明治16年

上方落語史料集成 明治16年(1883)1月~6月

明治1611日より 「桂文我出席控」

明治十六年未一月一日 法善寺ひる席

文都文我 我都 勢三 鶴の助 才治郎|文枝さん馬文の助|サゲビラ 文昇 (編者註:ブロックは大字)

〈編者註〉「笑売往来」第十四号(昭和25月・吉本興行部発行)の「浪華落語偲ぶ草」(一記者)より転載。「桂文我出席控」については当ブログ「明治129月 桂文我出席控」を参照。以下に註釈を付す。

 文都 桂文都(後の月亭文都)

 我都 桂我都。文我門人か。初代桂春団治とは別人。

 勢三 桂勢三。初代桂文枝門人。のち二代目文枝門に転じて桂燕枝となる。

 鶴の助 桂鶴之助。はじめ四代目林家正三門人正調。二代目桂文枝門に転じて鶴之助となる。

 才治郎 東家才治郎。音曲、曲芸に長ず。盤上の松尽しは秀逸とされる。

 文枝 二代目桂文枝。

 さん馬 五代目翁家さん馬

 文の助 桂文之助(後の曽呂利新左衛門)

 文昇 二代目桂文昇。俗にホヤの文昇(ランプのホヤのような滑稽な顔をしていた)

明治16126日 愛知新聞

◇七間町富本座の小林天山、田町大松座の桃川燕林等は近頃の不景気に似合はず入りがよいとの噂あり。

〈編者註〉小林天山は名古屋の講釈師。かなり上の講釈師のようで、「本朝話者系図」によると、田舎焉馬の弟子で、立川円馬と名乗り、文久年間に諸国を回った時に講釈を覚え、明治十四年に名古屋に居付いたという。明治二十一年に、諸芸人総取締になっている。

明治16127日 愛知新聞

◇橋詰町の寄席の高座へ登り上顎と下顎のブツツ□り、次第口から出鱈目(でたらめ)をしゃべり、凡そ二十分も過ぎて将さに論局(イヤ)高座を下らんとするとに、監臨の警察官史がヌツクと立上がり会主ではない席主を呼び、唯今の演説イヤ話しは警罪何条に照し猥褻な言語を渉ると認定に因て中止解散(否)、其後談を演するを差止むと達せらしかば、席主は其旨を演者に通知せしにより、咄家は其旨を見物に通知して曰、諸君―諸君唯今余が演説中何々の項は言語猥褻に渉るとの事なれば、右の言葉は取消しとなす。諸君幸い之れにを諒せよ、と云ひ畢(おわ)るや否見物は一同手を拍ちて喝采し、中には金銭杯を放り出せしものもありし。此の咄家は東京神田区皆川町二十三番邸平民遊芸稼人秋山勝蔵(二十五年)なるものにてありしと云う。

〈編者註〉秋山勝蔵は東京の落語家。後二代目馬楽門人馬吉から蝶花楼馬之助となる。

明治16128日 名古屋新聞

◇大須境内の夜況 仁王門前の大門亭の音曲、新内、昔噺も、花笑亭のうかれ節も、札売が声をからしても来客は指折るに足らず、同所の各店は割烹店(りょうてい)も東京蕎麦、善哉餅も、店洋燈(らんぷ)のみ輝きて、同じく来客なし。植木屋は戸鎖(とざ)し、五明座、宝生座も休んでいる程なれど、真本座の天神利生記の芝居は天満大自在の利益にや、毎夜大入札を出せり。

明治1627日 朝日新聞

◇一昨夜御霊社内桂文団治の席にて東京下りの三升亭勝竜が怪談人情噺、一人にて幽霊拾一人を早替に遣ひ分る手際を為しける処へ、高麗橋署より警部巡査三名出張して中止解散を命ぜられ、幽霊どのを残らず同署へ拘引せられ、昨朝より席主文団治並に勝竜の両名とも同署にて取調られしが、全体各席に於て怪談を興行する時は所轄署へ届出る成規なりしに、其手続を為さゞりしより起りし事なりとか。法網密にして終に幽霊までが之に罹るといふは扨々珍らしき世の中。

〈編者註〉初代桂文団治。独立し、市内の数箇所に自席を持っていた。

明治1628日 朝日新聞

◇前号に記せし御霊社内桂文団治席にて幽霊が高麗橋署へ拘引なりしことは何分根が幽霊の事なれば是といふ取留めどころのなかりしゆゑにや、席主文団治、幽霊イヤ怪談師勝竜とも一昨日同署に於て呵責の上放免になりたり。

明治1629日 愛知新聞

◇先般より、当地の遊芸人と席亭との間にモツレを起こせし趣きは兼ねてより聞及びし所なるが、今其原因を聞くに、席税の増加したるに因り、席亭が一同申合せの上、少しも遊芸人に相談せず我儘勝手の規則を立て、ドンドン席料を高くしたので、サア遊芸人は中々承知せず、軍談、落語、西洋手品、浄瑠璃、其他の諸芸人合して六十有余名が申合い、何処何処の席へは一切出演せぬと云う談判一決し、不実、古袖町の橘座に於て、各自一生懸命に持前の口を尖らせて右等の席亭を打潰し旁、興行するよしなり。

明治1632 朝日新聞

◇[広告]弊席義、諸君子様ノ御愛顧ヲ蒙、日増ニ大入繁栄仕、難有奉謝候。右御礼トシテ三月三日三ノ午ニ付、稲荷様例祭執行仕、大切ニ御来客様エ御手土産トシテ種々ノ物品ニ表題ヲ付シ、御笑覧ニ相備エ候間、賑々敷御来聴之程偏ニ奉希上候。/北堀江花街賑江亭  昔はなし定席

明治16311日 愛知新聞

◇近日中より真本座にて噺家連の林家花丸桂文福等が堀田騒動俊日礎し□者興行する由。

〈編者註〉林家花丸。本名菊本友吉。父親は初代菊丸で兄は二代目菊丸。菊蔵から二代目小菊丸から花丸となる。名古屋には、明治十年頃から二十年頃までいたようで、芸妓連中にも人気があった模様。後上方へ帰り、桂派に加入した。桂文福。本名星野藤兵衛。『落語系図』には二代目文枝門下に文福がいるが、この人かは不明。明治九年頃に名古屋に来て、そのまま居付いた。晩年、息子小文福に二代目文福を譲り、本人は、富本席の席主となった。

明治16316日 愛知新聞

◇前号の紙上に掲載にて大須真本座に於て興行する噺家連の一座はすでに一昨日大入させし処、無鑑札の者多きに、演劇の真最中監臨の警察が直ちに数人を拘引せられ昨今取調べ中なりとど。

明治16317日 朝日新聞

◇東京講談師の中にて若手の名人と評判高き桃川燕林は、在阪の朋友中村時蔵、石川一口、桂文之助などの招きに応じ、金刀羅参詣と吉野の花見を兼て当地に来り、来る二十日より三十日間法善寺と座摩の席を掛持に得意の弁を掉ふといふ。

明冶16420日 奥羽日日新聞

◇寄席 東一番丁大新亭の宮城連芸尽しは最も評よく、語竹の滑稽、千太郎の糸渡り、大切「道成寺」の清姫は中々手に入りしもの。又、国分町喜太郎茶店の座敷浄瑠璃語道の連中は可なりの受次に、玉沢横町元藤村亭の講釈例の石川一夢は、聞馴た故か当節不人なりと知らせの儘。

〈編者註〉語竹は笑福亭語竹。「仙台繁昌記」「東一番丁物語」によると、本名鈴木伊三郎。明治初期に仙台に現れ、そのまま居付いたようで、明治十六年頃には箱屋伊三郎と名乗り、幇間の傍ら芸妓等の箱屋を商売にしていたそうだ。又時には「塩煎餅屋」も営んでいたそうで、その金で明治十九年三月に虎屋横丁という場所に、「笑福亭」という寄席を建てた。仙台で初めての寄席小屋で、当時かなりの人気をよんだ。(当ブログ「東北にいた笑福亭の噺家」参照)

明治16429日 朝日新聞

◇予て評判の東京講談師桃川燕林は此程来阪、五月一日より昼は堀江本茶屋通賑江亭、夜は南地法善寺の石川席へ出莚して得意の読物を例の能弁で演舌するといふ。

明治1652日 朝日新聞

◇来る五月三日、当地に於て上手の名を得し講師伊藤鬼一が、京都新京極道場千切屋の席へ出莚して得意の義士銘々伝を演ずる。

明治1659日 朝日新聞

◇昼は堀江の賑江亭、夜は南地法善寺の席へ出莚して非常の大入を占めをる東京講師燕林は、聴衆の望(のぞみ)に応じ、本日より昼席賑江亭に於て、弊社の続物にて曾て江湖喝采を博したる北国奇談に尚遺聞を加へて講じると云ふ。

明治16610日 朝日新聞

◇本日より昼夜御霊社内土田席にて大講談開場。出席の講師は田辺南鶴(東京)、松月堂呑玉、石川一口、桃川燕林(東京)其余数名。燕林の読物は曾我物譚、西南実記、孰れも大局まで弁じるといふ事なれば、定(さだめ)て聴衆は大入ならん。

明治16619日 朝日新聞

◇新講談を以て江湖に名を轟(とどろかせ)し当地にても度々非常の喝采を博したる東京の松林伯円は、当月末に当地に来り、来月一日より阿波徳島にて一興行なし、帰路当地に立寄(たちより)、現今滞阪中の桃川燕林と共に大講談を催すといふ。又御霊社内土田の席の大講談は中々の大入なる由。

明治16627日 朝日新聞

◇落語家の隊長桂文の助の発起にて今度先師桂文枝の為に落語中興の記念碑を造営するといふ。其勧進の摺物は総て弊社新聞の体裁に倣ひ芦の葉の欄の中へ云々の文句を活版にて組入れ刷出す趣向なりといふ。

明治16629日 京都絵入新聞

◇幽霊の大戦争 同業社会の競争は今に始ぬ事ながら、此頃新京極六角下る西側の笑福亭で松鶴の一座が昔話しを興行し居と、其向側で又錦枝の一座が昔話しを興行し、互に人気の付様にと、松鶴の方では大道具入の掛合噺を切幕に仕組しを、錦枝方では怪談を始め、双方橈まず屈せず興行する中、二三日前から松鶴方で又々怪談を真似るでも有まいが遣かして居るを、錦枝が今度は幽霊の風呂敷抜の早変りと出掛しに、松鶴が昨夜より彼席で風呂敷抜をせば、此方では行灯抜を遣かす可と今日が今日まで未だ競争の止まぬと云が、幽霊の戦争は天地開闢以来是が嚆矢で有魔性かねー。

〈編者註〉明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」に「錦枝事鰕玉」とある。明治十三年の「楳の都陽気賑ひ」の番付には桂鰕玉(東前頭三枚目)と桂錦枝(西前頭十七枚目)の名前があるので、二代目と思われる。四代目文吾は明治十七年から十八年頃にこの錦枝の弟子であった。松鶴は三代目笑福亭松鶴。明治十三年の「楳の都陽気賑ひ」の番付では鰕玉より上の東前頭二枚目(当時笑福亭木鶴)にあり、錦枝ごときとこれほど争うというのは何か不自然な気がしないでもない。


上方落語史料集成 明治16年(1883)7月~12月

明治1678日 朝日新聞

<へらへら坊万橘の来阪>

◇記者の友人山田清條が、「おもしろと人にはあごをはづさせて いつもはづさぬ赤い手拭」と、渠(かれ)が踊りを褒賞(たたえ)たるその狂歌(ざれうた)の過褒(ほめすぎ)ならで、ヘラ〳〵の声と共に滑稽の名を日本全国に轟したるヘラ〳〵踊の元祖ヘラ〳〵坊万橘(東京府下浅草区福井町廿五番地居住岸田長右衛門三十二)は、頃来去る愛顧(ひいき)の招きに応じて当地へヘラ〳〵と舞来りしが、赤い手拭にて東京の同業家を捲倒(まきたお)し、赤地の扇で見物人を招寄(まねきよせ)たる(某新聞のお詞を拝借)愛敬と腕力(うでまえ)は、当地の席元、興行人も予て承知の事なれば、先(まず)私の手から、吾席からと、東西(みぎひだり)より引張凧、剰(あまつさ)へ南北両新地はいふも更なり、新町、堀江の芸妓(ねえ)さん達が、東京のヘラちやんとは何様(どん)な調子な男か、万橘さんとは何様(どん)な好男子(いいおとこ)か、席へ出ない内に一度近付(ちかづき)に成て置うと、南北(あっちこっち)より口がかゝれば、毎日少しの暇もなく、其故つい出席も延引せしが、愈(いよいよ)相談調ひ、来る十一日夜より堀江賑江亭を持席に法善寺と内平野町神明の席へ助けに出る事に定りしと。

ヘラヘラ 001

是迄が万橘が来阪以来の景況(ありさま)にて、偖(さて)今日画入(えいり)に仕組だお話は、堺筋淡路町辺のさる金満家の旦那(姓名は都合に依てお預り)は、万橘とは東京以来の馴染にて、あくまで愛顧(ひいき)にせるが、三四日前の事、南地宗右衛門町の十二家と云青楼(ちゃや)へ万橘を招き、貴公も大阪では粗(ほぼ)人に顔を知られて面白くないから、今から見物かたがた西京へ連て行ふ、偖其趣向といふは、貴公を旦那に仕立、私が周旋(とりまき)に成て遊ぶ積り、一夜中ヘラ〳〵の化の皮を顕さず、旦那に成りすましたら、褒美として十円やるとの話、ヲツト来り、吾(わし)も昔は男山、腹の中からヘラ〳〵を踊つて産れた訳でもなく、御一新以前は何の某と謂れた者なれば、一夜ぐらゐ旦那になれぬ事はあるまいと、心の中で観念して、上布の衣裳(きもの)に黒絽の紋付の羽織、博多の帯を胸高に結び、麦藁の帽子に金の時計、殿中の扇を左りの腰にさすが黒人のすました顔、旦那を伴に京都へ乗込み、祇園新地の某楼にて、芸妓舞子に幇間まで、多勢揚て大散財、飲よ唄への面白さにつひ浮されて、持病のヘラ〳〵がやゝともすると発しかくるを、両手を握り歯をかみしめ、此処が男の生根場(しょうこんば)と、灸(やいと)の皮切を堪ゆる心地で、ゑんやらやつと辛抱仕遂げ、サア旦那あちらのお座敷へお床を展ましたからお休み遊ばしませと、仲居の詞は時鳥(ほととぎす)の初音、聞くより尚嬉しく、ソンナラ少し横になりませうと、横柄な顔を仕て閨房(ねま)へ這入て見ると、一人の娼妓(おやま)が坐つてをり、行灯の光明(あかり)に何様(どん)な玉かと透して見ると、コワ如何に、去年自分が上総へ興行に出掛た留守に上方へと引越した朋友(ともだち)竹村為蔵といふ者の女房お兼なれば、大に驚き、その成行(なりゆき)を尋れば、商売の手違で非常の損を為し、東京の町にも住兼て、少しの知辺を心当に当地に来りしが、よく〳〵不幸に陥る時節か、良人為蔵は去年の冬病気に罹つて敢ない最后、其後何をするといふ便宜(たつき)も無きまゝ、拠(よんどこ)ろなく此しだらと、涙ながらの身の上話に、万橘は煩悩即菩提、そゞろに不便に思ひて、懐中に有合せし拾円の紙幣を与へ、其翌朝早く何某と共に大阪へ帰り云々と語りければ、何某は芸人には珍しく朋友(ともだち)に信(まこと)ある志を感じ、首尾好く旦那に成りおふせた褒美と、その実意を賞するの褒美を合せて、都合弐十円を万橘に与へければ、万橘は之を乱(みだり)に遣はず、去年今月某日に死去したる吾(わが)甥某の一周忌追福の費用にあて、貧民へ何か施行するといひをる由。

〈編者註〉初代三遊亭万橘。明治十三年頃、赤い手拭い、赤地の扇子を手にへらへら踊りを始めたところ大流行し、へらへら坊万橘と呼ばれるようになった。大阪でもへらへらブームを巻き起こし、たいへんな人気を呼んだ。

明治1678 名古屋新聞

◇富本座 富沢町なる同座に於ては、昨夜から講談師松崎小竜玉が新聞松平慶承事件を開演いたします。

明治16711日 朝日新聞

<初代林家染丸、初代林家延玉追善興行>

◇落語家にて名高かりし亡林家染丸と円玉との追善にとて、桂文吾が会主となり、明十二日及び十三四の三日間、三府落語家の大会を堀江賑江亭に催ほすよし。

〈編者註〉初代林家染丸。染物職人で、そのままの手で高座に上ったのが名前の由来である。その後浅尾新七と改めた。明治八年七月の「浪花名所昔噺連中見立」には「人気よし五つの矢倉川竹のみづで染まる花やかな色」とある。明治十三年正月の番付「楳の都陽気賑ひ」には名前がなく、明治十年前後に死亡したと思われる。これは七回忌法要であろうか。円玉は初代林家延玉。明治十三年十月に文吾(三代目・山寺の文吾)が会主となって七回忌法要をやっている。

明治16712日 朝日新聞

◇東京初下りヘラ〳〵の元祖万橘は前号にも記せし如く、昨夜より堀江賑江亭へ出席の筈の処、十二十三十四の三夜、故人染丸、延玉追善の大寄あるにつき、改(あらため)て十五日夜より出席。法善寺と淡路町の席へは昨夜より出席せしが、非常の人気なりと云ふ。

明治16717日 朝日新聞

◇予て諸新聞に広告ありし、来る廿二日(第四日曜日)、中の島清華楼に於て催ほさるゝ北筑の韻士姫島竹外先生の会主の文墨交親会は、京坂の諸名家先生出席ありて、席上揮毫及び書画展覧はいふも更なり、酒茶の席あり、囲碁の席なり、明清の奏楽あり、又其余興には南北両新地、新町、堀江各花街の名妓数十名、俳優には実川延三郎、坂東寿三郎其余数名、講談師には桃川燕林(東京)、石川一口、落語家には桂文之助ヘラ〳〵坊万橘其余清元八重太夫、歌沢芝千等有名の芸人数十名出席なし、各自(めいめい)得意(おはこ)の技を奏して来客の耳目を喜ばしむるの計画もありといへば、近来見るに稀なる一大風流会なるべし。

〈編者註〉姫島竹外 福岡県生まれ。大阪南画界の大家。山水花鳥を得意とした。

明治16719日 伊勢新聞

◇常小屋 一昨夜同小屋にて興行を始めたる東京下り三遊亭圓好立花家橘之助等の昔噺及清元浄瑠理は初目より大喝采を博したり。殊に橘之助があがたる声音(コエ)と熟練したる三絃には聴衆も皆感じて妙と云ひ、又はヒヤヒヤと称して賛めしものもありしや。しかし圓好が高座で喫烟しながら聴衆をみおろし居たるはあまり聴衆を馬鹿にした様な風ありといふ者もあり。

〈編者註〉立花家橘之助は少女音曲師。明治十五年正月より関西の寄席に出演を続けている。三遊亭円好は子供の頃から三遊亭円朝の楽屋に出入りし、朝太から円好と改めた。客受けは好かったが、生意気だというので仲間内の評判は悪く、明治十五年頃一時廃業を決意して上方へ赴いた。途中橘之助に出会い、その一座に加わった。後の四代目橘家円喬である。

明治16722日 朝日新聞

◇東京下りヘラ〳〵坊万橘は非常の人気にて、法善寺、堀江両席にてうしろ幕、引幕が弐十張も出来、提灯が三十も出来、淡路町の席とも三席いづれも大入、その人気を考へて谷町安堂寺橋筋の人形新(川口新吉)方にて万橘人形といふ物を作りて売出したりと。又来二十六日よりは新町扇屋席一軒丈へ出席し、種々(いろいろ)の新芸を観客の一覧に呈するといふ。同廓の芸娼妓にも万橘愛顧(ひいき)の多数ある由なれば、定めて太皷が鳴たら賑かに例の大入大当を取なるべし。

明治1681日初日<落語家芝居・中の芝居>

外題:「昔咄種歌舞妓粧(はなしのたねかぶきのいろどり)

【配役】

乳人政岡・道具屋甚三・山家屋清兵衛・題目七兵衛・福岡貢 中村慶治(桂慶治)

松坂屋源右衛門・駕屋都六・竹田奴後に五百歳介・料理人喜介 市川文都(桂文都、後の月亭文都)

妻小まき・野分姫・後家おたみ・徳島岩次実は藍玉屋北六 嵐文昇(二代目桂文昇)

一子千松 実川賞太郎(不詳)

鶴喜代丸 中村小雀(不詳)

松ヶ枝鉄之介・藤浪左膳・客丈介・竹田奴・しかげの経六 中村さん馬(五代目翁家さん馬)

奥女中浅尾・女郎おきし 坂東かしく(桂かしく、後の二代目桂文之助)

娘おさき・油屋多三郎 実川玉助(桂玉輔、後の三代目桂文都)

今田万次郎・京むじ屋いと 実川枝之助(不詳)

奥女中桐壷・客次郎介 片岡鶴之助(桂鶴之助)

吉田直宿之介・道具屋利兵衛・宮川丈四郎・藍玉屋北六実は徳島岩次 実川宗太郎(桂宗太郎、後の五代目
  林家正三)

栄御前・法界坊・おくみの霊・下女りん・秩父重忠・奴林平・女郎おしか 坂東文の助(桂文之助、後の曽
  呂利新左衛門)

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妻沖の井・娘おくみ・岩永左衛門・仲居千野 坂東才治郎(東屋才治郎。色物の名人)

腰元松島・娘おそめ・山田角太郎・女郎おこん 市川文紅(桂文紅、桂文都門人か)

丁児久松・竹田奴 坂東かしく(桂かしく、後の二代目桂文之助)

黒上主鈴・百姓五作 実川玉助(桂玉輔、後の三代目桂文都)

禿みどり 実川賞太郎(不詳)

妻八汐・女房おかん・番頭善六・浅間大蔵・仲居万の 市川文我(初代桂文我)

禿みよし 中村小雀(不詳)

奥女中なぎさ・百姓太郎作 実川枝之助(不詳)

永楽屋権左衛門・百姓六兵衛 片岡鶴之助(桂鶴之助)

仲仕鹿蔵・饂飩屋仁八・按摩どん太郎 中村田加三(不詳)

忍び加藤次・信楽勘十郎・久三小介・お杉 実川文吾(三代目桂文吾)

遊君あこや・娘おみつ・皆婦の妙蔵・おたま 尾上里朝(徳永里朝、盲目の音曲師)

仁木弾正・丁児寝ぼ吉・榛沢六郎・妙法蓮七・粋の定七 実川文枝(二代目桂文枝、後の桂文左衛門)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 大阪篇』第一巻より作成。配役名の後の(  )の芸名は編者が施した。

明治1681日 朝日新聞

◇本日より蓋の明く戎座(ママ)落語家連の芝居は、初日の出ぬ以前より意外の人気にて、今日は九郎右衛門町、宗右衛門町の芸妓連が東西の両桟敷を残らず買切、見物に出掛るよし。又延若より桟敷釣の提灯四十張、雀右衛門、八百蔵の両人より大幕、福助、橘三郎の二人より大提灯二張、延三郎、寿三郎、三五郎の三名より清酒十五挺を同芝居へ贈りしなど、実に大芝居にも劣らぬ程の景気なりと。

〈編者註〉同紙89日付に「中之芝居落語家の芝居も意外の大入なるに付、更に五日間日延をなすといふ」とある。

明治1683日 朝日新聞

落語家の玉株亡林家染丸が追善の為、桂文吾が催ほしにて処々の席に落語家大寄をなせし事は過日掲げたるが、此程其節染丸びいきの人より恵みし金を以て神戸山の手の安養寺境内に石碑を建てたるに付き、明四日其供養をなし、明後日より三日間楠公社内兵庫入江町の両席にて落語家大寄を興行するよし。催主は矢張文吾なり。

〈編者註〉安養寺は神戸市中央区楠町にある浄土宗の寺。神戸の中央図書館近くにあり、地下鉄では、「大倉山」で下車して、すぐの場所にある。探索を試みたが、阪神淡路大震災で本堂は全焼、石碑は発見できなかった。

明治16810日 京都滋賀新報

◇人情噺し 大津石川町本要寺の定席にて此程より大阪吾妻家文□智の一座が過日本社

の紙上に登録せし大津柴屋町広絹の出稼娼妓おあさ滋賀郡松本村の松本竹二郎とが淀大橋より身投して情死せし事を噺し居るが何分昨今は何所も盆踊の最中ゆえ八九分位の入なりと。

明治16819日 朝日新聞

◇近頃の一笑談(はなし)ともいふべきは、昨今納涼落語とて道頓堀相生橋南詰の浜先に舟を浮べて小屋をしつらへ、其処に毎夜興行せる桂文団治一座の席へ、一昨十七日の夜も押かけつめかけ、満場立錐の地なきまでに聴衆(ききて)の充満して、已に重量の非常に加はりし処へ、宛も水の出潮に遇ひければ、水はヂク〳〵と床の上に侵入し、一度に聴衆の尻の下が冷くなりしに、驚き立騒ぐうちに随(したがい)、ます〳〵水の嵩増して、今や難船にも及ばんづの勢ひに見(みえ)けるまゝ、女は泣出す、男は駆出す、我一に競ふて外へ迯出さんとする騒動(さわぎ)の景況は、実に名状すべからざりしが、幸ひに一人の怪我さへなく、無事に一同を陸上(おか)に上げたれど、之が為め当夜の席は自から中止となりたりと。あぶないこと。

明冶16817日 奥羽日日新聞

◇放楽  笑福亭語竹が催主となり、当区内の芸人一同を集めて今日より三日間、大新亭に於て放楽の大温(さらえ)をする由。

明治1694日 朝日新聞

◇此は一寸思着きの贋造ともいふべきか、近来浄瑠璃、新内かたり、落語家、講釈師等高名の人々の営業鑑札を贋造なし、其名を以て大和、紀伊、淡路、播磨、丹波等の地方の興行人へ出勤の日数を売つけ、営業鑑札を渡て手付金を取もの多きよし其筋へ聞え、近々右営業鑑札を引換らるゝ由。

明治1695日 朝日新聞

◇久しく神戸に興行してをりし東京講師燕林は今月帰阪、去る一日(昼)より堀江賑江亭に出席して本社の続物孝子復讐実録を演舌する由なるが、頗る人気に適ひて大入なりと。又翁家三馬が同席して後座に雨夜鐘芳原奇談を話すと云ふ。又赤い手拭赤地の扇、太皷が鳴つたら賑に客を招きしヘラ〳〵坊万橘は避暑の為数日間休業して居しが、是も亦去る一日より新町の九軒、曾根崎、両替町の三席へ出勤し、相変らず陽気と愛敬で人の山を成せり。

明治1697日 朝日新聞

◇有名の演説家英人ブラツク氏は近々当地に来り興行するといふ。又東京講師松林伯円も近々来阪、四国路を遊歴し、来一月当地に於て興行するといふ。

明治16915日 朝日新聞

◇講談師石川一口は今度芝居作者にて有名なりし並木正三の名を受継ぎ、其披露をしたる上、南地法善寺境内にある故並木正三の石碑を修繕し、且一の法莚を開くといへり。

明冶16929日 奥羽日日新聞

◇三題ばなし 当仙台区立町通り玉木座にて、去る二十六日夜より、梅朝、語竹、遊朝等の連中が興行になり、梅朝の三題ばなし、語竹の滑稽、遊朝の芝居振り、大切は例の茶番でドッと打出す趣向の由。

〈編者註〉梅朝、遊朝は亭号不詳。

明治16929日 朝日新聞

落語家の自由党桂文団次は、南地に人気の有を幸ひ、本月一日より相生橋南詰相生座に出席して、例の広長舌を揮ひ、法善寺の席を圧倒する目的(つもり)なりと。

◇妙齢にして妙技あるを以て妙に府下の人気を傾けし橘屋橘之助は、久しく名古屋に滞在せしが、頃来(このごろ)帰坂、来月一日より堀江の賑江亭と両替町の席と両所へ出席し、例の妙絃妙音を鳴すといふ。又評判のヘラ〳〵坊万橘は京都へ乗込み、是も来月一日より新京極の席にて例のヘラ〳〵を演ずる由。

明治16930日 朝日新聞

◇昨日橘屋橘之助帰坂の云々を認めしが、東京落語の隊長三遊亭円朝の高弟にて少年才子の名を得し三遊亭円好も橘之助と共に来坂、明一日より賑江亭、淡路町、曾根崎橋等の席へ同(おなじ)く出席して得意の人情噺を演ずると。

明治16101日より 「桂文我出席控」

明治十六年未十月一日より松屋町両替町梅の家席

東京下り立花家橘之助桂文我 かつら我都 桂文吾 かつら山吾 桂宗太郎|東京下り三遊亭円好 (編者註:ブロック体は大字)

〈編者註〉「笑売往来」第十四号(昭和25月・吉本興行部発行)の「浪華落語偲ぶ草」(一記者)より転載。「桂文我出席控」については当ブログ「明治129月 桂文我出席控」を参照。以下に註釈を付す。

 かつら山吾 三代目桂文吾門人桂山吾。

桂宗太郎 後の五代目林家正三(福田宗太郎)。正二、林笑、正楽、新三から宗太郎となり、九蝶、春好を
  経て五代目林家正三となる。
 

明治16102日 日本立憲政党新聞

◇サテ代り合せまして何か御機嫌を伺ひますと、大坂東区淡路町五丁目の幾代といへる寄席にて一昨夜も昔噺の席を開き、九時頃となりて代り合せ壇に上りしは、かしくとか喚べる落語家なるが、得意の弁舌にて巧に聴衆の臍をよらせ、軈て一声調子を張上げて「〇〇さん〇〇の毛は二本エ」と謡ふや否や、臨場の巡査は立上りて席主を呼出し、只今の演舌イヤ噺は猥褻に渉りたるに付き中止解散を命ずと達せられたり。是に於てかしくは席主を以て巡査に向ひ、只今謡ひしは「椎茸さん牛蒡の毛は二本エ」と八百屋ものに因みて申したるのみにて決して猥褻の儀を申述べしにはこれなくと弁解せしよしなるが、到底り巡査は猥褻と見認めたりとて同夜の興行を差止められしかば、聴客はぶつぶつと苦情を云ひながら解散したりといふ。

〈編者註〉桂かしくは桂文之助(後の曽呂利新左衛門)の弟子で、桂馬よりかしくとなる。のちに艶文亭かしく、文の家かしくと名乗り、明治三十三年、二代目桂文之助を襲名した。

明治16107日 日本立憲政党新聞

○この此大坂東区淡路町五丁目の寄席にて同地の落語家かしくといふが「〇〇さん〇〇の毛は二本エ」とかいふ流行謡を唱ひしことに付臨監の警察官より聴客解散を命ぜられたるよしは前号に記せしが、右の座本某は昨日更に東警察署へ喚出され当日の始末を尋問されたる末、二本エ云々と言ひたるは相違なきやとのことに、如何にも二本エ云々の儀は相違これなく、但しこれは牛房の毛云々と申したるにて決して猥褻がはしきことに候はずと答弁したれど、その甲斐なく遂に違警罪に問はれ、過料金二十五銭を申付けられたりとぞ。

明治161020日 伊勢新聞

◇の罰法 落語家が猥褻の言語を吐くこと予ねてより其筋より厳しく禁じあれば近来は復たやや舊に復するの状あれば今度罰法を設け尚一層厳重にせらるるとか聞く。

明治16103日 南海日報(香川県)

◇飛梅閣 片原町天神社内飛梅閣にて開場なる東京下りとかの軍談、源氏節は可成りの入が在るというは、全く技よりは源氏節を遣らかす十七、八の婀娜女(あだもの)が宜(いい)とか何とかにての大入にて、若い男は余程出るそうです。イヤ堂しても景気は妙に凹肉社会にありやすテ。

明冶16104日 奥羽日日新聞

◇茶番狂言 此程より常盤郭なる水屋跡へ興行になりたる語竹、梅蝶の茶番狂言は、所柄丈、中々盛んなり。殊に声色の使い分けは、田舎にしては珍しいとの評判なり。

明治161031日 京都絵入新聞

◇気障会 …を来る四日に催さばやと計画し人は大坂新町通二丁目の酒商金泉五三郎(一名一歌堂)にて、同日新町花街の有名芸妓を集め、同所の貸座敷吉田屋(木村喜右衛門)方の席を借受け、気障会へ出席の人々は錣連の若者彼の桂文之助、東家才次郎なども、臨席し成丈け気障な事せし者を次会の議長と定めるとか、粋の字の方は素より覚束なけれど、気障の議員なら随分江湖にネー。

◇落語家の劇場 本年の夏頃大坂道頓堀中の芝居で興行せし落語家劇場は、其頃喝采と当込だが、其味を〆てだか何様だか来る十一月下旬朝日座の劇場に於て「けいせい石川染」と云ふ芸題の狂言を興行するとの噂。

明治16112日 朝日新聞

◇東京下りの落語家お馴染の円好は、今一日より両替町及堀江賑江亭の両席にて弊社の続物夢の手枕に種々奇作を加へて演ずるよし。又橘屋橘之助も従来(これまで)の如く両所掛持にて勤めるといふ。

明治16113日 山陽新報

◇落語興行 本日より岡山区西中島町旭座に於て、桂文治の一座が落語の興行を催すという。

〈編者註〉十六日より心明座、十二月十一日より天瀬巴玉亭でそれぞれ興行

明治161115日 名古屋新聞

◇雑煮の興行 大須真本座で本日より興行する、さて何人と謂つたら宜らうか。三座打混りの興行物は、前が岡本美代冶、同美狭松の源氏ぶし。中が落語家連の手踊狂言。後が西川健二、市川三代二の力士甚句の所作事で、木戸銭は僅か一銭との事です。

明治16102日 京都絵入新聞

◇…新京極福の家席へ出勤する東京落語家の第一等三遊亭円朝の門葉に此滑稽者ありと呼れしへら〳〵坊万橘のへら〳〵踊を是非見物に…(後略) 

明治161123日 京都絵入新聞

◇是も新発明歟 斯して那して斯なつたからは斯して那して斯せねば成らずと智恵袋を絞出して、此度大坂府西区新町北通一丁目の席亭末広において、今二十三日より昔噺人形入と云ふを興行し、落語家は桂文枝の一座にて、三絃は徳永里朝、人形遣は吉田玉助の一座にて通常の落語に人形を入のだと云ふが是は見物。

明治16121日 朝日新聞

◇南地法善寺の昔噺席にて桂文昇といふが愛顧の客に纏頭(はな)を貰ひ、其礼にとて桟敷へ行てをるところを巡査に見認(みと)められて、一寸来矣(ちょっとこい)の上、例の科料を申付けられたるは二三日前の事。

明治16124 朝日新聞

◇中の芝居にて興行せる遊芸共進会は意外の大入に付、猶去一日より七日間の日延べをなしたりと。

明治16124日 東海新聞

◇当区寄せ席業の者と昔噺並び音曲、常磐津、源氏節等の芸人との間に昨年来何か紛紜を生じ、兎角折合はざるより、当春富沢町の井戸喜外二名のものが仲裁なしたるも双方苦情を唱え和解せざるにぞ、仲裁人も殆ど持て余し遂に其儘打ち捨て置きしが、当時の不景気に双方とも稼業の暇なるより大いに迷惑なし居ると云うに付き又々右の人等が仲裁を為したるに、今度は速に和熟の整のひければ、諸芸人を集め末広町末広座にて昨日午後四時より大寄せを興行なしたるに、此不景気にも似ず大当たりなりと云う。

明治16128日 日本立憲政党新聞

◇この頃大坂の各寄席にて十六人芸とかいふものを興行し居たる立川明覚といふ者は、何か出版条例違犯の事に付大坂軽罪裁判所検事より召喚せられ、昨今引続き其取調を受け居る由。十六人芸が出版条例違犯とは如何なることなるにや。

〈編者註〉盲目で、十六人芸を売りものにした立川明学。九州福岡の出身で西国坊明学とも名乗った。なお明学は「みょうがく」と読む。

明治161211日 日本立憲政党新聞

◇十六人芸とかいふことを営業とする立川明覚の大坂軽罪裁判所検事より召喚されしことは前号に掲げしが、右は全くこの程道頓堀中の芝居にて同芸興行中無届にて出板したる大津絵節の一枚摺を来客に售(う)りたることに付てなりと。

明治161213日 朝日新聞

◇中の劇場の落語家混進会は再三の日延に拘らず大入りなるが、去る十日より興行の新町扇屋席燕林、文之助、円好、橘之助等一座の混進会も同様非常の大入なる由。流行といふものは妙なもの。

明治161214日 日本立憲政党新聞

◇無届にて出版せし大津絵節の一枚摺りを売りしとの廉にて此程より取調を受け居たる十六人芸の立川明覚坊は、出版条例違犯に問ひ情状を軽減して拘留七日申付ると一昨日大坂軽罪裁判所に於て申渡されたと。

明治161219日 伊勢新聞

◇落語 十六日より岩田橋常小屋において有名なる落語家司馬瀧橋が興行する由定めて賑合ふなるべし。

明治161228日 朝日新聞

◇落語家桂かしくと申升(もうします)は、今度桂文枝の一座を離れ桂文団治に入門いたしました故、ゴテゴテ紛紜(ごてつい)て居ますと。

〈編者註〉かしくは初代桂文団治門へ移ったので、かしくの名を返上し、桂小団治と改名する。

 

 

 

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