桂ざこば
晩年ざこば

 桂ざこばという大阪らしい名前の落語家がいました。
 幇間から中年で落語家になり、桂派、互楽派、反対派と渡り歩いた落語家で、三輔と名乗った頃が全盛期といわれています。

 今回は、このざこばの三輔時代の資料をご紹介します。
 まず、この人の経歴は、「落語系図」にも書かれていますが、互楽派時代の「大福帳」に、この人の経歴が載っています。

◇落語系図

 初代扇枝門人

 桂三輔初め三遊亭園馬門人、又柳生の門人柳吉、桂三之助の門人となりさん助となり、三代目文三門に入り三輔となり、其後ざこばとなる。

◇大福帳(創刊号 明治4411月)

演者の告白 桂三輔

●生国 本名 年齢 泉南郡岸和田 小倉幸太郎 四十四歳

●女房子供の有無 何方も無い方だす。

●略歴 明治三十年に前の圓馬の門に入り柳子と名乗り、後廣島に飛んで幇間となり、グッスリ金儲けずに大阪へ舞い戻って舊(もと)の落語家に逆戻り。

●得意とする落語 転宅、大和橋、滑稽講釈

●将来の希望 五階建位の立派な建築で、女郎屋と料理屋と湯屋と散髪屋とチョッと小綺麗な小間物屋や何や彼やを一緒にやりたい、所謂(つまり)実用と娯楽の観商場ッて奴をやアー。

 この師匠と言われる「圓馬」については、いくつかの文献に手掛かりがあります。

◇落語系図

 三代目松鶴門人

光蝶 後に旅行にて圓馬となり、後に柳生となる講釈師なり。

◇蓮盛死出魁 十八番(はなしの焦点77号)

 笑福亭の部

いかけ松 円馬

 最初の師匠であった、三遊亭圓馬(園馬)は、東京の噺家で芸人であり、この人の一座で、柳吉或いは柳子と名乗り、明治三十年頃、地方を巡業していたという事です。

 その後、広島で幇間となり、当時この地で人気のあった桂三之助の弟子となり、洗湯亭さん助という名前で幇間となったというのです。

 さて、この桂三之助という人物ですが、中国地方の新聞には度々記事が載っている幇間で、広島では有名あった様です。又以前は二代目桂文三の弟子であったようで、京都にいた桂枝雁も一時この人の弟子であったそうです。

 三輔がいつ頃から広島で幇間をするようになったのか?
 大福帳にその鍵が載っていました。

大福帳(失敗号 明治443月)

眉毛の人質 桂三輔談

「明治三十二年頃で、未だ小生が廣島は西遊廓の、竹の内と云う儉番で、矢張り只今の芸名で幇間を働いてゐた時分の失敗談です。…」

 つまり明治三十二年頃には、すでに広島に居たという事です。

 桂三之助(明治四十年没)は、幇間と傍ら、幇間や素人芸人と一座を組み、広島や岡山、香川等にも巡業していたようです。主な記事を見ると、

明治3134香川新報

◇肥梅閣 片原町天神社内肥梅閣は、昨日より大阪下り桂三之助一座の二○加噺開演。

明治3285 芸備日々新聞

◇曾呂利新左衛門の一座  現今口技(こうぎ)に巧みなるもの関西に在っては先ず指を曾呂利新左衛門に屈すべし。新左衛門奇才ありて口を開けば劇■をなし筆をとれば狂書をなす又しばしば方言などを使用して俗謡を作る。先年是地に来たりて鶴の席に其滑舌を弄し喝采を博せしが今回また来たりて同席に開演し居れり。

<編者註>文我出演控四十丁裏 明治三十二年八月一日 広島中じま鶴の席

かつら我楽、かつら文楽、かつら三之助、かつら梅團次、笑福亭福一、かつら文我、曾呂利新左衛門

明治35723中国新聞

◇料芸館の落語俄 エー替わり合いまして替わり栄(ば)えも致しません。相変わらず古い所を新しそうに耳に入れます。其の噺というものは、片相手に手前のような馬鹿を一人使いませんとご愛嬌になりません。パチパチなんかと遣ったり、其間には端唄都々逸手踊、さてはボテ鬘のをかしう仕組んだ俄に、臍を捻(よ)らす西遊郭料芸館の幇間一座は、ますます喝采を拍せんとて、一座大車輪にて毎日新しいくて味のあるまるで、捕り立ての鯛の洗いのチリッとしたとうな所を引替えに差替えにお目とお耳に入れる珍無類の面白いのに、殊に木戸が二銭の蒲団が一銭半の外は一厘も要らぬ大勉強場は、四方開け放しなれば涼しさいはん方なく、南手の方に寒い程なり若し暑かったら臍が茶を沸かしたその炎気を思うべし。何しろ所がらとて美人連のお客多ければ何方を向いてもお楽しみなり。

明治3666 中国新聞

◇あそびば ▲料芸館 桂園馬、笑福亭福團冶、同小福松、岡本三隅太夫、三寿玉、幇間三之助、淀吉、淀助、梅八、三助一座の落語源氏節新内二輪加

<編者註>三隅(美住)太夫は、桂團輔の実兄。福團治は初代。園馬は旅圓馬と言われた人で、三輔の元師匠。

明治361216 香川新報

常盤館 当市兵庫町の寄席にては一昨夜より桂三之助一座の落語手踊演芸を開場せり。

明治361217 香川新報

◇常盤館の評判 当兵庫町の同館は三之助一座にて再昨夜開場せり。落語は有触れながら、例によって罪無く時に立茶番口上茶番の様なるクスグリものもあり、又鉢巻社会の殊に喜び源氏節もあれば本喉ならねど清元のツヤあるもあり夜長の徒然にはこんなものも亦妙だと一寸人気を引いて居ると。

明治3711 山陽新報

◇興行だより 栄町九重館は桂三之助一座の改良落語

 当時の広島は、鑑札制度がゆるかったとか、多くの芸人が集まっていた様で、音曲師の二代目立花家千橘(本名中村常次郎)や鶴亀淀助(本名小笠原与四郎)等もこの地で幇間をしていました。

 次に、この三輔が、広島から京阪にやってきます。

 「上方はなし」に当時の三輔が素人落語連に混じって旅巡業をしていた記載があります。

上方はなし49集(昭和1510月) 福圓巡業打明話「旅」

…解散後、堺の秋葉亭にかかっていました三輔、新内美住太夫(桂團輔の実兄)の一座に、小南光(遊枝と改名)、圓若の花之助、福圓(和歌之助と改名)の三名合併し、堺―住吉―池田―伊丹へ乗込みました。三輔は「紙屑屋」ほか二三をのぞけば東京仕込みの噺だったので、この興行の途中、福圓について大阪のネタを勉強したものです…。

 多分明治三十六年から三十七年頃だと思いますが、最初の師匠圓馬が東京落語であった為、こういう機会に、上方落語を勉強した様です。

明治37810 神戸又新日報

◇柳座 本日午後五時より、従来出演中の俳優が浄瑠璃その他諸芸大寄せを催し、余興には林家正楽の落語、桂三之助の十五本扇舞ありという。

▲摂洲合邦辻(実川実太郎)▲お駒才三鈴ケ森(嵐立三、市川莚女)▲太功記十(中村玉若、三味線片岡我幸、留丸)▲日吉丸三(中村福圓)・・(前省略)・・▲落語(林家正楽)▲東京初下りステテコ十五本扇子(桂三之助)

 この「桂三之助」が、師匠の三之助であるのか、三輔であるのか不明ですが、多分、三輔もいっしょにこの神戸に来たのでしょう。

 その二ヶ月後、神戸に新しい落語定席が誕生します。

 浪花三友派の二代目桂文團治が、席亭や笑福亭福松と意見が合わず、弟子等を連れて脱退。互楽派と合併にて、「大阪三友派」なる組織を誕生させます。神戸では、楠公社の西門にある俄席「藤田席」を借り受けて、落語定席として開場させます。これには、林家正楽の尽力があったと言われています。正楽は、新鏡と名乗った明治二十年頃の十数年間神戸で活躍しており、当然神戸には顔馴染みも多かった為だと思います。

 しかし、急造の組織なので、座員が揃いません。そこで、幇間の三輔が出るようになったようです。実は、桂派が最初ではなく、この神戸の藤田席の大阪三友派の席は、三輔のプロとしての落語家のスタートだったのです。

明治37年10月1日 神戸又新日報

◇藤田席 西門藤田席にては本日午後六時より三友派文團治一座の落語にて十五日毎に新顔を差し替える由なり。顔ぶれは左の如し。

小福松改め小文、文我、南枝、三助、團之助、團吉、團輔、林家正六、都若、春團治、林家正楽、林家正三

明治37104 神戸又新日報

◇藤田席と落語 福松派と分離したる桂文團治は文都・米團治、文之助、米朝、文我、璃喜松、藤誠、圓光、慶枝、正三、小圓等と東京の馬生、金之助、圓太郎等で大阪千日前へ打って出た。…今月上席は正三の老練話、文我の芝居話、当地初めての三助が手踊り、南枝の五目浄瑠璃等売物である下席から清元の金之助や文團治も廻って来るそうだ。…

明治37107 神戸又新日報

◇藤田席 既記の如く文團冶一派は場所の宜しきと一座魂限りの大車輪にて客足中々に宜しきは万歳なり。…都若の「魔風」は老練余興の日露の軍艦の大津絵手踊りは聴客大喜びなり。三助の「預かり相撲」落ちが新しくステテコは大受け。南枝の「景清」グッと腕を上げたり。…。

明治371216神戸又新日報

◇藤田席 文團治派の同席にては昨日より忘年会といえる名称にて毎夜出し物を替え大いにふざけて見せる由。

ご祝儀掛合噺(團二・團吉・正六)軽口(三助・南枝)人形噺(立花・團輔・正楽)浄瑠璃掛合(正六太夫・三助太夫・團輔太夫)三味線(花沢立花・野沢小圓)掛合墨付け噺(小圓・團輔・行司は團吉)中入り一座芸廻し(正六・立花・南枝・正楽・團輔)滑稽情実談話(生瀬)

 神戸は十二月迄出演。その後しばらくの三輔記事は不明ですが、四月より大阪の桂派の席に出演します。

明治3841日 大阪毎日新聞

◇桂派各席へ、娘義太夫の竹本長春、長廣と、曲芸手踊りの洗湯亭三輔が出勤。

明治38415日 大阪毎日新聞

◇四月下席桂派出番表

(幾代席)雀太郎 文平 文屋 雀三郎 三好 枝雀 長春 小南 千橘 文枝 南光 田村厳さん馬 三輔 文三

(金沢亭)梅若 小文三 萬光 文太郎 三輔 圓馬 圓三郎 文三 田村厳 文左衛門 三好 枝雀 長春 文枝

(瓢亭)三五郎 福助 雀之助 千橘 小文三 文太郎 南光 三輔 圓馬 長春 圓三郎 文三 小南 田村厳 三好 若手総出濱の掛合

(林家席)扇之助 吾竹 小南 圓三郎 文三 田村厳 雀三郎 三好 枝雀 さん馬 三輔 文枝 圓馬 千橘 南光

(養老館)勝枝 福助 文屋 吾竹 文枝 小文三 小南 萬光 文太郎 三五郎 文平 枝雀

明治381219 京都日出新聞

◇興行 ▲幾代亭は来る二十一日より桂文三一座と交代する筈で其出番順は左の如し尚一座は堀川菊の家と懸持ちする筈扇之助、小文吾、雀之助、小文三、三助、余興(三助、小文三、雀之助)枝雀、円三郎、文三

 四月から十二月迄、大阪の桂派の各席に出勤。十一月と十二月には、桂派の落語矯風会に出演。十一月のネタは「出代り下女」。年末には、京都の幾代席に出演しますが、翌年一月より、京阪の桂派の寄席を離れて、旅巡業に出ます。

明治3914 北国新聞

◇新富座 今晩四日目の語り物。小寶三番叟(掛合)軽口五十三次(十八)義太夫(鶴子)新講談(花柳)新内浮世節(小蝶)落語音曲噺(里鶴)新内さい〳〵節(若登司)落語芝居噺(松鶴)落語十五枚扇手踊(三輔)落語人情噺(馬之助)

<編者註>一月十六日迄興行。二代目笑福亭木鶴は、巡業時、松鶴と名乗っていた。

明治3921 北国新聞

◇新冨座は豫記の如く落語大一座にて花々しく開演の由。

伊勢参宮神の賑い(文香)桜花の宴会(藤三)角力噺(文蝶)音曲噺(圓輔)遊山船(里鶴)味噌蔵吹替浄瑠璃(和歌之助)即席噺(松輔)赤垣源蔵伝(馬琴)稽古屋ステテコ扇の曲(三輔)芝居噺(松鶴)大切茶番仁輪加(総出)

<編者註>文香は、後の笑福亭圓歌、和歌之助は、後の笑福亭福圓

 この北陸興行後、再び五月より大阪の桂派各席に出演します。

 多分、この頃に正式に桂文三の弟子となったのでしょう。

明治3851日 大阪毎日新聞

◇桂派各席上席出番表

(幾代席)重光 雀太郎 福助 圓三郎 小文三 千橘 南光 文屋 三好 貞吉 文三 文左衛門三輔 圓馬 長春 枝雀

(金沢亭)文蝶 梅若 文屋 小南 三五郎 文平 文三 文太郎 三輔 圓馬 枝雀 千橘 貞吉 文枝 三好 南光

(瓢亭)亀笑 雀之助 文平 文太郎 三輔 圓馬 文三 南光 雀三郎 三好 さん馬 千橘 貞吉 文枝

(林家席)扇之助 小文三 吾竹 三好 枝雀 貞吉 圓三郎 福助 文枝 長春 小南 文三三五郎 三輔 さん馬

 その後の三輔は、桂派の中堅として活躍します。

 桂派の中では、文左衛門、文枝、南光、文三、枝雀、枝太郎、文吾、三五郎に次ぐ番付で、人気も上昇します。

 しかし、明治四十一年五月に起こった桂派の内紛で、文三一門が桂派離脱。文三、三輔、小文三、三五郎、三蝶、伝枝、左円太、小三等の文三の一門は、桂派を離れる事になります。

明治41622日 神戸新聞

洲本の桂文三一座 淡路洲本弁天座に於ては一昨夜より大阪の桂文三の一座乗込み興行中なるが近頃稀なる人気あり。

明治41630日 鷺城新聞

楽天席の七月興行 市内竪町楽天席は七月興行として桂派の大関桂文三一座を迎へ三十日より蓋を切るべきが番組は左の如くにして大切には座員総出ハイカラ踊りの目新らしき所を見すべしと云ふ。

落語手踊(扇の助)落語即席(三蝶)曲芸物真似(三太郎)落語手踊(小三)落語手踊(傳枝)落語音曲(三五郎)落語音曲舞(小文三)奇術皿廻し(清国人及寶山)落語音曲(三輔)落語(文三)

明治4179日 山陽新報(岡山)

大福座の落語 當市新西大寺町大福座にては、今九日より大阪桂文三一座の落語開演の由。

明治41718日 山陽新報

◇大福座の落語 當市新西大寺町大福座にて本日午前十時より黄薇紫紅(きさしく)会発会式をあぐることは既報の通りなるが、午後五時閉会の予定なれば、同座において開演中の文三一座は例の通り夕方より開演さるる由。

明治41731香川新報

◇玉藻座の落語 一昨日より興行の當市片原町同座の桂文三一座の落語は、座員いずれも精選したる若手揃いとて、酷暑中にもかかわらず景気よく、贔屓客を迎えをれる由。

明治4182日 香川新報

◇玉藻座の落語  今五日目の出し物は、伊勢参宮(三二郎)竜宮界(扇の助)盲目景清(三蝶)曲芸物真似(三太郎)白人芸者(小三)厩火事(傳枝)身体運動皿廻し(及寶山)四季楽屋(三五郎)春雨茶屋(小文三)転宅の夢(三輔)百年目(文三)

明治41831日 京都日出新聞

演芸 笑福亭は九月一日より内田秀甫、桂三輔の二人が新たに加入する筈にて其出番順は 団橘、橘太郎、円次、芝楽、福太郎、福平、小円太、扇枝、花助、喜美子、秀甫、円太郎、三輔、文之助

明治41913日 京都日出新聞

<幾代亭改め芦辺館>

幾代亭改メ芦辺館にては愈々来る十五日より開場する筈なるが其出番順は左の如く大切には「式三番叟」引抜き所作事を楽屋総出にて勤める由、尚同連中は同じ日より堀川菊の家へ掛持ちすると枝女吉、好史、三吾、三八、枝雁、三太郎、小三、枝太郎、小文三、年史、馬生、小満之助、まる吉、文吾、扇蝶、文三

明治41919日 京都日出新聞

芦辺館にては今回落語改良の目的を以て落語日曜会といふを創設し、例月日曜毎に開催する筈にて。其第一回を明二十日正午より開き入場料を二十銭均一とし演題は、神の賑ひ(三吾)函根問ひ(三八)八五郎坊主(小文三)子放り奴(年史)白菊(文吾)浮れの屑選り(扇蝶)夢の八兵衛(文三)義士(馬生)余興常盤津三保松富士曙(まる吉、小満之助)

 文三一座は、神戸から中国四国地方を巡業。その後は京都の笑福亭に九月に出演しますが、その後東京の柳派の各席に出演したという事です。(明治四十二年一月二十五日大阪毎日)しかし、都新聞明治四十一年九月から明治四十二年一月の記事を調査しましたが、三輔の出番表、記事は発見する事が出来ませんでした。

 明治四十二年二月に、文三のいる京都芦辺館に出勤。しばらく芦辺館に出勤した後、四月より再び大阪桂派の席に出演します。

 これは、文三と桂派との間を仲裁する人がいて、文三もしばらく京都の芦辺館に出勤した後桂派の席に四月より三輔等弟子達と出勤します。

明治42125日 大阪朝日新聞

◇去年六月以来桂派と分離して別派に巡業せし桂文三は今度新町の森川、天満の宮崎が仲裁して二月より従前の如く桂派の各席へ出勤する由。

明治42130日 京都日出新聞

◇芦辺館の来月一日からの顔振れは、文三が居残つて、東京から三輔、大阪から菊団治が乗込むが、出番は、枝女太、円歌、三吾、円光、枝雁、桃太郎、三八、小文三、円生、菊団治、枝太郎、米朝、花咲、文吾、三輔、文三。

 復帰した三輔ですが、翌年再び師匠の文三が離脱。

 三輔も、明治四十三年四月には、京都の三友派の定席となった芦辺館に出勤。その後、五月には、大阪の互楽派の各席に出勤します。

明治4354日 大阪毎日新聞

落語互楽派各席へ一日より、桂三輔が加わり、アイヌ芸妓も人気を迎う。

 三輔がいつ頃互楽派を脱退したのかという事ですが、はっきりした時期は不明ですが、十二月発行の「落語大福帳10号」の広告には、三輔の名前はなく、十一月には互楽派にいた剣舞の金房千代子等と、岡山の九重館で興行しているので、九月から十一月の間に離脱したのでしょう。

明治441113日 山陽新報

◇広告 ○九重館/演芸合同大会/清国人華玉川、落語桂三助、剣舞士花房千代子 一行/當ル十一月十一日より毎夜六時より開演

明治44121 落語大福帳第10

◇広告/祝大福帳一周年/柳家一枝、桂春輔、春錦亭柳叟、○八家タヌキ、林家楽之助、林家右楽、緑喜亭福助、月の家二三二、露の五郎、笑福亭円篤

◇広告/祝大福帳一周年/松島常盤亭/三遊亭円丸、桂三路、宝集家金之助、竹葉琴月、林家正三、林家正楽、船遊亭志ん橋、林家新三、桂扇之助

 互楽派を脱退した三輔は、翌年九州を巡業した後、互楽派を脱退した弟子の三路(後の二代目圓若)と合流。三月より大陸巡業の旅に出ます。

明治45330日 朝鮮新聞

◇浪花館 今晩より桂三輔一行の落語にて開演の筈にて、初日の芸題は、

二人旅(小三太)西の旅兵庫船(三幸)歌根問音曲(雀)東京派乱棒医者(歌之助)一口問答(伯遊)高砂屋(小圓)生盁の曲(圓盆)改良噺(三路)清元神田祭浮世節、地州舞(二三路、八七八)三十石夢の通路(三輔

明治45518 満州日々新聞

◇磐城座に於いて十七日初日の筈なりし落語家連中桂三輔一座は初日の雨は縁起でもないと十八日初日に日延べ。

◇磐城座 伊勢参り二人旅(小三太)西の旅手踊(三幸)歌根問音曲(雀)東京落語乱暴医者手踊(歌之助)即席噺一問答手踊(柏遊)東京落語高砂屋鼓み曲(小圓生)蜜柑屋盆の曲手踊(圓盆)清元神田祭浮世節北州舞(二三二、八七八)東京音曲噺奈良丸式声色(三路)三十石夢の通い路扇の舞(三輔

明治4576 満州日々新聞

◇花月席 桂三輔女道楽月の家八七八の落語曲芸一座にて六日より伊勢参り二人旅(桂小三太)西の旅兵庫船(桂三幸)歌根問音曲(笑福亭雀)落語蘭法医者手踊(三遊亭歌之助)即席噺一口問答(桂伯遊)落語高砂屋つづみ曲(三遊亭小圓生)みかん屋盆の曲(橘家圓坊)清元神田祭浮世節北州舞(女道楽二三路、月の家八七八)音曲ばなし、奈良丸節、こわ色(桂三路)三十石夢の通い路手踊扇舞(桂三輔

 朝鮮の京城にあった浪花館は、明治三十七年に開館した寄席で、満州の花月席、磐城座は大連にあった寄席で、花月席は明治三十九年七月、磐城座は明治四十一年六月開場しました。

 この大陸での興行時の三輔のネタを調べてみると、

三十石(5回)、桜の宮(3回)、ざこ八(3回)、紙屑屋(3回)、親子茶屋(2回)、大和橋(2回)、宿替(2回)、菊江仏壇、仕込の大筒、悋気の独楽、味噌蔵、一休和尚、反対俥、肝つぶし、遺恨の血祭り、猫忠で、「三十石」が一番多く演じていたようです。

 三輔のネタは、これ以外に、昭和四年に出版された「名作落語全集」(騒人社)には、「正月丁稚」、「千両みかん」、「仏師屋盗人」が掲載されています。

 三輔は花月席に八月末まで興行します。

 その後の一座は更に中国地方を巡業しますが、十月には興味深い記事が掲載されます。

大正元年105 満州日々新聞

◇天津に行った桂三輔一座は三輔夫婦が同地でお師匠さんになったので三路夫婦丈け別に女道楽一人を差し加えて引き返し来り安東県に乗り込んだ。

 三輔夫婦というのは、三輔と女道楽の月廼家八七八(やなはち)の事で、又三路夫婦とは、三路と八七八とのコンビを組んでいた月廼家二三二の事です。

 三輔夫婦は、天津が気にいったのか、ここで店を開業して夫婦水入らずで居住したようです。師匠が落語家をやめてしまった為、三路は残りの座員と共に中国地方から朝鮮経由で、九州から中国四国地方を巡業して帰阪します。

 それから、約八年以上経って、三輔は再び帰阪して、大阪の反対派の席に出演します。

 中国での事業に失敗したとか、妻の八七八が亡くなった為とか、色々な説がありますが、とにかくほとんど無一文で本土に帰ってきて、再び落語家としてスタートしました。

大正922日 大阪毎日新聞

◇反対派各席 二月一日より連夜、東京落語家神田伯童、初代三輔改めざこば、三遊亭右圓遊等出演

 約八年のブランクを経て落語家として復帰したざこばですが、三輔時代のような人気はなく、晩年は不遇の時代を過ごしたようです。昭和六年頃には、は吉本を脱退して引退しますが、昭和七年一月には、神戸湊川の「松本座」で、ざこば改め五代目桂文三という襲名披露公演も行ったようですが、これは正式な襲名ではなく、すぐに元のざこばに戻って、七月のラジオ放送にも出演していました。

 昭和九年の六月一日から十六日迄、新開地の浪花節の定席大正座で、吉本を既に脱退している落語家による落語会が行われ、この会の出演者にざこばの名前がありました。

昭和711日 神戸新聞

昭和7年1月松本座

広告/新春特別大興行/巨頭連名人競演/愈々正月元日より開館/少女(若松家鶴千代同正楽)最新奇術(松浪天美同天花同天外)珍芸(橘家圓坊)文化萬歳(廣澤清子同國勝)高級萬歳(若松家正右衛門同正奴)ざこば改め(五代目桂文三)曲独楽(但馬源水)義太夫(文蝶銀蝶)女道楽(宝家奈駕)高級萬歳(山村二声、■賀貴蝶)レビユー(合同レヴュー)/新装せる楠公西門松本座  

昭和962 神戸新聞

◇大正座に落語 一日からの新番組新開地大正座は従来浪曲の陣を布いてお馴染であるが、一日からは特にさらりと番組を一変し、落語、音曲、講談、漫芸という賑やかな陣立てで大衆本位の幕を開ける。出演者は何れも一流の顔触れで各方面から期待されてゐる。主なる人は左の通り。

立花家花橘△桂米團冶△桂塩鯛△桂ざこば△笑福亭小枝鶴△林家染三その他

 同年年九月二十三日には、桂春輔が東京から帰ってきた復帰公演が神戸協和開館で開催されており、この会に桂ざこばの名前が掲載されていますが、これ以降の記録はなく、昭和十三年九月に亡くなっています。

 最後に、上方はなし三十一集(昭和十三年十月)に、野崎万里がざこばについて書いている文章があるので、その一部をご紹介します。

ざこば逝く 野崎万里

 桂ざこばが死んだ。

 大阪の高座では英語のざこばとしてなじみが深かった。今の小勝(註:五代目)を若くしたような顔で、覇気(はき)というか衒気(げんき)というか、そんなものをかなりたくさん持ち合していたようだった。あの歳で咄の枕に英語を並べたりする芸当はちょっと他のものには真似の出来ないことだ。その英語も本人はずいぶん新しいつもりだったろうが、少し灰汁(あく)が強すぎた。評者から単語の羅列だといわれ、愚にもつかぬと一蹴(いっしゅう)されたのは気の毒ではあったが、この英語も今十年遅ければかえって新しい人気を獲(と)られたかもしれない。

 まだ寄席の駆け持ちが人力車だった時分、故人は今のダットサンのようなものを自分で運転して駆け持ちしたということである。こんな話から推(お)しても、何か人の意表に出よう、新しいことをやってみようという気持がこの人の中にたえず動いていたらしい。こういう意味でざこばは万年青年だったといえよう。すくなくとも自分だけではいつまでも若い気持を失わずに持っていただろうと思う。たしかに松島の花月であった。切に「百年目」を演ったが、舞台へ出ても坐らず、立ったままで一席しゃべってしまった。こんなことも、当時では珍しいことであり、他の連中では出来かねることである。

…故人のことだから定めて面白い逸話を持っていただろう。音曲の圓若や弟子筋の助六、せんば、巡業で知り合っている染三やしん蔵君などに聞けば、故人の面影を伝えることが出来たであろうに、急ぎの時でそれも果たせなかった。

 謹んで故人の冥福を祈ってやまない。