二代目笑福亭勝鶴

 二代目笑福亭勝鶴
 本名、藤堂新一郎。天保11年生れ(逆算)。
 初め手品師をしており、二代目三升亭(三升家)小勝(明治5年9月28日没)門人となって小勇と名乗り落語家に転じた。のち上方へ来て三代目笑福亭松鶴門下で二代目笑福亭梅鶴となり、明治30年頃二代目笑福亭勝鶴となった。
 因みに初代梅鶴は初代笑福亭松鶴門人で、明治20年頃に勝鶴と改名したと思われる。
 三升亭(三升家)小勇
 平成27年、国立劇場調査養成部により翻刻刊行された『本朝話者系図』(明治4年頃成立)四十一丁表に「三升家小勇 元武州向(ママ)イ柳原御屋敷内ニ住。藤堂新一郎。嘉永七年の時当人十五才ニテ初メ元柳川豊後大掾門人ニテ蝶太郎、又竜玉門人竜治という。山本三の助門人ニテ三次、又柳川文蝶斎門人ニ文三ト申。山本島造門人ニテ島次(ママ)トいう。文久二年正月十日ニ三升家小勝門人ニテ小勇ト相成、昔はなしの中ニテ、カツテシダイノツトメ人也」とある。
 この小勇が本稿の勝鶴の江戸期の履歴と思われる。そしてこれが小勇の唯一の記録である。なお『落語系図』の小勇は『本朝話者系図』を書き写したものだが、かなり誤写が多い。
 二代目笑福亭梅鶴
 いつ上方に来て三代目笑福亭松鶴の門下となったのか、はっきりわからない。
 梅鶴の最初の記録は明治2518付「大阪毎日新聞」で、「鹿たが無いと諦められぬ エー代り合せましてと諸方の寄席へ出て聴衆の脇の下を高座からクスグツている笑福亭松鶴の一座の鹿連は、馬でないから鈴鹿山などを越すには平気な替り、晦日の阪は大儀と見え、奈何して此の大晦日を越さうと一同気を紅葉ふみ分て席主へなき付き、漸う一月三ケ日の揚り金を抵当として金を借受け、どうやら斯やら年を越し、偖(さて)新玉の春となツては雑煮餅で支(つか)へさせた腹を笑ひ空(すか)さうとドシ〳〵お客が遣てくるので、一夜三十余円づゝの金を得、之を笑福亭の門人梅鶴と外一人が堅く預り、四日になツたら勘定して席主へ戻す筈であツたに、其の預り人の或る鹿どんが、之ほどあツたらおカラを喰はないでも今少(っと)美味ものが喰へると思ツてか、揚り金を懐中にしたまゝ何方へか姿を隠したので、エー鹿たがないと諦めも出来ず、昨今楽屋のものが囃子立て、迷子の迷子の鹿やアーイ」とある。
 当時の記事独得の戯文調で読み辛いが、この記事により梅鶴がすでに三代目松鶴門下におり、一門の番頭役をしていたことがわかる。因みに、三代目松鶴は弘化2年生れで、梅鶴より五歳年下である。
 明治26年10月、三代目松鶴、月亭文都、笑福亭福松が頭目となって浪花三友派が結成された。
 『桂文我出席控』四冊目により梅鶴が明治27年8月1日より12月末まで浪花三友派の賑江亭、今嘉席、神明席、吉田席、堺天神席、京都笑福亭等へ出演していることが知られる。
 明治28年も『桂文我出席控』四冊目により大阪、堺の三友派各席、及び神戸湊亭へ出演していることがわかる。
 同年(明治28年)6月7日中之島公園をメイン会場として凱旋祝賀軍隊歓迎会が行われた。6月7日付「大阪朝日新聞」に「凱旋祝ひの数々 落語家三友派連中は揃ひの着物に獅子頭を担ぎすべて東京吉原の祭礼其侭の趣向にて、(柳家)つばめが音頭を取りきやり囃子にて最と花やかに市中を押廻す由」とある。『桂文我出席控』十九丁表によると獅子を遣ったのは梅鶴と福雀であったという。
 12月15日、新町廓婦徳会場で共遊会が開催され、梅鶴は「糸繰獅子の曲」をやった。おそらく手品修業をしていた時、糸操りの名人山本三之助から教わったのであろう。
 明治29年3月1日と5月3日に共遊会へ出演し「野晒」と「狂歌家主」をやった。
 5月10日に南区日本橋倶楽部で日清戦争から凱旋した将兵歓迎祝賀会が催され、三友派連中が種々の演芸を披露した。梅鶴は最初に上がって御祝儀「獅子の曲」をやった。三番目に再び登場し、式亭三馬の婆、梅鶴の爺で昔ばなしをやった。
 5月27日付「大阪朝日新聞」に「近眼の糊紅」という見出しで、共に近眼であった梅鶴と曾呂利新左衛門の珍談が掲載されている。たした記事ではないが、数少ない梅鶴の記事のひとつとして掲げておきたい。
 「近眼(ちかめ)の糊紅 二三日前の夕方、高津四番町に住居の三友派落語家桂梅鶴方へ、同じ仲間の曽呂利新左衛門が訪問(おとず)れ、土竜(もぐら)が庇合(ひあい)から太陽を見るやうな近眼にて『今日は』と云ば、梅鶴も同じく近眼にて顔は分らねどその声音(こわね)にてそれと察し、オヽ師匠だすか、丁度よい処ぢや、今日或る処から新茶の玉露を貰ふたさかい一煎入れませうとの言葉に、下戸の曽呂利悦びて座に着けば、梅鶴は女房に対ひ姉さんも呼んでお上と云ふを、曽呂利は傍から姉さんとは何処のぢやと問ふ。なアに隣のさと云つゝ、女房の出たる留守に、梅鶴火鉢の抽斗から紙袋に入れたるを取り出し、薄暗りのまゝ茶盃引寄せて新茶を入れ、二人で服みながら隣の女が来るを待てど一向来ず、夫(それ)もよいが自慢の新茶変な臭(かざ)がして玉露らしうないに首を捻り、何や此茶はさつぱり香(かおり)がおまへんなア』『サア私も先刻(さっき)から左様(そう)思うて居ると不審がつて居る処へ、隣家の女が梅鶴の女房と二人で来り、オヽ暗(くら)、梅鶴さんお使ひで有難うと挨拶するうち、女房は燐寸を摺て洋灯(らんぷ)を点し、二人の顔を見るよりきやつと叫びて飛び退けば、隣家の女も顔色変て逃げ出す騒ぎに、曽呂利、梅鶴の二人は呆気に取られて何うしたのぢやと問ば、貴方等(あんたら)二人は毒薬を飲んで男同志情死をする積りぢやろと云れ、二人はますます不審に堪へず、なんの阿呆らしい、気でも違やしまいしと云ふに、女房安心して、鏡取り出し二人の顔を写して見すれば、二人とも口の傍(はた)血に染めて毒薬でも服みて血を吐きたる如くなれば、是はと二人始めて驚き、吐血の原因だんだんと調べて見れば全く梅鶴が新茶と間違へ蘇枋(すおう)の削りたるを煎じて服たるものと知れて大笑ひ
 二代目笑福亭勝鶴
 『桂文我出席控』四冊目・三十六丁表の明治30年4月1日よりの浪花三友派看板に「勝鶴」とある。これが初見で、初代と同じくこの年に梅鶴から勝鶴となったと思われる。
 同年(明治30年)8月5日より道頓堀中座で落語家芝居があった。勝鶴は「夏祭浪花鑑」の道具屋孫右衛門と代官を勤めた。
 明治31年8月21、22両日、南区大宝寺町心斎橋筋西へ入る宝生館にて東京の講談師松林若円が催主となり東京大阪合併演芸会が催された。勝鶴も出演し、「滑稽歌根問ひ」をやった。
 明治32年春、此花館三周年を祝して三友派連中に対し「聊か憎まれ口をきく」として、或るひいき客より投書が寄せられた。それが『落語系図』に掲載されている。その中に、今年数えて六十二歳、俗にいう天保老人たる勝鶴に対しの言及もあり、「三友派の小使役、昔しは町内にはこんな下役を多く見うけし事あり。本人は御老体の上、少々お眼の悪しきに、何共早御苦労千万の事なり。勝鶴浮世はまゝならぬ者と孔子が謂れたり」と記されている。
 「上方はなし」十一集(昭和12年3月)所載の明治32年4月発行の「上方落語番付」に西前頭十一枚目に「東京滑稽噺 笑福亭勝鶴」とある。
 同年(明治32年)11月1日より神戸三宮の浮れ節の定席雑居亭が新築開場した。浪花節の連中に混じって勝鶴も出演した。午後9時ごろ、勝鶴が高座でしゃべっている時に火事騒ぎがあった。11月3日付神戸又新日報」に「寄席の騒ぎ火事と間違う 三宮神社境内元朝日座の横に雑居亭と言う浮れ節の定席が新築となり、一昨日を以って開場し、広沢国丸、浅川富士丸、笑福亭勝鶴と云う者等の浮かれ節と昔噺とを興行中、同夜九時頃勝鶴が高座に現れ頻(しき)りと喋舌(しゃべり)をして居りしに、見物人の中に無頼漢四五人居りし、噺の善悪しををガヤガヤ評し合いし末、如何なる弾みにか、在合う土瓶火鉢と手當り次第に投出し大乱暴に、四方の見物人は総立ちとなり、近所の者等は火事ならんと早合点をなし、延喜(えんぎ)でもない、演劇小屋や寄席が出きると直ぐに火事が起きると呟き呟き、家財道具を持運ぶ等、一時は上を下への大騒動となりしも、最寄の巡査が出張して取締めたるより、其原因は火事ではなく乱暴と知れて、おうそうだったかと、出した道具をゴソゴソ持戻る者もありしと」とある
 明治30年頃から神戸への出演が多くなり、明治32年以降大阪、京都の新聞にほとんど出なくなる。神戸へ居を移していたのかも知れない。
 神戸では第一湊亭(旧裁判所前・明治35年4月に楠公社内より移転)、第二湊亭(三宮・明治32年2月開場)を定席とした。
 明治35年11月10日付「神戸又新日報」に「俺ア此間三宮境内第二湊亭へ噺を聞きに行つたが、名は忘れたけど丸坊主の年頃五十四五の男ア左甚五郎の話をした。所が東京仕立で以て、中々面白く語り溜飲も下った様で嬉しかったが、矢張り神戸坊を歓ばそうと何でや乃至誰やなどと破格の言葉を使つたンで腹が立つたよ。今度あんな真似をしようものなら坊主頭は無事でなかと思え」とある丸坊主、左甚五郎などからこれは笑福亭勝鶴のことだとわかる。やはり東京仕立でやっていたようだ。
 明治36年2月21日から明治37年2月14日までの第一湊亭の土曜日、日曜日(一部他曜日がまじる)の出演者と演目が「神戸又新日報」に掲載された。すべて網羅できたわけではないが、勝鶴の持ちネタを知る上でたいへん貴重な資料なので判明したものだけを記しておく。なお日付まで入れると煩雑になるので年月だけにとどめる。
【明治36年】(2月)蒟蒻問答、二十四孝(3月)左甚五郎、二十四孝、太田道灌、こんにゃく問答(4月)狸賽、二十四孝、こんにゃく問答(5月)甚五郎眠り猫、茶の湯、廻る因果後の村雨、坊主の問答、芝浜(6月)山崎屋、お花半七、狂歌家主、天狗の女郎買、天狗酒盛、新門辰五郎(7月)偽金、仏門神門、喜楽蜻蛉、左小刀鯛刻み、出火娘、千両富(8月)三百羅漢、野晒し、眠り猫、地口合(9月)骨つり、お花半七(10月)野晒し、お花半七(11月)誉の小刀、三百餅、甚五郎、一分線香(12月)千両幟、こんにゃく問答、大学楼【明治37年】(1月)お花半七(2月)三百餅、甚五郎。
 最後の「甚五郎」は明治37年2月14日である。そしてこれが最後の出演記録である。
 明治42年8月14日付「神戸又新日報」に「立花家左近とだけでは判らぬが、当地で古顔と言われ、故人笑福亭勝鶴坊の倅で、第一第二湊亭で橘松の名で出ていた男である(後略)」とある。立花家左近は後の三代目三遊亭円馬笑福亭勝鶴が父親というのは間違いで月亭都勇(橋本勇吉)の息子である。明治33年から38年頃まで立花家橘松の名で神戸で活躍し、その時勝鶴が父親同然に橘松面倒をみてやっていたのであろう。
 この記事によりこの時既に亡くなっていたことがわかるが、正確な没年はわからない。筆まめな桂文我の物故した落語家を書き記した「蓮盛死出魁」(明治40年1月/大正4年1月に追加)にもその名前を見いだせない。神戸で人知れずひっそりと亡くなったものと思われる。(蹉跎庵主人)

 

笑福亭梅香(吞んだの梅香)

  笑福亭梅香(吞んだの梅香)
 本名、飛呂秀吉。安政2年生れ(四代目松鶴「知人名簿」解説・『藝能懇話』十一号・平成9年所収による)
 初代桂文枝の弟子の初代桂梅枝(二代目藤兵衛)門下で桂梅寿(または桂梅々)から藤鶴、二代目桂文昇(ホヤの文昇)門下で桂文舎(または桂文車)、三代目笑福亭松鶴(または二代目笑福亭松鶴・円笑)門下で笑福亭円光、明治37年、笑福亭梅香となる。
 本稿の梅香の前に笑福亭梅香と名乗った噺家ではっきりとわかっているのは幕末に活躍した金物屋の梅香、二代目曾呂利新左衛門、そして上京した三遊亭海老丸である。故に四代目とするのが妥当だろうが、この外にもまだ居た気配があり確定出来ない。それゆえ本稿は「吞んだの梅香」として立項した。
 桂梅寿(梅々)・藤鶴・文舎(文車)
 浄瑠璃 役者 女太夫 二〇カ 昔噺 三国人気の壽」(明治8年1月改版)及び「浪花名所昔噺連中見立」(明治8年7月七月改)に「梅々」の名前が載る。「浪花名所昔噺連中見立」は当時の主な落語家六十八名に浪花名所をあてた狂歌を添えたものだが、まだそこまで行かない噺家たちを下欄に三十七名、名前だけ並べているなかに「桂梅々」がある。
 明治13年1月大新版「楳の都陽気の賑ひ」の西前頭三段目の四番目に「神戸 桂藤鶴」とある。
 これらが本稿の梅香ではないかと思われる。なお文舎(文車)に関しては未詳。
 笑福亭円光
 明治21年1月1日付「京都日出新聞」の「諸興行物案内」欄に「笑福亭にて三遊亭円喬福松円光の一座が昔し噺しをなす」及び「西堀川通り丸太町下る菊の家席にて笑福亭円光三遊亭円喬笑福亭木鶴玉園かしく田子八等の一座が昔し噺しを興行する」とある。これが円光の初出である。三代目松鶴門人となって円光となったといわれているが、三代目松鶴門人に「円」のつく弟子は他におらず、二代目松鶴(円笑)門下で円光となり、二代目松鶴(円笑)の死後三代目松鶴門下に入ったのではないかと想像される。 
 7月下旬、名古屋富本席へ出演した。7月25日付「金城新報」に「三遊亭喬(東京)、笑福亭光(大坂)、笑福亭木鶴(西京)以上三府講談師の初目見得にて、尚笑福亭柳橋、同木蝶、桂米か子等の前席者を添え、近日より富澤町の富本座にて開演する事なれば定めて大入を占めむるならんと云う」とある
 12月21日より23日まで新京極福井座で忘年諸芸吹寄せがあり、「昔はなし」をやった。
 明治22年も京都で正月を迎え、元日から笑福亭と猪熊下長者町上栄の家席へ出演した。
 2月7、8両日、笑福亭で滑会が開催された。2月8日付「日出新聞」に「滑会(こっけいかい) 新京極六角下る落語席笑福亭にては、昨今滑会といふを催し、一座の円喬、円光、玉団治、木鶴、花見なんどが本拳、土論拳、藤八拳撰出の議員に打扮(いでた)ち、又一人の戯長と説明員とを置き、来客へも発議討論を許して、落語の研究を始めた」とある。いわゆる落語相撲、落語裁判の変形であろう。
 このあと明治24年1月まで情報が途絶える。
 名古屋時代
 曾呂利新左衛門は明治23年9月頃から名古屋に赴き、何が気に入ったのか、時々大阪へ帰る外は、明治28年3月まで五年近くを名古屋で暮らした。それに輪をかけるくらい円光は足掛け十年近く名古屋で暮らしている。
 曾呂利と始めて一座したのは明治24年1月1日よりで、1月6日付「金城新報」の広告に「大坂改良はなし笑福亭光、曾呂利新左衛門一座 當ル一月一日夜より 富澤町富本」とある。
 2月10日頃、南桑名町千歳座で落語家、講談師、幇間、壮士連らによる茶番狂言が催された。出し物は忠臣蔵の大序より五段目迄と謙腹一幕、中が妹背山御殿場、次が天下茶屋の借宅と福島堤、切が嫗山姥の山の段である。円光は「忠臣蔵」の原郷右衛門と「妹背山」の入鹿を勤めた。
 9月下席も曾呂利と富本席へ出た。
 明治25年は記録がないが、ずっと名古屋にいたと思われる。
 明治26年2月下席に名古屋旭廓の旭亭に出演した。2月24日付「扶桑新聞」に「名古屋旭廓の旭亭にては此程より曾呂利新左衛門、立花家橘之助、三遊亭寿の一座が興行中、頗る大評判なるゆゑ、尚右の一座へ笑福亭光と云う大眼玉を加え今夜より一層勉強の興行上の客は富本へ下の客は旭亭へ、いずれも今夜より大人気」とある梅香はこの当時は「眼玉の円光」という異名で売ったが、それを初めて伝えた記事である。なお、この頃曾呂利は旭亭を定席にしており、円光も5月、7月に出演している。
 8月1日より6日まで名古屋音羽座で講談・落語合併芝居が開催された。外題は(一番目「敵討殿下茶屋叢」天王寺の場・仮宅の場・福嶋復り討の場、(中幕「本朝廿四孝」十種香の場、(切幕「碁太平記白石噺」新吉原揚屋の場・鞘当の場である。円光は「天下茶屋」の早瀬伊織、「碁太平記」新吉原の遣り手と鞘当の夜回り九郎兵衛を勤めた。その出演者を紹介した7月29日付「扶桑新聞」に「お酒が好で後家泣せの笑福亭」とある。
 8月2日、八百蔵が門弟たちを引き連れて落語家芝居を見物に来た。それを知った円光はとても素面では出られぬとコツプで酒を七八杯酒あおって舞台に出て、大暴れをやらかした。そのことが大阪にまで聞こえたらしく、87付「大阪毎日新聞」に「伊織舞台で管を捲く 目下名古屋の音羽座で東京の伯円、柳橋、当地の曽呂利新左衛門などの連中で落語家芝居をやつて居るが、去る二日の事とか、同地に居る八百蔵並に成駒屋の門弟が見物に押出したるに、天下茶屋の伊織を勤める笑福亭円光が八百蔵をチラと見付けて、これでは素面では舞台へ出られぬとコツプで酒を七八杯引かけ其勢ひで舞台へ出たはよかつたが、肝腎のかへり打になる所で外の連中が大車輪でやるにも頓着なく、伊織はチロ〳〵眼をして、何だ篦棒め勝手な事を抜かしやアがれ、己等は己等だ、酔たがおかしいか、管捲くが不思議かなどゝ巻舌で中ツ腹を極めたるなどは、殊の外のお茶番であつたと同地から知らせ」とある
 この後年末まで旭亭に腰を落付け、巾下外田町橋又座を掛け持ちしたり、三州渥美郡豊橋呉服町の成田座などへ巡業に出たりしてその年を終えた。
 明治27年正月に桂文我が名古屋に来て曾呂利一座に加わった。『桂文我出席控』によると、円光は1月1日より花園町旭亭、杉本町杉本座、1月13日より七軒町富本席、2月6日より枇杷島川嶋座へ文我と一座した。
 その後しばらく記録が途絶えるが、11月下席に旭亭、12月上席に下園町盛豊座に曾呂利と一緒に出ていることが知られる。
 明治28年3月12日付「扶桑新聞」に「旭廓旭亭 名古屋旭廓の同亭にて本夜より三遊亭遊橋一座に曽呂利、光等の落語」とあり、この後曾呂利は浪花三友派へ加入のため大阪へ帰った。 
 円光は名古屋に留まり、明治30年10月1日より富本席、明治31年1月1日より橋又座、1月9日より寿亭、1月16日より富本席、1月22日より橋又座、2月1日より寿座、2月6日より盛豊座へ、明治32年1月29日より富本席、2月15日より納屋橋西の長谷川座出演した。
 新京極幾代亭へ
 明治32年12月に円光は京都へ戻った。
 名古屋にいる間に大阪落語界は桂派と浪花三友派に分裂し、京都でも桂派の幾代亭、浪花三友派の笑福亭に分かれていた。円光は昔なじみの笑福亭ではなく、桂派の幾代亭へ入った。
 当時、幾代亭は6時半に前座が出て、そのあと十名程が交代であがり、10時半に切(トリ)が出るというのが通常であった。円光の出番は六から八番目(8時半前後)が多かった。トリをとっていたのは初代枝太郎と四代目文吾である。
 12月17日頃より常盤座で幾代亭連中が落語家芝居を計画した。外題は鏡山花見、菅原の車引、小栗判官の浪七内、安達原三段目、封印切等で、円光の役割は「車引」の時平、「安達原」の謙杖直方と決まった。しかしこの落語家芝居が実際行われたどうかは不明である。
 明治34年6月、7月に枝太郎とともに久し振りに名古屋に赴き、富本席へ出演した。
 幾代亭では12月上席の忘年会諸芸尽しがあり、落語七段目と浮れの屑選りの芝居をやった。円光は七段目の伴内を勤めた。
 また、12月25、26両日、幾代亭で北野会寄付興行を催した。切に菅原車場の芝居をやり、円光は光輔、円光、枝鶴の三人で仕丁を勤めた。因みに光輔は後の桂三八、枝鶴は後の四代目笑福亭松鶴である。
 明治35年1月、八甲田雪中行軍遭難事件があり、全国で凍死軍人遺族吊慰義捐金の寄付が行われた。幾代亭の噺家も、吾若が三十銭、枝之助、小文吾が三十五銭、小円竜、文雀、柳枝が四十銭、円光、芝雀、馬琴、年誌が四十五銭、文吾、一柳が五十銭、枝雀、枝太郎が六十銭の寄付を行った。 
 この当時、高座で何をやるかは噺家にまかされており、いつ行っても同じ噺だったり、オチまで満足にやらないで踊ったり唄ったりしてごまかす噺家もいた。これらの弊害をなくすため、幾代亭の席主金井芳松がその日の演者と目を新聞に出すという当時としては画期的な試みを行った。そして明治35年6月16日より7月30日まで京都日出新聞に掲載した当日予告通りにやったかどうかはわからないが、当時それぞれの噺家がどんな噺をやっていたのが垣間見えて興味深い。円光の予告演目は以下の通りである。新聞に掲載されたままを列記しておく(6日分抜け有)。
「(6月)始末の極意、三十石、桃山御殿、先の仏、太田道灌、茶碗屋敷、碁盤切、猫の忠信、雁風呂、義士、子別れ、甚五郎、義士(7月)百人一首、甚五郎、牡丹湯、しまつ、げぼう、雪駄直し、雑魚八、猫忠、子ほめ、子別れ、三十石、太田直次郎、樟脳玉、大福餅、哥合せ、ない物買い、逢が島、蜀山人、□幽霊、御殿、いびき茶屋、歌根問、半垢、大福餅、御刀、権助」
 さすがにこれを継続するのはむずかしかったのか、この試みは一ケ月半で終わった。
 桂派では明治34年から勉強会として月一度日曜日の昼席に矯風会を開催していた。
大阪にならって京都幾代亭でも明治34年11月30日より矯風会を始めたが、長続きせず、明治35年11月23日10回中断した。
 円光は五回出演し「始末の極意、猫の忠信、始末の極意(予告では淀屋辰五郎)、樟脳玉、茶碗屋敷」をやった。「始末の極意」を聞いた人が「京都日出新聞」(3月11日)に「円光は思ふに昔噺を遣らせたなら或は可いかも知れない」と投書している。上述の演目を見ても、円光は滑稽噺よりはむしろ、人情噺のようなじっくりと聞かせる噺が得意だったようだ。しかしその分高座が淋しかったと評されている。なお、円光は大阪の矯風会には一度も出ていない。
 8月1日より幾代亭で夏の余興として若手の落語家と講談師合併相撲が催された。円光は落語家の東の横綱に鎮座した。四股名は「目の谷円光」。
 互楽派へ
 明治36年5月、高松市兵庫町常磐館で興行した。5月15日付「香川新報」に「常盤館 当市兵庫町同寄席にては近日、東京より快楽亭快柳、橘屋吉三郎、大阪より笑福亭木鶴、笑福亭光等の各落語家が出掛ける筈にて、客人に景物をも出す筈なりと」ある。笑福亭木鶴は天保8年生れ、初代桂文枝門人で文里、後に二代目笑福亭松鶴門人で二代目木鶴となった古い噺家である。この頃は互楽派に籍をおいており、円光は巡業に帯同したようだ。
 この後
7月1日より金沢宝座で興行した。2日の番組は「新作改良噺(里笑)真正剣舞(昌西洋奇術(天海)人情噺(光)新内南蝶縁切(千賀松)所作事早替り(鶴)音曲噺(延若)」である
 木鶴は引き続き金沢で興行したが、円光は先に戻った。幾代亭へ戻ったのか、或は木鶴との縁で互楽派に加入したのかは不明である。
 円光がはっきり互楽派の人として記録に現われるのは、同年(明治36年10月15日、東区内本町松屋町筋に新築落成した第二文芸館の開館式である。10月15日付「大阪毎日新聞」に「予て新築工事中なりし東区内本町松屋町東へ入る北側第二文芸館は本日落成式を挙行し明十六日より引続き互楽派の連中にて開業する由なるが出演者の重なるは蝶花楼馬之助、林家正三、桂藤誠、笑福亭木鶴、林家花丸、三遊亭新朝、笑福亭円光、小村竜雄、三遊亭国遊、同三円、同円左、柳亭小燕路」とある。桂派ではずっと中堅であったが、互楽派では五代目林家正三、桂藤誠、二代目笑福亭木鶴、林家花丸と並んで、真打株として迎えられている
 笑福亭梅香
 浪花三友派へ
 明治37年9月、二代目桂文団治が浪花三友派を離脱して大阪三友派を旗上げした。そのとき席亭の確保のため互楽派と提携を結んだ。円光も合併一座に出たが、気にくわなかったのか、浪花三友派へ鞍替えした。そして、10月31日付「大阪毎日新聞」に「浪花三友派落語の各席へは明一日よりノンノン亭柳升、三遊亭若遊三、同小伝遊、笑福亭円光改め梅香、小供義太夫の団司等が出演する由」とあるように、名前も円光から笑福亭梅香へ改名した。なお、改名披露を行なった形跡はない。
 その後、明治43年8月まで浪花三友派に籍をおき、紅梅亭、第一此花館、第三此花館、永楽館、賑江亭及び京都の芦辺館、神戸第一、二湊亭等へ出演した。この間の定席出演以外の梅香の主な記録は以下のごとくである。
 明治38年1月17日付「大阪毎日新聞」に「同派(浪花三友派)に笑福亭梅香といふのが出席して居る。ツイ先頃まで文団治派に出て居た男だ、無闇に人情噺の真似事などをしたがるが止(やめ)て慾い。客の中で喝采をする人があつても、それが為に乗気になつて己れの人情噺の受が可いなどゝ自惚ては生涯金槌の川流れだぜ」とある
 明治39年4月2日より博多川丈座に出演し「住吉駕」と「始末の極意」をやった。
 明治40年5月に五代目金原亭馬生(宮嶋市太郎)、曲独楽の松井源水(十六代・室谷助太郎・安政5年生)と巡業に出、5月1日より和歌山紀国座、11日より姫路旭館、22日より飾磨丸万座、25日より明石王西座で興行した。
 7月1日より一ケ月、桂派・三友派合併相撲が開催された。相撲番付の三友派前頭二枚目に「虎ケ嶽梅香」とある。但し番付だけで、実際の取り組みには出ていない。また「前頭二枚目」という位置についてもその下に置かれた連中が不平をならしたらしい。
 8月26日より堺卯の日座でも桂派・三友派合併相撲が開催された。このときは実際に出て、初日に三代目桂文三と取組んでいる。
 11月、また馬生、残月一座で九州方面へ巡業し、11月1日より小倉幾世座、10日より門司凱旋座、19日より博多川丈座、12月1日より下関弁天座、12月7日より広島胡子座、12月16日より西宮戎座で興行した。凱旋座では「二十世紀金生策」という落語をやった。
 明治41年12月、三代目桂文都、松川家妻吉一座で巡業に出、1日より尼崎清水座、7日より和歌山紀国座、17日より黒江朝日座、21日より奈良尾花座で興行した。尾花座では「孝行談」と「へっつい幽霊」をやった。
 明治42年6月17日より香川県高松市玉藻座で興行した。二日目に「雁風呂」をやった。
 8月、金原亭馬生、三遊亭円若一座で北陸へ巡業し、2日より福井みなと亭、8日より高岡片原町寿座、15日より富山朝日座、20日より金沢一九席で興行した。一座は26日に打ち上げ、27日に帰阪した。この北陸巡業は不入り続きで、宿屋に泊まれず楽屋で寝起きした日が多かったようだ。
 明治43年も1月から浪花三友派各席に出演した。6月1日より神戸第一、二湊亭へ出演した。6月12日、第一湊亭の日曜会で「しんこや新兵衛」をやった。そしてこれが浪花三友派での最後の出演記録となった。
 三友派日曜会
 桂派の矯風会に対抗して浪花三友派は大阪は明治36年から、京都は明治41年から日曜会を始めた。
 梅香は大阪の三友派の日曜会へは明治
37年11月20日より明治42年5月9日まで15回出演した。判明している演目は「(明治39年)しんこや新兵衛、神と仏(明治40年)天神詣、衛生掃除(明治41年)しんこや新兵衛、三十石、住吉駕(明治42年)住吉駕、先代の仏、猿後家、猫の忠信、鳥屋引導」である。明治42年3月28日付「大阪朝日新聞」に、日曜会で聞いた
梅香の「猿後家」の感想を「梅香はシツトリとやつたがチト淋しく」と、短く書かれている。
 京都の三友派の日曜会へは明治41年11月22日より明治43年6月12日まで23回出演した。数が多いのは大阪が月一回だったのに対して毎日曜日に行われたからである。また大阪は各席持ち回りだったのに対して京都は芦辺館のみで行われた。京都でやった演目は「(明治41年)□の孝行(明治42年)神と仏、住吉駕、鳥屋引導、積極の吝嗇、飾磨の由来、百人坊主、三人旅、菓子座敷、貧乏神、雁風呂、猿後家、竈幽霊(明治43年)観音の功徳、子別れ、鎌盗人、三十石夢の通路、三人旅浮れの尼買、名物男太助、源兵衛玉、木鼠吉五郎、猫の忠信、名人鑑」である。「鎌盗人」は『落語大福帳』巻二六号(明治44年7月1日発行)に速記が掲載されている。その中に「私はまたあんまり下がゝりのお話しは嫌ひで御座いますので些々(しょうしょう)お話しが堅う御座いますが、面白くない時には脇の下をこそぐッてゞもお笑ひを願ひます」とある。
 再び互楽派へ
 明治43年9月、浪花三友派をやめて再び互楽派へ戻った。9月1日付「大阪時事新報」に「互楽派の落語文芸館(松島)、鶴の席(浦江)、遊楽館(難波)各席は一日より開場。冠一郎、千代子の劔舞、三二[三路]、三五郎、梅香、春橘以下の落語音曲」とある
 明治44年3月上席は第二文芸館、第三文芸館、龍虎館、桃谷亭、5月上席は神戸の屋幸満席、末広亭、7月上席は第一文芸館、第二文芸館、龍虎館、稲荷文楽座へ出演した。
 神戸でまた酔っぱらって高座へ出たようで、5月6日付「神戸又新日報」に「屋幸満の落語 梅香の噺は中々面白いが呂律も回らぬ程喰らい酔って舞台に出るのは不心得だ」と苦情をならされている
 8月23日より相撲の綾瀬川山左衛門一座で徳島緑館で興行した。8月22日付「徳島毎日新聞」に「緑館の綾瀬川 大阪力士綾瀬川山左衛門の加われる大阪三友派落語一行は愈々明二十三日より紺屋町緑館に出演、綾瀬川は得意の角力甚句、剣舞、浪花節等を勤むる由。入場料は一人前十八銭(敷物下足中敷なし)当夜の番組は、落語小倉船(笑福亭松太郎)落語百人坊主(笑福亭福若)清元北州浮世節(都家玉助)落語五人廻し(柳家柳馬)落語くしゃみ講釈(三遊亭遊楽)天下一浮れの紙屑屋手踊り松の名所(笑福亭福吉)三十石夢の通路(笑福亭梅香)一人土俵入角力甚句剣舞浪花節大石妻別れ(綾瀬川)」とある。そしてこれが現時点での梅香の最後の新聞記事である。
 没年を、橋本礼一氏は、CD-ROM「ご存じ古今東西噺家紳士録」(エービーピーカンパニー・平成17年)の「笑福亭梅香」の解説で、「明治44年秋頃」とされている。この最後の記事からの類推なのか、別にそうした資料があるのかは不明だが、実際これ以降、梅香に関する記録は皆無で、少なくとも現役を引退したことは確かだろう。明治44年、数えて五十七歳である。
 梅香の芸を論じたり、思い出を語ったりした文章が不思議なくらい少なく、まったく忘れられた噺家になっている。大真打にはなれなかったものの、もう少し評価されてもいいのではないかと思う。
 最後に
「上方はなし」二十四集(昭和13年4月)に掲載された二代目笑福亭福円の梅香を回顧した文章を紹介してこの稿を閉じることにする。
 「
…その当時大阪に眼玉の円光で売った先代の梅香という、これは三友派でお馴染のことと思いますが、同じく大酒飲みの落語家がありました。この人も御存じの通り上方な方で、高座へ坐るといっさい冒頭(まくら)を振らず、すぐ噺にかかるのが特長でしたが、少し酔(まわ)るとだれかれの差別なしに、ずいぶん無遠慮な口を叩きました。私がしばらく円光と名乗っていたところからよく可愛がってくれましたが、一晩私の高座を聴いて、お前も高田(文三師)のように噺の口上をいうのが好きなら、落語家をやめて東西屋になったらどうかと皮肉をいわれましたが、誰にでもこんな辛辣なことを平気でいう人でした」
(蹉跎庵主人)

 

上方落語史料集成 はじめに

   はじめに

「上方落語史料集成」
一、このブログは明治元年から昭和20年までの上方落語に関する文献を年代順に配列するものである。
二、新聞記事は当ブログのオーナー丸屋竹山人事友成好男が調査したものと故橋本礼一氏から託されたものを中心に、蹉跎庵主人事樋口保美がまとめてブログに掲載した。
三、新聞記事及び雑誌記事等の再録にあたっては次の要領でおこなった。
1)原文そのままを原則としたが、漢字は一部当用漢字に改めた。
2)仮名遣いは旧仮名遣いそのままを原則とした。
3)送り仮名は「悪こと」「聞みる」などのように今日と異なるものが多いが、勝手に追加せず、「悪(わるい)こと」「聞(きいて)みる」のようにして判読の便宜を図った。
4)句読点、濁点、半濁点は適宜施した。
5)ルビは必要と思えるもののみに( )をつけ、現代かなづかいで施した。
6)明らかな誤字、脱字、当て字等に関してはそのまま記載し、その後ろに[ ]をつけ、訂正、補足した。
7)判読不明な文字に関しては□□をつけ、伏せ字とした。
 なお、本文中には今日の人権意識、人権擁護の立場に照らして差別的とされる語句が含まれるが、時代背景や文化状況を知るための資料であることを考慮し、原文のままで掲載した。

「上方落語家事典」
 平成元年に平凡社から『古今東西落語家事典』が刊行されました。この時上方落語の噺家で本文に項目として採り上げられたのは露の五郎兵衛から六代目笑福亭松鶴まで83名でした。あれからすでに35年が経過し、この間に上掲の「上方落語史料集成」に掲げたように新たな史料が沢山発見されました。そこで丸屋竹山人と協議し、独自に「上方落語家事典」を作成することに決し、令和22月よりはじめ現在なお進行中です。対照としたのは江戸時代から昭和30年以前に死亡した噺家(数名例外あり)で、今日現在(2024年4月17日)152名をアップしました。今後とも追加、訂正をしてよりよい事典の完成を目指すつもりです。
 『落語家事典』の上方編は大阪藝能懇話会のメンバーが分担して執筆しました。樋口もその一人として桂文左衛門ほか数名担当しました。刊行されて間もなく橋本氏より長い手紙が懇話会宛に送られてきました。上方編の噺家について多々ご指摘があったのち、その末尾に「東京から上方にきて活躍した落語家連中に就ての記載にかなり黙過しにくい誤りが数ケ所見受けられます。……色々事情もあったのでしょうが、少くとも芸歴の最盛期を上方で過し、遂に上方に骨を埋めた連中についてはこちら側で執筆なさった方がよかったのではないかと僭越ながら愚考します」とありました。このことはずっと気にかけていたのですが、なかなかその機会を得ず、ようやく今回番外編として上方で活躍した東京の噺家20名を掲載し、長い間の宿題を済ませました。因みにこのお手紙を頂いたあと橋本氏を懇話会へお迎えしました。   

『藝能懇話』二十一号
 平成2782日に上方落語史研究の第一人者であり、われら二人の共通の恩人でもあった橋本礼一氏が逝去されました。大阪藝能懇話会では橋本氏を偲んで、氏の論文集をまとめた『藝能懇話』二十一号=特集 上方落語史考=を一周忌にあたる平成2882日に刊行しました。
 上方落語史の研究を志すものにとってこれはまさに必携の書です。詳細は目次をご覧ください。
〈編者註〉樋口の手許に何冊か残っていたのですが、先日全部出てしまいました。なお表紙の絵のないものが若干残っています。それでもよかったら下記のメールアドレスへお申し込みください。こちらは代金を頂くわけにはいきませんので無料(送料共)でお送りいたします。
メールアドレスは higuti24misemono@yahoo.co.jp です。
                             (令和
611日 蹉跎庵主人識)


目次 003表紙 001



















 

笑福亭梅香(初代笑福亭光鶴) 

  笑福亭梅香
 96本名、檀辻光蔵。明治2年、大阪市南区瓦屋町生れる。
 『落語系図』「に三代目松鶴門人 光鶴 後に松助となり呂角(註:呂鶴の誤記)となり、其後梅香となる」とある。
 笑福亭梅香と名乗った噺家は幕末の通名金物屋の梅香、曾呂利新左衛門、飛呂秀吉の吞んだの梅香ほか何人かおり、はっきりした代数はわからない。梅香(ばいか)は笑福亭でも由緒ある名前であるが、本稿の梅香は真打にもなれず、いささか名前負けしている。
 初代笑福亭光鶴
 光鶴の初出は明治25年10月1日付「神戸又新日報」で、「同社内楠公社内湊亭は落語家曾呂利新左衛門、笑福亭福松、同松鶴、米枝、松右衛門、松竹、光鶴の一座」とある。11月も同席へ出演している。
 明治26年10月、三代目笑福亭松鶴、月亭文都、笑福亭福松を中心に浪花三友派が結成され、光鶴も三友派に属した。
 明治27年7月1日より福松、文都一座に加わり、和歌山元寺町芝居で興行した。帰阪後、7月16日より堺天神席へ、8月1日より京都堀川丸田町菊野家へ、9月1日より 南地法善寺今嘉席へ出演した(「桂文我出席控」第四冊)。
 以上が光鶴に関する記録のすべてである。なお、光鶴は初代で、二代目光鶴は五代目笑福亭松鶴である。
 笑福亭松輔
 光鶴は師匠松鶴の修業がつらかったのか、落語家を廃業して「松助」と名乗ってしばらく幇間をしていた。しかし師匠松鶴が明治29年1月に浪花三友派を去り、講釈師に転じたのちに再び落語家として復帰し、笑福亭松輔と名乗った。
〈編者註〉新聞は「松助」と「松輔」が併用されているが、本稿は「松輔」で統一する。
 松輔の初出は明治29年12月1日付「神戸又新日報」で「楠社内湊亭は笑福亭松助、桂文昇、笑福亭璃鶴、林家小菊丸、桂輔、萩の家露紅、林家しん鏡、三遊亭子、東やっこ、三遊亭円若の一座にて落語」とある。
 明治30年8月21日より神戸大黒座で落語家芝居が開催された。8月5日から大阪中座で浪花三友派の落語家芝居があり、好評だったため大黒座でも公演することになったのである。そのおり神戸在住の連中だけで一幕増やすことになり、「奥州安達原」三段目と決まった。松輔は敷妙を勤めた。8月24日付「神戸又新日報」の劇評に松輔の敷妙、ドウやらコウやらやつて退けたるは手柄なり」とある。
 この落語家芝居のあと、松助の名前が関西の新聞記事に出なくなる。
 明治32、3年頃に広島へ流れ着き、当時広島で人気のあった桂三之助に弟子入りし、「助六」と名乗って幇間になった。この時桂三輔(後の桂ざこば)も「洗湯亭さん助」と名乗って幇間になっており、同じ舟入町の西遊郭で座敷に出た。
 三之助は時々「西遊郭幇間一座」と銘打って中国、四国地方に巡業に出たが、助六も一緒に行ったことだろう。松輔はこの頃の経験を活かして『軍人幇間』(『落語大福帳』二巻九号・明治44年10月1日発行掲載)という新作を作っている。
 松輔が大阪へ戻ったのは明治37年で、831付「大阪毎日新聞」の9月1日よりの浪花三友派の出演者連名に「松助」の名前があり、落語家に復帰している。
 明治39年2月1日より金沢新富座で大阪落語一座が興行した。初日の番組は伊勢参宮神の賑い(文香)桜花の宴会(藤三)角力噺(文蝶)音曲噺(円輔)遊山船(里鶴)味噌蔵吹替浄瑠璃(和歌之助)即席噺(松輔)赤垣源蔵伝(馬琴)稽古屋ステテコ扇の曲(三輔)芝居噺(松鶴)大切茶番仁輪加(総出)である。
 因みに和歌之助は後の二代目笑福亭福円、松鶴は二代目笑福亭木鶴が旅興行の時だけ名乗ったもの。広島で一緒に幇間をしていた三輔も一座に加わっている。
 4月1日より笑福亭円篤、三升家三馬一座で富山旭亭で興行した。
この一座は十日間興行したが、松輔がやったのは「即席噺」が多く、そのほかは「風刺新落語」「書生新話」「新婚旅行」などをやった。
 その後も二代目木鶴や笑福亭円篤一座に加わり、5月は金沢小福座と市姫座、8月は新富座へ出演した。小福座では「崇徳院」を、市姫座では「稽古屋」をやった。
 同年(39年11月1日より京都新京極幾代亭へ出演した。
 幾代亭は京都の桂派の牙城で、松輔がここへ出たということは、三友派より桂派に鞍替えしたことを意味する。
 明治40年は1月から10月まで新京極幾代亭へ出演した。
 5月19日、20日の両日、先斗町歌舞練場にて京都興行同盟会主催で輪塔会寄付演芸会が開催された。松輔は20日に出て三遊亭若遊三(二代目)、一奴(後の二代目立花家花橘)と舞を舞った。
 7月1日より30日まで三友派桂派合併落語相撲が開催された。相撲番付も作成され、桂派前頭十枚目に「角面松助」とある。但し番付に名前が出ただけで実際の取り組みには出ていない。
 上掲の写真ではわかりにくいが、四股名に「角面」とあるように、松輔は鼻が低く角ばった顔をしていたようだ。
 8月15日から31日まで京都大虎座では俄師と落語家合併大相撲が開催された。こちらの番付は前頭十一枚目に「五円嶽松輔」とある。こちらは実際に出演したようだ。四股名の「五円嶽」の由来は理解不能。
 ついでながら、松輔には外にも仇名がたくさんあったらしく、『落語大福帳』二巻九号(明治44年10月1日発行)によると松輔は「黄表紙、八角時計、ゴテ松、サイノロ、根多帳、皮肉家などゝ仇名の問屋」であったという。
 10月17日、洛東西大谷前袋中庵にて京都日出新聞投書家懇親会が開催された。10月19日付「京都日出新聞」に「…午後一時を以て開会…桃中軒雲右衛門君は会員として出席せられ、赤穂義士銘々伝中神崎与五郎則休吾妻下りの一段…拍手喝采の裡に終りて、幾代亭松輔君、同蔵之助君のパツク劇紳士の遊びは両人掛合ひにて俄ハイカラの失態を演じ滑稽を極めたり…」とある。
 『落語大福帳』二巻二号・失敗号(明治44年3月)に髯之助なる人が「高嶺の花」と題して松輔の失敗談を載せている。
 それによると、松輔は幾代亭にいた時、楽屋幹事及び端席の頭取を勤めており、結構収入があった。しかし道楽はせず、富小路に出来た泰西音楽学校に入学し「松さん、四角い顔を三角にして勉励努力し、…二ケ月と云ふに校内第一と云ふ好成績を収めたので、松さんのアノ低い鼻は期せずしてツンムリと高くなった」。さらに松さんは「以前の職業柄、造花には深い経験を持つているので」女生徒たちに造花を教授することになった。そこで大失敗をするのだが、さて、この話、どこまで信じていいものやら。
 藤原鱗史 
 明治41年1月、京都幾代亭の真打格藤原年史(後の三代目笑福亭円笑)が弟子の好史(後の笑福亭円歌)、年々坊を連れて東上し、横浜の新富亭へ出演した。松輔は昨年(明治40年11月上席に名古屋富本席へ出たあと一足早く12月中席より横浜新富座へ出演した。明治40年12月14日付「都新聞」に「横浜の演芸会 大阪上りの落語家藤原鱗史(りんし)初御目見得にて、当地三遊派の連中十余名加入し、金馬主任者となり十六日夜より十五日間横浜新富亭にて催す」とある。東上にあたり、藤原年史形だけの師弟関係を結び、藤原鱗史と改名したのであろう。
 年史一行はその後東京の席へ出て、4月には京都へ帰ったが、松輔の鱗史だけは残り、5月末まで東京にいた。6月1日付「京都日出新聞」に「幾代亭は本日より一柳斎柳一、土橋亭りう馬、富士松ぎん蝶等が新たに加入する外、昨年より東京に出席して居たる松輔が鱗史と名を改めて戻り、枝太郎始め定連にて開場」とあるしかしこれを最後に鱗史も松輔も新聞記事から消えてしまう。
 再び笑福亭松輔へ 
 次にこの人の名前が出たのは明治43年1月1日付「名古屋新聞」で「富本席 今一日夜より東京大阪落語大会。司馬龍生、有村謹吾合併大一座にて開演。一座には一風松輔、一奴、三木三等なり」とあり、松輔に戻っている。
 この一座は2月に金沢へ乗込み、1日より一九席で興行した。2月1日付「北国新聞」に「一九席 本日より京阪落語大一座にて開演すべく初日の番組は左の如し。伊勢参宮二人旅(松雀)正月丁稚音曲手踊(三木三)あつ盛そば物真似(枝女太)新内並びに浮世節(升六)一休禅師(一風)廓ぞめき舞手踊(一奴)滑稽剣舞音曲手踊(謹吾)吉原八卦(武生)掛合(総出)」とある。なお「松雀」は松輔の誤植であろう。
 同年(明治43年3月、大阪へ戻った松輔は互楽派へ入った。32付「大阪朝日新聞」に「松島文芸館は一日より従来の一座へ福円遊、鯉遊、鯉カン、松助の四名が加入する」とある
 互楽派は松島文芸館を根城として明治36年頃に浪花三友派と桂派の向うをはって結成されたもので、凌駕するところまではいかなかったが、明治の上方落語界において第三勢力としてよく健闘した。松輔は明治44年7月頃まで同派に腰を落ちつけた。
 互楽派の機関誌『落語大福帳』創刊号(明治43年11月)の「演者の自白」欄に以下のように記されている。
 △生国、本名、年齢 大阪市南区瓦屋町 檀辻光蔵 四十二歳
 △女房子供の有無 一人だけあります。イエ女房だす。
 △略歴 落語家から幇間に成り、又落語家に戻ったり二○加師に成ったり、随分ゴタゴタして、一寸には云へまへんが、現今の芸名は中儉で幇間時代の名其儘だす。
 △神仏の信仰 金光教
 △崇拝せる人物 四代目松鶴
〈編者註〉この「四十二歳」を数え年として逆算し、生年を明治2年とした。
 明治44年5月に文芸館主催で互楽派の噺家の人気投票があり、トップは春輔で1160票を集めた。松輔は205票で、後ろから四番目である。互楽派の中でも人気がなかったようだ。
 明治44年5月25日付「大阪時事新報」に「互楽派の第二文芸館に出勤して居る笑福亭松輔といふは人に認められて居らぬ落語家だが、何か喝采を博する事もがなと考へてコノ頃本社の夕刊を楽屋入の前に読んでソノ日の出来事を種にして逸早く報告する事を遣りだした。ソレが為めにチヨツと歓迎されて居る」とある得意の「即席噺」の変形であろう。
 7月は林家正楽一座に加わり伊勢路へ巡業に出、16日より三重県津市和泉座で興行した。7月16日付「三重新聞」に、一座には「手踊に達者なる松輔あり」とある。4月に神戸の屋幸満席へ出たときも笛を吹いており、得意であった事が知られる。あるいは上述した泰西音楽学校で学んだものか。7月17付「三重新聞」には「第二回読者納涼会 落語手踊萬歳楽や仕掛花火の後で大阪名代の笑福亭松輔丈の落語、下座は仲のや小秀八百善の〆太君。松輔丈の妙技に至っては己に天下定評があるもので、彼是云う丈野暮。下座の二君に至っては流石は津一流の妓だと感心する程に巧く松輔丈と相応じて一段の趣に加えた。(後略)」とあり、伊勢では大人気であったようだ。
 笑福亭呂鶴
 伊勢路へ巡業のあと、互楽派には戻らず、同年(明治44年)10月15日より京都新京極笑福亭(三友派の席)へ出演した。10月14日付「京都日出新聞」に「笑福亭は明十五日より定連の外に滑稽画噺の呂鶴、五つ面足人形の竹芝、東京落語音曲の円都が新加入」とある
 互楽派を出たので松輔の名は捨て、呂鶴と改名したのである。
 当ブログの主宰者丸屋竹山人氏はこの改名について、互楽派時代の師匠であった笑福亭梅香(本名飛呂秀吉・吞んだの梅香)の本名の「呂」をとって「呂鶴」と改名したのではないかと推測されている。呂鶴は「吞んだの梅香」が死んだ後、笑福亭梅香を継いでおり、丸屋竹山人氏の推測は正しいと思われる。
 12月は神戸に赴き、2日より戎座、15日より屋幸満席へ出演した。戎座では「即席落語」、屋幸満席では「即席三題噺」をやっている。
 明治45年春、大隈柳丈、三遊亭円若一座に加わって中国、四国地方へ巡業し、3月1日より下関旭座で興行した。このとき呂鶴は「土橋万歳、百年目、植木屋娘、大丸屋騒動」をやった。京都、大阪の席では憚られるが、地方巡業では何をやっても許されたのであろう。それにしても大ネタばかりである。
 同一座は3月15日より博多川丈座へ移ったが、このときも呂鶴は「天下一浮れの屑選り、佐々木裁判、土橋万歳、立切り線香、大丸屋騒動、味噌蔵、植木屋娘、三十石」をやったが、終ったあと毎度余興として「
即席なぞ掛」を披露した。あるいはこちらが本命か。
 4月に神戸へ帰り、新開地屋幸満へ出演した。屋幸満には3月より三遊亭若遊三(渡辺吉寿)が乗込んでおり、気が合ったのか、6月、若遊三と一座して地方巡業に出た。この時若遊三は二代目三遊亭遊三の看板を掲げ、6月7日より姫路楽天座で興行した。その後四国へ渡り、6月18日より徳島緑館で興行した。呂鶴は20日に「辻占茶屋」をやり、その後で得意の笛を演奏した。
 同一座は天皇の喪があけた大正元年8月6日より京都明治座で興行した。811付「大阪朝日新聞京都付録」に「明治座は二代目遊三一行の東京落語、九日に一寸覗く。呂鶴の『お花伝吉』、曽呂利風の上方噺にチョイ〳〵巧い色も出すが、お笑ひが薄うて折角の話を淋しくした」とある。
 遊三一座と別れたあとは神戸に戻り、12月6日に屋幸満「親子茶屋」をやった。
 大正2年はずっと神戸で過ごした。
 1月12日、屋幸満で日曜会が開催され、呂鶴は「虱茶屋」をやった。
 7月1日より及び10月1日よりは新開地栄館へ、11月1日よりは生田前戎座へ出演した。
 四代目笑福亭松鶴の『知人名簿』に「神戸市楠公西門 粟おこし 寺嶋様方 笑福亭呂鶴」とあるのはこの頃の住所かと思われる。
 大正3年5月5日より三遊亭遊三、桂三路(後の二代目三遊亭円若)一座に加わり、博多相生座で興行した。呂鶴がやった演目は「即席問答、稽古屋、三十石、猫忠、仕込の大筒、天下一浮れの屑選り、百年目、植木屋娘」等で、噺の後に毎夜笛を演奏した。
 その後、遊三、三路について東京へ行き、6月下席に人形町末広へ、7月上席に金沢亭へ出演した。
 7月下旬、須磨海水浴場の余興の落語家芝居「夏祭浪花鑑」に出演し、女房おつぎを勤めた。
 8月20日より神戸湊川新開地都座へ、9月1日より戎座へ出演した
 大正4年2月から3月まで、桂三路一座が台湾新高館で興行した。2月23日付「台湾日日新報」に「新高館 本日より全部新写真と取替へ落語桂三路一座の総出演番組左の通り……(落語)笑福亭円二郎(落語、手踊)桂右三路(清元、浮世節)三□家小定(東京落語)柳家小よし(落語、笛、手踊)笑福亭呂鶴(天下一品曲芸)花川祐三郎(音曲、流行歌、浪花節)若輔事桂三路」とある。
 なお桂三路は昨年(大正
3年11月に台湾へ渡り、23日より朝日座で興行している。新聞には呂鶴の名前はないが、一緒に渡台したと思われる。そしてこの台湾での興行が呂鶴の最後の記録である。
 笑福亭梅香
 大正9年2月27日付「山陽新報」に「大福座 笑福亭梅香大一座にて二十七日午後五時より開演 女道楽部(小福、照子、小歌女、歌女、福太郎)落語部(枝吉、右路、三光、光、花太、右朝)」とある。この二流の一座を率いて岡山大福座で興行した記事が笑福亭梅香の初出である。互楽派で門下となっていた笑福亭梅香(本名飛呂秀吉・吞んだの梅香・明治44年没を慕っての改名であろう。自ら名乗っただけらしく、襲名披露を伝える記録はない。
 同年9月下席に反対派の京都新京極富貴席へ出演し、落語家として本格的に復帰を果たす。
 同年(大正9年12月7日、反対派の太夫元岡田政太郎が急死した。反対派岡田と吉本泰三の協力関係で興行されてきたが、岡田の死後、実権は吉本に移った。吉本は従来の岡田の興行方針を次々に見直し、新たに規約を作成した。これに反発した桂枝太郎らが、政太郎の遺児の政雄を興行主に据え、大正10年2月1日に岡田反対派を旗上げした。梅香もこれに参加した。『落語系図』の「岡田派連名 大正十年二月一日より」に「呂角改メ 笑福亭梅香」とある。
 しかし政雄にその能力も気力もなく、9月には興行権のすべてを吉本に譲渡してしまい、岡田反対派はあっけなく消滅した。それにより梅香は盆替りより吉本(吉本花月派)に所属した。
 大正11年3月19日正午より新京極富貴席花月連鹿声会が開催された。番組は 伊勢参宮(小太郎)ロクロ首(歌雀)蜜柑売(梅香)湯屋番(歌之助)軒付け(文雀)尺八手踊(扇遊)出世の書状(円歌)らくだの葬式(春団治)植木屋三蔵(文団治)である。
 同年(大正11年9月、吉本(吉本花月派)は三友派も合併し、大阪、京都の寄席と芸人をすべて手中に収めた。
 大正12211日発行の吉本の広報誌「演芸タイムス」10の「松竹座覗き芦風)」に「助力・梅香の掛合、助力の一人相撲ですこぶる貧弱」とある。助力はもと都枝と名乗っており、『落語系図』に二代目文の家かしくと初代月亭文都の門下に「都枝」の名がある。どちらかは判別不可。軽口をやったが助力の一人舞台であったというからいささか情けない。
 31付「大阪朝日新聞神戸付録」に「千代之座 本日から馬、米治の大看板に左の連中が出演する。春輔、かる口(助力、梅香)、都、講談小伯山、しん蔵、文雀、琵琶星花、馬、塩鯛、珍芸(久里丸)、米」とあり、神戸の千代廼座でも二人で軽口をやっている。
 6月、桂三木助一座に加わり四国へ巡業し、1日より徳島稲荷座で興行した。初日の番組に「…落語一人男(桂助力)落語即席(笑福亭梅香)軽口掛合噺(助力、梅香)」(徳島毎日新聞)と出ている。その後神戸へ戻り、6月21日より神戸千代廼座で興行した。ここでもまた助力と軽口をやった。
 7月10日より十日間、桂枝太郎一座で名古屋七宝館で興行した。この時も桂助力と一緒に行った。
 9月1日より昔馴染みの二代目三遊亭遊三一座で名古屋七宝館で興行した。この時は梅香だけだった。
 大正1311より笑福亭福円一座で朝鮮京城明治村浪花館で興行した。1月1日付「京城日報」の広告に「明治町 電話二六〇番 浪花館/當ル一月一日ヨリ 京阪落語若手揃大一座 浪花反対派幹部笑福亭福一行来る/御祝儀三遊亭福遊 噺桂千枝 落語笑福亭笑三 落語手踊桂呂之助 笑話林家卯三郎 落語音曲桂花丸 落語やりさび一遊亭一遊 落語珍語笑福亭梅香 東京落語橘家好 女道楽笑の家福子 三府浮世節橘の歌奴 落語笑福亭福 大切余興楽屋連中総出」とある。
 同年(大正13年11月、名古屋の因倶楽部に出演した。115付「名古屋新聞」に「因倶楽部 中京睦会諸芸大会は連夜大人気。入場料は十五銭均一で、梅香を加え、即席問答の景品も呈すと」とあるまた121付同紙に「因倶楽部 中京睦会演芸問屋は従来の一座へ若手花形数名が加入して出演の筈、因に出演順は手踊(福ノ家福助)音曲(三遊亭太郎)落語(古今亭さん輔)手踊(福ノ家小福)萬歳(福ノ家福平、玉ノ家源丸)落語手踊(柳家小重吾)足芸(福ノ家徳太郎)落語物まね(春柳むろく)落語問答(笑福亭梅香)三府浮世節(吾妻家小政)人情話し物まね(桂善次)扇盆踊(三遊亭鶴)新内浮世節(富士松島光)曲芸(吾妻家住太郎)藤間流所作事(福ノ家福太郎)」とある。そしてこれが梅香の最後の出演記録である。
 なお、昭和3年2月27日の「大阪朝日新聞」のラジオ欄に「桑名船 笑福亭梅香」とあり、たった一度だけラジオに出ている。因みにこの当時吉本は所属芸人のラジオ出演を禁じており、梅香はこの時すでに吉本を退社していたことが知られる。そしてこれが正真正銘、梅香の最後の記録である。没年未詳。(蹉跎庵主人)

〈編者註〉本稿は当ブログ丸屋竹山人氏の「落語家銘々伝 笑福亭光鶴」を再構築したものである。

 

五代目笑福亭松鶴①

           五代目笑福亭松鶴

 明治17年 1歳 
 9月5日、大阪師西区京町堀一丁目に生れる。本名竹内梅之助。生家は祖父巳之助、父寅之助と続く代々の大工職であった。梅之助も噺家になった後も一家を支えるため三十歳くらいまで大工職を続けた。 

 明治27年 11歳
 尋常小学校を卒業。父の大工の手伝いをする傍ら、芸事が好きで、幼い時から稽古屋へ通ったり、寄席へ落語を聞きにいくのを何よりの楽しみとしていた。

 明治30年 14歳
 京町堀橋西詰藤原という貸しボート屋で素人噺の会に飛び入りして「いかけ屋」をやる。この会をやったのは同い年の四季亭可遊、後の二代目笑福亭福円(武藤雄二郎)で、梅之助も四季亭梅咲を名乗り、この後長く一緒に活動した。

 明治32年 16歳
 父寅之助死亡。
 可遊と梅咲が中心となって素人仲間を集め、浪花落語三枝連を結成する。 

 明治35年 19歳
 6月20日から9月末まで、中之島公園の納涼博覧会の余興に三枝連が出演。このとき芦廼家梅咲と名乗る。

 明治37年 21歳 笑福亭光鶴となる
 11月3日、母とともに第三此花館に笑福亭枝鶴(後の四代目)を訪ね、弟子入りを申し込む。笑福亭光鶴と名付けられ、第三此花館で初舞台をふむ。年末、徴兵検査に合格し、野戦砲兵衛第四聯隊に入隊。
〈編者註〉
「松鶴無駄譚」第五回(昭和13年6月11日 大阪時事新報)に因る。

 明治38年 22歳
 日露戦争に従軍。

 明治39年 23歳 三友派の前座時代が始まる
 満期除隊して、4月より12月まで永楽館(6月上席のみ第一此花館)の前座として本格的な落語家修業が始まる。

 明治40年 24歳
 1月より12月まで永楽館の前座を勤める。

 明治41年 25歳
 1月より6月までと10月より11月まで永楽館、7月より9月までと12月は第一此花館で前座を勤める。
 光鶴は明治44年頃まで第一此花館や永楽館などで前座を勤めることになるが、「上方はなし」二十三集(昭和13年3月)に保里加輪という人が「脱線やら希望やら」を寄稿し、約三十年前の思い出としてこの頃の光鶴のことを綴っている。
 「その頃、此花館座付の二人前座のうち一人は人並以上背が高く、一人はいたって小柄。高い方は何でも京町堀方面より、小柄は上町より毎日電気のつかぬ時刻より帰りは皆しまって十一時半頃に西と東へ帰ります。…この二人の前座の話を聞きたいと思うが、時間の都合上いつもすんだ跡で失望ばかり。忘れもせぬ雨の降ったちょうどよき際、一番先に入場して待望の二人を初めて聞く機会を得ました。小柄は団幸という名前でした。次に出た大柄はとても名調子で素質がよく、これは有望だと直観しました。これが笑福亭光鶴即ち只今の五代目家元であります」

 明治42年 26歳
1月より2月までと5月に永楽館、それ以外は第一此花館の前座を勤める。
3月7日、永楽館で行われた三友派日曜会にはじめて出演し、初席で「紀州旅行」をやる。
 その後、5月2日、7月4日(共に第一此花館)に出演し、初席で「神の賑」と「高宮川」をやる。

 明治43年 27歳
1月から6月までと12月に第一此花館、それ以外は永楽館の前座を勤める。
7月15日、毎日新聞主催の浜寺公園大園遊会の仮装行列で猿蟹合戦の「臼」に扮する。
9月18日、日曜会(永楽館)で初席に「播州名所巡り」をやる。

 明治44年 28歳
1月より2月までと9月は第一此花館の前座を勤める。それ以外は不明。
3月26日、日曜会(第一此花館)で「近江八景」をやった。
◆7月15日箕面動物園の納涼台開き大阪時事新報の主催で変装競争が行われる。
 この変装競争に参加した噺家は桂派の桂雀之助、立花家千橘、桂文福、三友派の金原亭馬生、笑福亭松鶴、立花家円坊の六名。光鶴は師匠の影武者として美術学校の生徒に扮して園内を歩き廻らされている。
◆8月1日より新京極芦辺館へ出演する。
 「京都日出新聞」が芦辺館の上席の番組予定を毎日掲載する。光鶴は弟弟子の笑福亭鶴瓶(後の林家染八・
金谷伊太郎)の後に出て「兵庫船、八五郎坊主、高宮川、播州名所、小倉船、無物買い、生貝、魔風、口合根問、こぶ弁慶、嘘修行、吹替息子、蛸坊主、生貝、駕馬」をやった。
◆9月、生活苦のため一時廃業し、大工仕事に専念する。
 「演芸タイムス号(大正12年6月1日に「…四十四年九月生活の安定を得難き為芸界を去りて、職人として日を送る事十カ月、されど性来の道楽は止み難く、翌四十五年六月すずめ会創立と共に是に入会す」とある
 しかし10月、「神戸又新日報」の神戸新開地の屋幸満の上席、下席の出番表互楽派残党や素人ばかりの一座)に「梅咲」の名前がある。どうもこれは光鶴らしく、廃業を宣言したものの、落語への未練は断ちがたく、名前を素人時代の「梅咲」とかえて神戸でこっそり出ていたようだ。

 明治45年 29歳 寿々女会の設立
◆6月1日より桂派改め寿々女会が設立される。
 一時廃業していた光鶴は噺家に復帰し、師匠松鶴ととともに寿々女会へ参加する。
6月16日よりあやめ館で円馬、伯知二人会が開催される。
 この会に光鶴は前座で出演した。その時の失敗談を昭和9年1月30日付「大阪時事新報」で語っている。
 「大正元年でしたか、寿々女会と云ふものが初めて出来た時です。私のまだ前座時代で、何処の寄席でしたか、三遊亭円馬さんと講釈の伯知さんの二人会がありました。その時に私が一寸やらして貰ふことになりましたが、北の新地でお客さまに呼ばれまして一杯やつていたのが遅くなつて、電話が掛る、大あわてにあわてゝ駆けつける。それ待つてたんや、さよか大きに、云ふ工合でフワーツと高座に上つてしまつたのです。ひよつと横を見ると師匠が窓口からのぞいている。さあもう遅れたのと師匠から睨めつけられるのと一緒になつてカーツとして何を喋つていゝか訳が分らない。で、仕方がないから師匠の十八番の『くしやみ講釈』をやり始めたのですが、ところが途中ではつと気がついたのは、この後は伯知さんの講釈。講釈の前におどけた講釈の話をするのは、こりやいかんワイと思つたが、もうどうにも変へることが出来まへん。しやないと度胸を据えて真赤い気な顔して話し終つて引込みましたが、後で伯知さんが高座へ上られて『どうか前のお客さん、とんがらしをくべない様にして下さい』と言はれたので、お客はドーツと大受けに笑ひましたが、それを聞いてる此身の辛さ‥‥。いや恥かしいやら気まりが悪いやら、とにかくその一晩中ボーツとしてました。」 

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〈編者註〉上掲の写真(部分)は寿々女会設立の年にあやめ館で撮られたもの(「上方はなし」七集・昭和11年11月所載)。向って二列目左端が光鶴、右端が四代目松鶴である。因みに寿々女会がスタートした時の四代目松鶴の給金は円馬の百二十円に次いで二番目の百十円。光鶴は二十一番目で二十二円であった。

 大正2年 30歳
7月24日、妻スエとの間に出来た長男秀太郎が生後三ケ月で死亡する。
8月22日より和歌山県田辺市の錦水座に出演する。
 8月23日付「牟婁新報」に「鶴二、光鶴、遊朝等大阪東京真打連合併の落語すずめ会一行は、昨夜より錦水座に開演。何分当町始めての落語にてもあり、且つは大喜雨(だいきう)ありて人気頼みに一変せし折柄とて、大人気にて非常の喝采を博せり。一行今夜の語り物左の如し。明石芸者(鶴光)、宿替へ(梅花)、三人遊び(円花)、山火事(静子)、尻餅(光鶴)、稽古屋付舞「御所」(鶴二)、子別れ(遊朝)、大切滑稽勧進帳(弁慶鶴二、富樫鶴光)」とある。
◆9月、落語番付「浪花落語合同人名 大正二年九月場所」が作成される。。
 光鶴は西前頭十七枚目に「新町ぞめき 光鶴」と載る。前座は卒業したものの、中堅の下位といったところか。

 大正3年 31歳
◆7月1日より延命館へ出演する。

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 〈編者註〉上掲の絵ビラは『藝能懇話』三号(平成2年)所収。
◆12月21日より法善寺蓬莱館へ出演する。
◆12月22日、妻スエと協議離婚。

 大正4年 32歳 寿々女会の瓦解
◆9月、寿々女会が瓦解する。
 7月、寿々女会の仕掛人であった永楽館が離脱、三友派に復帰した。この時点で寿々女会は形骸化したといっていい。
「五代目松鶴の手帳」(『藝能懇話』第十一号・平成9年)によると、8月1日より巡業に出、泉南郡鳳村野田市場、福知山広小路常磐館、西舞鶴大黒座、宮津新浜有楽座、若狭小浜西津帝国座で興行し、8月28日に帰阪、9月1日よりあやめ館と正寿館、8日より新町福竹亭に出演したが、9月20日に寿々女会は解散したとある。
 根城としていた法善寺の蓬莱館は反対派に買収され、10月1日より南地花月と改称した。あやめ館も12月1日より三友派の席となった。松鶴はしばらく休養し、光鶴は神戸へ赴いた。
◆10月11日より神戸日の出座と大和座へ出演する。
 10月11日付「神戸又新日報」に「日の出座 本日よりの出番左の如く大切に連中総出の喜劇箱入娘を出す。都枝、正輔、扇造、正楽、二郎、鶴吉、一円、円三郎、三升、天坊、春輔、光鶴、萬光、花橘」とある。
 正楽は六代目林家正楽(織田徳治郎)で、大正元年末に互楽派が瓦解したのち神戸に移っていた。光鶴は神戸へ来て以来正楽に「猫忠」や「子猫」など多くのネタをつけてもらっている。そして正楽の家に頻繁に出入りしている内に養女織田あさのといい仲になった(正式な婚姻届は大正7年8月27日に出す)。
11月、三代目橘家円三郎(山本庄太郎一座に加わり四国へ巡業し、11月11日より三日間徳島の緑館で、11月26日より高松の常盤館へ興行した。光鶴は緑館では「口入屋」、常盤館では「猿後家」「禁酒関所」「お文さま」をやった。その後神戸へ戻り、日の出座と大和座へ出演、そのまま越年した。

 大正5年 33歳 新桂派に加入
1月より6月まで神戸の大和座、栄館、戎座等へ出演する。
◆7月に大阪へ戻る。
 「五代目松鶴の手帳」(前掲)に「大正五年 七月壱日より大阪桂派出演 松島文芸館・第三文芸館・北新地北陽館・新世界芦辺館・千日前ニコニコ館、本町文芸館、千日前三友倶楽部」とある。
 大阪桂派とは大正2年11月に寿々女会を飛び出した桂枝雀が設立した「新桂派」であるが、一年後の11月に張本人の枝雀が離脱、京桂派へ移った。残された連中(ほとんど二流の芸人)が安い木戸で上述の端席でやっていたが、真打株がいないので神戸から正楽と光鶴が招かれたという(「噺家五十年」)。 
8月12日、あさのとの間に長女竹内壽美子誕生。壽美子は後年和多田清太郎と結婚し、笑福亭小つる(和多田勝)の母となる。
◆9月21日より新桂派の松島文芸館、芦辺館、三友倶楽部、ニコニコ館へ出演する。

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〈編者註〉新桂派の出番表(部分)『上方落語図録』(大阪藝能懇話会・令和3年)所収。
11月、天満の宮崎八十八所有の宮崎亭が三友派より新桂派の席となる。

 大正6年 34歳 三友派に復帰
1月1日より宮崎亭が「大八会」を組織する。
 新桂派の芸人を多く取込み、3月には新桂派は大八会に完全吸収され瓦解する。
この間の光鶴の動静は知り得ないが、最後まで新桂派にいたようである。
8月1日より正楽と共に神戸の千代廼席へ出演する。
◆9月1日より師匠松鶴が三友派に復帰したのを機に光鶴も大阪に戻り、五年ぶりに三友派の席へ出る。
10月28日、久し振りに京都芦辺館の日曜会に出演し「四天王寺鐘の供養」をやる。
◆11月25日、紅梅亭の日曜会に出演し「牛の丸子」をやる。

五代目笑福亭松鶴②

 大正7年 35歳  笑福亭枝鶴を襲名する
8月17日、長男竹内日出男(後の六代目松鶴)誕生。8月27日、あさのとの婚姻届を提出する。
11月、二代目笑福亭枝鶴を襲名する。
 この襲名を強く推したのはあやめ館の片岡忠行であったという(「噺家五十年」)。
 光鶴は襲名に必要な手拭、扇子、印し物等に品物を誂え、贔屓先へ配って歩いた。そして11月16日あやめ館、18日紅梅亭で披露興行を行った。『藝能懇話』四号(平成3年)に改名披露演芸会案内状(下図)が載っている。

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時下益々御清福の段奉賀候。陳者今度門下光鶴へ二代目枝鶴名儀、御ひいきの御勧めもあり相つがせ候事に相成り、何卒私同様御引立ての程希い上げ奉り候。笑福亭松鶴/今度師の許しをうけ二代目枝鶴と改名いたす事に相成り、何卒御愛顧御引立ての程御願い申し上げ候。光鶴改め二代目笑福亭枝鶴/枝鶴改名披露演芸会、左記の通り開催仕り候間、御誘い合され賑々敷御来場の程希い上げ奉り候。 浪花三友派/来る十一月十六日午後五時より御霊あやめ館 十七日正午より南地紅梅亭出演
〈編者註〉紅梅亭は実際は17日ではなく18日に行われた(『六代目笑福亭松鶴』岩波書店・平成16年)。
12月8日より京都芦辺館で襲名披露特別日曜会が開催される。
 番組は
鳥屋坊主(枝女太)、阿弥陀ケ池(鶴蔵)、ほうそう息子(玉輔)、蔵丁稚(文如)、桃太郎(三八)、しやくり裁判(松鶴)、改名披露挨拶、常磐津忠臣蔵二段目(政太夫・式松)、天王寺詣り(枝鶴)、雁風呂(三木助)である
◆この年のこの外の日曜会出演は光鶴の時に5月19日(芦辺館)「性は善」、5月26日(芦辺館)「新猫」、6月16日(紅梅亭)演目不詳の三回、枝鶴になってからの9月22日(芦辺館)「慾の熊鷹」一回である。

 大正8年 36歳
◆3月30日正午より京都の芦辺倶楽部で中央乃木会京都委員部後援寄付大演芸会開催される。
 
乃木会講師西岡小羊講演したのち余興として三八、文之助、かしく、蔵之助、枝鶴、文団治、残月らが出演した。会費五十銭
◆この年、紅梅亭の日曜会に四回(1月19日・2月16日・6月8日・11月23日)出演しているが演目がわかっているのは6月8日の「りんきの独楽」だけである。また11月16日の京都芦辺館の日曜会に出演し「宿屋仇」をやった。

 大正9年 37歳
8月29日、三男竹内保孝誕生。
9月、寿法寺に四代目松鶴が三代目松鶴の墓と笑福亭代々の碑を、四代目松鶴門人が四代目松鶴の生前墓を建立する。
この年、紅梅亭の日曜会に二回(3月21日・6月13日)出演し「口合小町」(6月)をやった。また京都芦辺館の日曜会に二回(6月27日・11月14日)出演し「宿屋富」と「恋の色紙」をやった。

 大正10年 38歳 市民館での落語会
7月、好事家が「浪花落語家仇名見立」という番付を作成する。
 枝鶴の仇名は「馬方八蔵
」とあり、添えられた狂歌は「馬方の口悪るわるく達者也 それでも人は面白くきく」とある。馬方八蔵は歌舞伎の「恋女房染分手綱」に出てくるが、ここは落語「後家馬子」の方であろう。
『文芸倶楽部』第27巻第8号(大正10年6月)に「三友派の高座を観ると、入込のドガチャン時間に染雀、米花、文奴、小枝鶴と精々鳴物入で賑かした後へ若手中で人気者枝鶴が今にもお客様を出歯(でば)りさうな面構(つらがまえ)をして高座に坐る。噺は『高津の富』、ノッケから大束に出るお爺(やじ)の風呂敷が莫迦に大きく見えてる、此辺(ここいら)が此鹿(このひと)の身上だ、時間の浅い時に恁(こ)んな噺をしては損だと承知しながら平気にやるだけ傑い。(後略)」とある。
9月18日午後1時より市民館講堂で落語会が開催される。
 9月17日付「大阪朝日新聞」に「落語研究会 落語が他の民衆娯楽に比して非常に後れているのを概して、若い落語家連が市民館の後援のもとに民衆落語研究会を組織して之が改造の運動を起すことになつた。最近市民館で協議会を開いて、其の席上次の様なことを決定した。即ち毎月一回宛の試演と公演、機関雑誌の発行、之れには専門家の批評や新作落語の発表其の他一般同好家の寄書を歓迎する。試演は専門家同好家を請待し、新作落語を発表し、同席上忌憚なき批評を乞ひ、公演は右の研究を公に発表する考へである。第一回の試演は来る十八日午後一時より市民館講堂で行ふ。入場券は申込次第進呈るとのこと」とある
 市民館は「中産階級以下の娯楽機関」として今年6月、北区天神橋六丁目交差点東側(現在大阪市立住まい情報センターがある場所)に建てられたもので、鉄筋コンクリート四階建ての堂々たるものであった。のちに大阪市社会事業の拠点となるが、設立当初は民衆娯楽の促進を目的とし、今度落語に目をつけ、落語の改造運動と称して浪花三友派の若手の落語家を集めて月一回落語研究会を開催したのである。
 「噺家五十年」によると、年代は不明ながら枝鶴になってから小枝鶴、とん馬(後の四代目円馬)、玉輔(三代目文都の忰)、米之助(後の四代目米団治)、軽口の一円、鶴蔵ら三友派の若手を集めて「つぼみ会」を組織し、三友派の日曜会の次の日曜日の昼席に落語会を開催した。第一回は紅梅亭、第二回は延命館、第三回は永楽館でやったところ好評で、北の市民館から毎月第一日曜に公演してくれと申込んできたのだとある。
 第一回の番組は医術の進歩鶴蔵、地震加藤玉輔)、意見一円、迷信(柳家小はん鶴見正四郎鴻池の犬である枝鶴ある。
 『寄席』第十五号大正10年10月1日)に「私が入場した時は二時で、場内は七分位の入りでした。演題と演者は、第一「医術の進歩」鶴蔵、第二「地震加藤」玉輔、第三「意見」一円、第四「迷信」小はん、第五「吾が輩は犬である」枝鶴でした。終つて話の批評をしてくれと云ふて居ましたが、寄席とちがつて四角張つた講堂では話の穴や改良の点を即答する人もありませんでしたが、しまいには種々な議論が出て来ましたので、それでは特志家はハガキで改良すべき点を教示して下さいと云ふ事で閉会しました。兎に角極真面目な会ではありました。
(中略)右試演中、枝鶴のやつた「吾が輩は犬である」などは犬の生活や犬の対話で落ちがつくと云つたやうなもので、銑練[洗練]されていない故か、お伽噺のやうな気がしましたが、落語界[会]の試みとしては一寸飛びはなれた新らしいものでした(後略)。(大森勝」とある。
 なお鶴蔵、一円はこれ一度きりで、第二回からは米之助、第三回から笑福亭光鶴(池田熊吉)がメンバーに加わった。
 市民館の落語会は大正13年11月16日の第三十七まで続いたが、枝鶴は大正12年6月17日の第二十一回で抜けている。真打株の枝鶴がこうした会に出演していることに対して吉本の側からクレームが出たのかも知れない。米之助も降板し、大正12年7月15日の第二十二回より小はん、玉輔、光鶴、笑福亭福円武藤雄二郎)、桂梅三谷口三郎)とメンバーが変った。
 第一回から二十一回までに枝鶴がやった演目は順に「鴻池の犬、慾の熊鷹、盗人のあいさつ、吉野の花山、(大正11年)悋気独楽、小猫、桜の宮、人形買、しやくり裁判、チリトテチン、小々波(さざなみ)丁稚、天王寺、らくだ、植木屋、しり餅、(大正12年)当り獅々、理髪、神酒徳利、鍬潟、(休席)、雪こかし」である。

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〈編者註〉市民館の出番表(部分)『上方落語図録』大阪藝能懇話会・令和3年)所収。
◆この年、紅梅亭日曜会は三回(2月13日・6月19日。11月13日)出て「子猫」(6月)を、京都芦辺館の日曜会には一回(3月6日)出て「吉野花山」をやった。なお大阪も京都も枝鶴の三友派日曜会出演はこれが最後である。

 大正11年 39歳 三友派から吉本花月派へ 
2月18、19両日、綾小路富小路西入富楽館にて京都日日新聞読者招待大演芸会が昼夜二回行われる。 
 昼の部は演芸会
夜の部は活動写真であった。枝鶴も18日に出演し、落語(演目不詳)と余興の喜劇をやった。2月20日付「京都日日新聞」に「…枝鶴君の老巧ぶりには感嘆の声を放つた。最後に喜劇「性は善」では枝女太、枝鶴、福円、扇太郎の四人がそれ〴〵得意の特長を見せて最後迄見物を立たしめなかつたのは感心の外はない。これにて昼の部は打出し」とある。19日は出演しなかったのか、喜劇「性は善」で三八が枝鶴の代役を勤めた。
2月22日より28日まで京都新京極中座で東京の梅坊主一行の大演芸会が催される。
 大切の落語家芝居
本朝二十四孝・十種香が行われ、枝鶴は八重垣姫を勤めた。2月27日付「大阪毎日新聞京都滋賀付録」に「枝鶴の八重垣姫は見物に背を見せて回向している間が身上。顔を見物にむけるとチョッと場をどよめかすのは珍面の徳。首を左右に振りながら手を互(たがい)ちがひに動かす丈けで、声は思ひ切つて悪く、調子はあどけない。何よりも真面目なのが一ばんいゝ」とある
5月21日正午より紅梅亭にてとん馬改め三遊亭小円馬改名披露会が行われ、枝鶴は列席し「崇徳院」をやった。
6月11日正午より紅梅亭にて四代目橘家円蔵(大正11年2月8日死亡)追善落語会が開催され、枝鶴は列席し「天王寺詣り」をやった。
6月23日、大阪府保安課主催の落語家懇談会が催される。
 
6月24日付「大阪毎日新聞」に「落語を時代に適するやう改善しやうとの趣意で、大正11年6月23日正午から大阪府保安課が府会議事堂にて官民合同の落語懇談会を開催した。三友派、大八会、花月連の代表者と市内各署の興行取締委員を加へ百五十名が舞台着の紋付や厳めしい官服で議事堂を埋めた」とある。塩鯛、円枝、文雀、春団治、米若、枝鶴、扇枝の順に俄造りの高座にあがり一席やった。枝鶴の演目は「泥棒の仲裁」である。実演のあと栗原文学士からその筋として好ましくない点、改作すべき点指摘説明がり、それに対して落語者側からも注文が出て種々懇談を重ね、この辺なら差支ないとい基準を協定し、午後四時散会した。
                    ※
9月1日、吉本花月派(後の吉本興業)が三友派を併合し、関西演芸界の覇者となる。
〈編者註〉枝鶴も中堅の噺家として吉本の一員となり、これより後、昭和12年に退社するまで枝鶴は南地花月、北新地花月倶楽部、新京極富貴の一流席及び天満花月、松島花月、京三倶楽部、瓢亭、三光館、松竹座、延命館等の吉本の席へ出演し続ける。いつどの席へ出たかはある程度わかるが、それを一々記していてはあまりに煩雑にすぎるので、これよりは単なる出演記録は省き、具体的な出来事をのみ掲載することとする。 
11月1日から南地花月亭で、11月11日より北新地花月倶楽部で舌戦得点会が開催される。
 最初の出演者は三代目桂扇枝、二代目立花家花橘、桂塩鯛、桂文治郎、笑福亭枝鶴、橘家勝太郎(気取家延若)の六名である。

        11年 574
 
 上掲の開催を知らせるビラ(『藝能懇話』第八号・平成6年所収・下掲のビラも同様)によると、投票によって若手落語家を競わせ、自覚と覚醒を促し、もって芸の進歩を促そうというものである。
 投票結果は
一位文治郎(1694票)、二位枝鶴(1576票)、三位勝太郎(870票)、四位花橘(219票)、五位扇枝(196票)で、なぜか塩鯛の得点は記されていない
 なかなか好評だったため、場所を北新地花月倶楽部に移して11月11日より十日間、第二回舌戦得点会が開催された。
         11年 002
 
 出演者は塩鯛に代って
金原亭馬琴が入った。
 第二回目の投票結果は一位枝鶴(800票)、二位勝太郎(792票)、三位扇枝(522票)、四位文治郎(425票)、五位花橘(308票)、六位馬琴(270票)。主催者の吉本興行部は第一回の南地花月亭と二回目の花月倶楽部の合計で上位三名──枝鶴(2375票)、文治郎(2119票)、勝太郎(1663票)──に賞品を贈呈した。
 またこの企画の後援者である大阪日日新聞社は独自で一般読者から葉書で人気投票を実施した。
 その結果一位花橘(
9615票)、二位枝鶴(5361票)、三位文治郎(3085票)、四位勝太郎(249□票)、五位
枝(1383票)、六位馬琴(47□票)であった。

         11年 573

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丸屋竹山人

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