1
明治
2111日 日出新聞

◇新年の京都の落語席

新京極幾代席 桂藤兵衛、三笑亭可楽、桂文之助の一座の昔噺。

新京極笑福亭 三遊亭円喬、福松、円光の昔噺。

上京区西堀川通り丸太町下る菊の家席 笑福亭円光、三遊亭円喬、笑福亭木鶴、かしくの昔噺。

千本通り五辻下る千代の家席 笑福亭一座の昔噺。

〈編者註〉

桂藤兵衛は初代桂文枝門人、明治十八年に三代目桂藤兵衛を襲名した。自ら「顋無斎(しむさい)」と称した

ごとく、極端に顎が短かった。

三笑亭可楽はもと二代目笑福亭吾竹の門人で三代目(四代目トモ)吾竹、明治十七年に五代目三笑亭可楽を襲名した。東京の可楽の代々には含まれず、京の可楽と呼ばれている。

桂文之助は誰のことか不明(曽呂利新左衛門の前名をまだ書いているとは思えない)。

三遊亭円喬は政談上りの落語家。本名永瀬徳久。この円喬は東京の円喬代々には数えられていない。後世、永

瀬の円喬と呼ばれ区別されている。

福松は初代笑福亭福松。

円光は笑福亭円光。最初、初代梅枝(後の二代目藤兵衛)に入門して、梅寿(又は梅々)から藤鶴。二代目文昇門で文舎(文車)、更に三代目松鶴門で円光から明治37年に梅香を襲名した。俗に「呑んだの梅香」と言われ大酒飲みであった。晩年は、互楽派に加入している。

笑福亭木鶴は二代目笑福亭松鶴門人の二代目木鶴(岡田文里)。

かしくは文の家かしく、のち二代目桂文之助となり、晩年京都高台寺門前に文之助茶屋を開いた。

〈編者註・追記〉『落語系図』は吾竹の代々について、三代目を五代目三笑亭可楽、四代目を二代目笑福亭松鶴としている。即ち「二代目吾竹門人三代目吾竹初め三笑亭歌楽と云ふ(ママ)」、「初代松鶴門人二代目松鶴初め鶴松と云ふ。後に四代目吾竹となり、後に二代目松鶴となり、其後円笑となり講談師となる」とある。しかし松鶴は明治初年に二代目松鶴を継いでおり、明治十三年に円笑と改名している。三代目吾竹が可楽を襲名するのは明治十七年で、明らかに年代が矛盾する。三代目と四代目が逆と考えるのが自然であろう。因みに五代目吾竹は二代目文団治襲名裁判で敗れた桂歌団治が継いだ。

明治2111日 金城新報

◇新年の名古屋の落語席

富澤町富本座 司馬龍生の人情話しと金之助の曲引。

〈編者註〉司馬龍生は六代目龍生。明治十九年頃宝集家金之助と駆け落ちして上方へ来た。宝集家金之助は女流音曲師。のち船遊亭志ん橋と結婚し、志ん橋とともに上方で活躍した。

明治21118日 朝日新聞

<林家木鶴改め桂文三>

[広告]今般私事故有て先名に復し候に就ては左の日を卜し聊御披露の為め大集会を相催し候間、不相換御愛顧を以て賑々敷御尊来の程奉希上候

本月廿日夜千日前千歳席、新町九軒席 同廿一日夜法善寺東噺席、曾根崎橋幾代席 同廿二日夜淡路町幾代席、天満亀の池席/林家木鶴改先名桂文三

文三 001

〈編者註〉二代目桂文三は明治十七年十月、小文吾より二代目桂文三を襲名したが、二代目林家木鶴の養子になって明治十八年末ころから三代目林家木鶴を名乗った。しかし今回もとの文三に復命することになった。「還名御披露 嘉入尽し 大都栄ぶし」という一枚摺が残っている(上図・荻田清『上方落語 流行唄の時代』より)。「嘉入尽し」は帰る尽しで、文句の最後に「木鶴は文三と先(もと)の名にかへる」とある。なお燕枝、扇枝(後の三代目文三)、梅枝(二代目・オッペケケーの梅枝)は共に二代目桂文枝の弟子である。

明治21113日 中外電報

大津の興行物 大津丸屋町の定席にて一昨夜、昨夜へかけ西今颪町山中コトの舞ざらへを興行したるが、いつもながら大入にてありし。又明十四日より両日間追分町の富士野九兵衛同林甚太郎の両人が同町廿八番屋敷にて人形浄瑠璃を興行し、昨十二日より明十四日迄毎夜上栄町五十九番屋敷にて下京廿一組山城町加賀市松が人情昔噺しを興行せり。

2
明治
2121日 朝日新聞

弥次喜多の追善会 神田八丁堀より飛出して頓馬の名を海外に迄轟かせし彼弥次郎兵衛と喜多八の追善会は、予記の如く去る三十日午後一時より印度洋にての失敗に縁のある京都蛸薬師の西林寺にて執行せしが、当日弥次馬連イナ有志者の来会する者七十六名にて、二人の霊牌は二枚の蒲鉾板に認め各々蒲鉾に突立たり。弥次郎兵衛の法名は長途院不用煙管居士、喜多八の法名は笑門福来信士と称へ、手向の水は冷酒を以てし、滑稽院の和尚、奇妙長来師先導にて阿呆陀羅経を誦し、来会者は狂詩狂歌を詠で其霊を慰め、焼香の代りには各自酒肴を順番に飲食し、終つて弥次喜多の遺物展覧会あり、頓て二〇カ師東玉、落語家桂藤兵衛の二人、弥次喜多が遊歴中の赤坂宿の道化狂言を演じ、講談師琴昇は膝栗毛の滑稽演説をなし、会員は悲壮イナ臍を転宅せしむるの演説及び祭文を朗読する杯実に盛況を極め、午後七時何れも散会したりと。定めて弥次喜多の二人は小本の中に在て満足に思ふて居るならん。

明治2121日 日出新聞

弥治喜多の追善 下京六組裏寺町西林寺にて講談師の山崎琴昇、落語家の桂藤兵衛、二〇カ師の東玉等が、二十九日の日曜に催したる弥治喜多の追善会は、参会するもの五十余名あり、本堂の粧飾より書画の陳列、五十三駅見立景物の出品、抹茶席等すべて旅中のさまを模し、膳部も同様の趣向をなして、酒宴の席に滑稽の討論題を出し、夫より東玉の喜多八、藤兵衛が弥治郎兵衛となりて赤坂并木の茶番をなし、笑ひを以て初め笑ひを以て終つたさうですが、弥治喜多連中の喜楽会なれば嘸可笑かつたでせう。

明治2121日 朝日新聞

[広告]東京初下り人情噺司馬龍歌沢家元端歌浮世ぶし宝集家金之助女

当ル二月一日より連夜下名ノ三席ヘ出勤仕候 南地法善寺西の小泉席・淡路町御霊新道吉田席・北堀江花街賑江亭

明治21219日 中外電報

諸芸博覧会 新京極蛸薬師上る福井座に於て昨日と本日の両日間午后五時より、諸芸大博覧会といふを催し、新内は馬井助外数名、俄師は東玉、尾半、小半外数名、落語家にては幾代席より可楽、藤兵衛外数名、笑福亭より円喬、梅香其他数名、西洋手品は滝三郎外数名其他、浄瑠璃、ヘラ〳〵、足芸等の大吹寄をなすとの事。

〈編者註〉梅香は笑福亭梅香。二代目松鶴門人で九鶴から文之助(後の曽呂利新左衛門)門に移り梅香(三代目ヵ)となる。のち上京して四代目三遊亭円生門人となり、三遊亭海老丸を名乗る。明治三十二年八月没。本名梅谷清兵衛。

明治21223日 日出新聞

幾代席の人情話 新京極幾代席に於ては、此程三笑亭可楽が日の出新聞によりて、小巻市蔵[この月始めに幾代席内で逮捕された盗賊、八日他に記事あり]の伝を得意の弁にて演じたるに存外の大当りにて、日夜聴衆の充満せしかば、此機を外さず人情話を演ずるがよろしとて、自今は日々に日出新聞中の読物を演ずることに為(し)たりと。

明治21224日 朝日新聞

川上音二郎は今度曽呂利新左衛門の弟子となり浮世亭〇〇と称し落語家の社会に入りたり。

明治21226日 大阪日報

◇改名の披露 自由童子を以て名を世間に知られたる川上音次郎は兼て風俗改良の事に心を寄せ去頃より各所の寄席にて滑稽演説又は二輪加杯をなし居たるが、今度遂に落語家となり、芸名を浮世亭〇〇と称し、曽呂利新左衛門の弟分となり、今二十六日千日前井筒席、明二十七日は淡路町吉田席に於て改名の披露を為すとのこと。

〈編者註〉音二郎は昨年十二月二十一より浮世亭〇〇と名乗って神戸の寄席に出ている。これらは大阪でのデビューを伝えた記事。この改名は隠れ蓑で、落語席へ出ても演説紛いのものをやり、客と喧嘩したり、警察に中止を食ったりと、まともな落語をした気配はない。こんな厄介な弟子を引受けた曽呂利も偉いが、この時の恩義を忘れず、終生曽呂利を師と奉った音二郎も芸人として立派である。

明治21226日 日出新聞

安保舎 さて代り合まして代り栄のない落語の改良は、昨年以来世の風潮でもあるまいが、一時社会改良の談出てより、一から十まで改良の二字は免れぬほどなりしが、其中には落語家の改良も亦加はりて、彼これ奔走するものありしが、未だ其実効を奏する事を見ざるは実に遺憾の至りなるが、今度復た新京極幾代席に出ている可楽、藤兵衛等が発企して、賛成者を募り、安保社といふを組織て毎日十、二十の両日を期し定期会を開き、落語の研究改良を謀らんと、已に一昨二十四日洛東明烏に於て先づ其初会を開いたさうですが、甘くやるか知んテ。

3
明治
21331日 日出新聞

長浜通信(廿九日発) 横町長栄座にては明三十日より落語家笑福亭勝鶴、春風亭鴬林の一座で改良ばなしを興行。

〈編者註〉『落語系図』の明治二十九年春の客からの投書に「笑福亭勝鶴 三友派の小使役、昔しは町内にはこんな下役を多く見うけし事あり。本人は御老体の上、少々お眼の悪しきに、何共早御苦労千万の事なり」とあるのがこの
人か。師弟関係不明。春風亭鴬林は不詳。春風亭鴬枝(本名藤田致義・大正七年没)の誤記かも。

4
明治
21422日 日出新聞

大食会 新京極幾代席の落語家桂文屋(二十二年)桂枝太郎(二十四年)三笑亭芝楽(二十八年)の三人が、祇園新地末吉町の貸座敷山田しと方にて、芸妓お米(十九年)久栄(十九年)龍野(二十三年)の三人を招き、朝から陽気に散在し、正午にも成たる故去来(いざ)飯を喰に行べしとて、新京極道場の車飯屋輿(かご)亭に押上り、奥の離亭(はなれ)へ御案内をといへども、三人の落語家は一杯機嫌の酔に乗じ表の間の人中へ割込たれば、三人の芸妓は遉(さすが)祇園芸妓が車飯屋へ上つたといはれては身の恥になると思へど、客の事ゆゑ詮方なく、小さく成て居たが、委細構はぬ枝太郎が発言にて、一同大食会をヤラカサンといふ。男だけは承知したれど、芸妓はいづれも不賛成にて顔を背けるを、不同意なら退去を命ずるといふので、止を得ず芸妓等も承知して座に列なると、食物を注文せしは一人前に付飯三人前、味噌汁五杯、茶碗蒸二杯、竹の子二皿、葱の鉄砲和三皿と定め、之を無語に食畢るの約束にて、モシ食得ざるものは此場の勘定と芸妓の花代とを負担し、芸妓は花代を自分持にする事と孰れも承知して、食物を一時に各自の前へ列べてソロ〳〵喫(たべ)初めたるが、無言の食事に六人とも笑はんとして噴出し、困り切て半泣となるものありたるが、四辺(あたり)に居たる客たちも奇怪のさまに目を欹だてゝ詠めて居るうちに、第一に枝太郎、次に文屋がペロリと喫べ畢ると、夫から龍野に久栄が漸々食べ否口の中へ捻り込で大息をつき、腹を撫擦りて居ると、残るは芝楽にお米にて半分も喰べ得ず、芝楽は茲を先途と箸を廻せど、終に喰尽し得ず、両人とも箸を投出したので大食会の入費五円二十銭を芝楽が引受け、お米は自分花と約束を実行されて悄々(しおしお)となり、勘定すませて去たるが、芝楽はいかにも悔しくて堪らねば、近々に復仇(あだうち)せんと一人知恵袋の中を探して居るとか。

〈編者註〉桂文屋は軽口の笑福亭松右衛門の子供で本名桂陀羅助。本名のままで幼い時から高座に出、二代目文枝門人となって文屋となった。多芸、多趣味な人で、文化人に愛された。桂枝太郎は名前を随分変えた人だが、二代目文枝門人となった時に枝太郎と改名した。多く京都に住み、先斗町の枝太郎として知られる。三笑亭芝楽は師匠の三代目(四代目トモ)笑福亭吾竹が五代目三笑亭可楽を襲名した時、自身も笑福亭吾妻より三笑亭芝楽と改名した。

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明治
2152日 日出新聞

奈良特報(一昨三十日午後発) 明一日より瓦堂劇場にて山本三左衛門の操人形を興行する其浄瑠璃は、豊竹湊浜の一座なるが、其千秋楽を待て落語家曽呂利新左衛門及び自由童子こと改め浮世亭〇〇川上音次郎の一座で落語を興行する由。

明治21515日 朝日新聞

京都通信(十四日正午十二時四十五分発) 一昨夜午後十一時頃、新京極なる笑福亭の落語席にて川上音次郎事浮世亭〇〇が講談をなす折柄、書生体の男が頻に笑を催したるを見て川上は立腹し、他の聴衆の妨にもなれば退場すべしと言述たるより、忽地一場の捫擇を始め、川上は拳を挙て書生の面部を撲ち二ケ所の傷を負はしたれば、其旨警署に告訴せしに依り、遂に川上は下京警署へ拘引せられ、双方取調し処、書生は豊後国の橋本吉夫と云ふ者にて、聴衆の中にある老人が頻に禿頭を振立て異様の形容を示して聴居りしが可笑さに笑ひしなりと述べ、川上はツイ酩酊の余り右の次第に及びしと答へしが、何分吉夫は二ケ所の傷を負居れば治療を施し、川上は取調べの上昨日検事局へ送られたり。

明治21516日 中外電

大津大黒座 新築中の大津小川町劇場大黒座はいよく昨日落成したるに付、来る二十二日より一週間舞台開きの興行をなす由にて、其俳優は新京極夷谷座の一座なりと。

明治21522日 日出新聞

奈良特報(一昨廿日午后発) 落語来る二十五日より瓦堂劇場にて曽呂利新左衛門、文の家かしく、団治、文楽、福太郎等一座が落語を興行するよし。

〈編者註〉団治は桂団治、二代目桂文団治門人。桂文楽は曽呂利新左衛門門人、俗につんぼの文楽という。福太郎は文の家福太郎、文の家かしくの実子。

明治21529日 朝日新聞

大道化開帳 来る三十日より日数三十日間、南地法善寺の本堂を借受け大道化(おどけ)開帳といふを催すよし。催主は浪花座の手代某にて、出品の宝物は悉く赤穂義士四十七人の所持品に擬へ、落語家曽呂利新左衛門の一座及び俄師歌蝶の一座が縁起を説て見物人の頤を解かんとの趣向なりと。又右に付き俳優并に五花街の芸娼妓等より種々の積物をして一層景気を添る筈のよし。

6
明治
21623日 中外電報

浮世亭〇〇 川上音治郎は一昨夜より今夜迄三日間大津丸屋の常園にて改良噺しを興行せり。