落語家銘々伝:笑福亭鶴松

落語家銘々伝 笑福亭鶴松①


丸屋竹山人 落語家銘々伝⑧
                   
笑福亭鶴松

 今回は、笑福亭鶴松という落語家の代々を調査しました。

笑福亭では、出世名で、若い頃に名乗る名前としては、別格の名前であったようです。

 まずは、例の「落語系図」から鶴松代々を調べて見ると、

初代鶴松:初め鶴松と云う。後に四代目吾竹となり、後に二代目松鶴となる。其後円笑となり講談師となる。五枚扇の松づくしの元祖なり。

二代目鶴松:二代目松鶴門人。初め小文里と云う。

三代目鶴松:三代目松鶴門人。後に福萬となり後に芝鶴となり、其後鶴家団十郎門に入り団鶴となる。

四代目鶴松:二代木鶴門人。文我の倅なり。初め徳太郎と云う。後に文子となり、二代目木三松となり、其後四代目鶴松となる。

 二代目松鶴が、鶴松を名乗ったというのは、この「落語系図」だけですが、この人は「松橋」も名乗ったとも言われています。(ブログ明治三十七年参考資料「寄席の変遷」参照)

 そして、この初代と二代目の間にもう一人の「鶴松」がいました。

 「落語系図」には、記載されていませんが、「上方はなし」の「文我身の上はなし」にこの人の事が載っています。

○文我身の上ばなし     上方はなし15集 昭和127月発行

 ……ちょうど私が九歳の時、道頓堀角の芝居で、嵐璃寛(先年故人となった璃寛の祖父さん)が女舞衣の板額で、嵐璃珏さんが浅利の与市を演じておりましたが、市若切腹の場で、子役のよろい武者が大勢出ますのに、子役が足らぬので、部屋頭をしておりました斎五郎(今の斎五郎の父)が、私に子役に出よと勧めましたので、ツイその気になり、とうとう初舞台を踏む事になりました。その時一番に出ましたのが、嵐璃寿と申しまして、これが後の初代笑福亭松鶴(編者註:鶴松の誤記と思われます)になった人でございます。……それからは何でも少し目先を変えて勉強せねばならんと思いまして、初代鶴松さんにつき歩き、芝居噺と踊りを一生懸命に稽古致しました。……。

○文我身の上ばなし(承前) 上方はなし17集 昭和129月刊

 明治九年に中座になり、芝居噺と踊とで、人気をとりました。その時分法善寺西門南側に、三嶋屋と申す家がござりまして、そこのボンチが、私をえらい好きで、いつでも抱かれに来ます。ところがそのお乳母でお種と申すのが、これまた私にヨウなつきましてございますが、それがためか、いつのほどか誰がいうともなしに、私が高座へ出ますと、おんばさんおんばさんといいまして、トウトウそれが仇名になりまして、どちらにまいりましても、おんばさんおんばさんで、大変御ひいきをいただいておりましてございます。その後鶴松さんが和歌山で大病になり、臨終の期に五本扇の松づくしを私に伝えてくださいましたが、この五本松づくしは、鶴松師匠が工風なされたものでござりましたが、その頃東京より東家左楽と申す人が参りましたが、この人は見台の上で四本扇で松づくしを踊りました。また喜楽と申す人は、舞台に座ったなりで、三本扇をやりましたが、これは扇の手ばかりの舞でございました。……。

 明治十年に因州因幡の替え歌の鬼を考案致しまして客席で踊りましたところ、……

 そして、もう二つ、この人の記録があります。

○慶応3年(1867年)424日   若宮軍書跡 昔噺  「勾欄雑集録」(小寺玉晃)

若宮軍書跡にて昔はなし

松鶴の倅十四歳 笑福亭 つる松

          桂   文楽

              小蝶

          □□□

          桂   慶翁

          笑福亭 梅枝

○川喜派、桂派連名表 明治2年(1869)頃 「芸能懇話」より

(桂派)文枝、正三、鯛輔、九鳥、鶴松、梅花、梅丸、文當、菊輔、吾笑、米丸、小正三、文太郎、正二、光鶴、正竹、文昇、三朝

 「勾欄雑集録」(名古屋鶴舞図書館所蔵 写本)の記事は、名古屋での興行記録です。この鶴松なのか疑問となる部分もあります。旅興行なので、子供の噺家に、「初代松鶴の倅の鶴松」として、興行した可能性もあります。

鶴松⑧

 「川喜派、桂派連名表」(芸能懇話7号)の鶴松は、二代目松鶴が参加している「川喜派」ではなく、桂派の初代文枝一派に加入しています。

鶴松①

 「上方はなし」の文我の文章だと、明治九年頃亡くなったように読めますが、「三国人気の壽 初編 明治八亥歳一月改版」(ブログ明治八年参照)に、すでに記載されていないので、多分明治七年頃には亡くなっていたと思われます。

 この人については、文我も、「蓮盛死出魁 十八番」(芸能懇話21号)の「笑福亭の部」に、「紙くづより 初代鶴松」と記載しており、橋本礼一氏もこの説明の中で、この「上方はなし」の記事から、「元歌舞伎役者で嵐璃寿といい、後初代松鶴の弟子となり、鶴松を名乗った」と書かれています。

 もう一つ、この鶴松が初代(二代目松鶴)か、この二代目鶴松なのか判断に苦しむ摺物があります。

鶴松②

 これは私の愛読書「上方落語流行唄の時代(和泉書院 荻田清著)の中で紹介されたもので、慶応三年秋の「おかげをどり」「ええじゃないか」の流行を詠んだものだそうです。私はこの手のものは勉強不足で詳しい事はこの本でしかわかりませんが、落語家で「丸家竹山人戯作」「笑福亭鶴松調」と書かれています。

 竹山人は、曾呂利新左衛門の話(ブログ曾呂利新左衛門談話集参照)では、初代笑福亭吾竹の師匠と言われており、桂文左衛門も「楽屋そそり」(大阪朝日明治三十五年五月八日)でこの竹山人について述べています。当然、この慶応三年頃生存していたか不明ですが、鶴松がこの竹山人の戯作を詠んだという事でしょうか? 何れにしても、この摺物の発見は、鶴松という落語家の重要な手掛かりになったと思います。

 次に三代目(落語系図は二代目)と思われる鶴松を紹介します。

 この人は、「上方落語流行唄の時代」で、「鶴松襲名披露の摺物」が紹介され、はじめてその実在が証明されました。

 この襲名は、明治十三年正月頃のようで、桂文里(後の二代目笑福亭木鶴)の倅で桂小文里と名乗っていましたが、正式に二代目松鶴の弟子となり、笑福亭鶴松と改名したようです。

鶴松③

 只この人も、明治十三年一月の「楳の都陽気賑ひ」に「桂小文里」と記載され後、記録がまったくない為、明治十年代には、廃業したか、亡くなっているようです。

 つぎに四代目(落語系図は三代目)の鶴松を紹介します。

 この人の初出は、「桂文我出席控」です。

明治2756日より 堺天神社内定席にて

芝鶴、松竹、松橋、月亭都、地球亭○○、梅団治、文我

同年81日より 京都菊野屋より

芝鶴、光鶴、松竹、松橋、福太郎、吾竹、文我、梅鶴、(梅団治、篤団治)、かしく、松光、春風亭柳左衛門、米団治、文団治、松鶴

2791日より 大阪堀江賑江亭

芝鶴、松竹、松橋、梅鶴、米喬、かしく、松光、吾竹、文我、(梅団治、篤団治)、米団治、文団治、福松、文都、松鶴

明治2811日より 大阪堀江賑江亭

春の介、芝鶴、松橋、梅鶴、吾竹、かしく、米喬、文我、松光、米団治、文団治、福松、文都、松鶴

同年810日 大阪稲荷座

 三代松、福雀、芝鶴、松馬、梅鶴、叶福助、松橋、都勇、吾竹、文我

同年813日 大阪西区岩崎福千代席

同年926日 堺天神席

同年1015日 堺天神席

 この出番表だけ見ると、芝鶴の入門時期は、松竹(後の四代目松鶴)や光鶴(後の松輔)よりも新しく、三代松よりは古い明治二十六年から二十七年頃の様です。

 明治二十九年一月には、師匠である三代目松鶴が浪花三友派を脱退。弟子達は福松の弟子になるものや、廃業する者、又は他の噺家の弟子となります。

 芝鶴の場合、どうしたのかは不明ですが、「落語系図」の「福萬」という名前から、もしかしたら、一時福松の弟子になったのかも知れません。

 次に名前が登場するのは、「芝鶴」、「福萬」ではなく、「鶴松」の名前で登場します。

明治2991日より 大阪平野町此花館

 三代松、鶴松、松団治、米朝、文楽、梅団治、米喬、小文都、梅鶴、かしく、松光、米団治、文団治、吾竹、文我、新左衛門、福松

<編者註>この番付は、「上方はなし37集」にも掲載されています。

同年1015日より 堺天神社内金秀席

 我都、梅左、文楽、福丸、鶴松(チンツル)、芝楽、小福、松喬、米朝、かしく、文我

同年291215日 大阪谷町金ひら社内

明治3041日より 大阪各席

 「文我出席控」の中で文我は、この鶴松に、「チンツル」と横にカタカナで記入しています。これはどういう意味でしょうか?

 この「チンツル」の鶴松は明治304月迄記録がありますが、これ以降の記録はありません。落語系図によると、その後、仁輪加師鶴家団九郎(二代目団十郎)の弟子となり、鶴家団鶴と名乗ったそうです。団鶴は同じ仁輪加師の団七と、一座の中で軽口を演じていました。

 私は、仁輪加師についての調査は不十分で、団鶴については調査していません。

 但し、昭和七年頃に、初代団十郎の弟子の団道理が中心となって、「大阪仁輪加の会」を定期的に興行しており、その中に、鶴家団鶴の名前があります。もしかすれば、新聞記事の中にこの団鶴の記事があるかもしれません。

 又、この団鶴が一時「鶴松」を名乗ったと思われる記事があります。

 昭和四年二月十七日のラジオ放送で、落語劇が放送され、その座員の中に「笑福亭鶴松」を名乗る噺家が登場しています(大阪時事新報夕刊)。鶴松以外に、立花家円二郎、桂菊団治、桂小文我、桂文里、笑福亭小正楽、笑福亭里鶴、笑福亭美福、笑福亭松鶴が出演しています。円二郎はこの当時落語家から仁輪加師となり、亭号も「信濃家」と改名していますが、落語家劇という事で、落語家時代の「立花家」を名乗ったのでしょう。鶴松も同様で鶴家団鶴で鶴家団鶴なく、落語家時代の笑福亭鶴松で出演しているようです。

 最後にこの鶴松の写真ですが、明治四十五年五月、あやめ館での「寿々女会」の集合写真の中に、かなり不鮮明ですが、「鶴家団鶴」の写真がありました。真ん中の人物がそうです。右隣の大和大掾家長楽と軽口を演じていました。


 

 

落語家銘々伝 笑福亭鶴松②

 最後に五代目(落語系図は四代目)の鶴松を紹介します。
<幼少の時代>

 この人の生年月日については、前田憲司氏が、「桂文我」(喜廻舎)で調査されています。

それによると、明治二十年八月二十六日生れ。本名は見田徳太郎。父親は芝居噺の文我ですが、二代目笑福亭木鶴と仲がよかった理由なのか、木鶴の養子となります。

 但し、木鶴の本名については、西京新聞(明治三十四年五月三十日)と大阪朝日京都付録(明治三十四年六月二十一日)に岡田文里と、「岡田」となっていますが、鶴松の本名は、「見田」であり、又京都日出新聞(明治三十四年四月二十三日)の記事には、木鶴の女房の本名を「見田まつ」と書かれています。木鶴夫婦は婚姻届を出しておらず、母方の姓を鶴松が名乗っていたのでしょうか?少し疑問が残る内容です。

 さて、鶴松の初出ですが、新聞等では、「徳太郎」、「文子」の名前は、残念ながら発見できませんでした。

 「木三松」の初出は下記の記事です。

明治271218日 扶桑新聞

○音曲入昔噺 名古屋富澤町の富本席にては昨晩より大坂西京合併の音曲昔噺を興行其出席の面々は笑福亭木鶴、同璃鶴、同小文里、同木三松、同吾市、月亭小文都等但し旭廓旭亭とかけもちなり。

 これは、京都笑福亭が、十二月に普請の為、十二月の一カ月休席となり、木鶴等笑福亭の噺家が地方巡業に出た時の記事です。

 この時、木三松は数え年で八歳。小文里というのは、多分義兄の佐藤喜三郎と思われます。(この人は、名前をコロコロ代えているので不明な点が多い噺家です)

 翌年一月に再び京都の笑福亭に出勤。慈善演芸会では、芝居噺や舞踊を披露。又、落語家芝居にも、木鶴と親子で出演しています。

 明治三十三年十二月より、木三松から鶴松に改名したようですが、これといった襲名披露などは無かったようで、新聞にもそれらしき記事は見当たりませんでした。

明治33123 京都日出新聞

▲笑福亭午後六時二十分(吾喬)六時五十五分(小円)七時二十分(芝楽)仝四十五分(木鶴)八時〇五分(鶴松)仝三十分(梅団次)仝五十五分(円篤)九時二十分(今朝)仝三十五分(福丸)十時(市馬)仝二十五分(璃喜松)切(文之助)

 翌年の七月には、木鶴は京都笑福亭を去り、地方巡業に出ます。

明冶3481日 北国新聞

▲新富座 豫記の如く昨日當地へ乗込みたる音曲落語笑福亭円篤一座は愈々本日町廻りをなし、午後七時より初日開演の筈。其番組は、伊勢参宮神の賑い(福篤)滑稽寄合酒(小円)改良噺滑稽問答すててこ踊(龍輔)大晦日浮れの掛取、音曲尽し(三円)芝居噺身振噺太閤記三段目(木鶴)江戸鹿野の子評判娘(遊好)天下一浮れの紙屑より千本櫻忠信道行身振噺五本扇松尽し(鶴松)花柳の穴探し芸娼妓の内幕諸芸物まね(米朝)英語の商人(菊水)式三番明烏引抜新内節、三府流行節胡弓鶴の巣籠り二丁三味線曲弾(円篤)

 北陸興行は、一日から十二日迄、金沢の新富座(後の一九席)と小福座の掛持ち、その後福井の照手座と加賀家座の掛持興行であったようです。

 北国新聞には、鶴松の番組の一部が掲載されました。

 「稽古屋、鬼の手踊り」、「島原八景娘政談手踊り」、「三十石夢の通い路」、「小倉船竜宮界浦島の手踊り」、「曽我十番斬」、「鳥さし手踊り」、「太閤記瓢箪場」、「旅日記娘道中手踊り」、「掛取萬歳扇舞」、「子供浄瑠璃」。但し義父木鶴が芝居噺を演じる時は、さすが二席も芝居話ができないので、芝居噺以外を演じたようです。

 その後の親子は、大阪の互楽派に加入します。 

 当時はまだ藤明派であったと思われますが、この時の記録があります。

明治34111日 大阪朝日新聞

藤明派の松島文芸館は東京より式亭三馬、松井小源水、司馬りう輔、京都より笑福亭木鶴、馬[]等が乗込みて得意の口や手を動かすよし。

<編者註>馬松は、鶴松の誤記と思われる。

明治341117日   大阪遊芸新聞第二号(天理大学図書館)

○文芸館(松島)

  さん馬、木鶴、小源水、鶴松、りゆ輔、一生等の東京連


<一人立ち>

 鶴松は、その後も木鶴と互楽派に加入しますが、同三十六年六月には木鶴と別れて、京都の笑福亭に出勤します。

明治36525 京都日出新聞

◇京都興行同盟会の青年連中は技芸青年大会第一回を本月始め堀川玉の家で開会し非常の好結果を得たので其所得金を以て同会の什器其他幔幕提灯等を造つたが尚一同揃ひの浴衣を新調しようと来る廿六、七の両夜玉の家で第二回を催すげな其番組は ◇廿(ママ)日 △落語 惚れ薬(燕太郎)天災(枝之助)浮世根問(福篤)八足(枝楽) △舞 十津川(福太郎)柿木金助(鶴松

明治36624 京都日出新聞

◇京都興行同盟会は今明両夜千本日和の家で第四回技芸青年会を催すが其番組は左の通り  ◇本日の分  落語御祝儀(しん吾)同口合根問(扇太郎)同曽我十番斬(鶴松)講談小野川喜三郎(明)義太夫安達原(鳴八、糸国里)舞六歌仙(福太郎)落語稽古屋(枝三郎)講談白石噺(琴海)落語遊散舟(福篤)同崇徳院(枝楽)新内高野山(美名亀、糸小筆八)舞木津川(燕太郎)講談大久保彦左衛門(魯生)落語深山隠れ(光輔)同延陽伯(春団治)同蚊角力(枝之助)講談玉菊灯籠(南玉)仁輪加島台(婿東勢、花嫁東米、仲人東寿)  ◇明日の分 落語御祝儀(しん吾)同日和違ひ(光輔)同唖の釣り(枝之助)講談石川文吾(魯生)義太夫太十(鳴八、糸国里)落語たらちめ(春団治)舞鶴の声(福太郎)落語百人坊主(扇太郎)牡丹灯籠(南玉)落語小倉の色紙(鶴松)落語意見息子(燕太郎)新内朝顔(美名亀、糸小筆八)落語赤子茶屋(枝三郎)講談明石志賀之助(明)落語百人一首(枝楽)同長屋集会(福篤)講談吉原百人斬(琴海)仁輪涼み台(力士東勢、丁稚東米、旦那東寿)

<編者註>この催は二十七、八両日に延期されたらしい。

 鶴松はこの年十六歳となり、もう一人立ちしても大丈夫であろうと木鶴が判断したのでしょう。又大阪の互楽派の二流の席にいるよりも、京都の笑福亭に出勤させる方が、鶴松の勉強にもなると判断したのでしょう。

 七月迄出勤。その後神戸の落語定席湊亭に出勤します。

明治37831日 神戸新聞

◇湊亭 来る一日初日にて、去月まで定打にして居たる笑福亭福我、東長次郎等の上にへ、来客より題を貰いて即席に落語に纏むる笑福亭勢楽、独楽の曲の名人松井源水と共に名高き松井助十郎という洋行戻りの曲芸師、その他東京初下り三省亭花楽、時世落語家笑福亭無外、芝居噺と舞とにて出演する笑福亭鶴松を加え花々しく開演する由。

明治3811日 神戸又新日報

湊亭 同席は第一第二とも本日より昼席を興行することに取極めしが、連名は笑福亭円若、入船米蔵、春風亭柳寿斎、浮世亭万歳、三遊亭小伝遊、桂小文治、三友亭紋弥、笑福亭福円、同福我、桂南枝、笑福亭円松、同鶴松、同光雀、同無外、同笑三の顔触れにて賑やかにご機嫌を伺うという。

明治38年元日湊亭

 鶴松は、居心地がよかったのか、この神戸湊亭に同四十年六月迄出勤します。

 神戸には、湊川神社周辺に第一湊亭、三宮神社境内に第二湊亭があり、真打がいない事から、毎月大阪京都から真打二三人が来て興行されていました。

 神戸在住期間中、四十年三月に文我妻トミが死亡、同年四月には義父木鶴が亡くなっています。

 湊亭は、初代笑福亭福松の定席であり、座付の落語家のほとんどが福松の弟子が出演しています。多分、この時鶴松も福松の預り弟子となったのでしょう。三十九年十月の福松三回忌に、第一湊亭に福松の銅像が飾られました。これには湊亭の菊野菊松と福松の弟子の福円、福我、鶴松、円松が出資したと神戸又新日報の記事(八月十日)に掲載されています。

 四十年八月だけ、大阪の浪花三友派各席へ福円等と共に出演します。これは、大阪の三友派連中が地方巡業に出かけた為、その穴埋めとして出演した為で、その後は再び神戸の湊亭に十月十一月に出勤します。

 次に鶴松が登場するのは、明治四十一年八月からです。

明治41810日 神戸新聞

◇第一湊亭 にては明十一日舊盆十五日に相当するより臨時落語日曜会を催す由なるが番組は左の如し。

鳥屋坊主(円楽)池田山猪買(鶴瓶)位牌屋(鶴松)笊売(鳥屋)按摩七兵衛(団輔)延陽伯(南枝)清元夜彗星(喬之助)菊水文庫(福我)嘘講釈(菊団冶)大晦日(福円)舞の手素振(小文)奇術(ハンスデー)孝女お綱(華嬢)活惚踊南画揮毫(秀甫)名人盛信(龍生)

明治42116日 神戸又新日報

◇落語日曜会 明十七日正午より第一湊亭に於て左の番組にて落語日曜会を催すという

伊勢参宮(我遊)鱶の身入(お多福)権助芝居(鶴松)島巡り(南枝)五人天狗(福我)手踊(小文)清元桂川(喬之助)揮毫(妻吉)惚れ薬(文雀)崇徳院(歌之助)孝子佐野山(龍生)出歯吉(文都)

 その後、二ヶ月間のみ、大阪の浪花三友派各席に出勤しますが、鶴松ではなく璃鶴と改名して出勤します。

明治422月上席

△第三此花館 ……米若、秀甫、璃鶴、曾呂利新左衛門、福吉、印度人墺国人、松喬、円子、文都、芝楽、団勇、文治、一円遊、梅香、馬生

明治422月下席

【浪花三友派】

△永楽館 笑雀、鶴瓶、光鶴、璃鶴、小円治、松光、新作、馬生、清国人奇術李彩、一円遊、春団治、秀甫、松鶴、妻吉、(小満之助、まる吉)、梅香、円坊、楓枝、文都、芝楽、謹吾、円子

明治423月上席

△第三此花館 鶴三郎、団幸、璃鶴、梅香、松喬、蔵之助、小米、福吉、新作、楓枝、馬生、円若、文雀、松鶴、文□、小円治、謹吾、一円遊、文吾、芝楽…

 前回の大阪出演は四十年八月の一ヶ月間で、それも大阪出演の噺家がいない間に出勤しましたが、今回は正式な出演の様です。

 なぜ鶴松ではなく璃鶴と改名して出勤したのか。

 理由は定かではありませんが、鶴松の先代の「チンツル鶴松」の了解を得ていない事。通常先代の名前を名乗る場合は先代への了解が必要です。先代鶴松はまだ芸人として活動していて、まだ了解を取っていなかったのではないでしょうか?その後再び大阪の席に出演した時には、鶴松を名乗っているので、この時には了解を得ていたのでしょう。

 因みに「璃鶴」という名前ですが、この鶴松の璃鶴は正式な代数には入っていないようです。(本当なら三代目に該当するのでしょう)

 初代璃鶴:本名河合亀太郎。後の三代目笑福亭円笑

二代目璃鶴:本名河合福三郎。初代の実弟。後の二代目笑福亭福松。

三代目璃鶴:本名長谷川長谷川末吉。三代目松鶴の甥。於多福、竹枝を経て三代目璃鶴。

<編者註>二代目笑福亭木鶴の倅の噺家(本名佐藤喜三郎)が、笑福亭里鶴を名乗った時期があるが、この人は数多くの名前を名乗っているので、判断しにくい。(小三木、三福、桂里鶴、笑福亭里鶴、木三松、小松鶴、小文里、文里、福来、喜鶴等)

 鶴松は四十二年十二月より再び神戸湊亭に出勤します。

明治421220日 神戸新聞

◇湊亭 座付の外に馬生、松光、文我、小円次、春子、鶴松、松団冶等顔触れなりと

明治43410日 大阪朝日神戸付録

◇第一湊亭は今十日正午より落語日曜会を開く其の番組は

播州巡り(我逸)兵庫船(団勇)領城都の玉垣(鶴松)猪飼野村(団輔)花の菊(菊団冶)月と小児(福我)鬼薊清吉(文都)長唄越後獅子(唄冨士村庸子、同光栄、絃山田仲子、桂美佐)老松(福太郎)松火の曲(万冶)福倹清元吉原雀付ずぼらん(小金、喬之助)愛宕山(燕太郎)けんげしゃ茶屋(文之助)

 八月には父文我と共に四国巡業。十月には、神戸の湊亭が大阪の紅梅亭に買収された後も出演します。神戸には十二月まで出演した後、翌年四十四年一月からは大阪の浪花三友派各席に出演します。

明治44116日 大阪時事

△此花館(平野町) 団橘、光鶴、鶴松、(麦八、稲八)、菊団治、米団治、文治、喬之助、松光、小島太夫、島子、文吾、新獅子日の出社中、文団治、扇蝶、今様仕舞錦水一派、松喬、松鶴、柳朝

△永楽館 団幸、団勇、新作、燕太郎、米若、松光、鶴松、文吾、新獅子日の出社中、米団治、喬之助、馬生、松喬、文雀、松鶴、扇蝶、今様仕舞錦水一派、文団治

明治4421日 大阪時事

△第三此花館 我楽、団勇、鶴松、米團治、春団治、文治、新作、(小歌、喬之助)、馬生、(麦八、稲八)、文吾、文治郎、文雀、文都、燕太郎、松喬、張来喜、柳朝

明治44216日 大阪時事

△永楽館 団橘、団勇、鶴松、福円、花咲、松光、(麦八、稲八)、馬生、米団治、松喬、文団治、(小歌、喬之助)、柳朝、文治、假女太夫、円坊、松鶴、残月、文都

△此花館(松屋町) 我楽、米若、玉団治、三代松、柳朝、鶴松、松鶴、残月、福円、小紋、円坊、福我、新作、燕太郎、文団治、花咲、(麦八、稲八)、馬生

△賑江亭 団昇、鶴三、燕太郎、福我、文都、春団治、円若、玉団治、松光、文治、三代松、馬生、松喬、鶴松、(小歌、喬之助)、福円、米団治、張来喜、柳朝

 

<寿々女会から東京へ>

 その後も鶴松は大阪の各席に出演しますが、翌年五月には、新しく誕生した「寿々女会」へ加入したようです。「文我出席控」にはこの時の記録があります。

文我出席控第四巻 五十八丁裏 明治四十五年一月定席の部

「連中何かゴテ〳〵にて 松かく、馬生、哥の助、福我、文雀、福太郎、つる松、三代松、万才、米若、つるべ、つるじ、光つる 五月ぎりにてぬけて 桂派に入」

文我出席控同巻 五十九丁裏

「八月ハ休席にて 文我おとく九月よりすずめ会へは入事ニ成 九月一日よりあやめ館トひよふ亭へでる事ニなり……」

 鶴松はその後もこの寿々会に出演していた様です。

 以降の鶴松の新聞記事は、大阪の新聞では確認できませんでしたが、地方巡業の記録はありました。

大正281日 北国新聞

◇一九席 本日より大阪落語寿々女会にて開演すべく番組は左の如く笑福亭鶴松東廓江戸芳の弟なりという。

入込話(里松)落語曲芸(萬重)落語声色百種(鶴瓶)音曲新作話(円輔)落語合舞手踊(文里)落語手踊諸芸(鶴松)軽口掛合話(両人出合)滑稽落語舞(かしく)滑稽立合(総出)

<編者註>江戸芳の女将は、文我の娘で、鶴松の実姉。晩年文我はここに預けられ隠居生活を送った。

大正3820日 徳島毎日新聞

緑館 二十一日より大阪南地法善寺蓬莱館の大阪落語一座引越し二十一日より開演。石川一口は関西講談界の泰斗と称せられ居るものなり。

 笑福亭三代三、桂春駒、桂若枝、笑福亭鶴二、笑福亭鶴松、笑福亭右鶴、講談石川一口。

緑館 本夜より大阪蓬莱館引越し落語講談開演。重なる番組左の如し。

大正3821日 徳島毎日新聞

 紙屑より手踊(鶴二)駕馬舞手踊(鶴松)掛取り音曲(右鶴)滑稽所作事先代萩床下(鶴二、右鶴、鶴松三人掛合)人情講談(石川一口)大切東京名物梅坊主式深川かっぽれ、七つ拍子伊勢音頭、住吉及び雀踊(楽屋総出)

大正3823日 徳島毎日新聞

緑館 二十一日夜より初日を出せる大阪下り落語講談一座は右鶴の音曲呼物と為り居れりと。

入場料特等十七銭、並等十二銭別に敷物下足料等を要す。

入込話(里松)落語曲芸(萬重)落語声色百種(鶴瓶)音曲新作話(円輔)落語合舞手踊(文里)落語手踊諸芸(鶴松)軽口掛合話(両人出合)滑稽落語舞(かしく)滑稽立合(総出)

 鶴松が、寿々女会解散の大正四年迄いたのかは不明ですが、父親の文我は既に脱退しており、「緑派」という演芸集団を組織して、寿々女会の残党等と各地を興行していました。この緑派には鶴松は参加しておらず、鶴松が次に新聞記事に登場するのは、上方ではなく東京の新聞です。

大正4616日 都新聞

笑福亭璃鶴 大阪落語家の真打株なる同人は近々上京、三遊派へ加わる。むらく一座の客員として各席へ出演。

大正4621日 都新聞

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●両国立花家 円蔵、円右、金三、盧洲、璃鶴、橘之助、右女助、円橘、文三、むらく、公園、遊三、歌子、李彩

●人形町通鈴本 円右、橘之助、貞山、円蔵、右女助、遊三、金三、むらく、李彩、公園、歌子、璃鶴

●麹町元園町青柳亭 円蔵、小円朝、むらく、大阪登璃鶴、円幸、円歌、亀次郎、歌吉

大正4年6月璃鶴

大正471日 都新聞

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●人形町通末広亭 円蔵、円歌、橘之助、小円朝、むらく、右女助、桃李、亀次郎、歌平、璃鶴、公園、文三

●浅草並木亭 円蔵、大阪登璃鶴、加賀太夫唀、宮古太夫、円橘、李彩、越寿

大正491日 都新聞

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●両国公園前立花家 むらく、円橘、橘之助、文三、公園、円歌、和佐の助、璃鶴、円左、遊三、李彩、遊朝、越寿、梅幸

●京橋際金沢亭 むらく、橘之助、若燕、円橘、円歌、金三、文三、璃鶴、円左

●人形町通鈴本亭 橘之助、右女助、むらく、円歌、金三、文三、円左、円橘、万橘、李彩、璃鶴、公園

大正4916日 都新聞

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●人形町末広亭 円右、橘之助、円橘、文三、公園、万橘、歌子、朝治、金三、右女助、小正一、璃鶴、亀次郎

大正4101日 都新聞

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●人形町鈴本 円右、伯鶴、円蔵、文三、円左、歌子、公園、亀次郎、梅幸、越寿、右女助、日本太郎、円幸、璃鶴、長唄三國連

●神田白梅亭 むらく、円蔵、橘之助、公園、璃鶴、円左、文三、亀次郎、越寿、梅幸、右女助、日本太郎、りう馬、宮歳、円幸、小円蔵、

<編者註>十月上席以降、璃鶴の名前なし。

 朝寝坊むらく(後の三代目円馬)は、幼少の頃、鶴松の義父木鶴の弟子で都木松と名乗っていました。当然鶴松とは面識があり、鶴松の東上の際は色々と面倒を見たのでしょう。

 しかし、その甲斐もなく、翌年の二月には鶴松は冥途の旅に出ます。東京の新聞ではその死亡記事を見つける事が出来ませんでしたが、大阪の新聞に掲載されました。

大正5214日 大阪朝日新聞

笑福亭璃鶴死す 東京浅草区神吉町五番地落語家笑福亭璃鶴事恩田(ママ)徳太郎(三十一年)は、以前大阪に於て相当に売出し、さる物持の娘に思はれ同棲せしも、娘の両親の怒りに遭ひ引離され、娘は悲観の余り昨年二月十二日自宅井戸に投身自殺を遂げたり。徳太郎は其のため同地に居堪らず、昨年三月中朝寝坊むらくを頼りて出京し、祖母はる(八十四年)と前記の場所に所帯を持ちしが、年末より肺炎に罹り、寄席にも出る事ならず、祖母はるは日夜の看病疲れに次第に衰弱し、十二日朝九時死亡し、徳太郎もむらくが浅草明治病院に入院せしめしも、同十二日夜息を引取り、二人同時に而も昨年娘の自殺せしと同じ月日に死ぬとは不思議の因縁なりとて近所の大評判なり。(東京電話)

 璃鶴の本名を、「恩田」と書かれていますが、多分「見田」の間違いでしょう。戸籍から判断すると、三十才ですが、ここでは三十一才と書かれています。祖母のはるというのは、文我の母親なのか、木鶴の妻なのかは不明です。

 鶴松の死亡は、実父の文我にとって、かなりのショックであったでしょう。

 円馬と親交のあった作家正岡蓉は、この璃鶴をモデルにして、演芸画報十一号(大正十三年)に短編小説「仙女香洋傘綺談」(せんぢょこうようさんきだん)を掲載しています。

正岡小説

 最後に、新聞記事の鶴松評と、主なネタを紹介します。

<鶴松評>

◇第一湊亭の落語 明治38316日 神戸又新日報

……鶴松(大阪)「芝居噺」熊坂の舞乳臭い乳臭い。……

◇湊亭の土用干 明治3885日 神戸又新日報

……鶴松の落語「初天神」立板に濁り水の如く早いだけのもの何の因果かこの男の此の話は再三聞かされた。大阪一流の舞は太い足を出して尾籠千万。……

◇湊亭反対評 明治39321日 神戸又新日報

……嬉しかりしは鶴松が南枝より少し色黒く短き顔に長き「京名所」の可笑しみなり。……

<編者註>反対評であるので、南枝は黒の南枝と言われる位色黒で、逆に鶴松は色白であったらしい。「上方はなし」には、不鮮明ではあるが寿々会当時の鶴松の集合写真が数点掲載されているが、色白の小顔の美男子であったようだ。(文我とは正反対)

◇湊亭芸外評 明治401016日 神戸又新日報

……鶴松は高座も平生も違わず甘たれ声で遊ぶ処子供つぽい。……

<主なネタ>

小倉船、島原八景、三十石、稽古屋、太閤記瓢箪場、花嫁の道中、さざなみ丁稚、芝居噺玉垣の城、芝居噺無三四、田楽食い、高津の富、初天神、子誉め、景清、野崎詣り、袈裟茶屋、紙屑より、権助芝居、牡丹茶屋、掛取萬歳、子供浄瑠璃、牛かけ、

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