大正1010 大阪の寄席案内

◇三友派

十一日より紅梅亭へ山雀の演芸(松島社中)、日本手品(吉田菊五郎一行)。

 二十一日より紅梅亭へ貞山長演会。

三十一日より紅梅亭、あやめ館にて落語角力、奇術正光、掛合染五郎、小半。

◇吉本花月派

一日より各席へ伊藤痴遊、浅草の人気者湊家小亀一行、古今亭今輔、睦会春風亭柳好、マリニー木村靖子。

九日正午より南地花月亭にて今輔独演会。骨違ひ、人は武士、囃子長屋、三人片輪。

十一日より各席へ古今亭今輔、春風亭柳好、江戸生粋滑稽茶番湊家小亀一行、伊藤痴遊、読心術大魔術の木
  村マリニー一行。

 二十一日より各席にて東西落語幹部競演会。大阪連米団治、小文枝、五郎、枝太郎、枝雀、春団治、ざこば、文団治、東京連残月、馬きん、円歌、千橘、円遊、喬の助、江戸生粋茶番湊家小亀一行。

大正10101 神戸又新日報

[広告]新開地千代之座/當ル十月一日より午後五時開演 特別大演芸會正調安来節松江お糸一行 浄るり音曲英国人ハレー 民国人夏雲起一行 大魔術ウワンダー正光 江戸生粋音曲巴家寅子 

落語舞桂三木助

大正1010月4 大阪毎日新聞

◇[広告]特別大興行 

大正10年 003

十月東京交代連 東京落語泰斗古今亭今輔、読唇術ト大魔術マリニー一行、東京落語花形春風亭柳好、江戸生粋茶番湊屋小亀一行、通俗講談伊藤痴遊

寄席始まつて始ての試みを公開す 當ル九月四日ヨリ連夜 東宮殿下奉迎実況 横浜埠頭=東京駅

出演席 京町堀三京三倶楽部、浄正橋北詰福島花月、千代崎橋西詰松島花月、北新地花月倶楽部、南地花月

大正10104日 九州日報

<橘家圓太郎一座・博多川丈座>

グラフィックス2[広告]東京落語演芸幹部揃/蓄音機に小圓太節と称し持て噺されつつある橘家小圓太 曲芸界新進の人気者曲芸師海老一直造 西川流家元代稽古西川流舞西川古位川 東京落語の大家十数年来京阪の人気を独占し今回初旅の橘家圓太郎

大正10105日 九州日報

◇川丈座(博多) 東京落語界の人気者橘家圓太郎一行幹部揃いにて来博。愈々五日より五日間開演。初日幹部連の番組左の如し。

声色歌舞伎(長楽)西川流舞松島(古位川)干物箱並ニ音曲(小圓太)假屋殺し並ニ即席(扇枝)曲芸(海老一)掛取萬歳(圓太郎)

<編者註>圓太郎一行は、18日からも川丈座で興行。番組は下記の通り。

106日:声色歌舞伎(長楽)西川流舞勢獅子(古位川)音曲噺替り目(小圓太)抜け雀並ニ即席(扇枝)曲芸(直造)小言幸兵衛(圓太郎)

107日:声色歌舞伎(長楽)官業芸者並に音曲(小圓太)西川流舞(古位川)猿後家(扇枝)曲芸(直造)お見立(圓太郎)

109日:豊後老松(古位川)たらちめ並に音曲(小圓太)百年目(扇枝)曲芸(直造)芝浜(圓太郎)

1018日:西川流振事(古位川)改良ぜんざい並に音曲(小圓太)立切れ線香に即席(扇枝)曲芸(直造)宮古川(圓太郎)

1019日:西川流舞(古位川)飴屋並に音曲(小圓太)紺屋高尾(扇枝)曲芸(海老一)三人片輪(圓太郎)

1022日:西川流舞(古位川)親子茶屋(小圓太)お菊仏壇(扇枝)曲芸(直造)成田小僧(圓太郎)

大正10106 京都日出新聞 

◇痴遊独演会 新京極富貴にて九日正午より開演。

大正10107日 神戸又新日報

<新開地三笠旅館>

やつこ西店跡に奈良丸が旅館 浪界の大成金吉田奈良丸が二十六万円で新開地やつこの西店跡を買受けて以来三越の支店になるの、白木屋の分店になるのと種々の噂を生み奈良丸が売の鞘でボロ儲けをするが如く信じられていたが事実はそうでなく、奈良丸が興行先の各地で積んだ経験に鑑み理想的な旅館を経営する考えであつたそうで諸般の準備が愈々整い五日から目出度く開業に及んだ。旅館は仲町に面した一区画。そして、旅館の名前は奈良丸が奈良県生まれであるので奈良の「三笠山」に因み「三笠」と命名したが、前の所有者やつこの主人の姓が「春日」で是にも因んで居るのが面白いと奈良丸大自慢。尚、新開地中央の道路に面した棟はビルデング式のものにするとかで目下準備中。

大正10108 京都日新聞

◇林家染丸が版元となつて浪花落語の見立番付を作つて送つて来た。同好者の捨て難い珍品、落語界の宝物! 浪花落語とあるものゝ、有ゆる落語の外題を集めて番付にしたもの、その種類は殆ど七百を超ゆるには驚いた。芸人中で落語家として徹底するには可なりの苦心と、人並ならぬ修養の必要な事は舌一枚の資本丈に六ケしい。

大正10109 大阪毎日新聞

◇[広告]興行部新設披露 

当興行部ハ這回新ニ余興部ヲ設ケテ諸会社慰安、団体宴席等各種余興ノ御依頼ニ応ジマス

一、余興部ニハ有ラユル芸人ヲ専属シテアリマスカラ如何ナル大々宴会ト雖モ他ノ余興屋ノ為シ能ハサル安価ニテ権威アル一座ヲ提供致シマス

一、御指定ニヨリテハ東京ニ在ル芸人ト雖モ最モ迅速ニ呼ビ寄セ御希望ヲ満シマス

一、部内ニハ兼テアクタ式活動写真機ヲ設置シテアリマスカラ御家庭其他何処ヘデモ、フヰルム機械等持参 弁士技師出張、軽便安価ニ映写モシ撮影モ致シマス

大阪市南区笠屋町四五電南四一一九番 吉本興行部余興部

大正10109 京都日新聞

○猫イラズを呑むだ笑福亭円三郎 此世の見納めと覚悟して 宮川町で無銭遊興 

七日午後九時頃、宮川町二丁目貸座敷福山楼に登楼した二十四五の男は芸妓数名を揚げて大騒ぎをやり、同十二時頃十六円の勘定を請求すると、金なんか如何なつたつていゝぢやないか、金は天下の廻りものだと酔つて口から出任せに他愛なく、どうやら懐中には鐚一文も所持しない様子に、同家では棄てゝも置けず、斯くと所轄署に訴へたので、八日午前二時半頃、松原署に本人は引致されたが、原籍大宮仏光寺下る笑福亭円三郎事下村弥三郎(二四)と言ひ、佐渡より富山と巡業して此程京都に流れ込んだが、どうも高座で面白可笑しいことを噪舌つても自分は金廻りの悪いので一向面白くなく、旅芸人の悲しさには大してよいパトロンの出来さうにもなく、兎角浮世が厭になつてまだ二十四の若い身空で死にたいとのみ願つているといふ。ホント社会の不用人だが、よし死ぬにしても人間廃業の記念に酒を飲んで若い女とキヤツ〳〵と言つて終局を告げたいと、懐中には無一文を承知で前記の始末と申し述べ立てたが、本日午前7時半頃留置場で苦悶し始めたので、上妻医師を招いて応急手当を施したが、苦しい息の下から昨夜猫イラズ十瓦を嚥下したことを自白したが、往生際の悪いと見えて苦悶し乍ら死に切れず、取り敢ず行旅病人として下京区役所に引渡した。

大正101010日  

<四代目桂文三死亡>

●四代目桂文三 本名高田卯之助。明治十九年生。三代目桂文三(高田留吉)の実子。十八の時に父の弟子二代目桂扇枝を頼って神戸に行き、父に内証で高座にでたが、すぐにばれて、改めて正式に許可をえて小文吾(四代目)を名乗り、京都で修業した。明治三十六年ごろに小文三と改名し、桂派各席に出勤した。明治四十一年五月に父文三が桂派を除名になり、京都の三友派へ移ったとき、小文三も同道し、以後新京極の芦辺館を根城とし、日曜会(三友派の勉強会)にも多数出席して落語の修業に励んだ。大正六年に父文三が死亡したあと、大正十年四月に芦辺館で二代目林家染丸、家元桂文治列席のもと四代目文三を襲名した。父文三にも劣らず、高座はしっかりしたもので、貫録も出来てきて、一席のあとの音曲や踊りも好評で、さあこれからという時に急逝してしまった。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)。

〈編者註〉大正101013日付「京都日日新聞」のコラム「机上偶語 鬼仏庵(二二四回)」に文三の死が採り上げられている。

「三代目[ママ]文三は十日の晩にコロリと死んだ。酒と女に浸つていた。病気は脱腸の手術である。亨年四十五歳。ツイこの間文三の襲名披露をしたばかりである。本名高田卯之助。十八の年に親父に内密で神戸に行つて扇枝[二代目](今の先斗町今常主人)の弟子となつた。それが親父(二代目[ママ]文三)に知れて、いよ〳〵正式に舞台に出る様になつた。若い時分から模範前座と云はれた位の器用さであつたが、近来は益々親父そのまゝ、鬼子ではなかつた。死ぬ二日前迄は平日の通り高座を勤めていたさうだ。今年の五月に京都に来たときに鴨涯の旗亭で大きなコツプで痛飲したのが、私とは最後の会見であつたが…人間ほどモロイものはないと、又一つ無常を感ずる種がふえた。(後略)」

〈編者註〉大正1058日、芦辺館の日曜会で「愛宕山」を演じている。

大正101011 京都日出新聞

◇富貴席 十一日より助六、桃太郎、米団治、馬琴、枝太郎、千橘、春団治等の花月連幹部、並に少女長唄杵屋初子、道子、義太夫小京、団勝等出演。

〈編者註〉十月十四日付「京都日日新聞」に「竹本小京 今から一ト昔も前京極の錦座(夫は今の中座のあるところ)其他の寄席に出演した事のある竹本小京は此頃富貴席に落語家などゝ一所に出演しているといふことを聞いた」とある。

大正101013 京都日新聞

◇黙雷師と文之助 この頃高台寺の入口に「高台寺」と彫つた石碑が建立された。施主は桂文之助即ち文之助茶屋のあるじである。この文字は建仁寺の黙雷和尚が特に楷書で雄筆を揮つたものである。人も知る黙雷和尚は隷書より外には書かぬ人であつたが、特に文之助の為めに半年間のタイムを考へて筆を下した。その文之助が今におき引退興行をせないと云つて、それを非難するものがある。処が文之助にして見ると、引退興行と云ふものは徒らに世間の御ヒイキに御迷惑をかけるばかり、と云ふので、三年越に、高台寺の入口にベラ棒に大きい石碑を建立したのである。この心掛けをもつている事は、現代の芸人気質を超越している。引退興行をすれば文之助の懐中には多少の金は残るだらうが、それよりは高台寺の石碑を建立した事は末代にのこる。人は死して名を、虎は死して革を、落語家死して借金をとも云へなくなつたのは文之助の功績であらう。

大正101015日 『寄席』第十六号

◇「東海道から」(十月八日の夕東海道吉原の宿鯛屋旅館にて・大森勝)

 …花月派へは伊藤痴遊、今輔、柳好、小亀一行が交代連として出て居ます。はげ亀の名も見えて居ましたが、私が南の花月席へ行つた夜は出ませんでした。久振りで軽妙な芸を見やうと思つて居たに残念でした。伊藤痴遊は二日に南の花月で独演会をやりました。平沼専蔵の死と安田善次郎の死外三題、今輔は九日独演会、囃し長屋外三題。

三友派の本城紅梅亭は花月の東京式に対して以前[依然]として大阪式で、林家染丸が終りに怪談秋の夜話と題して余興を出して二役早替りで、好い心持さうにやつて居ます。而して花月派の盛況に対して三友派の不況は真に同情に堪えません。純大阪落語研究に努力して居る三友派を平家の人々にたとえる人がありますが、私はそれは云ひたくありません。真に研究して時代に遅れない落語が多く出る事を楽しみにして居ります。(後略)

大正101015日 京城日報

<圓馬・圓合同一行・朝鮮浪花館>

[広告]東京落語歌舞音曲/三遊亭圓馬 橘の圓合同一行/當る十月十五日より開演 浪花館

大正101016日 京城日報

[広告]明治町 電話二六〇番 浪花館/當る十月十五日より東京落語大立物 三遊亭圓馬、橘の圓合同一行/落語音曲(桂喜雀)滑稽掛合(社中)女流落語(橘の左近)滑稽落語(柳亭東蔵)落語音曲(橘の圓雀)落語手踊(五明楼春輔)落語舞(橘の圓)落語舞踊(三遊亭とん馬)人情はなし(三遊亭圓馬)

大正101020 京都日日新聞 

<京都日日新聞第六回読者招待演芸会・十月十八日・岡崎公園市公会堂>

◇(三遊亭三次は伊勢参宮の落語を面白く聞かせ満場の顋を解かせつゝあり、その)あとへは福之助クンがあてものゝ落語で大受け、白鶴クンの蒲団廻しは珍品、その次は色男小染君が愛嬌のある処を聴かせて引下る。続いて遊枝、遊楽が軽口は滑稽味の横溢したもので垢抜のした気の聞いたものである。次には当日の呼物たる喜劇「若返り法」は東西屋(円歌・福松)妾(枝女太)旦那(三八)医師(川柳)助手(福円)書生(扇太郎)看護婦(三次)若旦那(小染)の連中で、目下評判の九大研究若返り法を骨子として首の継ぎ替と云ふ滑稽をあしらひ、三八君の太鼓腹は実に天下の絶品として見物中に泣いて笑つた人あり。枝女太君の妾は美しく、川柳君の先生は真面目なのに重味をつけ、福松君の助手は筋を運ばせる唯一のくさびとなる。其他の役々それ〴〵活躍して殆どお臍の宿替をする如き感があつた。福松君の落語は老功に、その踊の「逢ひたさに」に至つては一寸他に類がない。円歌君の音曲は意気な咽喉に満場感心する。大切の喜劇キユーピーさんは三八君の銅像模型が実物そのまゝ、円笑君の技師、福円、小染両君の大工は勿論、枝女太君の壮士に至る迄寸分の隙のない出来、満場大喝采裡に午後五時昼の部和終る。

大正101022 大阪毎日新聞

◇[広告]本日ヨリ連夜

落語花月連 秋季幹部会 北新地・松島・南地花月亭

出演者 小文枝、ざこば、春団治、五郎、文団治、枝太郎、米団治、枝雀、紋右衛門、円遊、馬きん、残月、千橘、円歌、喬之助、円太郎、湊家小亀一行

大正101022 京都日出新聞

◇富貴亭二十一日より出演者左の如し。

枝太郎、円若、文次郎、桃太郎、文雀、春風亭柳好、古今亭今輔、其他国際的大魔術東洋唯一読心術木村靖子嬢・マリニー一行の特別出演。

大正101024 京都日日新聞

◇富貴席 本日正午より春風亭柳好、古今亭今輔の二人会開催。

◇芦辺館は二十一日から喜劇「大風呂敷」を余興でやつている。一人一役の立ち落語とも聞かれて抱腹絶倒だ。

大正101026日 香川新報

<圓馬、圓合同一座・高松大和座>

大和座 二十七日より四日間日延べなしにて東京落語名流襲名披露興行として当代新進随一の三遊亭圓馬一行補助として橘の圓を差し加え花々しく開演する由

大正101027 京都日日新聞

◇福松の襲名 芦辺館の福松は従来二代目福松を名乗つていたが、今回三友派に復帰したと同時に京都で正式に襲名披露する事となつて、二十六二十七の両日その披露をかねて福松後援会の大連が詰めかけると。

大正101028 京都日日新聞

<二代目笑福亭福松を襲名>

◇芦辺館に出演の福松は今度いよ〳〵二代目福松として正式にお剃刀を頂いた事になる。落語に手踊に巧な男だ。落語社会は落語社会の習慣がある。薄紙に包まれていた福松はサラリと光つた福松となつた。男はこれが必要。襲名披露の第一日は割れる計りの大入満員。福松の人気もドエライものと思つてもよいが、席主を拝んで置け!

大正101031 京都日出新聞

◇安来節の都会化 渡辺お糸一行

「お聴かせ申すもいはもじさまよ、田舎仕立の安来節」とは、今夷谷座に出演中の家元渡辺お糸の唄ふ所だ。其田舎仕立がドエライ勢ひで旧都会趣味を圧倒しつゝあるから不思議である。安来節は相変らず全盛で、今では一座も却々(なかなか)多い。中には随分貧弱なのもあるが、流石家元を看板に振り翳してをるだけに此一座などは粒は揃つてをる。それにいくら名物でも安来節の一点張りではと鴨緑江節の手踊りとか、関の五本松てな景物沢山で賑かに御意を伺つてをる。余り盛りすぎて萬歳、落語迄あるが、是等は却て感興を殺ぐ。「鴨緑江節」は何処か山陰気分に副(そ)ふのか、一寸味な唄廻しに異色があり、夫に「関の五本松」はシンミリした中に野趣横溢の点が面白かつた。然し呼物の「鰌すくい」は踊子連意外に都会化して上品振つてるので、スッカリお座敷芸となり、肝腎の出雲情緒は何処へやら、洗練も程度が過ぎて本跡を滅却した形だ。「安来節」や「鰌すくい」の旨味は矢張おはもじくとも田舎仕立其儘の所にあり乎。流石にお糸は此点を心得てるが、一座の若手は衣裳の好くなつたと同時に悪く都会化しつゝあるのは心許ない。(鯉)

大正101031日 神戸又新日報

[広告]千代之座 御代之座當ル三十一日より連夜開演 落語大演芸會(出演者連名)米昇、圓都、春輔、扇遊、萬冶、正楽、夏雲枡、夏雲風、夏雲起 (新加入)吉奴、妻奴、かしく、鶴蔵、一圓、五明楼、歌路、残月楼、東蔵(長講口演)三遊亭圓馬(余興安来節一行)
  ❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖

大正10111日 『寄席』第十七号

◇「大阪から」(十月二十一日夜・大森勝)

 …寄席の方は花月派は痴遊、今輔、柳好、小亀が引続いて出勤。柳好はなか〳〵評判がよろしうございます。私が南の花月亭へ十八日の夜に入つた時は露の五郎が踊つて居て、後が柳好でした。幇間の酔ぱらひで非常に大受で高座に祝儀袋が飾られました。その後が枝雀、此人一流の大阪落語にて笑わせ、それから音曲の円若、後が痴遊で星亨の話を長講しました。後が安来節、それから小亀連、親が死んだと云ふて居ました。後が今輔で「三人片輪の女郎買ひ」を面白く聞かせ、切りは紋右衛門の豊竹屋を紋十郎相方の踊りにて打出し。十八日より大阪の商店はせいもん払とて表が賑やかな故か、一寸客足は薄かつたやうでした。

 それから三友派の紅梅亭へ二十一日から一龍斎貞山が出演しました。初晩に行きましたのが八時一寸すぎで、補助の米之助、小はん、円枝、女道楽、枝鶴、円坊がすんだ後で林家染丸が「電話室」をやつて居ました。円窓とはちがつた大阪の詞でやるのが又面白く聞かれました。場内一杯の入りで美くしいのが多く見えた。後が貞山で、最初「近江文治」一時間の長講で仲入、あとが得意の「義士伝」忠臣二度目清書、寺阪吉右衛門が討入の話のあたり、場入[場内]はシーンとして方々にすゝり泣きの音が聞こえました。貞山が大好評で隣りの花月が痴遊との取組は面白からうと思つていたら、小亀だけ残つて後は花月大阪連全部の顔ぞろい興行とは一寸皮肉のやうな気がしました。

◇「京都から」(娯造園主人)

 …十月の京都は例年の茸狩りの季で、どちらかと云ふと先づ寄席は七八分の入りと云ふのですが、別けて今年は九月が霖雨で茸の発生も早く豊富で有るので、人出も中々盛んだ。然し反対派落語花月連の富貴席は少しも茸狩りには知らぬ顔で、殆んど満員ツヾキはかけ値の無ひ処で、茸狩に驚かぬから所謂破竹の勢と云ふので有ろう。尤も同派の笑福亭が七月以来安来節の本城と成つて同派専属の安来節が四五組も有つて、連月大阪から交代して昼夜二回興行を続けて、同派の落語は新京極に一席の故も有り升うが、大全盛を極めて居り升。其れと反対側の三友派の芦辺館は十月から大阪の手も吉原派の関係も絶つて、同館独立特別会計と成つて、同派の旧来の京都連中へ例の反対派の花月連から分離した円笑一派が専属となり、目下は端席の掛け持もなく孤軍奮闘を続けるも、連名は替り合ひまして替り栄へも仕りません同一の顔ぶれなれば、ハヤ富貴の花月連の敵とも思へぬと考へ升。

 引き替へて花月連は三友派の掛持席の堀川の春日亭からの懇望で同席もかけ持をなし、西陣富貴、千本の長久亭に大宮の泰平館の五席と、十一月からは本町の第二富士の家、伏見の常盤館開場、大津の梅の家も同派系と成り、京都が八軒と相成り升。(後略)

◇「横浜から」(横浜新富亭にて・阿呆百笑)

浪花落語反対派花月連の九州巡業 花月連の太夫元吉本興行部では大阪、京都の外に豊富なる定員の外に新顔を加へ、奈良其外近郊持席の他に第一及び第二旅行団を編成して、第一団は博多の川丈座其外提携の各地へ月交代に巡業せしめ、十月は円太郎、小円太、扇枝、直造外十有余人。十一月は円遊、五郎、柳丈外十余人。右の如く連月交代せしめ、第二団は十日毎に交代して当時を梅香、天賞其外に賑ひの一座十五人。

吉本興行部の発展 関東方面へも手腕を伸ばし、先づ横浜の新富亭を買収して大阪風の改築装飾を成して連月座員を交代せしめ、次いで名古屋へも専属席の設計中なり。

 柳亭左楽師が吉本興行部の出雲芸妓一行を引つれて大一座の文楽、りう馬、痴楽、歌六、やなぎ、当地出身の愛嬌者百面相の鶴輔、それから前名は失念したが今度左楽にわびが叶ふて喜楽と改名した達者ものと、出雲連中に松本庫吉と云ふ三味線及尺八腕達者、追分の名人高倉米太郎、石川嘉鶴と云ふ三味線も居る。唄はおかる、小蝶、民子、一奴、踊りは今年十五才の鶴子、十三才の亀子、末子、とん子で、殊に出雲名所実写活動、毎夜七百の入りとは此の不景気に恐れ入つた次第(中略)安来節連中で仲入(中略)ビリケンの手先のきれいな処で大切に総出のどじよすくひでお別れ。