明治1811日より 「桂文我出席控」二冊目・一丁表

明治十八年酉一月一日より天満天神亀の池ひる席

小満の助|小文吾改文三|都治改万光 玉助 枝の助 文吾 昇壽 文橋改梅枝 南光|さん馬|はやし 里う|サゲビラ 文我

〈編者註〉「桂文我出席控」とは初代桂文我(文我自身は二代目と称しているが、現在はこの文我を初代とする)が明治十二年三月十五日から大正元年十一月十五日まで六冊に分けて自分が出た寄席の出番を書き残したもの。文我の死後、五代目笑福亭松鶴が所蔵していたが、三冊は散逸し、二冊目、四冊目、六冊目が現存している。また五冊目は原本はないが写本が残り、これら四冊は大阪芸能懇話会の有志により影印、翻刻、註釈をつけて平成九年から十三年にかけて刊行された。ここに掲出したものは現存する「桂文我出席控」二冊目の一丁表である。上方落語史をたどる上で実に貴重な記録であるので、本来なら当ブログでこれを順次載せていくべきなのであろうが、それはあまりにも厖大にすぎる。幸い大阪芸能懇話会によって丁寧な復刻版が刊行、発売(当ブログ「はじめに」参照)されているので、そちらを参照されたい。以下に今回の註釈を記す。

小満の助 東家小満之助。東京の女流音曲師。後の四代目都々逸扇歌。

文三 もと三代目桂文吾門人で小文吾。昨年二代目桂文三を襲名する。提灯屋の文三。

万光 二代目桂万光。桂文都門人都治、二代目桂文枝門に移って万光となる。

玉助 桂玉助。後の三代目桂文都。

枝の助 桂枝之助(初代か)。

文吾 三代目桂文吾(山寺の文吾)

昇寿 不祥。

梅枝 二代目桂梅枝(オッペケペーの梅枝)。二代目桂文枝門人文喬より梅枝となる。

南光 桂南光。後の桂仁左衛門。

さん馬 五代目翁家さん馬。

明治1811日 中外電報

◇新京極の落語席

▲三条下る西側の席 笑福亭木三松の人情続物語咄。

▲新京極六角下る西側の笑福亭の噺席 今度新築して桧木造の美麗なる席となりしが、本日開業式を行ひ来客へ景物を与ふるよし。

▲新京極蛸薬師の幾代の噺席 これ迄の通りにて引続き興行。

編者註〉笑福亭木三松は二代目木鶴の息子。本名佐藤喜三郎。父ほどの腕はなかったようで、色々改名を繰り返し、最後は笑門亭福来という軽口師になった。

明治1826 今日新聞

◇西国坊明学 此頃西国とか阪地(かみがた)とかから新登りの明学といふ盲目の大坊主は、十六人芸と唱へて義太夫節のでたらめ文句を弾語り、尺八、横笛を吹鳴し、琵琶を弾じ、謎を解き、小唄を謡ひ、早言に饒舌(しゃべり)散らし、円い頭上をやたらに敲き、我面白の聴功者には甚太(はなはだ)感心はせぬ駄芸ながら、下等の人気を引寄せる客取にて、婦女童蒙を受させる妙処を得たり。其第一の呼者は春夏秋冬その外の小唱のはやしに「運動セイ〳〵足を揃へて運動セイと私がいふたら聴主(ききて)の諸君御一同にヒヤ〳〵と賛成(ほめ)て下され」と高座の前の童子等にくれ〴〵も頼み置、運動セイの替唄に「色の世界にナァア電信架て続たよよりが末の為、勉強セイ〳〵石版持たして勉強セイ」と唄ひ終ると前の子供が一同ヒヤ〳〵と叫ぶに、此発声席亭の戸外に響き往来人も何事やらんと内に入て聴気になり、毎夜何処の席にても大入を取るといへり。(下略)

〈編者註〉十六人芸の立川(西国坊)明学。明治十七年十一月に上京し、寄席通には受け入れなかったが、婦女子にはたいへん人気があった。

明治1843 日本立憲政党新聞

◇落語家の申合せ 「甚兵衛さん居てゝか」「イヨ町内の人気男」と替るも替るもトツト旧いのばかり幾重にもお詫を蒙るとて、さうさう同じ旧い落語ばかりでは今日の世の中お客様へ対して啻に相済まぬのみならず、フン落語か詮もないと頭から軽蔑されて、終には各自が鼻の下の干上る訳なればと大坂の落語家一同心配する中にも、同業取締桂文吾の如きは一層そのことに尽力し、迚も学者先生の演説の真似などは出来ぬことにもせよ成丈け目今の人情に嵌る様、たとへ耳学問でも大事ない、勉強して、責めては滑稽演説の風にでもしたいものといひ出せしより、一同実にもとその説を容れ、予て種々改良方の相談中の由なりしが、今度いよいよ毎日一回づゝ研究会といふを開き、聊かづゝにても改良の方へ歩を向けんとのことにて、即ち来五月よりこれを実行するといふ。

又た来十九年三月が大坂落語家の中興と仰ぐ桂文枝の十三回忌に相当するに付、来年のこととて鬼に笑はれても構はぬ、その節は下寺町遊行寺なる同人の墓前に於て立派に祭典を行はんと是亦た右文吾の発言に一同賛成、誰とて故障をいふ者もなく、各自給金の内より若干づゝを醵出しその費用に宛てんと今より積金を始めたりとのことなるより、新町の末広亭、堀江の賑江亭、淡路町の幾代亭等の各席主もこれを賛成し、共にその準備に尽力なし居るよし。

〈編者註〉文吾は噺そのものはそう上手でなかったらしいが、会の開催、年忌の執行、喧嘩の仲裁等仲間内のことはなんでも引き受ける面倒見のよさがあり、落語家仲間から取締役に選ばれている。このころ名前が新聞に載る回数がたいへん多く、文之助といい勝負をしている。

明治18410 自由燈

◇明後十二日東両国の井生村楼にて催ふす第九回亦有会は、三遊亭円右、松林伯知、古今亭しん生、西国坊明学、春錦亭柳桜、芳村伊十郎、岡安喜三郎等なり(編者註:演目等省略)。

明治18412 日本立憲政党新聞

◇軍談席の改良 大坂市中の各軍談定席にてはお定まりの太閤記、難波戦記、岩見重太郎一代記なんどは聴客の既に聴飽きて、自然と隠居さん方のお運びも足遠となる筈なれば、向後は何でも新奇な演題を出し、且つ毎夜後段の一駒に於ては聴客の所望に応じて即席講釈を以て御機嫌を伺はんと目下示談中なりとか。改良の上は毎夜お早々とのお運びを偏に願上奉るパチパチ。

明治18417日 名古屋絵入新聞

◇本日と明日、大須福寿亭に於て、軍談師三代目水雲斎竜玉が会主となり、初代水雲斎竜玉の十七年忌並に二代目松崎竜玉の三年忌の追善軍談会を催すよし。尤も当地滞在の軍談師一同も出席すると云う。

〈編者註〉初代水雲斎龍玉はに田舎焉馬の子で、明治二年に駿府清水で亡くなっている。二代目は初代の弟子で、明治六年頃に襲名して明治十五年に没。三代目は、二代目の弟子で、小龍玉から明治十七年三月に三代目を襲名した。

明治18419日 名古屋絵入新聞

◇[広告]講談三幅対/古今稀珍談 小林天山 近世五人小僧 高田伯竜 絵入新聞慶応曽我水雲斎竜玉/本月十八日夜より/七間町富本

明治18423日 朝日新聞

◇[広告]小生儀這回都合ニ依リ自後芸名ヲ左之通リ改候、此事江湖知己ノ諸君ニ報道ス/高宮南鶴事 東京講談師 浪花南竜

明治18430 今日新聞

◇西国坊迷惑 石盤抱へて勉強セイ、足並そろへて運動セイ、と一流の小唄から聴衆がヒヤ〳〵の空賛成に童子受のよい迷惑(イヤ)明学という盲目芸人(本名日本橋区久松町三十七番地落語家長野明学三十七)は、一昨夜八時頃京橋の金沢亭で同所へ出席の前坐、落語翁家だるま(本名中村勘三郎)とつまらぬ事の口論より、明学坊もめくら滅方闇探りに天窓(あたま)をはり子の達磨の顔は真赤になり、在あふ湯呑の茶碗を以て明学のまる〳〵頭上(あたま)へ四ケ所の浅傷を負はしたので、楽屋の混雑、客の動揺、二階を下とかへす内、明学は席を飛出し、京橋際の派出所へ訴へ出たので、巡査末永与一氏が金沢亭へ出張されると、最早だるまの勘三郎何方(いずかた)へやら逃去りしに、明学坊は勘三郎をよ呼出しを願ふた末、此近辺の病院にて今日もまだ療養中の由。だるまも足のある者ゆえ一端は逃出したが大方自首と出かけたか、乍麼(そも)さん如何。

〈編者註〉翁家だるまは本名が中村勘三郎とあるので、六代目翁家さん馬だと知られる。『落語家事典』には明治十七年にさん馬を襲名したとあり、「だるま」を名乗っていた事実は書かれていない。この噂を伝え聞いて大阪の「日本立憲政党新聞」(53日付)が記事にしているが、そこには翁家さん馬と書かれている。本当に「だるま」を名乗っていたのか、ただの綽名なのか、真偽は不明である。ついでながらこの時期翁家さん馬は大阪の五代目さん馬(桂正吉)、東京の六代目さん馬(中村勘三郎)と二人いたが、五代目のさん馬は東京へ帰ることがなかったので、さしたる混乱もなかったようだ。東京のさん馬は後に六代目三笑亭可楽となる。

明治1851日 朝日新聞

◇[広告]今般諸家様の以御陰を、今宮戎南門前西へ入南側に於、席貸開店仕、尤四季艸花并丁字湯、来る五月一日より相始め候間、賑々敷御来車の程偏に奉希上候也/桂文団治事塩鯛亭/文団治先名譲請貴若亭米八改二代目桂米丸

〈編者註〉初代桂文団治。眼窩の窪みから塩鯛の通名があった。米八から初代文団治の前名を継いだ二代目米丸については伝不祥。現在は桂小文治(稲田祐次郎)の米丸(大正五年襲名)を二代目としている。

明治1853日 朝日新聞

◇橘屋橘之助 清元の音曲を以て久しく当地に鳴りたる同人は、去年来京都京極幾代の席にて興行してをりし処、今度兵庫楠公社内湊席の招きに応じ一昨日より該地へ乗込みしが、例の曲節の妙と三絃の巧みなるとの二つを以て非常の人気なりと、彼地の通信の端に見ゆ。

〈編者註〉立花家橘之助。東京の少女音曲師。明治十三年一月より京阪各地の席に出ている。

明治1853 日本立憲政党新聞

◇高座で喧嘩 荒木又右衛門、宮本武三四の両刀遣ひより猶ほ多能にて、八人芸を倍にした十六人芸で評判を取りし流石の明覚坊でも、喧嘩と来ては一人前だけ飛んだ怪我をさせられた気の毒話は、東京銀座一丁目の寄席金沢亭にては、京坂に倣ひ此程より彼の大寄を催し、毎夜毎夜出方の替る中、一夜翁家さん馬(これは大坂のとは同名異人)と十六人芸の明覚坊と落合ひしが、虫の居どころの悪かりしと見え、高座へ上りたる時互に何か例の当てこすりの悪口を吐き合ひ、終に双方堪兼ねけん、高座の上をも憚らず見台の音ドサクサの取組合となり、明覚は彼の白い目をむき出し、暫しゴツタかへす中、遂に円顱や手足へ四五ケ所の傷を負ひしかば、憤起となり、師匠それでは外聞が悪い、マア待ツた静にと、他の出方等の止めるも可かず、直に京橋警察署へ斯くと訴出でしを以て、一同其侭拘引とは飛んだ落語の種蒔きさん馬。

明治1856 日本立憲政党新聞

◇提灯持 大坂の落語家彼の桂文団次は今度その芸人の足を洗ひ正業に就くといふ程ならねど、時々落語の引合に出る西成郡今宮村なる耳の遠い戎神社近辺へその綽名に因む塩鯛亭といふ茶店を出せしに付、御贔負さまへ宜しく御吹聴を願ふて呉れとも何とも頼まれた訳ではない、例の饒舌りイヤ提灯持。

明治1858日 朝日新聞

◇新講談 御霊裏の講談師前川南滄は彼仲間に於ては一見識ある人物の由なるが、予て易学に熱心にて、過日来自席にて傍聴無料にて易の講義を誰にも分るやうになし、又此程より安土町学校前富貴湯の席にて同(おなじ)く傍聴無料にて、中古以来の歴史につきもっとも面白く、且勧懲の益なる事実を撰びて講談し、其他に心学の道話に類似せる忠孝美談を演ずる由。又一種の変物(かわりもの)といふべし。

明治18510 日本立憲政党新聞

◇滑稽研究会 日外の紙上に記せし如く、大坂の落語家彼の桂文吾等の計画(といふ程でもあるまい)に係る滑稽研究会はいよいよ本日より西区北堀江の賑江亭に於て催すよし。扨その趣向は、発起人だけに文吾が伎長といふ名儀で落語の種を蒔き文都、文三等の所謂師匠株が伎員の席に就き、各自その得意の舌を滑らす筈にて、開会中何なりと穴を出せし客へはそれぞれ景物を進上するとのことなれば定めし人気に叶ふなるべし。

〈編者註〉落語研究会は従来の落語相撲を裁判形式に改めたもので、噺家(議員)が一席うかがったあと、お客がその噺の穴(欠点・矛盾)を指摘する。その指摘に対し、弁護士がおもしろおかしく弁護する。終ったあと、裁判長(議長)がどちらの言い分が正しいか判定を下し、お客の方が勝ったときは景品が渡される。景品はかなり豪華で、それを目当てで詰めかける客も多く、席主はほくほく顔だったが、落語の質をよくしようという本来の目的は度外視されたようだ。この時伎員(議員)を勤めたのが文都は桂文都、後の月亭文都。文三は二代目桂文三。

明治18516日 朝日新聞

◇落語研究会 堀江賑江亭の席にては過日より落語研究会といふを初め、議長は文吾、可楽の二人にて、或は洋服、或は袴を着用して椅子にかゝり、聴衆の中より落語の非難を入るゝを、弁護者の有りて之を説明し、若(もし)理非決し兼るものは議長之を判決する、随分目新しき趣向にて、追々此事の行はれなば多少落語の面目を改め、従来の弊習を稍除去るに至るべきか。

〈編者註〉可楽は五代目三笑亭可楽(本名原吉弥)。但し東京にも五代目三笑亭可楽(本名平田芳五郎)を継いだ人がおり、この可楽は京の可楽と呼ばれている。明治二十三年五月二十日没。

明治18531 日本立憲政党新聞

◇門付のやんちや 一寸トチヨボクレ奇妙頂来、去れば東西恐れながら、此処お聴に達しまする、ヘイヘイ兎角噺は古めかしい、と立交り入代り門先に来る阿呆陀羅経、浮れぶし、一口浄瑠璃、昔噺などの門付は、頃(このご)ろ大坂市中に目切(めっきり)増加して、中には己れ勝手に饒舌て置きながら後にて近傍の家々より銭を集め、若し出さぬ向のあれば、黙つて聴いて銭を出さぬは泥棒ぢや、などゝあられぬ悪口を利くもの少からず、何れも迷惑なし居るといふ。

明治1867 日本立憲政党新聞

◇滑稽研究会 大坂の落語家桂文吾等が企の滑稽研究会の第一回は去月末西区北堀江の賑江亭に於て催せしが、其第二回は来二十日より同区新町九軒の末広亭にて開会し、第三回は来月中旬より東区淡路町の幾代席にて開会する積なりと

〈編者註〉末広亭で行なわれた落語研究会に関する具体的な記事は見当たらない。

明治18616日 日出新聞

◇京坂間にては随分顔馴染の多き清元語立花家橘之助は、此程中より神戸楠公社内の席に興行中なるが、此処でもメキとした大人気を取り、有繋(さすが)は立花家丈だと遠近の評判、そのうへ同地元町の豪商が取別け同人を贔負にし、今度江州産の浜縮緬にて長さ二丈八尺の大幟を熨斗り其を社内に翩飜せし、以来一ト際人気の弥増しが、近々同地を打揚次第、直に大坂京都へ来り、夫より名古屋へ赴き同所で一興行した上、暫く東京に帰る心構にて、其土産に彼の大幟を持参するとの提灯持ち種。