昭和201

一月十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭松鶴。

一月三十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治。

昭和201

<二代目笑福亭福松死亡> 

死亡噺家 004●二代目笑福亭福松 本名河合福三郎。明治元年生。三代目笑福亭円笑(昭和八年没)の実弟。ずいぶんと名前を替えた人で、三代目笑福亭松鶴門人となり里キ松、璃幸、璃鶴、笑福亭福松門人となり福円、東京へ出て左文治、京都に戻って福松郎と改め、のち二代目福松を襲名した。「夢八」「狸茶屋」「味噌蔵」等を得意とした。噺のあとに座蒲団を腰にくくりつけて「逢いたさ」を踊る姿は、なんとも憎めない好々爺であったという。昭和五年五月十七、十八日、京都新京極富貴席で引退披露落語会を開き、初代春団治、二代目染丸、三代目円馬、初代小春団治などが出席した。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)。
昭和202

二月十日より大阪花月劇場へ出演した噺家は笑福亭松鶴。

二月二十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭枝鶴と笑福亭松鶴。

二月二十八日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭枝鶴と笑福亭松鶴。

昭和203

三月十一日より大阪花月劇場へ出演した噺家は桂花団治と笑福亭枝鶴と笑福亭松鶴。【広告参照】


19年 019
〈編者註〉三月十一日よりの千日前常盤座と新世界花月劇場と千日前大阪花月劇場の広告。


昭和
2039日 

<立花家扇遊死亡>

●立花家扇遊 本名前川宣海。明治十七年生。奈良県多武峰付近の延命寺に生れる。唐招提寺で得度し、二十歳で自家の住職になった。趣味で独修した尺八が巧く、旅廻りの芸人を泊めたのがきっかけで、還俗してその群に投じた。たいへん苦労した末に大阪の寄席にでるようになり、表芸の尺八のほかにハエ取りの珍芸や剣舞をやり、粋な色物として珍重された。ながらく吉本の席で働いていたが、昭和十六年に東京へ移籍し、昭和二十年三月九日夜から十日未明にかけての米軍機の空襲で戦災死した。安藤鶴夫『寄席紳士録』(文藝春秋社・昭和35年)の第Ⅴ話「蠅取りは立花家扇遊」に、扇遊の高座の様子とその最期が詳述されている。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)。
〈編者註〉下記の文章は昭和
7810日付「大阪朝日新聞」に掲載されたものである。扇遊を偲んでここに転載しておく。

譜で習はぬ尺八 寄席漫芸 立花家扇遊さんの話

死亡噺家 003かりにけふ尺八の講話をなさる大家中尾郡山さんの尺八と私の尺八とを較べて、腕の高下はもとより同日の談でありませんが、元来普通のお座敷の尺八と寄席の高座で吹く私の尺八とはおのづから別なものになつている。私はひたすら寄席向き修行ですから、吹くものは俗謡、流行唄が中心で、譜本によらず人が唄ふ歌声を耳に入れたそのまゝ尺八にうつします。従つて節廻しに唄ひ手の癖が現はれる。例へばやなぎの都々逸を吹くとやなぎといふ人の個性が出てくるといふわけです。つまり声色みたいなものです。

流行唄の吹奏において例へば「明けりやダンサーの涙雨」チャカチャンチャン〳〵のいはゆる間奏の部分が当方は聞かせどころなのに、野暮な聴き手は歌詞の部分だけに耳を傾けるとみえ、歌詞の終つたところで手を叩いて、間奏の終りには一向手を打ちません。わびしいものですよ。(写真は扇遊さん)


昭和
20313日深夜~14日未明 大阪大空襲


昭和20313日 

<一陽斎正一死亡>

●一陽斎正一 本名宮田譲一。出征中三月十三日陸軍病院にて戦病死致候 葬儀は五月十八日午後一時より二時迄自宅に於て相可営候

 堺市出島海岸通り二丁目一二四 南海本線湊駅一ツ西ノ辻南一父 宮田源之助

〈編者註〉昭和20515日付「大阪朝日新聞」死亡広告より。

昭和20328

<三代目立花家千橘死亡>

千橘 001●三代目立花家千橘 本名坂本梅之助。明治二十六年生。俄師の二代目信濃家尾半の実子。最初四代目小半の名で俄師をしていたが、父没後落語界に入り、二代目桂三木助の指導をうけ、立花家橘之助の名前弟子となり三代目立花家千橘を名乗った。踊り、声色、百面相、芝居と何でもこなせる芸達者で、一時芝居の方に転身していたが、二代目三木助の死後、その代役的存在として吉本興業に復帰した。なお死亡を六月とする別説もある。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)

昭和20525

<四代目桂文都死亡>

死亡噺家 001●四代目桂文都 本名梅川正三郎。生年未詳。三代目桂文都(大正七年没)の実子。『落語系図』に三代目桂文都門人「文鈴 桂文都の忰なり。初め都司男と云ふ。後に二代目玉輔となり、其後四代目文都となる」とある。落語界に入ったのは大正初めごろで、反対派、浪花三友派に所属し、大正十一年頃大八会に移った。旅興行に出ていたのか、昭和に入ってからの動静ははっきりせず、いつ四代目文都を襲名したのかもわからない。浪花三友派から大八会へ移った二代目玉輔の時代が華だったとされている。写真は二代目玉輔として大八会で人気者だった時のもの。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)。

昭和20年    

<二代目桂花団治死亡>

死亡噺家 2●二代目桂花団治 本名掛川晴美。生年未詳。初代桂花団治門人で花次を名乗る。落語凋落期に桂金之助と軽口を始め、次いで舞台俳優に転じた。民謡に転じて和風レビュー「民謡座」に加入して成功し、同座の幹部に出世して後援会が出来るほどの人気者になった。しかし落語への愛着断ち切れず、五代目笑福亭松鶴の勧めで昭和十九年九月に二代目桂花団治を継ぎ、高座に復帰したが、不幸にも一年ほどで戦災死した。詳しい月日は分っていない。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)/『古今東西落語家事典』(平凡社・平成8年)