「笑福亭」という亭派、今まで関西だけの落語家の亭派と思われていましたが、明治時代に「笑福亭語竹」という噺家が東北地方にいたという新聞記事が、「明治の演芸」(倉田喜弘)に記載されていました。

明冶1315日 仙台日日新聞

○東一番大新亭にて去る一日より興行せし当地諸芸人の大さらいは、木戸銭がないゆゑは中々の大入り。惜しむ事には今晩限り。又、玉沢横丁藤村亭に興行なりし語竹、龍玉、浪二、島尾太夫、松魚の連中も大した景気。次に、荒町三浦与吉方にて演ずる志道軒の講釈は「尼子十勇士」次は「太閤記」本能寺焼香場にて面白いとの風説(うわさ)。

明冶13519日 仙台日日新聞

○東一番丁大新亭の寄席は、花柳、語竹、龍玉の連中が残らず打揃い、茶番仕掛の掛合話にて人の腹をよらせ、大切の怪談では子供に冷汗を流さする寝けざましの夜興行。

明冶16420 奥羽日日新聞

○寄席 東一番丁大新亭の宮城連芸尽しは最も評よく、語竹の滑稽、千太郎の糸渡り大切「道成寺」の清姫は中々手に入りしもの。又、国分町喜太郎茶店の座敷浄瑠璃語道の連中は可なりの受次に、玉沢横町元藤村亭の講釈例の石川一夢は、聞馴た故か当節不人なりと知らせの儘。

明冶16817 奥羽日日新聞

○放楽 笑福亭語竹が催主となり、当区内の芸人一同を集めて今日より三日間、大新亭に於て放楽の大温(さらえ)をする由。

明冶16929 奥羽日日新聞

○三題ばなし 当仙台区立町通り玉木座にて、去る二十六日夜より、梅朝、語竹、遊朝等の連中が興行になり、梅朝の三題ばなし、語竹の滑稽、遊朝の芝居振り、大切は例の茶番でドッと打出す趣向の由。

明冶16104 奥羽日日新聞

○茶番狂言 此程より常盤郭なる水屋跡へ興行になりたる語竹、梅蝶の茶番狂言は、所柄丈、中々盛んなり。殊に声色の使い分けは、田舎にしては珍しいとの評判なり。

明冶191217 奥羽日日新聞

○笑福亭 小伯圓の講談も一昨夜読切の筈なりしに、本年も暮近くに際せしに付き、同亭の納めとして昨夜丈出講する事と決し、小伯圓永らく読続きたる御礼の為め五十番の景物を出し、且つ席亭語竹の落語、或いは新内節等を加え、小伯圓が古戦場の講談に新聞物の読切等三席を講じ、目出度らくとせしが、いつになき大入なりしぞ。

 この語竹という噺家はどういう人であるのか、非常に興味があります。

 この疑問に答える前に、この語竹以前に、江戸にいた「笑福亭語鶴」という噺家についてお話しします。

 この語鶴(吾鶴)という噺家は、上方の資料「落語系図」に、二代目笑福亭吾竹の弟子としてしか書かれていませんが、下記の東京の二つの資料には詳しく書かれています。

◎本朝話者系図(全亭武正)

149 三代目吾鶴 名古屋江戸ニ大評判人気よく、不幸にして狂気となり慶応弐年江戸麻布に没す。おしむべし〳〵。

207 語蝶 名古屋ノ産。語鶴門人也。師江戸ニ死するを聞て、語鶴を名乗る。

本朝話者系図

◎文之助系図

語鶴 文久年間尾張へ笑福亭と云う手遊やヲ出す。

この二つの資料から、笑福亭吾鶴は、名古屋から文久年間に江戸に下り、慶応二年に亡くなったという事です。そして名古屋にいた弟子の語蝶というのが、師の死後二代目を継いだようです。

笑福亭の元祖は、笑福亭吾竹といわれており、笑福亭の紋である「五枚笹」も、五(吾)と笹(竹)から、この人から定紋になったようです。この人の弟子の初代吾鶴が二代目吾竹を継ぎ、今回の三代目吾鶴はこの二代目の弟子のようです。

では、いつ頃から上方を離れて名古屋へ下ったのでしょうか?

このブログに度々登場する小寺玉晃の書物(芝居番附)に記録が残っていました。

安政31857菊枝と語鶴


2      七つ寺

           笑福亭 吾鶴

           林屋  菊四

安政5年(1859

●正月より    志水八百文

           笑福亭 吾鶴

2      場所不明 常盤津祭文

           林家 正福

           白井 廣丸

           松葉 芦玉

           林家 枝鶴

           竹田 花■

           笑福亭 吾鶴

315日より

           笑福亭 吾鶴

           都々一坊 ■■

更に平成1111月発行の「尾張名古屋芝居番附」(鷲野文吉)に、吾鶴が、立川三朝(初代三玉斎の弟子)等と源氏節一座との合同興行の番付が載っています。

5(185910月中旬より清寿院御境内にて

宝山世界の賑 吉原細見

岸柳嶋(林屋正楽)茶寺の場(林屋鶴吉)瀧川(立川三朝)三十石乗合(林屋正雀)三河屋の段(笑福亭吾鶴)

番付

 この吾鶴は、江戸で文久の頃(18611664)活躍し、慶応二年(1866)に亡くなったようです。吾鶴を語鶴と改めたのは、上方と混同を避けた為でしょうか?弟子の語蝶が後二代目を継いだようですが、この二代目については、東京の資料にも詳しく載っていません。

 只、それから十年以上経って、仙台に、笑福亭を名乗る噺家が現れるのですが、笑福亭語鶴と笑福亭語竹の関係を書いた書物は未だ私は発見していません。しかし全く関係がないとは考えにくく、何か師弟関係があったような気がします。

 この笑福亭語竹については、「仙台繁昌記」「東一番丁物語」にも詳しく書いてあり、それによると、

 笑福亭語竹の本名は鈴木伊三郎。明治初期に仙台に現れ、そのまま居付いたようで、明治16年頃には、箱屋伊三郎と名乗り幇間の傍ら芸妓等の箱屋を商売にしていたそうです。又時には「塩煎餅屋」も営んでいたそうです。その金で、明治193月に、虎屋横丁という場所に、「笑福亭」という寄席を建てます。

 収容人数は三百人程の小さな小屋でしかが、東京風の寄席建築を施した立派な建物であったそうです。建築には、仙台で有名な俳人鎌田甫山と友人であった事から、甫山がかなり尽力してくれたそうです。又当時の仙台県令の松平正直が語竹を贔屓にしていた事もあり、小屋にかかる税金は免除されたそうです。どちらにしても仙台で初めての定席の小屋であり、いつも開場しるとあって当時はかなりの人気があったそうです。又語竹の人脈もあり、東京や上方の有名な芸人もたくさん出演したそうです。

 しかし、仙台で唯一の定席も、年月が経つにつれて、老朽化も進み、又新しい小屋も出現します。当時の新聞を見ると。



明治27325日 奥羽日日新聞

◇長寿亭 東一番丁、旧改良勧工場を、過般、長寿亭と称し寄席となす事を、其筋へ出願中の処、此頃認可されたるを持って今度修繕を加える事を定め、持主武田八穂冶氏と斉藤長兵衛氏の協議も整い、一両日中より着手の筈。

明治321027日 奥羽日日新聞

◇東京亭 今度、東一番丁立町通りに定寄席東京亭を設け、十一月一日より花々しく開業する由なるが、其の重なる番組は、竹本津賀留、豊竹若秀、花沢梅園。(補注:二日開場)

明治三十年以降になると、客足も減少し、休席も多くなります。終に、語竹は、寄席意外に室内に、釣鮒の遊技場を作ります。しかし、これが無許可で営業していた為営業停止になります。

明治33518日 奥羽日日新聞

◇笑福亭 当市東一番丁十七番地席亭笑福亭語竹事鈴木伊三郎は、其筋の許可を受けず、屋内に釣遊戯場を設け自儘に開業したる廉を以て、昨日、■仙台署に呼び出されお目玉頂戴の上、遊戯取締規則違反として二十五銭の科料を申付けられ、電気頭を振り振り退出。

しかし、三年後には、再び寄席として開業したようで、

明治36126日 奥羽新聞

◇笑福亭 当市虎屋横町の寄席笑福亭は、同席亭語竹翁が奔走経営の結果、頗る見事に修繕が出来上がりたれば、東京より講談師伊藤陵潮を迎えて開場せしが、読物も面白き為め毎夜中々の大入にて好景気なりと。

その後の、笑福亭と語竹については、不明です。

多分、当時の新聞を調査すれば、新しい発見があるかもしれませんが、折があれば又御紹介いたします。

最後に、語竹が仙台を離れて、名古屋の寄席に出演した時の記事を紹介します。

明治2351 金城新報

◇富本席の人情噺 御存知の當市富澤町の富本席に於て今一日夜より東京の人情噺し笑福亭語竹の一座が興行し芝居掛りの新作物を毎夜の続噺し尚ほ當市の林家正三、朝寝坊小夢、桂文福、立川三玉斎、花澤梅園等が補助に入ると云へば大入の當日より聴客は沢山富本に富みを来たすでありましょう。

明治2356金城新報

◇久松座と富本 當市八百屋町の久松座にて一昨夜より興行中なる竹本越路太夫の門人越八の女浄瑠璃は頗る人気があつて今六日夜は御所桜弁慶上使が越勝、お七吉三八百屋が綱巴津、太功記十段目が越八なり又た富澤町富本席に興行中の笑福亭語竹其外正三小夢文福三玉斎京寿の一座は素敵な人気にて毎夜晴雨にかかわらず大入とは全く面白きゆゑで・・。
明治23513 金城新報

◇落語に浄瑠璃 富澤町富本席で久し振りの顔揃ひをステテコ交らず味噌泣かせを交じず純粋の落語聞かせたので大當りを占めた笑福亭語竹、林屋正三、立川三玉斎、朝寝坊小夢などの一座は引続き大須二王門前福寿亭で興行する事になれば又々大當りで毎夜客止めといふドエライ景気。又當市の女義太夫で初代の落語家延玉に似た処で名を号けたぶつくり愛嬌女義太夫竹本土佐吉一座は今十三日の夜から車の町白廣座でデデンデデンの始まり又富本では圓朝門人三遊亭遊喬一座の初御目得東京落語の開場を近日より為すとの事。