明治14年

上方落語史料集成 明治14年(1881)1月~6月

明治1418 大坂日報

<桂文之助、落語界の風儀一変を図る>

◇落語家桂文之助が唱主して従来洒落の風儀を一変し、成るべく褻雑の噺を禁じ、専ぱら勧善懲悪を旨として仲間の品行をも正し、又た同業中に赤貧者のある時は相互ひに救助せん為め月々幾分かの積金する法を企だて、且毎月一回ヅヽ懇信会を開くことを約せしと云ふが、全体落語家は教育上大ひに関係する所ある者ゆゑ、追々旧来の醜体をも改ため、無学の子弟を教ふる一助ともなしたきことなれば、桂氏も一層憤発して此度の企てをいよ〳〵堅固に守るやうなしたきことにこそ。

〈編者註〉桂文之助は後の曾呂利新左衛門。

明治14122 大坂日報

◇此程より西区京町堀一丁目玉秀亭の寄席にて講談師笹井燕旭堂が、太田活版所より発兌する南の海自由の旗揚(板垣退介君伝)を講じ始めしが、三尺帯江戸腹掛の人民も稍民権とか自由とかの貴重すべきを悟りし折柄、日本にて民権の泰斗自由の木鐸とも称すべき板垣君の伝とありては一度は聞まほしとて押かけ〳〵出掛るにぞ、意外の大入を占めたりと云ふ。

明治14214日より 「桂文我出席控」

明治十四巳二月十四日より紀州和歌山かじ橋詰にて

小文改小文枝 吾妻 蝦玉 貴若 文我|大切芝居囃[噺]早替り 大道具入 文我相勤め申候/大入にて十七日うつ 

〈編者註〉「笑売往来」第十四号(昭和25月・吉本興行部発行)の「浪華落語偲ぶ草」(一記者)より転載。「桂文我出席控」については明治129「桂文我出席控」を参照。以下に註釈を付す。

小文改小文枝 桂小文枝。のち三代目桂文枝を襲名する。

吾妻 笑福亭吾妻。四代目笑福亭吾竹(のち五代目三笑亭可楽・京の可楽)門人。のち三笑亭芝楽となる。

蝦玉 桂蝦玉。師弟関係は不詳だが、明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」に「なが〳〵と渡る天神橋名所昔も今もかわらぬが妙 錦枝事桂蝦玉」とあり、明治十三年一月の番付「楳の都陽気賑ひ」には東前頭三枚目という高い位置にあるので、相当昔からの噺家と思われる。桂生瀬は最初蝦玉の弟子で蝦丸と名乗っていた。

貴若 初代桂文団治門人。二代目桂米丸を継ぐ(当ブログ明治13511の項参照)。

なお「浪華落語偲ぶ草」に「十四年の秋には、明石から姫路等に巡業して居て、何れも、大入〳〵〳〵、とか大入大當り〳〵〳〵等と記されてある」と書かれている。

明治14217 朝日新聞

◇本日は二の午なるに就き、新町九軒の末広席では例年の通り稲荷明神を祀り、来客へは鬮取を以て景物を与ふ。其第一番は同地の娼妓壱名、第二番が三ツ鉢の肴、第三番が炭三俵にて、其他聴衆(ききて)の数に応じて景物を出すと云ふから、定めて席上は馬蘭(ばらん)でも布(しか)ぬと這入れますまい。

明治14218 朝日新聞

◇愛顧(ひいき)の引倒しと云奴は幾個(いくら)もあるが、是等は真実の贔負であらうか、西区北堀江本茶屋通り席貸業通名和泉充は、頗る東京の人情噺しが大好で、当時の翁家さん馬は殊更の大贔負、毎夜何処の席でもさん馬が掛つて居る席へ徃かぬ事は一夜もないと云ふ位、されば上の好む所下女おたけ(十六)娘のおかぢ(十七)に至るまで翁家さん馬がつき纏はり、さん馬〳〵と口続けに云囃すを、此家へ出入の商人は是を好耳(いいみみ)ときゝ込で、何を売込にも是は翁家さん馬が好みだとか、さん馬が大愛顧(ひいき)だとさへ云ば品の高貴も一向構はず財布を叩いて買込むとは、近頃随分毛色の変たお話しで五猿テ。

〈編者註〉五代目翁家さん馬。明治十三年に来阪し、はじめて東京の本格的な人情噺を大阪人に聞かせた。弘化四年生まれなのでこの年数えて三十五。

明治14222 朝日新聞

◇…昨廿一日より初めたる堀江市の側の芝居小家は明学、円笑の一座にて、諸芸の大会なりと云ふ。

〈編者註〉明学は十六人芸の立川(西国坊)明学(盲人)。円笑は二代目笑福亭松鶴改め笑福亭円笑か。

明治14225 朝日新聞

◇当時堀江市の側の芝居小家にて興行して居る落語家明学並に円笑等一座の諸芸大会は、殊の外なる大人気にて毎夜立錐の地も余さぬ程の大入なれば、仕打は此機を外さじとて、既に去る二十二日の晩木戸銭二銭、桟敷十銭の外に何か口実を構へ一銭に五銭の増を出させしを、盲目ながら明学が出席半(なかば)に夫と頷付(かんずき)、「斯る事を仕出しては来客へ相済じ」と気付しより、忽地(たちまち)来客の人々に向ひ、「仮令如何なる口実を以て場代の増金を取るとも決して出すに及びませんから其御積りでお出下され」と忠告したる一言に、来客の人々も大ひに感ぜしにや、昨今益々人気を加へたりと。

明治1435 朝日新聞

◇…噺業に名の高い翁家さん馬が此ほど席を仕舞ふてからブラブラ遊歩がてらに新町廓をぞめきあるき(編者註:以下は色恋噺につき省略)。

明治14318 朝日新聞

◇かねて大方の喝采を博したる講談師東京松林伯円が又此程当地へ来り、明十九日より御霊裏門の席に於て例の能弁を振ふよし。又同席は以後右伯円を始め新奇弁説を以て其名を博したる諸講談師を順番に招き、東京一流の講談を常住不断に定席を張る目的のよし。

◇[広告]通読新講談 東京松林伯円/今回親席を開き、本月十九日より十日十夜間出講仕候間、愛顧ノ諸君陸続御来聴ヲ奉希望候/御霊社裏門外横堀三丁目/三月十九日開場東京講談場社員敬白

明治14322 朝日新聞

◇東京いろは新聞と我友愛なる魁新聞とに前(さき)を越(こさ)れて詳しく書れし御霊裏の東京講談場はすでに去十九日が開場にて、例の松林伯円が得意の雄弁臼井六郎復讐の始末を演ずるにぞ、其開場の当日より引続きての千客万来、席亭は大福々、又同場の額面は伯円の委嘱(たのみ)に応じ大日本俳優の長市川団十郎筆にて左の如し。

 東京講談場  明治十四年三月 応需 堀越団洲書

明治14330 朝日新聞

◇東京にて有名なる講談師邑井貞吉は一両日以前当地へ来りしが、近々御霊裏門なる東京講談場へ出勤し、一番腕前を見せると云ふ。

明治1447 朝日新聞

◇開化講談の伯円去り、今様講談の貞吉来る。昼々夜々の大入なる御霊裏東京講談場は村井(ママ)先生の例の舌頭加賀騒動の織田大炊に、前の松林より一層の評判が鼻より高きは何よりのお手柄〳〵。

明治14512 朝日新聞

◇邯鄲囘転閨白浪を内平野町神明社内の蝶木席にて桂米団次が弁天小僧の脚色に箝込み、彼浜留と梅次の両個が曾根屋の呉服店へ騙欺(かたり)に行処などを弁じて居るに毎夜殊の外の大入なりと。又東京の演史(こうえん)家貞吉が是を家土産に近日東京へ持帰りし上例の能弁にて演ずると云ふ。

〈編者註〉初代桂文団治門人桂米団治。のち二代目文団治となり、七代桂文治を襲名する。

明治14513 朝日新聞

◇御当地根生の花方俳優(ではない)新聞記者彩霞園柳香さん(本名雑賀豊太郎先生)がいろは新聞を昼夜延(よなべ)仕事に綴られたる「冬楓月夕栄」臼井六郎の復讐を、西区南堀江橘通の席にて燕亭円鱗と云講談師が毎夜読で居られるさうです。

明治14519 朝日新聞

◇御霊裏の東京講談場へ久しく看板を掲げ昼夜出講せし東京の好男子(ではない)講談師村井(ママ)貞吉は、一昨日夜限り同所を興行(うち)どめ、四五日の中に帰京する由。しかして同所は追々夏気に向ふ故、空気の流通を好(よく)せん為め、今一層普請を加へ、落成次第柴田南玉(東京の)が出講する由。

明治14525 朝日新聞

◇偖差替りまして替り栄も仕りません、唯今は面白い雑報(おはなし)で看官(みなさん)の御意に叶ひまして有がたい仕合と、去る廿一日の夜、噺家桂文の助が北区曾根崎橋南詰の夜席でぺらぺら喋舌て居る中、「イヤ最(もう)噺家風情の身分では偶々(たまたま)旦那とでも云れる者は人力車夫(くるまや)か非人位の者で厶います」云々と唇のぶつかり次第何の気もなく饒舌(しゃべっ)たを、人力車夫どもが聞付て、「己れ太い奴だ、稼業なればこそ旦那ともお客へともいへ、高座の上で自慢らしく鼻高々の鞍馬天狗、閉場(はて)を待て殴締(ぶちしめ)ろ」と熊や八が腕をまくり、栄螺の様な拳を握り、席の表へ待伏たるを、誰か疾(はや)くも夫を聞付、密かに文の助に告たるより、辛くして其場を逃れ、漸やく狐鼠々々(こそこそ)の体にて淡路町の夜席へかけ付たりと。口は禍の門、噺家社会(なかま)の舌の根をぬかれると新聞記者の罰金を喰と同じく油断は少しもなりませぬ。

明治14526日 京都新報

<落語相撲を観る>

かの落語家などが世の喜好に応じて様々に趣向をかへ、客を集むることに勉強するは実に感心なり。

一昨晩のことゝか、弊社の黙笑居士が友人に誘はれ当時京極通りにて大流行の相撲話に出掛しところ、聴客席内に充満し其賑ひは噂に違はず仲々盛なる有様にて、先づ其舞台上の模様を云はむに、其仕掛は真の相撲場に少しも異なることなく、四本柱なり、水、塩なり、又行司の気配りなり、いと□□□□かしき中にも、少しく心ある人の黙笑に堪へざるの一事は、例の屁子帯連中の青書生等が行司に向つて無轍方(むてっぽう)の難問を試むることにて、今其一二を聞くに、元来人体は臍の上を以て中心となす、然るを真中となすは如何ん。若し我輩の言を以て不当となさば試みに頭部より寸尺を当てゝ見よ。或は今の話中にやもめの言葉ありたり、あれはやまめが至当にて、やもめは誤言なりなどゝ得たりかしこしの物知り顔にて無闇に難詰するにぞ、流石に口軽の話家もほと〳〵困却の体にて、其行司を呼ぶ声は宛(さな)がら議場の議員先生が議長を呼ぶに異ならず、行司の迷惑実に思ひやられて気の毒なりしが、併しこの賑ひを致すの原因は全く是等生息書生などの難問を喜んで来る者の多きによるものなれば、是亦た話家に取りては大事のお客様と謂ふべし。去りながら、かの臍を真中となすは古来普通の言葉なるに、頭部より寸尺を取るときは臍の上になるだの、また鰥をやまめと云ひ、寡をやもめと云ふ鰥寡(かんか)孤独の判別さへも弁へずして、やもめと云ふ言葉はなし、やまめが至当なりなどゝ議論腰になりて難問するは近頃聞き苦るしくも亦た一興なりしとて笑ひながら話しいたり。

明治14528 朝日新聞

◇東京講談場(御霊裏の新席)にては席中の普請も早速出来上りたればとて、柴田南玉の弟子南舎南理といへる講談師が過日より昼夜出席。南玉は本月三十日着坂、六月一日より出講するとの報知なり。

明治14529 朝日新聞

◇[広告]六月一日ヨリ古今紀事講談玉竜亭一山出筵/道頓堀東櫓町四番地竹横/昼夜 大塚亭

明治14531 朝日新聞

◇講談師柴田南玉は去二十八日横浜富竹亭出筵を打上げ、即日汽船に乗込み、三十日当地へ着し、明六月一日より御霊裏門東京講談場へ出筵するといふ。

明治1462 朝日新聞

◇(前略)南区難波新地三番町廿三番地に住居する府下一等株の落語家桂慶治の娘おなつ(二十七)は、親爺が平素高座の上で出鱈目放題の饒舌散す猥褻話しを聞に付、自然とお臀も軽くなり、(後略:中村芝雀門人中村若松、法善寺境内で興行する俄師双蝶との色恋沙汰をおこした話)。

〈編者註〉桂慶治は四代目桂文治(長太文治)の弟子で、初代桂文枝とは兄弟弟子になる(当ブログ明治1259日の項参照)。

明治1469 朝日新聞

◇御霊裏の東京講談場に当時出筵中なる柴田南玉子は有繋(さすが)東京にて屈指の講談師丈ありて、博識強記、尋常机叩きの比にあらず。昼は柴田家一流の慶安太平記・曾我物語、夜は戸田新八郎の履歴に日蓮記等を講じ、昨今大入の人気なりと、幣社の東京癖記者が自慢半分に見て来て(ではない)聞て来ての講釈(イヤ)はなし。

明治14615 朝日新聞

◇去る頃当地御霊裏東京講談場に出講せし東京の今様講談師村井(ママ)貞吉老は、昨今神戸楠公社内の席にありて例の得意の艷舌(えんぜつ)を揮はるゝ故、同地にては頗ぶる大入大人気を取たるよし。而して此席を講じ訖(おわ)れば再たび当地へ来(きた)らるゝやの噂あり。

明治14619 朝日新聞

◇来る七月上旬より御霊裏門の東京講談場にて彼有名なる松林伯円及び伯州の二氏が出勤して弊社の新聞に掲載せし邯鄲回転を演ずると云ふ。

明治14624 朝日新聞

◇来る七月一日より南地法善寺内石川一口の席にて東京の講談師芝遊亭叟蔵が弊社の新聞に出たる種々の続物を演ずると云ふ。


上方落語史料集成 明治14年(1881)7月~12月

明治1478 朝日新聞

◇釈迦に提婆か守屋に太子と、彼演史家(こうしゃくし)松井馬琴が耶蘇教排斥の演舌は益々世人の耳朶(みみ)に触れ、一時喧しき迄に及びしを以て、馬琴は此好機会を外さじと、一層腕に力を入れ、我命の有らん限り舌三寸の働く中は飽迄(あくまで)該教を叩き毀ち、彼宗教を信ずる馬鹿野郎を退治して呉んづと諸所にて演説なしけるにぞ、去一日天満神社の神道事務所より褒賞として扇子一本、金二百疋を賜はりしと。猶聞(きく)所に依れば近々二品親王有栖川公より御対面を許さるやに聞り。且又北堀江の何某が馬琴を聘し、同所明楽座の芝居にて一大演説を開くよし。

明治1478 朝日新聞

◇邯鄲回転は意外に看客の御評判を得て汗顔の至りなるが、這回(このたび)又西成郡千里町鶴の家の新席にて講師魯州が此程より邯鄲回転を読初めたるに、存外の大人気なりと。又此頃の読物短夜談が結局に至り次第同席にて読初め、又天満八軒席にても魯山が之を演舌するよし。

明治14721 朝日新聞

◇講談師西尾魯洲が又々近日より毎夜安土町お多福席に於て毒婦梅次を演ずるといふ。然るに去十八日、彼魯州が此花町二丁目とかにて十円の証文を拾ひ、藤田かつ比古、篠原おこう様と書てあるが、心当(あたり)の人は紅梅町九十四番地西尾魯洲の宅へ尋ね来られたく、此段雑報へ一寸と頼み起しました。

明治14723 朝日新聞

◇淡路町御霊筋西へ入寄席にて此程より落語家昔々亭桃太郎の一座が弊社の新聞に掲載せし種々の続き物を怪談に脚色(しくみ)毎夜大切に演じて居るに意外の大入りなりと。

〈編者註〉昔々亭桃太郎は後に花山文となった源一馬の父親と思われるが確定できず。

明治14730 朝日新聞

◇[広告]通俗講談/東京松林伯円/当ル八月二日夜ヨリ開講/北区大江橋北詰ノ席

◇[広告]八月一日昼正午十二時ヨリ更ニ開業/十五日間 中外新講談/表題 中山卿白河侯東城舌戦 明治娘白浪欧米大奇譚/松林伯円出席/御霊裏東京講談場 □(谷に共)琳舎

明治1484 朝日新聞

◇新奇を競ふ世の中なれば、兎角一ト工夫の発明を現出せねば何業でも目覚しくは徃ません。近頃の流行的、東京にては桜川善孝(新吉原の幇間)が新規桜川節の一派を立(たて)、又三遊亭円遊(円朝の弟子)はステテコ踊りの新手を顕し大に看客の喝采を得たり。其他万橘のヘラヘラ節、あるひは鳴物入りの講談等、益々出て益々奇なる風評でも聞噛つたか、以前難波新地西坂町此葉席の幇間なりし入れ目の雁治は…(後略:俳優の声色で人を集め、煎餅の振り売りを始めたが、突風でランプが倒れ車が焼けて大損をしたという話)。

明治14826 朝日新聞

◇(前略)伯円が出講せし御霊裏の東京講談場へ、伯円に譲らざる雄弁講師東京の岩崎花柳が入替り弊社の続新話「転廻応報小車物語」を去る二十二日より講ずるといふ。

明治14830 朝日新聞

◇[広告]小生儀過日ヨリ有馬温泉ニ避暑罷在候處、本席條約出講日数未満ニ付更ニ九月一日ヨリ再度出席且該地在浴中自ラ編緝ノ有馬みやげト題スル新談ヲ開説仕候間、愛顧ノ諸君不相変御来聴ヲ祈ル/御霊裏東京講談場ニ於テ/松林伯円敬白

明治14831 朝日新聞

◇昨日広告欄内に記載せし御霊裏東京講談場へ松林伯円が出席の講題は、有馬土産諸国物語、朝日影嫩(ふたば)の錦、明治功臣銘々伝にて、正午十二時より始め午后五時迄の大奮発だと云ます。

明治141013 朝日新聞

◇是迄鳴物停止の布達あるごとに講談師の興行も差止になりしが、一昨日講談師石川一口が同業惣代となり、講談も歌舞音曲の中に候やといふ趣意にて区役所へ伺書を差出したる由なり。

明治141030 朝日新聞

◇御霊裏の東京講談場へ来十一月一日より神田伯山が出席して得意の天一坊を演ずる由。是は一番聞物で厶る。

明治141125 朝日新聞

<立花家橘之助の来阪>

◇四十五十の齢ひを重ぬれど何ひとつの業をも得知(えしら)で吾身ひとつくを過しかぬる男の世にいとさはなるに、頃来(このごろ)鶏がなく東京よりあしが散る此浪花の町に来りし立花家橘之助とか呼ばるゝ者は、まだ年齢十あまり三つなる小女(おとめ)なるが、彼の名に高き落語家三遊亭円朝の弟子にて清元節、うかれ節など能く弾き能く唄ひ、此道に上手と謂はるゝ大人も遠く及ばざる技倆ありとかや、世にも稀なる奇童といふべし。来る十五年の一日より諸方の寄席へいでゝ技を奏する由なれば、尚其実地を見聞して再び品評(しなさだめ)にこそおよぶべけれ。

〈編者註〉立花家橘之助 本名石田美代。慶応三年生まれ。五歳のとき初高座を踏み、以後六十年間、音曲の大看板として活躍した。この天才少女の来阪はたいへんな話題となり、この記事を皮切りに明治十八年秋に帰京するまで大いに紙面を賑わせた。

明治141129 朝日新聞

◇先日より噂の高い諸遊芸券番所は坂町の千日前へ設る事に粗(ほぼ)相談が纏り、其連中の親玉株は講談家で石川一口、落語家で桂文之助、俄師で正玉・東蝶・双蝶、浄瑠璃の三味線弾で豊沢竜助、新内で鶴賀八蝶同二蝶、幇間で此葉其外諸芸人の玉株揃ひじやと申し升。

明治14127 朝日新聞

◇去る五日、華本文昌堂主人(例の劇場珍報の出版元)が月番にて難波の鴎庵にて催ほされし鳥渡娯愉会は…東京新下りなる彼立花家橘の助の清元浮連節の余興もあり…。

明治14127日 大阪日報

○昨日まで怪しの牛店で藤八を呼ぶを以て無上の快楽としたる書生も一たび電気を攀づれば今日は時めく有髯社会となる。今に始めぬ世の習ひなれば左まで事々しく云ふ程にもあらねど、是は昨日までなけなしの泥鰌髯子細らしく捻くりて学者めかせし者の一朝落魄して落語家の前座と変化したる奇怪千万なる一新聞。

ツヒ此程まで大阪の或新聞社の社員として時ふし演説会などに立交り、聴衆の揃ふまで俗に露はらひと云ふ前座の役勤めたる東京生れの某と云ふ男は、其の新聞社を退きたる後、差向き何処へ身を寄せて何の業営むと云ふ目途なきより、故郷に居たる時、なぐさみ半分に彼の三遊亭円朝の門人となりて人情はなしを稽古したる其の御蔭で今も些ばかり覚え居るを幸ひ、当地落語家の親玉なる桂文之助に泣付きて其の門弟たらん事を頼みしに、同人も流石は一個の芸人なれば、兎も角もしてあげんと早速承知して、先某の口振りを試験したるに、可なり巧みに円朝が趣きを真似てければ、文之助も感心しつゝ、是なら糊口ぐらいは何うやら斯うやら出来るならんとて、頓て芸名を甲乙撰みたるに、某の口振りが少しく円朝に似て居ると云ふので遂に改めて三遊亭円橋と名乗らせ、一昨日五日より文の助が尻に付けて花の新町九軒なる末広席へ出勤なさしめ、東訛りの大阪言葉で人情はなしを始めさせたりと。種々の先生もある者なり。

明治141210 朝日新聞

<桂文三、二代目桂文枝を襲名する>

素落語の隊長株桂文三は弥々先師文枝の名跡を継続(つぐ)事に決まりましたから、近々名披露の為府下の各席を二日づつ興行に巡廻しますと。因に云ふ、近来落語の風儀一変し、大津絵ぶしだとか舞だとか或ひはチヨンガレ、安房陀羅経と肝心の落語には少しも勉強せず、碌でも無い往昔(むかし)の乞食の真似をして、自慢らしく鼻掻(うご)めかして居る落語家の多き事蝿の如く、何(どう)か乞食の真似なんどは以来(これから)断然(さっぱり)廃(やめ)にして、文三や文団治のやうに本流の落語に勉強してはどうだ、平降(へっぽこ)の落語家連。

〈編者註〉桂文三が二代目桂文枝を襲名するという記事。現今から見れば実に大きな名跡を継ぐことになるのだが、案外なほど簡素な記事である。「近々名披露」とあるが、結局いつどこで襲名披露が行われたのかも不明である。

明治141221 朝日新聞

◇御霊裏なる東京講談場は是迄其名の如く東京の講談家のみ出席する事に限り、又出席する東京の講談家も己は東京の先生なりと大阪の同業を軽蔑して更に交際を求めず、大阪の同業諸子も亦これを憤り、所謂同業相忌(いみがたき=忌敵)にて互に音信不通の景況なりしが、今度東京より神田伯山が来阪して、是迄の弊習の陋隘にして四海兄弟の意に違ふを患ひ、汎く府下の講談家と交際を結びしを以て、府下の講談家も亦其意を了とし、石川一口を始め其余の諸氏が周旋尽力して伯山を饗応の為、二十二、二十三日の両夜、同講談場にて盛大なる大寄を催すとの事。夫に出席の人々講談家にては玉枝、玉秀、一山の先生株、落語家にては文枝、文之助、三馬の親玉株、其余春子太夫、東蝶、正玉、茶楽(以上三人俄師)、小傳(女義太夫)、東京下りの立花家橘の助等の玉揃ひだといふ事故、サゾ面白い事でおませう。

〈編者註〉ここではすでに「文枝」となっているので、十二月十日から二十日までの間に襲名披露が行われたのであろう。

明治141222 大坂日報

◇東区和泉町一町目四十三番地の裏長屋に伊藤みつとて六十路あまりの老媼あり。元は当地の講釈師伊藤呑海が女房なりしが、今を距(さ)る三年以前、夫呑海の病死せし後は別に恁倚るべき類族もなくて、夫が忘れがたみなる一人娘おまん(二十三)を相手に親子二人女ばかりの(以下省略:娘は食うために町芸妓となり、泥に染まって母を捨て、男の許へ走る話)。

明治141224 朝日新聞
◇ワツト人気も立花家、評判も上々橘の助は、来一月一日より新町の九軒が持ち席で、南地法善寺と北の新地の両席を懸持、其間にお座敷をも十分稼ぐとはヲヽ欲しやの。

明治141226 朝日新聞

◇去る二十二、二十三日の両夜催ほしたる御霊裏東京講談場伯山の大寄は、両夜共立錐の地もなき迄の大入。又伯山は来一月一日より該講談場へ昼夜出席、何か得意の読物を出し、お土産講談(ばなし)に和田豊秋堂が出版した春霞筑波曙(住谷兄弟復讐始末)を一席読(よむ)といふ評判、且法善寺の席と今一席へ掛持を仕ますと。

 



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丸屋竹山人

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