落語総まくり

落語総まくり①

落語総まくり 大阪毎日新聞


大阪毎日新聞の明治四十一十一から十二十四に掲載された「落語総まくり」という記事を紹介いたします。

個人的にはあまり参考にならないような気もしますが、桂派八名、三友派十名の計十八名の真打や若手落語家を紹介しています。

かなり辛口の批評が多く、それは桂派の連中に割と多いようです。この当時の桂派の衰退の様子がわかる気がします。

又、この「落語総まくり」と合せて、「百芸人」という芸人の顔写真の入った記事もあり、落語家や俄師、娘義太夫などの上方芸人の写真を掲載しています。


①曾呂利新左衛門 明治41113日 大阪毎日新聞

曾呂利新左衛門桂文之助と言うた昔から下手であったが、新左衛門になってから益々下手になって、到底今では大阪落語界下手当一の旗頭となって了うた。それに自ら二世曾呂利新左衛門などと名乗り居って、吾邦(わがくに)滑稽界の日の下開山曾呂利新老爺(おやじ)の名前を全然其儘(まま)襲用したのは、大胆至極じゃ。何も吾輩は一世曾呂利新の遠孫(えんそん)に当る訳でも何でもないから、余んまり滑稽じゃから言うて置く。太閤モシ今の世になるなら、真二つにせずば承知すまい。イヤ下手だけならまだしも仕方がないと我慢も出来るが、乙(おつ)な雅言(がげん)などを使い居るのが耳に障る。あるは又…或いはと言い名さい。じゃが然し、これ位下手なもんなら六十五歳の今日迄待たず、疾(とう)の昔に若い上手な奴からツツキ出されて、前座の端にも居られまい筈じゃのに、鰻登りに昇り居って浪花三友派の隊長と迄のし上ったのは不思議でならぬ。一体隊長とか頭領とかには、余り上手過ぎる奴はなれるもんじゃないけれど、去(さり)とて下手過ぎる奴でもなれるもんじゃ。曾呂公の今あるのは、全く耳朶(たぶ)が厚かったのと骸骨が売りものに、野晒しを白抜にした縮緬(ちりめん)の小袖か何にか着込んで「嗅鼻長兵衛」、「解やらぬ下の関水」なんて言う人情噺の出来損(そこな)いを厚顔にべちゃくちゃと述立て、客が欠伸をしても一向平気の平左衛門で演って退(のけ)た、馬鹿辛抱の強いところが因をなしたものであろう。とまァ、悪口は言うものの、半可(なまたか)な上手で、年を取ってからのたれ死をする奴が芸人仲間に、下手でも何でも一派の隊長になって前途安楽な地位になった処、豪(えら)くなければ出来ぬ芸じゃ。「歌よみは下手こそよけれ天地が動き出しては堪るもんかは」古人は甘(うま)い事を言うたもんだ。己(お)れこそ上手の独り天狗ばかりが、ウジャウジャ集まっとる落語界に、下手こそよけれと澄まして居るところ、イヤ可愛い老爺(おやじ)じゃて(豚助)

本名猪里重次郎弘化11015日~大正127281

素人落語時代は林家菊丸に憧れて猫丸と名乗っていた。最初は初代松鶴の弟子で松竹。一時落語家を廃業するが、師匠亡き後、梅香(梅花)で落語家に復帰。後初代文枝の弟子となり初代文之助。明治十九年に二世(にせ)曾呂利新左衛門と名乗る。

この人の半生については、同ブログ「小天地芸苑曾呂利新左衛門」を参照

②桂仁左衛門 明治41115日 大阪毎日新聞

仁左衛門桂南光は大煎餅と言囃(いいはや)された時分は、人気飛鳥を落して、天晴桂派中興の一人と思われたもんじゃのに、当人それに乗気ぶなったものか、酒ばかりがぶ〳〵呑み居ったから、技芸は世間の人気と反比例し、だら〳〵降りに降って了うて、昔は何んな噺をしても面白く聞(きか)した奴が、今までは何んな妙作な噺をしても、客は皆な欠伸をして面を顰(しか)めるようになったのは偖(さて)も〳〵変われば変わるものじゃ。麒麟も老れば駑馬(どば)に如(しか)ず。馬骨を千金に代える好事者(ものずき)も、老骨仁左衛門を二十幾銭の木戸で聞く気には豈夫(よも)なれまい。それを当人一向気にも留ずに、毎晩酒臭い呼吸を高座で吐きながら、聞いて居ると厭みなるような対話をダラ〳〵と述立(のべたて)居る。まだしも「転宅」とか「新町素見(ぞめき)」とか可笑味沢山の者でも演れば善いものを、アレは余り馬鹿々々し過ぎるとか、イヤ尠(すこ)し理屈に合わぬ点があるとか、訳も判らぬ癖に、勝手な寝言を吐(ほざ)いて、人情めいた噺を演るのは不心得の頂辺(てっぺん)じゃ。先年も例の「三十石」を売物に弟子の小南を連れて東京へ行き居ったが、折角の舩唄も一向感心する奴がなく、小南は大人気で今に居残って居るのに、仁左公は一月限りで逃げ戻った。何も小南が上手な訳ではないけれど、人によって法を説く術(すべ)を知らぬのが気の毒じゃ。仁左衛門たるもの、まだ〳〵老朽(おいくち)る年齢ではなし。大酒を謹んで倒れかかった桂派を挽回する大責任はかかって汝の双肩にあるのだよ。勉強しろ〳〵(獅子之助)

本名深江鶴吉 安政元年~明治441112 58

素人落語時代は引丸。五代目正三門下で、延好、小正楽、時蔵を名乗る。二代目文枝門に移り、二代目南光。明治四十年一月に、歌舞伎役者の片岡我当贔屓から桂仁左衛門と改名する。桂派の大真打で、ネタも多く、特に「三十石」を得意とした。三十石は、やがて後の四代目松鶴となる枝鶴にも伝承され、笑福亭のお家芸となっている。

③三遊亭円馬 明治41118日 大阪毎日新聞

えんば円馬が又桂派に戻った。三年以前桂文三がツベコベ入らぬ口を叩いたばかりに、左様ならと同派を抜けて、頭を円めて円頂派と洒落込み、旅から旅と呑気稼ぎを仕(し)て居たものじゃが、人を呪えば穴二つ、文三は師匠に破門されて、先にに円馬を追い出した奴が、今度は自分が追出されえう破目となると、残った連中が直ぐに円馬の許(もと)へ駆(かけ)て行って、是非帰って貰はねばならぬと、手すりたい棒で頼み込み、首ッ玉に縄をかけぬばかりにして漸く引戻して来た。実際文三などが十人居るよりは、円馬一人居る方が、桂派に取っては大慶じゃ。イヤ客に取っても余程結構じゃ。それに此男が高座へ出ると、「五人廻し々々」と声がかけ居って、此男の噺は五人廻しの外にないように思うとる客が多いのは、何うした訳かな。また円馬も円馬じゃ。それを正直にヘエ〳〵と返事をして、手前の方は何を演っても同じで御座いますからなんて、チャランボランび黴(かび)の生えた女郎買噺ばかりを演り居るのは、何という不見識な事じゃ。左様かと思うと又余り人情噺を演りませんと怠けて居るように思われまするがなどと、仔細らしく言う事があるようじゃが、これも甚だしい心得違いじゃ。決して那麼(そんな)事はない。如何なる短い噺でも話しよう一つで、如何なる短い噺でも話しよう一つで面白味は沢山ある。要は話術の妙不妙だけじゃ。超短で噺に上下はない。「松引」を見ろ。あんな下らぬもんでもお前が演れば面白く聞かれるじゃないか。吾輩などは円馬を名人と思うとるのじゃから、下らぬ客の注文などは頓着せずに、ドシ〳〵甘い、違った噺を聞かすようにして欲(ほし)いと言うのじゃ。序(ついで)だから言いたいのは、円馬の弟の円三郎、今では頭の毛を剃って円と一字名にして了(しも)うた男がある。兄とは違って大のカラ下手じゃ。兄貴の尻に着いて大阪の高座へ現れるる事などは、御免を蒙(こうむ)りたい。兄貴の面汚しじゃ(道祖神)

本名竹沢斧太郎安政元年~大正7121865

最初柳亭左龍の弟子で左伝次。後円朝門に移り、円治、円弥、円雀を経て明治十七年に二代目円馬を襲名する。明治二十四年末に弟円三郎等と大阪へ乗込み、二代目文枝率いる桂派に加入、そのまま大阪に定住する。その後桂派の大真打として文枝を助けるが、明治三十九年に弟円三郎等と共に桂派を離れて「円頂派」を組織して地方を巡業。文左衛門(二代目文枝)引退時に再び桂派に帰還して、桂派の立て直しに一役買うが、大正に入って三友派に移籍。大正七年に橋本川柳に三代目円馬を譲り、自らは円翁となった。円朝譲りの人情噺を得意とし、「空堀の師匠」と呼ばれていた。

④笑福亭松鶴 明治41119日 大阪毎日新聞

松鶴三代目松鶴の弟子で枝鶴と言うて、以前は桂派に出て居たもんじゃが、師匠が竹山人と改名するについて、いろ〳〵込入った事情の許に預り、師匠の南光の手から放れ、三友派に潜り込んで何日の間か四代目松鶴となった男じゃ。別段子供の時分から下駄箱を叩き廻したのじゃなく、本職は簪(かんざし)やの手間取であったのが、真面目な手職よりは、ズボラの落語家が好きじゃとか何とか勝手な事を吐(ぬか)しおって、毎日毎日寄席の偸(ぬす)み聴きをした結果が、到頭木戸銭を払った客に聞覚えの話を聴かすようになり居った。言わば中年者の割には素人放れのした饒舌(しゃべ)り口をするのが感心じゃ。ところがそろ〳〵聞巧(きこう)者の仲間に評判が善くなって来たと思うと、急に漫心がノコ〳〵頭を擡(もた)げて来て、素話は己(おれ)に限ると言うたような面つきで、其実耳に胼(たこ)の出来て居るような下らぬ話を、例の鼻から抜けて了(しま)うような口調で弁じ居るのは何とした不心得な事じゃ。師匠の竹山人は今でこそ老耄(おいぼれ)て了ったが、お前の年位の時分の甘さと言うたら思い出しても気持が可い位じゃった。大きな胴体をぬうと出して、可笑(おか)しくないのに笑いながら座るばかりが能ではない。根が下手ではないのじゃから、ウンと勉強して天晴(あっぱれ)四代目の名を汚さぬようにせいで何(ど)うするのじゃ。三友派がお前に待つ処は甚だ多い事を知らないのか(天保老人)

本名森村米吉 明治2年~昭和1782074

素人連の頃は花米。三代目松鶴の弟子となり松竹。日露戦争から帰還した後、勝利にちなんで万歳(ばんざい)。再び松竹に戻るが、師匠が講釈師となり落語界から離れた為、二代目文枝の預りとなり初代桂枝鶴。後師匠松鶴と共に三友派に復帰して、笑福亭枝鶴と改める。明治四十年十一月に四代目松鶴を襲名。一時寿々女会を創設するが、再び三友派へ復帰。その後は三友派の重鎮として活躍するが、三友派が吉本に吸収した後は出番も少なくなり大正十四年には引退した。昭和十年に弟子の二代目枝鶴に五代目松鶴を譲り、自ら松翁と改名する。

⑤桂慶枝 明治411111日 大阪毎日新聞

慶枝面の長き事馬の如く、色の黒き事烏の如く、師を捨てる事弊履(へいり)の如しとも言われそうなのは、四代目慶枝じゃ。六代目文治の弟子で桂才賀と言うたのが、師匠の許可も受けずに勝手に旅に飛び出し居って、三年ばかり前に大阪へ流れて来たが、何(ど)うした訳か才賀の名前は不要で御座る、返上致すと熨斗をつけぬばかりに文治の許(もと)へ押返して、一人極(ぎめ)に慶枝の名跡を継ぎう居ったのじゃ。一体慶枝というのは何れだけ位のある名前か吾輩は知らんけねども、只達者(せっしゃ)とばかりで、些(ちっ)とも風味のない融通の利(きか)ぬ噺をしる今の文都が前に名乗り居(おっ)た名前じゃから、これを続(つい)だところで大した手柄にも何にもならぬのじゃ。才賀は才賀でよい。何も師匠に後足で砂を蹴(け)かける必要などはさらさらない。才賀式の面白いところを弁ずればそれで沢山じゃ。面の長い割に、悪くだらだらした冗談も使わず、色の黒い割に話ぶりは垢ぬけがして居って、みつしり勉強さへすれば、お前の前途は立派なもんじゃ。客の前受なぞは、一向気に掛るに及ばん。客がパチパチ手を叩かぬ位の事には気を滅入(めいり)さずに、自分がよいと思う話をズンズンしろよ。道具入の芝居噺などは其命脈。今後十年とは持たないのじゃ。(たぬき)

本名山路梅吉 明治16121日~昭和3052073

六代目文治の養子。六代目さん馬(六代目可楽)の弟子でさん勝から才賀。訳あって上方へ行き、桂派に加入して四代目慶枝。後、二代目円馬門下で小円馬から大和。東京に帰り、大正二年四月七代目さん馬を襲名し大正十一年十月に八代目文治を襲名した。

⑥金原亭馬生 明治411113日 大阪毎日新聞

馬生故人藤原重輔が馬鹿に馬生の廓噺を感心して、一旦分離した文団治派に付いて居た奴を、コッソリ呼戻し、籍迄大阪へ移らしめた上で、三友派の常真打として了(しま)ったのじゃが、馬生の噺振を感心するようでは重輔の耳も木耳(きくらげ)と相距(あいさ)る遠からずじゃ。まあ鳥渡聞いて見るが可矣(かなり)、妙に上辷(うわすべ)りのした黄色い声を、鼻の先から出し居って、下手な講釈師がくすぐりを言うような言を、汽車に追いかけられるように、端折(はしょ)り端折り饒舌(しゃべ)り立てるところ、何の事はない嵐が尠(すこ)にもなくて、直ぐに厭(いや)になる点は白湯(さゆ)のガブ呑にも能く似て居る。「滑稽義士伝」「左甚五郎」なんて言う黴(かび)の生えた奴をコク演り居るようじゃが、其合間へ迄も持って行って、チョク〳〵場当りの気障(きざ)な地口を入れる。死んだ円遊がそれじゃったが、臭くて鼻持がならぬじゃ。然し当人これが大の自慢で得意らしい。多分新しがって居る心鏡(つもり)かも知れん。お客も又その度に金子(かね)の要(い)らぬ手をバチ〳〵叩いて喝采して居る。モシ重輔の意其噺を賞(め)でたるでなく、唯客の歓心を求むる為に褒めそやしたものだとすると、彼奴(きゃつ)矢張豪(わら)いもんだが、何うだ馬生……(牛太郎)

本名宮嶋市太郎元治元年~昭和2141583

東京の四代目馬生、三代目柳枝、四代目正蔵などの弟子となり、三代目燕路門下で小燕路から明治三十二年五代目馬生を襲名して真打。明治三十六年頃から大阪に居つき三友派に加入。玩具屋を営んでいたので「おもちゃ屋の馬生」と呼ばれた。三友派の大真打で、「義士伝」「阿武松」「左甚五郎」等を得意とした。

落語総まくり②

⑦桂文屋 明治411115日 大阪毎日新聞

文屋同じ下手でも曾呂利は一派の隊長じゃ。落語の数も知って居れば、随分若い奴の稽古台にもなる。人気はなくても愛嬌を売りものに可成の贔屓客もある。下手ながらにも豪いもんじゃが、文屋となると下手であって雑兵じゃ。一つも纏まった落語が出来ずに、高座の出来栄(ばえ)にシドロモドロ、聞いて居て些とも可笑しくなく、宅へ帰ると按摩を呼ばねばならぬ。按摩を備えて置いて聞かねばならぬような落語を、銭を出してる客に聞かすとは、其厚顔真(こうがんしん)に人をして驚倒(けいとう)せしむる。アレで居て能く高座ばかりで飯が食えるもんじゃと不思議でならない。尤も此頃の桂派の出番順を見ると、余り其処等(そこら)へは面出しを仕(し)て居るそうじゃが、今後何時迄も恁(こ)うあって欲しい。然しこうは言うものの、これは高座の上の文屋を言うたもので、高座以外の文屋は罪のない面白い男じゃ。出来損いの俳句の一つや二つは捻り出しもするし、狂歌の一首二首もめたくるし、茶もたてれば、香もきく。これが落語家でなく、堅気な素人であれば、最(も)そっと人に知られたように。なまじ芸人で候(そうろう)と反身になったのが当人一代の不覚じゃ。聞けば今に無妻じゃそうな。何(ど)ういう間違った考えから女房を娶(めと)らぬのかは知らぬが、早々話相手を探して身を固めて、俳句や狂歌は暫く棚の隅へでも上げて置いて、芸道三昧に入るようにしなさい。老人悪い事は言わぬじゃ。(爺)

本名桂蛇羅助。慶応312月~明治42316日 43

軽口の笑福亭松右衛門の実子。笑福亭円笑の弟子で笑福亭蛇羅助から文吾の弟子で金吾。二代目文枝門下で文屋を名乗った。文人に愛され、若い頃の食満南北も文屋の家の二階で居候していた時期もある。「阿弥陀池」「宇治の柴船」の作者。


⑧桂文枝
 明治411123日 大阪毎日新聞

文枝片肌をスッポリ脱いで、龍門出世鯉の紋々をグウと突出した処は、「何だ箆棒奴(べらんめい)」と恐(おっ)かない啖呵でも切りそうだが、実際は至極優しい高尚造りで、大きな声でものも言わず、高座も至って静かな、寄席向きよりは座敷向の芸人じゃ。先代文枝、今の文左衛門の高弟で、小文枝と言うた時分から、落語の方は一向になってなかったが、文枝になっても更に栄(はな)がない。相も変わらぬ下手な男じゃ。然し舞は山村流をヨク舞い居って、お蔭で淋しい高座もダレさせず、兄弟弟子に文三のような豪(なら)ものを控えて、絶えず高飛車で押へつけられ通しであったにも拘わらず、入門の順序によって到々師匠文枝の名を継いで、桂派の隊長となり遂げた。じゃがこれも一つは当人の大人しい徳の然しむ処でもあろうが、結局は、兄弟子の順登りで、別に手柄でも何でもない。却って三友の曾呂利と対して偶然にも大阪落語の両派の隊長が、遂の下手揃いとなった不思議の現象を示し居った。東京では三遊に円喬あり。柳に小さんあり。両々一代の名人として迎えられて居る時代に、大阪の三友、桂が一対の下手を戴(いただ)いて居るのは、大阪落語界にとって大なる不名誉であろう。と言うても、下手な者が急に上手になれる訳でもない。弱り目に祟り目で、又此文枝が師名継承後桂派は殆ど孤城落日の危機に瀕した。次いで円馬が去る、文三が去る、漸く此頃円馬だけは帰って来たけれど、同派の危機は依然として去りそうもない。隊長文枝たるもの、一つウンと憤鼻揮(ふんどし)をしめるのは今じゃろう。

本名橋本亀吉 元治元年1月~明治431224日 47

幼少の頃、初代文枝の弟子で小文。師亡き後、文三(後の二代目文枝)の弟子となる。十七歳の時、小文枝と改め、明治三十七年に三代目文枝を襲名。

二代目文枝の後の桂派の座長となるが、統率力に欠け、しばしば桂派内紛が発生する。しかし持ネタの数は当時随一と言われ、山村流の舞は本格的であったという。

⑨三遊亭円若 明治411127日 大阪毎日新聞

円若顔は二目と見られぬ醜い男じゃが、咽喉は吃驚(びっくり)するほど美しくって、今の女房も全く此咽喉に惚れて一緒になったもんじゃそうな。処が其根性と来ると又咽喉とは正反対に悪い奴で、外の連中がウッカリとして居る処につけ込んではさまざまな悪知恵をつけ居る。三友派に絶えずすった揉(も)んだの悶着が起こるのは、円若あるが為じゃと言う者がある。一体傲慢で自負(じふ)心の極めて強い奴じゃから、幾分か那麼(そんな)ところが人の憎しみを買って、悪い評判が立つのかも知れぬけれど、毎年正月になると、神戸の湊亭へ出かけて居て、帰って来ると、これがお土産で御座ると、臆面(おくめん)もなく高座の上で新作新年御題の端歌を自慢たらだら呻(うな)り居る点から考えると、傲慢は知らぬが自負心だけは確かに強い男じゃなと思われる。それもじゃ、その端歌が甘くでもあれば、自慢をしようが、何うしょうが、一向構う事はないが、切続細工の何処が頭やら尻尾やら、訳も判らぬ奴を、何れ芸妓衆の仲間に流行は致しましょうが、覚えになすって下さいと、高くもない鼻をピコつかしながら言う処、憤飯(ふんぱん)せずには居られない。盲人蛇に怖(おじ)ずとは恁(こ)ういう事を言うたものであろう。然し、「槍錆」だとか「隅田川」とかになると、了得(さすが)に甘いものじゃ。一時人気の絶頂に達して、義理のある故人福松から貰った笑福亭の名前を突返して、素の三遊亭に逆戻りしてもビクともせぬよと威張ったのも、大した無理ではないように思える。落語は余りせぬようじゃが、それでも「飴の中から金太さん」などを演(やら)すと甘いもんじゃ。曲がった根性を入れ代て大人しく勉強すれば、立派な三友派の真打じゃ(土左衛門)

本名斎藤安兵衛 慶応1年~大正263日 49

東京で修業し、明治二十八年に師匠四代目三遊亭円生とともに京都へ来て、そのまま上方に留まり、浪花三友派の席へ出た。明治三十一年十一月に初代笑福亭福松の門人となり笑福亭円若を名乗るが、福松死後もとの三遊亭円若に戻った。また一時三笑亭可楽を襲名したが、故障があり、すぐに元の名に復した。美声で、音曲師としての評価は高く、特に「槍錆」は絶品とされた。ただ性格は傲慢で、楽屋内の悶着が絶えなかったという。三日午後三時半、肺炎のため南区天王寺伶人町愛染坂稲荷小路の自宅で死亡した。葬儀は紅梅亭主人原田が万事を斡旋して四日午後三時に自宅出棺、阿部野墓地にて火葬に付された。

⑩桂雀三郎 明治411128日 大阪毎日新聞

雀三郎見るからに厭味(いやみ)らしい若造の癖に、妙に人を馬鹿にしたような態度で前後不揃、重語沢山、可笑味というもの薬にしたくもない落語を述べ立る桂派鼻抓(つま)み黨(とう)の一人じゃ。これから比べると同じ若い奴の仲間でも、小文三などは甘いもんじゃったが、文三のゴタゴタ騒ぎにもお相伴を喰って、京都へ行って了(しま)ったから、今では先づ若手じゃ乃公(おれ)だろうと天王寺の塔の烏のように高く留り居って、トント勉強をせずに、金持の後家の尻ばかりを追廻して居る。じゃから唯さへ下手な奴が益々下手になるばかりじゃ。唯然し音曲となると此奴(こやつ)天性の才幹があると見えて、何を遣ても中々甘い。あの南光が十八番ものの、三十石の欵乃(ふなうた)の如きもんでも、昨今聞くと本家の南光より雀三郎の方が遙かに甘い。南光は大酒の為めに咽喉が潰れてし了ったのじゃから、再び従前のように甘くは唄へぬじゃろう。して見ると今に三十石は此奴のお株ものになるかも知れぬ。それも何も勉強次第じゃ。咽喉が善いのに慢心し居って、落語の方を怠ると、欵乃は歌えても三十石の噺は演(やれ)ない。師匠の枝雀たるもの十分に取締って、せめて一人前にしてやるが□□(□太郎)

本名豊田卯之松 明治12年~昭和619日 53

兄弟三人ともに素人落語に出ていたが、やがて三人揃って桂派の初代桂枝雀に入門して雀四郎、雀之助、雀三郎の名をもらった。長兄の雀四郎は大成せず、末弟の雀三郎は明治四十四年三月、兄より先に二代目桂小文枝を襲名し、看板となった(雀之助は翌年に三代目万光を襲名)。明治四十五年六月、桂派が寿々女会と名を変えたが、悶着が起り、枝雀がまず飛び出してしまった。さらに三遊亭円馬ら旧桂派の幹部連が三友派へ移るという大変革が起った。万光、小文枝は師匠の枝雀に従わず、円馬について三友派へ移った。兄の万光が地味で、風采もあがらず、前受けがよくなかったのと対照的に、小文枝は端正な容姿と美声で、初代春団治と人気を二分するほどの花形となった。とくに「三十石」の舟歌は直伝の桂仁左衛門を凌駕するほどの天下逸品で、小文枝が高座に出るや、客席からはいつも「三十石」と声がかかり、ほかの噺をさせなかったという。大正五年九月、三友派から反対派へ移った。このとき反対派で孤軍奮闘していた師枝雀から呼ばれたのであろう。移籍後、枝雀とともに反対派の発展に大いに尽力した。大正十一年、反対派が吉本興行に統合されたあとも高座を勤めていたが、昭和二年七月を最後に出番から名前が消えた。

⑪桂枝雀 明治41121日 大阪毎日新聞

枝雀文三になった扇枝と並んで、古い昔から桂派の双璧と唄われたもんじゃが、文三ほどに横曲けた根性も持たず、又言う程の野心もなく、一圖に唯落語ばかり勉強し居った甲斐があって、一方の文三は今のようなみじめな姿になったのに引換へ、枝雀は桂派唯一の人気を背負い、何処へ出しても押も押されもせぬ真打で、立派に遣って居るのは、全く当人の心がけが善いからじゃ。一体此男は母親の腹の中に居る時分から、落語家になり居る運命でも持って居たものか。高座に登って口から出任せに饒舌(しゃべ)る言葉が何れを聞いても可笑味沢山で、如何(どん)な六(むつ)かしやでも、此奴の落語を聞くと笑わずには居られない。お蔭で席主の受も客の受も上乗(じょうじょう)じゃ。一頃は此人気に乗が来居ったものか、不心得にも大津絵の出来損(できそこな)いや、誤魔(ごま)かしのトッチリトンや、吹出したくなる義太夫などを、客の迷惑トントお構いなしで、呻(うな)り居った事もあるけれど、昨今ではそれを止(やめ)たようじゃし、又何(ど)うかすると、糞じゃの屁じゃのと聞くに堪えぬ尾籠(びろう)な言葉を平気で落語の中に交(ま)ぜ居ったもんじゃが、之も此頃では余り耳にせぬようになったのは、当人にとって大慶(たいけい)な訳じゃ。今後も屹度(きっと)謹んで、成(なる)べく芋が地獄に堕る説教のような奇想天外から落ちるものを饒舌ように心掛るがよい(芋作)

本名入江清吉 元治元年~昭和31122日 66

素人連時代は喜代丸と名乗って人気者であった。明治十七年に二代目文枝(文左衛門)に入門して枝雀。生涯改名せず一つの名前で通す。「野崎詣り」「稽古屋」「借家怪談」「尻餅」など、桂派には珍しい、笑いの多い噺を得意として人気者であった。桂派では、文左衛門、南光、三代目文枝、三代目文三に次ぐ実力者であった。

⑫笑福亭松喬 明治41122日 大阪毎日新聞

松喬大概の疱瘡(ほうそう)神だと人眼見ただけで反対に逃げ出しそうな大痘痕(あばた)の上へ持って来て、ギョロリと底光りのする白眼を剝(む)き出しながら、日光に照らされた雪仏が溶け出す時のような姿で、ベタベタベタと高座に座るところ、未だ口を開かずして既に客の好奇心を買うの資格がある客は、此珍妙不可解魔可不思議の容貎(つらつき)に気を呑まれて、什麼(そもさん)妙何なる珍話妙語を話し出すか、と固唾(かたず)を呑込んで耳を澄まして居ると……否(いや)以外にも当人京都弁のズバズバした口調で以て一向珍でも妙でも何でもない、平凡極まる古臭いところを、エッチラオッチラ述べ出して、オヤオヤオヤの買いかぶり。二度吃驚(びっくり)の客仰天。偖(さて)も見ると聞くと余りの相違に呆然たらしむる。随分と罪な男じゃ。尤も今では誰もこれに馴れてしまったものか、此男の落語を聞こうなんていう不心得な客は無くなった。出ると四つ竹〳〵と注文をする。当人もこれが自慢と見えて、義理か役かの小噺を一つ済ますと、直ぐにパチパチに取りかかり居る。自慢だけに四つ竹は甘いものじゃ。櫓太鼓などは実際聞くに足りるべしじゃ。此顔にして此芸あり。生中(なまなか)少しばかり落語が甘くて、其外には酒を喰らって酔うと喧嘩をする以外に能のない、其癖顔つきも十人並の平凡な奴などよりは、客の方に取っては何だけお前の珍妙面の方が結構か知れん。好漢松喬汝の面も又豪(えら)い(博士)

本名岡本仁三郎。慶応318日~昭和271111日 85

二十二歳の明治二十一年に、三代目松鶴に入門して梅喬。初舞台は、同二十三年四月神戸湊亭。後四代目松喬と改名。同二十九年に、師匠松鶴が講釈師となった為、長く不遇の時代を過ごすが、明治三十八年大阪の三友派各席に出勤。この頃から二代目文団治の引立て等もあり、三友派の幹部となり、さらに同四十五年五月に二代目染丸を襲名する。

吉本時代は、円馬、三木助、春団治と共に大看板で、夫人の林家とみは、下座三味線の名手で、無形文化財にも指定された。

落語総iまくり③

⑬三升紋弥 明治41123日 大阪毎日新聞

紋弥始めは桂紋弥と言い居ったが、文団治が反旗を立て分離をする時に、急に裏切をしたから、己れと言うので、瘤の鴈篤に捕まってメチャクチャに殴られ、是非なく翌日から急に三友亭紋弥と曖昧な名を名乗って見たけれど、文団治が再び逆戻りするに至って、居るに居られず、今度は東京三界迄逃出して帰って来ると、三升紋弥と名乗って居る。別に何と名乗ったところで、吾輩に取って何等の関する処もないが、九鼎大呂(きゅうていたいりょ)よりも名を重んじる落語社会で、僅々数年の間に這麼(こんな)に呼び名の早代りをする奴は珍しいから書いて見るのじゃ。ところが東京に行って見ると、大変な人気者じゃ。何処の何ういう点が江戸っ子の気に入ったか知らんが、彼方(あちら)の寄席も此方(こちら)の寄席も大騒ぎで、紋弥を引っ張り廻し、頼みもせぬのに、一枚看板の別行燈(あんどん)にして客分の真打に拝み上げて了まった。紋弥と前後して上京した鹿も沢山あったが、悉く失敗で、僅かに小南一人位が翼(はね)を伸ばして居る外は、南光、文枝、大阪に居ると並んで口を利く事も出来ぬ大頭連が、何れも尻尾を巻いて引退(ひきさが)ったに引換、碌々(ろくろく)たる一紋弥がかく成功したのは、何ういう訳か。吾輩などは不思議で堪らない。ないが人気者であるのは事実じゃ。今度帰って来たのを聞くと、話ぶりはすっかり、江戸っ子になり居って、打扮(みなり)なども見違えるばかり立派じゃけれど、相変らず気障気沢山で鼻持がならぬ。ソレに山口定雄が能く演り居った電気踊などを、当人発明の心算(つもり)か何かで得意に演り居るが、イヤ実に下らぬもんじゃ。下らぬもんじゃが、矢張人気がある。これを見ると、落語家の上手になるのも考えもんじゃのう(鹿)

本名溝口利三郎。明治13710日~昭和7617日 53

明治十三年、大阪南区清水町に生まれる。家業は着物に紋を入れる紋屋で、芸名はこれに由来する。小さいころから山村友五郎に舞を習ひ、後に瀬山流を習つた。しかし好きな道から二代目文団治(のち七代目文治)に入門し、二代目小団治を名乗って落語家となった。明治三十七年、文団治が浪花三友派から分離して大阪三友派を組織したとき、師匠に同行せず、名前を返して三友亭紋弥(のち三升紋弥)と改名。のち東京へ出て、若柳吉蔵の門に入り、吉弥の名をもらい、若柳流の名取となった。男ぶりのよさと舞踊の上手さが話題を呼び、たいへん人気をよんだ。大正三年に帰阪し、三升家紋右衛門と改名。ほとんど落語はせず踊りだけで高座を勤めた。大正十二年二月に噺家を引退し、清水町の自宅に若柳流指南「若柳吉升」の名札をかかげて踊りの師匠となった。

⑭桂文都 明治41125日 大阪毎日新聞

文都先代の文都は甚だ聞くに足るべき奴じゃったが、当代の文都に至っては、更に振るわぬ連日連夜「子は鎹」「新町廓夏の遊び」その他二三種の人情めいた噺ばかりを十年一日の如くに繰返して、毫(ごう)も異趣なく異彩なく、全くの処早く隠居がして欲(ほし)い代物じゃ。それに当人は心得て居るのか居ぬのか、但し心得ても為し得ぬのか、深い事は知らぬが、特に人情めいた話ばかりを得意になって演り居るのは何いう訳じゃろう。桂派の南光が恰度(ちょうど)それじゃ。今更言う迄もなく人情噺は対話の妙味一つで客に聞すものじゃから、関西の言葉では何うしても今一呼吸という処が甘く運ばぬ。昔から関西に人情噺が発達せず、主として東京の芸人によって成効(せいこう)して居るのは、全く此原因からじゃ。それを能(よ)くも糺(ただ)さずに江戸っ子の為(す)る事を大阪の人間が出来ぬという訳はない位の大まかな考えから演り居るのは、分別のない事夥(おびただ)しい。落語家は唯お客がゲラゲラ笑って居るからと言うて、自分の芸が甘いなどと自惚れるようではならぬ。笑う客、必ずしも聞上手ではない。下らぬ洒落にも笑う者は笑う。笑われるから上手だと思い違へて居ては名人上手にはなれぬ。現下の大阪落語界中では比較的にヨク饒舌得(しゃべりう)る文都たるもの、此辺を篤と考えて一段の進鏡を見せるように励まずばなるまい。序(ついで)じゃから言うが、此文都以前は桂柏枝及び慶枝と言うて桂派の古参株じゃったが、同派の前途危うしと見ると急に文団治の下に奔(はし)って今迄の味方に弓を弾き居ったさへあるのに、其又文団治が分離して互楽派と提携するや、ホンノ暫くしか幕下に連(つらな)らず、早くも先を見限って今度は曾呂利の方へ寝返りをした。如何に義理知らずが、芸人根性の奥の手だとはいえ、吾輩這麼(こんな)二股ものはキツイ嫌いじゃ(土左衛門)

本名梅川五兵衛 生年未詳~大正71219日 亨年未詳

はじめ三代目文吾門で源吾から玉輔。林家正竹から初代文団治門に移り玉団治。文団治亡き後、玉輔或いは玉団治を名乗っていたが、二代目文枝門に移り、伯枝から明治三十二年三月に三代目慶枝を襲名。しかし当時の桂派内の扱いに不満を持ち三友派へ移籍。明治三十六年二月に三代目文都を襲名する。二代目文団治が大阪三友派を旗上げして三友派を脱退。最初は文都も行動を共にするが、すぐに離脱して東京へ。明治三十八年に帰参した時は一時梅川吾瓶と改名するが、再び文都と復名する。大阪では珍しい人情噺を得意とし、「子別れ」「たちきれ」「冬の遊び」「三枚起請」等の大ネタを得意とした。

⑮笑福亭松光 明治41126日 大阪毎日新聞

松光実に久しい落語家じゃ。故人福松がまだ志を成さなかった時分から、純大阪式の落語を話して、その合間々々には米山甚句、阿保蛇羅経などを能く演り居った。落語は一向に甘くない。甚句、阿保蛇羅経と雖(いえど)も、一向聞くに足るべきものではないが、此男や文治になった文団治及至(ないし)文団治になった米団治などが高座に出て居るのを見ると、吾輩の如き昔から高座でだけの古馴染客には、何となく一種の骨董品を見せられた格で、意味のない趣に打たれる。此意味で吾輩は、今の若い客のように無碍(むげ)に松光を排斥(はいせき)はせない心算(つもり)じゃ。イヤそれだけでなく、容貎(つらつき)が思い切って粗末に出来て居るから、顔を見て居て吹出す点を見現わされぬようにと、年齢にも似合わず毎日毎晩手入れをし居って、虫が喰うてる顔は荒砥(あらと)をかけぬばかりに磨き上げ居る。腐ってクリ出した眼には、硝子球の義眼を詰め居る。余り余計にもない髪は一本々々撫でつけて、鶴のように痩せた図体を澄ましてヌウと高座に突出すところ至極の滑稽じゃ。真逆(まさか)若い美しい女房があるからでもあるまいが……(老人)

本名梶木市松 万延元年~大正213日 54

十七歳(明治八年)頃、初代福松に入門して松光、生涯この芸名で通す。馬顔、片方義眼、疱瘡面、縮れ毛から「かんやん」と仇名された。福松死後の三友派の大幹部で、「反魂染」「稽古屋」「牛ほめ」等の中ネタや、音曲の「米山節」を得意とした。

⑯桂三木助 明治41127日 大阪毎日新聞

三木助先頃天満杉の木の主人が、専断に矯風会出演の三木助の頭の上へ持って行て、「真打候補者」と記入したところが、忽(たちま)ち仲間の鹿連から苦情百出の横槍づくめで、当人散々の不面目の上、遂に再び右の記入は取除かれ、真逆(まさか)其為でもないが、杉の木は一時桂派連合の寄席から跳ね退けを食うに至ったという至極念入の履歴がついとる男じゃ。否(いや)仲間の鹿が苦情を言うのも道理千万で、フリの客たる吾輩でも苦情を言う。如何に桂派に人なしと雖(いえど)も未だ三木助を以て将来の真打に擬(ぎ)さすばならぬ程ではあるまい。南光の門人で踊を踊ると、袂(たもと)から熬豆(いりまめ)が飛出す時分は手遊と言うて、名詮(じせん)自称色の白い可愛らしい、手遊には格好の小僧じゃったが、段々大きくなるに連れて憎たらしくなって来て、同時に小生意気な口迄も利出し、兵卒に取られて入営してからは昔の面影が薬にしたくもないようになった。尤も当人も落語よりは踊を得意にするようであるが、まだまだ年齢は若いのじゃから、今から真打になろうなんて言う考えは起さずに、身持を謹んで、ミッチリ勉強して、今度は仲間の鹿から是非真打になって貰いたいと言うように心がけるがよい(豚助)

本名松尾福松 明治1711月~昭和1812月 60

子供の頃からの噺家で、明治二十七年に二代目南光(仁左衛門)の弟子となり手遊(おもちゃ)と名乗る。明治三十九年十一月に、大師匠文左衛門の前名である二代目三木助を襲名。桂派の若手として雀三郎等と共に大いに期待されたが、博打の借金問題で大阪に居れなくなり、小南を頼って上京。しかし、小南との間にトラブルがあり、当時大真打の円喬の預りとなり、円喬も三木助の芸を認め、橘家三木助で真打披露をする。その後しばらくは、東京の三遊派の席に出勤するが、大正初期に上方に帰り神戸吉原派に加入。三友派が吉本に吸収された後は、染丸、円馬、春団治と共に吉本の重鎮として活躍する。ネタの数も多く、今現在演じられている上方落語も三木助から円都、米朝と伝授されたものが多いと言われる。

⑰桂文団治 明治41128 大阪毎日新聞

文団治七代目文治になった二代目文団治の秘蔵弟子で米団治というたのが今度師名を襲(おそ)うて、三代目文団治となったのじゃ。クルリと肌を脱ぐと朱入桜の花の間に散(ちら)した四十八枚の花札を全身に極彩色で彫り込んだ名代の文身(いれずみ)が恐ろしく怖い爺さんのように見せしめるけれど、実は禿頭のツルリとした左程(さほど)悪気のない男で、高座の落語振りも至極大人しく、それで自然の可笑味を持って居る。場合によると師匠の文団治よりは遙かに甘い落語を聴かして居る事もある。確かに三友派一方の旗頭たるだけの価値はあるようじゃが、それで居て、高座の出来不出来が無闇にあるのは何ういう訳か。鳥渡一例を挙げても、「転宅」などは立派なもんで、鳥渡他に真似人(まねて)はあるまいと思うて外の落語を聞くと、恰(まる)で人が違うて居るように無味(まず)い。能筆は筆を選ばず、名人に上手と下手の場合がないのが当然なら、文団治もまだまだ修行が足らぬものと思われる。序に鳥渡言いたいのは、大阪で滅多に演った事がないようじゃが、神戸辺などへ出かけると、時々長々しい舞を舞うて客に欠伸をさす事がある。今後は屹度(きっと)慎んだが可(よか)ろう(博士)

本名前田七三郎 安政3年~大正1349日 68

二十三歳の時、二代目立川三玉斎の弟子で三吉。師匠の三玉斎没後、二代目文枝門で文朝、三代目林家菊枝門下で菊松を名乗り、初代文団治門下で初代米朝となる。訳あって兄弟子米団治門下に移った後、明治二十年に二代目米団治。師匠文団治と共に浪花三友派で活躍し、同四十一年十一月に三代目文団治を襲名した。三友派の大看板で、全身に四十八枚の花札の刺青をしていた。

⑱桂文治 明治411214 大阪毎日新聞

文治高慢で不遜(ふそん)、人を人とも思わず、一つ間違うとゴリカンを張り出して誰が何と言っても承知をせない。その癖知恵袋は余り深くないと見えて、新古亭真生のような男に甘く擔(かつ)がれて、三友派と分離するような馬鹿も仕出す。然も又々元に逆戻りをすると勢力座長の曾呂利を凌(しの)いで、隠然(いんぜん)三友派頭領の位置に座る。技芸に人を服せしむる能もなく、徳に人を化するの量もなくて、何故かくは甘い事づくめに行くのかと言うと、全く多くの弟子を有するからである。前の米団治、松光の二真打を始めとして、目下三友派に籍を掲ぐる落語家の殆ど七分迄は文治の弟子ならざるはなしじゃ。彼モシ一度(ひとたび)憤って蹶起(けっき)する時ンば、弟子共又一に振い立って直ぐに叛旗(はんき)を押立て、同盟休業と出かける。イヤ弟子の中には迷惑千万と眉を顰(ひそ)める奴も中にはあろうけれど、義理と犢鼻褌(ふんどし)、真逆(まさか)に知らぬ顔の半兵衛と澄まして居る事も出来ぬ。かくして文治は実に現在大阪落語界の最高権利者である。序にいうが、半可通の客の中に、「文治の噺も最(も)う聴けぬな」と言ったような批評をする向が大分ある。然し吾輩などは、なまなかの今の若い落語家などと較べると、文治の噺は甘いもんだと思う。唯若い時から妙に早口にベラ〳〵と饒舌(しゃべ)るので桟敷などに居ると時々何を言うているのか訳が判らぬ事があるのが恨みじゃ。胴体だけを見ると、山が崩れて来てもビクともしそうにない割に、去とは落着のない事じゃないか。と言っても此末何日迄も高座に登って居る訳でもあるまい。其内には引退するじゃろうから、今度は注意しろと言う甲斐もあるまい。引退したところで此男などは困らぬ方じゃ。困りかけたら女房が手を油だらけにすればソレで可(いい)のじゃ。

本名平野治郎兵衛 嘉永元年~昭和39月 81

明治八年に初代文団治の弟子となり米団治。一時師匠と不和となり、順枝、米喬を名乗る。

再び米団治と復名後、師匠没後の明治二十年に二代目文団治を襲名した。後、桂派に対抗した浪花三友派の参謀格となり活躍。明治三十七年には、福松や席亭との意見の相違から三友派を脱退して、大阪三友派を旗上げ。翌年夏に再び三友派に帰参した後は、名実共に三友派の最大実力者としてその政治力を発揮する。四十一年には、一代限りの約束で七代目文治を襲名。この時、六代目文治の借金等の多大な金額を用立てた為、晩年の文治は淋しい余生を過ごしたといわれる。

百芸人①

曾呂利新左衛門1)曾呂利新左衛門(そろりしんざえもん)

俗に骸骨と呼ぶ愛嬌者。得意は姦通噺と端歌に合して即席画の揮毫。





2)豊竹呂昇(とよたけろしょう)

呂昇大阪女義太夫の巨擘(きょはく)。本名永田なか(三十五)、得意語物は、「先代御殿」と「堀川猿回し」。






3)東家小満之助(あずまやこまのすけ)

小満之助常盤津を売物に、三友派の高座を賑わす人気者。








(4)
北陽まる吉(まるきち)

まる吉元梶川の芸妓で、小満之助と一緒に三友派に出演。







(5)
桂仁左衛門(かつらにざえもん)

仁左衛門落語桂派の真打にして、「三十石」を得意とす。舟唄は人を魅すべし。






(6)
竹本春子(たけもとはるこ)

竹本春子播重席に出演の女義太夫。去三月十八歳にて立看板にある。







7)竹本東代鶴(たけもととよつる)

竹本東代鶴春木亭出勤の人気者にて、当年二十三歳。得意の語り物は鈴が森」なり。






(8)
竹本小仙(たけもとこせん)

竹本小仙今年十四歳ながら極めて語物よく、女義太夫界の天才と呼ばれる。播重席出演。






9)三遊亭円馬(さんゆうていえんば)

えんば久しく旅路にありしが、去月より桂派に現る。







(10)
笑福亭松鶴(しょうふくていしょかく)

松鶴







11)富士松嶋光(ふじまつしまみつ)

しまみつ千日前花月亭出演の娘新内。本名斎藤光(廿一)。得意は朝顔日記。






(12)
豊沢仙春(とよざわせんはる)

仙春播重席出演の女義太夫。師匠

は豊沢団平。本年十七歳なり。





(13)
豊沢仙平(とよざわせんぺい)

仙平竹本仙春の妹にて、三味を務む。姉と同じく播重に出演す。歳は一つ違いの十六歳。






14)桂慶枝(かつらけいし)

慶枝大和大掾となりたる文治の門弟にて才賀といえるが、改名したるなり。桂派に出勤。





15)竹本谷勇(たけもとたにゆう)

谷勇本名高野しげ(十七)。播重席出演女義太夫にて、師匠は谷太夫。






16)鶴賀千代春(つるがちよはる)

千代春千日前花月亭出演の新内太夫にて、本年二十八歳。得意の語り物は桂川に新口村






17)金原亭馬生(きんげんていばしょう)

馬生落語三友派真打の一人。清新奇抜の話振りを以て一部人気を博せり。







18)竹本春駒(たけもとはるこま)

春駒春千太夫の門人にて、江戸っ子のチャキチャキなり。本名谷口きよ。播重出演。






19)千歳米坡(ちとせべいは)

千歳米坡①年新造の米坡。又も三友派に現る。仲間は呼んで、発狂人と呼ぶ。御承知の大変もの。






20)桂文屋(かつらぶんや)

桂文屋桂派出勤の古き落語家にて、狂歌を嗜み、無妻主義を振廻す変った男。

百芸人②

(21)豊沢竹子(とよざわたけこ)

豊沢竹子播重出演の三味線弾にて、豊沢竹三郎の門亭なり。






(22)
竹本末虎(たけもとすえとら)

竹本末虎元都保美連以来呂昇一座の重鎮。渋いものが得意。松の亭に出演。







(23)
竹本鶴浅(たけもとつるあさ)

竹本鶴浅本名は大竹あさ(四十)。末虎と同じく大年増の三味線弾き。







(24)
桂米朝(かつらべいちょう)

桂米朝三友派出勤の落語家にて、古顔の一人なり。落語よりは厭味な踊を得意とす。







(25)
竹本東照(たけもととうてる)

竹本東照本名井上かね(十八)といい東京浅草の生れ。目下播重に出席し人気あり。






(26)
鶴家団之助(つるやだんのすけ)

鶴家団之助千日前改良座出勤の俄師にて、人気者の一人なり。







(27)
岡本小美鳥(おかもとこみどり)

岡本小美鳥千日前花月亭出勤の源氏節太夫。本名松見たみ、年は三十の女盛り。






(28)
竹本房勝(たけもとふさかつ)

竹本房勝本名は浅尾しな(十七)。得意の語り物は聚楽町。松の亭に出演。







(29)
竹本東吉(たけもととうきち)

竹本東吉東京睦派の古老。本名は吉川とら(四十)。播重に出演して三味線の腕達者。






(30)
曽我の家虎(そがのやとら)

曽我の家虎五郎十郎の俄師にて、新喜劇俳優として独りで威張る愛嬌者。







(31)
竹本喜昇(たけもときしょう)

豊竹喜昇呂昇門下の人気者にて、目下松の亭に出勤の女義太夫。得意は「壺坂」。






(32)
桂文枝(かつらぶんし)

文枝以前小文枝と言い今は師名を継ぎて文枝となる落語家なり。桂派の座長たり。山村流の舞が上手。





(33)
曽我の家十郎(そがのやじゅうろう)

曽我の家十郎①曽我の家一座の総座長。芸に少しの臭みなき所、近頃稀に見る芸人なり。






(34)
竹本鶴之助(たけもとつるのすけ)

竹本鶴之助①鶴沢鶴太郎の門人にて、目下播重に出演。本名岩井政江、当年まだ十六。





(35)
桂柏枝(かつらはくし)

桂柏枝以前文太郎と言える男。落語よりは音曲を得意とす。桂派に出勤。






(36)
豊竹小昇(とよたけこしょう)

豊竹小昇①呂昇の門人にて、松の亭出勤の女義太夫なり。当年取って十五歳。






(37)
立花家千橘(たちばなやせんきつ)

立花家千橘久しく九州地方を流れ歩いて居たが、此頃又々桂派に帰来した同派唯一の音曲師。





(38)
竹本伊達之助(たけもとだてのすけ)

竹本伊達之助春木亭出勤の女義太夫にて。伊達太夫の門人なり。本名隅田たつ(二十五)





(39)
信濃家半玉(しなのやはんぎょく)

信濃家半玉尾半の弟子にて、団九郎一座の改良座に出勤の俄師なり。






(40)
竹本房七(たけもとふさひち)

竹本房七①本名河野たか(十八)といい、今度新たに出来たる道頓堀竹横の改良席に出勤する女義太夫。

百芸人③

(41)三遊亭円若(さんゆうていえんじゃく)

円若久しく三友派の音曲師として人気あり。一流の槍錆に得意の咽喉を揮り。





(42)
富士松小寿栄(ふじまつこすえ)

富士松小寿栄千日前溝の側花月亭出演の新内語、明烏尾上の部屋が得意なり。






(43)
豊竹小三(とよたけこさん)

豊竹小三①千日前春木座出勤の女義太夫にて、本名北川たみ(十九)という。朝顔日記宿屋が得意。






(44)
桂雀三郎(かつらじゃくさぶろう)

雀三郎落語より音曲を得意とす。南光の三十石の舟唄を真似て妙なり。






(45)
竹本団治(たけもとだんじ)

竹本団治本名山口かめ(三十二)といい春木亭に出勤す。得意の語物は伊勢音頭の油屋。






(46)
桂歌之助(かつらうたのすけ)

桂歌之助三友派出勤の落語家。何をさしても不器用ものなれど、一種の愛嬌ありて人気もあり。






(47)
竹本伊達若(たけもとだてわか)

竹本伊達若伊達太夫の門人にて本名堀田まさ(廿一)。目下千日前春木亭に出勤の女義太夫。





(48)
鶴家団道理(つるやだんどうり)

鶴家団道理団九郎の門人にて、改良座を根城として、古い処を御覧に入る俄師。






(49)
中村旭翠(なかむらきょくすい)

中村旭翠妹翠玉と共に桂派に出勤し、筑前琵琶にて御機嫌を取結ぶ。






(50)
曽我の家一満(そがのやいちまん)

曽我の家一満曽我の家一座の人気男にて、色立役が当人大の自慢なり。






(51)
鶴賀飛蝶吉(つるがひちょうきち)

鶴賀飛蝶吉千日前花月亭に出勤し源氏節佐倉宗五郎、千両幟に美音を揮う。







(52)
桂枝雀(かつらしじゃく)

枝雀桂派第一の人気者にて滑稽縦横一言一句人の頤を解く。







(53)
豊竹は昇(とよたけはしょう)

豊竹は昇①呂昇の門人にて、咽喉よりは美貌を以て人気を博し居れり。







(54)
笑福亭松喬(しょうふくていしょきょう)

松喬三友派のお役人で、四つ竹の櫓太鼓が売りものにする愛嬌沢山の落語家。






(55)
初春亭小芝鶴(はつしゅんていこしばつる)

初春亭小芝鶴堀江明楽座に出勤する俄師なり。







(56)
桂菊団治(かつらきくだんじ)

桂菊団治一両年前から急に頭を擡げ出した文団治改め文治の門人なり。






(57)
竹本林昇(たけもとりんしょう)

竹本林昇本名植田ふぢ(廿二)。千日前播重席出演の女義太夫。







(58)
三升紋弥(みますもんや)

紋弥三友派の名物男にて、永らく上京し居たるが、此程又帰阪せり。







(59)
四位野静子(しいのしづこ)

四位野静子①改良座団九郎一座に交わる女俄師なり。






(60)
桂文都(かつらぶんと)

文都三友派の真打にして、大阪落語家中素話の上手株なり。

百芸人④

(71)桂小文吾(かつらこぶんご)

桂小文吾桂派に出勤して素人臭い落語を饒舌る男。






(72)
桂文福(かつらぶんぷく)

桂文福兵隊さんになって入営して居たが、満期後は桂派に出演の落語家。







(73)
鶴家団三郎(つるやだんざぶろう)

鶴家団三郎改良座の俄師にて、裏長屋の女房など甘いもの。






(74)
鶴賀呂光(つるがろこう)

鶴賀呂光千日前花月亭出勤の娘新内。本名は青木いそ(廿一)。得意は千両幟。






(75)
桂雀之助(かつらじゃくのすけ)

桂雀之助顔芸だとか背虫の身振りだとかで愛嬌を振撒く桂派の一人。






(76)
竹本芳八(たけもとよしはち)

竹本芳八梅田栄都館出勤の娘義太夫。今年まだ十八歳の娘さんなり。







(77)
桂文治(かつらぶんじ)

文治文団治と名乗居たるが、此程文治と改名せるなり。三友派頭領の人。







(78)
鶴家団四郎(つるやだんしろう)

鶴家団四郎①改良座に出勤する俄師にて、本名小倉已之助という。







(79)
桂小円二(かつらこえんじ)

桂小円二文治の門亭にて、三友派各席に出勤する落語家なり。







(80)桂春団治(かつらはるだんじ)

桂春団治三友派の高座に現れて、若々しい落語を饒舌る男なり。








(81)
曽我の家蝶六(そがのやちょうろく)

曽我の家蝶六曽我の家一座に意外に人気のある俄師。







(82)
岡本美栄一(おかもとみえいち)

岡本美栄一千日前溝の側花月亭に出勤の新内語り。







(83)
鶴家団当九(つるやだんとうく)

鶴家団当九千日前改良座団九郎一座に出勤の俄師。








(84)
鶴家団幸(つるやだんこう)

鶴家団幸千日前改良座団九郎一座に出勤の俄師。







(85)
豊竹国松(とよたけくにまつ)

豊竹国松春木亭出席の女義太夫なり。絲を勤む。







(86)
曽我乃家扇蝶(そがのやせんちょう)

曽我乃家扇蝶五郎十郎の一座に翼を伸ばす俄師。







(87)
竹本南昇(たけもとなんしょう)

竹本南昇道頓堀竹横改良座に出演する女義太夫。本名宮成きぬ(十六)。







(88)
竹本小玉(たけもとこたま)

竹本小玉①世話物語にして目下春木亭に出演の女義太夫。







(89)
鶴家団九郎(つるやだんくろう)

鶴家団九郎①団十郎の高弟にて、今は一派の隊長となり、改良座に城を構う。







(90)
豊竹小昇(ことよたけしょう)

豊竹小昇②

豊竹呂昇一座に将来の大成を待つ娘義太夫。


百芸人⑤

(91)桂燕太郎(かつらえんたろう)

桂燕太郎枝太郎の門人にて、三友派に修行中の落語家。






(92)
豊竹小呂久(とよたけころく)

竹本小呂く呂昇の門人にて、当年僅かに九歳。将来上達の見込みありと。






(93)
曽我乃家朝比奈(そがのやあさひな)

曽我の家朝比奈五郎十郎一座に現れて軽妙の技を演ずる俄師なり。







(94)
竹本三八(たけもとさんぱち)

竹本三八豊沢三平の門人にて、本名鈴木すゑ(十五)という。







(95)
曽我乃家新左衛門(そがのやしんざえもん)

曽我乃家新左衛門元曽我乃家一座に出勤の頑丈な俄師なり。






(96)
豊竹右昇(とよたけうしょう)

竹本右昇呂昇一座の人気者にて、時代にも艶にも向く女義太夫。






(97)
小松家市丸(こまついちまる)

小松家市丸本名堀田菟三郎(四十九)と呼ぶ真面目な俄師なり。






(98)
槌家万治(つちやまんじ)

槌家万治互楽派の落語各席に出演する曲芸師なり。







(99)
大和家小宝楽(やまとやこほうらく)

大和家小宝楽明楽座出勤の俄師にて、技量細識を極む。







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岡本美住栄(おかもとみすえ)

岡本美栄千日前花月亭出勤の源氏節語なり。

プロフィール

丸屋竹山人

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