桂家残月①

  桂家残月

 IMG_20230121_0003本名、小野菊水。明治71128日、東京に生れる。

 残月楼菊水 

 父は東北五万三千石の某藩の郡奉行をしていたが、維新後東京へ出た。十八歳の時に軍人を志して教導団(陸軍下士官養成機関)に入ろうとしたが体格により不合格となり、ならば弁護士として世に立とうと決心して明治法律学校(後の明治大学)へ入学したが、父が事業を失敗して帰国、学費が続かず中途退学した。その後、吉原貸席彦太楼の支配人をしていた浅草馬道に住む伯父の家に転がり込んだはいいが、すっかり魔界の捕虜となり、自堕落を絵に描いたような青春を送った。その内伯父がわけ合って逐電してしまったため、絶対絶命のピンチとなり、食うためにボール箱製造人となり、大道の果物売りとなって柿や林檎等の果物を背負って「柿はいりませんか、林檎はいかがですか」と景気のよい声をあげて町中を売り歩いた。最後は車夫とまでなり果てたが、やがて伯父と再会して再び居候となった。心機一転、真面目な仕事に就こうと監獄の押丁(おうてい:旧監獄官制で看守長や看守を補佐した下級の職)に勤めた。しかし不幸にも病気のため辞職することとなり、躊躇逡巡のすえ川上音二郎の門弟募集に応募して壮士俳優となったが、思うところがあってすぐに辞め、三代目真龍斎貞水(のち二代目錦城斎一山)の門人となり、残月楼菊水と名乗って釈師の道を歩みだした。それが明治26年の頃である。

 講釈師としての初舞台は名古屋の富本だった。「塚原武勇伝」をやったがまったくうけず、あくびならまだしも煙草盆をコツン〳〵と叩いて妨害される始末だった。その後久本亭でもやったが客は一人も来ず、大州の桔梗家という大きな饂飩屋へ奉公して茶碗洗いの日々となった。講釈師として身を立てようと決心した以上、いつまでもこんなことをしていてはいられないと、一念発起して岐阜の今小町にある関本席へ押しかけ、無理やり出演の許可をとり、日清戦争談をやったところ、これが時流に合って大当たりをとり、ようやく講釈師としての第一歩を踏み出した。その後しばらく東京に腰を落ちつけ、時々関東周辺の地方廻りなどをしていたが、明治33年に九州方面へ巡業に出、中国地方から四国へ渡り、更に岡山、津山、鳥取から播州龍野を廻り、明治344月に大阪へやってきた。

 以上は明治41624日から78日まで「九州日報」に七回連載された「残月の身上話」をまとめたものである(当ブログに掲載)。講釈師見てきたような何とかで、どこまで本当なのか、まったく信用の限りではないが、ただ明治344月に大阪へやって来たこと、これだけは事実である。

 大阪へ来る

 明34410付「大阪毎日新聞」に「 三友派の定席へ来る十五日より独楽まはしの松井源水と同菊水が出勤する由」とある。また415日付「大阪朝日新聞」には「客臘円遊一座と共に来阪して好評を博したる独楽廻しの十六代目松井源水、改良講談残月楼菊水は今十五日より三友派の各席へ出勤し、若柳燕嬢も帰京を見合せて前記一座と共に今く姑らく滞在する由」とある。下図は『桂文我出席控』四冊目・四十八丁裏で、「四月ニハ女燕嬢、駒源水、菊水」とあり、この三人が明治34415日より東区平野町第一此花館、西区江戸堀第二此花館、堀江賑江亭、南地法善寺紅梅亭の三友派の席へ出たことが知られる。


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 51日付「大阪毎日新聞」に「新講談残月楼菊水は本日より藤田伝三郎氏の伝記を講演する」とある。6月は神戸の楠公社内第一湊亭、三宮社内第二湊亭に、7月は京都笑福亭へ出演した。そして8月は笑福亭円篤一座に加わって金沢の新富座と小福座へ出演した。新富座は15日まで、小福座は12日まで公演した。その間に菊水のやった演目で判明したのは「英語の商人、軍事探偵独芝居、軍事探偵南京松、都新聞伊達芸者好の小紫自由演説の弁士、娘演説軍人の涙花嫁の引戻し、娘演舌桐ヶ谷の嫁おどし、朝野開説軍事探偵南京松清国公使館身振芝居、軍事探偵」である。演目紹介が乱雑でわかりにくいが、このころ都新聞探偵実話シリーズが金槇堂から刊行されており、そのうちの『軍事探偵南京松』(明治31年刊)を持ちネタとしていたようだ。

 桂家残月

 よほど上方が気に入ったのか、金沢から帰って来た菊水は大阪に居ついてしまった。そして講釈師の仲間ではなく、当時三友派のドンであった二代目桂文団治(七代目文治)の身内になり、「桂家残月」と改名し、明治3491日よりの三友派各席の盆替わりの看板にその名前を掲げ、大阪での芸能生活をスタートさせた。文団治もこのちょっと変わった東京者を暖かく迎え入れ引き立ててやった。

 明治3541日より京都の笑福亭へ出ていたが、政府の役人を揶揄するようなことを言って前受けを狙ったらしく、514日付「京都日出新聞」に「新京極の笑福亭に残月とかいふ者が居る、暗に政府の役人を攻撃して解らずやの喝采を博して居るが、こんなことは余り感服しない」と書かれている。

 明治3661日より姫路堅町幾世席へ出席していた時、女房が死亡したという知らせが入り、急ぎ大阪へ帰った。代りに笑福亭松光がスケに入った。『桂文我出席控』第四冊目・十四丁裏に「六月四日ニ残月の家内死去ニつき四日のひるから大阪へかへる。五日より松光は入」とある。

 明治37128日から30日まで京都西堀川菊の家で大演芸会が開催された。これに出席した残月は30日に「小松宮殿下御美徳」を演じた。この頃は小松宮彰仁親王(明治362月没)をよく講じている。探偵ものと並んで皇室ものも持ちネタとしており、さらにこの年2月から始まった日露戦争は残月に多くのネタを提供し、しばらくは日露戦争もの一色の様相を呈した。

 残月の新講談は「動作入立ばなし」と標榜し、ただ立ってやるだけではなく動作まで添えてやった。同年425日付「神戸又新日報」に「湊亭 …次は桂家残月の身振り講談だが源氏節の身振り、浮かれ節の身振り、萬歳芝居ときて、今度は講談の身振りとなっては昔の『ご記録読み』から今の『御前講談』とまで価値をあげた先生連は泣くだろう。しかし東京ではギャフンにもせよ大阪三友派に四年も五年も尻をすえられた技量と新派の講談をやるだけは感服」とある。

 残月の立ばなしについて二代目桂三木助は「新講談のやうな極くハデな立噺で、一々舞台を歩いて動作によつて見せた」(『ヨシモト』八月創刊号・昭和108月)と語っている。

 同年(明治37年)71日より名古屋富本席へ出演し、日露戦争九連城より南山、得利寺、熊極城に至る実況を演じた。73日付「新愛知」に「目下興行中の落語家桂家残月一座は軍人の労を慰むる為、今三日午後一時より五時迄軍人に限り無料にて観覧せしむる由。尚興行中の土曜日曜は軍人に限り総て無料なりと云う」とある。14日で打ち上げ、奈良へ移った。

 715日より奈良尾花座へ出演した。ここでも日露戦争の講談をやった。718日付「奈良新聞」に「さてドン尻に控へたる桂家残月の日露戦争話は先生題して『武装話』と云へり。残月の所謂『武装話』なるものは、能く幾百の聴衆に納得を与るかと危みしに、流石は残月なり。旅順閉塞の講談、有馬中佐出発の模様より天津丸が敵弾雨飛の中に突進する暗澹の光景を眼に観る如くに説き去り説き来り、其間一々形容して面白く遂に座礁するに至る迄巧みに講演にて聴衆を満足せしめしは手柄なり。残月の『武装話』は確かに成功せり、彼は尤も進歩せるハイカラ講談師として成功せるものなり」とあり、この時流にのった新講談はえらくほめられている。

 小野残月と改名

 同年(明治37年)9月、二代目桂文団治が浪花三友派の席亭と確執を生じ、一門を率いて大阪三友派を旗上げした。残月も客分ながらこれに従ったが、大阪三友派は経営的にも苦戦が続き、またこの分離に対する文団治のごりおしに同調しかねる思いもあり、やがて離脱した。とはいえすぐに浪花三友派へは戻りづらく、121日より京都の桂派の席である幾代亭へ出演した。この時「桂家」の亭号を文団治に返上し、本姓を亭号として「小野残月」と名乗った。1219日付「京都日出新聞」に「幾代亭出勤の(小野)残月と称する講談師は昨夜より某聯隊の帰来将校の実践談を講演せる由」とある。

 1224日、京都の文化人の集まりである嚶々会の百三十三回例会が河原町の能楽堂で開催された。残月はその余興の一人として出演し、得意の小松宮殿下美談を講じた。1226日付「京都日出新聞」に「次が新講談、小松宮殿下として小野残月丈、羽織袴で登場、突立ち乍ら湯を呑む躰はチト訝(おつ)だが、姿勢を正して演じ出したは下野佐野近傍、参謀演習に高山彦九郎翁の墓参する小学少年を御扶助あつた美談で、日清戦争が搦まり演者の動静声色の抑揚よく現状を模(うつ)し出した時節柄に適応するので、当夜の圧巻とした」とある。

 翌明治38年正月より浪花三友派に「返り忠」(復帰)をした。ただ名前は小野残月のままであった。125日付「大阪新報」に「浪花三友派より大阪三友派へ脱走したる講談師桂家残月は、今回両派協議の上、小野残月と改名して、この程より更に浪花三友派の各席に顕れ、本紙に掲載中なる日露合戦記を連夜講演して、頗る喝采を博し居れり」とある。

 同年(明治38年)7月に和歌山紀国座へ出演した。74日付「紀伊毎日新聞」に「…最後は例の残月の日露戦争談、其進歩したるところ喜ぶべだ。此の中に生粋の江戸子弁で以つてなめらかに喋り立つところ垢ぬけてしてよい」とある。 

 同年(明治38年)9月、大阪三友派は瓦解し、文団治は礼を尽して浪花三友派へ復帰した。先に大阪三友派を離脱していた残月はさすがにバツが悪かったのか、奈良を打ち揚げたあとまた京都の幾代亭へ出演した。二ケ月程居たのち、どう話合いがついたのか、111日より浪花三友派各席へ出演し、「桂家残月」の名に戻ることも許された。思えば、文団治のゴリガンに振り回された一年であった。

 桂家残月に戻る

 明治38621日、俗にいう堀江六人斬り事件が起き、当時十七歳の妻吉は両腕を斬られた。傷が癒えたころ三友派から誘いがあり、111日より松川家妻吉と名乗り、相方の妻奴とともに高座に出ることになった。これはたちまち評判になり、いま話題の妻吉を一目見ようと大勢の客が詰めかけた。翌年(明治39年)には京都、神戸、名古屋と巡業し、41日より東京の三遊派の寄席へ出ることになった。東京へは二代目桂文之助と桂家残月が同行し、両人が妻吉御目見得の口上を述べた。東京でもたいへんな人気で、同じ時期に東京へ来ていた桂派の三代目桂文枝をすっかりくってしまった。妻吉は6月には和歌山方面へ巡業した。残月はこれにも二代目文団治、二代目米団治(後の三代目文団治)らと同行し、61日より紀国座、611日より黒江朝日座、615日より堺天神席で興行し。これまたどこも大入り満員であった。

 明治407月、久々に神戸へ行き、1日よりいつもの第一、二湊亭へ出演した。そして722日の湊亭の日曜会で「閑宮院智恵子妃殿下」を講じた。翌年(明治41年)正月も湊亭へ出演した。18日付「神戸又新日報」の湊亭評に「…新顔の何とかいう落語家が、又もババの話、アア厭だと思つた後が、残月の講談でホットした。得意の広瀬中佐は朝日座を見るが如く背景が欲しかつた。近来残子頗る腕を上げたは事実である」と評されている。

 明治411116より九州博多川丈座に出演した9月にも博多へ来ており、上述した「残月の身上話」はその時「九州日報」に連載されたのである。その冒頭「皇族方の御令徳を身振り入りで高尚に語り一席毎に必ず聴衆を泣かしめざるなき講談社会の革命児にして、又昨今の当りッ児なる桂家残月が今日兎も角一派の芸風を樹立し真打株として成功するに至りしまでの修養談苦心談」(624日 九州日報)なりといささか大袈裟に紹介されている。

 この当時、桃中軒雲右衛門が出て浪花節に一大変革をもたらし、日本国中に浪花節ブームを巻き起こした。中でも九州は浪花節熱が強く、座主の扱いもまるで違っていたらしい。そのことを残月は「身上話」で「…講談師社会が保守主義でばかり居つては誠に困るのです。だから浪花節に勝利を占められる。今の所では九州の席主なぞはうかれ節の先生、講釈師の奴位に思ふて居るやうです、……残念ですよ」と語っている。この悔しさが残月が新講談をめざした原動力のひとつとなっていたのだろう。

 川丈座のあとは長崎栄之喜座へ行き、1215日に初日を開けた。初日は木戸銭を無料とした。ここでは珍しく「義士伝」を読んだ。ただし古典物とはいえ、テーブルは置かず、立ったままで演じた。1218日付「長崎新聞」に「…残月の道具掛けにて机も置かず素手にて立った儘の講談振りは却々面白し」とある。

 明治424月にも博多川丈座に出演し、「義士銘々伝」「山本海軍大将」「探偵実話」等を講じた。

 明治43120日付「東京朝日新聞」に「狡猾同士の懸引」と題して「大阪の落語家桂残月は今度東京に乗込み、講釈師として打って出るに就ては、伯円の名を相続せんとて、八丁堀の住吉亭に楯籠つている伯円の意向を探らしたが、耳を揃えて五百円ならばと吹き立てたに、狡猾にかけては伯円も三舎を避くる残月のこととて、五百円は高すぎると掛合中だが夫程騒ぐ名でもあるまい」という記事がでている。この伯円は、明治時代に大人気を博した二代目松林伯円の弟子で、明治34年に三代目伯円を継いだが振るわず、この頃は逼塞していた。この話は結局オジャンになったようで、残月が四代目伯円になることはなかった。

 新柳小歌

 新柳(新橋トモ)小歌は東京日本橋の芸妓で、九代目市川団十郎の養子の五代目市川新蔵との間に一子をもうけたが、明治3037歳で新蔵が死亡、その後女道楽として寄席に出、明治395月に大阪へ来て残月と一緒になった。いつのことなのかはっきりわからないが、残月が明治4011月から12月にかけて小倉育盛座、門司凱旋座、博多川丈座、下関弁天座、広島胡子座、西宮戎座を巡業したときずっと一緒に廻っており、この時にはすでに結婚していたと思われる。その後も小歌は満留吉や喬之助を相方に女道楽を続け、夫婦共稼ぎの高座となった。

 明治44年の正月は東京で迎えたが、13日付「東京朝日新聞」に「桂家残月といふ男は仲間に響き渡つたヤキ家で、女房の新橋小歌が楽しんで他の男芸人と睦じく話でも交すが最後、突然拳骨をお見舞ひ申して騒ぎを惹起(ひきおこ)す事も度々だが、此間も桂小莚と何か話したとて強(ひど)く例の病を発した所から楽屋では『残月小歌をどやす』とモジつて大に流行らせている。一方残月はまた頻りに揉消運動をやつているとは存外気の小さい奴だ」とある。因みに桂小莚は後の八代目桂文楽である。この時数えて二十一歳。

 2は大阪へ帰った。131日付「大阪朝日新聞」に「桂家残月、新柳小歌の両人、一日から久々で三友派の各席へヘイ替り合ひまして」とあり219日に永楽館で行われた日曜会に二人一緒に出て、残月は講談「近代逸話」を、小歌は清元「里の春」をやった。しかしこれが小歌の最後の記録で、月日は不明だが、まもなく死亡した。325日付「東京朝日新聞」に「チン〳〵家の残月も女房の小歌が大阪の旅で死んで了つた以来、ぶん撲る相手がなくなり、昨今席へ出てもひどく無常を感じ、情けない事ばかり言つてジメジメしているさうだ」とある。なお新蔵との間に生れた子(本名増田繁太郎)は大正中頃から小残月と名乗り、残月の死後桂(桂家)残月楼と改名し、義父と同じ新講談の道を歩んだ。六代目三遊亭圓生『明治の寄席藝人』(青蛙房・昭和51年)に「おとっつァん(残月)がやったように、立って、テーブルも何も置かずに、その当時の宮様のお話といったようなものを演りました」とある。しかし義父ほと成功はせず、昭和6年前後に若死にしたという。

 小歌の死が原因かどうかわからないが、5月に三友派の席を退いて互楽派へ移った。51日付「大阪朝日新聞」に「互楽派落語の各席等は従前の外に一日より桂家残月、松平学円、三遊亭小遊三、橘家三好が出席」とある。しかしそれもほんの束の間で、81日付「大阪時事新報」に「桂家残月は浄正橋の竜虎舘に一日より出席、大阪の大賊、軍事探偵、怪井戸、古武士等を独演す」とあるのを最後に互楽派を辞めている。そしてこのあと寄席芸人をやめて活動弁士となった。

 三友派の日曜会

 活動弁士にいく前に、浪花三友派時代に出演した日曜会の記録をまとめておこう。

 大阪の日曜会へは明治36215日から44219日まで13回出演したが、その内で演目がわかっているのは38423日の「富家致富噺」、39624日の「探偵談」、同年923日の「貴顕の御威徳」、40217日の「毎日新聞所載探偵伊予兇賊」、同年922日の「水害談」、44219日の「近代逸話」のみである。

 京都芦辺館の日曜会は毎日曜日に行われ、残月は明治4211月から12月に6回、443月から4月に5回出演した。演目は明治42年が「軍人と易者、乃木将軍、忠僕元助、軍事探偵、赤穂記本文、藤吉郎初陣」、明治44年が「近世名士伝、住吉丸、将軍の誉、近世美談(二回)」である。

 なお、小歌も明治39年に4回、40年に3回、大阪の日曜会に小満の助、満留吉、小峰らと余興で出ている。京都の日曜会へは明治42年に11月から12月に5回出演したが、すべて残月と同じ日で、夫婦仲良く高座を勤めている。

桂家残月②

 活動弁士

 残月は明治449月より活動写真の弁士に転身した。活動弁士になってからの残月のことはほとんど新聞に載らず、具体的なことはよくわからない。唯一新聞に出たのは大正3421日に博奕で捕まった時のものである。424日付「大阪時事新報」に「活動弁士の博奕 千日前活動写真三友倶楽部の楽屋に於て同館の弁士桂屋残月こと小野菊水(四十)、同じく田口加苗こと田口嘉太郎(三十九)及び芦辺倶楽部の弁士石野馬城こと石野誠正(二十七)の三人は、両三日前の夜、三友倶楽部の楽屋に於て花合せをなし居る所へ南署の警官踏み込み、前記三人を本署に引致したるが、糸長警部補取調の結果、右は洋食の奢り合ひをなさんと阿弥陀籖の代りに花を引き居りしものにて、別に金銭の勝負をなし居らざりし次第と判明し、厳重に説諭を加へ、書類は検事局へ送られしも、身柄だけは一先づ放還されたり」とある。この記事でありがたいのは残月の本名を「小野菊水」と明記してあることである。新聞の本名も時に間違っていることもあるが、講談師になった時に残月楼菊水と名乗り、大阪三友派を離脱したときに小野残月と名乗っていることからこの記事の「小野菊水」は正しいと思われる。

 残月が活動弁士になったとき、大阪市内の主な活動写真館だけで二十五館近くあり、毎夜一館ごとに三、四人が弁士が出演した。百人を優に越える活動弁士の中でも残月はなかなかの人気者であったらしく、明治45424日付「大阪毎日新聞」の「大阪の人気弁士」(下掲写真・左下)の一人に加えられている。

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 大正41月に『御大典紀念 日本ダイレクトリー』(清田伊平著・甲寅通信社編輯部)という本が大阪で刊行された。その中に「桂家残月」の項があり「……明治四十四年活動写真館三友倶楽部に招聘せられて弁士となり今日に至る。嘗て明治四十四年四月、歩兵第三十九聯隊(ママ)に於て、久邇宮、賀陽宮両殿下の命を拝し御前講談の光栄に浴せり。頗る江戸時代の風物に趣味を有し旅行を好む。妻をしま子と呼び二女あり。(大阪市北区紅梅町一二)」とある。久邇宮(邦彦)は明治4312月に陸軍歩兵第三十八聯隊長になっており、この聯隊に召されたと思われる。また、小歌の死後三度目の妻を迎えたようである。現住所もわかってなかなか興味深い。

 寄席へ復帰

 活動写真の弁士以外の仕事で残月の名前が再び見え始めるのは大正8年からである。

 その最初は8316日、京都芦辺館の三友派日曜会(会費三十銭)で開催した桂家残月独演会で、「竹田宮殿下御美徳、堀部安兵衛の間者、乃木将軍逸話」を講じた。

 330日正午より京都の芦辺倶楽部で中央乃木会京都委員部後援寄付大演芸会(会費五十銭)が開催され、三八、文之助、かしく、枝鶴、文団治らとともに出演した。

 511日より神戸千代廼座で独演会を催し「竹田宮殿下御仁徳長講三席、伊藤博文公、堀部安兵衛」等を講じた。

 61920両日、大阪中之島公会堂で開催されたリーデル女史経営熊本回春病院寄付の慈善演芸会(会費一円)に出演した。

 81日より岡山大福座で三遊亭円遊(滝梅三郎・俗に大阪円遊)、二代目桂三木助と三人会を開催し、3日に「伊藤公爵」、4日に「太兵衛さん」を講じた。

 819日より五日間博多川丈座で興行し、「竹田宮殿下、乃木将軍、伊藤公爵、小松宮殿下、広瀬中佐」を講じた。

 1012日正午より京都の富貴亭で桂家残月、春風亭柳朝の二人会を開催し、「三本樹の名妓」と「伊藤公と賊」を講じた。

 119日正午より京都の富貴亭で忠臣義士会当派幹部三人会が開催された。番組は「安兵衛で御座るヨ(桂家残月)、変装の大根売(金原亭馬琴)、あしたまたるゝ橋上(春風亭柳朝)」である。

 以上大正8年に残月が出席したものをまとめてみたが、活弁を完全にやめたわけではなく、活動写真を一席済ませたあとで寄席や会に出ていたようだ。活動写真雑誌『活動画報』記者天野忠義著『俳優の内証話 さしむかひ』(井上盛進堂・大正10年)の「桂家残月」の項に「……楽天地で説明を済ますと講談師となつて二三の寄席へ出て働らいているのにイツも金が足らん足らんで困り、彼が口演の講談を雑誌に掲載(のせ)て原稿料を貰へる社を世話して呉ませんかと記者の耳が蛸になる程聞かされるとは成金熱に憧れて贅澤な生活をしているのであらう」とある。

 反対派(吉本)へ

 上述したように、大正8年の最初のころは京都の三友派の席芦辺館に出ているが、10月よりは反対派の席富貴亭に出ている。つまり反対派へ移籍したのである。

 大正912月、反対派の太夫元で富貴亭の席主である岡田政太郎が死亡した。そのあとを継いだのが吉本泰三で、反対派はやがて吉本花月派と呼ばれるようになり、大正119月、浪花三友派を併合して上方の寄席界を統一した。残月は東京連の真打として迎えられ、吉本各席で相変わらず立読みの新講談を演じた。

 大正1111月下席で27日に紅梅亭へ出たときの評が吉本の広報誌『演芸タイムス』第3号(大正11121日発行)に出ており「残月新講談、痴遊の呼捨を始め、新講談と名の付くもの、偉人名士を友人扱ひにするなるに、この人常に敬称を用ゆるは、其麗しい言葉使ひと共に採るべきもの。平民的な殿下と乃木将軍をあつさり演る」とある。

 大正12167両日正午より天満花月亭で残月独演会が開催され、「皇室美談、乃木将軍、出世大閤記」の三席を口演した。

北白川宮成久王逸事

 大正1241日、北白川宮成久王がパリ郊外で自動車事故を起し35歳の若さで死亡した。そのニュースが伝えられるや、残月は46日より都座、天満花月、北新地花月倶楽部、御霊あやめ館にて敬弔の意を表し「北白川宮殿下御逸事」を講演した。そしてしばらくこの演題をやり続けた。

 430日午後5時より北新地花月倶楽部で長演会が開催された。出演者は円太郎、枝太郎、染丸、残月、円馬、春団治、松鶴等で、残月はこの演目をやった。『演芸タイムス』17号(大正1251日)に「残月の北白川宮殿下の逸事、極めて上品で美文家の小品を読んでいるといつた趣」とある。

 515日より名古屋七宝館へ出演したが、ここでもこれを講じた。515日付「名古屋新聞」に「本日より特別興行として桂家残月、翁家三馬、笑福亭円歌、林家正楽、花月亭九里丸、支那人夏雲清、夏雲忠一行の色物揃いで開演し、残月は仏国に於て不慮の御災難に罹らせ給いし北白川宮殿下の御逸話を口演する」とある。

 6月上席の花月倶楽部でもこれをやった時、『演芸タイムス』19号(大正1251日)に「「残月が『北白川宮殿下の逸話』、金枝玉葉菊の露と題した十講の内の一席を持ち前の上品な弁舌で聴かせる。実に結構なものであった」と評されている。この後神戸の西宮花月、千代廼座、御代之座へ出演したが、おそらく「北白川宮殿下御逸事」を講演したことだろう。

 晩年

 大正13年は3月から翌年の3月までの一年間は京都の富貴で過ごしている。この間、これと言った逸事は何もない。

 大正144月上席の新町瓢亭で切席に出演し、「薩摩の夜嵐」という現代悲劇物を連夜長講した。

 同年521日より同じ瓢亭で落語七選会が開催された。出演者は染丸、遊三、枝太郎、円枝、春団治、残月、三木助の七人。この時残月の口演した演目は「大喧嘩、改心、元の御主人、志士と芸妓、張子の寅、友人に成らう、馬鹿々々々々、おとくさん、猫婆ア、銀時計、報恩」である。一つ一つ別のものなのか、続き読みのその日その日の演題なのか、これだけではよくわからない。

 このあと南地花月、北新地花月倶楽部、瓢亭、紅梅亭、京三倶楽部、天満花月、京都の富貴その他の席へ出演し続けたが、残月がやった演目で具体的にわかっているのは7月の京都富貴の「探偵実話本郷名代の法衣屋の娘」(連夜長講)だけである。

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 大正1541日より紅梅亭で講談三覇双が開催された。42日付「大阪時事新報」に「南地紅梅亭 講談三覇双 出演者は神田ろ山、神田伯龍と桂家残月等。余興として浮世亭信楽加入」とある。上掲のチラシ(個人蔵)の残月のキャッチコピーは「現存せる名士国士の隠れたる逸話を軽妙に演出する所謂『残月式』…新講話の創始者!」とある。

 残月が新聞に載ったのはこれが最後で、四ケ月後の大正15629日に死亡した。(蹉跎庵主人)

 

 <あとがき>

 大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)に桂家残月の多数の自筆台本と「御座敷名簿・各席講題控」が所蔵されています。この資料について『大阪府立上方演芸資料館 令和3年度年報』(令和411月発行)で、荻田清氏が「発見! 桂家残月資料」、大西秀紀氏が「桂家残月とレコード吹込」という表題で詳しく報告されています。特に大正9年から15年までの「御座敷名簿・各席講題控」はたいへん貴重で、「御座敷名簿」ではお座敷に声がかかった時の依頼者、場所、演目等が、また「各席講題控」は文字通り出演した席と毎日の演目が記されています。全文翻刻紹介の準備をすすめられているそうで、それが完成、公表されれば残月の事績がより明かになるでしょう。その折にはこの項に追加補足させていただくつもりです。今回はとりあえず現在知られている資料によりまとめてみました。

 なお、「桂家残月とレコード吹込」では皇室ものや軍人ものを中心に二十三種のSPレコードが紹介されています。その中の一つ、「東宮妃殿下の巻」上下(ニットー)がYouTubeで配信されているので聞いてみました。こういう口調だったんだなということがわかってありがたかったですが、現代のわれわれにとってはもっちゃりしていていささか退屈なものでした。(2023122日記)

二代目桂三木助①

  二代目桂三木助

 IMG_20230110_0002本名、松尾福松。明治171127日、大阪に生れる。明治27年に桂南光(のち仁左衛門)に入門し桂手遊(おもちゃ)となり、明治39年に二代目桂三木助を襲名した。昭和18121日に死亡するまでの五十年にわたる三木助の噺家人生を年表風にまとめてみた。

 明治27年(11歳) 手遊となる

 125日、桂南光に入門し、南光の師匠二代目桂文枝(文左衛門)に「手遊(おもちゃ)」と名付けられた。

 吉本興業の広報誌『ヨシモト』八月号(昭和108月)から十一月号(同年11月)まで四回にわたって三木助が「私の自叙伝」(以下「自叙伝」)を掲載している。そこに入門時のことを次のように記している。

 「私は明治二十七年一月二十五日、十一歳で天満の初天神の日に、当時桂派の元老である桂南光の門に入つた。…その年の二月一日に、御霊筋の魚治といふ料理屋で入門披露をした。師匠南光の師文枝始め、その頃の大幹部小文枝、文三、明学、さん馬、先代円馬其他南光の門弟一同に席主五人が加はり、総勢四十人からの宴会で、その宴席で落語家としての名前『桂おもちゃ』を師匠から貰つた。その頃私は体が小さかつた──と云つて今でも小柄だが──余り小さいから、大師匠が〝おもちゃとしたらいいぢやないか〟と言つたのが因(もと)で、私はそれに定められてしまつたのである」(「自叙伝」)。

 明治28年(12歳) 共楽会に出る

 120日、共楽会(第二十回)へ出演した。共楽会は南地演舞場で月一回、歌舞伎、文楽、舞踊、落語、講談等一流の芸人を招いて鑑賞しようという会員制の会である。番組には「落語月並小僧と手踊り(桂おもちや)」とある。新聞にこの日の共楽会の寸評が出ており、「おもちやとかいふ小供などは出さずもがな、面白くも不笑(おか)しくもなし」(122日 大阪朝日新聞)と一蹴されている一方、「(おもちや)の月並小僧は年齢と身体に適ひて可かりし、梅の春の舞ひも十一歳の小童にしては感心の技倆」(122日 大阪毎日新聞)と誉められてもいる

 明治29年~33年(13歳~17年) 桂派と三友派

 手遊が入門した三カ月程前の明治2610、月亭文都、笑福亭福松、三代目笑福亭松鶴を看板として「浪花三友派」が結成された。それに伴い、二代目桂文枝一門は「桂派」と称されるようになった。手遊が入門したのはまさにその時で、もちろん「桂派」に所属した。

 「桂派は二代目文枝を総大将に、私の師桂南光が元老格で居た。その下に小文枝、三代目文三、燕枝、談枝、萬光等があり、客員の大立者には盲の坊さんで琵琶を弾じて諸芸百般に秀でていた西国坊明学、翁家さん馬、それから二代目三遊亭円馬、林家菊丸といふやうな錚々達が居たし、尚四十人からの桂派所属連があつた。これに対して三友派は──これは私の派とは別派である上に子供の時分とて記憶洩れのものもあるかも知れないが──笑福亭福松、月亭文都、曾呂利新左衛門、桂文団治、米朝、米喬など、客員としては鼓で売つた三遊亭円子、音曲殊に槍さびで人気をとつた片眼の三遊亭円若などで却々(なかなか)賑つていた。桂派の方はジミで、踊や唄はやかましく云はず、噺一方に力を注いだが、三友派は反対に噺よりは踊や唄に重きを置いてハデ一方だつただけに、大衆向きであつた」(「自叙伝」)

 噺家修業も三友派に比べ桂派は諸事につけ厳しかった。

 「それからの私の修業は、かなり苦しかつた。午前八時から噺の稽古、それが済むと、すぐ踊の稽古にかかる──その時は山村流だつたが、後から楳本流にも行つた──それから三味線の稽古と、午前中に稽古場を五軒廻るので、いい加減疲れてしまふ。それに席は昼夜二回開演だから、修業中の身分では午前十一時半には楽屋入りをしなければならない、子供としては大変な負担である。今顧みるといろ〳〵苦しかつた思ひ出が湧いてくる」(「自叙伝」)

 明治34年(18歳)

 21日より二代目三遊亭円馬、その弟子の市馬とともに京都幾代亭へ出る。417の幾代亭の出番は「六時三十五分(光輔)、六時五十分(酒鶴)、七時五分(小文吾)、七時二十分(柳枝)、七時四十分(円丈)、八時(文雀)、八時十五分(手遊)、八時三十分(円光)、八時五十分(小円竜)、九時十分(枝鶴)、九時三十分(文歌)、九時五十分(市馬)、十時五分(文光)、十時四十分(文三)、十一時(枝太郎)、切(文吾)」である。文三、枝太郎、文吾と続く、まさに桂派黄金期の出番である。その中にあって手遊は結構深いところに出ており、もうすでに前座を卒業していることがわかる。この時の前座の光輔はのちの桂三八である。

 6月、桂枝太郎に連れられて名古屋の富本席へ出、7月いっぱいまで名古屋に過ごした。

 1278両日、南地演舞場で天王寺頌徳会寄付演芸会が催され、7日は桂派、8日は三友派により落語家芝居「仮名手本忠臣蔵」が披露された。桂派の大星由良之助は二代目円馬が勤め、手遊は師直中間宅内の端役で出た。なお、三友派の由良之助は曾呂利新左衛門が勤めている。 

 明治35年(19歳) 矯風会(手遊時代)

 昨年に続き、桂枝太郎ら京都幾代亭のメンバーで、716日より名古屋富本席へ出演した。師匠桂南光も同行した。

 明治3411月、桂派では噺家の技芸の向上を目的に「矯風会」が設立され、月一回昼席で開催された。京都の幾代亭でも明治3411月に京都矯風会が設立され、同じく月一回開催された。手遊は35年に京都の方に二回出たが、いずれも余興で、39日に「雪月花」を、323日に「三国一」を桂小文吾(三代目文三の息子)と一緒に舞った。

 ついでながら、手遊時代に大阪の矯風会にも明治37年に一度、39年に二度出ているが、こちらも三度とも余興で、ネタをやることは一度もなかった。

 明治36年~37年(20歳~21歳)

 明治36年は何も記録がなく、3727日正午より安堂寺橋骨屋町東へ入る養老館で行われた第二回桂派落語青年会に出演した。他の出演者は雀太郎、小南、小文三(小文吾より改名・文三の息子)、雀三郎(後の二代目小文枝)、円三郎(後の橘ノ円)、二代目千橘、文屋らで、後世名をなす噺家が多い。小南は手遊の兄弟子で、明治13年東京生れ、大阪へ移住したとき南光の弟子となって小南を名乗り、生涯一つ名で通した。明治38年に上京し、三遊派に入った。

 81日より神戸の湊亭へ出演した。湊亭の席主菊野菊松は笑福亭福松と親しく、三友派の連中を多くかけたが、福松らが巡業に出たあとの夏枯れの席へ珍しく桂派の連中を招いた。明治37731日付「神戸又新日報」に「湊亭 明一日よりは、神戸では聞けぬ大阪桂派の達者と言われる桂南光と桂文屋、小南、枝鶴、福助、手遊の外、先頃朝日座にて好評なりし橘家三好という愛嬌者が加わり、珍しき一座なり」とある。

橘家三好は四代目円生門下で三遊亭円好となり明治34年に橘家三好と改めた。膝替りの音曲師として一級品の評価を受けた人である。

 明治38年(22歳) 日露戦争出征

 明治372月より日露戦争が始まり、翌年手遊も徴兵された。上掲の写真はその時のものである。明治38119日付「大阪毎日新聞」に「桂派の若手で面皰(にきび)盛りの桂手遊、この頃何処の寄席へも出ないと思つて居たら徴兵適齢で当師団へ入営したのださうな。高座で客を苦しめるより御国の任を脊負て立つ方が当人に取ても何程満足だか知れまい」とある。111日の同紙にも「手遊は聴衆をして耳を掩はしむる」とある。えらい嫌われたものだ。手遊は厳しい修業を重ね、技量は若手では比類なしと言われたが、若気の至りでそれを鼻にかけるところが見られ、「高慢な奴だ」と嫌う記者も多かったのだろう。

 4月に鴨緑江軍、後備第一師団工兵大隊付として満州へ渡った。

 「私のやうな小さい躯(からだ)のものでも甲種合格として国家の干城となり、(註:陸軍輜重輸卒として)翌三十八年四月一日大阪築港ら御用船に乗り込み、歓呼の声に送られて勇躍征途に就いた。既にして敵を吞むの慨あり、意気軒昂たる私は満州の原野で堂々と、余り働らかなかつた」(「自叙伝」)

 明治39年(23歳) 二代目桂三木助襲名

 手遊が渡満したときは戦争は終局に向っており、明治389にポーツマス条約が締結されて終戦を迎えた。手遊は「自叙伝」で「三十九年の三月に凱旋した」と言っているが、これは記憶違いで、明治39121日付「大阪朝日新聞」に「桂派の落語家にて出征し居たる梅橋、後八、手遊の三人、無事凱旋したれば三人申合せ、お土産として『満州踊』を演ずといふ」とあり、明治391月には帰阪して、1月下席の幾代亭、金沢亭、林家席、養老館に出ている。梅喬は二代目桂梅枝(オッペケペーの梅枝)門人、後八は桂小文枝(のち三代目文枝)門人枝之助で、日露戦争より帰還後、後八の名で高座に復帰した。後の二代目桂円枝である。2月上席の幾代亭の出番表に「満州踊(手遊・後八・梅喬)」とあり、ここでもまた三人で満州踊りをやっている。 

 この年の11月に二代目桂三木助を襲名した。1123日付「大阪毎日新聞」に「桂南光の門人手遊は今度文左衛門の若かりし時三木助と云ひし芸名を襲ひ二代目三木助と改名せし披露として、二十四日法善寺内金沢亭、二十五日新町瓢亭、二十六日淡路町幾代亭、二十七日天満杉の木等の各席にて大寄を催すなるが出演者は左の如し。若遊三、米団治、円子、松喬、馬生、福三、一円遊、枝鶴、遊補、文団治、松光、扇蝶、新左衛門、雁徳、花咲、福吉、燕太郎、米朝、妻吉、妻奴、燕枝、竹本七五三吉、同七五三花、同鶴栄、旭堂一道、氏原一、富士松小寿栄、帰天斎正一、竹本文太夫、鶴沢勝鳳、鶴家団九郎、同団四郎、同団三郎、信濃家半玉、同尾半、桂派総一座」とある。文団治、曾呂利新左衛門など浪花三友派からも多数出席し、講談、俄、義太夫その他の芸界の主なる連中も多数駆け付けた。1125日付「大阪時事新報」に「昨日其の第一回を金沢亭に開きたるに、知己の俳優及び芸妓達より小旗、提灯其他の寄贈品多く極めて盛会なりし」とある。

 若干二十三歳の青年にしては立派すぎるくらいの披露であるが、これをお膳立てしてくれた文左衛門(二代目文枝)の威光が上方落語界においてこの当時いかに大きなものであったか、これをみてもよく理解される。

 「その年の十一月二十七日(ママ)から四日間、二代目桂三木助の襲名披露をした。そして私はおこがましくも真打の列に加へて貰つた。だから私にはこれが(註:日露戦争の)金鵄勲章であり、論功行賞にあづかつたやうな気がして、その時の嬉しさは未だに脳裡を去らない。…翌四十年一月から、いよ〳〵真打の初看板を掲げた」(「自叙伝」)

 明治40年(24歳) 

71日より30日まで桂派三友派合併相撲が行われた。落語相撲は技量を競うものではなく、各派一人ずつ出て、一席が終ったあと、客が指摘した噺の穴をダジャレで言い訳をし、答えに窮したら負けとなる。勝った客には賞品が贈られたから夏場の余興としては大変な人気であった。立派な番付も作られ、三木助は桂派前頭四枚目に位置し、四股名は「片いかり三木助」とある。例の高慢ぶりを皮肉った四股名か。

111日より京都幾代亭へ三木助となって初めて出演した。1116日に河原町四条下る京都倶楽部の余興に招かれ舞踊を披露した。その時の番組に「楳茂登派 桂三木助」とあり、この頃は上方の楳茂都流を習っていたようだ。

 1222日、桂派忘年会が催された。桂派では毎年この席上で一座の賞罰を行っていたらしい。1224日付「大阪時事新報」に「桂派の落語家は一昨日忘年会を催し、規定によりて本年度の賞罰法を行ひしが、賞与金の外特別慰労金に与りたるは文三を筆頭として文枝(三代目)、雀之助以下三名、席上愚痴を溢しゝは仁左衛門にて、此間新町瓢亭の高座に登り乍ら泥酔して呂律も廻らず苦しさの余り遂に引下りたるは不埒なりとて懲罰金三十五円を申し付けられ、三木助は本月の幹事担当に際し交際に不行届きの事ありしとて之も十円の即納を申付られたるは身から出た錆とて拠ころなかりし」とある。南光はこの年3月に仁左衛門と改名、師弟揃って罰金を取られている。

 明治41年(25歳) 真打についての疑問

510日、金沢亭で第六十九回矯風会が開催された。その番組のチラシに真打候補者三木助 婚礼の間違」とあった。これについて529日付「大阪毎日新聞」は「三木輔(助)の真打候補者と来ては更に沙汰の限りである。渠は仁左衛門の弟子で、最初手遊と言ふた時分から前途頗る有望ならざる奴であつたが、今に至るも技芸はトント上達せない。真打の候補どころか中軸に出世するさへが覚束ないものを、何の見る処があつて彼様(あんな)事を書いたか奇怪であると連中一同眉を顰めた」と報じている。三木助は「自叙伝」で三木助襲名と同時に真打となったと語っており、後世すべてそれに従っている。大阪は東京のように真打制度がないので、どの噺家もいつ真打になったのかわかりづらいが、この記事を読む限り、このときはまだ真打にはなっていないようだ。

 明治42年(26歳)

 京都の落語界は長年桂派が幾代亭、三友派が笑福亭という図式できたが、明治419月、幾代亭が三友派に買収され、芦辺館と改称した。拠り所を失った桂派は衰退の一途をたどった。退勢を挽回しようと本年824日から30まで京都南座で桂派落語大会が催された。828日付「大阪朝日新聞京都付録」に「元の幾代亭、芦辺館と名を改へて大阪三友派の定席となつた後は、京都の落語界は「桂」と名に呼ぶ人はあつても三友派の声に押れてその下にくすんで了ふた。桂派の声名京都に揚らざること茲に満一年、桂派贔屓は少々焦けていた矢先、大阪席暑中休暇の一週間を京都に一旗上げやうとて、文枝、仁左衛門、枝雀の錚々連、若手を引連れ張り扇を叩いて押し寄せた」とある。三木助も若手の一人として出演した。同日同紙に「若手では手遊の三木助、話の確(たしか)なのは若手に比類がないが、何処か高振るやうなのは損ぢや」とあり、ここでも高慢ぶりを指摘されている。

 明治43年(27歳) 東京へドロン

 若き日の三木助の悪癖のひとつに博打好きがあり、負けがこんで金沢席から百円もの借金をこしらえた。その頃互楽派にいた桂三輔(後のざこば)に相談した。ざこばは、互楽派の文芸館席主長田が「互楽派へ移籍するなら借金の肩代わりをしてやってもいい」と言っているとの返事をもってきた。三木助は乗り気になり、お金を受取り、移籍後の名前を七五三蔵(しめぞう)とすることまで決まったが、それを知った桂派はこの無断の移籍に断固抗議し、大騒動になった。その渦中、三木助は兄弟子の桂小南を頼って上京、ドロンしてしまった。明治4311月中頃のことである。因みに、この件に関して三木助は「自叙伝」に一言も触れていない。

 明治44年(28歳) 橘家三木助を名乗る 東京時代

 小南の世話で小南の弟子分桂一奴(後の二代目立花家花橘)の情婦柳橋芸者小すみ方に身を潜めていたところ、こともあろうに小すみに手を出してしまい、面目をつぶされた小南は激怒し、三木助を追い出してしまった。その窮状をみかねた四代目橘家円喬が三木助を引き取り、「橘家三木助」と改名させ、130日に神田明神下の開花楼でその披露会を催した。22日付「読売新聞」に「橘家三木助の披露会 今回大阪から上京して円喬の門下となつた橘家三木助の披露会が一昨日午前十一時から明神の開花楼で開かれた。『質屋の庫』といふ落語を、踊り『春雨』を手見せとして演じた。落語の方は咄し振も上方式の悪く騒々しい所がなく、至極落着いて面白く聴かれた。咄しの跡で円喬が『此場でこれだけの咄しをするのはテンから無理です。私でも出来ません』と褒めて居たのでも確かだ。踊は扇の扱ひの美しい事と形の宜い事が無類だ。来月から席へ出て演る呼物は大小の桝を七個積重ね、其上へ一本歯の足駄を穿いて乗り松尽しを踊るので、別室で試演したが、頗る見事なものであつた。男前は羽右衛門と延太郎を交ぜたやうで美しく、芸が器用で調子がよければ所謂三拍子揃つた者は何とやら、そんじよそこらを御用心々々。(静雨)」とある。静雨はこのころ読売新聞の演芸部にいた伊藤静雨で、後世挿絵画家として知られる。それにしてもえらく褒められたものである。

 かくして3上席より三遊派の席へ出ることになった。

 席に出るに及んで円喬は三木助を真打に昇進させた。大阪で真打になっていたのを改めて東京でも真打の看板を上げさせたとも考えられるが、上述したように大阪ではまだ真打となっておらず、この時初めて真打となったのではないかと思われる。

 31819日に神田立花亭の三遊派演芸大会に出演した。318日付「都新聞」に「三遊派の演芸大会 円右、円蔵、円喬らの幹部連で開演する神田立花亭の同会。十八、九日両日の番組は、五人廻し、首提灯(円蔵)、佃祭、初音の鼓(円右)、桜ノ宮、矢走舟(三木助)、淀五郎、三軒長屋(円喬)」とある。

 4月、込高等演芸館で三遊派舌戦大会が行われた。45日付「都新聞」に「舌戦会の両雄 牛込高等演芸館にて開催中の三遊派舌戦大会は、例の軋轢問題より三木助と今度改名せる円左との暗闘振り目覚しく、毎夜応援隊の声援壮んなり」とある。円左は二代目三遊亭円左(小泉巳之助)で、明治4112月に大阪へ来て桂派に加わり、明治432月に帰京した。その間、三木助とたびたび高座を共にしている。

 414日から16日まで神田立花亭で春季有名会があり、三木助は15日に「蛸坊主」をやった。

 まさに順風満帆といいたいところだが、現実はそんなに甘くはなかった。というのも、この頃三遊派の若手の「六人組」(金馬、むらく、円橘、円歌、小南、小円遊)と円喬との紛紜絶間なく、ことあるごとにぶつかっており、今回その矛先が三木助に向ったのである。

 当時三遊派では、真打になる者は真打連の了解を得なければならず、又二カ年以上東京で修業した者でなければならないという決りがあった。また円喬自身、素性不明のものを勝手に弟子にするな、無暗に真打を作るなと三遊派の連中に通達したばかりなのに、自らその約束をやぶり、三木助を弟子にしたばかりか独断で真打にするとは何事かと、「六人組」を筆頭に三遊派内部で猛然と反対の声がおこった。円喬は押し通したようだが、さすがに真打披露は開かれず、三木助への風当りも相当にきつかった。

 さらに追い打ちをかけるように、大阪の長田は三木助が円喬の弟子となって東京にいる事を知り、借金の取り立てにやって来た。円喬は師匠としてほっておくわけにもいかず、自分が大阪へ公演に行き、その利益で三木助の借金の返済をするということで長田と話をつけた。そして約束通り6月に来阪し、道頓堀の中座で公演するが、これが大失敗でまた新たな悶着を引き起こすことになるのだが、ここでは触れない。

 東京に一人残された恰好の三木助の窮状を531日付「東京朝日新聞」は「三遊の三木助も上京以来ヘマ続きで公然真打の披露も出来ず、燻つて了つたが、大阪の不義理や何やかやで五六百円も荷が嵩み、今更出も入もならずとの重荷を背負つたまま移転(ひっこし)と夜逃の夢をちやんぽんに見きすけ〳〵」と茶化して書いている。仲間内からもボイコットされたらしく、610日付同紙に「例の三木助は芝の玉の井のトリを勤めているが、先夜前座の後に続く鹿が無いので百計尽て、楽屋の帳付爺が現れ繋いでいたが、一説にこれは連中の故意だと伝へられている。何(どう)でも好いが事だが、三木助をヘゴ助にした處が将来貴様達は何(ど)れほど好い男になれるのか」とある。

 風向きが変わったのは8月中旬からで、変な話だが、自分の借金の肩代わりに大阪へ行ってくれている円喬との間に溝ができたというのだ。827日付同紙に「一時六人組から苛められた三木助も円喬に付いて行かないが原因になつておげん(筆者註:円喬の妻)とも睨み合ふ仲となつたので、小南を除く反対派一同同情を表して少し宛(ずつ)折合ひをつけながら『俺(あっ)し等ア江戸子だからね』」と意気がっているとある。

 円喬は9月に帰京したが、三木助は会いにも行かなかった。923日付同紙に「円喬の帰宅後、三木助は顔出しもせず打棄(うっちゃ)つて置くと、今度は円喬の方から一度来てくれなどゝ呼出しをかけているさうだ。高慢斎も今度の旅が余程きいたものと見える」とある。一体何がどうなっているのやら、この辺の裏事情はさっぱりわからない。

 1112日、師匠桂仁左衛門が死亡した。三木助は大阪へ帰り、「葬儀委員長となり、同門一同と共に葬儀を」(「自叙伝」)営んだ。

二代目桂三木助②

 明治45/大正元年29歳) 東京時代

 三遊派の内紛は続き、昨年10月に小南と三代目円橘らが脱退し、円喬も独立した。そうしたごたごたの中で三木助は定席に出演し続けた。ある時一本歯の松づくしをやっていて怪我をした。223日付「東京朝日新聞」に「三木助が桝を重ねて一本歯の松づくしも肝腎の左足が利かなくなつて止めているが、二、三日前、もう好からうと自宅で試しにやると矢張りひつくり返つて仕舞つて口惜しがる、売物としていた丈に思ひ切りも悪い」とある。

 3月、離脱していた小南と円喬がもとの三遊派へ復帰した。しかしこの二人、まだ確執がとけていない。319日付「都新聞」に「頭取の改選後小南一派との軋轢も漸く納まりたるに、独り円喬は例の三木助問題より今尚小南派との折合悪く、是には新頭取の円蔵も頭を痛め居れり」とある。

 4月、京都へ赴き、1日より春団治と一緒に新京極の芦辺館へ出演した。41日付「京都日出新聞」の広告に「当四月興行交代連/東京 立花家三木助 大阪 桂春団治 東京 宝集家金之助/三友派幹部連総出演/三友派睦席 新京極芦辺館・寺町平居館・千本長久亭・西堀川紅梅館」とある。大阪ではなく京都へ、桂派ではなく三友派の席へ出ていることが、この時点での三木助の上方落語界での微妙な立ち位置を象徴している。

 帰京後、小南とも円喬とも齟齬を生じていた三木助は三遊派の重鎮で新頭取四代目橘家円蔵に泣きついた。619日付「東京朝日新聞」に「三木助も小南と喧嘩の後、円喬の所へ潜り込み、間もなくまたイガミ合つて一人ぽつちとなり、今度また円蔵へ泣つき一席トリを貰ふといふ」とある。

 621日より29日まで神田立花亭の矯風演芸会に出演した。21日の番組は莨の火(三木助)、地獄巡り(円遊)、義士伝(松鯉)、浮世節(橘之助)、品川心中(円蔵)、三人旅(円右)、明烏(加賀太夫、宮古太夫)であった。三木助は24日に「先の仏」をやっている。

 71314日に神田川竹亭の三遊中元会に出演した。出演者は円遊、文楽、円蔵、小遊三、むらくらで、三木助は芝居噺をやり、松づくしを舞った。

 71516日に両国立花家の円右、円蔵、伯鶴、三木助四人会に出演した。

 811日に神田白梅亭の三遊合同競演会に出演し、「三十石」をやった。

 922日、神田立花亭の三遊派競演会に出演した。出演者はむらく、円右、円窓らである。三木助は「近日息子」をやった。

 912日付東京朝日新聞」に「三木助も来早々まご〳〵したが、七転び八起きの本文が旨くはまつて昨今は何(ど)うやら浮み上つた模様に、今まで文久一文の価値(ねうち)もないやうな事を言つていた連中が知らん顔をして『上方者は世渡りが旨いや』」とほざいているとある。また1011日付同紙に「一時仲間にひどくケチを付けられた三遊の三木助も真打になつてからは何んな入(いり)の無い時も痩我慢で前座やスケに五十以下の割(わり)を出した事がないので、今まで悪く言つた奴が『実に師匠は豪い』は余り正直過る」とある。

 六代目三遊亭円生『明治の寄席芸人』(青蛙房・昭51)に「明治四十四年から大正初期ごろでしたが、神田の白梅亭で、あたくしの先代(おやじ・当時円窓)、三代目円馬になったむらくなどが出演して、かなりの間、昼席をやったことがありました。その時、出演者はみんなみっちりと長い高座でやらなければならない。今思えば、当時の若手噺家の勉強会だったんですね。……当時、むらくだった円馬さんが『鼠穴』だとか『愛宕山』あるいは『素人鰻』、そういったものをみっちり演りましたし、二代目の三木助なども、『大丸屋騒動』とか『莨の火』というような、上方の大きな噺を、ここでずいぶん長く、みっちり演ったもんです」とある。また同書に二代目三遊亭円馬の妹のおふじは初代三遊亭円左の妻になり、明42円左没後お囃子で出ていたが、大阪から来た三木助の「連れ下座」になって三木助を助けてやったという。

 この頃になってようやく落ち着いて高座を勤められる環境になったようだ。

 1122日に四代目橘家円喬が死亡した。円喬は名人の誉れ高かったが、キザだ、高慢だといわれ、その性格を嫌う人も多かった。三木助もどこか似たところがあり、晩年にいたるまで噺は上手いが、あの高慢さがどうも好きになれないという声が多かった。

 大正2年(30歳) 東京時代

 11516に両国立花家の右女助、円窓、三木助三人会に出演し、「初天神」と「村正」をやった。

 313日から15日まで神田白梅亭で三木助会が行われた。円右、円蔵が補助で出演した。

 411日より17日まで、桂三木助一座で愛知県豊橋萱町河原座で興行した。411日付「新朝報」に「河原座の落語 愈々本日六時より同座に於て開演する初お目見得桂三木助一行東京音曲落語手踊大演芸番組左の如し。吉例曽我(社中)、一ト目上り(三吉)、こんにゃく問答(三太)、脳こり(花山文改め亀鶴)、子ほめ(扇朝)、剣舞(一馬)、清元浮世節(当年十三歳立花家一龍)、花見小僧(司馬龍生)、独楽の曲(松井源水)、紙屑屋(三木助)、今様艶舞大切お笑草々(総出)」とある。12日以降の三木助の演目は「抜け雀、あたご山、新町ぞめき、祝のし、延陽伯」である。

 68日、薬師の宮松で落語研究会があった。三木助は「百年目」をやった。611日付「東京朝日新聞」に「新顔の三木助は『百年目』で大阪式の番頭は佳いが、少(すこ)モタレ」とある。

 6月のある日、持ち席で弟子の三木雄とカッポレを踊っていて足をくじいた。614日付「東京朝日新聞」に「三木助が先頃持席で弟子の三木雄と大暴れの活惚を踊り節斗(とんぼ)を切つた機会(はずみ)に右の踵を挫いて今以て跛足(ちんば)を曳いているとは危ない。斯うなると高座は全(まる)で柔術の道場だ」とある。

 76日、両国立花家の初代三遊亭円左(明治42年没)追善演芸会に出演し、「莨の火」をやった。

 828日付「東京朝日新聞」に「立花亭で交代に真を打つ青年会の右女助と三木助が一番前を押へる處から関東方大たじ〳〵で『曾我廼家が流行る世の中だからどうも仕方がねえ』は情けないヘゲタレ」とある。右女助は三遊亭右女助で後の四代目古今亭今輔。大阪北浜の生れで、三木助より二つ下。大阪方の二人の人気に関東方が総敗軍となったという。

 97日正午より両国立花家で円左、三木助二人会が行われた。

 1010日、日本橋宮松亭の落語研究会に出演し「宿屋仇」をやった。1014日付「東京朝日新聞」に「三木助の宿屋の仇討、上方詞に江戸弁まじりの啖呵は恐縮」とある。この「上方詞に江戸弁まじり」は、良きにつけ悪しきにつけ、この後三木助評にずっと付いてまわことになる。また10月某日、人形町鈴本で「尻餅(餅搗き)」をやったが、同日同紙に「三木助が先夜人形町鈴本で、女房の尻を打つ餅搗きという臭い話を演ると、髭の客が感心して、手の杵の音は巧い、前の円右より余程名人だ。世間はこれで持ったもの」とやや皮肉っぽく書かれている。

 この年の大阪で「浪花落語合同人名 大正二年九月場所」という落語番付が作られた。三木助は東京にいたが、東前頭三枚目に「あみ舟 三木助」と、春団治の一つ前に載っている。

 大正3年(31歳) 東京時代

 大正3年は毎月の上席、下席に銀座金沢亭、神田川竹亭、神田白梅亭、神田立花亭、両国立花家、人形町末広亭、人形町鈴本亭、青山富岳座、日本橋木原店、四谷喜吉亭等を三軒から四軒を掛け持ちして出演しているほかは特別に記すべき出来事はない。

 大正4年(32歳) 東京を去る 地方巡業の旅 朝鮮での御難

 大正4年の初めに東京を去り、長い地方巡業の旅へ出た。

 最初に行ったのは金沢一九席で21日より興行した。初日の番組は御祝儀(三子)、昔ばなし(桂三太)、落語物真似(桂権助)、落語手踊(桂三の助)、音曲話手踊(桂三伝治)、落語手踊音曲(三遊亭右朝)、落語振り事(三遊亭小円治)、新古人情実話(三遊亭円治)、江戸名物曲芸(吾妻信太郎)、笑話所作事(三木助)、大切手踊(楽屋総出)である。三木助以外ほとんど知らない連中ばかりで、よくこれで座持ちが出来たものだと感心する。この後円治、小円治が抜けるなど若干の出入りはあったが基本この一座で巡業を続けた。

 214日より同一座で岡山大福座で興行した。三木助は218日に「抜け雀」をやっている。

 327日より博多川丈座で興行した。三木助は「抜け雀、三十石、関の春風、万両、立切れ、利正、お文さま、尻餅、紙屑屋」をやった。このあと満州へ向った。

 619日より大連の花月亭で興行した。三木助は「抜け雀、海安寺、住吉駕籠、三十石、網船、立切れ、ざこ八、口入屋、赤子茶屋、新町ぞめき、め組の喧嘩」をやった。このあと朝鮮へ向った。

 104日より朝鮮京城府寿町の寿館で興行した。この時桂小南も朝鮮におり、同じ104日より同府明治町浪花館で興行した。1012日付「京城日報」に「浪花館の小南と寿館の三木助=久しぶりの落語 小南と三木助、何方も桂を名乗る浪花雀だが、三遊派に據つて東京落語で押変つてる。氏より育ちの両人、踊りの達者な所、騒々しい所杯、随分よく似てる。聞けば両人兄弟分だとか。此の二人が前後して浪花館と寿館に蓋を開けた」とある。三木助はいずれの小屋でも噺のあと余興で手踊りをやっている。朝鮮では番組に「扇の舞、手踊り、御好みに応ず」と謳っており、こちらの方がメインだったのかも知れない。

 座長として巡業に出たのはいいが、興行の段取りや仕組みをまったく知らず、何事もお坊ちゃん仕事になり、興行師にいいようにされ、いくら客が来ても儲けがまったくないという事の繰り返しだった。朝鮮での興行は特に酷く、十日間大入りを続けたにも拘わらず、儲けどころか千八百円の赤字になっていた。さすがの三木助も単身強談判に及んだが、怖い兄さんたちに取り囲まれ、結局借金を背負わされ、その返済のために無報酬で各地を巡業する始末だった。この苦い経験はよほど忘れがたかったのだろう、「自叙伝」にその思いを縷々綴っている。

 大正5年(33歳) 帰国 扇遊亭金三と巡業 浪花三友派に加入 

 日本に帰ったのは大412月半ばだった。そして大正5年正月から博多川丈座で興行した。「大正五年の初春興行を九州博多の川丈座で打つことになつたので、怖しい満鮮を早目に切り上げて、十二月の半ばに博多に来てしまつた。その頃、今東京にいる円遊が一座を伴(つ)れて、この地方を巡業していたので、これと合同することにして、正月興行までの半月間を私の一座の者と円遊の座とを合して、その付近の小場所を廻らせた」。円遊は三代目三遊亭円遊(伊藤金三)で、この頃は扇遊亭金三と名乗っていた。「皆がさうしている間、私は頼まれて博多の相当な芸妓連中に踊の稽古をつけた。この踊は初春の宴会の舞踏で一流どころ十八人、私にすれば正月興行の一つの宣伝にもなるのだから、報酬は一切取らなかつた。それに対する御礼替りとして、私の川丈座に於ける初春興行には、これら一流の芸妓が切符を出して毎日交代で世話役となり、花柳界方面を斡旋してくれたので、興行は大変な人気を呼んで賑(にぎわ)つた」(「自叙伝」)。

 このあと金三と合同311日より岡山市大福座で興行した。36日付「山陽新報」に「来る十一日東京三遊派扇遊亭金三、桂三木助二座合同にて開演。落語、笑話、長唄、手踊等取揃えて賑々しく演ずる由」とある。三木助は「百年目、関取千両幟、板倉の花」ほか人情噺、音曲噺(演目不明)をやり余興に扇の舞を披露した。

 同一座は326日から岡山県笠岡市の曙座で、411日から16日まで四国高松の常盤座で興行した。常盤座では余興に金三の歌、三木助の舞を毎夜披露した。新聞(香川新報)に載った番組をそのまま抜き出すと「名家の抜雀並に扇舞振事(三木助)大切槍さび、丸橋忠弥(唄金三、舞三木助)/雁風呂(三木助)大切ヤリサビ、酒井、平井灌八(唄金三、舞三木助)/関春風(三木助)大切ヤリサビ、荒木又右衛門、清水一角、(唄金三、舞三木助)/野崎参り(三木助)大切ヤリサビ、仁木弾止、め組辰五郎(唄金三、舞三木助)/信濃守(三木助)大切りヤリサビ、大石蔵之助、忠臣蔵五段目定九郎(唄金三、舞三木助)/魚徳(三木助)大切ヤリサビ、浪人者、海安寺(唄金三、舞三木助)」である。こういう詳しい発表の仕方は地方紙特有で、たいへん参考になる。

 415日付「香川新報」に「常盤座のぞき(413日)」の記事が載った。三木助については「三木助の関春風は幾分講談じみた所もありましたが、そうした所に此の筋の生命があるのでしょうが、然し此の鹿殿の舞には感心させられました。大切金三のヤリサビ、三木助の舞は言わぬが花とでも言っておきましょう」とある。「関春風」は三木助と得意の一つである「関津富(せきのしんぷ)」の誤記であろう。

 高松の興行を終え、大正54月末日には大阪へ戻った。明治43年末に逐電してからおよそ五年半ぶりの大阪である。

 留守にしていた間に上方落語界は大きく様を変えていた。明治末年の擾乱により 三木助の母体であった桂派は寿々女会と名を変え、その寿々女会も大正410月には消滅した。浪花三友派も一端分裂したが、何とか命脈を保ち、新興の反対派と鎬を削っていた。こうした状況で三木助は浪花三友派に加入し、51日より紅梅亭はじめ永楽館、瓢亭、延命館、あやめ館、沢井亭等の三友派の各席へ出演した。

 「今まで反対の立場にあつた三友派に出演するに至つた、その時の所感は? と云へば、ただ万感交々といふだけである……その当時の三友派で、主な連中を挙げれば文治、文団治、米団治、染丸、小文枝、それに昨年亡くなつた先代春団治、別に先代円馬、円子、円太郎、遊三、文三、現在の円馬その頃橋本川柳等である。…これだけのメンバーの中に加つて私は随分努力した」(「自叙伝」)

 長い間のご無沙汰にも拘わらず、贔屓はありがたいもので、相合橋の粋床の主人宮崎某が、白繻子、紫の縁取つた緞帳を、笠屋町に住む松竹の立作者何代目かの鶴屋南北一名白象居士に持ち込み、揮毫を依頼した。居士は墨をどっぷりと含ませて昼寝をする髭奴を描き、その上に「奴さん三府を股に懸け髭や」の句を添えた。「この緞帳を贈らるゝ者は近頃東京戻りの人気男、奴さんの踊で名代の三友派の桂三木助、これが法善寺の紅梅亭の高座にかけられるは一両日の中、或はもう栄えをしているかも知れない」と65日付「大阪時事新報」が報じている。

 大正5101日より京都芦辺館へ出演した時、そのポスターには「青年落語の泰斗 独有舞踊 おなじみ 桂三木助 久々の出演」と宣伝されている。

 大正6年(34歳)~大正7年(35歳) 神戸千代廼座

 神戸の千代廼座は、大正55月に神戸の興行師吉原政太郎が新開地にあった映画館の帝国館を買い取り、落語定席としたもので、大阪の浪花三友派と提携し、520日から幕を開けた。

 三友派の一員となった三木助は大正64月上席に初めて千代廼座へ出演した。41日付「神戸新聞」に「千代廼座 一日より従来の連中に、桂三木助、英人ブラックを差加えて開演」とある。席主の政太郎に気に入られたのか、その後大正81月中席、下席、2月上席、3月上席、中席、9月上席、10月中席、11月上席、12月下席、大正91月上席、2月上席、3月上席、5月上席、大正107月上席、10月上席、大正111月上席、2月上席、3月上席、3月下席、5月中席、6月下席、7月上席、8月上席に千代廼座へ出演している。

 この間に出た千代廼座の三木助に関する記録を先にまとめておく。

◇「三木助の七福神手踊りが呼びものにて連日満員」(大正8114日 神戸又新日報)

◇「十九日正午より三木助独演会開催、番組は左の如し。人形買、三村次郎兵衛、名人昆観、常盤津松島所作事(三木助)、吉原雀(小満之助)」(大正8118日 神戸又新日報)

◇「十六日三人会を開く。一休湊川問答(円)、淀五郎(三木助)、お経身売(馬生)、所作事(三木助)」(大正8316日 神戸又新日報)

◇「十八日三木助独演会開催番組左の如し。東の旅(染五郎)、牛かけ(円都)、紙屑屋、法華長屋、百年目の長講三席(三木助)、余興干支に因み長唄猿舞(三木助)、番外危険術運動(東洋一郎)」(大正9118日 神戸又新日報)

◇「神戸の落語家(はなしか)の近況をお紹介(しらせ)致します。…桂三木助 この人は当地よりも大阪、東京の方面へ出ている事が多い様です。鼻は少々大き過ぎますが、すつきりとした上品な男で、踊では当地でも第一人者と目されて居ります。話もおとなしい江戸弁で、落付いた芸を持つて居ますし、扇(せんす)の使ひ分けは全くうまいものです。連獅子とか三社祭とか、長唄物でも清元物でも奇麗に踊ります。当地の前座は大ていこの人の弟子と云つても好い位です」(『寄席』第八号・きくすゐ社・大正10615日)

◇「今十五日より従来の三木助、寅子等に、新加入として三友派幹部の立花家花橘、橘家蔵之助が出演し、尚大喜利余興には信濃家小半、桂三木助が乗合船を踊って賑やかに打ち出す」(大正11215日 神戸新聞)

◇「今廿七日より出演する柳家小さん一行は前景気よく、今回は東京出演の日取り関係上廿九日迄三日間の出演なれば毎夜各自の得意のもの計りを演ずべく初日の番組は、高砂(三遊亭円楽)、箒屋娘(桂三木助)、百面相(松柳亭鶴枝)、歌澤淀の川瀬、玉川(歌澤寅古満)、義士伝(一龍斎貞山)、らくだ(柳家小さん)」(大正11327日 神戸新聞)

二代目桂三木助③

 大正8年(36歳) 金沢一九席へ

 三友派時代も夏巡業であちこち出かけている。

 夏の巡業で71日より久々に金沢一九席へ出演し、十日間の独演会を開催した。た。71日付「北国新聞」に「一九席 本日より東京落語桂三木助独演会にて花々しく開演」とあり、小残月の新講談を間においただけで三席口演するという、まさしく三木助独演会であった。しかも落語のあと舞踊も披露している。新聞に出た番組より三木助の演じた落語と舞踊は以下の通りである。

 71日、落語「人形買い、淀五郎、尻餅」、舞踊「手踊槍錆、丸橋忠弥」

 73日、落語「住吉駕籠、抜け雀、三十石」、舞踊「長唄勧進帳、歌沢わしが思い、海晏寺、奴さん、槍さび、酒井太鼓、櫓八、鈴ケ森」

 74日、落語「口入屋、帯久、め組の喧嘩」、舞踊「常磐津松島、歌沢西行、深川、槍さび」

 75日、落語「崇徳院、立切れ、鍬潟」、舞踊「清元山姥、常盤津勢獅子、歌沢淀、かつぽれ、立山、槍さび、紅葉山、碁盤忠信」

 78日、落語「初天神、関の津冨、紙屑屋」、舞踊「歌沢二上り西行、浮世節潮来、清元喜撰、手踊槍さび、仁木刃傷、幡随院長兵衛」

 十日間の独演会を終えたあと、715日より三代目三遊亭円馬と三木助二人会を開催した。

 715日の番組は笑話手踊(木馬)、噺滑稽音曲珍芸(都枝)、滑稽落語扇舞(とん馬)、教育美談(小残月)、滑稽人情落語舞踊(三木助)、滑稽人情落語咲分(円馬)、大切掛合手踊沢山(三木助、円馬)である。717日付「北国新聞」に「一九席覗き …三木助は大丸屋騒動に不死身の兄だと器用に落として嫌味のない話し口、暑い時節には尚更結構である。踊のしっかりしていて、軽いのに一流の味を出している。円馬は鰻屋に情味たっぷりを偲ばせ、大切の掛合踊は満場の拍手を浴びて、いよいよ油が乗って居た。納涼がてらに見逃し否、聞き逃がすことの出来ぬ一座である」とある。

 921日より四代目橘家円蔵一座が一九席に入った。その座中に小円蔵もいた。後の六代目三遊亭円生である。一九席の楽屋で三木助独演会の時の楽屋帳を見た円生はよほど印象深かったのか、その時の思い出を昭和52512日付「北国新聞夕刊」で「…一人きりで、十日間独演しているんだ。帳面見てびっくりしたのはね。前座から自分が上がるんだ。それで前座だてえと、やっぱりちゃんと前座の話をしているんですよ。その次は二つ目てえとやや二つ目の話をして、それから今度は真打の話を三席目、四席目で、これも自分でやるわけ。明治時代のものですね。それが帳面に克明についている。それでこのお芝居、お客様が大変にきたらしいんです。これが十日間。しかも演目違うわけですからね。演目違うっていったら四十ですけどね。粒がちゃんと揃ってんだから、ガタンと落ちっこないですね」と語っている。また次に円馬、三木助二人会については「そうすると、その十日間がすむとね、それに引き続いて三遊亭円馬になった。……この人が来て二人会になったんですね、こんどは。で、二席づつやるでしょう。それで、喜利に二人で踊っているんです。『槍さび』かなんかをね。その晩きっとこしらえるんだ。『きょうはなにをやろう』ってなことで。(上演題目)を書いてある。『先代萩』『五条橋』だとかね。いろいろなものが書いてあるんですよ。昼間に振り付けて夜やるわけですね」と語っている。

 三木助、円馬二人会についてもう一つの証言は昭和51127日付「北陸毎日新聞」で「……円馬が大阪で活躍していた頃、同じく大阪で人気の高かったのが二代目桂三木助。我々の記憶に残っており、昭和36に死んだ三代目三木助の師匠である。二代目三木助は大正9(ママ)一九席で十日間の独演会をやって大入りをとった。ところがその直後、円馬が合流して三木助、円馬二人会をやったが、なぜか、これはあまり客が来なかったそうである。この時、小円馬(筆者註:この時はまだとん馬)として師匠について来た現円馬師(四代目)は、その当時を思い出して、『客の入りは悪かったが、席亭さんが客席で聞いてて一人喜んでましたよ。一流の芸人が来てくれて気を入れていい芸を見せてくれるってえのが、客の入りがいい悪いを別にしてうれしかったんでしょうね』と話している。席亭八代竹次郎のこんな人柄が、芸人の間に一九席の名を高らしめた秘密なのかもしれない。(一九会同人 上野健治)」とある。

 金沢を打ち上げた三木助は岡山へ向い、81日より三遊亭円遊(滝梅三郎・俗に大阪円遊)、桂家残月と大福座で初日を開けた。83日付「山陽新報」に「初日満員の京阪落語三人会三遊亭円遊、桂三木助、桂家残月一行は毎日午後六時より開演すべく、三日目出し物左の如し。染ぞの曲(円遊)、狐小抦扇舞手踊(三木助)、伊藤公爵(残月)」とある。4日には得意の「抜け雀」をやった。
  岡山を打ち揚げたあとこの一座で九州へ向い、819日より五日間博多川丈座で興行した。三木助は「返歌、立切れ、住吉駕籠、百年目」をやった。そして9月は上京し、15日より神田入道館上野鈴本亭京橋金沢亭人形町鈴本亭へ出演した。 

 大正9年(37歳) 博多川丈座へ

 大正961日より7日まで、博多川丈座へ出演した。この時、三味線の曲弾き及び三木助の相方(地方)として楽丸が同行した。

 楽丸は本名根門寅吉。慶応3年東京生れ。幼くして失明し、盲目の音曲師となった。明治30年代は翁坊楽丸、極楽坊楽丸と名乗っていたが、40年代には鶴の家亀寿と改名した。明治44年の三升紋弥(のち三升紋右衛門)一座の巡業より加わり、大正5年に三升家紋十郎と改名した。三木助の相方として同行するにあたり、紋弥に憚ってか、もとの極楽坊楽丸に戻したようだ。

 三木助が演じた落語は「薪割り、名人混観(昆寛)、先の仏、淀五郎、碁盤切 人情噺(演目不詳)、故郷へ錦」である。大切に楽丸を相方に数番舞った。

 その後付近を巡業し、71日より六日間、再び川丈座でお名残興行をした。初日、二日目、四日目に「立切れ、百年目、宮戸川」をやった。

戻り道で718日より岡山の大福座で興行したのち、大阪へ帰った。

 大正10年(38歳)

  正月は東京で迎え、人形町鈴本亭、神田入道館、上野鈴本亭、江戸川鈴本亭へ極真坊楽丸とともに出演した。
  214日より楽丸とともに金沢の一九席へ出演した。楽丸は8月に紋右衛門のもとに戻り、紋十郎に複名している。

 この正月、大阪では大事件が起っていた。三代目桂文団治、三代目桂米団治、桂春団治の幹部三名が浪花三友派から反対派へ移籍したのである。反対派の太夫元岡田政太郎は大正9年に死亡し、反対派の席元であった吉本泰三が引き継ぎ、上述の三人の電撃移籍を実現させたのだ。

 大阪へ戻った三木助は染丸、四代目松鶴らと三友派の立て直しに尽力したが、退勢は免れず、大正119月、ついに反対派(吉本花月派)に併合されてしまった。

 大正11年(39歳) 吉本の一員となる 『演芸タイムス』の三木助評

IMG_20230110_0005 『落語系図』に「大正十一年九月一日 花月連三友派連合同連名(51名)」が掲載され、真打として「三代目桂文団治、桂枝雀、桂枝太郎、笑福亭円笑、四代目笑福亭松鶴、林家染丸、桂ざこば、桂三木助、三代目桂米団治、桂春団治、二代目桂小文枝」の十一名が掲げられている。真打として迎えられた三木助は吉本ではどのように評価されたのか、吉本が大正1111月から月三回、つまり上席、中席、下席に寄席で配っていた『演芸タイムス』という小冊子より見てみよう。なお左掲の写真は『演芸タイムス』第22号(大正12710日)に掲載されたものである。

 3(大正11121日発行)

 「紅梅亭のぞき(1127日夜) 浪華の粋は法善寺に集まるとか。二十七日の晩、紅梅亭の平場に小さく蹲(すわ)る。北の桟敷に美しいのを引供(ひきぐ)した曾我廼家蝶六、例の苦い顔して陣取つて居る。時々傍(わき)の大磯と笑を交はしながら終りまで熱心に聴いて居たは床しい。…三木助『帯久』、この人の江戸口調は耳障り、何にも拘泥されないで自由にやつてほしい。始めをトン〳〵畳むにしても、泉屋の好人物を現はす為めに、今少し演つて置くが宜い。将来の大物たる人、気取つて居る時でない。(里風)」

 7(大正12111日発行)

 「初春の北陽花月倶楽部 三木助が『佐々木政談』で実のある噺を面白く聞かせ、余興に乗合船を踊って下りる。(芦風)」

 「消息 桂三木助氏は西成郡中津町成小路の七二一に転居」

 第12(大正1231日発行)

 「東京人の聴いた浪花落語界 話しについて著しき進境を認める。踊りも巧い。(江戸子)」

 第13(大正12311日発行)

 「中席の北陽花月倶楽部 三木助のお文さん、期待以上の出来に儲け物をした思ひ、元来幼時から斯界に育つて来た人で、近来一層確かりした腕を表して居るが、唯その話を運ぶ話術……例へば、どうしまして、どうしますと云つた言葉のアクセントに江戸口調では今少し強くあつて欲しいと望んで居るが、この夜はその感じも起きぬ程誠に気持好い出来、殊に会話の巧妙は推賞するに足る、常に生粋の噺で行く處にこの人の将来を嘱目する価値が有ります。立ち上つての踊りに於ても軽率に流れない所が喜ばしい」

 19(大正1261日発行)

 「堅実なる芸を以て識られたる桂三木助は一郎、福松、新内の小高連、高蝶、すゞめ、花団治外大一座を率ひて海路徳島に遠征、大好評を以て迎へられつゝあり」

 第22(大正1279日発行)

「桂三木助君の考察 落語山人

 関西落語界に於て、将来を嘱望さるゝ人数指を屈す、浅薄なる吾人の考察は真を穿ち得ざるの憾み多からんと思へど、幾何かの真理を探り得たりと認めらるゝ事あらば望外の幸、即ち先づ三木助君を抜きて片言数語を並べよう。

 君は幼にして斯界に育ち、後東京に在りて修業、今日の江戸弁を成す、経歴は改めて芸歴子に託して直ちに現在の君を観ることゝする。

 高座に於ける君の態度は極めて真剣である。その演出は、是が非でも聴衆の総ての心を捕へねば熄まぬ意気がある。居眠りせうが、欠伸をせうが己は唯喋舌(しゃべ)れば宜いのだ、と云つた余裕は少しもない、是は君の長所である。

 君は訓練に依りて今日を成したと認める事が出来る。即ち器用と云ふ肌の人ではない。今日の君の持つ話術は華々しいものではなくて、堅実な味を持つて居る、優美ではないが堅牢である、それは何れも修練の結果である。器用でないと云ふことは、君の弱味であると共に、亦強味である。吾人の君の将来を期待する所以は実に君の器用ならざる点にある。然し茲に云ふ不器用は君の話術を標準とせるもの、即ち君の現在の技倆が器用より生れたるか、修練より生れたるかを推す時に用ひたるものであることを付記する。

 君は一人の客の背くをすら深く意に留めながら、聴衆に歓を売らうとはしない。聴衆の心に添ふて講ぜようとは少しもしないので自分の話に聴衆の心総てを同化せしめようとする、是は訓練を得て来た強味である。君が若し器用であるならば、容易に聴衆を捕へ得る悧巧な道を選ぶ余裕があるであらう。即ち聴衆に歓を通ずることである、然し君の今日は、器用を武器として戦つて居ない。訓練の力を以て真正面より戦はうとす君の意気こそ将来の大成を期待するに足るものがある。舞踊に於ても同じ傾向を認め得る。猶春秋に富む君が、訓練を力として将来の為め一層の奮励あらんことを希望して筆を擱く」

 大正12年(40歳) 

 21日より名古屋七宝館へ「落語界若手の大立者桂三木助一行に、音曲三遊亭円若を加えた大一座で」(21日 名古屋新聞)開演した。「三木助の落語はイヤ味のない軽い滑稽で能く笑わせ、踊りもうまい」(27日 同紙)とある。

 1221日より昼夜二回、もとの反対派(吉本花月派)と三友派から移籍してきた連中の親睦をも込めて、千日前芦辺劇場で花月三友合同落語家芝居が催された。三木助は昼の部で「鈴ケ森」の飛脚甲助、「天下茶屋」の安達元右衛門、大切「かっぽれ」を、夜の部で「仮名手本忠臣蔵」六段目の猟師と七段目の寺岡平右衛門、「二十四孝」の腰元濡衣、「千本桜道行」の逸見藤太を勤めた。六段目の猟師は三木助、春団治、染丸という豪華版であった。

 大正13年(41歳) 名人昆寛

 3月と10月に今年も名古屋七宝館へ出演した。そして101日の初日に「名人昆寛」をやった103日付「名古屋新聞」に「三木助の名人昆寛 三木助は初晩『名人昆寛』を話した。人情味も豊かにシンミリと面白く聴かす。併しまた多くの人物が一つになるような欠点は免れぬ。之れは彼の得意とする軽妙な踊りで補い得て、聴衆を満足させた」とある。

 寄席へ来る客の多くは漫才や色物を目当てで、噺家の出番はどんどん減った。吉本も落語の凋落を看過していたわけではなく、少しでも噺家たちの出番を増やすため、また少なくなったとはいえ根強い落語ファンの欲求を満たすため、様々な落語会を企画した。そしてそのほとんどに三木助は出演している。いささか煩雑ながら三木助が出た特別の落語会を逐次列挙しておく。

 その最初は1211日より十日間、南地紅梅亭で行われた落語講談三覇雙である。出演は桂春団治、神田伯龍、三木助の三人で、三木助は余興に立花家喬之助の地方で舞った。下掲のチラシは「寄席番組類目録」(富士正晴記念館 平成12年)より拝借した。

14年 010

 大正14年(42歳) 様々な落語会

 315日正午より南地花月にて桂三木助独演会が開催された。この時の演目は「猿後家、淀五郎、冬の遊び」で、一席終ったあと立ち上がって「松の緑、海晏寺、鎗さび」を舞った。

 315日から430まで大阪市の拡張(いわゆる「大大阪」の誕生)と大阪毎日新聞15000の発行を記念して天王寺公園と大阪城を会場に大大阪記念博覧会が開催された。319日、天王寺会場内の娯楽館で午後1時と3時の二回、吉本興行部幹部連中の総出で「今昔浪華の賑ひ」と題し「桜宮芸競べの場」を演じた。落語「桜宮」の芝居化で三木助は円馬と薩摩の侍を演じた。320日付「大阪毎日新聞」に「…仇討ちの男に扮する円太郎、父の仇を探して歩く巡礼の兄弟春団治、花橘、助太刀に出る薩摩の侍円馬、三木助、いづれも本衣装で出る」とある。下掲の写真は同紙に載ったもので、向って左端が三木助である。

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 321日より十日間、南地紅梅亭で第四回落語三覇雙が開催された。そのチラシに「純な落語の真髄を保存すべく従来余り上演せざる『長き話』を一流の大家に拠りて演出なさしめ且つ時間に制限を附せず心のまゝに各師得意の技倆を発揮せしむる催であります」と宣伝されている。出演者は三代目三遊亭円馬、桂春団治、三木助の三人である。この時も余興に立花家喬之助の地方で三木助が舞った。

 521日より新町瓢亭で落語七選会が開催された。出演者は染丸、遊三、枝太郎、円枝、春団治、残月、三木助の七人。三木助は「鬼あざみ、大和□願、死神、袖がき、神道又七、鰻屋、柳田、捨丸、柴舟、関津富、夢金」を演じた。
  62日より11日まで金沢一九席で三木助独演会を開催した。この前に来たのが大正117月だから足掛け四年ぶりである。65
日付「北国新聞」に「久し振りの三木助 三日目の一九席を覗く 足かけ四年振りのお目見得と云う。その三木助を一九の三日目に覗いて見る。先月までの三人会の連中も加わっているが、実質に於て矢ッ張り三木助の独演会である。前後両席、前席には『探幽袖がき』の一席。陰気になろうとするのも引立て引立て先づ以て面白く聴かせた。が二度目の亭主弥左衛門をモ少し面白く科(こな)し得たらと思った。得意の舞踊は『保名』で大いに気取った所を見せるが、自慢だけにさすがと唸らせる。後席は滑稽落語の『野崎参り』付焼刃の喧嘩売が馬鹿〳〵しくて可笑しい。アトは立上って槍錆など達者に踊まくって勉強ぶりをふんだんに薪きちらす」とある。
 101日より十日間、南地紅梅亭と北新地花月倶楽部で講談落語長演会が開催された。出演者は紅梅亭は三木助、春団治、枝太郎、円馬、神田ろ山、染丸で、北新地花月倶楽部は染丸の代りに談州楼燕枝が出た。三木助がやった演目で判明したのは紅梅亭「猫忠、関津富、先の仏」、花月倶楽部「ほうきや娘、名匠昆寛、菊江仏壇、三年酒、鬼薊、捨丸、百年目」である。

 大正15年(43歳)

 この年に三木助が出演した落語会は321日より紅梅亭の上方落語競演会、41日より南地花月の幹部競演会、花月倶楽部の落語講談五人会(神田伯龍、三木助、春団治、文次郎、談州楼燕枝)、111日より紅梅亭の落語重鎮六人会、1121日より南地花月の三木助独演会、1221日より南地花月と北新地花月の吉例珍芸会である。

 111日付「大阪毎日新聞」に「秋の夜に相応しき紅梅亭の名出番 秋の夜長に寄席気分に浸り、一日の繁を忘れ、……しんみり落語を聴かんと望まるゝ方は、必ずこの名出番を選ばるゝであらう。見られよ! 宵の二時間を賑やかに、その後に大阪落語界の重鎮、米団治、遊三、円枝、蔵の助、染丸、三木助の六大家を以つて特に三十分時宛の熱演、好者にとつて今秋最大の聴き物であります。是非に! ……但し落語嫌ひの方は来るべからず」とある。 

 『演芸タイムス』の後継の吉本の広報誌『笑売往来』第二号(大正151121日発行)に「三木助は大阪落語界に於ける俊才の一人たるは謂ふまでもない。二十一日の独演会に箒屋娘を嬉しく聴いた。全くこの人の器用さは心憎い程だ(長谷川生)」とある。

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 また同誌第三号(大正15121日発行・上掲はその表紙)には「桂三木助 立つてよし座つてよし、全く器用極まりない人である。往々気障だとか高慢だとこの人の高座を評する人があるが、私は単純に而(こ)う決めたくない。それは恐らく高潔な気品を保つに努めて居るこの人の心情の現れであらう。情誼に厚いその性格と共に之は一面この人の身上である。十一歳からの努力が今日の光沢を放つて居るのであるが、この珠は尚底に光を潜めて居る筈である。その雄壮(ゆうそう)なる鼻と共に、目映く輝くであらう。三木助師匠の将来を期待するもの、豈吾一人ならんやだ。粋文人連と交り、その野球団に連つてボールを遣る程稚気を持つて居るも嬉しい。但し『三木助師匠は直球はよう投げまへん』若い者は而(そ)う云つている。蔵書と写真の道楽あるを聞く。(里風生)」とある。

 12月の吉例珍芸会では紋十郎、喬之助、清子三名の地方で露の五郎と「釣女」を舞った。五郎も舞踊の名手として知られ、二人の巧妙な演技に客席は年末の憂さを忘れ、明るい笑いに包まれたことだろう。

二代目桂三木助④

 昭和2年(44歳)

 上述してきたように、吉本は様々な落語会を企画したとはいえ、そこに出られる噺家は限られ、通常の寄席はますます漫才等に席捲され、出番も持ち時間も加速度的に減少の一途をたどった。出番を失った多くの噺家たちはあるいは解雇され、あるいは自ら見限って退社していった。見渡せば、古株の真打として残っているのは染丸、春団治、三代目円馬、三木助の四人だけだった。

吉本の広報誌『笑売往来』第十四号(昭和251日発行)に饀古楼銚子なる人の「無遠慮に申上」という表題の文章が載っている。

 「(前略)円馬、三木助、春団治、此三人は誰が何と云つても現在の吉本興行部否関西落語界を代表する人々と称して決して過言ではなからう。(中略)『三木助』落語が上手で舞踊が巧い。文学博士にして医学博士、森鷗外さんぢやないが、宮本武蔵の再生とも思はれる人、今更高座に愛嬌があるのないのと云ふのは野暮、けれども当代で此人ほど落語のネタ数を知つて居る人はないのだ。それに何も生つ齧りの江戸弁の淀五郎や静の法楽舞等をやらずに材料豊富過ぎる程持つて居る上方物を演つて貰ひたい。帯久にせよ、大太郎にせよ、アノ結構な箒屋娘にせよ、此人を除いて他に誰が演じやう。ざこばの愚にも付かぬ英語もお荷物だが此人の江戸弁も御遠慮申上げたい。……然し僕の嫌ひな江戸弁の昆寛を独演会で聴いた時丈けは確(たしか)に泣かされた。他から見られて恥しい位に涙が流れたものだ(後略)」

 昭和3年(45歳)

 121日より新町瓢亭で落語五撰会が開催された。出演者は円馬、染丸、春団治、円枝、三木助である。瓢亭はいまは吉本に所属しているが、かつて桂派の老舗として存在し、三木助も手遊の時から馴染んでいた席である。

 316日より紅梅亭で講談落語有名長演会が開催された。出演者は染丸、三木助、春団治、円馬、貞山である。

 昭和4年(46歳)

 69日正午より京都富貴で三木助独演会が開催された。補助として笑福亭枝鶴(のち五代目松鶴)、花月亭九里丸、三代目立花家千橘が出演した。演目は不詳。

 昭和5年(47歳)

 126日正午より南地花月で三木助独演会が開催された。演目は「宿屋仇討、義士の薪割、立切れ、紙くづや」の四席。余興で常磐津「松島」、地唄「八島」、歌沢「淀」、小唄「いはろ」を舞った。

 当時大阪毎日新聞の学芸部の記者であった渡辺均が321日付同紙に「現在大阪在住の落語家では、春団治、円馬、三木助を三巨頭とすべきこと勿論であるが、春団治のナンセンス、これは何といつても天衣無縫の域、大阪落語の神髄はこれである。円馬は東京落語家の神髄である。恐らく今、東京にいる落語家諸君といへども、円馬以上に出るものは、あんまり有るまい。三木助の着実な凝り性は、これも落語界の宝である。しかも落語の生き字引といつていゝ。この三巨頭を持つ大阪の落語界は、東京のそれの堕落に引きくらべて、まだしも、仕合せである」という記事を載せている。

 昭和6年(48歳)

 418日、南木芳太郎の上方郷土研究会主催で南区清水町北むら三階大座敷にて「大阪落語の会」が行われた。出席者は花月亭九里丸、笑福亭枝鶴、桂三木助の三人である。客席には菊池幽芳、高安六郎、木谷蓬吟、松瀬青々、岸本水府、岡島真蔵、高谷伸、一柳安次郎、島崎三秋、川崎巨泉等各界の名士の顔も見えた。まず九里丸が上方落語の歴史を漫談風に可笑しく語ったあとに枝鶴が出て「植木屋娘」を口演した。休憩のあと三木助が「あみ船」の一席でご機嫌をうかがった。416日付「大阪毎日新聞」に「休憩後、当日のとり三木助君の『あみ船』は四十分の長演。隠居、若旦那、町幇間の茶ら喜、船頭、何れも人物が躍如として浮び出て、真に迫つた話術は聴者をしてぐん〳〵妙味に引入れてゆくその舌練、流石大阪落語界の驍将として近来になき好(よき)聴きものであつた」とある。おそらく渡辺均の筆であろう。網を投げ入れる仕草はリアルを超えた優雅さがあったという。

 520日より十日間、南地花月で「講談・漫談・落語 リーグ舌戦会」が開催された。出演者は西村楽天、小春団治、円馬、枝鶴、神田ろ山、春団治、三木助である。三木助のやったネタは「木挽茶屋、網船、冬の遊び、太鼓腹、味噌蔵、先の仏、抜け雀、箒屋娘、百年目、鬼薊」である。

 620日より十日間、南地花月で「長演特選会」が開催された。出演者は小春団治、小柳三、蔵之助、枝鶴、柳橋、九里丸、神田伯龍、春団治、三木助である。三木助のやったネタは「昆寛、竃盗人、村正、灰屋、帯久、犬太郎、菊江仏壇、立切れ、紙屑屋、後家殺し」である。

 111日より十日間、南地花月で「大衆芸界の第一戦に飛躍する人々が秘技を競ふ趣味の会」が開催された。出演者は九里丸、枝鶴、三木助、春団治、神田山陽、金語楼、木村友衛(浪花節)である。三木助のやったネタは「愛宕山、竈盗人、貝野村、景清、三枚起請、天神山、木挽茶屋、味噌蔵、紙屑屋、苫ケ島」である。

 昭和7年(49歳)

 730日より道頓堀角座で落語家芝居が開催された。三木助は「義経千本桜」鮨屋の段では四天王(梶原景時の家来)を春団治、蔵之助、文次郎とともにやり、白浪五人男」では南郷力丸を勤めた。

 1021日より十日間、北の新地花月倶楽部で「聴く趣味の会」が開催された。出演者は染丸、小春団治、三木助、九里丸、春団治、円馬、正蔵、枝鶴である。三木助の演じたネタは「愛宕山、太鼓腹、牛かけ、逆様葬礼、首提灯、赤子茶屋、天神山、口入屋、禍は下、貝野村」である。

 昭和8年(50歳)

 51日より9日まで道頓堀角座で落語家芝居が開催された。三木助は「太功記」尼崎の段で四天王を、「源平魁躑躅」で姉輪平次を勤めた。

57日付「大阪時事新報」に「『太功記』は枝鶴の初菊で、しか芝居の面目を余すところなく発揮していて愉快此上もない。円馬の光秀はもつさりして困つたもの、伯龍の十次郎の型はなつてない。染丸の久吉もたよりないが、どこかに味をみせている。延若のみさをは姿といひせりふといひ申分なく、円若のさつきもがつちりしている。こゝでも三木助、九里丸、福団治、扇遊の四天王のユーモア、舞台を助けている」とあ

る。

 1011日より20日まで北新地花月倶楽部で「東西落語長演の夕」が開催された。出演者は福団治、円枝、三木助、九里丸、柳橋、枝鶴、エンタツ・アチャコ、春団治、ろ山、三亀松である。三木助の演じたネタは「首提灯、皿屋敷、夏医者、遊参船、首仕替、三府、三十石、矢走船、桑名船、竈盗人」である。

 1112日から20日まで京都富貴で「落語長演会」が開催された。出演者は三八、三馬、文次郎、馬生、九里丸、三木助、春団治である。三木助の演じたネタは「井上但馬、子別れ、死神、高津冨、村正、竈幽霊、なさぬ仲、刀屋、太鼓腹」である。 

 昭和9年(51歳)

 上述のように三木助は落語会に熱心に出演しているけれども、毎日の高座はなかなか厳しく、エンタツ・アチャコがトリならどんなに遅くても席を立たぬ客が、三木助がトリだとそそくさと寄席を後にしたというのが現状であった。そのことを、谷村俊郎なる人が86日付「大阪時事新報」に書いている。

 「寄席の一興行の番組に万歳が二、三組入つていないと客が来ない‥‥と云ふのが常識になつてしまつたが、落語を聞くよりも万歳を聞きに来るのが近ごろの寄席の客だ。例へば三木助(名前を出して失礼)がトリになるのと、エンタツ、アチヤコがトリになるのとではお客の立ち方がまるで違ふ。時間が遅くなるから立つのだらうと思つていると、万歳がトリなら何時(いつ)もの時間よりも余程遅れていても客は立たない。万歳の方は面白いからと云ふ理由は確かにあるが、しかし三木助は拙いからと云ふ理由はない。落語が何となく退屈だからと云ふ理由によるのだから、落語家たるもの、何故落語が退屈か? と云ふことを是非研究しなければならぬだらう」 

 昭和10年(52歳)

 吉本が噺家のためにたびたび開催してきた落語会もここ一、二年でめっきり減った。

 429日付「大阪時事新報」に「東京では月の替りの一日など落語家の独演会がよく開かれる。例へば金語楼独演会、小さん独演会と云つた風に、一夜のうちに一人の落語家が長講三席位‥‥おせつ徳三郎ならおせつ徳三郎、鰍沢なら鰍沢の話のはじまりから落ちまで全部演る訳で、大阪にはこの独演会が殆ど皆無だ。……たまには三木助独演会と云つた風のものをやつてほしいものである。三木助の話など地味なので普通の漫才その他の雑然たる間にはさまつて十五分か二十分簡単な話をやつているのではやる方も張合があるまいが、聴手もやつぱり張合がない。一ペン一時間位かゝつてじつくりしたものを聴きたいものである。独演会でいけなかつたら三木助、円馬二人会位のことはやつてみて貰ひたい」とある。

 518日午後6時半から京都日出新聞社会事業部主催、吉本興業専属の精鋭総出演の「日出名人大会」が日出会館で開催された。出演者は松鶴、三木助、染丸、九里丸、ろ山、雁玉・十郎、雪江・五郎、円若、三亀松、桃山天声である。518日付「京都日出新聞」で「三木助は話芸にかけては『名人芸』として称賛されていゝ。まづ東西落語界に光るものだらう。人情噺の中に滲み出させる笑ひは流石に大立者であらう」と宣伝されている。当日は得意の「抜け雀」を口演した。

 76日、宝塚大劇場で「納涼爆笑大会 カルピス感謝の夕」が開催された。その宣伝ポスターに「この結構なお会に参加出来た事を衷心お礼申上ます、と同時に全大阪落語界を代表しての出演ですから、責任感も亦大なるものです、充分にやります、そして喬之助を相手にして不勉強ながら何か踊つて見ます」という三木助の自己宣伝が載っている。

 821日より30日まで道頓堀角座で落語家芝居が開催された。三木助は「天下茶屋」の安達元右衛門と「荒神山の血煙」の門井門之助を勤めた。「天下茶屋」の安達元右衛門は大正12年の千日前芦辺劇場でも演じた役である。86日付「大阪時事新報」に「『天下茶屋』では菊五郎役の安達元右衛門が三木助と五郎の一回交替、三木助の元右衛門は昔演じて大変な好評を博したもの。河内屋の推奨措く能はざるもので、これは本格的の堂々たるものださうな」とある。

 123日付「大阪朝日新聞」に「耽奇煩悩 わたしのさがしもの チヨコレートのテリヤ 芸を教へるコツは? 落語家 桂三木助」という長い見出しの記事が出ている。犬が好きだったようで、神戸に住んでいたときは十二頭も飼っていたという。いまでもテリアばかり七頭おり、「病気でもすると女房と女中と私が代りばんこに寝ずの看病をする」とあるから相当の愛犬家である。

 昭和11年(53歳)

 38日正午より南地花月で三遊塚修繕のための三人会が開催された。38日付「大阪時事新報」に「初代三遊亭円朝が初代と二代目円生追福のために明治二十二年東京向島の木母寺へ建立した碑は過ぐる震災に遭ひ、荒れ果てたまゝ今日に至つたが、この三遊塚修繕のために吉本興業落語連の中で三遊に由縁の深い桂三木助、橘家蔵之助、三遊亭円馬は八日(日)正午から『落語三人会』を南地法善寺境内花月で開催するが、目下大阪出演中の曲毬の名人春本助次郎が応援出演し、三遊亭小円馬も参加する。その番組は、四の字嫌ひ(小円馬)、桑名船(三木助)、百々川(蔵之助)、文七元結上(円馬)、曲毬(助次郎)、意地くらべ(蔵之助)、たばこの火(三木助)、文七元結下(円馬)」とある。

 41日より京都新京極花月劇場で落語家芝居が開催された。三木助は「二十四孝」の腰元濡衣を勤めた。47日付「京都日出新聞」に「三木助の濡衣が存外真面目で、声もよし、相当なもの。極まり〳〵もハツキリしている」とある。

 昭和12年(54歳)

 21日から10日まで道頓堀浪花座で落語家芝居が開催され、「寿曾我対面」で曾我十郎祐成を、「近江源氏先陣館」で和田兵衛を勤めた。また「旅路の花嫁」で染丸、小円馬、雁玉とともに花四天を勤めた。これが三木助が出た落語家芝居の最後である。落語家芝居があれば必ず出てはいるが、七代目文治や三代目文団治のように好きで好きで堪らないというわけでもなく、春団治や露の五郎のように役者跣の腕前があったわけでもなさそうだ。わずかに出た新聞の観劇評から判断すると、噺同様ケレンもなく真面目な舞台だったようだ。

 昭和13年(55歳)

 IMG_20230113_000122627日両日、東京有楽座で東宝・吉本提携興行「当代舌戦五人会」が行われた。出演者は神田伯龍、広沢虎造、徳川無声、三升家小勝、桂三木助である。

 57日から16日まで東宝小劇場で東宝名人会に出演した。昭和99月から始まった名人会には何度か出演しているが具体的な事は不詳。

 明治9年の項にエンタツ・アチャコ(漫才)がトリだと客は残るが、三木助(落語)がトリだとそそくさと帰ってしまうという記事があったが、初代春団治(昭和9年没)亡きあとその傾向はますます強まり、南地花月や花月倶楽部ですら、噺家ではなく、エノスケ・エンタツ、雁玉・十郎、静代・文雄、雪江・五郎、ワカナ・一郎、太郎・菊春、光晴・夢若、アチャコ・今男ら当時人気の漫才コンビがトリをとっている。
 上掲の写真は327日付「大阪朝日新聞」に載ったもの。このころは各紙ともほとんどこの眼鏡をかけた写真が使われている
 昭和14年(56歳)

 323日付「大阪毎日新聞」に行友李風が大阪落語の現況を「…大阪方と来るとこれはまた一段のみじめさ。純大阪の落語として誰がいる。染丸は老いた、円枝はあまり揮はない、三木助のごとき如何にも達者無類だが、妙に東京化した訛が邪魔になる」と書いている。

 1939年(昭和14年)93日、イギリスがドイツに宣戦布告した。その日三木助は北新地花月倶楽部に出演していたが、そこでも特報が流された。94日付「大阪毎日新聞」に「演芸・拍手の中継 劇場、映画館でも放送 第二次世界大戦の序幕を告げる英の対独宣戦布告は『本社特報』として各劇場、映画館、寄席にも報道されて観客の血を沸かせた、……吉本興行でも千日前花月劇場ではニユース映画の途中に拡声機で、南地花月では九里丸の漫談の最中に、また北花月では三木助の落語の間に挟んで……場内放送を行つたり号外を読み上げたりしたが……客席からワーツと歓声が上り続いて急霰の拍手が起つて、中にはアンコールに迎へられ三度も繰り返すほどのところもあり、興奮は場内にふくれ上るような勢ひを示した」とある。

 昭和15年(57歳)~昭和17年(59歳)

 戦局はますます逼迫し、演芸の記事などほとんど出なくなり、南地花月と花月倶楽部の広告によって三木助の出番を辛うじて知るのみである。

 昭和179月上席からその広告に「三木助 小秀・元女」と出るようになった。精神的にも肉体的にも一人で高座を勤めるのがきつくなったのであろうか。

 昭和18年(60歳)

 還暦を迎えた三木助は、この戦時下にあっても南地花月と北新地花月倶楽部に休まず出演し続けた。噺家にとって内外ともに決して恵まれたものではなかった。しかしどんなに劣悪な環境にあっても最後まで高座に上り続けた三木助の心情は如何なるものであったろうか。
 119日の広告(大阪毎日新聞掲載)に「南北両花月十一日より ☆一億戦闘配置で応徴だ☆ (新作笑話)小雀、(漫才)寿郎・志津子、(漫才)花蝶・歳男、(奇術)正一、(落語)円枝、(漫才)五九童・蝶子、(漫才)雁玉・十郎、(人情噺と舞踊)三木助・小秀・元女、(漫才)雪江・五郎、(漫談)九里丸、(漫才)蝶々・マサル、(落語)松鶴、(漫才)文雄・静代」とある。これが現状である。そしてこれが最後の出番となり、121日午前7時に大阪市生野区新今里五丁目の自宅で急逝した。告別式は2日午前10より自宅で執行された。

 

プロフィール

丸屋竹山人

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