の中段に「林家竹枝」とあり、明治に入り三代目正三が正翁と改名して近江八幡に移住したのち四代目正三となつた。竹枝時代にも大津絵の唄本(幕末頃)を出しており、明治四年と推定される大津絵節の一枚摺「未とくじら 大津画ぶし」には林家正三作とあり、この時すでに改名していることが分る。

 明治八年一月改版の番付「三国人気の壽」には中央に「林正三」とあり、同年の「浪花名所昔噺連中見立」には「達引にあとへはよらぬ米かわに ちからいつぱい正三堂島 林正三」とある。この頃、落語家仲間の総代を勤め、寄席組合の総代にも名を連ねている。正三がいつ菊枝となったか不明だが、明治十三年の番付「楳の都陽気賑ひ」には東の大関に「林菊枝」とあり、上方落語界の最上位に置かれている。

 これほどの噺家に拘らず、不思議なほど記録が少ない。これは推定だが、明治五年前後に林家一門が菊丸系と正三(菊枝)系に分裂したのではないかと思われる。そして奇妙なことに傍系である菊丸系(二代目菊丸、花丸、初代染丸ら)が林家を、正統の正三系(正三、正楽ら)が林を名乗るという不自然な事態が起きている。また名古屋限定とはいえ水野鎌吉に林家正三の名乗りを認め、さらに林菊枝を継いだのち、弟弟子の菊助(二代目菊枝の忰)が京都で林家菊枝を襲名するという不体裁なことを許している。

 四代目正三は噺は上手だったが、人気がなく、客を呼べなかった。また性格がおとなしく、闘争心がなく、人付き合いも苦手で、所謂頭領としての器ではなかった。それが林家一門の衰退を招く原因だったとされる。『落語系図』には二十四名の門人が列記されているが、五代目林家正三を除けばこれといった噺家は生まれず、のちに名をなしたのは三代目桂文団治、桂歌団治など他派へ移った連中である。

 「桂文我出席控」(第二冊)によると、明治十八年九月一日より三十日まで京都幾代亭に出演し、切席を勤めたが、文我はその出番表に「林正三」と書いている。菊枝と改名したのち明治十三年九月に弟子の正楽(福田宗太郎)に五代目正三を襲名させたが、菊助の菊枝に遠慮してか、その後元の「正三」に復している。通常考えられないことであるが、福田の正三は仕方なく五代目を返上し、宗太郎、九蝶、春好と名を替え、明治三十年代に改めて五代目正三を継いでいる。

 林家の総帥四代目正三は、明治十九年四月五日、この年流行したコレラに罹って死亡した。「桂文我出席控」第二冊・二十丁表に「四月五日 林家正三 神戸ニてしぬ」、二十丁裏に「正三事戌の年ニ神戸ニて悪病ニて死ス」とあり、これが四代目正三の死亡を伝える唯一の記録である。「莨の火」と「妾の馬」が得意演目として記録に残る。

 

〈参考文献〉

荻田清『上方落語 流行唄の時代』和泉書院・平成二十七年(2015

橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成二十八年所収)

初代桂文団治

 初代桂文団治

 本名鈴木清七。天保十四年(1843)生れ。本業はかもじ屋で、素人落語の連中に加わって米丸と言い、半面を付けて高座に上り、三味線を弾いて人気を取った。明治の始めごろ、初代桂文枝(明治七年没)の門に入り文団治と改名した。文団治の名は懇意であった歌舞伎役者の初代市川右団治に因んで名付けたという。かれ以降上方では「~団治」と名乗る噺家が多数輩出し、今日まで続いているが、その始まりは文団治からといってよい。

 よく同時期に入門した文三(二代目文枝)、文之助(曽呂利新左衛門)、文都(月亭文都)と文枝門下の四天王と称されるが、文団治は師匠や門人たちとうまくいかなかったのか、早くに一門から抜け、平野町御霊社裏門に自を設けるなど独立独歩の道を歩んでいる。噺家としての実力、人気ともに抜群で、「当時当地に於て落語の売出し隊長とも人に云れる桂文団治で御座るが、此頃は御霊神社の席より天満天神池の端、松島天神前の席其他処々方々の席より拽張凧(ひっぱりだこ)」(大阪朝日新聞・明治12219日)とある。「三枚起請」「妾通い」など茶屋噺が特によかったといわれ、明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」には「いろ〳〵とすいの中にもすいの有 難波新地の青楼の賑ひ 桂文団治」とある。また「米揚げ笊」などの新作も作った。

 噺家としての名声が高まる一方で、儲けた金で人力車を十挺余り買求めて貸車商を始めたり、今宮に立派な席貸塩鯛亭を開店したりして蓄財にも大いに励んでいる。性格は傲岸で、その身勝手な振舞に高弟の米団治(のちの七代目文治)も一門を去ったが、初代文枝と兄弟弟子にあたる桂慶枝が老年になり、法善寺の席を追われた時、彼を引き取って自席に出演させるという義侠的な一面もあった。

 明治十三年四月に師匠文枝の七回忌法要があったが、文団治は列席していない。その席上、文三に二代目を継がせることが決まったが、明治十八年の末に二代目文枝と文都の間に確執が生じ、翌年二月から法善寺の東と西に席を並べて競争するという事態になった。この勝負は東の二代目文枝が勝利し、敗れた西の席主は挽回策としていま人気絶頂の文団治を雇い入れた。二代目文枝に対抗できるのは文団治しかないと見込んだのである。この席主の勝手な行為に反発した文都らは大挙して法善寺の席を抜けるという挙に出た。しかしこの騒動は九月十四日、文団治がこの夏に大流行していたコレラに罹って急死するという結末により終息した。享年四十四。誠に惜しむべき早世である。法名は啓文院清進日昌信士。墓所は遊行寺。

 なお『大阪日報』に「日ごろ塩鯛と綽号をされしだけ殊に目を窪まして」とあるところを見ると、「塩鯛」という彼の綽名は眼窩のくぼみから出たもののようである。

 

【参考①】初代桂文団治氏肖像 『落語系図』82

桂文団治 001

【参考②】初代桂文団治の死亡記事 

明治19916日 大阪日報

◇落語家の刺病 大坂落語家の師匠株夫の桂文団治は去る十二日の仲秋に無月なりしより翌十三日の十六夜に観月の宴を開き、仲間の者を呼集めて終夜の飲と洒落けるが、あまりに酒量を過せし故か、翌十四日午後より俄に吐瀉をはじめ、日ごろ塩鯛と綽号をされしだけ殊に目を窪まして同夜遂に亡くなりしよし。
明治
19916日 朝日新聞 

◇文団次死す 当地の落語家にて一二と呼れし桂文団次、本籍西成郡今宮村百六十二番地鈴木清七は、一昨日午前八時頃俄に吐瀉を発したれば、早速医師に診察を乞ひしに、急性腸可答児(カタル)なりとの診断(みたて)にて、天王寺検疫支部へ届出たるを以て、検疫委員出張になりて診察せし処、少し虎列拉の兆候あれば服薬(くすり)を与へしに、これを服(のめ)ば忽地(たちまち)拉病になるとて更に服用せざるを、段々説諭(ときさと)し、漸々本人には承知させたれど、妻は猶之を拒み、薬を奪て服用させざるを、猶さら説諭して服用させ、且虎列拉に変ずるかも知じとて更に薬を与へて引取りたり。然るに文団次はその後薬を服(のま)ず、旁々(かたがた)するうち遂に虎列拉に変じ、同日午后三時、四十四才を一期として死亡せしは彼等が仲間の為に惜むべきなり。その発病の原因は観月の客に招かれ多分の酒を呑しより発したるものならんといへり。


【参考③】
明治1994日 初代桂文団治最後の看板(「上方はなし」二十三集)

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〈編者註〉林家染丸の下に「初代」とあるは誤りで、これは後の三代目桂文三である。文三は明治十八年の末から二十二年頃まで染丸を名乗っている。しかし現在は染丸代々には数えられていない。

露の五郎兵衛を名乗った噺家(一)

露の五郎兵衛を名乗った噺家

 

  はじめに

 平成17年(2005)に露の五郎さんが二代目露の五郎兵衛を襲名し、10月に披露興行をされました。露の五郎兵衛はいうまでもなく江戸時代に京都で活躍した噺家で、上方落語の祖といわれています。ところで、ほとんど知られていませんが、明治23年(1890)にごく短期間ですが、露の五郎兵衛を名乗った噺家がいました。それはどんな人物なのか、今回はそれを紹介したいと思います。

 

≪三遊亭円喬の登場≫

明治17921日 京都滋賀新報

講談師大発奮 此程長崎に居りし三遊亭円喬と云ふ講談師は、仏清戦況の実地を目撃して高坐に述べんと思立ち、去る十三日同地発の郵船にて上海へ渡航したるよし。

明治20215日 日出新聞

京角座の演説 明日午後七時より道場芝居にて催ふす演説者永瀬徳久といふ男は、熊本県士族にて支那へも折々渡航し、今度東京より来りて一場の演説を試みるとの触込なるが、其演題へ演劇改良の利害を論ず、又日清両国水兵事件結局に感ありの二題なりと。

明治20224日 中外電報

三遊亭円喬 東京の落語家三遊亭円喬は、一昨夜より新京極幾代席に出席する由なるが、中々評判よくして意外に大入を占むると聞けり。

四代目三遊亭円生は明治8年に三代目三遊亭円喬と改名、明治15年四代目円生を襲名します。四代目円喬は明治20年に襲名、橘家円喬を名乗ります。この円喬はそのどちらでもなく、明治十年代には政談演説をやっていましたが、官憲の目を逃れるためでしょうか、落語家の鑑札をとり、勝手に三遊亭円喬を名乗りました。もちろん円喬代々には含まれていません。本名は永瀬徳久。俗に永瀬の円喬と呼ばれています。このころは時事講談のようなものをやっていたようです。

 

≪三代目三遊亭円生と改名≫

明治20721日 神戸又新日報【広告】

改名広告 私儀是迄楠公内噺席へ出席仕居候、然ルニ今度東京表師匠三遊亭圓朝ノ勧メニ任カセ三代目圓生ト改名仕候間、此段広告仕候也/圓喬改メ三代目三遊亭圓生

明治20721日 神戸又新日報

三遊亭円生 本日の広告欄にある如く、常春来楠社内定席に出勤せる東京落語家三遊亭円喬は、此度師匠円朝の勧告により、前人の跡を継ぎて三代目円生と改名したるよし。同人は三遊亭連中にても若手の花形にて、前年清佛戦争の際、福州に渡りて親しく戦地を一覧し、帰路朝鮮にも立寄り、其後九州辺に久しく滞在して、修行旁腕前イヤ口前を顕し居り、當港に来たりてよりも既に半年余に及びたるを以って、来る九月頃には一応帰京のうえ改名の披露をなす積なりとか。因みに云う、同人が品行に関し此程云々の噂ありしは、別に取留もなき浮草の根無し言なりとのこと。(後略)

広告まで出して円生改名を宣言しましたが、三遊亭円朝の勧めなどはなはだ怪しく、関係者から苦情が出たのでしょう、すぐにもとの円喬に戻っています。もちろんこの円生も正式な代数には数えられていません。


≪三遊亭円喬に戻る≫

明治201028日 中外電報

円朝の門人なる円喬は今度東京より来り新京極笑福亭に出席し、改良人情続物語といへる一枚看板を掲げ、得意の滑稽人情話しをなし居れり。

明治20115日 日出新聞

幾代席と笑福亭 新京極通りの落語幾代席にては過日真打の曽呂利新左衛門(桂文之助改め)が大阪へ赴きし以来、元呉竹と云ひし可楽が真打となり、外に桂藤兵衛とこれまで笑福亭に出てをりし吾妻こと改め芝楽の一座が昼夜張扇子をパチ〳〵させて勉強するゆゑ、昨今は至極評判よろしく、次に笑福亭は当時東京の円喬が人情噺しを演じをり、是亦た存外の好評なりといふ。

明治2111日 日出新聞

◇笑福亭にて三遊亭円喬、福松、円光の一座が昔し噺しをなす

明治21725日 金城新報

講談の披露 三遊亭円喬(東京)、笑福亭円光(大坂)、笑福亭木鶴(西京)以上三府講談師の初目見得にて、尚笑福亭柳橋、同木蝶、桂米か子等の前席者を添え、近日より富澤町の富本座にて開演する事なれば定めて大入を占めむるならんと云う。

 

≪露の五郎兵衛を名乗る≫

明治2351 京都日報

幾代席は桂藤兵衛一座へ東京三遊派の錚々四代目円生と門人円太、円輔、清元佐賀蔵が加はり人情続き噺し。因に云ふ、此円生は三遊亭円朝の門人にして以前は円喬と称し、三代目円生死去の後ち其芸名を継ぎ四代目円生の名を相続せり。滑稽の軽口は勿論人情物が得意なり。

明治23511 日出新聞

笑福亭 相変らず人気沢山な新京極笑福亭では、今度小満之助こと四代目都々一坊が一枚加つたので一層の大入を占たるが、何しても婦人は愛嬌があつて仕合せなものサ。扨て都々逸坊は先年見た時と違つて大分身体が肥満た処からして、声はチト‥‥併し三絃の調子は愈よ出でゝ、愈々甘味と申さうか。次に若宮万次郎子の演説、青柳捨次郎氏の落語は何れも書生連のヒヤ〳〵を博し、円喬改め露の五郎兵衛どのゝ人情ばなし、東京弁でサラ〳〵とした処はシツコイものを食た後でのお茶漬心地。其処で当座の隊長川上音次郎丈は、落語よりも黒幕付の露の五郎兵衛に連引させて談る新内ぶしと同丈自作のオツペケペー節とで非常に人気を取つたといふ。又大切の滑稽討論会も随分賑かで面白いとの評判、何さま那して何日までも人気の落ぬ処を見れば、何処かに甘味ところがあるのか、新地や先斗町、扨は宮川町筋の芸妓までが‥‥因みに記す同席では今明日中から一座総出で都おどりはヨーイヤサをご覧に入るといふ。

本物の四代目円生が京都に来て目と鼻の先の幾代亭に出演しているのを見て、さすがに円生の前名の円喬を勝手に名乗っているのは憚られたのでしょう、いきなり露の五郎兵衛と改名しました。いまでこそ大変な名前ですが、当時の京都の人たちは別に何とも思わなかったのか、とりわけて苦情は出ていません。しかしまあよくもこんな名前を思いついたものです。

七月、今度は四代目の円喬が神戸に出演しました。新聞の広告にわざわざ永瀬の円喬とは別人であることを断っています。

明治2472日 神戸又新日報[広告]

時下炎熱厳しく候処、各位益々御清逸大賀奉り候。随て弊席に於て去月一日より出演し、永々御ひいきに預り、大喝采を博し居り候東京下り三遊亭圓橘、同新橘の義、予告の通り交代の期満ち、客月末限り御名残り惜しくも退席仕り候に就ては更に本日よりは当時東京に於て若手の売出しにてその名を知られたる三遊亭圓喬丈及び新喬、白馬の三名が御目見え致し候。

尤も右圓喬丈は今より八九年以前、橘家圓好と呼びし頃、楠公社内の落語席にて好評を博したる事これあり。その後帰京し、先輩三遊亭圓生丈の先名を受け継ぎ圓喬と相改めたるものに候えば、旁々当地には旧縁もこれある次第に付、何卒格別の御愛顧を以て続々御尊来の程待ち奉り候。尤も圓喬丈昨一日より連夜の読物は柳影朝妻情話にて、至極面白き人情小説に候えば、是亦一段の聞き物と存じ、右広告候なり。

追て当地の或席に於ても先年来三遊亭圓喬と呼べる人これあり候えども、右はこの度当席に出演せる三遊亭圓喬丈と全く同名異人に御座候間、是亦念のため広告致し置き候 井筒太席(読み下し・編者)

明治23716日 中外電報

◇今度新京極六角下る笑福亭に出勤する曽呂利新左衛門、青柳捨三郎、露の五郎兵衛等一座も、本日より一週間慈善興行をなし、その所得を以て貧民に施与する由。

明治23725 日出新聞

◇笑福亭の慈善落語  新京極六角下る笑福亭にては去る十六日より一周間貧民救助の為め慈善落語をなしたるに初日に二百名許の入りありしも、翌日は百名位に過ぎず、其後漸次に減じたるよしなるが、一昨日を以て慈善箱を取調たるに、其集まりたる金銭は僅かに電気灯の代にも足らざる程なるより、曽呂利一座と露の五郎兵衛が自腹を切りて救助金を差出す筈なりといへり。

明治2481日 日出新聞

◇笑福亭は竹本登良吉一座の女浄るり(但し五日より露の五郎兵衛、英人ブラクの人情話に替る筈)

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丸屋竹山人

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