落語家銘々伝 橘ノ円都①

橘の円都
 多くの上方落語家が、自分の自叙伝なるものを、新聞や書物に記していますが、落語家の事なので、ええ加減な記事が多いのが現状です。しかし、曽呂利新左衛門、桂小春団治(花柳芳兵衛)、橘ノ円都の自伝は、かなり正確で、時代もほとんど間違いがないので、上方落語史を研究する場合、貴重な資料となっています。
 今回、この中で、戦後迄活躍した橘ノ円都について調査しました。
 橘ノ円都は、本名池田豊次郎、明治16年生れ。活躍は、明治から昭和にかけてですが、神戸時代が長い事もあり、それほど上方落語界では有名な噺家ではありませんが、戦後若手しかいない上方落語界において、唯一明治から活躍した噺家として、多くの落語家にネタを伝承。米朝や枝雀等の上方落語家だけではなく、東京の二代目小南や六代目円生にも伝承されました。

誕生から落語家になるまで
 明治1633日、橘ノ円都は、神戸市の兵庫永沢町という所で長男として生れました。父親(安蔵)は兵庫で代々続く大工の棟梁で、芸事好き、母親も同じく芸事好きで、その影響で円都や妹(妹が三人の四人兄弟)も小さい頃から、浄瑠璃を習いました。
 十一歳の頃より奉公しましたが、何れも長続きせず、色々な職業を点々として、二十二歳の頃、素人噺の会に加わり、橘円助と名乗り素人連の座長になりました。
 更に翌年、毎日新聞に勤務する伯父に「噺家になりたい」と云うと、桂春団治を紹介してくれたそうです。春団治は、「自分はまだ修行中なのでとても弟子をとる事はできないが、師匠の文団治と所に連れていく」と言ってくれたそうです。
 入門は、明治38年の4月という事ですが、38年の1月には、既に高座にあがったようです。
 この時の春団治との会話が下記の記事に掲載されました。

「神戸寄席」 芸能懇話17号
第十四回パンフより(昭和337)「円都むかしばなし」(三)はなし家になるまで
 大阪へ出て一人前のはなし家になり、故郷へ錦をかざすと大きな広言をはいてみても、格別にええ筋や、つてがあるわけではありません。
 その頃、大阪の毎日新聞へ出ていた伯父がいまして、これが中々の粋人で、芸人の出入りも多かったのに目をつけて、何はともあれ、この伯父のところにとびこみました。
 わたしの話をきいて、伯父は早速自分が心やすくしていた、当時の春団治をよんでくれました。
 「この極道ものの甥がはなし家になりたいというのや」。お安いことで、師匠の文団治に早速紹介しましょうが、この場で一遍聞かしてみてほしいということです。
 こっちはずぶの素人でもないつもりで、春団治を前において、おなじみの「東の旅」をしっかりやりました。「……大阪はなれてはや玉造」と、くらがえり峠へさしかかるクダリを喋りはじめると、「ああよろしい」。あとは聞かんでも判ったというわけで、無事合格です。上町の徳井町に住んでいた文団治師匠のところへつれていかれて、早速入門。初舞台が第三此花館ときまりました。……
明治371228 神戸又新日報
藤田席 来春元日より替る落語連の顔触れは左の如し
寿、団正六小正楽真二楓橋三助、団小文正楽源氏節美住太夫浄瑠璃三八&清菊真生

 すでにこの時には、団寿という名前は決まっていたのでしょうか?
 何しろ、この「藤田席」というのは、当時師匠文団治が、浪花三友派から飛び出して「大阪三友派」なる組織を作った、神戸での定席です。しかし、神戸まで座員が揃わない為、半分は素人芸人が出演していたのが現状です。多分、まだ正式に入門していない団寿ですが、座員不足の為出演したようです。
 さてその後、正式に入門をして、「桂団寿」の名前を師匠文団治から貰い前座修行。初舞台は、第三此花館です。初舞台といっても、所謂前叩きで、客がある程度入ると引っ込むというもの。
 新聞(大阪時事)での団寿の初出は下記の記録です。光鶴とあるのは、後の五代目松鶴で、若三郎というのは、後桂米若です。この時は、見習い前叩きから通常の前座になっていたのでしょう。

明治397月上席
【浪花三友派】
△永楽館 光鶴、団寿、若三郎、笑鶴、新作、柳寿斎、小円、清国人李彩、文都、可楽、曾呂利新左衛門、若遊三、枝鶴、(指月、残月)、円子、松喬、円坊、(小満之助、小歌、小峰)
明治397月下席
【浪花三友派】
△永楽館 光鶴、[団]寿、若三郎、小円子、松喬、一円遊、(小満之助、小歌、小峰、色葉)、円坊、小円、残月、柳寿斎、円子、福吉、枝鶴、李彩、福三、馬生、可楽、松光

 その後、兄弟子桂春団治の世話で、堺の天神席の前座として出演します。
 この当時の天神席は、浪花三友派の定席となっていたようで、毎月大阪から何人かの真打が出演していましたが、扇笑、団寿、団三郎等座付芸人がほとんどで、団寿にとっては、大阪の席に出るより、気兼ねのない毎日であったようです。

明治4111 堺天神金秀席 文我出席控 27丁裏
かつら団寿、かつら小米朝、桂団橘、東家扇笑、円寿、団三郎、文雀、花円蔵、文我、歌之助、文都
明治4121 堺天神金秀席 文我出席控 29丁裏
団寿、団橘、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、文我、団作、団三郎、柳寿斎、円子
明治41215 堺天神金秀席 文我出席控 30丁表
団寿、団橘、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、(小米、福吉)、団作、団三郎、柳寿斎、菊団治、文我、松光、大切社頭の松(楽屋総出)
<編者註>「十時の辻占」配役 豊三郎(福吉)松吉(扇笑)舟作(団寿)おかね(花円蔵)金助(団三郎)杉田(菊団治)宗あん(文我)与七(小米)
明治4141 堺天神金秀席 文我出席控 31丁表
団寿、扇笑、小米朝、円寿、花円蔵、文我、団作、団三郎、一兵衛、文雀、燕太郎、文都

浪花三友派を脱退して旅に出る
 明治41年 堺の天神席で前座をしている時、兄弟子団三郎と共に、三遊亭円子の一座に加わります。

明治4151 堺天神金秀席 文我出席控 31丁裏
団寿(ドロ〳〵)、扇笑、小団、春団次、新作、歌之介、一兵衛(ドロ〳〵)、文我、一円遊
明治4155 姫路鷺城新聞
楽天席の落語好評 竪町楽天席において去る一日より大阪三友派落語大一座にて各自得意の技芸を演じ頗る喝采を博しをれるがその顔ぶれは左の如し
御祝儀(小)昔ばなし(団寿)東京落語(小字)大阪はなし(三呑回)はなし顔芸(花遊)浮世節新内端唄(十松)大阪はなし舞(三郎)三味線曲引(柳寿斎)山村派舞(花扇)大阪はなし箱まくら曲(寿)音曲手踊音楽(墺国人チアレアイブ、印度人サエモン)東京音曲はなしステテコ(子)清元流行歌浮世節(かほる)

  姫路楽天席で興行している時に、師匠の文団治からの手紙が円子宛に来ました。
 内容は、団寿を大阪へ返せという内容で、もし従わねば今後円子とは付き合わぬとの事でした。たかが一人の前座の為に、浪花三友派の統領文団治と不仲になってはと、団寿を一座から脱退させます。
 団寿は大阪に帰る事はせず、生まれ故郷の神戸に帰ります。この時、兄弟子の神戸の団輔が何度も団寿の家に来たらしいのですが、団輔に文団治から貰った証書を返し、正式に文団治一門から離脱しました。
 その後、しばらくして(明治41年)、兄弟子団三郎から手紙が来ます。
 団三郎は、円子の一座に加わり、中国地方から九州博多まで巡業しますが、博多で病となり、その後しばらく博多で「三笑」と名乗り、川丈座の座付芸人となっていましたが、再び一座を組織して巡業するので、団寿に十人ばかりを集めて福岡の門司にきてほしいとの事でした。
 さっそく、昔の天狗連の連中等を集めて一座をつくり、門司へやってきました。
 門司から若松、戸畑、又は下関と廻り、11月には小倉の育成座。その後長崎に行き、正月は長崎で過ごしました。

●明治411021日 馬関毎日新聞
◇旭座(下関) 大阪三友派桂円三郎一座
明治411031 大阪毎日新聞
◇東京奇術師松旭斎天一の一行は本日より豊前小倉市常盤座にて開演。同地打揚げ後は若松、馬関等を巡業し、十二月一日より京都新京極歌舞伎座に出勤する由。
●明治411122日 馬関毎日新聞
◇弁天座(下関) 松旭斎天一一座の奇術
わが心の自叙伝(五)」(のじぎく文庫 昭和488月発行)
小倉でのことです。三十円の前金を旅費にして到着してみると、座主が「興行やめや」といいます。理由は、有名な奇術師天一天勝が来ているからだというのです。なるほど、天勝とぶつかっては歌舞伎でもくわれます。談判の末「勝手にせい」といわせたものの、困ったことです。そこでみなが東西屋になって町をめぐりました。三筋というのが三味線、遊枝が太鼓、私が打てもしないツヅミを鳴らしました。
 夕方になって一番太鼓を入れてびっくり。どんどんどんどんと客足が絶えません。一週間も大入りを続けたのです。途中、天勝も寄席に来たほどでした。
明治411118 福岡日日新聞
◇九州三遊派の初日 博多東中洲川丈座の九州三遊派残月、団三郎等若手一座の落語音曲は一昨夜より開演、初日にも係らず八分通りの入を占めたるは幸先きよし。一座の面々何れも大勉強にて惜気もなく花々しく演じ居れるが、団三郎の落語「小僧の浮れ」は軽き大阪弁にて巧に述べて手踊りを演じ、残月は卓子(テーブル)無しに「義士本伝」を一席読みをなし、次に団三郎初め五人出場して来客よりの借り物を題として即席話をなし、夫より喜劇「秘密箱」に移り、滑稽の中に仁和加と異つた一種の可笑し味を見せて喝采を受け、引抜き七人踊は例の松旭斎天一式の七変化にて所作滑稽、大切の「曾我」は一座総出にて演じ、これまた頗る好評を博したり。
●明治411215 長崎新聞
◇栄之喜座の残月は木戸無料 昨日乗込みなる栄之喜座の講談師残月一座は、愈々今晩六時より開演するが、初日なれば特に木戸無料にて今晩だけ講演すると。
●明治411218 長崎新聞
◇栄之喜座の残月一座 再昨夜より開演したる講談、落語、喜劇一座は節季とは云へ、頗る人気ある模様にて、桂団三郎の落語は勿論、七変りは善く、残月の道具掛けにて机も置かず素手にて立った儘の講談振りは却々面白しと云ふ。
●明治411219 長崎新聞
◇栄之喜座の本日 落語講談残月一座今晩の重なる語り物は、本能寺(団三郎)南京松義士伝(残月)等にして此の外円三郎の七変り及び総出の喜劇もありて殊に団三郎の本能寺は聞き物なりと云ふ。
●明治411220 長崎新聞
◇栄之喜座の残月一座 好人気なる桂家残月、団三郎の一座、今晩の芸題は
宝の入船(団笑)棒茶屋(小円枝)おこしへり(団三)ねぶか売り(左団次)山猫(遊枝)夏の遊び(団三郎)義士伝(残月)七変化(団三郎)忠臣蔵六段目(総出の喜劇)
●明治411222 長崎新聞
◇演芸便り▲千鳥座 にては栄之喜座にて開演したる桂団三郎の落語一座、今晩より座替りして開演する由。相変らずの人気ならんが、今回は十銭均一にて早いが勝ちの大勉強なり。
御祝儀宝の入船(団笑)人喰(鯉昇)御立身(小団子)買堀(小団枝)五鳳廻し(喜劇)音曲はなし(左団治)ゆめのあわ(遊枝)辻占茶屋(団三郎)桜の宮仇討(喜劇) 

落語家銘々伝 橘ノ円都②

 しかし、この一座、団三郎以外にこれっといった噺家はおらず、結局は春頃に解散。団三郎は再び博多に戻りますが、団寿はしばらく別府大分で幇間をしながら交通費を稼ぎ、やっとの思いで、神戸に帰ります。

全盛期の神戸時代
 その後、神戸では落語席ではなく、浄瑠璃定席の和田席に出ていましたが、今度は兄弟子の団三郎が、橘ノ円の弟子となり、三代目橘家円三郎と名乗って神戸に来ていました。その円三郎の誘いもあり、この円の弟子となり、橘家円歌と名乗ります。
 「わが心の自叙伝」では、28歳の明治44と書かれていますが、明治44年はまだ団三郎が円の弟子になっていないので、明治4529の間違いと思われます。
 師匠の橘ノ円は、東京の噺家で、明治23年頃に、実兄の三遊亭円馬と上方に来た人で、落語よりも舞踊が天下一品で、後兄円馬と地方巡業をする時に、円頂派と名乗り、本人も橘ノ円と改名しました。
 師匠といっても、東京落語であるので、ネタの方は当時大阪や京都から来ている先輩諸氏から習ったのでしょう。
 新聞での円歌の名前の初出は、下記の通りです。 

大正元年126 神戸又新日報
敷島館改め千代廼座と生田前戎座は左の顔触れの掛持にて開演
車、弥、橘三郎、都、三之助、丸、武生、、正楽、武夫、正義、柳水、福我、武左衛門
大正2111 大阪朝日神戸付録
新開地千代之座 東京落語(武左衛門)音曲噺(丸)落語()落語音曲(小都)手踊(三之助、都)
大正2126 神戸又新日報
千代の座の本日 景清(扇三郎)五人廻し(有楽)音曲(丸)口入屋()記憶術(柳丈)新派落語(武左衛門)
大正2215 神戸又新日報
戎座 十五日より出番代 、歌扇、正楽、蔵之助、丸、萬光、
千代之座 十五日より出番代り、正輔、小延、、扇笑、萬光、若、正楽、蔵之助

 五代目笑福亭松鶴が「噺家五十年」に記述していますが、当時の神戸の寄席客は湾岸労働者が多く、大阪や京都のようにじっくりと噺を聞く客はほとんどおらず、それを知ってか在住の芸人は、噺の一番面白い所だけを端折って、後は踊りや音曲、曲芸等の余芸でお客様を歓ばせていました。
 当時、神戸で人気のあったのは、橘家円三郎と桂春輔ですが、彼等は共に、互楽派出身で、円三郎は舞踊、春輔は滑稽講釈(現代の漫談)で人気がありました。
 逆に円歌や米昇(後の二代目梅団治)のように落語しかしない噺家は珍しく、重宝がられたようです。

吉原派と反対派

 当時の神戸は、神戸演芸会社という組織があり、新開地の都座、栄館に芸人を送り込んでいましたが、会社の専務をしていた吉原政太郎が、急に会社を抜けて、北新開地にあった二代目吉田奈良丸経営する大和座を借受け、落語定席としてスタートしたのです。
 当時の会社社長というのは、荒田角造という米屋の旦那で、もちろん寄席経営は素人なので、芸人の斡旋等は全て吉原がしていたので、さあ大変です。社長荒田は、円歌に助けを求めましたが、神戸の芸人の人気者ほとんどは吉原派に入っており、又京都や大阪の芸人にもすでに吉原の方からコンタクトをとっていたので、後は素人芸人やどこの組織にも属さない芸人を集めるしかありませんでした。
 神戸新聞での、21日からの演芸会社と吉原派の芸人を比較すると

▲都座(会社派) 南喬、弥、円歌、小左、芝鶴、小四郎、久鶴、子、扇雀、さん喬、福、枝三郎、福林、小南光、都、水、扇蔵
▲大和座、戎座(吉原派) 年之助、正輔、春二、都枝、春堂、小二、三升、車、鶴吉、三蔵、一、花之助、太郎、米紫、正楽、春輔、朝枝、三郎、ジョンペール、小文枝

 この座員をみる限り、吉原派の方が分がいいようで、結局、会社派はあっさり敗北。これ以降、吉原が神戸の落語界を牛耳るようになります。
 この騒動の後、円歌はしばらく落語界から手を引きます。今回の騒動で少し嫌気がさしたのでしょう。しかし、落語の方は、素人連の座長として時々出演していたようで、夏の各地の催し等には、新聞に登場します。

   ●大正4813日神戸新聞
今夜の遊園地 須磨寺遊園地月宮殿において今十三日午後六時より当地素人落語一派、橘派落語を開催すべく番組は左の如くなるが、は永く大和座に出勤せしものにていかなる芸風が見物の意に投ずるやの経験あり。その方針にて門下を養育せしものとし、他とは大いに垢抜けし滑稽充分なる処を演ずと意気込みなれば、顎の要心肝要なるべし。
落語(吉、歌三郎、歌三)手踊(喜代丸)落語(歌童、歌之助)落語手踊(歌助)奇術(川村)落語手踊(小二、作、扇雀、歌昇)音曲手踊(歌好)落語(歌雀、我楽、文之助、)軽口(我、雀)

 しかし、翌年月には、再び吉原派の神戸の各席に復帰します。

  大正513 大阪朝日神戸付録
新開地日出座、栄館の出番は
仙人、次、梅枝、三、、小美栄、楽之助、太郎、枝女太、おもちゃ、かつ枝、雀、南喬、春二、
大正5110 神戸又新日報
栄館 春二、南喬、鶴光、勝子、太郎、三、楽之助、梅枝、次、仙人、切所作事男女合併喜劇
日の出座 市、雀、楽之助、鶴光、仙人、小美栄、次、三、太郎、梅枝、切所作事男女合併喜劇

  神戸落語界は、その後、新開地に千代之座、三宮に御代之座が誕生し全盛期を迎えます。
 それと共に円歌も円三郎、春輔等と共に神戸吉原派の幹部格として活躍します。
 ところでこの当時の円歌の仇名は、向こう意気の強い一本気な性格と顔が四角い事から「下駄」、或いは当時新開地の大劇場で外見が四角い「聚楽館」と言われていました。

橘ノ円都誕生の誕生

 大正8年には、吉原興行は東京に進出。
 東京の誠睦会と神戸の吉原が提携して、「東西落語演芸会」が誕生します。この時、8月下席より円、馬生、一円等14が上京します。
 9月の上席からは、円歌も上京。この時事件が起こります。

わが心の自叙伝(五)」(のじぎく文庫 昭和488月発行)
 米騒動のあった翌年の大正八年、吉原氏が東京で興行しました。大看板の談洲楼燕枝に金原亭馬生、三遊亭円子に円歌、師匠の橘ノ円といった顔ぶれに加えられたのです。上京しますと、燕枝が私を呼んで、改まって「お願いがあります。」という。燕枝は「私の隣にいる人が三遊亭円歌です。あなたは橘家円歌。亭号はちごうても名は同じ。ややこしいので、ひとつ名前を改めてくれませんか。」といいます。この時、同席した師匠の円が新しく名付けてくれた名が、今の橘ノ円都という名前でした。私は、たしか三十五歳になっておりました。神戸に帰って、千代之座で改名披露をしましたが、当時すでに引退していた六代目円都が、「お前なら円都を継いでくれていい」と喜んでくれたものです。

  東京ではこの時、円歌でなく円都の名前で出演しました。
 正式襲名は神戸の千代之座で行います。

   大81118 神戸新聞
◇エンゲイ△円歌改名披露 当地お馴染の落語家橘家円歌は、今回円都と改名したるより、十八、十九、二十の三日間、新開地千代之座に改名披露会を開き、当日は円都連の切落しありと。

  大正810月から桂三木助が、吉原興行に加入します。
  円都はこの時期、三木助や三代目円馬から多くのネタを伝授されたそうです。

わが心の自叙伝
大正中期、神戸の落語界は最盛期を迎え、千代之座は先代三木助や三遊亭円馬などを加えて、大きな座になっておりました。私にとっては、一番鍛えられた時代です。……三木助さんは、一回の稽古が、噺の半分ほど。次の稽古で、それをさらい直して先へ。一つの噺に十五日位かけます。「宿屋仇」をやった時です。大いに客に受けました。けれども三木助さんは難しい顔で「聞いちゃおれん。なっちゃいない」と、毎晩受けているのに、そう繰り返したものです。

 吉本、三友派、吉原の合併

 大正11年落語界に一大事が起こります。吉本が浪花三友派を吸収合併したのです。
 やがてそれは、神戸の吉原にも影響を与え、結局、吉原の落語家のほとんどが吉本に加入する事になり、吉原は大阪での営業はやめて神戸中心となります

大正1191 神戸新聞
握手した落語家連、睨み合いが解けた 従来関西の落語界は反対派所謂花月派の吉原興行部、三友派及び神戸の吉原系の三系統によって分割され鎬を削って競争し互いに芸人の争奪や席亭の奪い合いに血眼となった結果、従らに芸人の給料が鰻上りとなり嘗て前例のなかった芸人の前貸て金などが出来て不況のこの頃況して夏枯の時節には痛く打撃を受けることになり算盤の桁まで外して無意味な競争を続けつつあったが最近各派でもその愚に気がつき愈々合同の気運が促進され花月派と吉原派が握手した。三友派は是れ迄吉原系によって営業上多大の救助を受けていたので吉本系と吉原系が合体すれば所謂三派の合同は出来る訳である。其処で大阪全部は吉本系が営業権を握り、東京神戸は吉原系が営業権を握る事となり九月からは神戸の千代廼座、御代廼座などへも反対派の連中が出演することとなり今後は高座を賑わす事となったと

 「落語系図」の「大正十一年九月一日花月連三友派連合同連名」には、吉原の落語家の三木助、円馬、春輔、梅団治、円都等が連名に記載されています。
 その後の円都は、大阪を中心に神戸や京都の寄席に出演しますが、漫才の台頭で出番がどんどん減って来る。春輔等は吉本を脱退して、再び吉原へ。しかし吉原では落語はできないので、漫才をしたり、幕間で漫談をやったりしていました。

楠公西門の寄席興行
 当時円都のパトロンが金を出してくれて、楠公西門前の浄瑠璃の定席松本座を借受け、「楠公西門演芸場」として落語定席として興行する事になりました。座主は円都本人です。
 昭和31月演芸場は開場します。

昭和4453 神戸新聞
平和賞に輝く人たち 橘ノ円都…」…円都師あっての上方落語が今日あるとすれば、この時代に、都師は上方落語をカケる勝負をした。
「楠公さんの東門の所に、義太夫館の松本座というのがあったが、それを寄席にしたら、大いにはやった。そしたら大阪花月の社長が引き抜きに来たんですよ。応じなければ真向かいに寄席を作って、一流の噺家を集めるというのです。よろしま。都が花月に負けても世間は笑いまへん。花月が都に負けたらどうなります。」神戸の寄席を心意気で守り通したこの事は忘れないという。
上方芸能 198611月 93 戦後の上方落語史の人々橘ノ都 荒尾親成
……映画の市川右太衛門丈も力を入れて座の天井に大きな絵凧を贈って飾りつけてあったことが、今も筆者の目にある。……
わが心の自叙伝 橘ノ
名付けて楠公西門演芸場。さすが、旗上げ前夜の三十一日は眠れたものではありません。さて元日、客足やいかにと案じておりますと、これが大入り。押すな押すなの満席で「はいれん小屋なんぞ、どないするんや」と客が騒いだほどでした。正月の興行経費三千円に対して、実に八千円も売り上げました。給料は百九十円でしたが、この時は千円もらいました。

 

昭和21229 神戸新聞
<広告>楠公西門落語常設館 當る元日初日 元日午後四時二日午後五時開演
御祝儀落語(圓吉)落語物まね(都二)落語珍芸(鯛治郎)噺手踊(枝女蔵)百面相(米太郎)落語音曲(歌太楼)曲芸(曹漢傑)落語手踊(枝三郎)落語長唄(美喜)二調(圓子)落語(圓都)人情美談(小伯山)東西名優声色(三福)現代笑話(福圓)歌舞道楽(小和歌、友奴)東京落語(遊三)大切勢獅子(社中)
   入場料一等九十銭 二等六十銭 三等三十五銭 下足共

西門の席

落語家の廃業
 順調と思われた演芸場も、内輪のゴタゴタや松鶴、南陵、米団治といった大物の出演で経費が膨れあがり大赤字となり、翌年10月に吉原に身売りする事になります。
 円都も家庭の事情で、落語家をやめる事にしました。
 当時の円都には、5人の子供がおり、妻から「噺家の子は、ええ学校に行けんそうや」と言われたのも原因やそうです。親子7人を養う為、箸の製造業を営みながら、女郎屋の調理場でも働いたそうです。
 生活の為、漫才師と播州辺りを巡業、ある病院で入院中の桂米朝(この時はまだ学生)に初めて会ったそうです。それ以降、米朝とは文通するようになり、米朝が落語家になってからは多くの落語を教える事になりました。


落語家復帰

 戦後は市電の修理工場等で大工をしていました。その時、横山エンタツの弟子の小エンタツに出くわし、京極の勢国館へ世話してくれたそうです。
 その後は5代目松鶴の勧めで落語界に復帰。戎橋松竹や文楽座にも出演。島之内寄席にも出演しました。昭和47820日没、享年90歳。

落語家銘々伝 徳永里朝

       
徳永里朝
明治24年「当行徳永里麻請曲」より


徳永里朝。本名中井徳太郎(安政
21月~昭和11715日、享年82)。盲人の音曲師で、若い頃は上方に居たが、後東京の柳派の席で「えんかいな節」「米山甚句」で人気を得ました。晩年は徳寿という名前で琴三味線の師匠をしていたそうです。
 東京の芸人ですが、若い頃は大阪、京都、名古屋にも居て、記録もあるので、今回取り上げました。
 都新聞の「寄席の楽屋」(明治341117日)に、彼の素性が掲載されましたが、その二年後に発売された「演芸世界」の「盲滅法」という記事の方が更に詳しく彼の若い頃の事が記載されていたので照会します。但し都新聞では京都生れとなっておりますが、演芸世界は本人が書いているので、大阪説をとりました。

                     演芸世界23号 

23号  明治36115
◇盲滅法(めくらめっぽう) 上
 △世の中の事は一切知らん私にも四十八歳の今年までには色々可笑い事が御座ります。生れは大阪安堂寺町左納屋橋東入る刷毛屋の倅で、此目は生れ落からで、誠にわれながら不便な訳で御座りますが、怖い物知らずが切(せめ)ての一徳と申すのも為(せ)う事なしの負け惜みでがな、先メ盲(まめくら)相応盲滅法なお話しでも致して見ませう。東京と違って、
 △阪地では、如何な身分の家に盲人が出来ましても夫れと世間へ知れるが早いか直ぐに稽古屋から手を廻して弟子にする習慣(ならはし)が御座ります。私も岩島常弥と申す勾当(こうとう)へ弟子に取られましたが、これは十歳の二月二日の事で、岩島勾当は申すまでもなく琴三味線の師匠。私は翌年の三月十一日から琴の稽古を始めまして段々と修行致し、十三の歳からは幸せな事に師匠の代理をしたり自分にも弟子を取る様になりました。因て市といふ官名を京都の総元より貰ふて、
 △「徳寿市」と名乗りまして御座ります。序ゆゑに一寸盲人の官名をお話し致しませうならば、検校(けんぎょう)、勾当、名字、市といふ順で、総元は京都に在りまして、当時永野検校と申す人が取締を致して居りました。而(そ)して爰には学問所が出来て居って琴三味線の秘曲を伝授致した。私は十六歳の時に検校になりましたが、師匠はまだ勾当のままで居りますに因て表面(むき)には名乗らないで遠慮して居ったので御座ります。
 △検校になるには大層な金が掛る事で私は稽古先の鹿島屋さんといふ富豪のお家からして大枚五百両拝借して、そして検校の官を買ひましたが、僅々(やうやう)一年半ばかりの後に明治になって官名も間もなくお廃し、表向には名乗らず了(しま)ひで斯(こ)の様な詰らん事は御座りませんが、私よりも一倍詰らんは仲間の津崎と申す盲人、千両出して名字から一足飛に検校に出世したお次の月に官名はお止め、もう何(ど)うも津崎の驚きは眼も明くかと思ふばかり。真っ青になって、先ァ然(さ)うであったらうと思はれり調子で私の処へ参り、徳永何うせうとの相談、浄瑠璃ならば、
 △「尤もぢゃ、何う為(せ)うぞいの、道理ぢゃ」と掛合になる処、併し時代時節で仕方ないわれわれの運の無いのぢゃ、何も彼もお上の御布令(おふれ)であって見れば恨むに効(かひ)ない家来のわれわれで、我慢するより外はない、今に何とかよい工夫をすると云ふて津崎を宥めて帰した跡で考へるに、官名がお廃止になった上からは法師の掟も自然消える道理コリャ寧(いっ)その事唯(ただ)の芸人になって了(しま)はうとこう決心致しました。従前(これまで)は、法師の掟として本業の正しい曲物の外一切細駒(ほそこま)を掛ける事は出来んので、端を唄、都々一の様な者を演れば直に撥止の上に三部の科料を取って此旨(このむね)に係(かかり)から稽古屋仲間へ触れたもので御座ります。併し今となってはもう平気、予(かね)がね新町に居って花街の粋な音〆(ねじめ)を聞き馴れてどうぞして演って見やうなどと思った事もあった程ゆゑに、こうこう為(せ)うではあるまいかと津崎に思惑を話しますると大喜び大賛成、さらばと云うて外にも二三人の仲間を集め、
 △愈々寄席へ顕はれる事になり、先づ越後町の席亭へ掛合ひ一同此席へ出勤、これが私の十八の正月、初日は十一日からで御座りました。これから段々滅法話の滑稽が続きます。

24号 明治36215
◇盲滅法(めくらめっぽう) 中
 △従前の本業と違ふて細駒を掛け誰に遠慮もなう弾立てましたに因って、越後町の寄席は大入で十五六日打通しました処へ仲間の者二人、これは細駒を掛けて大坂を追払はれた程の盲人、それが此方(こっち)の景気を聞付けて田舎から舞戻るなり私達の連中に入り、当時の人気役者の声色を唄の中に入れて演るといふ様な訳で御座りました故、サアこれがまた評判になって到る処大繁盛、右の二人は後に立派な真打になりました。そのうち
 △他の盲人達も官名は確かにお廃し、迚(とて)も改正で元に復(かへ)るやうな事はないと聞いて、夫れから一時に寄席へ顕はれる様になりまして御座ります。さて翌年、私が十九歳のその二月(<編者註>明治6)に、中宮中沢桃原などといふ盲人仲間と一座を組んで、西京から伏見、段々廻って江州の彦根まで行き、次に美濃の大垣にて興行する事になりましたる処が、生憎と城下の寄席は皆塞がって居って一寸は出られんといふ訳。さればと云ふて何時まで待っても居られん因って久世川と申し在所で興行致しましたが、此時私の考へまするには、田舎の事なりや余り真面目なものはと、容子を見ると、いや見えは致さぬけれど察する処、果たして些(ちつ)とも解らぬ容子、その儀ならば斯の様なものこそと、
 △聞噛(かじ)りの義太夫を五もく浄瑠璃にして語った処が大外れ。可笑がるは偖(さて)置き、何んぢゃ其の浄瑠璃は、何程(なんぼ)田舎ぢゃからといふてサッパリ辻褄の合はん其の様なものがあるか、好(え)え加減にせえと客は怒って散々の不首尾。これでは成らんと胆を冷やして二夜さ限りで爰(ここ)は千秋楽。そこで大垣へ立戻り、よい席が明くを宿取って待って居りましたが、此の前々よりして不入続き、懐中(ふところ)は太(いか)う淋しうなって居りますゆゑに、間もなう宿料にも差支える哀れな始末。サアこりや何んとして凌いだものか知らんと心配中、
 △御在国であった大垣侯から御召が御座りまして、一座の者は法師本業の出口柳、根引松、八重衣、鶴の巣籠などを御聴に入れました処、幸ひに御気に召したといふ事で金子十両を下されましたゆゑ、これこそ天の与ふる金と、急ぎ宿賃を済ませて名古屋に参りました。而して今では金波楼と云ふ名高い料理屋になって御座りますが、当時は金鮨と申す鮨屋、此処で芸人の周旋を致して居りますゆゑ、席亭に明きの出来ます迄と、一座が此家に逗留中、漸く三十円の約束で桜町の法[方]等院と申すお寺さんで興行しました処が、初晩は百二三十人、
 △翌晩は忽ち唯(ただ)の二十人となりましたには、一同落胆(がっかり)の中にも私の心配。其処(そこ)で苦しい時の神頼みとやらで俄の信心、蒲焼町の聖天様へ果てから跣足(はだし)のお百度。その御利益か、私共が斯(か)ほど一心になって芸を致した故か、一晩毎にお客様は殖(ふゑ)て到頭客留をする景気になりましたに因って、三十円が百五十円で売れる事となって、大須の境内の芝居で昼夜二度づつの興行。イヤ一同大得意(おおいばり)、併し何時まで打っても居られめせぬから、

明治6年 勾欄類雑集録
◇四月九日より桜町方等院にて盲人四人大々評判宜。
はうた、上るり、女夫引、カマヤ引、手事曲引、一筋引、つるの巣ごもり。
 中澤芦雪・桃原南枝・徳永里鳥・中呂十枝
 右同月二十七日より清寿院へ引越興行。
◇五月(編者註:堀川金橋座にて)盲人の曲引の者、浄るり語りを入、色々這入て興行。
◇六月二十二日より赤塚町山熊裏にて盲人曲引。
  中沢芦雪・桃原南枝・徳永里鳥[朝]・中呂十枝
 又七月一日より桜町方等院にて御いとま乞として三八入興行。

△次には岐阜へ参りました時に、東京からして、綾瀬川朝日嶽などのお関取が興行に来て居られて、私は其の座敷へ招かれまして御座ります。相手が関取衆ゆゑ櫓太鼓を弾きましたが、綾瀬川関の気に適ふて、東京へ行って見たら好からう、及ばずながら世話せうとの事、関取も大阪の人で御座りまするに此の詞(ことば)。それは願ふてもない幸ひ、さらば京大阪を打って戻れるまで私は名古屋に居ってお待ち申しませう、倶共(ともども)東京へ連れて往て下されと、爰で約束して、其年の十一月の二十一日、大阪から戻って来られて関取に連れられて、私は名古屋から此御地へ上りました。一座の者とは最初に岐阜で別れたので御座ります。

明治7年 勾欄類雑集録
◇十月
 日より本重町常瑞寺にて上うた盲人三曲
  小松景和・徳永里長[朝]
◇十月廿六日より大須山門外咄跡にて又咄。
曲引 徳永里長[朝]、立川登舛・林家延楽・立川三木寅・林家正楽・立川三木造、はやし 朝風春平。月末迄。
◇明冶851 志水八王子
徳永里鳥 桂文馬 立川三木 立川三木造 林家□□

25号 明治36315
◇盲滅法(めくらめっぽう) 下
 △私は義太夫の三味線弾になる考へで居りましたゆゑ、東京に参りまして間もなく、綾瀬川関の世話で、箱崎の花沢伊左衛門さんの処へ内弟子に住みこみました。此時は相生太夫さんも恰(ちょう)ど厄介になって居られました。私はその後綾瀬さんの一座に入る様になったものの、稽古の日が浅う御座ります故、辛(やっ)と簾内(みすうち)を弾くだけの事で、これを一年半も辛抱致したが、考へて見ると馬鹿らしうて堪らん。それで二十二の時、飛出して大阪に戻りました。何時ぞや本郷の若竹の演芸会に、綾瀬さんに会ふた時、此事を云はれて大笑ひを致しましたが、その綾瀬さんも到頭没しられました。惜しい事で。
 △大阪に戻った私は暫らく遊んで居りましたる処、京都の笑福といふ席から迎ひで、出勤した時には、東京で聞噛りの端唄などを演ると、それが大受、紀伊の国は音無川などと云ひ出すと、実にお客さんは大喜びで御座りました。すると笑福の向ひの寄席で手品を興行して居った養老瀧三郎と云ふが、何と思ふてか、其年の十一月から翌年の五月まで、私を三百円で買ふ事となる。話が纏まって一座すると間もなく、瀧三郎がお客と喧嘩したが基となって一座大不人気。これではやり切れぬと云ふて、三百円は取戻されてお給金は日割で破談。
 △斯様な阿保らしい話は御座りませぬ。此後は以前のさん馬円玉などと、暫く西京に一座して稼いで居り、それから三人別々に神戸に参りましたが、これでは淋いといふて、間もなく復(また)一所の時で御座ります。此間に私は大胆千万にも、江戸唄の師匠を致して、端唄の稽古屋を始めると、これは珍しいといふて、福原の花街あたりに仰山弟子が出来、其年の十一月、大浚(ざらひ)を二日催し、而して大阪に戻りました
 <編者註>翁家さん馬が、名古屋、京都、大阪から神戸に来た記録は、大阪朝日新聞に掲載されている。円玉については、名古屋の延玉か上方の三代目文吾か不明

明治13年4月6日 大坂朝日
◇此頃東京より来たりし落語家
翁家三馬は、順慶町井戸辻の寄席へ出勤して居ますが、坂地(このち)の落語と違い、専(もっぱら)人情のみを模(うつ)せし物にて、殊更弁舌の爽なる、文之助、文団次等と同日の論に有らずと云ふ評判。
明治13716 大阪朝日
○堀江明楽座に興行している落語家翁屋さん馬の一座は、本日より神戸楠公社境内の寄席へ出勤する由。

 二度目に上京致したは、三十五の春で御座りましたが、東京は上品にせねばならんと豫々(かねがね)聞いて居ったので、柳派に入る筈で若竹で試演を致した時には、私は墨染の衣に白の袴、すっかり勾当の扮装を致し、法師本業中でも極洒落た「荒れ鼠」といふのを演りました。処が席亭さんや芸人衆の中には、睡気がさすといふて欠伸する人が沢山あります。これではならんと次に五もくの義太夫を演った処が、上方者は気が長いと又悪評。其処で今度は琴で色々の曲弾をしたのが、少しお気に入ったらしく、一寸面白いといふ様な事で、これで終(しま)ひましたが、私の後では、竹本素行の試演が御座りました。さて私の方は右の様な評判ゆゑ、出勤を御免蒙(こうむ)られた席もあり、散々な始末。それを世話人が心配いたし、上品なものばかりでなく、俗なものも演れるからと云うので、彼方(あっち)此方(こっち)を説付け、五厘の大与の処で演直しを致し、今度は都々一、トッチリトン、端唄又は五もくへ櫓太鼓の曲弾を入れたのやを勤めると、これが気に入ったらしく、どうやら柳派へ加はる事になりましたが、御承知の通り、私の売出しましたのは、米山甚句と、
 △縁かいな節とで御座ります。此頃では席を退いて、琴のお弟子を取って伸気(のんき)に暮らして居りますが、一体琴の流儀には、八橋、継山、生田の三流とありまする。東京には別に山田流といふが御座りますが、これは別に流名を名乗る程のものではないと思ひます。組も手も残らず生田流を用ひて居るので、併しそれはそれとして、西京には、三絃に八重崎流、大阪には野川流と分かれ居りますので、マアお話は此位に致して置きませう(完)

都新聞 明治34年11月17日
◇寄席の楽屋 七 徳永里朝
 是はエンカイナでお馴染の盲人です。生れは京都で、幼少の時より盲人になったさうですが、盲人は誰でも勘の好い者です。此の盲人も中々記憶力の好いので、同人の親父も諸芸を仕込んだが、就中琴と三味線は其の薀奥(うんおう)を極めて立派に許しを受けたものださうだ。夫れから音曲の師匠となって多くの弟子などもあったが、この坊さん非常の女好きで、身が持たない。終(しまい)には零落(れいらく)して大坂へ赴き、或る師匠に頼んで寄席に出る様な事になりました。当時京阪にも桂派と三友派の二派に別れて居りましたが、里朝は桂派に属して相当の人気を得たと云ふ事です。其の頃京都の芸妓をして居た女で、余り美人でない処から売れも好くないのが、此の盲人に入り掲げたのは随分異(かわ)りものだとて、仲間の評判を為れたさうだが、終に乗込んだのは、今の女房だと云ふ事です。処で夫婦相談の上、花の東京へ出て、一旗揚げんと手に手を執って上京し、柳枝に頼み込んだ処が、柳枝は又新石町の立花亭に相談し手見せをもした上で高座に昇る事になったが、何はさて音曲に熟練して居るので柳枝も大いに望を属し、何か一つ異(かわ)った俗謡(うた)でも新作(こしらえ)て一番喝采(ヤンヤ)と云はせて呉れと云はれて、同人も躍起となりて考へたのが、大昔流行(はや)ったといふ例のエンカイナ節に四季の唄を作って演り出した処が何処へ出席も喝采と云はれ、終にエンカイナの元祖として里朝の名は東京中に評判されました。やがては大真打となって大分懐都合も好くしたと云ふ事であるが、もう近来は是も衰微(すた)った。其の故でもあるまいが、昨今は休席して居るが、是れには何か込み入った事があって若手の真打連と五厘の大与枝とが秘密の相談で、里朝の看板を寄席へ廻はさないとの云ふ噂あるが、事実ならば同人の為めに気の毒ぢゃないかね。其んな事のために八官町の自宅で子弟を集めて稽古をして居ると云ふ事です。

落語家銘々伝 雀家翫之助①

雀家翫之助という珍しい名前の落語家がいました。
 東京の落語家ですが、上方にも長くいたので、東京では不明な点がいくつかあるので、今回はその部分を調査しました。
 まず、この人については、次の資料があります。

●落語家の特長調べ 林家正蔵等  大正末期作成
雀家翫之助 <本名>阿部常吉<得意の落語題名>紙屑屋<師匠名>春風亭華柳(4代目柳枝)<始演寄席名と年月>明治253月 芝恵智十<好食物>天ぷら<趣味>三味線<娯楽>芝居
●古今落語系図一覧表(文之助系図) 山本進校注
四代目翫之助 明治30年代の顔付に「春風亭小柳三」、同四十年代初めの「春風亭枝雀」、同四十一年半端頃改名して「雀家翫之助」。昭和10年頃までで以後の消息不明。

 明治41514日の都新聞によると、三代目という事になっていますが、「古今落語系図一覧表」では四代目となっているので、今回は後者の四代目という事にします。
 一覧表では、初代は弘化から安政年間に活躍、二代目は初代三遊亭遊三、三代目は晩年仙台で幇間になった三遊亭花円遊です。
 東京の事はほとんど詳しくないので、この人の上方での初出は、

●明治33830日 大阪朝日新聞京都付録
◇……同(新京極)幾代亭も来る一日より宝集家金の助、ジョンベール、春風亭小柳(<編者註>小柳三の誤り)等出勤する筈
●明治33119日 京都日出新聞
◇本日より十五日まで同亭落語家が高座へ出る時間を挙げてみると
午後六時三十分(小文吾)同五十分(文雀)七時十五分(柳枝)同四十五分(枝鶴)八時五分(小円竜)同三十五分(円光)九時五分(枝太郎)同三十分(文歌)同五十分(円三郎)十時二十分(文吾)同四十分(小柳三)切(南光)

 更に同年12月には、春風亭小柳三から春風亭芝雀と改名します。

●明治33121日 日出新聞
◇幾代亭 枝太郎、文弥、芝六、芝雀一座の落語
●明治33122日 日出新聞
◇幾代亭の南光、円三郎、文歌が岡山に出発して、其代に文弥、芝六、芝雀が昨夜より出勤致候

 芝楽という名前なので、てっきり上方の三笑亭芝楽(辻村藤三郎)の弟子と思いましたが、この頃芝楽は桂文光という芸名であり、本人談によると、芝居好きで、京屋といわれた三代目中村芝雀に肖って付けたとの事でした。
 但し、新聞では、小柳三と書かれた記事もあり、きっちりと改名したようではないようです。
 その後の芝雀は、12月まで京都の幾代亭に出勤した後、大阪の桂派各席に出演します。

明治34126日 大阪毎日新聞
◇臨時友楽会 今明両日正午十二時より西区新町廓婦徳会場に於て頌徳会寄付の為め臨時友楽会を催すとの事なるが、出演の芸人は左の通りにて、各自は十八番のものを演ずるよし。
桂文三、同小文枝(百年目)、同文太郎、同米喬、同米朝、同梅橋、同我都、三遊亭遊輔(珍文漢聞)、三五郎(徘徊師)同円子、笑福亭福松(春の遊び)、同璃喜松、同光鶴、新古亭真正、三笑亭芝雀(落語と音曲)、福岡正一、春風亭一柳(手品と皿廻し)、桂家がん篤、同花咲(軽口)、西尾魯山(講談)、宝集家金之助(常磐津二十四孝狐火)…川上音二郎(仏蘭西土産)…[其他音曲、舞、俄等多数あり]

35年から再び京都の幾代亭に芝雀で出勤。芝雀の京都での当時の落語家としての番付がわかる資料として義損金の記事があり、金額の大きさより当時のランクがわかりますが、

明治3526 京都日出新聞
○凍死軍人遺族吊慰 義捐金(第五回) 金六十銭枝雀枝太郎十銭文吾文光一柳)金四十五銭(年誌、馬琴、芝雀、円光)金四十銭(柳枝、文雀、小円竜)金三十五銭(小文吾、枝之助)金三十銭(吾若、光助)

これを見ると、東京の落語家という事もあるでしょうが、真打の次にランクする扱いになっているのがわかります。京都幾代亭では、音曲師は珍しいので人気があったのでしょうう。
 上方での芝雀の最後の記事は、

明治35715日 大阪毎日新聞
◇船場の幾代亭は今十五日より例年の通り八月末日迄休席するにつき、明十六日より桂派の連中なる文三、小柳三、枝鶴、小文吾、露紅等は姫路へ、枝太郎、南光、おもちや、千橘、雀三郎等は名古屋へ、さん馬、花丸、文太郎等は岡山へ、円三郎、文吾、馬琴等は広島へ、小文枝、文屋、柳枝等は金沢へ出稼ぎに赴くよし

 小柳三の名前は、明治361月の「落語家見立番付(落語系図)」、同年2月「浪花落語家大見立(上方はなし43週)」の「小柳三」が最後です。恐らく、上方から東京へ帰ったのでしょう。残念ながらこの当時の都新聞の「小柳三」は見つける事ができませんでした。
 東京へ帰った小柳三(芝雀)は、春風亭枝雀と改名、その後明治415月に、「四代目雀家翫之助」を襲名して真打となります。16日に神田の白梅亭にて真打披露があります。
●明治41516日 東京朝日新聞
◇寄席案内
△神田区●表神保町川竹亭 左楽、小さん、助六、杵屋連、紋弥、小勝、扇橋、翫之助、扇歌△芝区●蓮雀町白梅亭 柳枝、左楽、助六、今輔、芝楽、紋弥、柴朝、翫之助△本郷区●根津清水町菊岡 柳枝、金の助、燕路、芝楽、かしく、小柳枝、翫之助、朝枝、左楽
明治41514 都新聞
 春風亭枝雀は今度三代目雀家翫之助を 襲名して真打となり十六日より神田の白梅亭に出勤

雀家翫之助①


 翫之助は、その後5月下席から7月上席まで東京の各席に出勤。柳派主催の「落語洗濯会」にも出演します。

明治4167日 都新聞
落語洗濯会 本日立花亭の番組は
加賀の千代(柳福)五目(扇録)牛ほめ(紋三郎)天災(柳之助)百川(年枝)出来心(栄枝)世辞床(翫之助)瀬川(柳枝)お七(小勝)小ネズミ(扇橋)
明治41611日 都新聞
落語洗濯会 十四日立花亭の番組は
道灌(扇録)たらちね(紋三郎)浮世床(柳之助)芋どろ(年枝)初音の鼓(栄枝)意地くらべ(勝次郎)八笑人(寿楽)弥次郎(小勝)ずっこけ(柳枝)ライオン(紋弥)稽古屋(翫之助)芝居の穴(扇橋)薄雲(扇歌)卒(小柳枝)
明治41626日 都新聞
落語洗濯会 二十八日立花亭の番組は
錦名竹(扇録)小粒(柳福)頓知の医者(柳之助)鼠(年枝)地獄巡り(勝次郎)指切(寿楽)犬の目(小勝)近江八景(柳枝)たぬき(玉輔)染色(翫之助)不動坊(扇橋)明烏上(扇歌)しの字嫌い(小柳枝)
明治4172日 都新聞
落語洗濯会 五日立花亭の番組は
京見物(扇録)道具屋(柳福)磯の鮑(柳之助)小原女(年枝)團扇屋(楽翁)幽霊女郎買い(勝次郎)洒落小町(栄枝)万病圓(小勝)音曲古着(翫之助)呑る(小柳枝)風呂敷(玉輔)釜泥(柳枝)畜生奴(寿楽)

 都新聞の「寄席の案内」を見ると、7月の下席より翫之助の名前はなく、「神戸又新日報」に翫之助の名前が登場します。

●明治41722日 神戸又新日報
柳座 円頂派一座の馬の一座へ音曲家雀家翫之助を加へ昨二十一日より涼しい所をご機嫌に供へ居れり。 

 橘ノ円率いる円頂派に参加したようです。この当時の円頂派は、盆廻しで有名は橘家円坊が脱退して手薄になっていました。翫之助は、桂派時代に円馬や円と面識があり、きっと円の方から頼んだのでしょう。
 その後翫之助は円頂派の一座と中国四国九州と巡業(この辺りはブログ「落語家銘々伝 橘ノ円」を参照)。明治42年には、東京にやってきます。翫之助もこの時、円五郎という名前に改名して参加します。多分、翫之助の名前で東京では出演しにくかったのでしょう。
 円頂派はその後も東京中心に各地を巡業します。
 明治435月には、仙台の「仙台座」という大劇場で興行。26日から31日迄興行した後、円一座は東京へ帰り、翫之助と春風胡蝶は北海道へ、9月には再び仙台に帰ってきます。
明治4392日 河北新報
◇えんげい△開気館 今春仙台座に於て人気を博したる橘の円一行の内円十郎事五代目雀家翫之助、円五郎事春陽亭胡蝶の両名は、若手達者連数名を引連れ、北海道より帰京の途当地に立寄り、今晩より同館にて花々しく開場する
明治4394日 河北新報
◇えんげい△開気館 色物席胡蝶翫之助の音曲噺、今晩の番組は
曲芸(胡蝶)掛合噺(豊治、菊次)清元明烏三府浮世節(若橘)転宅(翫之助)西洋手品(胡蝶)音曲紙屑買(翫之助)獅子の曲(胡蝶)大切掛合噺暮の賑ひ(総出)
●明治4398日 河北新報
◇えんげい△開気館 翫之助、胡蝶の一座は、愈々当地御名残として其御礼として今晩より金八銭に大割引をする由
●明治43910日 河北新報
◇えんげい△開気館 雀家翫之助、春陽亭胡蝶一座の音曲噺も愈々今晩限り打上げとなし、十一月頃更に大一座を為して乗込む由、尚今晩は其御礼として芸題全部を改め一生懸命に御機嫌を伺ふ筈なり

 その後の動向は、明治445月まで不明です。5月には京都に出現します。
明治44430日 京都日出新聞
演芸だより ▲芦辺館五月の新加入は元大阪力士の綾瀬川山左衛門の剱舞と音曲を始め松喬、大和、芝雀、文雀、文都其他舞の山村華扇であるそうなが本日の日曜会は休演

 44年は京都の芦辺館に出勤して、翌年は大阪の浪花三友派の各席に出勤します
明治4511日 「桂文我出席控」第六冊・五十八丁裏~五十九丁表
◇三友派正月看板
文治、文団治/松鶴/小文(休席)/松喬、春団治、花咲、燕太郎、菊団治、文雀、萬歳、紋右衛門、文三郎、米助、当笑、光鶴、鶴瓶、都鶴、鶴松、福太郎、扇笑、鶴治、文楽、米若、玉団治、三代松、小文吾、福我、福円、歌之助、米団治、文都/円太郎、万治、小紋、文吾、円笑、枝太郎、文我、松光、稲子、稲八/円子、芝雀、円坊、喬之助、蔵之助、大和、馬生/円若/団助、南枝、志ん喬、金之助、志ん吾、貞山、杵家福三郎、丸一社中/扇太郎、米之助、千喬、里喬、団昇、円の助、紋弥、今之助
●明治451月上席
【三友派】
第一此花館 里喬、当笑、米若、春d団治、芝雀、米団治、福円、万次、稲八・稲子、円太郎、寿獅々日の出社中、松鶴、扇蝶、花咲、文団治、小文吾、円坊、馬生。
紅梅亭 鶴丸、鶴瓶、玉団治、松喬、文次郎、花咲、文治、寿獅子日の出社々中、円子、扇蝶、馬生、芝雀、喬の助、円坊、松鶴、寿万歳伊呂久会社中、春団次、円太郎
第三此花館 都鶴、文楽、菊団次、軽口、扇蝶、文三郎、馬生、福我、小紋、小文吾、円坊、三代松、万歳、円太郎、芝雀、文若、米団治、寿万歳社中
明治45430日 大阪時事新報
◇六年振りの芝雀 これも三友派に新顔として替り栄もせぬ珍面を晒しているのは、芝雀といふ落語家で、以前は雀家翫之助といって居た品物だが、久しく東京へ修行に上っていて、六年振のお目見得だといふ芝雀と改名したのは、元来が芝居好きで、翫之助よりは芝雀の方が優しく聞へ、且つ好劇家のよく知っている京家の芝雀に通じて役者らしいからだと可愛い事を言っている
<編者註>京屋の芝雀:3代目中村芝雀の事 

 4代目の笑福亭松鶴が、弟子達を連れて中国地方へ巡業の旅に出ます。
 これは、敵対していた兄弟子の笑福亭松喬が2代目林家染丸を継ぐ為の襲名披露に出たくない為と言われています。松鶴は巡業後、浪花三友派を脱退して、旧桂派のメンバーと寿々女会を創立します。

明治45515日 奈良新聞
◇尾花座の落語  記の如く今一日より大阪三友派笑福亭松鶴一行にて花々しく開演する由なれば定めし大人気ならむ扨て高座に現わるる面々は左の如し。 落語手踊(鶴吉、鶴三郎、松太郎、鶴二)同舞(鶴松)同手踊(文璃)同曲こま(左鶴)同舞(福太郎)同曲芸(萬冶、松光)東京音曲ばなし(芝雀、松鶴)大切喜劇総出。
3 二人旅(鶴三郎)兵庫船(松太郎)蛸芝居久八踊(鶴二)野崎参手踊名古屋甚句(鶴松)始末の極意手踊(文璃)舟弁慶曲こま(左鶴)改良せんざい舞金輪(福太郎)曲芸(萬冶)けいこや(松光)東京音曲(芝雀)天王寺名所(松鶴)
4 七福神掛合(鶴三郎)三人旅うかれの悪質(松太郎)棄山船きせるとりやり手踊(鶴二)夢見八兵衛手踊(鶴松)あんま芝居(文璃)家内満(左鶴)噺ためし切舞(福太郎)まり明曲芸(萬冶)三十石(松光)音曲(芝雀)須磨の浦風(松鶴)
5 御祝儀(鶴三郎)小倉舟(松太郎)浮世根問文人踊(鶴二)恋の連々(鶴松)出産のよろこび(文璃)木挽茶屋(左鶴)イラチの愛宕参り舞(福太郎)五□棒(萬冶)貝野村(松光)東京音曲色々(芝雀)シャクリ裁判(松鶴)
因みに同一座は尾花座打揚げ後六月一日丈け郡山町歓楽座にて開演するやも知れずと。
明治4557日 鷺城新聞(姫路)
◇笑福亭松鶴来る 竪町楽天は七日午後六時より大阪三友派落語家元四代目笑福亭松鶴一行を迎へて花々しく開演の筈番組は、落語(鶴三郎)落語(松太郎)落語文人踊(鶴二)落語舞踊(鶴松)落語手踊(文里)落語曲独楽(左鶴)落語舞踊り(福太郎)曲芸(萬冶)落語(松光)東京音曲(芝雀)落語(松鶴)
明治45515日 山陽新報(岡山)
◇九重館 今十五日より大阪三友派落語笑福亭家元四代目松鶴一行にて開演する由なり

 


落語家銘々伝 雀家翫之助②

 芝雀は浪花三友派に再び戻りますが、9月には浪花三友派と分裂した大正派(藤原派)に加入、10月頃まで出演します。
 しかしこの藤原派も傾城が危うくなると、又々離脱して、再び橘ノ円一座に加入します。

 雀家翫之助の名前で、広島呉の演芸館から合流して、翌年は博多の川丈座、門司羽衣町の旭座、長崎の満知多座、再び博多川丈座、広島演芸館、同柳座、岡山九重館、姫路楽天座で興行した後、8月には神戸の落語定席に出演します。
 神戸では、「橘ノかを(ほ)る」と改名します。円の身内になったのでしょう。
大正286 神戸又新日報
戎座は左の顔触れにて落語開演
三郎、都ん輔、天坊、かをる、歌扇、一、春輔、菊

橘ノかほる(雀家翫之助)

大正2824 神戸新聞
生田前戎座は千代廼座連掛持にて今晩の出番左の如し
初天神(歌)おせつ(都ん輔)牛ほめ(春輔)黄金の大黒(天坊)新内三勝縁切(若登司)芝居噺(三郎)音曲噺(かをる)骨つり(文二郎)

 かをるは翌年も神戸に留まります。
 6月には、橘家円三郎等と徳島へ巡業します。
大正365 徳島毎日新聞
緑館 神戸湊川新開地落語演芸定設都座と云えば人の知る所なるが、今回同座引越にて大阪落語橘家三郎、橘のかほる一行若手揃、十一名の大一座にて花々しく町廻りをなし七日より開演に決定。三郎は富街初め當地にては贔屓客多く前景気頗る好ければ今度は成功をなす事なるべし。
大正367 徳島毎日新聞
緑館 既記の如く橘屋三郎一座の落語にて今夜七時より開演。一座の顔触及び演題左の如し
大阪落語(橘家春三郎)大阪落語(林家染二)落語手踊(林家正輔)落語手踊(桂三升)落語舞(桂枝三郎)新内(鶴賀美登司)軽口掛合はなし(橘家一)落語吹よせ講談(橘家春輔)落語音曲(雀家翫之助改め橘のかほる)落語舞手踊(橘家三郎)大切余興として三郎十八番七化ケ所作事(座員総出)

この興行の後、再び神戸に帰りますが、この徳島が気に入ったのか、10月には橘家円丸の一座に加わり徳島で興行します
大正31019 徳島毎日新聞
緑館 神戸栄館に出勤中の円頂派立花家丸一行の落語乗込み明後二十一日午後六時より花々しく開演一座の顔触れは
立花家六、立花家二、立花家之助、立花家玉、立花家盆、立花家三、9歳立花家小丸、橘のかほる、立花家

この興行の後、かをるは円丸一座と別れて神戸に帰りますが、翌年1月には再び徳島へ。今度は「初音家与次郎」という幇間になります。
徳島では、幇間仲間達と落語会も開催
大正413124日  徳島毎日新聞
天正館 来月一日より五日間落語舞手踊音曲喜劇頂派の真打橘のかをる(東家松助出演)徳島落語派大合同木戸無銭にて開演
2 医者舞曲芸(遊助)高砂屋音曲(松助)七福神音曲木曾踊座長(かほる)喜劇(総出)
3 込語小倉船(一笑)語舞(小遊)笑語踊(二)ひちや蔵音曲手踊(梅枝)語扇千舞(之助)歌根問い皿まわし(道楽)舞(小梅)笑語舞布さらし(文蝶)妙見守音曲盆まわし(苦楽)二八浄瑠璃ステテコ踊(山雀)三十石手踊(遊助)三人片輪音曲舞(松助)五月雨茶屋音曲丸橋忠弥木曾節踊(座長橘かほる)はやし織よし師匠切喜劇千石船座員総出
4 東の旅牛かけ(一笑)笑語踊(小遊)浄瑠璃息子舞(二)親子酒音曲踊(梅枝)年ほめ扇子舞(之助)棒屋布さらしの舞(文蝶)大師巡り皿まわし(道楽)ためし斬り盆の曲(苦楽)節右衛門ステテコ踊(山雀)稲荷車手踊曲芸(遊助)猫久音曲手踊(松助)子宝音曲木曾節踊座長(橘かほる)はやし織芳師匠大切曽我の家喜劇やぶれ三味線
●大正4329日 徳島毎日新聞
緑館 久しく休演中なしり同館は来る三十一日よりお馴染の落語家頂派二郎天坊を初め橘与二郎加入の大一座を招き開演する事に決定せり其顔触左の如し
大阪落語(橘家六)大阪落語(橘家小二)大阪落語(橘家子)軽口掛合(橘家二郎、天坊)曲芸落語(橘家之助)落語手踊(橘家三)落語手踊碁盤踊(橘家二郎)大阪落語(橘家天坊)落語音曲手踊(十歳橘家小丸)歌舞笑話百種(橘の)臨時出演(おなじみ橘ノかおる事初音家与二郎)大切余興所作事(楽屋総出)

 大正4年は8月には久しぶりに神戸に帰ります。最初は前名の橘ノかをるを名乗りますが、春団治一座と徳島巡業をした後、再び徳島に残り幇間になります。
●大正481 神戸新聞
栄館 本日より出演者左の如し
文鳴、南朝、一奴、歌昇、東兵衛、呂光、若呂光、三尺坊、かほる、小正三、阪本、天地、小太、鶴八、亀八、文字助
都座 本日より左の如く出番変更
南朝、歌昇、文鳴、鶴八、亀八、小正三、かほる、一奴、小太、文字助、呂光、若呂光、東兵衛、三尺坊、阪本、天地
●大正4829日 徳島毎日新聞
◇稲荷座 大阪紅梅亭引越し若手落語一座。今夜の出し物左の如し因みに同座は既報の如く三日間限りなれば今夜限り千秋楽を告げ日延せず
兵庫船(春枝)浮れの尼買(染三)愛宕参り(染太郎)野崎参り(染太)赤子誉め(玉團冶)貧乏花見(米紫)五人廻し音曲(朝枝)掛取萬歳音曲(与二郎)曲芸(萬冶)親子芝居声色踊(小米)三十石踊(枝)宿替手踊(春冶)大切喜劇引抜勢揃い。

 一年後の大正58に久し振りに神戸に帰ってきます。
大正581日 神戸新聞
千代廼座 本日より三友派連交代、顔触れ左の如し
南喬、丈、福篤、染八、輔、萬十、小文、丈、菊冶、与次郎、萬光、柳昇、枝、枝太郎、太郎
大正5810日神戸新聞
今日の境浜、三友派の余興 余興場には例に依って大阪三友派連中が現れて御機嫌を伺います。今回の連中は輔を除く外総て新顔計りで本月一日から交代出演したもの。同じ三友派連中ながら又目新しい演芸を御覧に入れましょう。……それに昨年来お馴染みのかほるが与次郎と改名して一行に加わり……与次郎の木曾節踊と取り々に御覧に入れ御聴に達します。

 その後も弥次郎は神戸の各席に出演。
 11月には、後の3代目三遊亭円馬の橋本川柳の一座に加わり、朝鮮まで巡業します。
 この時は、雀家翫之助の名前で出演します。
●大正5119日 京城日報
◇川柳開演 東京落語朝寝坊むらく改め橋本川柳一座は、七日夜熊本大和座より乗込み来れるか、九日は花々しき町周りを為したる上、同夜より明治町浪花館に於いて開演すべく。一座は全て十五名にして初日の演し物は左の如し。
◇七段目手踊(歌當)源平魁手踊り(都遊)白木屋曲芸(しらく)赤買舞(喜三郎)理屈按摩(鶴蔵)百両損(夢輔)ねどこすててこ扇舞(橘松)塩原太助(掛合梅八、桜八)忠孝嵐(市兵衛)音曲噺(翫之助)淀五郎やりさびの踊り(川柳

 朝鮮の浪花館には11月一杯まで滞在した後、翌年の大正6年には、九州各地から中国四国地方を巡業。川柳は、5月には大阪の浪花三友派の各席に出演。
 翫之助は神戸に帰ります。
大正651 神戸新聞
千代廼座 本日興行は大阪三友派桂小米が三代目米丸の襲名披露として三派の幹部松林若円、桂春冶、同米丸、同文冶、初の家与次郎の新顔に染二、都枝、米之助、可昇、三升、天坊、春輔が出演す。
大正661 神戸新聞
千代廼座 一日より花橘、染丸、小南が加わり出番を左の通り変更せり
都枝、三升、可昇、三郎、太郎、氏原一、尾半、小半、東蝶、かほる天坊、春輔、李有来、李金来、小文三、花橘、染丸、小南
大正6630 神戸新聞
千代廼座 一日より花橘、染丸、小南が加わり出番を左の通り変更せり
都枝、三升、可昇、三郎、太郎、氏原一、尾半、小半、東蝶、かほる天坊、春輔、李有来、李金来、小文三、花橘、染丸、小南
大正6716 神戸新聞
海も陸も人の波人の山  ……三升、天坊の落語と手踊、春輔の一口話、可昇、小文三、かほるの落語、手踊、さては太郎、三郎両人の音曲など何れも大喝采で余興場は割れるような人気である。

 716日の神戸新聞の記事以降、翫之助、かほる、弥次郎の名前は新聞記事から消えます。
 実は、東京の落語界が二つに分かれ、新しく「睦会」という組織が生まれたのですが、人員不足で、上方の芸人が呼ばれる始末。翫之助もこの騒動で、睦会に加入する事になります。
●大正691日 都新聞
<広告>大入寄席案内九月上席 三遊柳派睦会合同席
大阪登り初お目見得 九月一日から十四日迄出雲名物松江節、大阪新内の奉斗富士松島之助、雀家翫之助、大阪かつ口太郎、三郎神田白梅亭、神保町川竹亭、四谷喜よし、恵智十、人形町末広亭

 これ以降、翫之助は睦会の各席に音曲落語家として出演。昭和初期まで記録があるそうですが、残念ながら東京の記事は調査していません。昭和の初めに、函館で幇間をしていたという記事もありますが、
 但し、「神港夕刊」という新聞に下記の広告が掲載されていました。
●昭和21711 神港夕刊
<広告>藤栄劇場/大阪吉本興行引越し!爆笑万才と色物 名人大会/七月九、十日の二日間/橘家太郎菊春、浮世亭歌楽寿美江、雀家翫之助、松鶴家団之助、冨士正二郎、鹿島洋々、日本一曲芸宝家和楽
戦後翫之助


 この時既に70才は十分過ぎているでしょう。戦後迄生きていたという貴重な広告です。
 最後に翫之助の事を、6代目円生が「寄席切絵図」で書いていますので紹介します。

●寄席切絵図 三遊亭円生 平成138月 青蛙房
寄席の今昔
雀家翫之助について 白梅亭にて   P61
これァもとは、蔵前の師匠といわれた三代目柳枝の弟子で、そのころの名前はよく知りませんが、とび出しちゃって、ほうぼうでたいこもちなんかをしてえた、本名もよくおぼえていませんが、高座でちょいと三味線をひいたりして、なかなかきざっぽい男でしたよ。睦会ができた時分、真打が足りないってんで、伊予の松山とかで幇間をしていたのを、ひっぱって来て、看板にあげたんでしょう。この時まで、先代もあたくしも、聞いたことがないんで、「じゃァね、これからやるから、ま、あがって聞いてごらんな、ふしぎだから……」「そィじゃァ聞いて行こう」ってんで、白梅はその頃二階寄席ですから、椅子段をあがって、そこンとこから高座は見えるけれども、高座からこっちはよく見えない、その端ッこのほうで立って聞いていたんで……。すると、その雀家翫之助ってのが、「三味線栗毛」という、落し噺ではあるが、まァ人情噺に類するもので、これを演ってるんですね。それでサゲンところィきたら、まるで芝居がかりで、そのきざなことったらない……で、思わず先代もあたくしも、ぶゥッと吹き出したんです。と、すぐ脇で、あるじも聞いてましてね、「何しろ、これが真打なんだからね、ええ?お察しなさい」って、そういいましたよ。「これでもね、源ちゃん、商売になるんだよ」って……あたくしの先代は源治という名前ですから、源ちゃん源ちゃんといってましたが、先代も「へえェ……」って、笑って、感心してましたがね。……この翫之助って人は、震災後もいましたが、どういうわけですか、のちにはうちの先代がよく使ってましたよ。なんか、先代に頼んだでしょうねェ、たいこもちになるくらいですから、なかなか「よいしょ」はうまいんです。その後、いつともなくいなくなっちゃたんですがね、いつごろ亡くなったのか、よく判りません。……

橘ノ円(~明治39年)

 橘ノ円、本名五十嵐銀次郎(明治3年(1870)~昭和10年(1935629)。兄は名人と言われた二代目三遊亭円馬。十一歳の頃に東京の三遊亭円朝の弟子となり朝治、後座り踊りの名人と云われた円三郎の二代目を継ぐ。
 明治24年に東京を離れ、十二月に大阪桂派の定席幾代亭に兄円馬等と共に出演。そのまま大阪に居着いてしまう。落語は兄円馬には到底及ばないが、踊りの方は幼少の頃より修業した花柳流で名手と言われた。
 明治39年円朝七回忌の後、一座を組織して桂派を脱退。兄円馬を後見として地方巡業の旅に出た。後に「円頂派」と自ら称して、落語、軽口、音曲、曲芸、喜劇等の今で云うバラエテイショー一座を組織した。
 当時の上方落語界では、地方巡業が多い落語家と言えば、曽呂利新左衛門、桂文我、それと東京の落語家三遊亭円子が有名ですが、これらの一座の内容を見ても悪まで落語中心で、落語が半分以上あり、落語以外に余興をする程度で、円頂派の様な色々な芸種の一座というのは初めての企画であった筈です。後、三遊亭二代目金馬、同二代目遊三等がこの様な一座で興行していますが、元祖はこの円頂派の様な気がします。 しかしこの円頂派も最初は落語中心の一座でしたが、主流となる落語家がどんどん離脱していったので、色物中心の一座構成になっていったようです。
 今回は、この橘ノ円の円頂派結成から晩年までの軌跡を調査しました。

 明治391906> 37
金沢一九席 明治39102日~12
明治39103 北国新聞
一九席 三周年祝賀興行として三遊亭馬、立花家三郎一座にて、一昨夜より簾(みす)を揚げたるが、小三、後八文平、坊、千橘らの落語、曲芸、踊りなど、取り取りに面白く、中にも三郎の碁盤上の座り踊り、紺の前垂れは妙技真の驚くべく、馬の落語は軽くして味あり。流石は故朝の四天王ぞと感ぜしめ、大切松尽しは花やかにして、種々の松尽しを演じたる、又面白き趣向なり。初日より溢れるる計りの大人気なれば、定めて引続き大入りを占むるならん。今晩の番組は左の如し
小倉船龍の都(子)三人旅浮かれの尼買(しん三)鉄砲屋芸廻し(小三)満州土産(後八)ステテコ踊(文平)落語天災碁盤踊(三郎)故師圓朝自作人情百種の内読物(馬)教育文字当て踊(掛合)

 富山旭亭 明治39年10月13日~25日
明治391015 北陸政報
旭亭の落語 兼ねて評判の立花家圓三郎一座愈々一昨日より富山市旭亭において開演せしが非常の好評なり。今晩の番組は左の如し
御祝儀宝の遊舟(子)三人旅うかれの尼買(新三)浮世根問並に顔芸(小三)大阪落語くしゃみ講釈並に満州土産踊り(後八)寿限無ハイカラステテコ(文平)こんにゃく問答並に曲芸踊り(坊)当世流行音曲(千橘)新作落語いじくらべ並に一流碁盤手踊り(三郎)故師圓朝作牡丹燈籠毎夜続き(馬)大切新案身振落語八種商二人旅行引抜松づくし(連中総出)
明治391016日 北陸政報
旭亭の落語 再昨夜より富山市旭亭において故朝の高弟株に其人ありと云われたる東京落語界における当初の素話家三遊亭馬が後見の許に立花家三郎が座長として一座十四名の大連が掲簾せしことは既報の如くなるが其の二日目なる一昨夜の主なるもの丈けを紹介せんに、全座の番頭役文平というヒョロ長男の素人俥は在来の語り口より余程変化もあり滑稽も亦面白く聞かれしが余興の勝手道具の曲芸は眼先変りて喝采を得たり。次のは御馴染み丈に顔を見ると満場拍手を以って迎へしより当人余程恐悦らしく話は例の口調故に感心せざれど。例の盆の曲芸より変化進歩したるものと前置して洋食皿の曲芸を見せしは大受けなり。次に千橘の音曲は金沢に興行中声を悪くせりとの言訳ありしも非常の美声にて殊にトッチリトンの如きはあでやかなり。次の三郎が語りし奈良の鹿政談は有触れたる人情的落語とて話題に珍らしき感は起らねども其の語口は又格別。識らず知らず実感をひきだすは流石に一座の重鎮というべく其の碁盤の上にて得意の梅にも春を踊りしは鮮やかなり。真打の人情話牡丹燈籠は眼が名人故朝の傑作として筋において悪しかろう筈なく況して素話として知られ居れる、同人が語り出す人物は活躍して一本の白扇に依りて舞台に現れ出づるの想いあり。大切の余興松尽くしは楽屋総出にて中々凝ったものなり。因みに今晩の番組は左の如し
御祝儀宝の入船(子)西の旅琉球節(新三)中風小便(小三)おしの魚売生人形(後八)狸の釜立曲芸(文平)吾妻土産おどり(坊)今様流行歌(千橘)左甚五郎江戸入手踊(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切播州古跡松(連中総出)
明治391017日~25日 北陸政報
旭亭の落語 富山市旭亭における立花家一座の落語連は昨日石橋に扮し、三郎以下賑々敷市中を練り廻し、各神社に参詣せり。今晩の語物は左の如し
伊勢参り神の賑わい(子)兵庫船鱶の魅入(新三)鉄砲屋音曲(小三)堀越村恋の失敗(後八)磯の鮑ステテコ(文平)四の字嫌い曲芸(坊)公園八景今様音曲(千橘)落語天災踊り(三郎)牡丹灯籠続(円馬)大切身振落語(連中総出)
19日 御祝儀軽業噺(子)小倉舟龍宮の全景(新三)偽と真並に顔芸(小三)大阪落語新作満州踊り(後八)新作鉄道廻りハイカラ曲芸(文平)物真似芸回し(坊)東音曲喇叭節(千橘)茶の湯碁盤踊り(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切フラワダンス(連中総出)
20日 御祝儀宝の舟遊(子)五人坊主三句合わせ(新三)初の祝並に芸回し(小三)盗人暗殺吹寄せ(後八)花がほしいハイカラ踊り(文平)西行東下り並に曲芸(坊)端唄都々逸(千橘)初音の太鼓並に新年の川(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切文字当り踊り(連中総出)
21日 御祝儀龍宮(子)播州巡り(新三)寄合酒並に奇曲(小三)住吉駕籠並に日露生人形(後八)専売芸者勝手道具曲芸(文平)新説明烏並にステテコ(坊)歌沢並に流行歌(千橘)穴泥清元花かたみ(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切十五題即席掛合(連中総出)
22日 御祝儀小倉舟(子)京名所踊り(新三)棒屋並に顔芸(小三)釜猫満州踊り(後八)日露新作カトンホ踊り(文平)二十五世紀曲芸手踊り(坊)三都浮世節色々(千橘)巌流島清元北州(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切各国旗出し(連中総出)
23日 御祝儀宝の入舟(子)明石の古の跡(六)野崎参り音曲(小三)年誉め並に手踊り(後八)出来心並に布廻し(文平)音曲曲芸(坊)一分茶番手踊り(千橘)浮世穴捜し(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切三人旅(連中総出)
24日 御祝儀宝の入舟(子)兵庫渡海の手踊り(六)稽古屋音曲顔芸(小三)東京荒物並に物真似(後八)書生の頓知ハイカラステテコ(文平)三枚起請並に曲芸(坊)三都音曲謡い分(千橘)てんびき並に碁盤踊り(三郎)牡丹燈籠続(馬)大切東自慢深川染(連中総出)
25日 御祝儀東の旅(子)西の旅播州巡り(六)理屈按摩並に顔芸(小三)牛誉め満州踊り(後八)日露新作噺音曲(文平)羽衣並に曲芸手踊り(坊)三都音曲喇叭節(千橘)文七元結手踊り(三郎)牡丹灯籠続(馬)大切立花家一派フラワダンス(連中総出)

名古屋富本席 明治391111日~
明治391111 名古屋新聞
富本亭 愈々今晩より三遊亭馬一座にて開演する由。一座は立花屋三郎、千橘、坊、文平、後八、子、六、小三、文作等にて大阪における若手揃いなり。
明治391113 名古屋新聞
富本亭は一昨日夜より立花家三郎一座にて開演し三遊亭馬が後見となりて出演したれば非常の好人気なり。三郎は後備一連隊付として出征したる男なり。因みに同一座は越中富山において菩提心を起こし一同丸坊主になり居るは一層滑稽なりと。

津泉座 明治39121
明治391128 伊勢新聞
三遊亭馬一座 目下尾州熱田にて興行中なる東京落語三遊亭馬、千橘、坊、文平、後八、小三、六、子、三郎等の一座は同地打揚次第当地に乗り込み、来月一日早々興行の筈。
明治39122 伊勢新聞
三遊亭馬一座 予て記せし如く三遊亭馬、同三郎の一座は一昨日当地に乗り込み昨日□(えんろ)の一隊顔見世をなせしが、馬が挨拶に本社を訪ひしとき、一社員が大人気ならんといひしに馬そのクルクル頭を指差し此の通り丸儲けですと即座の滑稽並み居る社員をして哄笑せしめぬ

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丸屋竹山人

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