<大阪>
大正元年10月28日 大阪新報
<反対派の各席と十一月上席の出演者>
◇落語反対派上席 同派は三尺坊、圓好、小美國、巴磨吉その他が内安堂寺町富貴亭、新町福竹亭、芦原町芦原館、九条入船館、上本町東雲館に出勤し好評なりと。
大正元年10月29日 大阪時事新報
<反対派の寄席>
◇反対派の寄席 富貴席(内安堂寺町)、福竹亭(新町)、芦原館(芦原町)、入船館(九条)、東雲館(上本町八)の各席主は今後発展すべき目的にて笑輔、貞若、光遊、枝三郎、小正以下の落語に竹本巴津昇、同組枝の外岡本小美根等の女連を加へたり。
大正元年10月31日 大阪新報
◇寿々女會 十一月上席交替連は少女浪花節林玉千代(十三)、常盤津浮世節岸の家綾之助同綾瀬、剣武居合術川西柳心斎同正幸、東京落語三遊亭市馬
◇浪花三友派(藤原派) 十一月上席交替連は桂枝雀、同小南光、橘家圓次、奇術旭天落同天若。
大正元年11月1日 大阪新報[広告]
❍當一日より連夜開演 南地法善寺紅梅亭 浪花落語三友 幹部全員出演
交代連 東京下り三遊亭圓橘 引続出演旭市子 おなじみ鏡味小仙・小金
❍浪花三友派演藝場
桂枝雀 桂小南光 旭天楽 旭天若 定連全部出演
船場平野町此花館 福島延命館 堀江廓賑江亭
❍浪花落語壽々女會 幹部全員出演
(交代連)少女浪花節林玉千代 常磐津浮世節綾の助・綾勢 剣舞居合術柳心斎正幸 東京落語三遊亭市馬
南地法善寺内蓬莱館 御霊境内あやめ館 空堀通澤井亭 北新地永楽館 新町瓢亭
大正元年11月1日 大阪新報
◇京町堀文芸館 一日より此助一座の女義太夫にて開場。
大正元年11月1日 大阪朝日新聞
◇互楽派の第二、第三文芸館に福島龍虎館は、従前の一座に清国人の曲芸、笑福亭美都の出勤。
大正元年11月9日 大阪時事新報
◇チビの浪花節 三友派の寄席へ旭市子と言ふ十歳足らずの少婦(ちび)が出て浪花節をやり出すと、それが低級趣味の見物の気に入つて大供顔色無しの前受が可いので、之に鑑みた商売敵の寿々女会の席主が阿波から林玉千代といふ雁治郎の娘と間違ひさうな名前の少娘を漁つて来て、同じく浪花節を唸らせると流行といふは変なもので之も相応に前受して居るさうだ。
大正元年11月10日 大阪時事新報
<桂枝雀、寿々女会を抜け、此花館三友派へ加入する>
◇落語家の涙の種 雀会を飛で逃げた枝雀 落語桂派、今はすゞめ会の元老桂枝雀といふ男、御面相がチンで仕草がチンで慌て者と来てゐるから、落語の種は時々自分から製造する。此男に怒るなどいふことがありさうにも思はれぬが、然し怒つたら却々捻ぢけよるから更にチンだ。此男が怒つたといふ主意は一向分らぬさうだが、兎も角大いに憤慨する所あつて永年牛耳を握つて来た桂派をフイと去つて、此頃三友派から分離して出来た旧三友派(藤原派)の方へ身を置きかえた。
すゞめ会の方では彼の男に逃げられてはチヨツと人気に関はるといふので、贔屓連の仲裁者が現はれ里見、安田などいふ男が住吉の枝雀の家へ押掛けて、お前さんも好い年をして見つともない真似をせずとモウ一度後を振返つて呉れないかと、噛んで含めるやう云ひ聞かせたが、何うして承知どころではない。理は云はいでも好いが桂派は私を踏みつけた、私はもう桂派にはコリ〳〵したと云つて相手にならぬ。さらば仲裁者の顔を立てゝ一日だけなりと三友旧派の席へ出るのを待つて呉れぬかと頼んだところ、枝雀はいつかな承知せず、アノ年をしてオイ〳〵と大声挙げて泣き出し、あんた方は私を贔屓に思つて下さるとも思へぬ、この仲裁は私を殺しに来やはつたも同様じや、棄(ほっ)といて下され、何(ど)うしてもあんた方が私の頭を押へやうと云ふなら、私はコレこの通り首を縊つて死んで見せますと、懐から手拭取出し、ギユツと首ひき締めて赤い舌をベロリと出して見せて、又してもオイ〳〵と泣く。
贔屓連も嬲(なぶ)られに来たのやら、落語の稽古を見に来たのやら、恰(まる)で古狸イヤ嵩経(こうへ)た鹿につまゝれてゐるのだか薩張り理(わけ)が分らず、ブツ〳〵と云ひながら引取つた後で、又しても紅い舌をベロリ、「イヤ落語の種が出来たぞ〳〵」。
大正元年11月11日 大阪毎日新聞
◇江戸堀巴館は久しく休演中なりしが、去七日より笑福亭吾竹一座の落語色物にて、大切に落語角力ありと。
大正元年11月11日 大阪時事新報
<三遊亭円馬>
◇円馬の愚痴 落語の寿々女会の御ン大将で落着払つて居る三遊亭円馬が時代遅れの人情噺で持切つて居る所へ、新進の松鶴、馬生が飛込んで来て、古い話の中へも新熟語を加味して聴かせるのが頗る前受する所から、コリヤ堪らぬと一座の枝雀がへんねしを起して消へたので、円馬は此処双方から挟み討を喰ひ鼻の穴をフン〳〵ひこつかせながら、俺はモウ浮世が厭になつて仕舞つた。
大正元年11月14日 大阪新報
◇三友派滑稽運動会 来る十五日早朝より三友派総勢六十人、揃への衣装にて景気よく箕面公園に繰り込み、同停留場前の運動場にて同派独特の滑稽大運動会を催す。其重なるものはロバとラクダの競走、家鴨追競走、芝居外題変装競走、盲目面旗とり競走、外に飛入り勝手にて竹登り、毛布とり競走等あり。運動会後動物園翠香殿にて演芸大会を開く由。
大正元年11月15日 大阪時事新報
◇寄席此花館、賑江亭、延命館の三席へ十五日夜より春風亭柳昇と少女義太夫の豊竹呂寿とが加入す。
◇松屋町の松の亭は呂昇出稼中の為め十五日より落語派の桂枝雀、富士松島之助、宝集家金之助以下出演。
◇三友派の紅梅亭、六方館外各席へ従来顔馴染の円橘、市子等に丸一の鏡社中加入す。
大正元年11月15日 大阪時事新報
◇寄席の売物 北区上福島に増設された延命館は各派共に振はぬ寄席の不印に、御多分に洩れずパツとせぬので、大方チヨンガレの定席にでもなるだらうとの風説であつたが、モウ一つ其上を通り越して今度地所付で建物其侭を売物に出した。価格は約二万円だといふが気の毒な話。
大正元年11月17日 大阪新報
◇南陵一座 十五日より天満天神杉の木の昼席より出演、講談一座は楳林、琴袋其他。
大正元年11月17、19、24日 大阪時事新報・夕刊/大正元年11月20 大阪毎日新聞/11月22 日 大阪新報/11月24日 大阪朝日新聞
円馬ら旧桂派の噺家が寿々女会を一斉に離脱、紅梅亭の三友派に移る
◇旧桂派打揃うて去る 同派は遂に滅亡すべき乎
由来芸人社会ほど詰らぬ事に悶着するものはない。殊に近頃の落語家仲間と云つたら彼方で一派を拵へたかと思へばもう此方へ喰付いてゐるといふ有様、何をしてゐるのか薩張り訳が分らぬ。
之も其の後多分に洩れざる話にて、近頃余り振はぬ所より種々の悶着の起り勝なる寿々女会(旧桂派)は、同派の元老たる桂枝雀が去月三十日限り永年牛耳を執り来りたる同派を去つて旧三友派(大正派)に入りしより、茲に端なくも寿々女会は大動揺を起し遂に、同派の頭領たる三遊亭円馬をはじめ桂万光、小文枝、燕枝、市馬等同派の立物は悉く袂を連て、十五日の出番交代の日を限り出勤を謝絶するに至つた。
此の裡面に就ては曩に同派が三友派より金原馬生、笑福亭松鶴の両人を引張り来つて桂派の名称を改めて寿々女会と為したるより、以前から同派に属したるものは桂派を無視したるものなりとて頗る快からず、其名称を桂派寿々女会と為すべく抗議を申込んだが容れられず、六ケ月を経過したる後改むる約束にて今日に至つたが、更に之を実行せぬのみか、其報酬の如きも新しき者に厚うして旧き者を軽視する風があるので、旧桂派に属するものは自分等を踏付けた仕方なりとて遂にこの始末に及んだものである。
然れば之に依て事実上に於て桂派は全滅を来したもので、全く支離滅裂となつて了つた理(わけ)である。事実斯の如くなれば寿々女会の席主たる蓬莱館、永楽館、瓢亭、あやめ館、沢井席等の狼狽一方ならず、全く十五日よりの出番を急に改めて同派全員を各席に引張廻し、紋日は兎も角もお茶を濁したが、今後如何に方法を講ずるか其は同派の生死に関する一問題といふべし。
然るにても憤然同派を退いた円馬以下五人は如何に身上を処置せんとするかに就ては未だ充分確定して居らぬが、曩に枝雀の入りたる大正派に到底之等悉くを容るるの余裕なきこと勿論である。聞く所に依れば、三友派紅梅亭の席主原田は、之も三友派分離問題より同派を去らんとする意嚮あり、寿々女会あやめ館主の片岡を誘うて別に一派を起さんとするものゝ如くであるから、或はこの連中を土台として一派を組織するに至るかも知れぬとの噂がある。(大阪時事11・17)
◇悶着は何う納まる
落語寿々女会の悶着から元桂派の円馬以下が三友派へ加入を申込んだので、文治以下幹部の面々は十七日の夜、寄席打出し後南地の紅梅亭で何時もに似ず真面目腐つて、桂派の復活を謀つたものか、それとも寿々女会の連中は仲間の規則を乱したのを幸ひ他は捨てゝ了つて円馬だけ引寄せやうかと評議を凝した。
元来今回の紛擾といふものは、予て桂派と三友派との間に芸人の取遣りをして内輪争ひを起さぬ為め、孰らの派に属する芸人でも他国へ出稼いで三年間の時日を経過せねば融通の出来ぬ契約になつて居るが、桂派では文左衛門去り、文枝逝き後は円馬を頭に枝雀、小文枝等で演じて居たが、兎角三友派に勢力を奪はれて不入なので、席主等は三友派から松鶴、馬生を引抜けば屹度人気を回復するだらうと見込をつけて、夫れでは桂派といふ名前では能(で)きぬ相談だと寿々女会と改称し公演した次第だ。が、サテ然うなると見物が来る代り、今まで高く止つてゐた枝雀、小文枝等は以前の幅が利かなくなつて不平満々、松鶴と馬生だけが持てるのに業を煮して遂に円馬までを唆かして騒ぎが大きくなるといふ訳だ。時節柄紅葉時に鹿仲間の争ひは縁が無いでもない。(大阪時事11・19)
◇落語界の戦国策 三友桂両派合同す
杓子の方では唐土漢楚軍談、鹿の方では物干半鐘踏んだ、何れにしても物騒な立廻りで火花を散らしてゐた浪花落語界の漢楚両軍三友派と桂派は、結局三友派が泗亭の阿兄(あにい)の役に廻り、兎も角も下駄箱の見台から勝目の骸子(さい)を叩き出して、憐れ桂派は時利あらず騅逝かず、グヤ〳〵と潰へ去つて、数十年売込んだ桂派の看板は此春限りで消て仕舞ひ、節を屈して三友派から松鶴、馬生の二真打を迎へ、寿々女会といふ新団体を組立てしが、以来漸く旗色を盛返せしも、勢ひ采配の権威は新来の二将が握る所となり、桂派根生の連中はグウノ音も揚らず、コヽにおいてか独眼竜将軍枝雀を始め江南健児の生残り文之助、小文枝の徒、悲憤慷慨して、コンナ阿呆らしい事がおますかいなと席亭の間に桂派再興を遊説したるが、一向相手になつて呉れず、折柄野心家の大山大将しん喬が嬶天下の金之助と共に天下三分を志(こころざし)て大正派なる別派を組織し、寿々女会の不平分子にお招来(いで)々々を極めしにぞ、周章者(あわてもの)の枝雀真先に飛出して此派に馳参じたるが、残つた連中は、しん喬と金之助が夫婦共稼ぎで高座を稼ぐのをチン〳〵気味から毛嫌ひし、旧桂派の客将三遊亭円馬を謀主に拝して、何とか仕とくなはれとせがみ立てしより、漢方医者の円馬、コヽは一番人参を用ゐねば成らぬ所と、退隠して心学道話に納まり返つてゐる桂文左衛門の柴門を敲き、一分別を求めると、入道左衛門尉例によつて脱毛(ぬけげ)が絡りついたやうな手付で、子曰く夫れ恕なるかと大いに同情し、鳩翁道話の一冊を持出して、先師の申置かれたのにも悪人の友よりも善人の敵を求めよと厶る、寧(いっ)そのこと鎬を削つた三友派と合併して仕舞へと中々開けた分別を出し、文左衛門自身説客となつて三友派と交渉を始めると、三友派でも薮から棒で少からず面喰ひ、第一ソウ頭が殖えては差詰め米櫃に影響すると、頭取の文治一同を集めて四角な才槌頭を振り廻せしが、義を見て為ざるは勇なきなり、況んやソレ泰山は土壌を譲らずと、妙に文左衛門の子曰くに感化(かぶ)れて、宵の口の木戸番然と潔く「入らつしやい」を唱へ、旧桂派は三友派の客分として桂派の名義を存することと、ソコは放鹿(はなしか)の鹿つべらしく大義名分を正して円馬、千橘、文之助、小文枝、市馬、万光、燕枝、雀円、万寿の一連を迎へ、愈よ十二月一日より三友派の各席へ出演させ一方、京都、神戸、岡山、広嶋、名古屋の各寄席に今度の新手を先鋒として出城を構へ、来る新年より花々しく天下統一の大旆を翻す軍略なりと。(毎日)
◇三友桂派両派の合同
四分五裂の大阪落語界が久しく暗闘を続け来れる折柄、十九日に至り俄然寿々女会の圓馬、小文枝、燕枝、萬光、文之助、千橘、市馬以下十三名が袂を列ねて三友派に合同することとなり、二十日両派落語家連中の間に公然一つ高座の誓ひを結びたるが、その真相を聞くに、圓馬は元来三友派に縁深く、早くよりその高座に現はるべき人物なるも、文左衛門との縁辺に引かれ、故文枝死亡後相談を破り難く、三友派より再三交渉ありしに拘はらず、義理のため桂派に応援し居たるものにて、その桂派も今は寿々女会となり、搗(か)てゝ席元より背負ひ投げを食はされしクシャクシャ腹と、因(ちなみ)も前よりは薄くなれる折柄、同じムカッ腹の頭領枝雀が文句も言はず一人身を退きて暫く三友別派(編者註:此花館の三友派)に属せるにぞ、旧桂派の連中はこゝに革命を起し、圓馬が三友派に去らんとする意向あるを知るや、同人に随いて共に寿々女会を退かん決心を示せるが、圓馬は穏やかならずとそれを喜ばず、連中を戒め居たるに、横間からヒツコリ現はれたるがこの事を聞きし文左衛門にて、去る十五日自から斡旋の労を取り、その口添へによりいよ〳〵三友派に出勤の話が纏まり、看板も三友派落語家並びに桂派落語家と二つ並びに認め、桂派の名義もこゝに復活して円満なる合同の実を挙げ、来る十二月一日より各席を賑はす筈にて、寿々女会は残れる松鶴、馬生を中心にして奮闘する羽目に陥りしが、一方三友派(編者註:此花館の三友派)へはどうやら枝雀、小南光、文三、小文三も加入するらしく、来月(編者註:紅梅亭の三友派)はこの合同を機(しお)に例の病み付きから堀江明楽座に諸芸大會の催しをなすべしと。(大阪新報)
◇落語界の悶着
大阪の鼻鹿どもの悶着も久しいものだが、その結果、円馬、小文枝、燕枝、文之助、万光、千橘の六人、寿々女会を飛出し、十二月一日から三友派に巣を構える。かと思ふと、三友派からは松鶴、馬生の二人が跳出して寿々女会に躍込む。そこで前座連は給金を競上げるのは此の時をおいてあるべからずと、真打の尻を叩く。雀会だけに彼方でもチウチク、此方でもチウチク。(朝日)
◇落語界大悶着の裡面 劇界の松竹たらんとする原田
落語寿々女会に属する旧桂派の頭目三遊亭円馬、枝雀以下万光、小文枝、燕枝、市馬等が桂派の名目を侮辱されたるを憤慨し、且つは給金の不平より連袂して退去し、枝雀は大正派(三友旧派)に、他は悉く三友派に入りたることは既報せし所なるが、猶ほ未だ寿々女会に残りて日和を窺ひゐたる千橘、文之助の両人も更らに引続いて同派を去り、琵琶の中村春暁も亦遂に去らんとするものゝ如く、寿々女会は為めに二十余名の出方を引抜かれ、茲に於て旧桂派なる名義は事実上全滅したる事となりたるが、此裡面に就ては頗る込み入りたる理由あり。
曩に桂派が三友派より馬生、松鶴を引張り来り、桂派改め寿々女会と為したるについては、同派の元老たる枝雀以下に頗る不満にして、其給金の如きも新しき松鶴、馬生には毎月九十円を与へ、同派の功労者たる枝雀は僅に七十円なるのみか、桂派なる名目を踏潰して寿々女会と為したるより不平だらだらの折柄、三友派の元締にして南地紅梅亭の席主たる原田が、之亦曩に同派の藤原系に属する一派が同睦派の圧迫に堪へかねて分裂し、別に大正派を組織して原田と手を切りたるより、原田系に属する寄席は僅に紅梅亭、第三此花、六方館の各席に過ぎず、之のみにては到底原田が従来の如く威を揮ふ事能はぬ事となりしより、更に他方面に向つて野心を起し、落語界を一纏めにして己れの手より各方面の寄席に落語家を配分せんと密に企画する所ある由を聞込みたる旧桂派のものは、此時こそと連袂退去し三友派に向つて交渉を試みたるに、果して思惑通り原田の歓迎する処となりしものにして、一方寿々女会に於ては同派の立者若くは人気者の多くを取去られ、今は纔に馬生、松鶴、枝太郎等に依つてお茶を濁し居れるも、之れのみにては到底客を呼ぶ事能はぬより、三友派に対つて出演者の融通を申込むならんとは原田の思惑にして、斯くして原田は三友、寿々女会両派を一手に操る事の能(で)き得る次第なりと密かに待ち設け居れるが、然(しか)も寿々女会に於ては先に同派が近来振はぬ処より、三友派の裡面にひそむ者に手を廻し、三友派が寿々女会をも一手に纏めて呉れる意志なきやを伺はせたるに、毫も其意を示さゞりしかば、多少の改革を行はんとせし折柄とて幾分の意地となり、此上は如何なる事になり行くとも一旦脱走したる一派は勿論、三友派に対し融通を申込む如きは断然之を為さずとて、同派瓢亭、蓬莱館、あやめ館、永楽館の各席主は協議の上東京より数人の出演者を引来る事に決し、既に交渉を開始し、来月一日より新しき仕組みのものを見すべしと云ふが、又一方三友派に於ては、若し寿々女会が出演融通を申込まざる場合は多数の者を買ひ込みて持て余す事となるにつき、頻りに他の方法を計画し居り、先づ兎に角来月は堀江明楽座に於て落語家芝居を演ずる事に決定せしも、何事も見込み立たざるにより、脱走組には未だ手金を渡さゞるにぞ、二十名の者は寿々女会に対し尠からぬ借金を支払ふ能はざれば、出演もならず尚ほ頻りに悶着しつゝあるものの如し。(大阪時事11・24)
大正元年11月19日 大阪新報[広告]
❍當一日より連夜開演 南地法善寺紅梅亭 浪花落語三友派 幹部全員出演
交代連 東京下り三遊亭圓橘 引続出演旭市子 おなじみ鏡味小仙・小金
❍浪花三友派演藝場
桂枝雀 桂小南光 春風亭柳昇 旭天楽 外定連全部出演
船場平野町此花館 福島延命館 堀江廓賑江亭
❍浪花落語壽々女會 幹部全員出演
(交代連)少女浪花節林玉千代 常磐津浮世節綾の助・綾勢 剣舞居合術柳心斎正幸 三遊亭市馬 桂枝太郎
南地法善寺内蓬莱館 御霊境内あやめ館 空堀通澤井亭 北新地永楽館 新町瓢亭
❍十一月十五日ヨリ 昼席講談南陵、楳林、呑山、琴袋/浪花落語三友派幹部総出演/夜席 圓橘、文治、圓子、旭市子、圓太郎、圓若、小仙・小金、染丸、米團治、花咲、圓駒 天満天神杉之木
大正元年11月20日 大阪時事新報
◇寿々女会を脱したる円馬、小文枝、千橘、万光、燕枝等は三友派へ加入の相談纏り、十二月一日より紅梅亭、六方館以下の各席へ出勤と極る。
大正元年11月20日 大阪新報
◇遣ひ物の戸惑 寿々女会を飛出した枝雀が三友派別派に現はれると、目下病気休養中の松光に面(つら)ざしが似ているといふ慌て者があつて、松光贔屓が病気全快祝ひのため此花館の楽屋へ包物を届けると、受取つた枝雀が初めて間違ひと知り、大いに恐縮したが、返すに返されず、松光の宅へ持たして遣つて悄(しょ)げている格好が面白いと、これは楽屋の笑ひ種。
大正元年11月21日 大阪時事新報
<末広家扇蝶>
◇横腹に穴 三友派の末広家扇蝶が食道癌に罹つて自宅に苦しんで居るのも久しいものだが、到頭横腹に穴を開け、其処へ管を通して粥湯や薬を注ぎ込んで居るといふが、落語家が横腹に穴を開けては声が洩れるだらうなどゝ暢気な事を言つて居られぬ。頗る同情する。
大正元年11月22日 大阪新報
<桂枝雀>
◇黒腹の枝雀 枝雀が寿々女会を脱したなんて一寸落語になりそうな話だが、実は此男、洒落よりも欲気が一杯で、大正派からタッタ五百円で買収されたのだとは、これも大馬鹿の西の大関。
大正元年11月23日 大阪時事新報
◇居残り連中 落語寿々女会の居残り松鶴、馬生以下は返つて此際落語の改良を謀り、客受の可い趣向を執らねばならぬとあつて、爰許(ここもと)素敵の勉強振を見せて約廿五分間をも勤めるので見物は大悦びだといふ。尚新顔として元団九郎門下の仁輪加師小松屋市丸が軽口をやり、南地幇間の古手蝶マ吉なぞも御機嫌を伺つて居るげな。
大正元年11月24日 大阪時事新報
◇円遊決定す 三遊亭の一円遊が旅稼ぎの都合で師匠円遊を自称して居たが、東京で小円遊が正当の手続をして円遊の看板を上げて居るので、弟子同志が勢力争ひも褒められぬと、一円遊の方が一歩譲つて円遊の名前を手放しゝたのは当然の事を感心しておくのか。
大正元年11月24日 大阪新報
<四代目橘家圓喬死亡>
▲人情噺の打止め 扇一本咽喉三寸の人情噺を演じて當代第一流を許された東京落語界の大真打橘家圓喬は数日来風邪発熱の気味だつたが遂に肺炎を起して二十二日正午頃、四十八歳を一期として吹く凩に誘はれつ、遠い冥土へ旅立た。
▲故圓朝の秘蔵弟子 渠は本名を桑原清五郎といつて江戸の本所に生れ、七歳でモウ母方の縁者たる故三遊亭圓朝の門に入り、朝太と名乗て初舞台を勤め、音曲の傍素噺を初代圓橘に学び、漸次(しだい)に売込んで、中頃圓好と改め、明治十九年圓喬と改め、翌年真打格に昇進したが、圓朝は弟子の多い中でも渠を取分て可愛がり、蔭となり日向となりて教養した甲斐には、師匠の沒後その流れを汲む人情噺で嶄然一頭角を顕すに到つた。十八番はシンミリと情の籠つた物で、「牡丹燈籠」なぞは或る点において師匠以上と許されたが、生涯のお名残は十六日の夜、日本橋区人形町の末廣亭で演じた「心[真]景累ケ淵」の一席である。
▲縁故(ゆかり)の深い大阪 圓好時代には約五年間大阪神戸の各席を渡つて修業の効を積み、大阪の寄席が下足を預かるやうに改まつたは此圓好の主唱なので、随つてこの間に多くの京阪(かみがた)落語は渠の芸によつて東京化された。近くはそれから三十年振で昨年の六月、娘嬌子と共に道頓堀中座へ乗込み、得意の「塩原多助」を演じ、続いて落語三友派の各席へ出勤し「牡丹燈籠」「粟田口」「萩江露友」等を連夜口演したのが大阪のお名残で、中国、四国を巡業し神戸、名古屋と打納めて帰京の途に着いた事は今尚世人の新しい記憶に残つて居やう。
▲種々の趣味と嗜好 芸人の中でも取わけて多芸な男、芸事の方では本職の落語や人情噺以外に一中節は特に堪能で、菅野如扇と名取の別号があり、端唄にかけても小唄和扇といつて一方の家元格、読書の道は師匠圓朝に連れられて信夫恕軒翁の門に学び、俳諧も聊か故人永機宗匠に就て教えを受けた。試みに其の一二を拾へば、師圓朝の墓に詣でゝ「□にも淋しさを増秋の空」、左仲庵の死を弔ひ「昨日まで其様はなし桐一葉」。最(も)う一つ古陶器の道に精通し、茶器類の鑑定などもナカ〳〵旨い物だつたといふ。因に葬儀は二十六日に執行する筈だ。
大正元年11月27日 大阪時事新報
<寿々女会脱退組と紅梅亭三友派と顔繋>
◇鹿共の顔繋ぎ 桂派の同盟党を客分に招いた三友派の席主原田、浅野の両名は、之までの出方連と合併すると莫迦に頭数が殖ゑたので、一座の和合を謀る為め廿六日に博労町の魚利で顔繋ぎを遣つた。是で三友派と桂派も以前に復つて握手が済んだ体、然うしてこの三月以来中絶した落語日曜会を復活する事になつた。まこと復活して貰はぬと実際心細い。
◇馬生ぐらつく 寿々女会に踏止まつて奮励努力すると聞いて居た金原亭馬生は今度大正派とも云つた彼の寄席側へ引出されさうな形勢が慥にある。今更ソンナ事したら松鶴一人が惨な訳だ。ソレでは済むまいがなと躍起になつて居る者がある。
大正元年11月30 大阪毎日新聞
◇浪花三友派へ桂派の円馬、文之助、小文枝、市馬、万光、燕枝一連合同し、十二月一日より南地法善寺紅梅亭、松嶋六方館、松屋町東紅梅亭、天満杉の木等の落語席に出演す。
大正元年11月30日 大阪時事新報
<三友派桂派合同落語会>
◇三友派と桂派の落語合同会は紅梅亭(法善寺)、六方館(松島)、東紅梅(和泉町)、杉の木(天満)の四席に限り、一日夜より出演する事となり、桂派として新加入の顔触は円馬、文之助、小文枝、市馬、万光、燕枝以下五名。
〈編者註〉円馬らが寿々女会を脱して紅梅亭の三友派へ加入した当初、桂派の名も復活させ、三友派・桂派合同会の様な形式をとったようだが、新聞記事や広告などには単に三友派と書かれているだけである。杉の木の広告だけは「浪花落語三友派桂派合同大会」(12月1日より)と明記しているが、実態はどうであったのか詳細は不明。おそらく最初のうちだけ円馬らに花を持たせてのことで、これを以って桂派の復活というのは早計の極みであろう。
ところで、紅梅亭に楯ついて三友派を二つに割った張本人の杉の木(下村竹次郎)は、大正派と名乗って気勢を上げたが、二ケ月もせぬ間に離脱し、残った此花館ほか三席は大正派の呼称を廃し、元の三友派に改称、三友派が二つできる事態となった。杉の木は単独で興行、広告(11月15日)を出している。しかし単独の興行は経営的に苦しく、紅梅亭に頭を下げて芸人を廻してもらったようだ。そして来年一月一日より正式に紅梅亭の三友派に所属(復帰)を許されている。まさしく大阪落語界の掻き混ぜ男である。