グラフィックス2
曾呂利新左衛門  「小天地第二巻十三号 芸苑 向井藻浦」(明治3510月)

◎江州と長どすグラフィックス1

 渡る世間に鬼はないといふ譬え(たと)への通りで、私しが困り切て居ります処へ、なや六といふお茶屋のお富といふ芸者が来てきれまして、其茶屋の二階で養生をすることになりました。土鍋を三味線箱の中に入れて置(おい)て、お粥をたいてくれたり、薬をとりに行てくれたり、親身も及ばぬ程にしてくれましたので、流石の病気も間もなく全快をいたしまして、又々寄席へ出ることとなりましたので、其頃から毎晩のやうに寄席に出てくる十七八歳の婦人がございまして、田舎に稀な美人ですから、私しもまだ若い時分でもあり、何とかして彼の女を手に入れてやらうと、密かに時節を待つて居ります処へ、文枝の師匠の立川三光三木(さんぼく)を連れて乗込んで来ましたうゑ、話しに行て見ますと、其の囃子方となつて来て居りましたのが、私しの師匠であつた笑福亭松鶴の妾でしたお八重といふ人です。オヤこれは奇(めず)らしいと色々話しをいたしますと、お八重さんが申しますには、松鶴は今年(慶応二年)の正月二日に死亡(なく)なつて、其の時に松竹は不品行(ふひんこう)だから、一旦破門はしたけれど、十分見込みのある男だから、大阪へ帰つて勉強すればよいといふて居たとのことですから、私しは何だか急に大阪の空が恋しくなり、席亭に暇をくれと申込みますと、なか〳〵承知をいたしませんものですから、私しも意地になつて、邪(じゃ)が非(ひ)でも帰らねばきかんといひ張(はつ)て居ります処へ、瓢箪小路の長どすが二三人出て来まして、全体貴様(きさま)がどれだけの身になつたのは、誰れのお蔭だと思ふて居るのだと申しますから、私しもまけぬ気で、知れたことだい、このお蔭だと自分の口を教えますと、長どす連中は火のやうになつて怒りまして、コン畜生巫山戯(ふざけ)たことを吐(ぬか)しやァがるなといひ様長い奴を抜いて振上げました。

こりや堪らん逃げてやらうと思ひましたが、三方を取囲まれて居るものですから、什麼(どう)することも出来ません。アーこりあ何しても殺されるのか知らんとガタガタふるえて居ります処へ、傍(はた)で見て居りました一人の下駄の直しがやつて来まして、マア〳〵親方衆お待ちなさいと、長どす共をとめてくれまして、コレサお若いの全体お前さんは、如何に商売なればとて、余り口がゑらすぎる、成程お前さんの口で儲けたのには相違ないが、それでも親方衆のお引立てがなかつたなら、なか〳〵旨(うま)く行くものぢゃない、それを自分が勝手に儲けたやうな心を出して、勝手気儘(きまま)に帰るとか何とかいふてはいかん、責(せめ)て八朔(はっさく)を済ましてから帰るとしなさい、と、懇々(こんこん)といはれたものですから、仕方がありませんで、それでは兎も角も、八朔までやりませふと返事をして、其の場は漸(ようよ)う納まりましたゆゑ、何は偖(さて)置きあの直し屋へ礼に行かねばならんと、早速菓子折を持て出掛けて行き、いろ〳〵と礼を述べまして、其の宅を出て帰りかけますと、丁度其宅から家敷にして五六軒ばかりも離れて居りましたが、矢張り穢多(えた)村の内に立派な門構えの宅がありまして、其の門口に立て居る一人の女がございます。

見るともなしによく見ますと、其の女と申しますのは、驚いたぢゃございませんか、私しが岡惚れをして居た女なのでございませう、オヤ〳〵あんな可愛らしい顔をして居て、それで穢多とは偖々惜しいものだが、併しまだ関係をして居なかったので、助かったといふものぢゃと、そろ〳〵に通りすぎて宿に帰り、それから後は面白くも可笑(おか)しくもなく日を送つて、ヤットの思ひで八朔までやりましたから、生命(いのち)でも拾ふたやうな心持で当地へ帰って参りまして、座摩の社内の丹長の昼席を勤めることとなりましたが、其時の一座は、林家花丸桂梅枝(後に藤兵衛となる)、林家染丸笑福亭柳枝と私しとで、私しの名は、笑福亭梅香と申して居りました。

それから間もなく、新町九軒の末広席へ出勤をすることとなりましたが、其の時の真打は林家正蔵で、前にお話しをした西京の龍塔の圖子(づし)にかかつて居て、私しが素人で一席すけさして貰うた人で、席主の菊次郎といふ人が、非常に私しを引てくれまして、正蔵のもたれをやらしてくれたものですから、他の者等は皆な私しの身の上を羨(うらや)むやうになりました。

◎幽霊の失敗

 一足飛びの出世に、私しはモウ嬉しうてたまらず、大車輪になりまして、俄師から役者の声色、指影絵、足踊りなどをやり、歌などは調子はづれの馬鹿声を出してやつたものですから、存外お客にうけまして、私しが入つて正蔵が出ますと、お客は大抵帰つて仕舞ふといふ始末で、段々正蔵のうけが悪くなりかけましたので、正蔵は非常に立腹いたしまして、そこ〳〵に話しを切上げて入つて来て、どん素人め、いひ加減に馬鹿にさらして置け、向ふを見て話しをしろと申しますから、私しも一寸間誤(まご)付きましたが、何喰はぬ顔をして、お客がやれといふものですからやりましたといふて居る処へ、席亭の菊次郎がやつて来まして、正蔵さんお前さんも勝手なことをいひなさんな、如何に(いか)に梅香(ばいこう)がながくなつたとて、松鶴文枝が出れば、誰れ一人帰る者もないのだから、つまりお前さんが、下手だからですと申しますと、正蔵はいよ〳〵立腹いたしまして、さうですかといふたままで、プイと帰て仕舞ひ、翌夜から出て参りませんので、仕方がなく、私しが真打をやるとなりましたが、これが私しが檜(ひのき)舞台で真打をやりました始めでして、明治三年頃のことでございました。

 丁度その頃でした。桂慶治が怪談をやつて、慶子といふのが幽霊に出て居りましたが、或日慶子が病気で休みましたので、私しに気の毒だが幽霊をやつてくれんかといはれましたけれども、私しはやつたこともなければ、台詞(せりふ)もちつともわかりませんから、断りを申しますと、ナニ別に造作も何もない、ただ怨めしいとさへ言ふてくれればそれでよいのぢゃと申しますから、それだけでよくば一番やつて見やうといふので、顔をぬりまして、火が消えるのを相図に高座へ出て、怨めしや〳〵といふて居りますと、慶治は何とか台詞をいふてくれと申しますのゑ、又怨めしやとやりました処、エエ怨めしやだけでは困るぢゃないか、何とかいふてくれと申しますので、私しも馬鹿〳〵しくなつて来ましたから、オイそんな無理いはれては困るぢゃないか、お前が私に代りを頼んだときに、ただ怨めしいとさへ言ふてくれれば善いと言つたから、私は其の通りに怨めしいといふて居るのじやないか、何も私は幽霊をする役ぢやないのだ、川柳にもある通り、『幽霊ははなし中の面(つら)よごし』だと、一言二言いふ争いをやりました末に、高座で掴み合ひを始めましたので、お客は吃驚(びつくり)して、マア〳〵と中に入つて取鎮(とりしず)めてくれましたが、慶治はこれを根にもつて、翌晩から病気といひたてて出勤をせぬようになつて仕舞ひました。

◎盲目となる

さういふ始末ですから、私しが怪談をやらなければならぬようになりまして、松鶴十八番(おはこ)の『とけやらぬ下の関水』といふのをやつて見ましたが、それだけでは仕方がありませんから、石川一口に『扇の的』『姐妃(だつき)のお百』などを習いまして、遂々(とうとう)怪談をやるやうになりました。其後暫く当地に居りましたが、余義(よぎ)ない人に頼まれまして、四国から中国筋に稼ぎまはりまして、九州地方へ乗込むつもりにいたして居ります処へ、文枝から帰つて来いといふ手紙が参りましたゆゑ、大急ぎで帰つて参りました処が、少し日が遅れてましたために、文枝の一座へ入ることが出来ませんでしたから、余儀なく端席を働いて居ります内に、文枝は肺病にかかりまして、寄席を働くことが出来ぬやうになりましたので、其の代りとして、私しが出勤することとなり、名を文之助と改めまして、別看板として、文枝に口上をいうて貰つて、切へ出て居りましたが、文枝はそれが原因となつて、遂に明治七年に病没(なく)なりました。処が私しは何したものですか、其の後間もなく両方の眼を病(わずら)ひまして、一時は盲目同様となりましたので、宅に置いてありました者等に手をひかれて、寄席に出かけて行て居りましたが、鰻谷の和田といふ医者にかかつて、段々よくはなりましたけれども、八年頃から十三四年頃までは、盲目同様で暮して居りました。

◎浜松かぜ

明治十六年の夏、道頓堀の中の芝居で落語家芝居をやりました処、非常な大入でして、其の暮れに矢張り中座で諸芸忘年会をやることとなりましたが、落語家の方では文枝文都と私しの三人で看板をあげ、それ〴〵準備をいたして居ります内に、寄席の方から故障が起こりまして、そんな処に出勤する者は、今後一切寄席の方で使はぬといひ出しましたので、文枝文都は急に出勤を断りましたが、私しは一旦約束をした以上は、今更断はる訳には往かんと申切りまして、法善寺の東の席に出て居りました俄師で、初春亭正玉と一所(いっしょ)に中の芝居の方へ出ましたゆゑ、二人とも寄席の方がお首になりまして、同じ暮れに催しました侠客難波の福さんの会を名残りとして、十七年の一月から京都新京極の蘭(あららぎ)の屋の席に出勤して、それから段々東海道を興行しながら三州豊橋へ乗込み、ます屋の芝居へ出勤しました処が、非常な人気でしたけれども、什麼(どう)いふものですか、チツトも客が参りません、余り馬鹿〳〵しいものですから、

噂する人気ほどにも客は来ず

      浜松かぜの音ばかりなり

といふ落首(らくしゅ)を書いてペタリと貼つてやりました。するとこの事が評判となりまして、同地の二宮といふ医者が眼をかけてくれまして、

清水から道二筋にわかれけり

といふ発句(はっく)を貰ひまして、同地を出立いたし、静岡へ乗込みますと、イヤモウ散々でして、一日も興行するとも出来ぬものですから、幇間の露八(ろはち)といふのを頼んで、お召の着物を売払うて、漸(ようや)くそれで茶代と払ひとを済まし、使(つかひ)をたてて、東京の三遊亭円朝の宅へ金を借りにやりました処が、文之助といふ人は、大阪で売出して居る落語家だから、金なんか借りに寄越(よこ)すべき筈(はず)がないといふて、什麼(どう)しても信用してくれませんので、仕方なく静岡を立て江尻から沼津をうつて藤沢へ行き、江戸駒といふ宅を頼つて行きますと、妙ぢやございませんか、其処(そこ)の女将(おかみ)さんといふのが、宇田川文海さんの姉さんでして、これは変つた処でお眼に掛りましたと、いろ〳〵世話になつて居りましたが、何時まで恁(そ)うして居る訳にも行きませんから、兎も角も私し一人で東京へ出掛けて、先(ま)づ中村時蔵を尋ねて見やうと、一座の者を残して東京へ参りました。

◎小安親分

時蔵と私しとは古い馴染みですから、必(きつ)とよう来たといふてくれるだろうと思ひの外、時蔵は変な顔をして私しを座敷へ通しまして、聞けば道頓堀の中の芝居で落語家芝居をした時に、阪東文之助といふ看板を出したさうだが、何(どう)もそれが私しの気に入らぬ、同じことで中村文之助よいつてくれれば何(ど)れ位嬉しいかわからぬといふのでせう、エエこの期(ご)に及んでそんなことでゴテ〳〵いつて貰ふては堪らんと、そこ〳〵に話しを切上げて飛出し、浅草の並木で徘徊(はいかい)して居ります処へ、二人連の車夫がやつて来まして、親切にいつてくれますものですから、その車に乗りました処が、悪ひときには悪い事が続くと見えて、この車夫といふのが追剝(おいはぎ)でして、すんでのことに酷い目に逢ふとして居ります処へ、丁度巡査が来合(みあは)してくれましたから、事情を話して三筋町の文治の宅を尋ねて行きましたが、向ふでは私しの顔を知りません色々と頼んでマアやつと宿だけをして貰ふこととなり、其の晩は夫婦ともチツとも寝ずに何だか小声で話しをして居りました。

翌朝になりますと、特務が出て来まして、昨夜の賊のことに就て一応取調べねばならぬからといふので、私しを本所お竹藤の本署へ連れて行きまして、車夫に出逢ふたときの模様などを取調べられまして、答弁書を差出し、ヤレ〳〵東京の人間もいひ加減な奴ばかりじやと、そこ〳〵に東京を出立て藤沢へ引返してまいりました処へ、都合よく津太夫がやつて来ましたから、オオ津太夫さん、実はこれ〳〵で困つて居るのぢやと話しをいたしますと、津太夫はそんなことなら新場の小安親分を頼つて行きなさい。向ふでは絶へずお前さんの事ばかりを話しをして居りましたと聞きましたから、私しは地獄で仏にでも逢ふたやうな喜び方で、又もや東京に出掛けて行きました。

聞いた侭(まま)に尋ねて参りますと、都合よく其処(そこ)に法善寺の東席の桂四郎兵衛といふ人が居候をして居りまして、オオこれはといふのでいろ〳〵と話しをいたし、五日ばかりも厄介になりまして、何処か働き場所はあるまいかと相談をいたしますと、木原の伊助の席が五明楼玉輔の掛場となつて居るから、それへ頼んで見てはといふので、元より玉輔とは知合のことですから、早速仲安といふ料理屋から玉輔を呼びにやりまして、事情を話して頼んで見ました処が、これ又心安く承知をしてくれましたから、直ぐに文治に呼びにやりまして、前の礼を述べて改めて挨拶をいたしますと、文治は非常に驚きまして、オヤ〳〵お前さんが真正(ほんとう)の文之助さんでしたか、私しは円朝さんから聞きましたには近頃文之助といふ名で、及公(おれ)の処へ金を借りに寄越したものがあつたが、何だか怪しかつたから断つたといつて居られた処へ、お前さんが来たものですから、私しの方では必定(てつきり)偽物じやと思つて、アノ晩はチツとも寝ずに居りましたが、朝になると、特務が来てお前さんを連れて行つたものですから、矢張り偽物であつたのだと思ひましたのですと申しますので、イヤモウ大笑ひでしたが、いよ〳〵話しがきまつたので、ボツ〳〵酒が始まり、寄席に出るに就ての相談などをいたして、余程遅くなりましてから別れて帰つて参りました。

◎改名

 それから確か翌年の八月頃まで興行して居ります処へご存知のアノ立花家橘之助が、大阪から京都を打ち廻つて帰つて参りまして、京都の新京極に幾代をこしらへたから、帰つて来て其処(そこ)へ出てくれないかといふ話しがあつたから、私しも急に帰りたくなりまして、一座の者にも名残りを惜しみながら東京を出発いたしまして、東京丸であつやうに思ひます。横浜から蒸気船に乗込み、日を経て神戸に着し、それから京都へ参りまして、いよ〳〵出勤することとなりましたのは、同年の九月頃のことでございましたかが、其の翌年、即ち明治十九年に京都の久保田米僊(べいせん)、こつば和尚、平野の百一、日の出新聞社の金子鉄次、服部嘉十郎などといふ諸先生のお勧めに預りまして、丸山の円満楼で、曾呂利新左衛門と改名いたしまして、それから米僊先生の門に入りまして、漁仙といふ號を貰つて画を習ふこととなり、茶は武者の小路の門に坡入りまして、松露庵宗拾(そうろあんそうしゅう)と名乗りました。宗拾と申しますのは、別段申上げるまでもありませんが、初代曾呂利新左衛門の雅號(がごう)でございます。

◎米助の幽霊

 確か其の年の事でした。京都から大阪の方へ掛けて虎列拉が非常に流行いたしましたので、寄席を稼ぐことが出来ませんから、かしく喜蝶などを連れて、江州八幡へ行くことにいたしまして、草津まで参りますと、雨が降りだしましたものですから、其処の岡崎屋といふ旅宿(やど)へ泊りました。

丁度夜の十二時、一時とも思ふ頃に、フト眼を醒しますと、京都の幇間で、虎列拉で死にました米助といふのが、さも〳〵物寂しげな顔をして、ションボリと坐つて居るのでございます。もつともそれは全く神経に相違はありませんけれども、余り意外ですから、私しの横に寝て居りましたかしく喜蝶を呼起して、米助が出て来たと申しますと、イヤモウかたなしで、ワツといふて頭から蒲団をかむつて、ガタ〳〵顫(ふる)ひだしました。

彼是(かれこれ)して居ります内に、漸(ようよ)う夜があけましたから、それ〳〵に宿屋を出立いたしまして、八幡へ参りましたところが、昔し馴染の連中は死んだのもあれば、生きて居てからがモウ余程年をとつて居りまして、何も彼(か)も悉皆(そつくり)かはつて仕舞つて居りますので、オヤ〳〵恁(こ)うではなかつたがと思ひましても、詮方(しかた)がありません。まかり違ふと、宿屋の払ひにも差支(つか)ひが出来るかも知れませんので、大いに困つて居りましたが、寺町の七宝堂の主人が気の毒ぢゃといふので、少々ばかり金を出してくれましたゆゑ、それを旅費として京都へ逆戻りをいたしましたが、矢張り虎列拉で什麼(どう)することも出来ませんから、これではならぬ、何とか金儲けの工風(くふう)をせねばならぬと、いろ〳〵と考へまして、漸(ようよ)う一計を考へだしました。

◎虎列拉予防の守

其頃は私しが弟子を沢山連れて居た頃ですから、一同を呼びよせまして、揃への着物に小倉の袴をつけさし虎列拉予防の御守(おまもり)を沢山こしらへて、それを三宝の上へ乗せまして、名前がへのときに使(もら)ひました大提灯をブラさげて、私しが正座に座り込みまして、これは豊臣秀吉公の時代から伝つている、虎列拉予防の御守ぢゃというもので売り出しました処が、己れも人も押し合ふほどにつめかけて参りまして、僅か一時間と経過(すぎ)ぬ内に残らず売り尽して仕舞ひましたが、其の中には辻占を一枚づつ入れてありましたので、それと気がついた人は大笑ひですんで仕舞ひ、気がつかぬ人は、何でもありがたいお守りに相違ない、これさへ持て居れば、大丈夫ぢゃと思ふものですから、幾分か心強くなりますので、少しは虎列拉の予防になつたさうでございました。

彼是する内に病気も什麼やら少し薄らいだやうですから、早速寄席を始めまして、ボツ〳〵とやりかけました処が、内部(うちら)で賭博が流行(はや)り出しまして、取調りかたがつきませんから、私しは賭博をやめるか、私しをぬいてくれるか何方(どちら)にかして貰はねば困ると、談判を持掛けました。スルト夢楽が中に入りまして、多人数に一人だから、気の毒だけれども一と先づぬけて貰ふことにしやうと申して参りましたゆゑ、私しは大抵の弟子を断つて仕舞ひまして、かしく一人を連れて京都を出立して、中国辺を打ちまわつて、尼ケ崎の寄席にかかつて居ります処へ、奈良から話しに参りましたゆゑ、話しを纏(まと)めて手付の金をつまみました処へ、今度は千日前の井筒の席が出来まして、是非私しに出勤してくれと申して参りました。

◎川上音次郎の弟子入

これは困つたことが出来たと思ひましたが、さりとてこれも断るわけには行きませんから、かけ持をすることにいたしまして、大阪へ帰つて参り、井筒の席を昼の三時に下(おり)て、人力車で奈良へ走らせますと、晩の九時頃になりますから、大急ぎで晩飯を食ふて切をつとめまして、翌朝の六時に又人力車に乗つて千日前へ帰つてまいりますので、こんなことをして十日間興行いたしまして、漸く奈良の方が千秋楽となりました。

其の頃川上音次郎が私しの弟子となりまして、浮世亭○○と名乗つて出勤をすることとなりましたが、これが又非常に人気でして、初めの内は一カ月十円づつしかやつて居りませんでしたが、段々流行(はや)るにつれて、一日十円でなくば出勤をせぬといひ出し、井筒の方でも手放すのが惜しいものですから、一日五円にまで奮発いたしましたけれど、遂々(とうとう)話しが纏(まとま)りませんで、一座をぬけて壮士芝居をやつて見ることとなりましたが、其後私しが中国筋へ出掛けましたときに、尾の道で東西屋をして居りました青柳捨三郎を弟子にいたしまして、新車と名をつけて使つて居りましたが、それも間もなく川上から頼みに参りましたゆゑ、其方へ譲つて仕舞ひ、只今では川上はいふに及ばず、青柳までも売出しの新俳優となつて居りまする。

◎落語家三派

何しろ永い間のことですから、委(くわ)しくお話しをすれば限りがありませんゆゑ、モウこの位ゐにして御免を蒙(こふむ)りますが、全体大阪には、林家、立川、笑福亭、桂と四つの派がありまして、唯今では立川を名乗つて居るものは稀れでございまして、マア三つと申しでもよろしうございませう。デ、私しが存じて居ります処では、林家の元祖と申しますのは正翁と申す人で、其の弟子が、菊枝蘭丸花丸竹枝(後に正三となる)正蔵などでして、唯今の花丸は、菊丸の倅でございます。又立川の方は、紀州から出ました三光と申しますのが元祖で、これは御池橋の東詰に、自分が寄席を持て居りまして、其の弟子は三木蔵三木(さんぼく)などと申す連中があり、三光は後に三玉斎と名前をかへまして、三木蔵三光となりました。笑福亭の方では、竹我といふのが元祖でして、後に丸屋竹山人と改名いたしまして、弟子の吾竹竹我となり、其の弟子に吾竹を譲り、其の次の吾玉と申しまして、これが初代の松鶴となりまして、俗にけしつぼ松鶴と申した人でございます。桂派は申すまでもなく文枝[]が元祖でして、其の弟子が長太文治文枝とつづいて、文枝の弟の文福が、松鶴の預り弟子となりまして、後に桂藤兵衛となりました。これが藤兵衛の初代でございます。

この藤兵衛といふ名前は、長太文治の弟子で慶治と申しますのが、紙屑屋をやりますと、其中に藤兵衛はんと大きな声で呼び出すところがありまして、其の時に文枝が、楽屋から何ぢゃいといふて顔を出しますので、お客の方では文枝のことを藤兵衛はん〳〵といつて居りましたのを、文福が貰うて名乗つたのでございます。

ヘイお疲れさま。