曾呂利新左衛門談話集

曾呂利新左衛門談話集①

グラフィックス1

その一 雑誌「小天地」より 

 落語家の二代目曾呂利新左衛門を書いた書物は、彼が書いた書物も含めて数多くありますが、この「小天地」に二回に分けて掲載されたものは、彼が素人落語家になった頃から、初代文枝の弟子となり、桂文之助更に曾呂利新左衛門と改名した頃までを非常に詳しく書かれています。
 特に興味深いのは、彼が見た江戸末期から明治初期の落語界の様子です。この頃の資料というのは、現在ほとんど見つかっておらず、その意味で最高級の資料であると思います。
 今回はその「小天地」11号と13号に掲載された文章を紹介いたします。


グラフィックス2

 

曾呂利新左衛門  「小天地」第二巻十一号 芸苑 向井藻浦(明治358月)

 関西落語家の古老たる曾呂利新左衛門を新屋敷の寓(ぐう)に訪(と)ふ。先(ま)づ門に入れば半間(はんげん)の襖間(ふすま)に水茎のあとも拙(つたな)なからず。

 人のかげ口そしる御方は二たび御こし御無用、無心がましき事いふお方には対面いや〳〵、主人お宅かと御尋ねのお方へ都合にて留守と答へるときは庭よ 

 り素直に帰るべし、惚(のろ)けばなしは極賛成、助平各位ぞく〳〵来るべし

 三十日(みそか)すぎ中ばも過ぎてことわらば 来る三十日は到底(どこ)もむつかし

 暢気(のんき)も此に到ればまた可なりであらう。 

 雁音(かりがね)連

 私(わたくし)は幼ないときから噺しと芝居が好きでして、親達から少々の小遣ひ銭を貰ひますとすぐに寄席へ出掛けて行て、有頂天になって聞いて居りましたが、聞くばかりでは心がすまぬやうになって、落語家と一所に遊んで見たいやうな気になりまして、分に過ぎたことをやるやうになりましたが、其の頃私は非常に感心をして居りましたのは林屋菊枝の門人で林屋菊丸といふて居た男でして、寄席がはねると菊丸と一所に遊びに行くといふ風で、何時(いつ)とはなく菊丸の真似をするやうになつたものですから、是非一度何処かでやつて見やうと思ふて居りました処が、丁度私しが十六歳の時、そうです安政六年でした、新町橋に雁音連(かりがねれん)といふ素人噺しが出来ましたから、無論宅へは内証で其連中に入りまして、一席やつて見ますと、サア面白くなつて堪(たま)りませんですから、一度はまゝよ二度はよしと、三四度も出て居ります内に、其の連中で御霊の社内の席を借りまして、素人噺しの大相撲を初めましたので、私しも出席いたしまして、猫の噺しをやりました処から、同じ仲間の東西屋豆友(まめとも)といふ男が、私に猫丸といふ名をつけました。

 猫だらうが鼠だらうが、そんな事は些(ちつ)とも構まひません、兎に角も名前が出来たものですから、モウ天晴(あっぱ)れ落語家になりすましたやうな気になりまして、何でも彼(か)でも黒人(くろうと)仲間へ顔を出して見やうと腹を縛(くく)って、ソッと宅を脱出(ぬけだ)して、堺へやつて行きますと、玉木といふ席がございまして、其処に痣(あざ)の勢楽といふのが真打で、林屋房丸桂敬助立川三馬などで興行(うつ)て居りましたから、其の座へ頼んで出勤をいたしまして、例の菊丸の物真似をやりました処が、存外好評(うけ)ましたものですから、いよ〳〵大天狗になつて、邪(じゃ)が非でも落語家になつてやらうと腹をきめました。

 で相変らず菊丸の物真似でやり通して居りましたのを、丁度其の夏に兵庫の西宮内町の相模屋の席で林屋北馬と一座でやつて居りました菊丸が聞きつけまして、それは面白いから是非一度来てくれといふて来ましたので、私しは大得意で早速其の方へやつて行きまして、菊丸がやつた後へ出で、直(す)ぐに菊丸の物真似をやりました処が、此処でもよく似て居るといふので、余程好評(うけ)ましたから、モウ確かに本物になつたと自惚(うぬぼれ)根性で鼻を延ばして居りました処が、宅の方では私しが飛出した切りで帰りませんものですから非常に心配をいたしまして、八方へ手わけをして尋ね廻つて、漸く私しが兵庫に居るといふ事を突きとめて迎ひの者が参りまして、無理に私しを連れ帰り、イヤモウ散々な小言を聞かされた上で、当地に置ては駄目だからといふので、親類になりまする京都の西桐院錦上る処の友染屋、上田藤吉方へ預けられて、マア躰(てい)のよい勘当同様の身の上となりました。

 二度の出勤

 如何な私しも、これには少々弱りまして、向ふではお客でもなくば丁稚でもなしといふ何ともつかずで、追ひつかはれて居りましたが、或日湯へ行きましたが帰りに、一寸と龍塔の圖子(づし)の席を覗(のぞ)いて見ました処が、林屋正蔵染川翫雀などが掛つて居りましたから、一席ぐらい聞いても差支(さしつか)へにはあるまいと、木戸銭を払ふて入りますと、モウ今の自分の身の上も何も彼も忘れて仕舞ふて、一席やつて見たうて堪らぬやうになりましたゆゑ、ズツと楽屋へ遊びに行きまして、一席だけすけさしてくれと、手を合(あわ)さんばかりに頼んで、漸(ようよ)う許して貰ひまして、久しぶりにお喋舌(しゃべ)りをいたしまして、何喰(なにく)はぬ顔をして上田へ帰つて参りましたが、拍子の悪いときには何処までも悪いものと見えて、丁度そのときに藤助さんが其の席へ聞きに行て居りましたので、私しには一向気がつきませんでしたが、帰るなり直ぐに主人の部屋へ呼びつけられて、「全体お前は今時分まで何処へ行て居たのぢや」といふのが口開きで、折角親達に頼まれて居ながらこんな事が出来ては俺がお前の親達にすまぬと、随分手ひどいお眼玉を頂戴しまして、其の後は一人では戸外へ出る事も出来ぬやうになつて仕舞ひました。

 仕方がありませんから、余義なく落語(はなし)の方を思ひ切つて上田の内でおとなしく居りますと、藤助さんもモウ大丈夫と思ふたのでございませふ、親父の方へこれ〳〵だと申(もうし)てやりましたので、漸く帰参が叶ひ、大阪へ帰つて参りましたが、親父は前よりも一層厳重に落語の方をとめて仕舞ひまして、御得意さきの用事を聞きに歩るかされる事になりました。処がまだ若い身体(からだ)の事ですから、ツイ一度御得意さきの旦那に連れられて茶屋遊びをしましたのがそも〳〵やみつきの初めとなりまして、南地の川亭が相生町に居りました頃にそこをお宿坊として遊びたほしたものですから、遂々親父の機嫌を損(そこ)ねて仕舞ひまして、今度こそは久離(きゅうり)切つての勘当ぢやといふので、たゝき出されました。これからがいよ〳〵私しの恥をひろげるお話しなのでございます。

 幇間観八

 朝日新聞の絵師でした芳峰さんが、其の頃は堀江の芝居の角でびらかきをして居りましたから、行き処に困つた私しは先づ兎に角もこれを便りまして、実は斯(こ)ういふ訳でたゝき出されて困つて居るが何かよいことはあるまいかと相談をして居ります処へ、顔役の亀福さん══鳴門鮓といふ鮓屋をして居りまして、唯今は其の子息(むすこ)さんが矢張り同じ商売をして居られます══がブラリとやつて来まして、私しの話しを聞きまして、そんな事なら一番グッと開けて幇間をやつて見たら什麼(どう)ぢやといふので、成程こいつは面白ろからう、身銭を切らずに散財が出来るといふのだからこんな商売は他にはないと、道理(もっとも)らしいやうな不量見(ふりょうけん)を起しまして、堀江の常盤店から出ることになりましたが、豈計(まさか)に以前の素人噺しの時の猫丸といふ訳にも行きませんので、何かよい名はないか知らんと亀福さんに相談をいたしますと、ヂャア乃公(おれ)がつけてやらうといふので、観八といふ名をつけてくれました。この観八といふ名は、其の頃堀江の大盡(だいじん)で、北国の船持の茂平さんといふのがありまして、この人の持船の名が観音丸といふので、其の「観」の一字をとりましたのでございます。

 デ幇間をやつて居ります間には、随分乱暴なことをやりまして、お茶屋へ迷惑を掛けたことが幾度もございました。その一ツ二ツをお話しをいたしますと、矢張り堀江の吉阪(きちさか)屋でお客に呼ばれまして、幇間四人で芝居をやれといはれましたので、狂言は「鈴ケ森」ときめて、私しは雲助です。衣装とか假髪(かつら)とかは、急の事ですから仕方がありませんゆゑ、何でも他のことで凝り込んでやらうと、台所へ行きまして、焚きつけを一掴みほど取つて来まして、それを座敷の真中へ置いてパッと火をつけて済した顔をして居りますと、火は次第に燃えあがつて、畳が焼けたものですから、居合した者等は非常に驚いて、大騒ぎをして消して仕舞ひ、うんと乱暴なことをしてくれては困ると散々小言をいはれましたけれども、私しは一向平気なもので、こんなことでびくつくやうでは仕方がないと威張りたほしましたので、これが却つて呼びものとなつて、一時は随分売出しましたが、まだ〳〵こんな事位ではありません。

 盃洗へ小便

 御池橋の藍玉(あいたま)屋で、阿波嘉(あわか)といふ大盡(だいじん)がありまして、其の頃全盛をきはめたものでして、私しは其の旦那の贔負(ひいき)になりまして、初中終(しょっちゅう)お供をして居りました。或日この旦那のお供で、新町九軒の神埼屋へ遊びに行きましたときに、一座の連中は紋太、かな八、かな助で、芸者がゆか次、久吉などといふ年より顔に、若手が七八名で、広間は殆んど一ぱいといふ人数です。

 段々酒がはづみまして、芸盡しなども大抵出ましたときに、旦那が私しに向きまして「オイ観八、お前は随分乱暴で通して居るのだから、一ツこの盃洗(はいぜん)へ小便をして見ろ」といふのです。「ヘイその位ゐはお安いことです」と、水を打(ぶち)あけて仕舞ひまして、ジャァ〳〵とやりました処が、旦那はそれを手に取りあげて「サア観八の小便だ、皆一口づゝ飲め」といふので芸者どもの前へ突出したものですから堪りません、キャアヽと逃げ出すのもあれば、笑ひたほれて癪(しゃく)を起すものもあり、お煮(つ)けは転落(ひつくり)かへり、燗徳利(かんとっくり)はころがる、イヤモウ座敷中が滅茶苦茶になりましたものですから、私しはあり合した甲斐絹(かいき)の座布団で、そこらをグル〳〵と拭きました。

 処が暫くしますと、「観八さん一寸」と呼ばれましたので、ハイと返事をして何心なく降りて行きますと、其宅(そこ)の支配人ともいふべき政七といふ男が「オイ観八さん、座敷で洗盃の中へ小便をしたり、甲斐絹の座布団で座敷中を拭き廻つたといふのは、お前さんか」と尋ねられましたから、「ヘイさうです」と申しますと「ジャアお前は、お客のいふことなら、何なことでもする積りか、イヤお客が若(も)しこの家へ火をつけて見ろといふたら、ヘイといふて火でもつける考えか」とキツと私しを睨みつけました。私もきかぬ気ですから、黙つては居りません。「さうですとも、商売が商売ですから、お客のいふ事でしたら何なことでもやつて見せます。火をつける位なことは朝飯まへで、堀江のお茶屋でも座敷で火を燃したことがございます」ときつぱりいふと、政七は顔を真紅(まっか)にして、「コン畜生洒落たことを吐(ぬか)すない」といひさま拳をかためてポカリと二ツ私しの頭をくらはしましたから、私しも腹にすねかねて、何を生意気なことをさらすんだと、飛掛(とびかか)らうと思ひましたが、旦那のお供で来て居る身体(からだ)ですから、さう〳〵勝手なこともならずと、二階へバタ〳〵と逃げて来ますと、旦那は私しの模様が変つて居るものですから、「オイ観八什麼(どう)したのだ」と尋ねられましたので、実はこれ〳〵で今政七に頭を一ツやられましたと話しをいたしますと、旦那は非常に腹をたてゝ「乃公(おれ)が連れて来た幇間の頭を撲(なぐ)つたのは、取りもなほさず乃公を撲つたのも同じことだ。貴様が勘弁も乃公が勘弁が出来ぬ」と幇間は八方から留めても留らばこそ、エヽ放せ〳〵と振払つて、バタ〳〵と出て行かれました。

 サア残つて居る者は心配でたまりません。什麼(どう)なることかと思ひながら、打連れて戸外(かど)へ出て、旦那の行つたさきを探さうとして居ります処へ、向ふの方から、二柱、平石といふ二人の力士が化粧廻し一ツの赤裸体(あかはだか)で、旦那をさきへたてゝ地響きをさして韋駄天走りでやつて来まして「ソレ構ふことはないから、この宅を叩きつぶして仕舞へ」といふと、二柱と平石は、よろしいといひながら、ウンと力声をかけて入口の柱に手を掛けました。さうなると流石の私しも気が気でなく、元はといへば私しが頭を一ツぶたれた位ゐのことゆゑ、什麼か無事に納つてくれゝばよいがと思ふて居ります処へ、神埼屋の亭主はいふに及ばず、家内中残らず出て来まして、不行届の段は幾重にもと、大地へ手をついてあやまり入り、又仲へ入つて仲裁をするものも出来ましたものですから、それでは政七が観八の宅へ出て来てあやまれば許してやるが、さもなくば二度と此宅へは来ぬからさう思へといふので、一座の者を連れて引上げましたが、向ふも骨がかたいと見えて、私しの方へは断りに参りませんでしたから、其の後は旦那も神埼屋へは行かぬやうになつて仕舞ました。

 鰻飯の粥

 矢張り其の阿波嘉(あわか)の旦那のお供で、堀江の若悪北須(わかあくきたす)といふお茶屋へ参りました時に、鰻を一両ばかり焼かしまして、飯を十人前ほどとりましたから、幇間の駒八が皿に盛りわけやうといたしますと、旦那がとめまして、鰻の上へ飯を打あけまして「サア飯の方から食へ」といふのです。芸者どもは、旦那はんそんなことがといふて控えて居りますと、駒八は一寸と考えまして、有り合したあんを其の上から掛けてグル〳〵とまぜましたから、私しも敗(ま)けぬ気で胡瓜(きゆうり)のザク〳〵をはねかけて、グチャ〳〵にして仕舞ふたので、食ふ事も何(どう)する事も出来ぬやうになつて仕舞ひましたが、旦那は平気なもので、「お前等が食ふのがいやといふなら、乃公(おれ)が持て帰るのぢゃ」と折箱を沢山に取りよせて、これをつめてお宅へ持て帰り、翌日それをお粥にしました処が、店の者等は何だか解らんゆゑ、誰れも手をつけませんのを、旦那は構はず二三杯食べたさうでございました。

 其の頃では料理屋などへ遊びに行きましても、残りを折詰にして持て帰るなどといふ事はありませんでしたが、私しは何処までも風変りで通つたものですから、何処へ行ても残りを折に入れて帰つて乞食にやるのを楽みにして居りました。丁度今の南地の水族館の所あたりに「とかく」といふ料理屋がありまして、私しが参りますと何時もお客に頼んで飯と肴を沢山にとつて貰ひまして、それを自分でむすびにこしらへまして、沢山に竹の皮包みをこしらへて両手にさげてブラブラと帰つて来ますと、乞食が私しを持て居りますから、それに一ツづゝやりまして、宅へ帰ることと定て居りまして、それを何よりの楽しみと致して居りました。

 吹くや川風

 堀江の山形家のお客で、小間物店の割木屋で安さんといふ人がございました。矢張り私しを贔屓にしてくれまして、遊びに来るたびに私しを呼んでくれて居りましたが、或日私しに金を五両ほど出しまして、これで揃ひの鳴海の浴衣を買ふて来いといふので、ヘイよろしふございますとプイとお茶屋を出掛けましたが、フト考へますと、最初私しを幇間に世話してくれました亀鶴さんの客が大丸と取引きをして居るので、台所に大丸の通帳(かよいちょう)をかけてあるといふことを思ひ出しまして、何心なく其の通帳をとつて来まして、かけで大丸から買込んで、安さんに渡しますと、急ごしらへに仕立をして、それを一同に着せまして、築地の竹しきへ遊びに参りました。

 其の時の連中は安さんと幇間が私し一人で、芸者は市鶴、小峰、峰弥などゝいふ顔で、景気よく竹しきへ繰込みまして、ドンチャン騒ぎをやりました処が、安さんは急に何か用事が出来たといふので、只今の十二時頃に帰つて仕舞ひ、小峰も他に約束があるとかで間もなく帰り、取残されたのが市鶴と峰弥と私しの三人です。

 兎に角も竹しきで泊りまして、翌朝ズツと山形屋へ帰れば仔細はなかつたのですが、腰巾着(こしぎんちゃく)の中には私しの余りが二両ばかりと安さんから受取つた浴衣代の五両と都合七両ほどもあるものですから、このまま帰るのも余り曲がなさ過ぎるといふので、無理に二人の芸者を勧めて、屋形船を一艘あつらへまして、朝から大川へ出まして、吹けや川風で船を流して、新堀の増吉といふお茶屋へ繰込みまして、大散財をやりました。其の時に呼びました幇間が敬助と申しまして、只今の梅丸でございます。何しろ物は安い時分ですから、分に過ぎたことをやりましても、五両内外位ゐの払ひで済みましたから、什麼(どう)せつかひ傳手(ついで)ぢゃと、屋形船のまゝで釣りに出掛けやうといふので、安治川の方へ漕ぎ出しまして、渡しの近くまで参りました処が、渡し船にお客が一人乗込んで、私しの方へやつて来るのです。

 幇間の廃業

 オヤ誰れか知らん、それとも何処か他へ行くのか知らんと見て居りますと、船は次第に私しの方へ近づいて参りました。段々近よつて来るので、よく見ますと、船に乗て居る人といふのは、例の割木屋の安さんです。オヤ〳〵これは悪い人に見つけられたと思ひましたが、今更ら逃げるといふ訳にも行きませんので、モウ因果腰をきめて待て居りますと、安さんの船は私しが乗つて居ります船へペタリと横づけにしましたので、ポイと私しの船へ乗るが早いか、拳をかためてポカリ〳〵と五ツ六ツ撲(なぐ)りつけられまして、「ヤイ幇間風情(ふぜい)で分に過ぎた真似をさらすな」といやモウ散々の不首尾(しゅび)で、ひらあやまりにあやまりまして、山形屋へ帰つて参りますと、山形屋ではあんな不始末をしてくれてはお客さんから勘定を貰ふ訳に行かんから、気の毒だがお前から仕舞ふて貰はねばならぬといふのです。

 私しも仕方がありませんから、よろしい昨夜の勘定は私しの手からお払ひをいたしませふと、立派に受込みまして、勘定書を見ました処が十一両といふのぢゃありませんか。何程といはれても此方(こつち)が悪いのですから什麼(どう)することも出来ず、少しばかりこしらへて居りました着類を残らず質に入れましたが、それでもなか〳〵十一両といふ金は出ません。すると市鶴なんかも気の毒ぢゃといふので、三枚五枚と着物を貸してくれましたので、マア什麼やら恁(こ)うやら払いだけは済しました。

 ヤレ〳〵と安心をすると、今度は例の亀福さんの大丸の通帳一件です。追々月末になりまして、亀福さんに若(も)し通帳を調べられますと、鳴海(なるみ)の浴衣代五両と記してあるので、これは必定観八がやつたのに相違ないと、非常に立腹して私しの方へ談じつけられましたが、やつとの思ひで工面澁面をして、山形屋の払ひをすました処ですから、五両はおろか一両の金の融通もつきません。といふて其のまま捨て置く訳には行きませんので、兎に角も何とかいたしますからと、一日延ばしにして居ります内に、余り乱暴をやつたためでもありませふが、とやに罹(かか)つて廃業せねばならぬやうになりました。ハイとやですが、マア平たくいふと、むらぐひをしたために髪なんかが脱(ぬけ)る事でして、胃病の質(たち)の悪いやうなものでございませふ。

 三度目の落語家

 これ幸ひと幇間をやめて仕舞ひまして、法善寺の泉熊(いづくま)の席══西の席のことです══へ出勤しやうと思ひまして、其の時の真打をして居りました初代笑福亭松鶴に頼みに参りました処が、兎に角も一席やつて見たらよからうといふので、初めて出勤いたしましたのは元治元年の四月頃でございました。乙女狐といふのをやつて見ました処が、お客はなか〳〵黙(だま)つて聞てはくれません。私しがヌッと出るなりモウ廃(お)け〳〵の一点張りで、什麼(どう)しても聞いてくれませんが、こんなことでヘコタレてはならぬと、十分元気をつけてやつてやつてやりまくつて、お終ひに例の菊丸の声色をやりました処が、これがマア少しは受けましたやうで、三分二朱ばかり祝儀を貰ひました。スルト松鶴はお前は病よりは気が勝て居る男だから、やつてやれぬことはあるまい、といふので、漸(ようや)く弟子にしてくれまして、松竹(しょうちく)といふ名を貰ひました。

 サアそうなるといよ〳〵大車輪で、一生懸命にやつて居ります内に、夏もすぎ、秋も過ぎて、其の年の暮れとなりましたので、いろは山といふ宅で忘年の宴会を開くことになりました。先づ當地で有名な落語家連中は残らず出席をいたしました。其の時の順は真面(しょうめん)に立川三玉斎で、次ぎが林屋菊枝、其の次林屋菊丸、次が林屋正楽でして、これに向ひ合ひまして坐つて居りますのが桂文枝笑福亭松鶴で、この二人は一座の内では若手顔でして、松鶴は確か三十九位ゐで、文枝も四十前後で、随分火を摺(す)り合つた仲なのでございます。其の席で互ひに自慢話しが出まして、文枝が申しますには、私しが出ればお客が「三十石やつてや」といふので、これが呼び物になつて居ると申ますと、松鶴もまけぬ気で、私しが出れば「三人兄弟をやつてや」といふ声ばかり掛ると申ますと、横で聞いて居りました菊枝がニタ〳〵笑ひまして、及公(おれ)が出るとお客はただ「待てました」といふばかりで、チッとも注文をした事がない、つまり注文をされるといふのは、それより他に旨いものがないからぢやといひました。私は其の時には隅の方で小さうなつて居ります頃でして、成程名人達者といはれるやうになつては、注文されるやうでは駄目ぢゃと深く感心いたしまして、何でも注文をされぬやうにならねばならぬと考えました。

 昔しの落語家

 其の頃の寄席と申しますと、昼と夜と二度になつて居りまして、昼の方をぼり話といひ、夜の方をとりきりと申しまして、とりきりと申しますと、大抵二十四文の出しきりで、小さな竹のさきに赤い紙がはつてあるのを貰ひまして、髷とか火入とかへさして果(はて)まで聞いて居りますので、ぼりと申しますと、マア只今の東京なんかでやつてる居る芝居の一幕見物とでもいふやうなものでございまして、一ツの話しに通例がぼりを三度かけますので、つまり話しをして居ります内に、此処等が乗切りだとか、今切つてやつたらお客が残念がるだらうと思ふ頃に、講座[高座]でお饒舌(しゃべ)りをしながら、傍に置てありまする拍子木の小さなのをチョンといはしますので、スルと勘定場の方のお茶子が大きな袋を持て居りまして、金を集めに廻りまして、一人前二文づゝとりますが、面白くないと思ふお客はズン〳〵出て仕舞ふて、門口に立つて、其の話しが終(す)むまで持て居るといふ風でございます。ですから人気があるものはぼりを沢山に掛けまして、ひどいのになりますと、一ツの話しの内に五度ぐらゐ掛ける人がございまして、集めました金は、随分ざまの悪いことですが、講座の横に大きな銭入れがありまして、それへザラ〳〵と入れますのでございます。

 唖者(おし)と聾(つんぼ)と廃業

 慶応元年の正月元日から、笑福亭松鶴笑福亭かんち吾鶴柳枝といふ一座で、私しも加はりまして、京都三条の矢田の席へ出勤をいたしまして、木戸二十四文であつたのを、百に値あげをして、桟敷をこしらへて二朱で売り出しましたが、寄席で桟敷を売りますのはこれが初めでございます。初日早々から大入でして、百五十六日間うち通しました程でした。

 処が其の間に私しは什麼いふものですか唖者(おし)になりまして、一寸(ちょっ)ともものをいふ事が出来ぬやうになりましたゆえ、十日ばかり席を休みまして、色々と養生をいたしまして、漸く全快いたしましたから、今度は其の一座で伏見の箒(ほうき)町の芝居へ乗込みまして、興行して居ります内に、今度は三日目あたりから聾(つんぼ)となりました。 スルと師匠の松鶴は非常に立腹いたしまして、唖者になつたり聾になつたりするのは、畢竟(ひっきょう)お前の気持ちが悪いからで、梅毒からそんなことになるのだから、そんな者を弟子に持て居ては他の者のしめしが出来ぬゆえ、今日限り弟子師匠の縁を切つて仕舞ふからさう思へといふので、折角(せっかく)少しばかり売れかけて居た松竹といふ名前までも取あげられて仕舞ひましたから、私しは殆ど困り切りまして、医者の払ひや何や彼(か)やに、忘れもいたしません、襟数五十二枚持つて居りました衣裳を残らず売払ふて仕舞ひまして、垢にまみれた浴衣一枚で、まだ薄ら寒い春のくれを、トボ〳〵と京都へ引返して、別に何処といふ心当りもありませんから、四條大橋の詰で財布の底をたゝいて甘酒をのんで居ります処へ、通り掛つたものがございます。サアこれから又もや幇間になるといふお話しでございます。

 再度の幇間

 通り掛りましたのは、先斗町の艶菊(つやぎく)、小吉といふ芸者で、私しを見まして「マア松竹さん、什麼(どう)したのです」と尋ねられましたから、実はこれ〳〵でと、前のことを詳しく話しをいたしますと、それは気の毒ぢやといふので、私しを先斗(ぽんと)町の顔役で反古(ほぐ)の岩といふ人に引合はしてくれまして、其人の世話で大松といふ幇間店から千九八(ちくはち)といふ名で幇間になりました。

 処が何が呼び物になるやら解らんものでして、松竹が幇間になつたといひ出し、非常によく売れまして、近喜、島屋、吉川などの贔屓になりましたゆゑ、他の幇間は私しをそねみまして、一同申し合して店に引くといふ騒ぎです。マア幇間のストライキといふ奴ですな。それには私しも大いに心配をいたしましたが、桂愛(かつらあい)の主人が尻おしをしてくれましたので、先づ羽振りよくやつて居りまして、木屋町の三条を上つた処の露次(ろじ)に一軒の家を借受けて独身で暮して居りますと、ツイ近くに関東湯といふ湯屋がありまして、それへ来る芸者共が帰りには必(きつ)と私しの宅によつて、面白半分に御飯をたいて、こげたのやほつ飯や、時としては粥のやうなのをこしらえたり、菜(さい)を煮るとからすぎたり、水くさかつたり、イヤモウ口にもあはぬやうなものばかりをこしらえて、マア面白可笑しく暮して居たのでございます。

 自惚(うぬぼれ)から災難

 或日祇園の幇間で、若平(じゃくへい)といふのが遊びに来まして、お互ひに他人のおもちゃになつて居るばかりが見得(みえ)でもあるまいから、今日は一番遊びに出掛けやうぢやないかといふので、それはよかろうと二人連れで壬生(みぶ)の壺屋といふお茶屋へ遊びに参りました。

 お茶屋といふと何だか立派なやうに聞こえますが、此処等はマア休(てい)のよい淫売(いんばい)宿のやうな処でして、二人とも年増(としま)の女郎を知らしました処が、向ふでは私しを知て居りまして、貴郎(あんた)は矢田の席に掛つて居た松竹さんぢゃありませんかといふので、初会の割合に大もてで、又逢ふまでの印しとひすごき(編者註:下着をしめる帯)を一筋くれましたから、私しはモウ色男になりすましまして、キツと二三日の内に来るといふて別れて帰つて参りましたが、前にもお話をした通りで、宅の世帯といふのが滅茶苦茶ですから、ツイ〳〵小遣(こづかい)銭に困りますので、帰り路(みち)に川原町四條の手前の川仁(かわに)といふ古着屋へ二分に売て仕舞ふて、宅に帰つて来ましてお座敷を働き、女郎のことを忘れて仕舞ふて、十五六日も経過(たち)ました頃に、店から人が来まして、今お前に逢ひたいといふて来て居る人があるから一寸と店まで来て下さいといふて来ましたから、私しは何の心もつかずに店へやつて行(いつ)て見ますと、くりからもん〳〵の遊び人風の男がクルリと裾(すそ)をまくつて私しを待つて居るのでございます。

 未曾(つい)ぞ見たことがない人ですから、恐る〳〵貴下(あなた)は誰様(どなた)ですかと尋ねますと、グツと私しを睨みつけて「俺(わっ)ちは壺屋から来たのですが、お前かへ、女郎のひすごきを持て帰つたてへのは。何だ、貰つて来たのだつて、オイ〳〵馬鹿にしなさんな、二日か三日といふて置きながら、十五日にもなつて返しに来ぬとは余り酷いぢゃないか、酢の蒟蒻のと文句をいふことはないから、サアたつた今返して貰はう」といふので、まかり違へば撲(なぐ)りつけやうといふ権脉(けんみゃく)ですから、什麼(どう)することも出来ず、それでは暫く待て居て下さいと、店を飛出して川仁へ駆けつけて尋ねてみました処が、今出川辺の仲間へ売つたといふので、仕方がありませんから、其の足で今出川へ尋ねて行て、それからそれへと尋ねわたつて、漸く頼みまして三分で売戻して貰ひまして、其の男へ返しましたが、それがそも〳〵ケチのつきはじめで、折角売りかけた人気が僅かの間にバタ〳〵と落て仕舞ひまして、漸く一通りこしらえた着物が見る間になくなつて仕舞ふて、今度は自分のものといふては浴衣一枚ないやうになつて仕舞ひました。

 高瀬川の相撲

 下り阪は早いもので、僅かの間に何も彼(か)もなくなつて仕舞ひまして、近江八重の貸浴衣一枚で、返事があつてもお座敷へ出ることも出来ず、高瀬の橋のそばへつくねんと立つて、水の流れを見て抦(がら)にないことを色々も思ひ沈んで居りますと、後ろからポンと背中をたたく人がありますので、フト願返(ふりかへ)つて見ると、これまでに一度も見たこともない人でしたから、不思議に思ふてウロ〳〵と其の人の顔を見て居りますと、其の人は「オイ何処かへ飲みに行かう」といふので、其のまま池亀へ行きまして一盃(ぱい)やつて居りますと、此頃ではそんなことはありませんが、乞食が沢山やつて来まして、お手の内をと靑蠅(うるさ)くいふものですから、エエ靑蠅い、それほど貰ひたくば、川の中で乃公(おれ)と相撲をとつて見ろ、勝つた者には何かやるからと浴衣のまゝでジャブ〳〵と高瀬川へ入りますと、乞食共も面白ろがりまして、やつて来ます奴を、最初の一人は美事(みごと)にポンと投つけましたが、其の次に来た奴は余程力が強うございまして……何(なあ)に私しが弱いので……容赦なく私しは其処へ投つけられまして、足に怪我をするやら、浴衣はもとよりズク〳〵となつて仕舞ひましたので、池亀の浴衣を借着(かりぎ)をいたしまして、近江八重の浴衣を洗濯して貰ひました。

 スルトお客はこれから祇園町へ行かうと申しますゆえ、お供は致しますが豈正(まさか)に浴衣がけで参るといふ訳にはといひ掛けると、オツと皆までいふな解つて居るといふので、前にお話しをいたしました古着屋の川仁(かわに)へ行て、羽織(はおり)と着物と帯とを買つてくれましたから、それを着まして早速祇園町へ出掛けて行きました。

 お客を面白可笑しく遊ばしまして、二分ばかりの祝儀を貰ひまして、帰りに川仁へよつて、お客から買ふて貰ふたゞけのものを悉皆(そっく)りぬいで仕舞ふて、少々値を引いて買取つて貰ひ、預けて置いた池亀の浴衣を着て池亀へ行き、其処で近江八重の浴衣と着替へて、宅へ帰つてブラリとして居ります処へ、先斗(ぽんと)町の吉川席の若勇(わかゆう)といふ芸者が入つて来まして、此頃チツトもお座敷へ出ぬではないかと尋ねられましたから、実は欺(か)くの始末でと、着物のないことを話しをいたしますと、それは気の毒なことぢゃといふので、家形(やかた)へ帰つてから綿入りの帷子(かたびら)を一枚届けてくれました。

 落語家へ逆戻り

 ヤレ嬉しやと早速それを着ましたが、考へて見ますと、幇間も幇間で、格別面白いこともないから、それよりは矢張り元の落語家の方が面白からうと、かく八といふ幇間を連れて、宅は米助といふ幇間の婆さんに頼んだまゝで、別段心に掛るやうな大事な品もありませんから、手ぶり編笠で京都を出立(たつ)て、江洲(ごうしゅう)八幡へ落語家となつて乗込ました。

 元より飛出しの身ですから、さう〳〵大威張りでやることも出来ませんゆゑ、先づ兎も角も涼みといふので、八幡の境内で初めました処が、存外(ぞんがい)お客が来てくれますが、よく聞きますとお客の来るのも別に不思議はありませんので、はなしを聞くといふのを口実にして、賭博をやりますゆゑ、近辺の者等は話しを聞きに行くといふて宅を出てやつて来ますので、そんな訳ですから、給金もよろしふございまして、油火に食事は先方(むこう)持ちで、給金が一日一両といふので、畢竟(つまり)テラのかはりに貰ふて居るやうなものでございます。

 そんなのですから贅沢の仕次第(ししだい)で、着物は出来る、金は出来る、旨いものは食ひ次第で、夏でしたから西瓜なんかでも大づかみな買方をいたしまして、食ひたほしたゝめに、遂々病気に罹りまして、働くことが出来ぬやうになつて仕舞ひ、折角こしらえた着物にはボツ〳〵手がつきまして、僅かの間に薬代にも差支(さしつか)えるやうになりました処が、醜い医者もあればあるもので、薬代を貰はねば薬をやることは出来ぬといふので、まだ枕もとに二日分ほど残つて居りました薬を持て帰つて仕舞ひました。


〈編者註〉
菊丸
:初代林家菊丸。初代正翁の弟子で、元治元年まで存命であった。多くの大津絵が残つている。弟子には二代目菊丸、花丸、染丸がいる。

猫丸:初代桂猫丸。素人落語家時代の名前で、これ以外に、「夢丸」、「かしく」を名乗っていた。尚、二代目は初代桂枝太郎の父親が名乗っている。

勢楽:初代笑福亭勢楽。「あざの勢楽」。笑福亭では二代目吾竹と共に大物であったようで、弟子には、勢勇、勢柳等がいた。尚、二代目は新劇俳優の川上秋月が名乗った。

房丸:林家房丸。初代菊丸の弟子と思われる。

敬助:桂敬助(慶助)。最初桂慶治の弟子で慶助(敬助)。一時幇間になった後、初代文枝の弟子で梅丸。

三馬:立川三馬。二代目三玉斎の弟子。奇術を得意とした。

北馬:林家北馬。不詳。

正蔵:林家正蔵。正翁の弟子と思われる。文左衛門は、松鶴、慶治と共にうまい噺家の一人としてあげている。芝居噺を得意としたらしい。

染川翫雀:不詳。「本朝話者系図」に、上方の人で、弘化から嘉永年間に江戸にいた染川翫楽という噺家がいたらしいが、その門弟かもしれない。

観八:曾呂利の大阪幇間時代の芸名。

松鶴:初代笑福亭松鶴。二代目吾竹の弟子吾玉(或いは松喬)から松鶴を名乗る。幕末に初代文枝の好敵手で人気者あった。

松竹:笑福亭松竹。曾呂利がプロの噺家としての初めての名前。尚松竹の名前は何代かあり、四代目松鶴も名乗っていた。

三玉斎:二代目立川三玉斎。明治十三年四月に死亡。初代文枝や初代松鶴より上にランクされた大看板。この人が亡くなって、事実上立川派は上方から消滅した。

菊枝:二代目林家菊枝。正翁の弟子で、正楽から二代目正三、更に二代目菊枝を名乗った。正翁に継ぐ大看板で、俗に「鼻つまりの菊枝」と呼ばれた。弟子には竹枝(後の四代目正三)、菊助(倅)がいた。

文枝:初代桂文枝。本名桂文枝。笑福亭梅花の弟子で、万光から梅花、梅香を名乗り、四代目文治門下で文枝を名乗った。幕末から明治初期にかけて活躍。衰退していた桂派を立て直した。文之助、文団治、文都、文三等の多くの名人を輩出した。

正楽:林家正楽。正楽も何代かあり、初代が二代目菊枝、二代目が三代目正三、五代目が五代目正三。六代目正楽は五代目松鶴の義父にあたる。

吾鶴:吾鶴も何代もあり、初代は二代目吾竹。この人は二代目吾竹の弟子と思われる。

柳枝:桂(笑福亭)柳枝。初代松鶴の弟子で、松柳(松朝)から柳枝。後曾呂利の弟子となった。極度の近眼のため、「眼鏡屋の柳枝」と呼ばれた。

千九八:曾呂利の京都幇間時代の芸名。



曾呂利新左衛門談話集②

小天地11号

曾呂利新左衛門  「小天地第二巻十三号 芸苑 向井藻浦(明治3510月)

◎江州と長どす

渡る世間に鬼はないといふ譬(たと)への通りで、私しが困り切て居ります処へ、なや六といふお茶屋のお富といふ芸者が来てくれまして、其茶屋の二階で養生をすることゝなりました。土鍋を三味線箱の中に入れて置(おい)て、お粥をたいてくれたり、薬をとりに行てくれたり、親身も及ばぬ程にしてくれましたので、流石の病気も間もなく全快をいたしまして、又々寄席へ出ることゝなりましたので、其頃から毎晩のやうに寄席に出てくる十七八歳の婦人がございまして、田舎に稀れな美人ですから、私しもまだ若い時分でもあり、何とかして彼の女を手に入れてやらうと、窃かに時節を待つて居ります処へ、文枝の師匠の立川三光三木(さんぼく)を連れて乗込んで来ましたゆゑ、話しに行て見ますと、其の囃子方となつて来て居りましたのが私しの師匠であつた笑福亭松鶴の妾でしたお八重といふ人です。

オヤこれは奇(めず)らしいと色々話しをいたしますと、お八重さんが申しますには、松鶴は今年(慶応二年)の正月二日に死亡(なく)なつて、其の時に松竹は不品行だから一旦破門はしたけれども、十分見込みのある男だから大阪へ帰つて勉強すればよいといふて居たとのことですから、私しは何だか急に大阪の空が恋しくなり、席亭に暇をくれと申込みますと、なか〳〵承知をいたしませんものですから、私しも意地になつて、邪(じゃ)が非(ひ)でも帰らねばきかんといひ張(はつ)て居ります処へ、瓢箪小路の長どすが二三人出て来まして、全体貴様(きさま)がそれだけの身になつたのは誰れのお蔭だと思ふて居るのだと申しますから、私しもまけぬ気で、知れたことだい、このお蔭だと自分の口を教えますと、長どす連中は火のやうになつて怒りまして、コン畜生巫山戯(ふざけ)たことを吐(ぬか)しやァがるなといひ様長い奴を抜いて振上げました。

こりや堪らん逃げてやらうと思ひましたが、三方を取囲まれて居るものですから什麼(どう)することも出来ません。アーこりあ何しても殺されるのか知らんとガタ〳〵慄(ふる)えて居ります処へ、傍(はた)で見て居りました一人の下駄の直しがやつて来まして、マア〳〵親方衆お待ちなさいと、長どす共をとめてくれまして、コレサお若いの、全体お前さんは如何に商売なればとて余り口がゑらすぎる、成程お前さんの口で儲けたのには相違ないが、それでも親方衆のお引立てがなかつたならなか〳〵旨(うま)く行くものぢゃない、それを自分が勝手に儲けたやうな心を出して、勝手気儘(きまま)に帰るとか何とかいふてはいかん、責(せめ)て八朔(はっさく)を済ましてから帰るとしなさいと、懇々(こんこん)といはれたものですから、仕方がありませんで、それでは兎も角も、八朔までやりませふと返事をして、其の場は漸(ようよ)う納まりましたゆゑ、何は偖(さて)置きあの直し屋へ礼に行かねばならんと、早速菓子折を持て出掛けて行き、いろ〳〵と礼を述べまして、其の宅を出て帰りかけますと、丁度其宅(そこ)から家敷にして五六軒ばかりも離れて居りましたが、矢張り穢多村の内に立派な門構えの宅がありまして、其の門口に立て居る一人の女がございます。

見るともなしによく見ますと、其の女と申しますのは驚いたぢやございませんか、私しが岡惚れをして居た女なのでございませう、オヤ〳〵あんな可愛らしい顔をして居て、それで穢多とは偖々惜しいものだが、併しまだ関係をして居なかったので助かったといふものぢゃと、そこ〳〵に通りすぎて宿に帰り、それから後は面白くも可笑(おか)しくもなく日を送つて、ヤットの思ひで八朔までやりましたから、生命(いのち)でも拾ふたやうな心持で当地へ帰って参りまして、座摩の社内の丹長の昼席を勤めることゝなりましたが、其時の一座は、林家花丸桂梅枝(後に藤兵衛となる)、林家染丸笑福亭柳枝と私しとで、私しの名は、笑福亭梅香と申して居りました。

 それから間もなく、新町九軒の末広席へ出勤をすることゝなりましたが、其の時の真打は林家正蔵で、前にお話しをした西京の龍塔の圖子(づし)にかゝつて居て、私しが素人で一席すけさして貰うた人で、席主の菊次郎といふ人が、非常に私しを引てくれまして、正蔵のもたれをやらしてくれたものですから、他の者等は皆な私しの身の上を羨(うらや)むやうになりました。

 ◎幽霊の失敗

 一足飛びの出世に、私しはモウ嬉しうてたまらず、大車輪になりまして、俄師から役者の声色、指影絵、足踊りなどをやり、歌などは調子はづれの馬鹿声を出してやつたものですから、存外お客にうけまして、私しが入つて正蔵が出ますとお客は大抵帰つて仕舞ふといふ始末で、段々正蔵のうけが悪くなりかけましたので、正蔵は非常に立腹いたしまして、そこ〳〵に話しを切上げて入つて来て、どん素人め、いひ加減に馬鹿にさらして置け、向ふを見て話しをしろと申しますから、私しも一寸間誤(まご)付きましたが、何喰はぬ顔をして、お客がやれといふものですからやりましたといふて居る処へ、席亭の菊次郎がやつて来まして、正蔵さん、お前さんも勝手なことをいひなさんな、如何に(いか)に梅香(ばいこう)がながくなつたとて、松鶴文枝が出れば誰れ一人帰る者もないのだから、つまりお前さんが下手だからですと申しますと、正蔵はいよ〳〵立腹いたしまして、さうですかといふたまゝで、プイと帰て仕舞ひ、翌夜から出て参りませんので、仕方がなく私しが真打をやることゝなりましたが、これが私しが檜舞台で真打をやりました始めでして、明治三年頃のことでございました。

 丁度その頃でした。桂慶治が怪談をやつて、慶子といふのが幽霊に出て居りましたが、或日慶子が病気で休みましたので、私しに気の毒だが幽霊をやつてくれんかといはれましたけれども、私しはやつたこともなければ、台詞(せりふ)もちつともわかりませんから、断りを申しますと、ナニ別に造作も何もない、たゞ怨めしいとさへ言ふてくれゝばそれでよいのぢゃと申しますから、それだけでよくば一番やつて見やうといふので、顔をぬりまして、火が消えるのを相図に高座へ出て、怨めしや〳〵といふて居りますと、慶治は何とか台詞をいふてくれと申しますのゑ、又怨めしやとやりました処が、エヽ怨めしやだけでは困るぢゃないか、何とかいふてくれと申しますので、私しも馬鹿〳〵しくなつて来ましたから、オイそんな無理いはれては困るぢゃないか、お前が私に代りを頼んだときに、たゞ怨めしいとさへ言ふてくれゝば善いと言つたから、私は其の通りに怨めしいといふて居るのじやないか、何も私は幽霊をする役ぢやないのだ、川柳にもある通り、『幽霊ははなしの中の面(つら)よごし』だと、一言二言いひ争いをやりました末が、講座[高座]で掴み合ひを始めましたので、お客は吃驚(びつくり)して、マア〳〵と中に入つて取鎮(とりしず)めてくれましたが、慶治はこれを根にもつて、翌晩から病気といひたてゝ出勤をせぬようになつて仕舞ひました。

 ◎盲目となる

 さういふ始末ですから、私しが怪談をやらなければならぬようになりまして、松鶴十八番(おはこ)の『とけやらぬ下の関水』といふのをやつて見ましたが、それだけでは仕方がありませんから、石川一口に『扇の的』『姐妃(だつき)のお百』などを習いまして、遂々(とうとう)怪談をやるやうになりました。

 其後暫く当地に居りましたが、余義(よぎ)ない人に頼まれまして、四国から中国筋に稼ぎまはりまして、九州地方へ乗込むつもりにいたして居ります処へ、文枝から帰つて来いといふ手紙が参りましたゆゑ大急ぎで帰つて参りました処が、少し日が遅れましたゝめに文枝の一座へ入ることが出来ませんでしたから、余儀なく端席を働いて居ります内に、文枝は肺病にかゝりまして、寄席を働くことが出来ぬやうになりましたので、其の代りとして私しが出勤することゝなり、名を文之助と改めまして、別看板として、文枝に口上をいうて貰つて、切へ出て居りましたが、文枝はそれが原因(もと)となつて遂に明治七年に病没(なく)なりました。

 処が私しは何(どう)したものですか、其の後間もなく両方の眼を病(わずら)ひまして、一時は盲目同様となりましたので、宅に置いてありました者等に手をひかれて、寄席に出かけて行て居りましたが、鰻谷の和田といふ医者にかゝつて、段々よくはなりましたけれども、八年頃から十三四年頃までは、盲目同様で暮して居りました。

 ◎濱松かぜ

 明治十六年の夏、道頓堀の中の芝居で落語家芝居をやりました処が、非常な大入でして、其の暮れに矢張り中座で諸芸忘年会をやることとなりましたが、落語家の方では文枝文都と私しの三人で看板をあげ、それ〴〵準備をいたして居ります内に、寄席の方から故障が起こりまして、そんな処へ出勤する者は今後一切寄席の方で使はぬといひ出しましたので、文枝文都は急に出勤を断りましたが、私しは一旦約束をした以上は今更断はる訳には往かんと申切りまして、法善寺の東の席に出て居りました俄師で初春亭正玉と一所(いっしょ)に中の芝居の方へ出ましたゆゑ、二人とも寄席の方がお首になりまして、同じ暮れに催しました侠客難波の福さんの会を名残りとして十七年の一月から京都新京極の蘭(あららぎ)の屋の席に出勤して、それから段々東海道を興行しながら三州豊橋へ乗込み、ます屋の芝居へ出勤しました処が、非常な人気でしたけれども、什麼(どう)いふものですか、チツトも客が参りません。余り馬鹿〳〵しいものですから、

噂する人気ほどにも客は来ず 濱松かぜの音ばかりなり 

といふ落首を書いてペタリと貼つてやりました。するとこの事が評判となりまして、同地の二宮といふ医者が眼をかけてくれまして、

清水から道二筋にわかれけり

 といふ発句(はっく)を貰ひまして、同地を出立いたし、静岡へ乗込みますと、イヤモウ散々でして、一日も興行することも出来ぬものですから、幇間の露八(ろはち)といふのを頼んで、お召の着物を売払うて、漸(ようや)くそれで茶代と払ひとをすまし、使(つかひ)をたてて、東京の三遊亭円朝の宅へ金を借りにやりました処が、文之助といふ人は大阪で売出して居る落語家だから金なんか借りに寄越(よこ)すべき筈(はず)がないといふて、什麼(どう)しても信用してくれませんので、仕方なく静岡を立(たっ)て江尻から沼津をうつて藤沢へ行き、江戸駒といふ宅を頼つて行きますと、妙ぢやございませんか、其処(そこ)の女将(おかみ)さんといふのが宇田川文海さんの姉さんでして、これは変つた処でお眼に掛りましたと、いろ〳〵世話になつて居りましたが、何時まで恁(そ)うして居る訳にも行きませんから、兎も角も私し一人で東京へ出掛けて、先(ま)づ中村時蔵を尋ねて見やうと、一座の者を残して東京へ参りました。

 ◎小安親分

 時蔵と私しとは古い馴染みですから、必(きっ)とよう来たといふてくれるだろうと思ひの外、時蔵は変な顔をして私しを座敷へ通しまして、聞けば道頓堀の中の芝居で落語家芝居をした時に、阪東文之助といふ看板を出したさうだが、何(どう)もそれが私しの気に入らぬ、同じことで中村文之助といつてくれゝば何(ど)れ位嬉しいかわからぬといふのでせう、エヽこの期(ご)に及んでそんなことでゴテ〳〵いつて貰ふては堪らんと、そこ〳〵に話しを切上げて飛出し、浅草の並木で徘徊(はいかい)して居ります処へ、二人連の車夫がやつて来まして、深切[親切]にいつてくれますものですからその車に乗りました処が、悪ひときには悪い事が続くと見えて、この車夫といふのが追剝(おいはぎ)でして、すんでのことに酷い目に逢ふとして居ります処へ、丁度巡査が来合(きあわ)してくれましたから、事情を話して、三筋町の文治の宅を尋ねて行きましたが、向ふでは私しの顔を知りませんものですから色々と頼んでマアやつと宿だけをして貰ふことゝなり、其の晩は夫婦ともチツとも寝ずに何だか小声で話しをして居りました。

 翌朝になりますと、特務が出て来まして、昨夜の賊のことに就て一応取調べねばならぬからといふので私しを本所お竹藤の本署へ連れて行きまして、車夫に出逢ふたときの模様などを取調べられまして、答弁書を差出し、ヤレ〳〵東京の人間もいひ加減な奴ばかりじやと、そこ〳〵に東京を出立(たっ)て藤沢へ引返してまいりました処へ、都合よく津太夫がやつて来ましたから、オヽ津太夫さん、実はこれ〳〵で困つて居るのぢやと話しをいたしますと、津太夫はそんなことなら新場の小安親分を頼つて行きなさい。向ふでは絶えずお前さんの事ばかりを話しをして居りましたと聞きましたから、私しは地獄で仏にでも逢ふたやうな喜び方で、又もや東京に出掛けて行きました。

 聞いたまゝに尋ねて参りますと、都合よく其処(そこ)に法善寺の東席の桂四郎兵衛といふ人が居候をして居りまして、オオこれはといふのでいろ〳〵と話しをいたし、五日ばかりも厄介になりまして、何処か働き場所はあるまいかと相談をいたしますと、木原の伊助の席が五明楼玉輔の持場となつて居るからそれへ頼んで見てはといふので、元より玉輔とは知合のことですから、早速仲安といふ料理屋から玉輔を呼びにやりまして、事情を話して頼んで見ました処が、これ又心安く承知をしてくれましたから、直ぐに文治を呼びにやりまして、前の礼を述べて改めて挨拶をいたしますと、文治は非常に驚きまして、オヤ〳〵お前さんが真正(ほんとう)の文之助さんでしたか、私しは円朝さんから聞きましたには近頃文之助といふ名で及公(おれ)の処へ金を借りに寄越したものがあつたが、何だか怪しかつたから断つたといつて居られた処へ、お前さんが来たものですから、私しの方では必定(てつきり)贋物じやと思つて、アノ晩はチツとも寝ずに居りましたが、朝になると特務が来てお前さんを連れて行つたものですから、矢張り贋物であつたのだと思ひましたのですと申しますので、イヤモウ大笑ひでしたが、いよ〳〵話しがきまつたので、ボツ〳〵酒が始まり、寄席に出るに就ての相談などをいたして、余程遅くなりましてから別れて帰つて参りました。

 ◎改名

 それから確か翌年の八月頃まで興行して居ります処へ、御存知のアノ立花家橘之助が大阪から京都を打ち廻つて帰つて参りまして、京都の新京極に幾代をこしらへたから帰つて来て其処(そこ)へ出てくれないかといふ話しがあつたから、私しも急に帰りたくなりまして、一座の者にも名残りを惜しみながら東京を出発いたしまして、東京丸であつやうに思ひます。横浜から蒸気船に乗込み、日を経て神戸へ着し、それから京都へ参りまして、いよ〳〵出勤することゝなりましたのは、同年の九月頃のことでございましたかが、其の翌年、即ち明治十九年に京都の久保田米僊(べいせん)、こつば和尚、平野の百一、日の出新聞社の金子鉄次、服部嘉十郎などといふ諸先生のお勧めに預りまして、丸山の円満楼で曾呂利新左衛門と改名いたしまして、それから米僊先生の門に入りまして漁仙といふ號を貰つて画を習ふことゝなり、茶は武者の小路の門に入りまして松露庵宗拾(そうろあんそうしゅう)と名乗りました。宗拾と申しますのは別段申上げるまでもありませんが、初代曾呂利新左衛門の雅號(がごう)でございます。

 ◎米助の幽霊

 確か其の年のことでした。京都から大阪の方へ掛けて虎列拉が非常に流行いたしましたので、寄席を稼ぐことが出来ませんから、かしく喜蝶などを連れて江州八幡へ行くことにいたしまして、草津まで参りますと雨が降りだしましたものですから、其地(そこ)の岡崎屋といふ旅宿(やど)へ泊りました。丁度夜の十二時、一時とも思ふ頃に、フト眼を醒しますと、京都の幇間で、虎列拉で死にました米助といふのがさも〳〵物寂しげな顔をして、ションボリと座つて居るのでございます。もつともそれは全く神経に相違はありませんけれども、余り意外ですから、私しの横に寝て居りましたかしく喜蝶を呼起して、米助が出て来たと申しますと、イヤモウかたなしで、ワツといふて頭から蒲団をかむつて、ガタ〳〵顫(ふる)ひだしました。

 彼是(かれこれ)して居ります内に、漸(ようよ)う夜があけましたから、それ〳〵に宿屋を出立いたしまして、八幡へ参りましたところが、昔し馴染の連中は死んだのもあれば、生きて居てからがモウ余程年をとつて居りまして、何も彼(か)も悉皆(そつくり)かはつて仕舞つて居りますので、オヤ〳〵恁(こ)うではなかつたがと思ひましても、詮方(しかた)がありません。まかり違ふと宿屋の払ひにも差支(つか)えが出来るかも知れませんので、大いに困つて居りましたが、寺町の七宝堂の主人が気の毒ぢゃといふので、少々ばかり金を出してくれましたゆゑ、それを旅費として京都へ逆戻りをいたしましたが、矢張り虎列拉で什麼(どう)することも出来ませんから、これではならぬ、何とか金儲けの工風(くふう)をせねばならぬと、いろ〳〵と考へまして、漸(ようよ)う一計を考へだしました。

 ◎虎列拉予防の守

 其頃は私しが弟子を沢山連れて居た頃ですから、一同を呼びよせまして、揃への着物に小倉の袴をつけさし虎列拉予防(よけ)の御守を沢山こしらへて、それを三宝の上へ乗せまして、名前がへのときに使(もち)ひました大提灯をブラさげて、私しが正座に座り込みまして、これは豊臣秀吉公の時代から伝つて居る虎列拉予防の御守ぢゃというもので売り出しました処が、己れも人も押し合ふほどにつめかけて参りまして、僅か一時間と経過(たた)ぬ内に残らず売り尽して仕舞ひましたが、其の中には辻占を一枚づゝ入れてありましたので、それと気がついた人は大笑ひですんで仕舞ひ、気がつかぬ人は、何でもありがたいお守りに相違ない、これさへ持て居れば大丈夫ぢゃと思ふものですから、幾分か心強くなりますので、少しは虎列拉の予防になつたさうでございました。

 彼是する内に病気も什麼やら少し薄らいだやうですから、早速寄席を始めまして、ボツ〳〵とやりかけました処が、内部(うちら)で賭博が流行(はや)り出しまして、取締りかたがつきませんから、私しは賭博をやめるか、私しをぬいてくれるか何方(どちら)にかして貰はねば困ると談判を持掛けました。スルト夢楽が中に入りまして、多人数に一人だから、気の毒だけれども一と先づぬけて貰ふことにしやうと申して参りましたゆゑ、私しは大抵の弟子を断つて仕舞ひまして、かしく一人を連れて京都を出立して、中国辺を打ちまわつて、尼ケ崎の寄席にかかつて居ります処へ、奈良から話しに参りましたゆゑ、話しを纏(まと)めて手付の金をつまみました処へ、今度は千日前の井筒の席が出来まして、是非私しに出勤してくれと申して参りました。

 ◎川上音次郎の弟子入

 これは困つたことが出来たと思ひましたが、さりとてこれも断るわけには行きませんから、かけ持をすることにいたしまして、大阪へ帰つて参り、井筒の席を昼の三時に下(おり)て人力車で奈良へ走らしますと晩の九時頃になりますから、大急ぎで晩飯を食ふて切をつとめまして、翌朝の六時に又人力車に乗つて千日前へ帰つて参りますので、こんなことをして十日間興行いたしまして、漸く奈良の方が千秋楽となりました。

 其の頃川上音次郎が私しの弟子となりまして、浮世亭○○と名乗つて出勤をすることゝなりましたが、これが又非常に人気でして、始めの内は一カ月十円づゝしかやつて居りませんでしたが、段々流行(はや)るにつれて、一日十円でなくば出勤をせぬといひ出し、井筒の方でも手放すのが惜しいものですから、一日五円にまで奮発いたしましたけれど、遂々(とうとう)話しが纏(まとま)りませんで、一座をぬけて壮士芝居をやつて見ることとなりましたが、其後私しが中国筋へ出掛けましたときに、尾の道で東西屋をして居りました青柳捨三郎を弟子にいたしまして、新車と名をつけて使つて居りましたが、それも間もなく川上から頼みに参りましたゆゑ、其方へ譲つて仕舞ひ、只今では川上はいふに及ばず青柳までも売出しの新俳優となつて居りまする。

 ◎落語家三派

 何しろ永い間のことですから、委(くわ)しくお話しをすれば限りがありませんゆゑ、モウこの位ゐにして御免を蒙(こふむ)りますが、全体大阪には林家、立川、笑福亭、桂と四ツの派がありまして、唯今では立川を名乗つて居るものは稀れでございまして、マア三ツと申してもよろしうございませう。デ、私しが存じて居ります処では、林家の元祖と申しますのは正翁と申す人で、其の弟子が、菊枝蘭丸花丸竹枝(後に正三となる)正蔵などでして、唯今の花丸は、菊丸の倅でございます。又立川の方は、紀州から出ました三光と申しますのが元祖で、これは御池橋の東詰に、自分が寄席を持て居りまして、其の弟子は三木蔵、三木(さんぼく)などと申す連中があり、三光は後に三玉斎と名前をかへまして、三木蔵三光となりました。笑福亭の方では、竹我といふのが元祖でして、後に丸屋竹山人と改名いたしまして、弟子の吾竹竹我となり、其の弟子に吾竹を譲り、其の次の吾玉と申しまして、これが初代の松鶴となりまして、俗にけしつぼ松鶴と申した人でございます。桂派は申すまでもなく文枝[文治]が元祖でして、其の弟子が長太文治文枝とつゞいて、文枝の弟の文福松鶴の預り弟子となりまして、後に桂藤兵衛となりました。これが藤兵衛の初代でございます。

 この藤兵衛といふ名前は、長太文治の弟子で慶治と申しますのが、紙屑屋をやりますと、其中に藤兵衛はんと大きな声で呼び出すところがありまして、其の時に文枝が、楽屋から何ぢゃいといふて顔を出しますので、お客の方では文枝のことを藤兵衛はん〳〵といつて居りましたのを、文福が貰うて名乗つたのでございます。

 ヘイお疲れさま。

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丸屋竹山人

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