明治17年

上方落語史料集成 明治17年(1884)1月~6月

明治17126日 朝日新聞

◇話の上手と年の少(わか)いのと男の好いのと三拍子揃つてゐると評判の好い東京新下りの落語家三遊亭円好は、本日より神戸楠公社内の席へ昼夜出勤して弊社の続物芦辺の鶴と二葉の松を弁じると云。

〈編者註〉三遊亭円好は後の四代目橘家円喬。このころわけあって東京を離れ、関西地方を遊歴している。

明治1721 京都絵入新聞

◇都々逸の中止 変生男子と噂さ高く散髪頭の男姿、東京の落語家三遊亭円橘の門葉に此の美少年イナ別嬪ありと知れし東京下りの橘家橘の助(十七年)は、曩に新京極六角の興行席に掛ツた事もあり、其後尾州名古屋辺へ赴きしが、頃日又ぞろ大坂へ戻り南地法善寺境内の寄席に興行中の所ろ、去二十七日の夜得芸(じゅうはちばん)の都々逸を諷(うた)ひしうち「髯で官吏が勤るならば勤めさしたい〇の下」と諷ふが否、忽地(たちまち)臨監の警官に中止を命ぜられ、南警察署へ拘引の上ヘ三日間拘留となり、去二十九日午後六時頃、科料金申付られ放免と成りましたが、余り調子に乗て饒舌立ると後悔を前(さき)に立せて、後から見れば杖をついたり転ンだりの一件が有から、橘チヤン何卒注意して頂戴ナ。

〈編者註〉立花家橘之助は少女の音曲師。男装していたので「変生男子」と呼ばれたりした。明治十二年末に来阪、十三年正月から大阪、京都、神戸、名古屋等の各席に出演、唄のうまさは大人顔負けで、どこへいってもたいへんな人気であった。

明治1722日 朝日新聞

◇評判の橘屋橘之助は、去る十五日の夜、南地法善寺の席にて、髯で何とかゞ勤るならばといふ都々一を唄ひたる廉を以て、去る二十七日の夜、難波警所へ拘引、取調の上、一夜留置、翌二十八日、中之島裁判所へ送られ、一夜檻倉に留められしが、翌二十九日の朝、元の警署へ帰され、科料金を命令(いいつけ)られて帰宅を許されしと。吁(ああ)口は禍ひの門なる哉。

明治17223 日本立憲政党新聞

◇松林伯円 自から開化講談師と称して随分此社会には幅を利せたる松林伯円は目下尾州名古屋にて興行中なるが、来二十五日を以て同地の興行を打上げ、本月中に来坂して来月一日より例の如く東区平野町御霊裏の席へ出勤なす由。

明治17214日 京都絵入新聞

◇(前略)「水道の水で産湯を用(つか)ひ、常盤橋の鯱ほこを横眼で睨むでオギヤアと生れた江戸ツ子だと、維新の前なら云ふ処なれど、当今では開けた東京で、甲も乙も三扇(みつおおぎ)、名も橘に縁のある落語家部類の清元妙手橘屋橘之助が、去年山鳥の尾張国名古屋地方へ出稼の其頃、彼の新守座にて興行して居た若年の売出し俳優中村鴈次郎に、一寸した事から斯様(こんな)赤縄(えにし)が紙門(からかみ)の、鴛鴦(おし)の番(つが)ひの娯楽(たのしみ)に、泊々(とまりとまり)の旅舎(はたごや)でと、お臀(いど)もお軽に前後(あとさき)の勘平もなく、春景色浮て鴎の人目忍むだ一件も、遂に橘之助は大坂へ出戻で、頃日(このごろ)法善寺内の寄席に掛ツて居るが、見物は鴈との交情(なか)を疾くも知ツて、イヨ成駒屋の娯細君、裏梅と三扇、比翼の紋の粋事筋、親族交際(しんるいづきあい)ソーレたのむの悪誉(わるほめ)を、橘チヤンは一切頓着せず、平気で莞爾(にこにこ)笑ツて居るは、愈々鴈が情夫(ほんすじ)に極印付だと、犬に噛れ想な法界悋気(おかやき)連が、吾も己もと詰掛る、庇蔭(おかげ)で寄席は大入叶、処ろで同席の桟敷背後(うしろ)が恰好(ちょうど)中の芝居の大部屋の窓にて、鴈チヤンが節々(ときどき)裏の窓から蒟蒻玉でなく高座を覗くといふので、倍々(ますます)成駒屋の噂さ橘屋、中の芝居でもイヨ成駒屋、寄席の方でもイヨ成駒屋の誉言(ほめことば)も天井と畳に響く大人気トサ。(後略)

明治17224日 東海新聞

◇開慶座 昨夜より當区替地町の開慶座に於て芝竜橋が怪談を始めたり。

◇玉川金蝶 同人は本籍大阪府下西成郡篠波平民法道仁平と云う者にて、影絵の名人なる由なるが、近日より大須大門亭に於て、説教、新内、常磐津に右影絵等の混交(ないまぜ)にて開演する由。

明冶17225日 奥羽日日新聞

◇昨夜は宝の入船で、東一番丁の中島座へは東京初下りの筑後太夫に、三味線はお馴染の鬼市、語竹の乗合咄し等が興行になりしと。

〈編者註〉鬼市は鶴沢鬼市。本名亀田金蔵。東京の手品師柳川一蝶斎の倅。明治四年に東京から居住の義太夫語りで、「鶴沢」という芸妓屋を仙台で開業していた。語竹は笑福亭語竹。東北仙台で活躍していた噺家。(当ブログ「東北にいた笑福亭の噺家」参照)

明治17229日 朝日新聞

◇新講談を以て有名なる東京の講師松林伯円は此程来阪、来る三月一日より昼は北堀江賑江亭、夜は旧長州邸長門座へ出席し、例の雄弁を揮つて春霞駿甲奇聞と明治朝鮮事情の二題を演ずると云ふ。

明治1735日 東海新聞

 落語を以って有名なる桂文福(本名星野藤兵衛)は、先年大阪より当地へ来たり、南桑名町野々部熊次郎方に同居しゐたる所、この頃右熊次郎が強盗犯とかにて其筋へ拘引されしに、同人は是まで詐称しゐたる偽名の露見せんことを覚し、一昨日其筋へ姓名詐称の趣き自首せしと云う。

〈編者註〉桂文福 明治九年頃に名古屋に来て、そのまま居付いた。晩年、息子小文福に二代目文福を譲り、本人は、富本席の席主となった。

明治1737日 朝日新聞

◇南区日本橋一丁目十四番地講談師伯林は、かねて弘法大師を厚く信ぜしが、此程四国八十八ケ所の霊場を細(こまか)に順拝し、大師の実歴を詳しく聞糺(ききただ)して、新に大師の実伝を編述し、高野山に上り、金剛三昧院に於て多くの信者を集めて、之を講談し、確実精細の評を博せしが、今度久々にて当地に返り、去る一日より二ツ井戸の席にて自編の大師伝を講談し、非常の喝采を得てゐるとか。其道に熱心なる人といふべし。

明治17313日 朝日新聞

◇東京講談師松林伯円は前号にも記載せる如く、去る一日より長州座、賑江亭の両席へ出場せしが、久々の来阪ゆえ両席とも非常の大入なりしも、不幸にして其翌日より突然病を発して講談する事能はず、京町堀共療館桑原国手の治療を受け、同国手の勧めによつて一週間城の崎の温泉へ入浴に趣[赴]き、入浴中弊社の続物二葉松と蘆辺の鶴の二件を新講談に綴り、咽喉病全癒帰阪の上、両席にて演説するといふ。

明治17316日 東海新聞

◇追善會  今度、故講談師松崎竜玉三代目相続の水雲斎竜玉(旧名小竜玉)が席主となり、本日より三夜間、当区大須門前大門亭に於て目下在県の諸芸人を打寄せ、右竜玉の追善大会をなすよし。定めて賑々敷きことならん。

明治17325日 東海新聞

 落語家にて一寸人に知られし林家延若は、東春日井郡小牧村において興行中、同村宿屋富三郎方に宿泊したる節、或人の道島を窃取せしことが発露し、一昨日二十三日監獄本署へ護送になりにし。

〈編者註〉林家延若は名古屋の二代目林家延玉の弟子と思われる。

明治1746日 朝日新聞

◇東京落語家の中にて若手の上手と謂はるゝ土橋亭りう馬は、頃来(このごろ)来阪、去る二日の夜より堀江の賑江亭へ出席して得意の人情噺を弁じ、非常の佳評を得ていると云ふ。

〈編者註〉この土橋亭りう馬は五代目。本名金子金吉。舟遊亭志ん橋門人志ん吉から二十代半ばで、里う馬を襲名。人情噺を得意としたが、明治二十六年十一月に三十八歳で没した。

明治1749 京都絵入新聞

◇(前略)予て新京極六角下る笑福亭の席へ昼夜出勤して木屋町仏光寺橋辺に居る落語家の好男子(自分の気では)笑福亭福松(二十八年)大哥(あにい)は誰云ふとなく豆狸と有難(ありがたい)綽号を蒙り、後幕にまで狸の豆腐買小僧を描きしを貰ひし位の好男子(ホイ又出た)ゆゑ、後家、婢女(げじょ)、乳母、芸妓、娼妓、小婢、子守、平野の巫女、女髪結、楊弓場女、茶屋女、素人娘、女按摩或は巡礼、古手買の中歯(としま)等へ矢鱈に当込で、随分新聞紙上に浮名を流した事も有ツたが、曩頃から卒見(いざみ)にごんせ、八坂新地川端四条下る町の斎藤初菊(二十二年)と(後略:駈落ち騒ぎを起こしたという痴情一件)。

〈編者註〉初代笑福亭福松は豆狸の綽名で通っていた。このころすでに大文字屋の踊りを得意としている。

明治17418 京都絵入新聞

◇大坂南地法善寺境内の講談席主なる講談師石川一口翁が本社の紙上に陸続掲ぐる「玉兎梅由縁彩色」を講ぜむと此程より門人の口山に写本に筆記させ居しが、概略出来上りたれば大団円を待て同席に於て読出すと云ひ、其後夏の納涼頃に新京極道場の講談席に於て演ずるとの通信が有ました。

明冶17410日 奥羽日日新聞

◇豆太夫  仙台立町通の玉木座へは一昨夜より、東京初下り座敷浄瑠璃が興行になりしが、太夫は竹本豆太夫、鶴澤福之助の連中に、スケは新内節鶴賀補太夫、笑福亭語竹の昔話し等にて、尤も豆太夫は当年五年八ヶ月の子供なれど、中々上手なりとの評判。

明治17417日 朝日新聞

◇当地の落語は所謂千篇一律、只人を笑すのみに止りて更に世を益する無きは云に及ばず、喜怒愛楽の感を与る事さへ浅きを嘆き、博労町の織田某は新町九軒の落語の席を引受けて、規則を改め、東京下(くだり)の土橋亭りう馬橘屋橘之助等の一座を雇入(やといいれ)、木戸銭も成丈廉価(やすね)に成し、漸次(しだい)に旧習を一洗するの目的なりとか。是も一つの美挙と謂べし。

明治17423日 朝日新聞

◇新町扇屋の席は今度表廻より舞台を改良し森岡三木松、同鶴栄等一座の舞ざらへを去十九日より興行して居るに、殊の外大入にて近来の大人気なりと。

明治17427日 東海新聞

◇席開き  寄小屋では第一等とも云う可き大須門前の大門亭は、是迄松崎龍玉が持席なりしが、例の不景気にて維持方に困却の餘を今般元巡査とのを奉職に居さる勝野某に譲り渡せしを以つて、勝野は席開きとて、落語家にて随分贔屓を取りし林家花丸の一座を聘し、一昨二十五日の夜より開場せし。今の不景気にも拘らず一方ならぬ大入なりしと。然るに如何なる事由のことにや、席主勝野某は前晩其筋へ拘引されしと云う。

〈編者註〉林家花丸は、本名菊本友吉。初代林家菊丸の息子で、二代目菊丸の弟。明治二十年頃迄名古屋にいたようで、名古屋では芸妓などに随分人気があったそうだ。

明治17429日 日本立憲政党新聞

◇落語営業中止 大坂の落語家桂錦枝、野上岩吉の両人は引続きたる不景気に前座も叩きかねてか、十六年度の営業税を第三期までも怠納せしより、遂に財産公売の処分を受け其の営業を停止されし由。

〈編者註〉桂錦枝は桂鰕玉の前名で、この錦枝は二代目と思われる。『落語系図』の明治二十六年の番付に「桂錦枝」とあり、もし同人ならばこのあとも噺家を続けていたのであろう。

明治17430日 日本立憲政党新聞

◇大坂の講談師前川南滄は昨今北区鳥居筋の寄席に於て「紀の国文庫」と題し彼の義人戸谷新右衛門氏の小伝を読み居るに非常の人気なりとの事。

明治1753日 東海新聞

大須の寶生座に於て昨日午後六時より東京にて有名なる講談師桃川燕林及び桂文之助其他数名が講談会を開きたり。

〈編者註〉初代桂文之助、後の曽呂利新左衛門。

明治1756日 日本立憲政党新聞

◇寄席の弊 近頃大坂市中の人寄席にて毎夜客に鬮をとらせ、其中四五本の当り鬮を抽きたる者へは帰途の車賃をやつたり、甚しきは芸娼妓の花何本杯と書いたるを渡して客の機嫌を取り、併せて之を遊廓に誘ふ杯のこと行はるゝ由にて、其筋にては之を聞込まれ、先其取締をなさんが為め此程遊廓の取締を経て貸席業仲間へ夫等の注意を申付けられしといふ。

明冶17513日 函右日報(浜松)

◇去る九日より、落語家司馬竜橋の一座が浜松井升座にて興行せしに、毎夜中々の大入なりしと。

〈編者註〉司馬竜橋(或いは土橋亭)は本名藤井久五郎。長野県出身。明治十八年に上京して円朝門で三遊亭円龍を名乗る。明治二十一年に地元長野の東亭の席亭となった。

明冶17516日 京都絵入新聞

◇錦影絵 近来は目新しき趣向を思ひつかぬと見物が薄いと云ふ習慣に成た処から、此度新京極三条南入る坂井座の隣りの興行席に於て当社の新聞紙上に載た奇事珍説を面白く脚色(しくん)で錦影絵の興行を初めるので、差当り「姥桜散朝風」の政七がお梅殺しと裏寺町の中川お登久が土岐法住と云ふ僧侶に痴情の果の嫉妬で傷を負され眼を抉(くりぬ)かれし一件を脚色、其他種々の珍説を面白く見物さすとか、サア評判ぢや〳〵。

明冶17521日 京都絵入新聞

◇三寸の舌克く一侠客を伏す 一昨夜の事なりとか新京極道場の千切屋席で大坂の講釈師木村一瓢が浪花侠客伝を演じ演酣(たけな)はにして、サテ何方も御案内の通り大坂の長町と申す所ろは非人や掏児(すり)の沢山住む所にて、中には賭博師も多く居り升が、この賭博師とても人から親方〳〵と崇らるゝ位いでなければこの長町で賭場を張る事は出来ませぬ云々と、例の蘇秦張儀の弁をふるひて滔々と演ずる折しも、最前より傍観(わきみ)もふらず一心に一瓢の演ずる事を三七の別嬪を連て聞居りし一個の侠客、つか〳〵と一瓢の傍に進み、己等は大坂でチツトやソツトは人に知られし難波の福と云ものだが、聞て居りやお前は大坂の者でありながら大坂長町の事を無闇矢鱈と悪ざまに言譏るが全体何いふ料簡だ、返事の模様ぢや仕方があると薮から棒の詰台詞に、此方の一瓢は抜らぬ顔の其処が商売柄の口先で程よく語魔化したと見え、福的もヤツト納得して連の別嬪共々立帰りしが、如何土地贔負だとて講釈までに気を支(さえ)るとはテモマア。

明治1766日 東海新聞

◇水芸 一昨夜より開場せし栄町廣栄座にて興行する養老瀧翁斎の水芸は中々の人気なり。

明治1767日 東海新聞

◇富本座 去四日より當区富沢町の富本座に於て興行する常盤津にて上等株なる東家こまの助の三味線は、曲引が余程上手の由にて中々の好評判にて、又景気を取らん為め毎夜木札を看客の中へ数十枚投げ入れ、拾いし者は其記号にて手拭或は団扇又は簪を土産に出すと云う。

〈編者註〉初代東家小満の助。本名志沢たけ。安政三年生まれ。幼少より寄席に出、音曲にすぐれ、特に常磐津、トッチリトンを得意とした。のち四代目都々一(坊)扇歌を襲名する。

明治17629日 朝日新聞

◇御霊神社裏門前、前川南滄所有の講談新席にては、本社新聞に掲げたる食山人が講談師に望む云々の投書の趣意に基き、該席の所有主南滄と石川一口が発起と成り、来月一日より府下の諸講師を会し連日講談研究会を開きて該業の改良を計ると云ふ。

〈編者註〉上記の食山人の記事は、明治17624日付「朝日新聞」に掲載された「我国の下等社会が侠気に富るを論じ、併て講談師に望む」というもの。

上方落語史料集成 明治17年(1884)7月~12月

明治1771日 東海新聞

◇大繁昌  當地の落語家桂文福林家福助及び南北の三名が、福に縁故ある福井県下へ過般出稼ぎせしが、近来の不印にも拘らず非常の大入にて、日数が僅か十有余日にて一百余円の利を占めると或る仲間の許(もと)へ通報ありしと。

〈編者註〉林家福助は明治二十年八月に亡くなった桂福助と同一人物と思われる(明治20818日付「愛知絵入新聞」)。南北は三味線の曲弾師の東西庵南北か。

明治1782日 東海新聞

◇當区富澤町富本座に於て昨夜より上等講談師小林天山が勧善懲悪の軍談を演ずる由。

明治1787日 京都絵入新聞

◇涼み噺し  今七日より新京極三条南入る坂井座に於て大坂で有名の落語家桂文団治米団治正団治小団治歌団治、鶴賀金蝶、二蝶等の大一座が人情昔噺し、新内、軽口等の興行なし、客へ土産として涼しい品を呈すとの事ゆゑ大入叶で有満証(ありましょう)。

〈編者註〉初代桂文団治、桂米団治(後の二代目文団治、七代目文治)、桂正団治(初代桂文団治門人)、桂小団治(初代桂文之助、後の曽呂利新左衛門人で桂かしくと名乗っていたが、初代桂文団治門に移ったため小団治と改名したと思われる)、桂歌団治(後の五代目笑福亭吾竹)、鶴賀金蝶、二蝶は新内。

明治17829日 朝日新聞

◇東京落語家土橋亭りう馬は、当地各席にて非常の声価を博せしが、今度神戸楠公社内の席より招きを請て下り、得意の人情話(つづきもの)を演(のべ)るといふ。又岸沢節三絃(しゃみせん)の妙手を以て東京女芸人の領袖(かしら)と仰がるゝ東家駒之助は、頃来当地へ乗込、来る九月一日より法善寺、淡路町、曾根崎、賑江亭等の各席へ出張して妙技を奏するといふ。定て三絃の声と共に声価を府下に鳴すべし。

明治17831日 朝日新聞

<淡路町幾代席の新装開業>

◇大阪は東京に次ぐ繁華の地にて何事も多く彼地に譲らぬを、只寄席の構造(たてざま)のみ太く劣りて、多くは黒暗(くら)く汚穢(むさ)く、殊に衛生上に緊要なる空気の流通あしければ、夏天(なつむき)は尚更客人の苦情を惹きたるを、淡路町幾代の席主爰に感ありて、本年の土用休みを幸ひ旧席を取崩して、新(あらた)に明るく清く空気の流通好き席を営み、一昨二十九日府下の同業諸芸人並に平生愛顧(ひごろひいき)の客人等を数十名招き、北地の芸妓舞妓十余名に席上を周旋させて、盛なる席開きの祝宴を張りたり。又出方の落語家も此席の建築と共に是迄の弊習を一新し、成丈(なるだけ)新奇なる談話を演じて一層来客の娯楽(たのしみ)を厚うするとの事、殊に東京新下りの駒之助にお馴染の橘之助の両別嬪が岸沢と清元の競争をするとの事なれば、一入の大入大繁昌を占るならん。但し明一日夜より開場するとのことなり。

〈編者註〉幾代席は明治六年頃、淡路町五丁目に出来た寄席。席主西村元蔵。今年全面改装し、大阪一立派な寄席に生まれ変わった。明治二十六年秋に落語界が桂派と浪花三友派に分裂したとき、桂派の牙城となった。

明治17831日 朝日新聞

◇講談研究会発起人前川南滄は井戸の辻席大入にて来月へ持越し、又堀江賑江亭にて来月一日より同研究会を開くといふ。

明冶17914日 函右日報

◇浜松連尺町の井升亭には、今度、東京落語家の朝寝坊むらくの一座にて、去る十一日の夜が初日にて中々の大入。

〈編者註〉この朝寝坊むらくは五代目。本名鹿島五兵衛。二代目馬生、二代目円生の門下であったが、後円朝の弟子となり、円鶯からむらくを襲名。地方回りが多かった。明治三十一年四月没、亨年七十才。

明治17921日 朝日新聞

◇常盤津の三絃引にて名人の聞え東京に高き宝集家金蔵の高弟宝集家鉄太郎は、先年来当地に来(きたり)、歌沢芝千と名乗、各花街の芸妓を始め素人にも端歌を教てをりしが、今度各席の招きに応じ夜分丈席へ出る事を諾し、旧芸名宝集家鉄太郎の名にて来る二十三日より堀江の賑江亭、南地の竹横亭、曾根崎の幾代、此三席へ出て常盤津の引語(ひきがたり)を為すとの事、定て聞きものなるべし。駒之助の岸沢、橘之助の清元、鉄太郎の常盤津、以て音曲家の三幅対といふべきか。

〈編者註〉宝集家鉄太郎は不詳。

明治17921日 京都滋賀新報

◇講談師大発奮 此程長崎に居りし三遊亭円喬と云ふ講談師は、仏清戦況の実地を目撃して高坐に述べんと思立ち、去る十三日同地発の郵船にて上海へ渡航したるよし。

〈編者註〉この円喬は本名永瀬徳久。明治十年代には政談演説をやっていたが、三遊亭円喬を名乗って落語家になった。自称だったらしく、四代目三遊亭円生の前名三代目三遊亭円喬、その名をもらった四代目橘家円喬とは関係なく、円喬代々には数えられていない。その後露の五郎兵衛、円寿、円相などと改名しながら京都、神戸、大阪の寄席に出ていたが、東京に戻って明治二十八年全亭武生と改名、明治三十一年に六代目朝寝坊むらくを襲名した。(『古今東西落語家事典』の「六代目朝寝坊むらく」の項参照)

明治17105日 朝日新聞

<桂小文吾、二代目桂文三を襲名する>

◇当時兵庫楠公社内にて興行している桂小文吾は、今度師匠文吾の師匠なる文三の名を継ぎ、右名広めの披露として今日、明日同席にて大寄をなし、当地よりも橘屋橘之助吾妻屋小満之助の両音曲家も出席する由。

明治171014日 朝日新聞

◇前号にも一筆記せしが、落語家小文吾は今般師匠文三の名を継ぎ、其改名披露として来る十六日昼夜淡路町幾代、十七日夜曾根崎幾代、十八日昼夜法善寺、十九日、廿日両夜堀江賑江亭等にて大寄を催すといふ。

〈編者註〉小文吾は三代目桂文吾(山寺の文吾)門人。男ぶりがよく、芸妓たちにもよくモテた。茶屋噺は天下逸品で、その技量が認められたのか、二代目文枝の前名文三を二代目として襲名することになった。提灯屋の息子で、「提灯屋の文三」の綽名で通っていた。

明治17115日 朝日新聞

◇曲引十八人芸をもつて琵琶、三絃、横笛、尺八、赤子の啼声、妻恋ふ猫の噛合の声色と共にその名吾浪華津に鳴わたる瞽者立川明学は、今度東京の各寄席より招待を受け、来る十五日頃より上京するを以て、南堀江新生楼に於て華々しき離別の宴を開き、法師並に同業の落語家、諸芸人、各寄席の主人、愛顧(ひいき)の人々、且各新聞社員等百数十人を招き酒肴の饗応を為したり。是迄諸芸人の習慣(ならわせ)は寄席の主人等へ多少の迷惑を掛け、夜逃同様の始末にて東京へ出る者多きを、此人の如く盲目不具の身にしてさる不品行なく、此く目出度く出京するは頗る奇特の事といふべし。完全の諸芸人、為に耻るところなからんや。

〈編者註〉立川明学は福岡出身で、西国坊明学とも名乗る。明治十三年頃から十六人芸を看板に寄席に出ている。今回が初めての東上。

明治17115日 中外電報

<新京極幾代席の新築落成>

◇新京極通り蛸薬師前へ、今度大阪曾根崎村の幾代が三層造りの興行席を新築為(し)たるが、此地所建家の金額は四千七百余円にて、明六日開場式を行はんとて、本日午前に当時幾代の配下となれる落語家七十余名を大坂より引き連れ来り、人力車にて市中を乗廻り新席に着し、銘々得意の饒舌を振ふよし。尤も今回開場する以上へ七十余名の落語家を大約一週間目ぐらひに大阪神戸より交代させ、多く新説を吐せ、且従来の如き猥褻醜態のことは述ざるやう注意するとか。依て明日より三日間、来客へ手拭一筋づゝを贈らんとて既に二万筋の手拭を染させたりといふ。

明治17117日 中外電報

◇前号にも記せし新京極通東側町幾代の新席開業式は、正面に「大入に付場所無御座候」と書し掛札を飾り、之に魚酒を供へ、造り花数種をその前に列ね、芸人惣代として取締人桂文吾が祝文を朗読し、席元幾代之が答辞を述べ畢て祝酒を出す。三階は賓客、二階は下京六組東側町及び五組弁慶石町の席とし、来会者無慮二百余名にて、酌人として先斗町の芸舞妓数十名これに侍せりといふ。

明治17117日 朝日新聞

◇淡路町寄席幾代の席元は、今度京都新京極へ立派なる新席を建築し、去る五日席開きの祝宴を催ほせしが、其日の概況を記せば、当地より席元其余席掛の者を始め、寄席へ出場する諸芸人、落語家、音曲家及び招待に預りたる各新聞社々員、愛顧(ひいき)の諸客、宴席の周旋の為招きたる北新地、新町、堀江の芸妓等、無慮百数拾名、二番汽車に乗込て梅田停車場を発し、七条の停車場に着するが否や、予て用意せる腕車(じんりきしゃ)(各新聞社員の乗車には何々社と紫地に白く染抜き、諸芸人の乗車には桂誠組と白地に赤く染抜たる小旗を掲げたり)に乗り込み、一列に新席に乗付たるは中々目覚しかりし。

夫より予て新席に来合せをる京地の諸客と共に楼上楼下に居並び、桂文三師匠、文枝病気につき名代として開場の式を為し、桂文吾祝文を朗読し終つて盛なる酒肴の饗応あり。大坂より携へ行きたる数名の芸妓の外に、先斗町の芸妓君勇、お政、舞妓小君、種鶴等数名来たりて酒興を添へ、音曲の合奏、舞踊等ありて実に盛なる景况なりし。落語席の開業にかゝる盛宴を張しは京阪にては是ぞ嚆矢ならん。

サテ祝席に連なりたる落語、音曲両家の重なる者は文都、三馬、りう馬、こまの助、橘之助、文吾、明学、里朝等にて、又昨六日より昼夜の興行にて、出席の一座はこまの助、りう馬(東京新下り)、文吾、文我、文三等なりと。因に云ふ、出席の芸人は大阪連のみに限り、三十日に一回づゝ交替するとのこと。

〈編者註〉二代目桂文三、二代目桂文枝、三代目桂文吾、初代桂文都(後の月亭文都)、翁家さん馬、土橋亭りう馬、東家小満之助、立花家橘之助、立川(西国坊)明学、徳永里朝、初代桂文我。

明治171115日 朝日新聞

◇[広告]小生儀未熟なる講談を以て久しく群客の御愛顧を蒙り、長く御耳を涜し来り候処、今度或る御客様のお進めにより、残念ながら同業を退き他業に従事致候。付ては来る十六日法善寺内の席に於て引祝ひのため府下の講談師を集め講談の大寄せ、中へ落語、音曲を加へ、傍聴無料にて興行仕候間、御誘ひ合され続々御来車の程奉願上候以上。/催主石川一口

明治171116日 朝日新聞

◇府下有名の講談師石川一口は今度講談業を止て劇場(しばい)作者に転じたりとて、右転業祝ひに美麗なる刷物、扇子等を配り、今十六日法善寺境内の自席に於て転業祝の大寄(無料)を催し、府下諸講談師は勿論、落語家にて文都三馬、音曲家にて橘之助、手品師にて正若等が出席すると云ふ。

明治17126日 朝日新聞

◇新狂言作者石川一口が催しにて、戎座当興行打上次第、同座、中座三劇場合併の道戯演劇(どうけしばい)を興行し、三枚目の別部屋株が立役に廻り、狂言は太功記、二十四孝、扇屋熊谷などミドリに出し、延若、宗十郎、右団次の三優が後見に出るといふ。

明治171211日 東京横浜毎日新聞

◇来る十六日より、両国の寄席新柳亭と茅場町薬師境内の宮松亭との両所へ出る西国坊明学といふは、兼て大坂にありて立川明覚といひし評判の芸人にて、琴、琵琶、浄瑠璃、物真似、仮声(こわいろ)、其他何でも好み次第の芸をするといふは珍らしき事也。

明治171221日 朝日新聞

◇評判の立花屋橘之助は来一月一日より京都京極幾代の席へ乗込み、吾妻屋古満之助[東家小満之助]とと交退して例の清元の妙音を鳴すといふ。

明治171225日 中外電報

◇新京極一斑 日外の紙上にも記載せし如く新京極は一昨年よりは昨年、昨年よりは本年と其衰微甚しく、追々困難の有様なれど、同所には一種特別の気風ありて不景気の迫るに従ひ益(ますます)思考を立る者出て来り、不景気が却て各自の競争となれり。向に氷店が励商場となり、直ちに変じて興行席となれるが如く、今また桜之町の興行席笑福亭「噺席」を修繕中なるが、此小家主は同組先斗町の金満家と聞えたる高橋太三郎の所有にして、今回更に三千円の金を抛ち、建物木柄は悉皆桧造りとし、上下に桟敷を構へ、敷物を敷つめるよし。其招牌台は黒檀□にして凡金二百五十円なりといふ…。

明治1712月吉日より <落語家芝居・天満大工町芝居>

外題:入高積黄金大湊(いりこずむこがねのみなと)

【配役】

高野師直・斧定九郎・寺岡平右衛門・高木次郎太夫・南郷力丸・鳶の者米造・伊達外記左衛門・工藤左衛門祐経 市川米団治(桂米団治。後の二代目文団治)

仲居お梅・娘小浪・加藤与茂七・伊達頼兼・傾城喜瀬川 中村小団治(桂小団治。後の二代目桂文之助)

太鼓持政八・工藤犬坊丸 実川政之助(不詳)

鷺坂伴内・母おかや・仲居おみや・山名宗全・番頭与九郎・駒形久馬・朝日奈三郎 中村篤団治(桂篤団
 治
。後の桂家雁篤。軽口)

亀井隠岐の守・百姓太郎作・太皷持助六・奴助平 市川助子(不詳)

小姓金弥・仲居おかつ 尾上小円(不詳)

梶川与三兵衛・仲居おらん 市川団蝶宝(不詳)

種ケ島六蔵・一力亭主・百姓与一兵衛 嵐由之助(桂由之助。後の桂団輔)

狸の角兵衛・矢間重太郎・三木求女・刑部鬼貫・料理人喜介・浜松屋孝兵衛・近江の小藤太 市川歌団治
 (桂歌団治。後の五代目笑福亭吾竹)

   ……………………………………………………………………………………………………………

早野勘平・七つ目弥五郎・三二五郎七・鳶の者梅吉・仁木弾正・曾我十郎祐成 坂東梅団治(桂梅団治。篤
 団治と軽口を組む)

仲居おたつ・傾城菊代・梶原景時 尾上小円(不詳)

赤井太郎・鬼王団三郎 市川団蝶宝(不詳)

桜木源吾 実川政之助(不詳)

百姓畑作 嵐由之助(桂由之助。後の桂団輔)

大星力弥・沖の井・千崎弥五郎・按摩米市・前野左司馬・赤星重三 市川米八(不詳)

加古川本蔵・一文字屋才兵衛・竹森喜多八・浜松屋孝三郎・湯女おたま・熊井源吾・八幡三郎 大谷福助
 (笑福亭福助。あま福)

めっぽう弥八・太皷持亀八・奴宅平・髪結新平 中村歌女七(不詳)

渡平銀平・奴早平・忠信利兵衛・備前大藤内 嵐由之助(桂由之助。後の桂団輔)

腰元おかる・斧定九郎・妾司太夫・名古屋山三・弁天小僧菊之介・渡辺民部・大磯のとら 市川米朝(桂米
 朝
。のち三代目文団治)

大星由良之介・塩谷判官・原郷右衛門・不破伴左衛門・鹿間大九郎・細川勝元・曾我五郎時宗 実川正団
 治(桂正団治。初代桂文団治門人)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 大阪篇』第一巻より作成。配役名のあとの(  )内の芸名は編者が施した。

 

プロフィール

丸屋竹山人

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