明治15年

上方落語史料集成 明治15年(1882)1月~6月

明治15112 朝日新聞

◇東京の講談師に此人ありと名を遠近に知られたる例の三遊亭円朝は、二月の下旬より金刀毘羅参詣をかけて当地へ乗込み得意の弁舌を叩くといふ。

明治15119 朝日新聞

◇お馴染の神田伯山が例の御霊裏の席で両三日前の夜より築地曙(住谷兄弟復讐始末)を読初めましたが、本で見るよりは余程面白いと云評判。

明治15125 朝日新聞

◇例の立花家橘之助は去る二十三日夜より、人気も愈々(いよいよ)橘通(堀江)、評判益々高台(たかきや)橋、西の辻南入長門屋席を持席に、新町の九軒と淡路町の両席へ助に出ますと。

〈編者註〉立花家橘之助 慶応三年生まれ。昨年十二月に来阪。今年一月一日より大阪、京都等の各席に出演する。天才少女音曲師の誉れたかく、記者たちの興味を引いたのか、たくさんの記事が出る。

明治15222 朝日新聞

◇[広告]来る廿四日二の馬ニ付、廿三日廿四日両日、例年之通リ御客様ヘ御例トシテ御みやげさし上升

五升御かゞみ 一組/二タ子織 一反/三ツ鉢酒付但シまむし付/筑前米一俵/土佐炭一俵/大火はち一ツ/娼妓線香十二時限り/上等ちゝぶ島一反/朝日新聞三ケ月但シ毎日御宅へ配達いたさせ升

右以外いろいろ沢山有升ゆゑ賑々しく御来車のほどねがひ上候也

二月廿二日 噺定席 新町九軒末広亭  御客様  

明治1533 朝日新聞

◇評判の橘屋橘之助は咽喉病で四五日席を休み、お坐敷一方を働ぐといふ噂。

明治15311 朝日新聞

◇例の橘屋橘の助が明十二日の午後一時より備后町壱丁目の備一亭に於て清元会を催しますが、俳優や芸妓が沢山押掛て来るといふ評判ですからさぞ賑(にぎやか)な事でおませう。諸君も賑々しく御臨席を願升と頼れもせぬ口上。

明治15311 此花新聞

◇假名雅記珍文 明十二日午後一時より例の清元うかれ節の妙音を以て評判(うわさ)高き名も立花家橘之助が、娯愛顧(ごひいき)のお客をば備後町一丁目の備一亭に招待し、麁酒一献を呈せんとの前披露、其口上を滞阪の猫々道人が述(のべ)られましたれば茲に写して皆様へ御笑覧に入れませう。

  浪花の梅の香に誘引(さそわ)れ、旅黄鳥(うぐいす)の関東訛り、人来(く)と謡ふ芸徒の中に、己(おら)が愛顧で賛賞(ほめる)じやないが、一節二声三遊亭の、末の流派(ながれ)の澄めるを汲(くみ)、その水原(みなかみ)を清元の、曲調(しらべ)微細(こまか)き女(め)の童は、東京に名も立花屋、客歳(こぞ)より当所に寄辺の磯、なみ〳〵ならぬ深き恵みは、芦の仮寝のひとかたならず、其御愛顧の報謝(しゃれい)かた〴〵、御定連の諸君子(みなさん)へ、麁酒一献とは外面(おもてむき)、実はおなじみの余慶にあまへ、蝦で釣出す御請鯛、招迎(でむか)ふ会主の笑寿顔(えびすがお)、此奴(こやつ)欲気は微塵もおまへん、はる〴〵当地へ橘之助が、折角の催企(もよおし)じや、皆行てやらんせと仰合(おおせあわ)され、開筵の早朝より、ヨウサヤ帳佐エライモンじや、〳〵恵来門(えらもん)じやと、おん賑々しくお賁臨(はこび)の程、モシ諸君子(みなさん)頼ンますぜと、会主に代り此も東京の今参り、出合頭に此会に、一肩入るは猫々道人いろは翁。

〈編者註〉猫々道人とはこの頃来阪していた假名垣魯文のこと。三月四日、朝日・此花両新聞の肝いりで備一亭で魯文饗応の席がもたれ、立花家橘之助も出席した。この縁故により同じ備一亭で橘之助の清元会が開かれ、魯文が得意の戯文を草したのであろう。

明治15314 朝日新聞

◇一昨日備一亭にて催ほしのありし立花屋橘の助のお礼会は、平生愛顧の人々を始め落語家仲間、芸妓舞妓など来会するもの八十余名、橘之助の絃歌はいふに及ばず芸人素人の差別なく面白づくしの芸づくし、其中にて取分け秀逸と称すべきは今橋辺の某がカツポレ、神戸のダラ万さんの歌沢、松喜さんの清元、東屋才次郎の将碁(しょうぎ)盤の上の松づくしの舞に例の天竺徳兵衛、幸ひ魯文翁が大和帰(がえり)の旅装のまゝ臨席せられしかば、一層席上の興を添て午後十一時に目出度く拍手々々。

〈編者註〉東屋才次郎は寄席の色物師で、音曲、曲芸等多才な芸の持ち主であったが、分けても盤上の松尽しは秀逸とされた。

明治15314 此花新聞

◇一昨十二日は例の清元に有名の女の童立花屋橘之助が備一亭にて娯定連(ごじょうれん)饗応の宴席を開きたるに、此日は非常の賑はひにて、来賓には立花家愛顧(ひいき)の諸氏無慮(およそ)七十余名、午後五時頃より弦歌の歓声を揚げ、踏舞献酬沸(わく)が如く、席上には落語家三四名高座に昇りて興を扶け、其他高島屋の股肱の門弟市川(市家)蔵丈が京の四季に「昨夕風呂の揚りば」は却々の大出来。折よく猫々道人も奈良地方(安本亀八と同道なり)より帰坂したてのほや〳〵にて出席したれば、会主橘之助も大悦びの余り清元一二段を語り、首尾都合頗る能きを得て、午後十時頃諸君(みなさん)はおひらき。

明治15319 朝日新聞

◇落語家仲間此好男子ありと人は言はぬが自分免許の丹次郎、乳母さんと字(あだな)(此字に付ても抱腹絶倒のお話あれども事長ければ今日はお預り)のついて居る文我大人(デモないが)…(以下省略:神戸楠公社内の席を終え、汽車で帰る途中に出合った婦人との情事の失敗談)。

〈編者註〉初代桂文我。俗に「お乳母さん」と呼ばれる。「桂文我出席控」の筆者。

明治15324 朝日新聞

◇追々東京から好い芸人が下つて来ます。三遊亭の社中に此人ありと東京で評判の好い朝寝坊むらくも二三日あとに当地に来り、南地法善寺石川一口の席で来四月一日より一人舞台ではない一人高座で例の円朝風なしんみりとした人情話をするといふ。

〈編者註〉東京で朝寝坊むらくを名乗った噺家は多いが、これは五代目むらく(鹿島五兵衛)と思われる

明治15326 朝日新聞

◇曾根崎新地二丁目の席貸業山田方へ、四五日前の日の暮れ過ぎ、同所の散髪職塚田万次郎と云ふ者と落語家の中にて一寸色事師の評判ある桂小文吾の二人が入来り…(以下省略:二人が曽根崎新地で遊んだ話)。

〈編者註〉三代目桂文吾(山寺の文吾)門人。美男子で芸妓たちによくモテた。425日、26日付にも桂小文吾と北新地林店の芸妓高治との色恋沙汰が報じられている。それゆえか茶屋噺を得意とし、「立切れ線香」などは天下逸品だったといわれる。のち二代目桂文三を襲名し、将来を嘱望されたが、三十二歳の若さで夭折した。なお、上述の記事中に「天満此花町二丁目なる小文吾の宅へ押かけ」とあり、この当時の小文吾の住所がわかる。

明治15411 朝日新聞

◇玉川上水で産湯を遣ひ、金の鯱を横目に睨み、五十三駅を股に掛けて当地へ出て来た東京子だと自負と法螺とで純粋の東京子擬せど、其実は越後新潟の産れにて、元はデロレン吹より変化した橘屋円太郎(四十二)といふ落語家は…(編者註:去年の冬より御霊社内の席へ出て居る竹本磯鶴(二十一)といふ義太夫語りとよい仲になり、子供まで出来てしまって、さあドウスル〳〵)。

〈編者註〉新潟産の旅回りの芸人。このころ東京で活躍していた四代目橘屋円太郎(ラッパの円太郎)とは別人。

明治15411 朝日新聞
<落語家の悶着>

◇此頃落語家社会(はなしかなかま)に一の捫択[悶着]が発(おこ)つたといふから、どんな事かと探らせて見ると、桂文字助、同都治、同文我、同南光などいふ咄し蚊が寄集り、近来は文枝、文都、文之助などの太字顔は只落語を惜んで短くやり、そして銭は人より長く取のは是第一の大不服、其上我等を推挙して呉ぬは実に残念で堪えられぬから、今より共に文団治どのを師匠に取り、以後の目的を改めんとの事なり。語に曰く、我短を以て人の長を猜む勿れと。自分等の芸の未熟なるを棚に上て置て人を恨むは了簡違ひ、又文枝、文都などが落語を短くやるは客に取て憾む処もあるが、下手の長談議には客も閉口、夫等を思はで苦情をいふ、さりとては愚痴な人。

〈編者註〉桂文字助は後の桂藤兵衛。桂都治は桂文都門人。のち二代目桂文枝の門に移り二代目桂万光となる。桂南光は後の桂仁左衛門。二代目桂文枝、後の桂文左衛門。桂文都、後の月亭文都。桂文之助、後の曽呂利新左衛門。この記事でも初代桂文団治が前の三人とはまったく別の立ち位置にいることがわかる。

明治15413 朝日新聞

◇去十一日より京町堀一丁目玉秀の席にて講談師石川一口が板垣君遭難一件を読(よん)で居ります。

明治15430 朝日新聞

◇東京初下(はつくだり)講談師田辺南鶴は五月一日より南地法善寺石川席へ出勤して得意の読物を講じるといふ。又石川一口は大宝寺町心斎橋筋西へ入る席で板垣君の遭難実記を講じるといふ。

明治15430 朝日新聞

◇大評判の立花屋橘の助は、西京の御愛顧より達てのお招に預り、来五月一日より同所新京極六角千年家の席へ昼夜出勤して例の妙音を鳴すとの事。

明治1553 此花新聞

◇当春以来当地にて評判を得し清元立花家橘之助は昨今西京寄席に出て居りますが、当地に劣らぬ人気なりとは何日(いつ)も感心。

明治1553 西京新聞

◇何でも新規を好む人心を察してか、一昨夜より五條麩屋町東入る五橋亭といふ席亭にて落語家の林家白鶴が毎夜続話にて、当社の新聞紙上に陸続と掲載ます毒婦左近の履歴を前席に、繞逢見復讐奇談を後席に二席づゝ弁ずるので、頗る大入なりと或る人の話。

〈編者註〉林家白鶴は明治十三年の番付「楳の都陽気賑ひ」に西前頭16枚目にある。それほどたいした噺家ではなかったようだ。

明治1555 西京新聞

◇四方に巡る扇の紋に因縁ある東京の落語家三遊亭円橘の門葉に此の少女ありと知れたる立花家橘の助は、曩頃より梅の浪花で喝采と咲せ此程柳桜の当地に来り、新京極六角二階の席に出勤し、東京根生の清元も流れ尽せぬ大人気節も音もよしなに御愛顧をと、まだ十二歳の小娘ながら、客の機嫌をとりが啼く東京の自慢を些もせず流行せるは、今に評判も京都中にイヨ立花屋の別嬪〳〵。

明治15511日 西京新聞

<新京極笑福亭の怪談噺>

○鴨涯仙都の芸妓君勇、中路の二人は何れも二十一二の婀娜者なるが、能々東西に感ずる事の深い生質と見へ、過日新京極の笑福亭へ新馬の怪談を聞に行て花道の前に座を占め一心不乱に舞台を眺めて居ると、新馬は一流の人情話に取掛り、東京根津初音町に三味線の師匠をして居た阿園といふ婦人は年齢が二十七八で珍らしい別嬪であつたが、新吉といふ勇み風な情郎を引込、むつまじく日を送るうち、斯る因縁約束にや、阿園は偶と鼻の上に腫物が出来て漸々腐敗込、遂々顔が□けて仕舞たから、新吉は五月蝿おもひ、置去にして飛出た跡で、阿園は深く其薄情を恨み、狂人になつて冥途の旅立したが、新吉は此事を夢にも知らず、兄の宅へ便り暫らく躱れて居たれど、尋ねて来ぬゆえ最う大丈夫と思ひ、ぶら〳〵遊び歩いて一夜無縁坂を通り掛ると、向ふから日来恋しく思ふて居た阿友といふ近隣の娘が来て新さんと声をかけた故、これは〳〵能(よい)所で逢たと思ふ間もなく一塵の風颯と吹て木の葉を散し砂を巻揚げ、今まで明らかな月も忽ち雲□隠れて只なんとやら物淋しく、幽に聞ゆる鐘の声。と云つゝ前の燭台に手を掛け灯心を吹消せば、席中の洋灯残らず消り、最と凄然く覚ゆるまゝ、聴衆はおの〳〵息を呑み静まり返つて詞いはず、楽屋に鳴す半鐘の諸業無情と響くのみ。新馬は変な声音にて、新吉徐々歩み寄り、阿友さん〳〵おまへに疾から頼まうと思ひ詰た事があるといへば、阿友は莞爾笑み、妾もおまへに頼みがあれど此様な顔になつたゆえ言出されぬといふ顔を見れば忽ち阿園の顔。といふ時舞台の中央に阿園の幽霊が突然あらはれ、彼方此方を見廻すに、君勇と中路の二人は耐えかね、差俯き、再度頭を揚て見ると、思ひがけなく自分の後へ其幽霊が来て停足ながら恨めしさうにして居るゆえ、中路は驚愕、アレーと一声発した侭で打倒れ気を失ふて詞いはねば、新馬を初め楽屋の人々幽霊までが介抱しながら宝丹よ霊丹よと騒ぎ立たが、幸ひにして幾程もなく息吹返し、人力車に乗て返つた後、種々療養手を尽せど未だ真実の気持にならず、君勇も癪が起り寝て居と云が、まあ〳〵気の毒な事で誤猿(ござる)。

〈編者註〉新馬は亭号その他未詳。

明治15512 愛知新聞

◇先頃まで大須の大門亭にて興行せし朝寝坊むらく(人情講談)は、流石東京にても其名を博せし程ありて、非常の雄弁を振いしかば、毎日、見物人は小屋に充満し、昨日よりは七間町富本に於て初日大入をなしたり。就中むらくが得意なるは、見物人より三つの題を出し、それを煙草三服の間にアッサリ落語に作るのが得意なりと。

明治155月吉日より <講談落語家芝居・名古屋宝生座>

明冶15年5月名古屋落語家講談師合同芝居

外題:「仮名手本忠臣蔵」大序より山科まで/関取千両幟」稲川内より角力場まで

【配役】

塩谷判官・百姓与一兵衛・おかる 文福(桂文福。明治九年頃から名古屋に居つき、のち富本席の席主と
  なる)

足利直義公・加古川本蔵・原郷右衛門・大星由良之助 龍谷(講釈師。亭号不明)

桃ノ井若狭之助・顔世御前・大星力弥・女房おいし 花若(不詳)

顔世御前・娘小なみ・千崎弥五郎・早ノ勘平 可笑(林家可笑。林家円玉門人カ)

高ノ師直・大星由良之助・せげん善六・女房となせ・鉄ケ嶽駄々右衛門 龍玉(二代目水雲斎龍玉。名古屋の
  講釈師。この年に死亡)

大星力弥・娘小なみ 徳三郎(不詳)

塩谷判官・斧定九郎 伯龍(神田伯龍。本名高田恒次郎。名古屋の講釈師)

鷺坂伴内・石堂右馬之丞・北のや七兵衛 小龍玉(水雲斎小龍玉。名古屋の講釈師。二代目龍玉の弟子)

腰元おかる・女房おとわ 錠之助(林家錠之助)

薬師寺次郎左衛門・母おかや・斧定九郎・下女おりん 燕喬(講釈師、亭号不明)

斧定九郎・一文字や才兵衛・寺岡平右衛門・鉄ケ嶽駄々右衛門 花丸(林家花丸。父親は初代菊丸で兄は二代
  目菊丸)

早の勘平・千崎弥五郎 三木(二代目立川三木。初代立川三玉斎門弟初代三木の弟子)

大星由良之助・加古川本蔵・稲川治郎吉 白太郎(不詳)

大星力弥 滝治(不詳)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 名古屋篇』巻一より作成。芸名のあとの(  )内は編者。上掲の芝居番付は早稲田大学図書館蔵を拝借した。この講談落語家芝居に関する三つの記事を以下に掲げる。

明治15517 愛知新聞
◇昨今大須境内の宝生座にて興行中なる狂言は日々役割を代へて勤むるのは一寸好い様なるが腕前のなき上役前が換る故何だか訳がわからぬ小児の戯れに髪髭たりと噂なるや如何にや。

明治15620 愛知新聞

◇大須の宝生座にて先頃講談落語忠孝仕形演劇を興行せしに非常の大入なりしが尚一昨日十八日より其二の替りを出せし。芸題は小栗判官一代記、刈萱道心、大蔵卿館の場等なりと。
明治15624日 歌舞伎新報

◇名古屋の落語家講談師が集りて興行せし狂言は「忠臣蔵」に「千両幟」成しが、存外大人気故、又二の替りを出す由、何を云にも俄役者稽古に三十日程掛るとは余(あまり)緩(ゆっく)りした稽古。

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 名古屋篇』巻一より孫引き。

          ※           ※          ※

明治15527 此花新聞

◇講談師石川一口が発起にて来る六月一日難波新地蛙茶屋にて府下の講談師の懇親会を催す由。

明治15531 朝日新聞

◇講談師石川一口は此頃灘御影村にて板垣退助君の伝と弊社新聞の続物檐の橘を読(よん)で居るが、非常な人気なりと。

明治1566 朝日新聞

◇世間のあらで飯を喰ふ落語家も…東区竜造寺町二百番地に人も知たる(但し近辺丈の)落語家林家一笑は…(以下省略:情事の失敗談)。

〈編者註〉林家一笑は未詳。素人落語家か。

明治15624 西京新聞

◇男でもあり女でもありと諸人の怪む変生男子ではない正真の別嬪、東京肌の咽喉もよく、菱に柏の定紋は流れ絶せぬ清元の節も調子も、立花屋橘の助が過日中から八阪富永町亀の家で興行せしに、偵は土地がらだけで大流行の大人気、誰も三絲と群来る中に祇園町縄手東入る辺に居る駒鶴(二十)と云ふ猫が、たゞ一筋に橘の助を男と思ひ、鼠に獲るゝ恋の艶書送れば、橘の助は可笑く思ひ何歟返書をと、梅の木にさら〳〵〳〵と「立田川辺に船とめてまだうら若き娘気の何様云ふて宜らうやら辛気枕のそら寝入」と認めし端歌の下に、橘之助女より駒鶴姉様とした返書を送りしに、駒鶴は急ぎ開封し読了して、驚愕仰天男々と意の外偖は女で有りしよな、ハテ怪やなと俳優模擬で呆れしが、一旦斯うと思ひし上は仮令女子でも大事ない婦妹分になり度と、頃日周旋人を憑み夢中になつて居ると聞たが虚言らしい夫とも実説なら毛色の変つた。

明治15629 西京新聞

◇右の方は巴御前、左の方は板額女ヨツチヤ輾るな慌るな決して驚くなと、尻尾のない野次馬の煽動に、当人達は猶々憤然となり、上を下への娼妓隊戦争といツた、弁慶牛若で名の高い五條橋下南京極町の貸座敷津田おりん方の出稼娼妓小浅(十九)は、同家に手伝に来てゐるお里(二十三)といふ女が、落語家の豆狸笑福亭福松の写真を持てゐるを瞥と見て、小浅は八重垣姫と清玄を二役兼たか頻りと写真に惚込、福松の正の物を正で見たい一心から、頃日五條東橋詰町の席に同人の出勤してゐるを聞き、大いに喜び節々出かけ、訝な落語の面白い処ろも有たとやらを、お里が聞き悋気の角、文字二本ヱで心境此の撮影が有ればこそ斯る横槍イナ貝に遭たなれと憤り、小浅の夢中で眺めて居る撮影を矢庭に掠奪た後ちが口論変じ組打となりしを、多勢で禁め漸く其夜済だといふが狸に狐の惚るといふも是れ又不可思議な撮影新聞。

〈編者註〉初代笑福亭福松。当時新聞には「眼鏡商(や)の看板狸びつくりし」などの狂歌も載り、常に「豆狸の福松」と紹介されている。

上方落語史料集成 明治15年(1882)7月~12月

明治1575 朝日新聞

◇去年東京より当地に来り、頃来又京都に出て坐敷浄留里浮連節を以て名を遠近に轟す小女子立花屋橘之助(十四年)は、頭は散髪、衣装も総て男粧なれば、誰とて女と思う者なく、音曲の巧なると容色の美なるに心を動して、文に言葉に言寄る浮連女さはにある其中に、八坂新地富永町縄手東入中村小みや(十九年)、鶴尾(十八年)の両人は同地東富永町丸の家の席にて橘之助を見染め、何とかして想を遂なんものと…(以下省略:二人の芸子の色恋失敗談)。

明治15711 愛知新聞

◇當区久屋町に久屋座と云う寄席を設け昨日座開きををせしとの事に於てお馴染の浄瑠璃竹本筆太夫一座が興行せり。

明治15721日 日本立憲政党新聞

○大坂の講談師松井馬琴は此程より兵庫の某寄席に出稼を為し居る由なるが、何人の依頼を受けしか、其の前口上に何時も官憲味方の政談めきたることを演ぶるにぞ、聴客は之を厭ひ、昨今頗る不景気になりたるよし。

明治1584日より 「桂文我出席控」

明治十五年八月四日より當[常]安橋長州席にて

文蝶 文吾 文我 文笑 チョン平 鯛助 文橋 都治/コレラにて休み 九月八日にあき日のこりうつ 

〈編者註〉「笑売往来」第十四号(昭和25月・吉本興行部発行)の「浪華落語偲ぶ草」(一記者)より転載。「桂文我出席控」については当ブログ「明治129月 桂文我出席控」を参照。以下に註釈を付す。

 文蝶 桂文蝶。桂文我の弟子でのちに桂米喬となる。

 文吾 三代目桂文吾(山寺の文吾)

 文笑 桂文笑。桂文之助(後の曽呂利新左衛門)の弟子。のち二代目桂文団治門に移り桂笑団治
  より桂生瀬となる。

 チョン平 桂蝶ン平。桂文之助(後の曽呂利新左衛門)の弟子。幇間の出身か。

 鯛助 桂鯛助。初代桂文団治門人。初代文団治はその面相から塩鯛と綽名され、弟子たちに
 「鯛」の字のつくものが多い。

 文橋 桂文橋(喬)。二代目桂文枝門人。後に桂梅枝となり、オッペケペーで売り出す。

 都治 桂都治。桂文都門人。のち二代目桂文枝の門に移り、二代目桂万光となる。

明治15815 愛知新聞

◇予て噂ありし大須境内五明座に於て興行する松井源水の曲独楽は一昨日より開幕せしが、折悪く当日は俄かに驟雨(にわかあめ)にて見物人は丸濡れなりし。

明治15824 愛知新聞

◇大須の五明座にて興行中なる松井源水の独楽は中々上手なれど、思いの外幕数が少なくして、木戸銭や場代が高価との評判。

明治15831 大東日報

◇府下はコレラ病の為、先に人寄席を差止められしに依り、芸人は多く神戸に出稼ぎに行きしに、同地に此頃コレラ流行の兆しあれば、予防の為一昨日より人寄席は午後八時限り差止められしをもって、芸人は多く帰阪なし、各々困却の体なり。

明治15912日 愛知新聞

◇大松座 此頃中当区栄町の栄座にて興行せし大阪初登りの岡本美住尾太夫(二上り浄瑠璃俗称説教)は、阪府にても彼の有名なる軍談師石川一口杯と肩を並ぶる程のものなりしが、此美住尾太夫は、軍談を説教の文句に作り弾語りをすると云う。未だ曽つて聞き得ざる赤穂義士銘銘伝を語るに因り新奇を好む名古屋人種には大喝采を得。既に一昨日より平田町大松座に於て右の一座が興行を初めしに、栄座と同様の喝采を得たりとか。

 美住尾太夫、美名松、昔噺美代三

明治15916 朝日新聞

<堀江賑江亭が開業する>

◇堀江本茶屋通賑江橋筋西へ入落語新席賑江亭は、去る十三日を以て席開きの祝宴を催し、門に数十の紅提灯を釣り、席上一面の紅氈を敷つめ、来賓数十百名之を饗応(もてなし)す。芸妓舞妓十余人、佳肴山の如く、美酒泉の如く、或は唄ひ、或は舞ひ、実に近来の盛会、大阪有て以来寄席の開業に此の如きは見るに稀なるの事。又席の建築(ふしん)も東京大阪の両風を折衷し、其宜を取り、府下にて一二の美席なり。表看板の油絵は殊に目新しと、当日招待に預りし社員の話(但し開場は昨日より)。

〈編者註〉席主は藤原重助。明治二十六年に落語界が桂派と浪花三友派に二分したとき、浪花三友派の牙城として同派の発展に尽した。

明治15927 岐阜新聞

◇今二十七日より末廣町の花角座に於て昔噺、足踊、東浄瑠璃、新内を興行すると云う。

明治151013 朝日新聞

◇お馴染の橘屋橘之助は一座を引率て久しく滋賀県下を打廻りしが、昨今再度京都へ帰り、京地お名残として例の新京極千とせ屋の席にて当月中興行すといふ。

明治15105 岐阜新聞

◇末廣町の花角座に目下興行中なる昔噺浄瑠璃等は、毎夜聴衆の多い故、本日より尚三日間日数を増し興行すると云う。

明治151026 愛知新聞

◇大須の花笑亭にて岡本美住尾太夫、同美名松、岸沢古柴、同古柳、昔噺立花三代三の一座にて興行。

明治15119 愛知新聞

◇昨今は諸芸演習の時と見へ、此両三日の中に広小路の栄座を初め所々の寄席にて、長唄、常磐津、躍り等種々の浚へがある由。市中遊芸の流行には、毎度ながら閉口せざるを得ず。

明治151210 愛知新聞

◇猥褻表現への注意 兼て當路者の御注意を願ひ置し諸興行物の中には、種々猥褻めきたる事柄を公然言語に発するものあるより、自然若者連の取締安を妨害し妙な所へ気が取れる者も間々あるゆへ、向後は尚ほ更に是等のことに御注意あつて然るべしとの投書あり。

◇長塀町相応寺前の福守座にて、一昨夜まで興行せし竹本土佐太夫(浄瑠璃)の一座は、非常の喝采を得て、三日より長く続かぬ虎列刺座の名称を受けし同座も、凡そ八日間程打ちたりとは、勧進元の仕合せと云うべし。

明治151221 愛知新聞

◇芸人調査 本月一日の調べに依れば名古屋区の芸妓百四十一名、芝居茶屋十九人、遊芸稼人八十三人、遊芸師匠八十八人、角力行司二十人、一等俳優三十五人、二等俳優四十八人、遊技場二十三箇所、理髪人四百五十二人なりと。

 

プロフィール

丸屋竹山人

カテゴリー
  • ライブドアブログ