活動弁士

 残月は明治449月より活動写真の弁士に転身した。活動弁士になってからの残月のことはほとんど新聞に載らず、具体的なことはよくわからない。唯一新聞に出たのは大正3421日に博奕で捕まった時のものである。424日付「大阪時事新報」に「活動弁士の博奕 千日前活動写真三友倶楽部の楽屋に於て同館の弁士桂屋残月こと小野菊水(四十)、同じく田口加苗こと田口嘉太郎(三十九)及び芦辺倶楽部の弁士石野馬城こと石野誠正(二十七)の三人は、両三日前の夜、三友倶楽部の楽屋に於て花合せをなし居る所へ南署の警官踏み込み、前記三人を本署に引致したるが、糸長警部補取調の結果、右は洋食の奢り合ひをなさんと阿弥陀籖の代りに花を引き居りしものにて、別に金銭の勝負をなし居らざりし次第と判明し、厳重に説諭を加へ、書類は検事局へ送られしも、身柄だけは一先づ放還されたり」とある。この記事でありがたいのは残月の本名を「小野菊水」と明記してあることである。新聞の本名も時に間違っていることもあるが、講談師になった時に残月楼菊水と名乗り、大阪三友派を離脱したときに小野残月と名乗っていることからこの記事の「小野菊水」は正しいと思われる。

 残月が活動弁士になったとき、大阪市内の主な活動写真館だけで二十五館近くあり、毎夜一館ごとに三、四人が弁士が出演した。百人を優に越える活動弁士の中でも残月はなかなかの人気者であったらしく、明治45424日付「大阪毎日新聞」の「大阪の人気弁士」(下掲写真・左下)の一人に加えられている。

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 大正41月に『御大典紀念 日本ダイレクトリー』(清田伊平著・甲寅通信社編輯部)という本が大阪で刊行された。その中に「桂家残月」の項があり「……明治四十四年活動写真館三友倶楽部に招聘せられて弁士となり今日に至る。嘗て明治四十四年四月、歩兵第三十九聯隊(ママ)に於て、久邇宮、賀陽宮両殿下の命を拝し御前講談の光栄に浴せり。頗る江戸時代の風物に趣味を有し旅行を好む。妻をしま子と呼び二女あり。(大阪市北区紅梅町一二)」とある。久邇宮(邦彦)は明治4312月に陸軍歩兵第三十八聯隊長になっており、この聯隊に召されたと思われる。また、小歌の死後三度目の妻を迎えたようである。現住所もわかってなかなか興味深い。

 寄席へ復帰

 活動写真の弁士以外の仕事で残月の名前が再び見え始めるのは大正8年からである。

 その最初は8316日、京都芦辺館の三友派日曜会(会費三十銭)で開催した桂家残月独演会で、「竹田宮殿下御美徳、堀部安兵衛の間者、乃木将軍逸話」を講じた。

 330日正午より京都の芦辺倶楽部で中央乃木会京都委員部後援寄付大演芸会(会費五十銭)が開催され、三八、文之助、かしく、枝鶴、文団治らとともに出演した。

 511日より神戸千代廼座で独演会を催し「竹田宮殿下御仁徳長講三席、伊藤博文公、堀部安兵衛」等を講じた。

 61920両日、大阪中之島公会堂で開催されたリーデル女史経営熊本回春病院寄付の慈善演芸会(会費一円)に出演した。

 81日より岡山大福座で三遊亭円遊(滝梅三郎・俗に大阪円遊)、二代目桂三木助と三人会を開催し、3日に「伊藤公爵」、4日に「太兵衛さん」を講じた。

 819日より五日間博多川丈座で興行し、「竹田宮殿下、乃木将軍、伊藤公爵、小松宮殿下、広瀬中佐」を講じた。

 1012日正午より京都の富貴亭で桂家残月、春風亭柳朝の二人会を開催し、「三本樹の名妓」と「伊藤公と賊」を講じた。

 119日正午より京都の富貴亭で忠臣義士会当派幹部三人会が開催された。番組は「安兵衛で御座るヨ(桂家残月)、変装の大根売(金原亭馬琴)、あしたまたるゝ橋上(春風亭柳朝)」である。

 以上大正8年に残月が出席したものをまとめてみたが、活弁を完全にやめたわけではなく、活動写真を一席済ませたあとで寄席や会に出ていたようだ。活動写真雑誌『活動画報』記者天野忠義著『俳優の内証話 さしむかひ』(井上盛進堂・大正10年)の「桂家残月」の項に「……楽天地で説明を済ますと講談師となつて二三の寄席へ出て働らいているのにイツも金が足らん足らんで困り、彼が口演の講談を雑誌に掲載(のせ)て原稿料を貰へる社を世話して呉ませんかと記者の耳が蛸になる程聞かされるとは成金熱に憧れて贅澤な生活をしているのであらう」とある。

 反対派(吉本)へ

 上述したように、大正8年の最初のころは京都の三友派の席芦辺館に出ているが、10月よりは反対派の席富貴亭に出ている。つまり反対派へ移籍したのである。

 大正912月、反対派の太夫元で富貴亭の席主である岡田政太郎が死亡した。そのあとを継いだのが吉本泰三で、反対派はやがて吉本花月派と呼ばれるようになり、大正119月、浪花三友派を併合して上方の寄席界を統一した。残月は東京連の真打として迎えられ、吉本各席で相変わらず立読みの新講談を演じた。

 大正1111月下席で27日に紅梅亭へ出たときの評が吉本の広報誌『演芸タイムス』第3号(大正11121日発行)に出ており「残月新講談、痴遊の呼捨を始め、新講談と名の付くもの、偉人名士を友人扱ひにするなるに、この人常に敬称を用ゆるは、其麗しい言葉使ひと共に採るべきもの。平民的な殿下と乃木将軍をあつさり演る」とある。

 大正12167両日正午より天満花月亭で残月独演会が開催され、「皇室美談、乃木将軍、出世大閤記」の三席を口演した。

北白川宮成久王逸事

 大正1241日、北白川宮成久王がパリ郊外で自動車事故を起し35歳の若さで死亡した。そのニュースが伝えられるや、残月は46日より都座、天満花月、北新地花月倶楽部、御霊あやめ館にて敬弔の意を表し「北白川宮殿下御逸事」を講演した。そしてしばらくこの演題をやり続けた。

 430日午後5時より北新地花月倶楽部で長演会が開催された。出演者は円太郎、枝太郎、染丸、残月、円馬、春団治、松鶴等で、残月はこの演目をやった。『演芸タイムス』17号(大正1251日)に「残月の北白川宮殿下の逸事、極めて上品で美文家の小品を読んでいるといつた趣」とある。

 515日より名古屋七宝館へ出演したが、ここでもこれを講じた。515日付「名古屋新聞」に「本日より特別興行として桂家残月、翁家三馬、笑福亭円歌、林家正楽、花月亭九里丸、支那人夏雲清、夏雲忠一行の色物揃いで開演し、残月は仏国に於て不慮の御災難に罹らせ給いし北白川宮殿下の御逸話を口演する」とある。

 6月上席の花月倶楽部でもこれをやった時、『演芸タイムス』19号(大正1251日)に「「残月が『北白川宮殿下の逸話』、金枝玉葉菊の露と題した十講の内の一席を持ち前の上品な弁舌で聴かせる。実に結構なものであった」と評されている。この後神戸の西宮花月、千代廼座、御代之座へ出演したが、おそらく「北白川宮殿下御逸事」を講演したことだろう。

 晩年

 大正13年は3月から翌年の3月までの一年間は京都の富貴で過ごしている。この間、これと言った逸事は何もない。

 大正144月上席の新町瓢亭で切席に出演し、「薩摩の夜嵐」という現代悲劇物を連夜長講した。

 同年521日より同じ瓢亭で落語七選会が開催された。出演者は染丸、遊三、枝太郎、円枝、春団治、残月、三木助の七人。この時残月の口演した演目は「大喧嘩、改心、元の御主人、志士と芸妓、張子の寅、友人に成らう、馬鹿々々々々、おとくさん、猫婆ア、銀時計、報恩」である。一つ一つ別のものなのか、続き読みのその日その日の演題なのか、これだけではよくわからない。

 このあと南地花月、北新地花月倶楽部、瓢亭、紅梅亭、京三倶楽部、天満花月、京都の富貴その他の席へ出演し続けたが、残月がやった演目で具体的にわかっているのは7月の京都富貴の「探偵実話本郷名代の法衣屋の娘」(連夜長講)だけである。

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 大正1541日より紅梅亭で講談三覇双が開催された。42日付「大阪時事新報」に「南地紅梅亭 講談三覇双 出演者は神田ろ山、神田伯龍と桂家残月等。余興として浮世亭信楽加入」とある。上掲のチラシ(個人蔵)の残月のキャッチコピーは「現存せる名士国士の隠れたる逸話を軽妙に演出する所謂『残月式』…新講話の創始者!」とある。

 残月が新聞に載ったのはこれが最後で、四ケ月後の大正15629日に死亡した。(蹉跎庵主人)

 

 <あとがき>

 大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)に桂家残月の多数の自筆台本と「御座敷名簿・各席講題控」が所蔵されています。この資料について『大阪府立上方演芸資料館 令和3年度年報』(令和411月発行)で、荻田清氏が「発見! 桂家残月資料」、大西秀紀氏が「桂家残月とレコード吹込」という表題で詳しく報告されています。特に大正9年から15年までの「御座敷名簿・各席講題控」はたいへん貴重で、「御座敷名簿」ではお座敷に声がかかった時の依頼者、場所、演目等が、また「各席講題控」は文字通り出演した席と毎日の演目が記されています。全文翻刻紹介の準備をすすめられているそうで、それが完成、公表されれば残月の事績がより明かになるでしょう。その折にはこの項に追加補足させていただくつもりです。今回はとりあえず現在知られている資料によりまとめてみました。

 なお、「桂家残月とレコード吹込」では皇室ものや軍人ものを中心に二十三種のSPレコードが紹介されています。その中の一つ、「東宮妃殿下の巻」上下(ニットー)がYouTubeで配信されているので聞いてみました。こういう口調だったんだなということがわかってありがたかったですが、現代のわれわれにとってはもっちゃりしていていささか退屈なものでした。(2023122日記)