昭和191

大阪の寄席案内

一日より

△南地花月 桂文治郎、小福・小夜子、一陽斎正一、夢若・光晴、西村小楽天、雪江・五郎、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、立花家千橘、文雄・静代、花月亭九里丸、神田伯龍、柳家三亀松。【広告参照】

十一日より

△南地花月 桂小雀、朝江・水月、笑福亭枝鶴、雪江・五郎、三遊亭小円馬、寿郎・志津子、アダチ龍光、天津羽衣嬢、立花家千橘、結城孫三郎一座、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、柳家三亀松。【寄席ビラ参照】【広告参照】

二十一日より

△南地花月 桂小雀、幸福・美津枝、一陽斎正一、小福・小夜子、三遊亭小円馬、雁玉・十郎、蝶々・マサル、花月亭九里丸、柳枝・道風、立花家千橘・元女・小秀、笑福亭松鶴、夢若・光晴、雪江・五郎。【広告参照】

〈編者註〉三代目立花家千橘が吉本に復帰している。昨年死亡した二代目桂三木助の替りとして招聘されたようだ。なお広告は大阪朝日新聞を使用した。掲載の日付は煩雑をさけるため省略した。三十一日初日の広告は翌月の最初に配列した。広告は南地花月と北新地花月倶楽部を併記しているが、出番順は南地花月のものである。

19年 00119年 00219年 003
















昭和
19111
日よりの南地花月のプログラム(表・裏)

19年 021

19年 020
〈編者註〉「藝能懇話」第十九号(平成20年)より転載。


昭和
192

大阪の寄席案内

一日より

△南地花月 桂小雀、笑福亭枝鶴、正二郎・蜂郎、五九童・蝶子、花月亭九里丸、立花家千橘・小秀・元女、雪江・五郎、西村楽天、寿郎・志津子、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、春風亭柳好、文雄・静代。【広告参照】

十一日より

△南地花月 桂小雀、桂文治郎、唄治、糸治、一陽斎正一、柳枝・道風、笑福亭枝鶴、蝶々・マサル、花月亭九里丸、太郎・菊春、五九童、蝶子、笑福亭松鶴、夢若・光晴、雪江・五郎。【広告参照】

二十日より

△南地花月 桂小雀、一郎・小雪、蝶々・マサル、桂円枝、市松・芳子、花月亭九里丸、夢若・光晴、神田山陽、五九童、蝶子、立花家千橘・元女・小秀、文雄・静代、雁玉・十郎。【広告参照】

昭和192月   

<林家染八死亡>

死亡噺家 005●林家染八 本名金谷伊太郎。生年未詳。四代目笑福亭松鶴に入門して鶴瓶、のち二代目林家染丸の弟子となって染八を名乗った。以後師匠も変えず、名前も変えず、最後まで吉本に所属し、長年高座を勤めた。社会人としては品行方正そのものであるが、その性格は噺家には向かず、ほとんどを前座で過ごし、ついに名を上げることは出来なかった。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)。



昭和
19
27 京都新聞

<新京極笑福亭が廃館となる> 

〇笑福亭閉鎖 京都の興行街で最古の寄席として馴染まれていた新京極笑福亭(吉本興行経営)、時代の波とともに興行街から姿を消すことになつた。

同席は昭和九年誓願寺の寄席として初め松福亭の名で竣成、同二十二年落語専門の寄席として笑福亭と名を変へ、ひと頃は相当賑はつた最古の寄席であつた。先月末から休館中のところ、いよ〳〵吉本の手を離れ閉場することとなり、五日から小梶支配人の陣頭指揮によつて取壊作業を急いでいるが、舞台裏の物置きから差しわたし六尺の大太鼓や招き櫓が現れたり、大正三年の興行帳が出て一月一日の入場料収入、昼席十四円十八銭、夜席八十四円十一銭──と古い記録も見られ往時の殷賑さを物語つている。

笑福亭廃舘の弁を吉本興行部の一田進氏(花月劇場支配人)に訊く──

落語や演芸などの出演者が名誉の応召や応徴のほか、産業戦士として転向して行つたので、残つた芸人を適切に配置して花月劇場、富貴に主力を注ぎ、質的にも本当の慰安を一般市民に贈るべく笑福亭を廃舘することにしました。

19年 00419年 00519年 006
















昭和
193

大阪の寄席案内

一日より

△南地花月 桂小雀、アダチ龍光、房春・鶴江、桂円枝、正二郎・蜂郎、雪江・五郎、笑福亭枝鶴、立花家千橘・小秀・元女、蝶々・マサル、雁玉・十郎、笑福亭松鶴、夢若・光晴、文雄・静代。【広告参照】

十一日より

△南地花月 桂小雀、クレバ・新治、繁子・麗子、柳家三亀坊、太郎・菊春、笑福亭枝鶴、夢若・光晴、柳枝・道風、桂小文治、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、立花家千橘・小秀・元女、雪江・五郎。【広告参照】

二十一日より<南地花月最後の出番順>

△南地花月 桂小雀、桂文治郎、水月・朝江、寿郎・志津子、笑福亭枝鶴、繁子・麗子、文雄・静代、花月亭九里丸、夢若・光晴、一陽斎正一、笑福亭松鶴、雪江・五郎、柳枝・道風。【広告参照】

昭和19321日 大阪毎日新聞

<南地花月が四月一日より閉鎖>

(前略)大阪では道頓堀の演芸場法善寺の「南地花月」、映画館「名画劇場」、千日前の演芸演劇場「大阪花月劇場」、映画館「歌舞伎座五階映画劇場」および新世界の演劇場「南陽演舞場」、同「欣楽座」(世界座)、映画上映場「日本倶楽部四階日劇会館」の七興行場を四月一日から閉鎖することに決定。名画劇場、南地花月、大阪花月劇場の三ケ所と新世界の三興行場中一ケ所(未定)の建物は取りこはして防空小空地あるひは待避壕、貯水槽などを構築する。(後略)

〈編者註〉四月よりは北新地花月倶楽部の広告が掲載される。なお大阪花月劇場の閉館は411日に取消しとなり、9月上席から再開している。

19年 00719年 00919年 010
















昭和
194

大阪の寄席案内

一日より

△北の新地花月倶楽部 桂円枝、桂文治郎、柳家三亀坊、笑福亭枝鶴、柳枝・道風、立花家千橘・元女・小秀、花月亭九里丸、五九童・蝶子、夢若・光晴、笑福亭松鶴、文雄・静代。【広告参照】

十一日より

△北の新地花月倶楽部 桂小雀、柳家三亀坊、笑福亭枝鶴、夢若・光晴、寿郎・志津子、文雄・静代、立花家千橘・元女・小秀、五九童・蝶子、アダチ龍光、笑福亭松鶴、花月亭九里丸、雁玉・十郎、雪江・五郎。【広告参照】

二十一日より

△北の新地花月倶楽部 桂小雀、桂円枝、八郎・柳子、桂文治郎、蝶々・マサル、立花家千橘・元女・小秀、小福・小夜子、一陽斎正一、雪江・五郎、笑福亭松鶴、文雄・静代、太郎・菊春。【広告参照】


19年 01119年 01219年 013















昭和
195

大阪の寄席案内

一日より

△北の新地花月倶楽部 桂小雀、桂文治郎、幸福・美津枝、アダチ龍光、桂円枝、柳枝・道風、笑福亭枝鶴、五九童・蝶子、笑福亭松鶴、夢若・光晴、立花家千橘・元女・小秀、雁玉・十郎。【広告参照】

十一日より

△北の新地花月倶楽部 クレバ一行、桂文治郎、花蝶・勝美、市松・芳子、花月亭九里丸、雁玉・十郎、小福・小夜子、立花家千橘・元女・小秀、一陽斎正一、夢若・光晴、笑福亭松鶴、雪江・五郎。【広告参照】

二十一日より

△北の新地花月倶楽部 桂小雀、八郎・柳子、桂円枝、房春・鶴江、立花家千橘・元女・小秀、一蝶・美代子、太郎・菊春、アダチ龍光、笑福亭松鶴、蝶々・マサル、花月亭九里丸、雁玉・十郎、文雄・静代。【広告参照】

三十一日より

△北の新地花月倶楽部 桂円枝、菊丸・照子、花月亭九里丸、笑福亭松鶴、雁玉・十郎、立花家千橘・小秀・元女、正二郎・繁子、神田伯龍、文雄・静代、西村楽天。【広告参照】

〈編者註〉北の新地花月倶楽部は昭和二十年三月の大阪大空襲まであったとは思うが、これ以降広告が出なくなる。ほかに知るすべもなく、とりあえずこれにて「大阪の寄席案内」」は閉じる事にする。

19年 01419年 01519年 01619年 017
















昭和1962日 

<笑福亭里鶴死亡>

死亡噺家 006●笑福亭里鶴 本名長谷川末吉。生年未詳。三代目笑福亭松鶴晩年の隠し子とする説もあるが、実際は甥で、急死した兄弟の子を赤子のときから引き取ったらしい。四代目笑福亭松鶴に預けられお多福、のち竹枝となりその後里鶴となった。よく修業したが、漫才の擡頭をうけて昭和二年に吉本を去り、神戸の寄席やラジオに時々出ていた。五代目笑福亭松鶴が楽語荘を設立したとき、早くからそれに加わり、方々の公演に参加した。「按七」「吹替息子」「紙屑屋」などが得意で、「華やかさのある高座ぶりで、深く聴く噺ではないが、よくわかってとっつきがよい」と評された。松鶴累代の墓がある大阪寿法寺(紅葉寺)に葬られている。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)。


昭和
19715日 

<桂米若死亡>

●桂米若 本名尼崎米吉。明治十四年生。『落語系図』には初代桂文団治門人「米若 俗に赤いもの米若と云ふ」とあり、二代目桂文団治門人「米若 玩三の兄なり」とあるが、この米若との関係は不明である。色物中心の大八会に属し、二代目桂玉輔、林家染三とともに数少ない落語家として活躍した。大正十五年一月十七日に初期のラジオ放送で「正月丁稚」を演じ、レコードも数枚残しているのをみると、相応の噺家だったことが推測される。昭和十年頃糖尿病で足が不自由になり高座を引退、不遇のうちに晩年をすごし、心臓疾患で急死した。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)。


昭和
19812日 

<林家染三死亡>

死亡噺家 1●林家染三 本名則包長太郎。明治二十三年生。二代目林家染丸に入門し染三となる。しばらくして色物たくさんの大八会に入り、二代目桂玉輔、桂米若らと数少ない落語家として重宝された。大正末年に大八会が瓦解したのち吉本興行に入り、同派の若手として活躍したが、吉本の方針に不服だったのか昭和四年にやめてしまった。その後ラジオなどに出ていたが、五代目笑福亭松鶴が楽語荘を組織するや直ちに馳せ参じ、毎月の「上方はなしを聴く会」には欠かさず出席し、五代目松鶴を大いに助けた。芸風は線が太く、率直で粗削りと評されている。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)。
昭和
19826日 大阪毎日新聞

○笑ひの配給 渋沢秀雄  

先日寄席へいつて訓戒調のないのにわが意を得た。今さら寄席で国民の覚悟を教はらなければ働かないやうな、そんな呆けた人間はいないからである。 一日の勤労を終へて何のわだかまりもなく笑ふことができれば明日への勇気がおのづから五体に充電される。それは昼間の出来事に魘されないで熟睡するに似た健康状態だ。神経衰弱者はまづ笑はなくなる。

若い勤労者が一人で笑つていては勿体ないとばかり、同伴者の肩を敲いて互に腹を抱へる寄席風景に接すると私はもつと中継放送をふやして、全国へ哄笑を配給して戴きたくなる。「高天原動りて八百万神共に笑ひき」古事記は何といふ豪宕な精神であらう、然もそれが「常夜徃く」真闇の中の笑ひなのだ。そしてこの笑ひこそ、天石戸から御光をお迎へ申上げる第一歩をなしたのであつた。(筆者・東宝株式会社会長)

〈編者註〉この寄席はおそらく北の新地花月倶楽部のことであろう。


昭和
19
9

一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は笑福亭松鶴、

二十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は笑福亭枝鶴と笑福亭松鶴。

三十日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴。

〈編者註〉9月から再開した大阪花月劇場の広告に漫才、バラエティー等に混じって桂花団治、笑福亭枝鶴、笑福亭松鶴の名前が見える。漫才その他の出演者名は省略し、以降彼等の名前のみ記録しておく。桂花団治は二代目で、前名花治。一時舞台俳優をしていたが、五代目松鶴のすすめで二代目花団治を継ぎ、落語に復帰した。北の新地花月倶楽部の情報がないので一概にいえないが、この三名だけが最後まで吉本の席(劇場)に出続けた噺家ということになる。

昭和19924日 

<二代目桂円枝死亡>

19年 022●二代目桂円枝 本名永岡辰之助。明治十三年生。父は軽口の笑福亭鶴八。初代桂小文枝(三代目文枝)に入門して二代目枝之助を名乗る。日露戦争に従軍し、陣中で落語をやって人気者になり、連隊長の薦めで後備八聯隊の名をとって後八と改名した。明治三十九年に高座に復帰し、その後二代目燕枝を襲名したが、東京の談洲楼燕枝と紛らわしいため円枝と文字を替えた。師三代目文枝をそのまま写して「夢八」「らくだ」等を語り、欲のない淡泊な芸風は落語通を喜ばせた。寄席が漫才ばかりになっても吉本を離れず、最後まで花月の高座を勤めた。その功績が認められ、葬儀は吉本興業会社葬で執行された。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)/昭和19928日付「大阪毎日新聞」。


昭和
1910

十月一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴

二十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴

三十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴


昭和
1911

十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は笑福亭枝鶴と笑福亭松鶴。

三十日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴


昭和
1912

十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴

昭和19125日     

<橘ノ円天坊死亡>

圓天坊②●橘ノ円天坊 本名山口亀太郎。生年未詳。橘ノ円が組織した円頂派のメンバーとして初めて記録に登場するが、途中で離れている。その後は神戸を主な働き場所としていたためか、上方の噺家でありながら大阪ではほとんど知られていない。落語家らしい珍妙な顔の持ち主で、色気のない無邪気な芸は神戸で大受けして人気者だった。写真は神戸新聞に掲載されたもの。 

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)。

昭和191217

<二代目笑福亭福円死亡>

千橘 002●二代目笑福亭福円 本名武藤雄二郎。明治十七年生。素人落語に熱中し、梅咲(のちの五代目笑福亭松鶴)と三枝連を結成した。のち三代目笑福亭円笑に入門。四代目桂文吾張りの渋い芸風で大成を期待されたが、落語の凋落期を迎え、地方回りをしていたが、幼馴染の五代目松鶴が楽語荘を立ち上げたときに早速参加し、雑誌「上方はなし」にその足跡を残した。「へっつい盗人」「黄金の大黒」「禁酒関所」などを得意とした。
〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)