幕末から明治初期にかけて、上方落語界には、「桂」「笑福亭」「林家」「立川」という四大亭派がありました。明治初期には、桂派では、桂文枝。笑福亭では、二代目松鶴。林家では、四代目正三と染丸。立川では二代目三玉斎が中心でした。しかし、その中で、立川派は、三玉斎亡き後(明治十三年四月)、目立った後継者がいなかった理由もあり、急速に衰え、明治二十六年一月の番付(落語系図)には、立川を名乗る噺家は書かれていません。もちろん、大阪や京都の新聞にも、立川派の記事はありません。我々は、曾呂利新左衛門や文左衛門等の逸話の中に出てくる立川派の話でしか、ほとんど知る事ができないのが現状です。

 しかし、大阪や京都以外の地方新聞には、立川に関する記事も若干見られ、又小寺玉晃の残した書物には、立川を名乗る噺家が名古屋で興行した記録がたくさん残っています。今回、それらを整理して、私の推測も入ったお話をさせていただきます。

 私には、以前から不思議に思っている番付が、二つありました。 一つは、明治十三年の「楳の都陽気賑ひ」(「上方落語の歴史」)の番付です。

番付 001

 番付の一番下の後見の位置に「立川三玉斎」が書かれ、上図の西前頭四枚目の位置に「立川三光」が書かれています。東前頭四枚目は「林家菊丸」、同五枚目は「愛知の林家延玉」、西前頭五枚目は「笑福亭常丸」で、当時としては、かなり上に位置しています。(笑福亭福松は、西前頭六枚目、東前頭六枚目は、桂文我)。
 この三光は誰なのでしょう? 文左衛門の師匠といわれる三光は、同人の話では明治五年三月に亡くなっています。もちろん、二代目と言われる三玉斎は同十三年に亡くなるので、後見の三玉斎はこの三玉斎で間違いないはずです。我々の知らない立川三光が存在したようです。

 二つ目は、明治十七年十月の「二代目文三改名披露番附」(前田憲司氏所蔵)の立川の部の「立川三玉斎」です。すでに述べたように、二代目と言われる三玉斎は、明治十三年に亡くなっています。果たして、この三玉斎は?

 私は、この二つの疑問点を解く為、時系列で、立川派の噺家の書かれた番付や興行記録を書き出しました。主な物は、先ほどの番付以外に、「桂川喜派連名」、「浪花名所昔噺連中見立」(いづれも豊田善敬氏所蔵)、「音曲劇場繁華賑人気評聞」「三国人気の大寄」(いづれも越路太夫)「勾欄類見聞」(小寺玉晃 鶴舞図書館所蔵)、その他名古屋等の新聞記事です。

 これで調べると、「立川三木蔵」という噺家が浮かび上がってきました。この噺家については、「落語系図」には、二代目三玉斎の弟子としか記録されていません。しかし、「小天地」(第二巻十一号の曾呂利新左衛門の逸話には面白い文章があります。

○落語家三派 …立川の方は紀州から出ました三光と申しますのが元祖で、これは御池橋の東詰に、自分が寄席を持って居りまして、其の弟子に三木蔵、三木などゝ申す連中があり、三光は後に三玉斎と名前をかへまして、三木蔵が三光となりました。…

 ここで言う三木蔵は、文枝の師匠の三代目三光でしょう。三木蔵という名前は三光への出世名だったのではないでしょうか? 明治二年頃から明治九年頃まで登場する三木蔵が、この三光ではないでしょうか?
 この三木蔵が名古屋に登場するのは、明治七年から八年の間だけです。以降は再び上方に帰って、三玉斎の一座に加わり、三光と名乗ったのではないでしょうか?
 
「文我身の上ばなし」(上方はなし十七集)には、「・・・・次はその頃(明治十四年)唯一の盛り場、俗に楠公さん楠公さんで通っていました湊川神社境内の湊亭へまいりましたが、その時湊亭には、二代目三光、若手で小文吾(二代目文三)がおりまして、切席はこの二人と私とで、十日間替りに相勤めましてございます。」という記事があります。この三光が多分、二代目三木蔵の三光でしょう。
 更に、
「文芸画報」の「昔の落語家修行」桂文治(大正二年四月号)に、「・・・・私の師匠の文團冶は、私の噺振りを見て、いつも斯う云ふて仕込みましたが、それは『お前は俺の芸を見習つてはいけぬ。俺の風はお前の柄にはまらぬから、何でも梅丸と松鶴、そして名古屋の三光と、この三人の芸風を学べ』ときびしく教えられたのです。・・・・・・」と、名古屋の三光という風に書かれています。この三光もそうではないでしょうか?

 それではこの三光は、これ以降どうなったのでしょうか?
 残念ながら、明治十四年に神戸の寄席に出勤していたという記録以降、三光の記録がありません。しかし、明治十七年十月の先程の「文三襲名披露番附」の「立川の部」に、三木造、三木松、三玉斎が書かれています。
 三木造は、多分三代目の三木造でしょう。「文我出席控」にも度々登場しており、「枕芸」(枕を使用した曲芸)を得意としたようで、以下に述べる文我の明治四十年の「
盛死出魁十八番」(「はなしの焦点」第17巻)にも登場します。
 それでは、この三玉斎は? 明らかに、我々が言う二代目三玉斎の次に、三玉斎がいた事になります。しかし、「落語系図」や他の書物にも、この三玉斎は書かれていません。唯一の資料は上述した
文我の「盛死出魁十八番」で、「立川の部」の所に、「二代目三玉斎」(なまり)と書かれており、得意ネタは、「子ほり奴」(子投行列)。

番付 002

 私は、橋本礼一氏が解説されているように、最初は、明治十三年に亡くなった三玉斎の事と思いました。しかし、文我が、立川の十名いる落語家の中で、七番目に書いています。いくら順不同とはいえ、他の亭派は大体古い人順に書かれているのに、立川だけ違うというのはおかしいと思いました。
 そして、モウ一つ、実は「上方はなし」に登場する三光を、文我は二代目と言っています。この「盛死出魁十八番」に登場する三光を初代とし、更に三玉斎を初代としています。これはあくまで私の推測ですが、文我は紀州の初代三玉斎の事は余り知らなかったのではないか? つまり、明治十三年に亡くなった三玉斎を初代とし、文左衛門の師匠で、若死した三光を初代としたのではないかという事です。
 文我は、自分の知らない噺家には、芸名右肩に赤丸を打っており、初代松鶴や菊丸には赤丸が打ってあり、初代三玉斎には打たれていません。、初代松鶴や初代菊丸(どちらも慶応年間に死亡)を知らない文我が、初代吾竹や正翁と同年代に活躍した、初代三玉斎を知っているのは疑問が残ります。これなら、二代目三木蔵から二代目三光(実際は四代目)、更に明治十七年頃には二代目三玉斎(実際は三代目)という推測がなりたちます。
 この三玉斎の記事は、明治二十年から明治二十四年頃まで名古屋の新聞記事に登場します。明治二十年十月には、噺家の取締役になっています。しかしこの時には引退同様であったようで、寄席にはほとんど出演せず、特別な会など以外は出演していなかったようです。三木蔵時代は、道具入芝居噺もしたようで、旨い下手は別として、二代目三玉斎の後継者として、又立川派の最後の生き残りとして、名古屋で気勢を発していたのでしょう。
 明治二十三年八月に、大須にある福寿亭という寄席で、初代延玉の弟子であった延笑が、立川三光と改名しますが、この延笑と三玉斎の関係などまだまだ疑問点はたくさんあります。