明治18年

上方落語史料集成 明治18年(1885)1月~6月

明治1811日より 「桂文我出席控」二冊目・一丁表

明治十八年酉一月一日より天満天神亀の池ひる席

小満の助|小文吾改文三|都治改万光 玉助 枝の助 文吾 昇壽 文橋改梅枝 南光|さん馬|はやし 里う|サゲビラ 文我

〈編者註〉「桂文我出席控」とは初代桂文我(文我自身は二代目と称しているが、現在はこの文我を初代とする)が明治十二年三月十五日から大正元年十一月十五日まで六冊に分けて自分が出た寄席の出番を書き残したもの。文我の死後、五代目笑福亭松鶴が所蔵していたが、三冊は散逸し、二冊目、四冊目、六冊目が現存している。また五冊目は原本はないが写本が残り、これら四冊は大阪芸能懇話会の有志により影印、翻刻、註釈をつけて平成九年から十三年にかけて刊行された。ここに掲出したものは現存する「桂文我出席控」二冊目の一丁表である。上方落語史をたどる上で実に貴重な記録であるので、本来なら当ブログでこれを順次載せていくべきなのであろうが、それはあまりにも厖大にすぎる。幸い大阪芸能懇話会によって丁寧な復刻版が刊行、発売(当ブログ「はじめに」参照)されているので、そちらを参照されたい。以下に今回の註釈を記す。

小満の助 東家小満之助。東京の女流音曲師。後の四代目都々逸扇歌。

文三 もと三代目桂文吾門人で小文吾。昨年二代目桂文三を襲名する。提灯屋の文三。

万光 二代目桂万光。桂文都門人都治、二代目桂文枝門に移って万光となる。

玉助 桂玉助。後の三代目桂文都。

枝の助 桂枝之助(初代か)。

文吾 三代目桂文吾(山寺の文吾)

昇寿 不祥。

梅枝 二代目桂梅枝(オッペケペーの梅枝)。二代目桂文枝門人文喬より梅枝となる。

南光 桂南光。後の桂仁左衛門。

さん馬 五代目翁家さん馬。

明治1811日 中外電報

◇新京極の落語席

▲三条下る西側の席 笑福亭木三松の人情続物語咄。

▲新京極六角下る西側の笑福亭の噺席 今度新築して桧木造の美麗なる席となりしが、本日開業式を行ひ来客へ景物を与ふるよし。

▲新京極蛸薬師の幾代の噺席 これ迄の通りにて引続き興行。

編者註〉笑福亭木三松は二代目木鶴の息子。本名佐藤喜三郎。父ほどの腕はなかったようで、色々改名を繰り返し、最後は笑門亭福来という軽口師になった。

明治1826 今日新聞

◇西国坊明学 此頃西国とか阪地(かみがた)とかから新登りの明学といふ盲目の大坊主は、十六人芸と唱へて義太夫節のでたらめ文句を弾語り、尺八、横笛を吹鳴し、琵琶を弾じ、謎を解き、小唄を謡ひ、早言に饒舌(しゃべり)散らし、円い頭上をやたらに敲き、我面白の聴功者には甚太(はなはだ)感心はせぬ駄芸ながら、下等の人気を引寄せる客取にて、婦女童蒙を受させる妙処を得たり。其第一の呼者は春夏秋冬その外の小唱のはやしに「運動セイ〳〵足を揃へて運動セイと私がいふたら聴主(ききて)の諸君御一同にヒヤ〳〵と賛成(ほめ)て下され」と高座の前の童子等にくれ〴〵も頼み置、運動セイの替唄に「色の世界にナァア電信架て続たよよりが末の為、勉強セイ〳〵石版持たして勉強セイ」と唄ひ終ると前の子供が一同ヒヤ〳〵と叫ぶに、此発声席亭の戸外に響き往来人も何事やらんと内に入て聴気になり、毎夜何処の席にても大入を取るといへり。(下略)

〈編者註〉十六人芸の立川(西国坊)明学。明治十七年十一月に上京し、寄席通には受け入れなかったが、婦女子にはたいへん人気があった。

明治1843 日本立憲政党新聞

◇落語家の申合せ 「甚兵衛さん居てゝか」「イヨ町内の人気男」と替るも替るもトツト旧いのばかり幾重にもお詫を蒙るとて、さうさう同じ旧い落語ばかりでは今日の世の中お客様へ対して啻に相済まぬのみならず、フン落語か詮もないと頭から軽蔑されて、終には各自が鼻の下の干上る訳なればと大坂の落語家一同心配する中にも、同業取締桂文吾の如きは一層そのことに尽力し、迚も学者先生の演説の真似などは出来ぬことにもせよ成丈け目今の人情に嵌る様、たとへ耳学問でも大事ない、勉強して、責めては滑稽演説の風にでもしたいものといひ出せしより、一同実にもとその説を容れ、予て種々改良方の相談中の由なりしが、今度いよいよ毎日一回づゝ研究会といふを開き、聊かづゝにても改良の方へ歩を向けんとのことにて、即ち来五月よりこれを実行するといふ。

又た来十九年三月が大坂落語家の中興と仰ぐ桂文枝の十三回忌に相当するに付、来年のこととて鬼に笑はれても構はぬ、その節は下寺町遊行寺なる同人の墓前に於て立派に祭典を行はんと是亦た右文吾の発言に一同賛成、誰とて故障をいふ者もなく、各自給金の内より若干づゝを醵出しその費用に宛てんと今より積金を始めたりとのことなるより、新町の末広亭、堀江の賑江亭、淡路町の幾代亭等の各席主もこれを賛成し、共にその準備に尽力なし居るよし。

〈編者註〉文吾は噺そのものはそう上手でなかったらしいが、会の開催、年忌の執行、喧嘩の仲裁等仲間内のことはなんでも引き受ける面倒見のよさがあり、落語家仲間から取締役に選ばれている。このころ名前が新聞に載る回数がたいへん多く、文之助といい勝負をしている。

明治18410 自由燈

◇明後十二日東両国の井生村楼にて催ふす第九回亦有会は、三遊亭円右、松林伯知、古今亭しん生、西国坊明学、春錦亭柳桜、芳村伊十郎、岡安喜三郎等なり(編者註:演目等省略)。

明治18412 日本立憲政党新聞

◇軍談席の改良 大坂市中の各軍談定席にてはお定まりの太閤記、難波戦記、岩見重太郎一代記なんどは聴客の既に聴飽きて、自然と隠居さん方のお運びも足遠となる筈なれば、向後は何でも新奇な演題を出し、且つ毎夜後段の一駒に於ては聴客の所望に応じて即席講釈を以て御機嫌を伺はんと目下示談中なりとか。改良の上は毎夜お早々とのお運びを偏に願上奉るパチパチ。

明治18417日 名古屋絵入新聞

◇本日と明日、大須福寿亭に於て、軍談師三代目水雲斎竜玉が会主となり、初代水雲斎竜玉の十七年忌並に二代目松崎竜玉の三年忌の追善軍談会を催すよし。尤も当地滞在の軍談師一同も出席すると云う。

〈編者註〉初代水雲斎龍玉はに田舎焉馬の子で、明治二年に駿府清水で亡くなっている。二代目は初代の弟子で、明治六年頃に襲名して明治十五年に没。三代目は、二代目の弟子で、小龍玉から明治十七年三月に三代目を襲名した。

明治18419日 名古屋絵入新聞

◇[広告]講談三幅対/古今稀珍談 小林天山 近世五人小僧 高田伯竜 絵入新聞慶応曽我水雲斎竜玉/本月十八日夜より/七間町富本

明治18423日 朝日新聞

◇[広告]小生儀這回都合ニ依リ自後芸名ヲ左之通リ改候、此事江湖知己ノ諸君ニ報道ス/高宮南鶴事 東京講談師 浪花南竜

明治18430 今日新聞

◇西国坊迷惑 石盤抱へて勉強セイ、足並そろへて運動セイ、と一流の小唄から聴衆がヒヤ〳〵の空賛成に童子受のよい迷惑(イヤ)明学という盲目芸人(本名日本橋区久松町三十七番地落語家長野明学三十七)は、一昨夜八時頃京橋の金沢亭で同所へ出席の前坐、落語翁家だるま(本名中村勘三郎)とつまらぬ事の口論より、明学坊もめくら滅方闇探りに天窓(あたま)をはり子の達磨の顔は真赤になり、在あふ湯呑の茶碗を以て明学のまる〳〵頭上(あたま)へ四ケ所の浅傷を負はしたので、楽屋の混雑、客の動揺、二階を下とかへす内、明学は席を飛出し、京橋際の派出所へ訴へ出たので、巡査末永与一氏が金沢亭へ出張されると、最早だるまの勘三郎何方(いずかた)へやら逃去りしに、明学坊は勘三郎をよ呼出しを願ふた末、此近辺の病院にて今日もまだ療養中の由。だるまも足のある者ゆえ一端は逃出したが大方自首と出かけたか、乍麼(そも)さん如何。

〈編者註〉翁家だるまは本名が中村勘三郎とあるので、六代目翁家さん馬だと知られる。『落語家事典』には明治十七年にさん馬を襲名したとあり、「だるま」を名乗っていた事実は書かれていない。この噂を伝え聞いて大阪の「日本立憲政党新聞」(53日付)が記事にしているが、そこには翁家さん馬と書かれている。本当に「だるま」を名乗っていたのか、ただの綽名なのか、真偽は不明である。ついでながらこの時期翁家さん馬は大阪の五代目さん馬(桂正吉)、東京の六代目さん馬(中村勘三郎)と二人いたが、五代目のさん馬は東京へ帰ることがなかったので、さしたる混乱もなかったようだ。東京のさん馬は後に六代目三笑亭可楽となる。

明治1851日 朝日新聞

◇[広告]今般諸家様の以御陰を、今宮戎南門前西へ入南側に於、席貸開店仕、尤四季艸花并丁字湯、来る五月一日より相始め候間、賑々敷御来車の程偏に奉希上候也/桂文団治事塩鯛亭/文団治先名譲請貴若亭米八改二代目桂米丸

〈編者註〉初代桂文団治。眼窩の窪みから塩鯛の通名があった。米八から初代文団治の前名を継いだ二代目米丸については伝不祥。現在は桂小文治(稲田祐次郎)の米丸(大正五年襲名)を二代目としている。

明治1853日 朝日新聞

◇橘屋橘之助 清元の音曲を以て久しく当地に鳴りたる同人は、去年来京都京極幾代の席にて興行してをりし処、今度兵庫楠公社内湊席の招きに応じ一昨日より該地へ乗込みしが、例の曲節の妙と三絃の巧みなるとの二つを以て非常の人気なりと、彼地の通信の端に見ゆ。

〈編者註〉立花家橘之助。東京の少女音曲師。明治十三年一月より京阪各地の席に出ている。

明治1853 日本立憲政党新聞

◇高座で喧嘩 荒木又右衛門、宮本武三四の両刀遣ひより猶ほ多能にて、八人芸を倍にした十六人芸で評判を取りし流石の明覚坊でも、喧嘩と来ては一人前だけ飛んだ怪我をさせられた気の毒話は、東京銀座一丁目の寄席金沢亭にては、京坂に倣ひ此程より彼の大寄を催し、毎夜毎夜出方の替る中、一夜翁家さん馬(これは大坂のとは同名異人)と十六人芸の明覚坊と落合ひしが、虫の居どころの悪かりしと見え、高座へ上りたる時互に何か例の当てこすりの悪口を吐き合ひ、終に双方堪兼ねけん、高座の上をも憚らず見台の音ドサクサの取組合となり、明覚は彼の白い目をむき出し、暫しゴツタかへす中、遂に円顱や手足へ四五ケ所の傷を負ひしかば、憤起となり、師匠それでは外聞が悪い、マア待ツた静にと、他の出方等の止めるも可かず、直に京橋警察署へ斯くと訴出でしを以て、一同其侭拘引とは飛んだ落語の種蒔きさん馬。

明治1856 日本立憲政党新聞

◇提灯持 大坂の落語家彼の桂文団次は今度その芸人の足を洗ひ正業に就くといふ程ならねど、時々落語の引合に出る西成郡今宮村なる耳の遠い戎神社近辺へその綽名に因む塩鯛亭といふ茶店を出せしに付、御贔負さまへ宜しく御吹聴を願ふて呉れとも何とも頼まれた訳ではない、例の饒舌りイヤ提灯持。

明治1858日 朝日新聞

◇新講談 御霊裏の講談師前川南滄は彼仲間に於ては一見識ある人物の由なるが、予て易学に熱心にて、過日来自席にて傍聴無料にて易の講義を誰にも分るやうになし、又此程より安土町学校前富貴湯の席にて同(おなじ)く傍聴無料にて、中古以来の歴史につきもっとも面白く、且勧懲の益なる事実を撰びて講談し、其他に心学の道話に類似せる忠孝美談を演ずる由。又一種の変物(かわりもの)といふべし。

明治18510 日本立憲政党新聞

◇滑稽研究会 日外の紙上に記せし如く、大坂の落語家彼の桂文吾等の計画(といふ程でもあるまい)に係る滑稽研究会はいよいよ本日より西区北堀江の賑江亭に於て催すよし。扨その趣向は、発起人だけに文吾が伎長といふ名儀で落語の種を蒔き文都、文三等の所謂師匠株が伎員の席に就き、各自その得意の舌を滑らす筈にて、開会中何なりと穴を出せし客へはそれぞれ景物を進上するとのことなれば定めし人気に叶ふなるべし。

〈編者註〉落語研究会は従来の落語相撲を裁判形式に改めたもので、噺家(議員)が一席うかがったあと、お客がその噺の穴(欠点・矛盾)を指摘する。その指摘に対し、弁護士がおもしろおかしく弁護する。終ったあと、裁判長(議長)がどちらの言い分が正しいか判定を下し、お客の方が勝ったときは景品が渡される。景品はかなり豪華で、それを目当てで詰めかける客も多く、席主はほくほく顔だったが、落語の質をよくしようという本来の目的は度外視されたようだ。この時伎員(議員)を勤めたのが文都は桂文都、後の月亭文都。文三は二代目桂文三。

明治18516日 朝日新聞

◇落語研究会 堀江賑江亭の席にては過日より落語研究会といふを初め、議長は文吾、可楽の二人にて、或は洋服、或は袴を着用して椅子にかゝり、聴衆の中より落語の非難を入るゝを、弁護者の有りて之を説明し、若(もし)理非決し兼るものは議長之を判決する、随分目新しき趣向にて、追々此事の行はれなば多少落語の面目を改め、従来の弊習を稍除去るに至るべきか。

〈編者註〉可楽は五代目三笑亭可楽(本名原吉弥)。但し東京にも五代目三笑亭可楽(本名平田芳五郎)を継いだ人がおり、この可楽は京の可楽と呼ばれている。明治二十三年五月二十日没。

明治18531 日本立憲政党新聞

◇門付のやんちや 一寸トチヨボクレ奇妙頂来、去れば東西恐れながら、此処お聴に達しまする、ヘイヘイ兎角噺は古めかしい、と立交り入代り門先に来る阿呆陀羅経、浮れぶし、一口浄瑠璃、昔噺などの門付は、頃(このご)ろ大坂市中に目切(めっきり)増加して、中には己れ勝手に饒舌て置きながら後にて近傍の家々より銭を集め、若し出さぬ向のあれば、黙つて聴いて銭を出さぬは泥棒ぢや、などゝあられぬ悪口を利くもの少からず、何れも迷惑なし居るといふ。

明治1867 日本立憲政党新聞

◇滑稽研究会 大坂の落語家桂文吾等が企の滑稽研究会の第一回は去月末西区北堀江の賑江亭に於て催せしが、其第二回は来二十日より同区新町九軒の末広亭にて開会し、第三回は来月中旬より東区淡路町の幾代席にて開会する積なりと

〈編者註〉末広亭で行なわれた落語研究会に関する具体的な記事は見当たらない。

明治18616日 日出新聞

◇京坂間にては随分顔馴染の多き清元語立花家橘之助は、此程中より神戸楠公社内の席に興行中なるが、此処でもメキとした大人気を取り、有繋(さすが)は立花家丈だと遠近の評判、そのうへ同地元町の豪商が取別け同人を贔負にし、今度江州産の浜縮緬にて長さ二丈八尺の大幟を熨斗り其を社内に翩飜せし、以来一ト際人気の弥増しが、近々同地を打揚次第、直に大坂京都へ来り、夫より名古屋へ赴き同所で一興行した上、暫く東京に帰る心構にて、其土産に彼の大幟を持参するとの提灯持ち種。

上方落語史料集成 明治18年(1885)7月~12月

明治1871日 日出新聞

◇興行時間  京都にては演劇及び諸興行席の興行時間を別に一定せしこともなきに付、大概午後二時頃よりはじめ、はやきは午後十二時、遅きは翌日の午前二時乃至三時に至る者あり為に、参観者をして翌日睡眠を催ふさしめ、各自営業上に妨害を与ふるのみならず、また衛生上にも大いに害あればとて、今度その興行時間を午前六時より午後十二時に限ることゝ定めらるゝ趣むきなり。

明治1871日 東海新聞

◇寄席  當区の内の寄席はいづれも繁華の場所に多く構えたるが右は近傍に取りては迷惑の事も少なくならざんに付、近々静閉の地へ転席せしめられるの噂するが果たして然るにや。

明治1872日 朝日新聞

◇落語研究会 京都新京極幾代の席にて昨一日より落語の研究会を催せしよし。議長は例の桂文吾、論者は順枝、弁護は菊丸にて、追々此道の改良を謀り、且賑の為毎夜景物等を差出すといふ。

〈編者註〉順枝は二代目桂文団治(七代目文治)。すでに桂米団治を継いでいたが、師匠文団治との間に何か問題が生じたのか、米団治より順枝と改名した。さらに米橋(米喬)と改名し、師匠文団治(明治十九年九月没)没後の明治二十年に二代目文団治を襲名した。菊丸は二代目林家菊丸。盲人で、落語の新作に長じ、「後家馬子」「猿廻し」などの作がある。弁護の役を引き受けているのも頭の回転の速さを買われたためであろう。

明治18711 日本立憲政党新聞

◇落語研究会 京都新京極の幾代亭にては此程より昔噺しを会議体に擬し、噺家連の得意に依りて或は判穴疑長とか、戯員とか、弁誤人とか、不抜罪とか称ふる変手古なる名義を拵へ、互に誠しやかに誤議論を並べ立つる中に、穴あるときは見物人に拾はせて景物杯を与ふる趣向なれば、新奇を好む都人の常とて此世の中の不景気にも拘はらず毎晩二三百名の見物人があるので席主等は大喜びで居るとのこと。

明治1882日 東海新聞

◇廣栄座  先般本県より演劇場は官衛と離るる事一町以上にして他に妨害なき地にあらざれば建設を許されざる事になり、且つ在来の分と夫々移転せしめうるる都合の由なるが、夫れ故にや栄町廣栄座は今度他へ移転するに付一先づ廃業したりと。

明治18812 日本立憲政党新聞

◇落語研究会 目下大坂東区淡路町四丁目の幾代席に於て開会中なる落語研究会は、新奇の趣向と出方の勉強にて最と面白く、暑の折柄なるにも拘らず毎夜大入を占むる由なるが、同所は来十七日限り閉会し、更に同二十日より北区曾根崎橋なる幾代席に於て開会する積りなりと。別段席亭から頼まれもせねど例の口豆イヤ筆豆長うもなく短くもなく善い加減に吹聴すること爾り。

〈編者註〉「桂文我出席控」第二冊十丁裏にこの時の記録がある。それによると議長は二代目桂文枝、桂文吾、三笑亭可楽、弁護は林家菊丸と桂順枝、議員は桂梅枝と桂談枝で、八月一日より行われている。

明治18830日 朝日新聞

◇[広告]当九月一日ヨリ 通俗水滸伝 宇和島橋席ニテ 玉竜亭一山 出莚

明治1894日 朝日新聞

◇落語研究会 神戸楠公社内の落語小家にては此程より落語の研究会を開き、戯長は桂文吾なりと。

明治181018日 東海新聞

◇富本座  同座にて興行中の義太夫大会及び東京初下り東屋駒の助の端唄、都々逸は、非常の大当りにて毎夕大入なるに付、又一週間程も興行する由。

〈編者註〉初代東家小満の助。本名志沢たけ。安政三年生まれ。幼少より寄席に出、音曲にすぐれ、特に常磐津、トッチリトンを得意とした。のち四代目都々一(坊)扇歌を襲名する。

明治181024日 名古屋絵入新聞

◇浮世講談 大坂の一等講談師と轟き聞へける三省社長一瓢先生は、門人半瓢、夢楽の二人を従へ來名し、本二十四日の夜より富澤町富本座にて開講するとのよし。

明治181027日 東海新聞

◇寄席の繁昌  當区富澤町の富本座にて去る二十四日より開演せし大坂三省社長一瓢子の講談、又頃日中同席にて長らく興行したる女義太夫の大会は昨今大須門前の福寿亭にて興行中なるが、何れも非常の大入にて両席ともに毎夜聴衆四五百人に降らざるよし。

明治18111日 日出新聞

◇いくよ迄替らぬ祝ひ サテ替り合せまして申し上ますと昼夜見台と柝木扇で客を招く新京極のいくよ席にては、昨年開業せしより一週年に当るを以て其祝意を表する為め手拭ひ一万五千筋を染め、本月五六七の三日間来客へ一筋づゝ進呈なし、八日には席元が落語家一同を引連れ祇園の栂の尾にて祝宴を開き、持前の粗忽ツかしき滑稽の出し合遊びをなすといふ。

  此処でチヨツと余白を借て三十六文外史が小言を曰ふ。自分は落語好なり、故に京坂中の寄席は大抵行て聞ざる処なし。然るに京坂地方の落語家には四個の馬鹿気たる事あり。(中略)

第一は拍子のバツタ〳〵拍子なり。予は東国者ゆゑ嫌に聞えるかと京坂の人に尋ねて見れば、矢張り耳障りにて、其何事を饒舌を知ずといへば、落語を聞に行て言葉の訳らぬ程面白くなきはなし。

第二は落語に落をつけず、落語家流儀の唄や舞で胡魔かす事なり。此話はどう云ふ落かと考へ乍ら聞(きく)ので面白みも娯しみもあれ、落のない話は土偶に首の無が如し

第三はお客の好みに応ずる之なり。是は落語家計りでなくお客も悪し。先席へ上つて詰らぬ前口上を長々喋弁好んでくれといはぬ計りの口気故、ツイお客の方から何々を遣てやアと望むと、其読易きを手前で撰んで、何をやりませうと海口が何聞ても三十石、稽古屋、紙屑撰、懸取位の同じ噺し、夫も大抵中比から騒ぎ唄に胡魔かす癖多し。予は同席同人にて稽古屋を四晩続けて聞せられ、余り馬鹿らしさに暫時席へは近よらざりしが、毎日毎晩お客の顔が変るにしろ四晩も同じ落語を続(つづけ)るとは呆れも呆れたが、鉄面皮にも驚ろきたり。此意気込にては興行中幾個の種にて押通す積り歟、一体幾個位の種を習ひて落語家と化けイナ肩書をつけたる歟、高座で聞人を見下し自慢らしく勧善懲悪を海口からは少しく世道の為にもなる事を説ても宜しからん。

第四に極々忌べく嫌ふべきは淫奔猥褻の言辞之なり。此比虎列刺流行等にて巡査の出張稀なるを付込み、出張桟敷に筋入提灯が見えぬと忽ち口気を下掛りに移して、言語道断何とも彼とも言れざる猥褻淫奔の詞を出し、聞に堪えず、居るにも堪へず、夫婦連は下を向て聞ざる真似をして済せるが、親子連は兎ても堪らず、乍ち木戸へ逃出す、況んや少しく時勢を知るもの羞悪を知るもの、争で此座に居らるべき適ま休暇を得て笑ひに欝を散ぜんとして還つて腹を立気色を悪くす、中にも太甚しきは胸を悪くして嘔吐んとするあり、落語家も虎列刺媒介物の一に似たりと謂るべし。實に嘆息の至りならずや。

斯く四ケ条も穴を拾つて其馬鹿気たるを訐くも落語家の為に惜む処なればなり。東京の落語家と比べては其位置の落る事幾十倍なるに知らず、能く大臣参議の前へ出ても喋弁るゝ歟、仮令喋弁つた処が乍ち其席を追立られ、自今営業停止を申し付らるゝ杯の粗忽を起すべし。京坂地方の落語家ども、ソレ少しくではなく余ツ程注意せざれば生涯野蛮の名は遁れ難し。落語家よ、落語師よ、早くしかとしゝの四足社会に紛るゝ名を遁れ、純粋にして興味あり、馬鹿気た中に面白みあり、少しく教導の助けともなる落語家と唱へられよ。

明治18113日 日出新聞

◇倶楽部の祝宴 京都倶楽部にては本日午后三時より天長節祝宴を開き、余興に目下新京極いく代席に出勤する落語家桂文之助を招て滑稽を演ぜしめらるゝ由。

明治181120日 日出新聞

◇落語研究会 新京極いくよ席にては明二十一日より落語の研究会を催ふす由。是迄も一度催ふしたる事もありたれど其効果更に見えざれば、尚一層悪弊を去ん為、桂文之助が発起人となり、大阪よりも五六人の同業を招き寄せ、追々改良を図るといふ。落語家は芝居杯と違ひ改良するには容易なる業なれば充分の改良を見せる様目を刮ふて否耳を傾むけ待て居る。

明治181127日~1210日<落語家芝居・道頓堀戎座>

外題:「覧聞噺種蒔」

【配役】

漁師浪七・芸者仇吉・安部宗任・下女お丸・奴ふく平 嵐福松(初代笑福亭福松)

三七信孝・安部貞任・田舎娘・唐琴野丹次郎・土手のお六 実川文三(二代目桂文三)

駄々の勘兵衛実は七里源内・船頭伊之介・菅居友之進・野崎久作 坂東梅団治(桂梅団治。軽口)

照手姫・松浪主水・腰元七々浦・千葉半次郎・娘おそめ 中村かしく(桂かしく、後の二代目文之助)

鬼瓦銅八・年寄太郎兵衛・芸者政次・番頭善六・奥方浜ゆふ 市川文我(初代桂文我)

弟弥吉・芸者小糸・廻し男源太・中居おさと・傾城此糸 中村きん吾(桂金吾、後の桂文屋)

庄屋与二兵衛・金棒引・雲介めがね・太皷持市八・油屋多三郎 三枡柳枝(桂柳枝。桂文之助門人。眼鏡
 や)

鬼門喜兵衛・平の護綱・油とり大力坊・増田屋文蔵・謙仗直方 市川順枝(桂順枝、後の二代目文団治)

平井権八・芸者米八・武者修行正忠・奥女中竹川・袖はぎ 中村小文枝(桂小文枝、後の三代目桂文枝)

娘おもよ・丁児久松・娘お蝶・妻敷妙・前田七郎 市川順朝(桂順朝、初代桂米朝が一時期名乗った名前)

髪結の亀・雲天坊・千代松兵衛・中居おつま 尾上げん吾(桂源吾)

娘おきみ・丁稚長松 実川蝶ン平(桂蝶ン平。初代文之助門人)

桜川由次郎・鈴木弥忠太・八幡太郎・雲介がん八・梅川粂之進 嵐玉助(桂玉助。後の三代目桂文都)

女房小ふじ・鈴々木弥忠太・大工与四郎・腰元松ケ枝・本田六郎 実川蝶三(亭号未詳。後の林家木寿)

雲介さん次・腰元かいで・手代九介 市川由之助(桂由之助。後の桂団輔)

馬士駄々八・ぜゞの四郎蔵・雲介岩松・丁児久太・古鳥左文太 中村篤団治(桂篤団治。軽口。後の桂家雁
 篤)

風間八郎・山家屋清兵衛・木場藤兵衛・肝入源六・千葉太重 実川九蝶(桂九蝶、後の五代目林家正三)

幡随長兵衛・瀬田の橋蔵・油屋太郎七・山神実は□□小僧 実川文吾(三代目桂文吾)

船頭伊之介 実川蝶ン平(桂蝶ン平。初代文之助門人)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 大阪篇』より作成。配役名のあとの(  )内の芸名は編者が施した。「桂文我出席控」二冊目・十五丁表によると、柳枝は欠席で、替りを桂都勇(三代目三遊亭円馬の父)が勤めたという。この落語家芝居に関し大阪日報に二つ記事が出ている。以下に掲げる。

明治181125 大阪日報

◇落語家の演劇 大坂の落語家彼の桂文吾、文三、小文枝、福松、順枝、九蝶、文我その他十八名は今度道頓堀戎座に於て演劇を催す由にて一同は既に右団治、八百蔵、璃寛、橘三郎、雁次郎等各俳優の弟子となり、いづれも俳優の鑑札を受け、過日来稽古中とのことなりしが、いよいよ明後二十七日より七日間同座にて興行する都合となり、芸題は安達の三段目、お染久松の七化、小栗判官浪七の段、梅暦、三七信孝、鈴ケ森等の毎日替なりとのことなり。

明治18123 大阪日報

◇芝居日のべ 此程より大坂道頓堀戎座に於て興行中の落語家芝居は来六日にて打揚ぐる筈なりしも、意外に評判の宜しくて日々の大入りなるにぞ、更に来十日迄日のべすることになりたるよし。

       ※           ※           ※

明治181127日 名古屋絵入新聞

◇猫遊軒伯知の講談 明後二十九日夜より本区富澤町富本席にて、東京の講談師猫遊軒伯知が新講談を演ずる題は「鯰髭黄金の新猫」「明治忠勇慷慨談」「東都全盛鏡」等にて、此伯知と云へるは東京にては伯圓にも劣らぬ能弁家にて當時の売出しの由なれば、定めて大当りでありましょう。

明治18125 大阪日報

◇工業と興行 これも又例の間違話のその一ツ、果は大笑ひのアハヽではない阿波座三番町の大工職松本某といふは、大坂の棟梁株にて花主場(とくいば)も多く、殊に宍喰屋橋辺に落語の席をも持ちて、これさへ繁昌すれば自(おのず)と工面もよく、これまで税金など滞らせしことなく、都度〳〵納め来り、既に去月分の興行税も疾く済せしに、一昨日復(ま)た〳〵其筋より興行税を早々上納するやうにと小使をして達せしめしにぞ、棟梁は憤(むっ)として、何ぢや興行税、いかに官(おかみ)の威勢はエライとはいへ、一度納めれば善い税を二度取らうとは余(あんま)りぢや、黙止(だま)ツては居られぬ、一番その理窟(すじ)を言ツて来んとて、早速其筋へ出頭して、ヘイ私(わっち)は阿波座の松本で御座りヤス、先月分の寄席の税は疾くに納めてこの通り受取も貰ツてありヤス、それに復(また)納めよとは何(ど)ういふことか、私は未だ二度三度税を出せとのお布令は聴いたことが御座りやせぬと拳固(にぎりこぶし)で鼻拭(ぬぐ)ひながら断然(きっぱり)といへば、其筋の吏員は、イヤ親方それは間違ぢや、何しに官(おかみ)で税の二重取などをなさるものか、其方(そなた)のいふは興行税、即ち寄席の方ならん、开(そ)は如何にも納税済となツてあれど、尚(ま)だ大工職の工業税が済んで居らぬから上納方を達したのぢやと言(こと)を分けられて、棟梁は頭をかき、成程職事(しごと)が忙しかツたゆゑツヒ本職の税を忘れて居やした、左様(そう)おつしやられては私が一番出損(でそこな)ひやしたと果ては大笑ひ、棟梁は頓て工業税を納めて引き取りしとか、忙しい親方の身にしては忘れるも無理はないか。

〈編者註〉「桂文我出席控」の明治二十年代前半に「春団治」という名前が度々出てくる。この春団治は『落語系図』の二代目文団治(七代目文治)の門人の欄に「初代春団治 志々喰屋橋圭春亭席元なり」とある人である。二代目春団治(皮田藤吉)があまりに有名になり、現在ではこの春団治が初代とひろく認識されているが、『落語系図』が作られた昭和四年にはまだこの人が初代春団治とされていた。本名、経歴等一切不明だったが、故橋本礼一氏が上掲の記事を見付け、「初代春団治以前のゼロ代春団治」と題して『桂春団治はなしの世界』(東方出版・平成8年刊)へ寄稿され、この時代に「宍喰屋橋辺に落語の席をも持」っていた大工の松本某とは初代春団治ではないかと指摘された。編者も見解を同じくする者で、改めてここに同記事を紹介するものである。

明治181212日 東海新聞

◇富本座の講談 予て其披露ありし東京上等講談師猫遊軒伯知の講談は愈々昨晩當区富澤町の富本座にて開演せり。

明治181219日 朝日新聞

◇劇場通信 昨今神戸楠公社内の多門座にて興行する芝居は文三、順枝、小文枝、福松、文我、九蝶、文吾等落語家の一座にて、芸題は安達ケ原、梅暦、花川戸、お六櫛等過日戎座にて催したる通りなるが、見物人の評判最もよしといふ。

明治181222 大阪日報

◇芝居 神戸楠公社…内多門座にて過日来興行中なる落語家の演劇は一昨日限り打揚の筈なりしが、趣向が奇しいとて非常の大入なるを以て数日の日延をなしたりと…。

〈編者註〉「桂文我出席控」第二冊・十三丁裏に「この一座(編者註:大阪戎座の落語家芝居の一座)明治十八年酉十二月十七日ヨリ神戸楠公社内多門座芝居ニてうつ、これはヘ印」とあってヘ印(不入り)だったと記している。新聞記事と矛盾するが、大阪程の大入りではなかったということであろうか。

明治181223日~27日 <落語家俄師合併芝居・新京極大黒座> 

外題:<落語家芝居>菅原伝授手習鑑車場から寺子屋迄、絵本太閤記十段目、傾城曾我譚対面場

<俄師芝居>男達五雁金安治川橋段

【落語家芝居配役】

梅王、武部源蔵、工藤祐経、雷庄九郎 文之助(桂文之助、後の曽呂利新左衛門)

時平、女房戸浪、母皐月、五郎時宗 可楽(五代目三笑亭可楽。京の可楽)

松王、朝比奈三郎、堤角左衛門 常丸(笑福亭常丸。『落語系図』は後の二代目笑福亭竹我としているが、三代目という説もあり、又、名古屋でこの竹我が興行した時、自らを五代目と称しており、この竹我という名前は不明な点が多い)

女房千代、明智秀、十郎祐成 木鶴(初代桂文枝の弟子で桂文里。後二代目松鶴門で二代目笑福亭木鶴。本名
  岡田文里。元は芝居役者
) 

桜丸、初菊、厂金文七 吾鶴(桂吾鶴。後の初代桂枝太郎)

明智十治郎、近江小藤太 里き助(笑福亭里木助。二代目笑福亭木鶴門人)

御台処大磯少将 木蝶(笑福亭木蝶。二代目笑福亭木鶴門人)

春藤玄蕃、庵の平兵衛 八百蔵(笑福亭八百蔵、初代松鶴の弟子。一時立川を名乗った。後に東京で講釈師となり、名古屋の端席で十年間以上一人で興行していた。晩年はフリの前座でいたようだ。本名加藤市松)

極印千右衛門 燕馬(不詳)

虎御前、真柴久吉 松助(桂松助、本名松本鶴吉。後呂鶴から梅香となる笑福亭松助とは別人)

梶原景時、布袋市右衛門 松朝(本名花房義太郎。素人落語家で笑福亭を名乗っていた)

杉王、八幡三郎、よだれくり、女房操 福助(笑福亭福助。初代笑福亭福松門人)

【俄師芝居配役】

大西座の小半一座(具体的な役割、人名記載なし)

〈編者註〉明治181222付「日出新聞」より作成。配役名のあとの(  )内の芸名は編者が施した。落語家は新京極笑福亭に出演している連中である。

明治181225 大阪日報

◇大黒座 京都京新極蛸薬師上る大黒座にては同地の落語家俄師連が合併して昨日より落語俄混進大暮年会とかいふを催せし由なるが、これは夫の大坂の滑稽研究会に倣ひ目先の変つた面白い趣向なりとのことにて中々の人気なりといふ。 

 

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