明治19年

上方落語史料集成 明治19年(1886)1月~6月

明治181231日 朝日新聞

◇大阪の新年の興行物

幾代席(淡路町) 桂文都、同文我、同文昇等の落語

法善寺の席(千日前) 桂文都、同福松、翁家さん馬等の落語

〈編者註〉桂文都、後の月亭文都。文我は初代桂文我。文昇は二代目桂文昇。福松は初代笑福亭福松。翁家さん馬は五代目さん馬。

明治181231 中外電報

◇新京極の興行物

幾代席 桂なん鶴、同吾一、三笑亭可楽、烏勘太夫、桂チヨン平、同文若、桂藤兵衛、桂文三等に新内語の別嬪鶴岡花吉の大一座。

笑福亭 何か内幕に紛紜が出来て出方の姓名を知るに由なし。

〈編者註〉なん鶴は桂南鶴、二代目桂南光(後の仁左衛門)門人。吾一は桂吾市、後の三代目桂文三。この時期吾市から林家染丸と改名しているが、まだ馴染がなく、記者は旧名を書いている。三笑亭可楽は五代目可楽、京の可楽。烏勘太夫は音曲師。桂チヨンは桂蝶ン平、初代桂文之助(後の曽呂利新左衛門)門人。文若は初代桂文若、初代桂文枝門人。藤兵衛は三代目桂藤兵衛、初代桂文枝門人で昨年三月、文字助より藤兵衛を襲名した。桂文三は二代目文三(提灯屋の文三)。

明治1914日 東海新聞

◇興行物は大繁昌 當名古屋の興行物は、一月一二三日間は例年非常に繁昌にて、諸芸人は三日間の利潤と年内三百六十五日の利潤と殆ど撞着する程なりというに、些と過言ならんの実に諸興行物の繁昌には一驚を喫したり、就中大須観音境内なる五明座の玉乗りの興行物などは古今未曾有の大入なりと或人が語りたり。

明治1916 大阪日報

<文枝と文都の悶着①>

◇落語家の悶着 両虎相戦ひ両雄並びたゝずなど大(おおき)く出掛ける程でもない、大坂落語家の悶着は一方は桂文都、一方は二代目文枝、いづれも桂の枝葉にして今がさかりの師匠株、似たり寄ツたりの親方なれど、根をあらへば兄弟も同様、ひねこねと面倒な理窟いふ間柄ならぬに、何故か両個(ふたり)は兎角に折合あしく、遂に客臘来悶着を起し、テキが出れば己は出ぬ、彼方が引くなら此方が代るなど双方勝手をいひつのる中にも、文都の方に理前(りまえ)はあると見え、夫(か)の東京下りの翁家さん馬をはじめ他の桂連にも苛担人(かとうど)の出来るに引替へ、文枝の馬合(うまあい)は文吾一人、その外には肩持つ者なければ、衆寡敵せず、遂にこの一月より右両人は仲間を省かれることとなり、法善寺の席、淡路町の幾世亭、曾根崎橋の幾代亭その他とも出席を構はれ、いづれも文都、さん馬等が受持となりしにぞ、文枝、文吾等は弱るならんと思の外、更にこれを屁とも思はず、丁度よい骨休め、この間にお臍で茶を沸し、命の洗濯やらかせ〳〵といふ意気込にて、昨今は北よ南と廓廻り、大ドロンケンのよい元気、これで何時までも追通(おっとう)せば恵来(えらい)もんじやが、いづれ近い内面黒い落語の種が出来るならんとのことなり。

明治19116 東京日日新聞

◇寄席の出もの 今十六日夜より府下各寄席の出ものは、芝区南佐久間町恵智十は文楽、明学、伯枝、日蔭町玉の井は円遊、円太郎、新朝、若辰、明学、通新石町立花亭は帰天斎正一、円右、玉輔、明学(その他省略)

〈編者註〉西国坊明学(さいこくぼうみょうがく)は盲目の音曲師。明治十七年十一月に上京し、十六人芸を売り物にかなりの人気を得ていた。東京の噺家の註釈は省略。

明治19220日 朝日新聞

<文枝と文都の悶着②>

◇落語家の競争 当地の落語家にて一二と呼ばるゝ桂文枝、仝文都、翁家三馬等の中に、昨年の冬何か一(いつ)の紛議(ごたごた)を生じ、互ひに腹の解ぬ処から、文枝は遂に其弟子諸とも尻の焦付く程古う勤めて居たる南地法善寺内なるいづ熊の席を放出(ほりだ)されたとか、自分より放出(ほりで)たとかにて、此一月の大紋日は夫が為、文枝は自分の弟子等を引連れ、神戸楠公社内へ出稼ぎする事となりしより、弥々双方一座の間に軋轢(きしみあい)が生じ、昨今にては自ら党派の分りし姿となり居るが、文枝方の党派は昔々の物語り、猿と蟹との合戦ならねど、何でも腕によりを掛け、イナ口に油でも塗り、舌の根の続かん限り見台と組打して、倒るゝ迄も勉強し、彼方の一座を閉口させて呉んと、日頃愛顧(ひいき)の旦那を頼み、法善寺の近傍に一の小家を新築し、彼に抵抗せんとの計画(つもり)をして居りし処、都合あつていづ熊の席に並びたる三楽亭といふ二〇カの小家を急に増築し、文枝の一座にて昨今昼も夜もドンチヤン〳〵と囃し立て、花々敷き景気にて興行することゝなりしに、就てはいづ熊の席も肩肱をいからし、一人でも客を余計に引込まんと睨合ひの大競争、笑た方が負け、イナお客を成丈笑す方が落語家の担当(もちまえ)なりと、規則の時刻にも頓着無く、毎夜十二時過迄興行して居るといふが、双方(どちら)も負ぬやう来客の腮を外す処迄やつたり〳〵。

明治19228日 朝日新聞

<文枝と文都の悶着③>

◇過日記載したる落語家文枝、文都の両席は、日増に競争甚しく、聴客(ききて)の中にも互(たがい)に其党派の分れし有様にて、文枝党の者は此一座の小家を大入りさせんと力身返り、文都派の者は文都の一座に勝を占めさせんと米噛(こめかみ)に力を入れ、毎夜其党派の者は一致団結して愛顧(ひいき)々々の小家へ押掛け、若(もし)一夜でも之に洩れて行ざる者は罰金を取立るの内規(さだめ)なりと云ふが、就(どちら)へ勝の団扇が上るやら。

〈編者註〉昨年暮、二代目桂文枝と桂文都(後の月亭文都)が悶着を起した。「桂文我出席控」第二冊・十五丁裏に「明治十八年酉十二月廿二日ニ文枝文都大もめニてわかれる」とある。具体的な原因はよく分からないが、上掲の三つの新聞記事はその結果どうなったかを詳しく伝えている。この悶着はやがて明治二十六年の浪花三友派と桂派の分裂という現象をもたらすことになる。因みに法善寺のいづ熊席はのちに浪花三友派の牙城となる紅梅亭となり、文枝が拠った俄の三楽席はのちに桂派の牙城となる金沢席となる。

明治19228 大阪日報

○困つた人間 世には斯る生意気なる人間の多きには困る。一昨夜のこととか大坂東区淡路町の昔噺定小家いくよ席へ厳(いかめ)しく洋服着たる者二人、羽織袴着たる者一人、三人倶に入来りて、二人は靴、一人は足駄のまゝグワタ〳〵、ギウ〳〵二階桟敷に打上りしより、泥のバラ〳〵落ちて、階下の客は頭から泥まぶれとなるを、席主は見兼ねて三人に向ひ、木戸銭を返すから出て呉れといふ、三人は出ぬといふ、大勢の客は出せといふ、一場沸くが如く、巡査の出張して三人を説諭せしも聴入れず、遂に拘引して夫々違警罪に処せられしと。その氏名を現す丈けは勘弁して呉れん、以後は屹度相心得ヨ。

明治1934日 金城新報(名古屋) 

◇諸興行物 ○七間町富本座は東京寶寿斎来集女の女軍談○車ノ町白廣座は岸澤古柴一座の常盤津身振り付踊り○巾下外田町橋又座は吉川文鶴一座の浮世節○橋詰町笑福亭は実川半若、嵐□丸一座の演劇○同町開慶座は七草徳蔵一座の曲芸かるわざ一座○堀切町富士本座は二代目吉川辰丸一座の一流軍談浮れ踊○魚屋町寿亭は高田一龍一座の軍談○平田町若松座は圓太郎一座の落語勉強会○大須境内桔梗座は櫻川辰之助事花の家辰玉斎一座の手品曲芸昔咄活惚れ踊り及び瀬川松雀の逆立ち足芸早変り餅細工○同境内三芳野亭は秋元千松一座の軽業肩先き一本・・・・○大須門前花笑亭は岡本美代路一座説教源氏節手踊○同福寿亭は徳寿斎来山、寶寿斎来集女一座の軍談○大須境内開遊亭は嵐伊六一座の万歳。

〈編者註〉橘屋圓太郎は東京のラッパの圓太郎とは別人で、旅廻りの新潟の祭文語り出身の圓太郎。

明治19310日 金城新報

◇芝居席の評 當区南桑名町千歳座にて興行中の嵐芝女蔵一座の芝居は本日限りの処人気宜しき為日延べとなしたりと。又本重町の新守座にて興行中の女役者中村玉吉の芝居、富澤町の富本座にて開会中の橘屋圓太郎一座の勉強会は何れも上景気にて毎日毎夜非常の大入なりとぞ。

明治19321 大阪日報

◇落語家申合 大坂にある落語家は総計百八十余名にて、その原(もと)は夫(か)の桂、林、笑福亭など三流(みつ)に分れてはあれど、落語は例の甚兵衛さん居てゝか、イヨ誰かと思ふたら町内の人気男など、何れも〳〵同じ筋なれば、同業折合、よく只だ聴客(ききて)をして頤を外させるばかりではなく、各自(めいめい)も丸く笑ふて稼ぎ合ふならんと思の外、同業中に何か紛紜を生じ、過般来永々の白眼競(にらみくら)、それが終に木戸銭直下(ねさげ)の競争となり、昨今尚ほ互に負けず劣らず見台を打いて饒舌り倒す景況(ありさま)なるが、サテ篤(とっく)り考へて見ると、誰に頼まれた訳でもないに斯る益なき競合(せりあい)をして、不景気の世の中、お互に実入も少く、立行くべくもあらぬに、尚ほ此儘(このまま)おつ通す日には、終には無代(ロハ)で饒舌り、お負(まけ)に何か景物でも出さねばならぬやうになり、何時も各自(めいめい)が前口上にならべる通り、阿房らしい中のトツト阿房らしいお話となればと、漸く茲に心着き、文都、文枝、文吾その他の落語家及び重立ちし席亭等一同申合せ、自今仲間の例月会を開くこととし、木戸銭その他とも協議の上これを一定し、尚ほ各自(めいめい)意(こころ)に隔なく、将来ごてくさなしに営業するやうに談示(はなし)の落合をつけんとのことにて、来月よりこれを開会するといふ。

又た是まで大坂の落語家がする昔話は重に下がゝりの事共にて、時には其筋より目玉を食ふことのあるのみならず、親子連の聴客(ききて)などには往々ハツト面赤(かおあか)めさせ、こんなことなら寧そ来なんだ方が宜(よ)かツたにと後悔させるほど機のわるい落語をすること数々(しばしば)あり、自然とそれがため客足の遠くなる道理なれば、自今はなるたけ目イヤ耳新しい新聞の話説に一寸と面白味を添へて笑ひを取るやう落語の筋を改めてはと尤なことを言出す者も中にはある由にて、右の例月会にてはこれをも協議する積りなりとのこと。

明治1945

<四代目林家正三死亡>

●四代目林家正三 本名林正三。生年不詳。初代正三は初代林屋正蔵門人林蔵の弟子で菊蔵、のち正三から菊枝、正翁となる。二代目正三は初代正三門人で正楽から正三を経て二代目菊枝を襲名した。三代目の正三は同じく初代正三の弟子で、二代目正楽から三代目正三を継ぎ、のち正翁となった。四代目正三は二代目正三の弟子で、竹枝から四代目正三、のち三代目菊枝を継いだ。明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」には「達引にあとへはよらぬ米かわに ちからいつぱい正三堂島 林正三」とある。落語家仲間の総代を勤める位の器量ある人だったが、人気がいま一つで、寄席に客を呼べず、桂、笑福亭一門の隆盛に対抗するだけの気概に乏しく、結局林家一門の衰頽を招いてしまった。晩年に菊枝を継いだ時、師の忰菊助が三代目菊枝を襲名し、菊枝が二人いるという不体裁なことを許してしまったのもこの人の性格をよく現している。「桂文我出席控」第二冊・二十丁裏に「(四月五日)正三事戌の年ニ神戸ニて悪病ニて死ス」とあり、これが正三の死亡を伝える唯一の記録である。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)

明治1949日 中外電報(京都)

◇新京極幾代席の文の家文之助は近日より大切に日出新聞の続きものを道具入にて演ずるよし。又一昨日より同席に加はりし文の家かしくは随分人気もよしと聞けり。

〈編者註〉文の家文之助は桂文之助(五月に曽呂利新左衛門と改名)のこと。文の家かしくは文之助の弟子で、桂馬からかしくと改名した。後に二代目桂文之助を襲名、引退後京都高台寺前に文之助茶屋を開いた。

明治19410日 日出新聞

◇手品師三人 四条北の劇場の帰天斎正一が舞台にての口上に、道場の吉田菊五郎と笹の家のジヤグラ操一を誹謗するの語気を演たりとの事にて、操一より何かむつかしき手紙を送り同業の好誼を破りたりとの言分を持込むと、正一は之に構はず菊五郎の方へ立派な菓子箱を贈りたり。菊五郎は之を幾代席の文廼家文之助に語りて其扱ひ方を依頼せしかば、文之助が仲裁に立んとて先斗町の席貸笹徳方へ三人の手品師を招き、仲裁説を立たるに、一旦は三人共承諾て、此後水魚の交りとか喃とか定文句の酒となりしが、酔ての上の言葉争ひから、互ひに一ツ二ツ言募る処へ、正一の木戸の四郎音とかふ者が入来りて、いよ〳〵喧嘩に花が咲き、其場は滅茶苦茶に立別れて未だゴタ〳〵して居よし。三人とも上手の手から水を洩して喧嘩したとてお客が来るでも有まい、大抵にして止めるがよいノサ。

明治19414 大阪日報

◇落語研究会 昨夜より毎夜大坂西区江戸堀北通長州屋敷の寄席安楽亭にて落語研究会といふを興行し、例の通り穴探しの客人へ一等より十等迄の景物を出すとのこと。

明治19414日 日出新聞

◇帰天斎正一とジヤグラ操一との間に争言を始め、新京極幾代席の桂文の助が仲裁に入り、双方和解せしとのことは前号に掲げしが、今度四条北側劇場にて興行する帰天斎正一の席にては人気を取らんため、手品の中入〳〵には幾代席より桂文三郎、同文二その他の落語家が交々出席して落語を演ずるよし。

〈編者註〉桂文三郎は不詳。文二は桂文三(二代目)の誤記と思われる。

明治19420日 金城新報

◇橋又座にては、本日より立川三玉斎の落語。

〈編者註〉この三玉斎は二代目三玉斎(明治十三年没)の門人で、三木造から四代目三光を経て三代目三玉斎となった人物と思われる。詳細は当ブログ「もう一人の立川三玉斎」を参照。

明治19424日 朝日新聞

<文団治と文都の確執>

◇違約金請求の勧解 従来(これまで)南地法善寺境内の落語小家いづ熊の席へ出(い)で、得意の弁を以て人の頤(おとがい)を解き、落語家仲間の隊長株と聞えし桂文枝と文都、さん馬、春好、福松、米橋等の中に、去冬来一の捫擇(もんちゃく)を生じ、遂に文枝は我弟子を纏て同席を退き、同境内の三楽亭へ出席し、文都以下の者と競争を初めし事は日外(いつぞや)の紙上に掲載せしが、其後文都の一座なるいづ熊の席は何か営業上の都合ありて、曾て文都等と仲間の交際を絶ち居りし彼文団次を傭入る事となり、弥々負じ劣らじと見台を叩き立て、鳴物をはやし立て、益々両方の席の競争甚しくなりし折柄、此頃又彼文団次と文都、さん馬、春好、福松、米橋等五人の仲間と何か紛議が生じ、イヤ彼(あれ)の云ふ事が分らぬとか、席元の言(ことば)が気に入らぬとか、弥々示談(はなし)が入組来り、遂に文都以下四名の者はいづ熊の席を放るゝ事となりしが、文都以下の者は先に文枝の一座と競争を初めし際座主いづ熊と一の約束を堅め、今後若我等より席を退(ひ)く時は違約として金五十円宛出すべし、さる代り席主より妄りに退(ひか)す時は同様違約として五十円宛を我々に出すべしと互に証書を交換(とりかわ)しありしが、文都以下の者は今度の事に就てはいづ熊より約に違(たが)ひしなれば、契約の通り実行して貰はんと、已にいづ熊を相手取り、一昨日米橋(本名平野清兵衛)が総代となり違約金請求の勧解を天王寺治安裁判所へ願ひ出しよし。此後如何になり行くかは知らざれど、此事の落着に及び次第文都の一座は法善寺の近傍に又も一の席を建て、文団次の一座と文枝の一座に益々張扇の競争(はりおう)て見台と共に斃れる処迄やり果せんとの考案(かんがえ)を抱き居るとの事なり。

〈編者註〉春好は四代目林家正三門人。林家宗太郎より春好と改名した。後の五代目正三。米橋は桂米橋(喬)。初代桂文団治門人で米団治と名乗っていたが、師匠となにか確執があり米団治の名をかえし、順枝と改名し、さらに米橋(喬)と改名した。師匠歿後の明治二十年に二代目文団治を襲名する。本名平野治良兵衛(表記に諸説あり)。

文枝と文都の対立は文枝に軍配があがり、法善寺のいづ熊席は挽回策として、不仲なのを承知の上で三月一日より桂文団治を招聘した。案の定悶着がおこり、文都一派は脱退した。「桂文我出席控」第二冊・十九丁表に「四月十五日切ニて連中大もめニ相成 文団治のこし一座ぬける」とある。文我は文団治の方について同座していたが、やがてコレラのために市内の寄席は営業停止となり、ようやく許された九月の十四日に文団治が死亡した。文団治の死という思いがけない出来事でこの悶着は終止符がうたれ、文都一派はもとの席へ戻った。

明治1954日 日出新聞

◇演説家と落語家の早代り 一昨夜新京極福の家席において開きし血涙演説の弁士川上音次郎は、今や演題を演ぜんとするの際、臨監の警官に中止解散を命ぜられたれば、豫て用意や仕てありけん浮世亭と芸名を唱へ、落語家の鑑札を得てあれば倏地同所笑福亭へ出席し、何か半可通入の噺を演じたるにつき大入りを取たりと。

〈編者註〉川上音二郎が曽呂利新左衛門の弟子となって浮世亭○○を名乗って落語家の鑑札を取ったことはよく知られたことだが、落語家としての活動実績はほとんどなく、また初期の経歴等も新劇史のほうで詳しく研究されており、当ブログでは浮世亭○○と名乗って寄席に出たときのみを採り上げることとする。また政談演説の広告、逮捕、保釈等の記事が多数でるが、いっさい省略した。

明治1955日、11日 日出新聞/朝日新聞 58

<桂文之助、二世曽呂利新左衛門と改名する>

◇桂文之助の改名披露 大坂に於て落語家中には円滑自在との評を受け、講席計りで行住座臥とも滑稽心を離れず、殊に画を嗜みて、自分の顔が骸骨に似た処あり外の画様を学ばんより寧(むしろ)骸骨の一物に止めんと、此物一ツに心を入れ励み習ふ甲斐ありて、頗ぶる妙に至りたる杯、少しく同派の人物よりは毛色の変つた文之助は、先頃より熟々(つくづく)考がへ見るに、落語家といふも固より銭儲けの為めにて、古往今来落語滑稽を以て名高きものは曽呂利新左衛門に上越すものなく、今も口碑に伝ふる処は豊公の耳を嗅ぎて多くの金帛を諸侯より受たりと聞ゆ、人の耳は落語家にて最とも貴重の品なれば、此人に因むこそ得策とも謂べけれと自ら分別を定め、此節極楽府の弥陀庁下と万国電信聯合規約を整のへたる機会に乗じ、戸籍を送りて養子となり、二代目曽呂利新左衛門と号して、先比より幾代席へ招牌を掲げたるが、尚来る八日には丸山円万楼に於て改名披露の大会を開き、田村琴竜、尾崎北海、三笑亭可楽、桂藤兵衛其他の落語家が集まりて、何か改名に因むの落語があり、府下の遊客も沢山に出かけるよし。又文之助も改名の上は能く初代の寓意を探り時勢に適当せる諷諌の話頭を演ずるといふ。(日出55

◇三百年後の二代目 当地の落語家桂文之助は、日本滑稽家の元祖なる曽呂利新左衛門の後なきを笑ひ、否憂へて、曽呂利家を再興せんと慾し、自ら二代目曽呂利新左衛門と称し、本日京都丸山の円満楼に披露の宴を開くよしなるが、如何なる洒落をなして来客の頤を解くか。(朝日)

◇曽呂利の名披露 一昨々日は兼て報ぜし如く丸山円万楼にて名披露の式を行なひたり。門旗、球灯杯皆桐の紋をつけ、出席の落語家は皆一整の紋付を着たり。午后三時より演じたる落語は鹿政談(丸○)、豊竹屋(延治)、集め歌(梅花)、曽呂利狂歌合(夢助)、紫裏紐(可楽)、位競(かしく)、牛の丸子(藤兵衛)、懸取(柳之助)、竹林唯七傳(琴竜)、逆さの五段目(米助)、曽呂利傳記(尾崎北海)、曽呂利〳〵(雀之助)、御礼口上(二代目曽呂利)にて、来会者も数十名あり、幇間も八九名見受け、中々賑やかなりし。(日出511

〈編者註〉丸○は桂丸○、川上音二郎の浮世亭〇〇と紛らわしいが別人。延治は林家延治、『落語系図』の三代目桂文吾門人の「げん吾 後に英語延次となる」とある人か。梅花は梅香は笑福亭梅香。二代目松鶴門人九鶴から文之助門下で梅香となる。のち上京して四代目円生門下で三遊亭海老丸。夢助は朝寝坊夢助。東京の落語家で、後幇間になったらしい。名古屋の幇間朝寝坊小夢の師匠。柳之助は不詳。米助は桂米助(輔)、二代目桂文団治門人。琴龍、尾崎北海は講釈師。雀之助は桂雀之助(初代桂枝雀門人で初め雀之助を名乗り、後に三代目桂万光となった人物とは別人)。

明治19517

<三代目桂文吾死亡>

●三代目桂文吾 生年本名不祥。初代桂文枝門人。家業は酒屋で山寺という看板を出していたので「山寺の文吾」と呼称された。世話好きで、ある意味出たがりな性格であったため、当時の新聞記事に頻繁に登場し、当ブログでも何度も採りあげ、明治十年代の上方落語界の名物男であった。それだけにその死亡を伝える記事がまったく出なかったのが不思議である。彼の死を伝えるものは「桂文我出席控」第二冊・十丁表にある「五月十七日 桂文吾 悪病(コレラ)ニてしぬ」という短い記述だけである。また死ぬ直前の出番表には「(林家)延玉」となっている。初代延玉は二代目桂文吾から延玉となった名人で、文吾は生涯こだわったこの名を掲げて亡くなったことになる。

〈参考文献〉橋本礼一「上方噺家列伝」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)

明治19518日 神戸又新日報

◇浮世政談滑稽演説 楠公社内の湊亭(話し席)に於いては此節軽口には笑福亭鶴八、同松右衛門、落語には同常丸、又琵琶の曲弾には同徳寿等が出席して人気宣しき趣きなるが、尚右の一座は近日より同亭に於いて浮世政談滑稽演説会を為す都合なりという。

〈編者註〉笑福亭鶴八は軽口、二代目桂円枝の父。笑福亭松右衛門は軽口、桂文屋の父。常丸は笑福亭常丸(本名花村常次郎)、綽名は「ちがい棚」、後に笑福亭竹我(代数未詳)となる。徳寿は音曲師。亭号その他不祥。

明治19529 中外電報

◇猛虎一たび勢焔を逞せし以来、其余炎の及ぶ所ろ、肴屋料理屋より意に芸人社会に及び、目下大坂、神戸地方には全く人寄せの諸興行を停止せられたるに付き、諸芸人は追々当地へ出稼ぎに来る由なるが、当地とても今一層病勢の熾盛の運に赴かば何時人寄席の休業を命ぜらるゝや計り難きを以て、当地の席元も芸人を買ひ込むといふ気勢なく、為めに芸人社会は非常の困難を極め居る由。

明治19530 日出新聞

◇目下京都は芸人の巣窟なり 前にも記すごとく目下大坂、兵庫、大津杯は諸興行物を停止せられしに付、是等地方の芸人どもは追々京都に入込来り、諸方の寄席を探しをるよし。

明治1964 中外電報

◇興行停止の混雑 一昨日京都府より上下京区并に伏見市街の諸興行物を停止する旨達せられ、同日午后一時過突然下京警察署吏員は各興行席へ出張し、即刻停止の趣きを申渡せしかば、何れの席に於ても大混雑を生じ、看客は場代を返せと云ひ、六方を踏掛けし俳優は五方に止め、落語家は揚げし拍子木を下すこと能はず、ヘラ〳〵は手拭の色の如く赤くなり又青くなりて屁込み、殊に四条北の芝居の如きは雀右衛門の員部十太夫、福助の永井源三郎が出でし処にて、看客は此ぞと現を抜かせし時なりければ、場桟敷を問はず泣顔して退きし浮気娘又亡夫婦も頗る多かりしと云へり。

明治1969日 朝日新聞

◇有馬の賑ひ 此頃有馬の温泉に浴して帰りし人の咄しに依ば、昨今有馬の地は大阪其他虎列拉病流行の地より、同病を避る為、紳士、豪商等の数多入浴の為出来るを以て、意外に賑はしく、之を当込みに諸方より軍談師、落語家等も多く入込み、又住吉停車場へ客を送り迎ひに出る駕は日々平均二三十挺に及を以て、旅亭は元より其日稼の者等は虎列拉病様々なりといひて大に悦び居るよし。

明治19619日 朝日新聞

◇座敷芸人 虎列拉の流行はいつ果つべしとも予(あらかじ)め定めがたく、吾々は幸(さいわい)に同病に罹るを免るも、口の干上りて飢渇に迫るを如何せん、之を救ふの策を講ぜざるべからずと、軍談師が申合せ、一時間十銭にて座敷講釈をなすことを計画(もくろ)み、所々に下げびらを出したるが、此頃物見遊山も出来ず、虎列拉の話で気を欝ぎ居る折柄なれば、其は妙ならんと招きて徒然を慰む方も多くある由を聞き、落語家、義太夫、手品師等が之に倣はんと所々に打寄りて種々相談中なるよし。

明治19625日 日出新聞

◇芸人の切売 興行停止の影響より軍談、落語、新内、手品、浮かれ節等の諸芸人が苦しまぎれに一時間十銭とか乃至十五銭位いづゝにて酒宴の座敷を勤むる事が此節大分流行し、幇間代りに一寸座興を幇(たす)くるゆゑ、客の方でも面白半分、安値(やすく)て熱を上げるには至極妙との評判。

明治19627 日出新聞

◇曽呂利の御守 二代目曽呂利新左衛門も名弘め以来日浅きに興業停止となりしかば、折角数日の腹稿を演るに由なく、退屈の余りつく〴〵悪病の流行を憎み、初代が兼て御懇意に申し上たる阿弥陀ケ峰の親分へ祈祷(いのり)をあげ、悪病除消の御守を製し、之を諸人に施さんと時期を竢(まつ)に、恰かも好し、二十五日は天神様の御縁日にて、寂寥(さび)れし新京極も人通りの繁きを見るより、茲(ここ)なんめりと、幾代席の表へ桐五三の桐の紋付たる高張提灯を輝やかし、豊国舎員曽呂利新左衛門御守施行と筆太に書出し、舎員一同羽織袴に列を正し、高台に毛氈を布き、三方に御守札を堆(うず)たかく積しと見るより、往来の者は一枚〳〵茲へも〳〵と黒山の如き群衆となり、終に七百余枚を施こしたり。之を受たる人々は、此時節に曽呂利ほどのものが悪病除け杯のお守を施すといふ不開化はあるべからず、何でも此中こそ怪しけれと封を解て見れば、中には辻占が入てありたるにぞ、偖は一杯くはされしと腹をかゝえて帰るもありたりと。

〈編者註〉この時の様子は雑誌「小天地」13号に委しく記載されている。当ブログ「小天地芸苑 曾呂利新左衛門」の「虎列拉予防の守」項参照。

 


上方落語史料集成 明治19年(1886)7月~12月

明治1978 日出新聞

◇落語家の売茶 永らくの興行停止にて新京極通りに出稼ぎの下等芸人どもが糊口に究して種々の営業を企て、或ひは辻占、氷店、コツクリ売り、八卦見杯夫々の道に縋るよしは前号にも記せしが、茲にまた落語家の親玉二代目曽呂利新左衛門と改名してよりまだ日も浅き幾代席の桂文之助も今は我慢の緒を切らし、所詮籠城覚束なしとや、此ほどより幾代席の三階楼上にて薄茶の手前一服一銭にて広く売茶せんと計画中なりといふ。此人にして此の行あり、以下の芸人が困難の情想ふべし。

明治19711 日出新聞

◇ヘラ〳〵 今に何かなるだらうと堪忍した新京極芸人社会のうちで笑福亭の落語家柳橋、八百蔵、鯛介、鶴助、小福松等の連中は、迚も新京極にばかり籠城して居ては兵糧に尽るからとて、揃ひの手拭を冠り、碁盤縞の浴衣を着て、太鼓を叩きつゝヘラ〳〵糖を売りに歩き出したといふ。

〈編者註〉大阪で柳橋を名乗っていたのは三代目笑福亭松鶴門人「柳橋 後に柳三となり其後慶士となる」(『落語系図』)だけだが、同人かどうか不明。八百蔵は笑福亭八百蔵。初代松鶴の弟子。一時立川を名乗った。後に東京で講釈師となり、名古屋の端席で十年間以上一人で興行していた。晩年はフリの前座でいたようだ。本名加藤市松。『落語系図』明治26年番付に「笑福亭八百蔵」(西二代目五人目)とあるのが同人か。鯛介は桂鯛介。『落語系図』初代桂文団治門人に「鯛助」があるが、この人か。鶴助は桂鶴助。幕末から明治初年に多くの大津絵節の一枚刷を残し(荻田清『上方落語 流行唄の時代』)、明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」の作者の鶴助と思われる。「桂文我出席控」の明治二十一年二月から九月頃の出番表に「鶴助」の名前が散見される。怪談噺を得意とした。小福松は笑福亭小福松。初代笑福亭福松門人。(『落語系図』にある小福松─桂団輔の子供で、のち東京へ出て寄席恵智十の養子となった人物─とは別人)。

明治19724 中外電報

◇狐狗狸の処刑 狐狗狸が下京警察署へ拘引されしことは此程の紙上に掲載せしが、一昨日京都軽罪裁判所に於て其公判を開かれたり。即ち被告の下京六組新京極笑福亭の落語家松助事山田鶴吉(三十一年)、同五組円福寺前町岩田利兵衛(廿九年)、同十四組稲荷町伊藤又四郎(廿八年)の三人にて、凡て松助の発起に同意し、奇妙奇的列妙不思議狐狗狸さん動物電気と何とも解し難きことを唱へ、狐の画中に男女の挿絵を画きたる一枚摺物と狐狗狸の伝を記したる摺物を版行し、竹三本長さ一尺を四寸四分の盆に載せ、其上に風呂敷を覆ひて男女の手を載せる時は其竹が踊る杯と新京極誓願寺前にて一組一銭宛にて販売し、流言浮説多くの良民を惑したるより審理の末、無免許印刷物を販売したるは出版条例に違犯し、浮説を以て良民を惑はしたるは違警罪を犯したるものにて、鶴吉即松助は軽禁固十三日拘留一日、岩田利兵衛は軽禁固十九日、伊藤又四郎は軽禁固十一日拘留一日に処せられたり。

〈編者註〉松助は桂松助。呂鶴から梅香となる笑福亭松助とは別人。詳細不詳。

明治19724日 朝日新聞

◇講釈の景物 西区江戸堀北通三丁目常安橋筋の東側にある空地に開店したる氷店は、客を招くに新奇なる工夫をなし、一銭五厘の氷を一杯飲みし人には其景物として軍談講釈をなして聞かするゆえ、興行物停止の今日なれば、這(こ)は面白からんと涼みがてらに数多の客来りて賑ふ由なれが、売物には是迄種々の景物出したる者あれど、講釈を景物にしたるは之が始めならん。只懼る、実際人寄席の景物に氷を飲まする如き事のなからんことを。

明治19730 大阪日報

◇諸興行物 大坂市中の各寄席にては既に興行の解停になりたるにぞ、夫々準備の上昨今の内其筋へ実地検分を出願し、許可せられし上は来月一日頃より開場する手筈なりと。又た検疫本部にては警部補広沢某氏外同掛りの警部補数名をして所轄警察署の警吏と立会現場を検分せしめらるゝ都合のよし。又た此程其筋の達に依り同業取締人に於て虎列刺病流行に付諸興行停止(五月廿五日)以来四区二郡の寄席現在百三十五軒へ損害を被りたる者の人員を取調たる処、都合千四百九十人にして右寄席に係る芸人は三業(浄瑠理、義太夫、三味線)凡四百人、落語家凡百名、浮かれ節語凡五十人、俄狂言三十名、人形遣三十名、指影絵并に錦影絵十五名、テリハ狂言八名、其他軍談講釈師等数十名の由なるが、本年は大坂府下営業税賦課額の多きを以て京都及び其他の地方へ送籍せし者少なからざるに付、昨年に比すれば市中の芸人も余程減少したりと。又た落語家は右興行停止以来各所へ出稼せし者多くありて目下市中に在住の者は殆ど其の半数許りなりと云ふ。

明治1981日 日出新聞

◇興行認可 一昨日認可を得て本日より開業せる興行席は、新京極通りにて大黒座は福十郎梅助等が一座の芝居、外題は双蝶々と極彩色娘扇なり。小谷庄太郎席は石井万治の軍談。内林源次郎席は坂東小鈴、仝幸吉、仝操吉、常盤家幸治が一座の舞手踊軽口。福井亀之助席は小田千代松、増田芳松の軽業足芸。小西佐一郎席は浮れ節。中島清之助席は延治、かしく、梅花の昔話し。河村猪之助席は生駒幸蝶の足芸。高橋辰次郎席は花香、梅吉、常丸の昔話し。玉井源之助席は馬蝶、小花、小せんの新内節。下京廿六組中島五條下る都市座は無料の素人浄瑠理。仝組三宮町六軒下る岩源七席は梅里、綱子の女浄瑠理。仝二組堀川六角下る駒井太兵衛席は黒沢喜三郎の軍談。仝十九組寺町松原下る十川能里席は祭文。仝二十七組五條大橋東詰安田ちか席は祭文。同組本町新五丁目光木徳次郎席は昇山の軍談等なり。

〈編者註〉中島清之助は新京極幾代席の席主。高橋辰次郎は新京極笑福亭の家主。花香、梅吉は不詳。

明治1983日 朝日新聞

◇興行物に係る雑件 前号にも記したる彼(かの)ヘラ〳〵女、洋犬芝居、身振狂言并に法善寺境内なる昔噺、講釈其他二三の寄席は、其筋の諭に依り急に二重屋根を設け、空気の流通を宜くし、又壁には窓を穿ち、隔離室、浴室等をも設け、去三十一日再試験を受しに、是ならば衛生上有害と認むる処無に付、追て沙汰するとの儀にて引取られしが、昨朝迄は何等の沙汰も無かりしとぞ。

又東区廿四ケ所の寄席中七ケ所迄は開場の儀を出願の上検分を受たるが、其内一二ケ所は前同様構造向を改良し東警署へ再願せしに、追て再検分する旨達せられしまゝ何の沙汰もなく、右出願者の内には金銭を費し、小家に改良を加へて、開場の許可を得しも、若し席の内にて病者を発し、停止でも食らひなば損の上は塗なりとて取消願を出せしもあり。

又犀の観物は一日より開場の支度整ひ居りし処、前号の欄外に出せし通り(中には洩たるもあり)其前夜俄に所轄天王寺署より追て沙汰する迄見合すべき旨達せられ、其指令書をも一先返上せしめられたり。

又北の新地裏町のいろは席は去卅日の夜より特許を得、操り人形浄瑠璃を初めしに、久しぶりにて見物人の足取よく、是ならば畳一帖に二人の規則を守るも先ず損をする気遣ひはなしと、席主は大に勇み、塩から声を振立て、サア初りぢやサアお這入りと頻りに客を呼ぶ折柄、午后九時頃に至り曾根崎署より席主に至急出頭すべしとの旨達せられしを以て、何事ならんと赴きしに、少し詮議の次第あれば追て沙汰に及ぶ迄開場を見合すべしとの義を申聞けられしにぞ、席主は直に引取り、見物人に其事を伝へて立去らせたり。

以上記すが如く、其筋にては一旦許可せられし指令書を返上させしのみならず、已に開場なしたるものですら中止せられ、然も席小家を再検の上構造向に改良を加へさせ猶検分のありたるもあれど、今に許可の沙汰はなく、中には再検分の無きもあり。是は何故の事か分らざれど、或は彼特許の布達に就き衛生課と検疫本部との間に何か議論ありし為めなりと云ひ、又或は衛生局より電報を以て何か達せられし故ならんかとも云者あれど、皆想像の説に止まり一も信をおくに足らず。

明治1986日 朝日新聞

◇開場は未だ許されず 興行物特許の達しありしに就ては、南区を第一として、其他三区中に開場の儀を出願せしもの已に五十人許もあり。中には構造向を改良する為に幾分か金銭を費し、再三の検分を経たるもあれど、其後何の沙汰も無ければ、四区興行物取締人三田政右衛門、松本儀兵衛、小田三郎、橋本文三郎其他総代人とか仲間の議員とか称する者凡二十人許り、淡路町五丁目二十五番地いくよ席主西村元蔵方へ集会の上、昨日午前当府庁へ開場の儀を伺出しに、府庁にては何か説諭の上引取らせたりとの事。

明治1995日 朝日新聞

◇許されたる人寄席 北区老松町の松鶴亭、東区淡路町の幾世、同区松屋町御旅所にある寄席は、一昨日孰れも開業を許可せられたり。

明治1995 大阪日報

◇興行特許 予て其筋へ解停出願中なりし大坂四区二郡なる各寄席の内、落語席にては東区淡路町五丁目の幾代席、北の新地裏町いろは席、南区千日前法善寺境内小泉席、また講釈席にては同寺境内金沢亭、北区老松町二丁目高橋席、東区松屋町筋生玉神社旅所内北川席の六ケ所に限り一昨日大坂府より興行特許の儀を達せられしに付、右各席はいづれも成規の通り浴室、薫蒸室、隔離室等準備の上、来客は畳一枚に二人を座せしめ、充分予防に注意を加へ、興行時間は午後六時より十二時までの定にて、昨夜よりそれぞれ開場の運びとなりたり。但し興行中茶果を除くの外他の飲食物の中売は一切禁止せられたりと。

扨て右の内幾代、小泉の両席は文都、さん馬、里朝、福松、春光、米枝、米朝、文昇、徳団治など落語家の掛持ち、又いろは席は勝好、小民、可笑、一声等の素人浄瑠理にて人形は山本三左衛門の一座なり。又た高橋席は講談師玉秀斎、その読物は楠公誠忠録、佐賀報義録、天和仁政談なりとのことなり。

〈編者註〉里朝は徳永里朝、盲目の音曲師。春光は林家春好の誤記か。米枝は不詳、米紫の誤記か。米朝は初代桂米朝、初代桂文団治門人、後の三代目桂文団治。徳団治は軽口の桂篤団治の誤記であろう。

明治19911 大阪日報

◇其筋の目玉 久しぶりの開場にて来客の多き故でもあらうが、此程特許を得て開業せし大坂市内の寄席の中には兎角に其筋よりの規定を守らず、臨場警吏の目玉を食ふもの多き由にて、既に一昨々夜の如きも東区松屋町筋生玉旅所境内なる北川席、同淡路町の幾代席などは一畳に付二人の成規なるにも拘らず三人或は四人の客を詰込みしとのことにて、臨場の巡査に厳しく将来を戒しめられしが、尚ほ此外にも南地千日前の「ヘラヘラ」踊り、法善寺の落語席等皆この類なりとて臨監の警吏はいづれも目を皿にして取締居るよし。

明治19914

<初代桂文団治死亡>

桂文団治 001●初代桂文団治 本名鈴木清七。天保十四年生。米丸の名で素人落語で活躍したあと初代桂文枝に入門して桂文団治となった。同時期に入門した文三(二代目文枝)、文之助(曽呂利新左衛門)、文都(月亭文都)と文枝門下の四天王とよばれたが、師匠に何か不義理があったらしく、早くに一門から抜け、師匠の七回忌にも出席せず、二代目文枝襲名にも関与せず、貸車屋や茶店を出し、自ら寄席を経営するなど独立独歩の道を歩んだ。噺家としての実力、人気ともに抜群で、「三枚起請」など茶屋噺が特によかったという。明治八年の「浪花名所昔噺連中見立」には「いろ〳〵とすいの中にもすいの有 難波新地の青楼の賑ひ 桂文団治」とある。また「米揚げ笊」などの新作も作った。まさにこれからという時にコレラにやられ急死したのはまことに惜しまれる。多くの弟子を育てたが、彼の傲岸な性格は二代目文団治(七代目文治)に引き継がれた感がある。916日に大阪日報と朝日新聞に死亡を伝える記事が出た。以下に掲げる。

◇落語家の刺病 大坂落語家の師匠株夫の桂文団治は去る十二日の仲秋に無月なりしより翌十三日の十六夜に観月の宴を開き、仲間の者を呼集めて終夜の飲と洒落けるが、あまりに酒量を過せし故か、翌十四日午後より俄に吐瀉をはじめ、日ごろ塩鯛と綽号おはされしだけ殊に目を窪まして同夜遂に亡くなりしよし。(大阪日報)

文団次死す 当地の落語家にて一二と呼れし桂文団次、本籍西成郡今宮村百六十二番地鈴木清七は、一昨日午前八時頃俄に吐瀉を発したれば、早速医師に診察を乞ひしに、急性腸可答児(カタル)なりとの診断(みたて)にて、天王寺検疫支部へ届出たるを以て、検疫委員出張になりて診察せし処、少し虎列拉の兆候あれば服薬(くすり)を与へしに、これを服(のめ)ば忽地(たちまち)拉病になるとて更に服用せざるを、段々説諭(ときさと)し、漸々本人には承知させたれど、妻は猶之を拒み、薬を奪て服用させざるを、猶さら説諭して服用させ、且虎列拉に変ずるかも知じとて更に薬を与へて引取りたり。然るに文団次はその後薬を服(のま)ず、旁々(かたがた)するうち遂に虎列拉に変じ、同日午后三時、四十四才を一期として死亡せしは彼等が仲間の為に惜むべきなり。その発病の原因は観月の客に招かれ多分の酒を呑しより発したるものならんといへり。(朝日)

        ※          ※          ※

明治19109日 神戸又新日報

◇其筋にて実施検分の上ヤットのこと許可の命が下り、先夜より興行をはじめた楠公社内その他の寄席は、興行物好きの連中が長々の早魃に大分渇を感じた折柄とて、毎夜のように押しかけると。且つは一坪一人という極めがあるので、従来の如く大入りに任せ芋をつめこむように見物を引入れることのできぬとて、屢々客止めの札を掲げるところ多くとは、なるほど左もありなん。

明治19917 大阪日報

◇寄席特許 過日特許を得て人形入の浄留里を催せし同区[北区]北新地裏町のいろは席は、両三日前より文枝、松鶴等一座の落語一座と替へたり。

〈編者註〉松鶴は三代目笑福亭松鶴。この頃は文都と分かれた二代目文枝一派のスケとして同座している。

明治19918 大阪日報

◇寄席特許 大坂南区二ツ井戸の三田講釈席は一昨夜より特許になり講釈師は玉田玉芳斎なりと。

明治19921 大阪日報

◇寄席特許 大坂東区平野町御霊社内の俄席は去十八日夜より其筋の特許を得て歌蝶、二玉、蝶吉等の一座にて開場し、又た同区淡路町五丁目の吉田席(御霊社南門前)は一昨日其筋の特許を得て落語家文枝、小文枝、松鶴、南光等の一座にて昨夜より開場。

〈編者註〉小文枝は桂小文枝、二代目桂文枝門人、後に三代目桂文枝となる。南光は桂南光、二代目文枝門人、後に桂仁左衛門となる。

明治19103 大阪日報

◇興行特許 北区天満天神社内亀の池木鶴席の落語は一昨日より、同所新門常吉席の新(岡本小美津八)は昨日より何れも興行特許なりて開場。

明治191014 大阪日報

◇寄席特許 北区天満天神社内林家岩太郎の俄席及同所辻清兵衛(亀の池)の講釈席は去十一日特許なりしに付一昨夜より開場せり。

明治191020日 日出新聞

◇落語改良の主趣 今度新京極通り幾代席の桂文之助改め曽呂利新左衛門が主唱にて京都落語の改良を企てたるものを聞くに、

第一 落語の改良は人情話、滑稽ばなしいずれも作意の誤りを正すべきこと。

第二 貴顕官吏の挙動を評し或ひは敬礼を失ひたる語を発する事を謹むこと。

第三 賭博者流の詞(ことば)或ひは猥褻(いやらし)き語を発し、其所作振りをなすを謹むこと。

第四 昔より演じ来りし落語の内に勧善懲悪の旨意を失ひたる噺を其侭に演じ聽客(ききて)に謀りて是非を乞ひ改正する事。

第五 高座に於て卑劣なる口上を述べ又は不品行なる所作を謹むこと。

第六 見台の有無は舌者(しゃべりて)の意に任すこと。

第七 表木戸に評の投書凾を掲げ置しむる事。

第八 其日の演題を講座の側に掲出(はりだ)し聽客の望に任せ賛成の多き噺より順々に演ずること。

第九 投書の趣意は落語の巧拙を評し一等二等三等と区別し演者の名前を認めて投書すること。

第十 日数十日毎に開凾し演者の高点なるものへは褒状を与ふる事。

等なりといふ。

明治191031日 朝日新聞

◇人寄席 市中の人寄席は是迄夜分のみ営業を特許せられしが、昨日より其構造向きの衛生に害なきものは昼間をも許さるべき趣きにて、東区の同業取締人後藤万助を東警署へ召還ありて其旨を説諭せられたり。又過日最初に特許を得て開場したる人寄席老松町の松鶴亭、堀江の賑江亭、松島の日の出は独占に大入をなせしが、規則に背き過分の客を入れたるを以て其筋より停止せられ久しく休業なし居しに、右三席とも一昨日再び許されたれば明日より開業するといふ。

明治19117日 朝日新聞

◇興行物の吹寄せ …淡路町幾代席にて翁家さん馬が弊社新聞の読物月の暈を近日より述るとの事。

明治191127日 日出新聞

◇落語家の義捐 新京極の幾代席にては曽呂利新左衛門の発議にて、本日より五日間の興行上り高を以て、ノルマントン号沈没人遺族へ義捐せんと一決し、来客よりは木戸銭だけ二銭宛を受とり、座布団火鉢代は一切貰ひ受ぬ事になし、落語の間に曽呂利が昼夜一度づゝノルマントン号沈没の事情を演ずると云大奮発を起したり。

明治191214日より <講談師落語家合併芝居・道頓堀中劇場>

外題:「競咄講歌舞伎俤」(くらぶるはなかぶきのおもかげ)」十五幕

【配役・講談師の部】

伊豆屋与三郎・義村母・武蔵坊弁慶・秩父重忠・鷺坂伴内・傾城宮城野 嵐呑玉(松月堂呑玉)

明智光秀・按摩丑市・斧定九郎・見る杭の松・鳶の市 尾上半瓢(三省社半瓢)

舎人梅王丸・間重太郎・片岡八郎・弟慈悲蔵後に直江山城守 嵐玉山(亭号不祥)

亭主宗六・大星由良之助 尾上一瓢(三省社一瓢)

舎人桜丸・腰元若菜・亀井六郎・母おみね・折子お竹 中村慶山(西尾慶山)

扇屋上総・早野勘平・腰元浮舟・番卒藤内・原郷右衛門 尾上瓢馬(三省社瓢馬)

佐々木高綱・富樫左衛門・遊女おかる・高阪弾正・勇み吉 市川伯猿(神田伯猿)

花形左門、腰元花巻・軍兵宅内・若党林介・松井内膳 坂東燕丈(笹井燕丈)

三浦之介義村・手代伝兵衛・折子おさか・腰元呉竹・娘おしげ 中村建山(亭号不祥)

折子小萩実はあつ盛・中老尾上・妾おとみ・塩谷判官 実川寿[南]鱗(正流斎南鱗)

傾城青柳太夫・妻入江・塩沢丹三郎・雷金兵衛・勇み辰 尾上瓢柳(亭号不祥)

越名弾正・堤十作・女房お信・太皷持山市・娘お吉 尾上来山(玉龍亭来山)

兄横蔵後に山本勘介・藤原時平・常陸坊海尊・釣鐘屋権兵衛 嵐呑山(松月堂呑山)

【配役・落語家の部】

傾城阿古や・大星力弥 市川里朝(徳永里朝)

桃の井若狭之介・菅原道実・女房お千代・八重垣姫 片岡福松(初代笑福亭福松)

召使お初・妻おたね・女房おくる・妹しのぶ 市川米朝(初代桂米朝、後の三代目桂文団治)

新造宮里・讃岐の局・斧九太夫・手下峰蔵 片岡福助(笑福亭福助、初代笑福亭福松門人)

熊谷次郎直実・局岩ふじ・米屋太郎兵衛・高野師直 米団次改市川米橋(米団治改め桂米喬、後の二代目文団治)

下女おたけ・軍兵兵内・女房おとき 沢村都勇(桂都勇、三代目三遊亭円馬の父)

娘おきみ・小姓要人 尾上卯市(不詳)

女中元□・若イ者清七・娘お清・奴□平 片岡福雀(笑福亭福雀、初代笑福亭福松門人)

舎人松王丸・女房おまき・一力三婦・婆お熊 嵐文昇(二代目桂文昇)

榛沢六郎・こふもりの安 中村さん馬(五代目翁家さん馬)

寺岡平右衛門・堤軍治・傾城花子実は松若丸・腰元元町 坂東梅団治(桂梅団治、軽口)

娘かつら子・妻唐織・女房おしゆん・阿波の局・新造宮柴 市川米八(亭号不詳)

山蔭平馬・百姓戸介・下女おなべ 市川米紫(桂米紫、後の二代目桂米喬)

折子お里・大姫君・軍兵段内・娘おきぬ 嵐梅昇(桂梅昇。その他不祥)

千崎弥五郎・折子お京・舎人松王丸・舎人之介 尾上松橋(四代目笑福亭松喬)

天城軍次兵衛・女中幾野 市川米歌子(桂米歌子、後の三代目桂米団治)

駿河次郎・女房おさん・若イ者花介 市川米三(桂米三。伝不祥)

薬師寺次郎左衛門・女房おらち・古手屋太次郎衛・赤間源左衛門 中村篤団治(桂篤団治、軽口)

長尾景勝・女中桐の谷・源よし経・富田六郎 宗太郎改実川春好(宗太郎改め林家春好、後の五代目林家正三)

猿廻し与次郎・大番頭多左衛門・岩永左衛門・葛飾十右衛門・石松左馬之丞 沢村文都(桂文都、後の月亭文都)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 大阪篇』巻二より作成。配役名のあとの(  )内の芸名は編者が施した。文我は「桂文我出席控」(二冊目・三十丁表裏)にこの役割番付をそのまま写している。ただ役割番付にない自分の名前も記している。そしてこの芝居の役割乱表(十四丁表~十五丁表)も記しているが、そこには講談師で燕丈、瓢柳、来山、落語家で福松、卯市の名前がなく、「勘介母・藤八・惣太・あねは平二 市川文我」と書かれている。明治十八年十一月の戎座の落語家芝居でも文我は同じように役割番付と役割乱表(十三丁裏~十五丁表)を記しているが、それはぴったり合っている。重要な役割を担っている笑福亭福松が欠席しているのが気にかかるが、「出席控」(三十三丁表)の明治二十年一月一日よりの法善寺の項に「笑福亭福松 ナシ」と記されており、体調を崩したか、なにか出られない理由が出来て欠席したと思われる。どちらが正しいかは判断しにくいところだが、上記五名は役割番付を作ったあと出演せず、文我が急遽参加したとみていいのではなかろうか。なお、この落語家芝居に関する記事が二つ出ている。以下に掲げる。

明治19122日 朝日新聞

◇劇場通信 明後十四日より七日間、中の芝居に於て興行する当地の講談師、落語家合併の芝居の芸題は忠臣蔵五六七段目の三幕、白石噺茶屋場、かゞ見山竹刀打より草履打迄、隅田川花俤丑市殺しの場、浮名の横櫛源冶店の場、三代記三浦別の段、廿四孝三段目四段目、お俊伝兵衛堀川の段、勧進帳、兜軍記琴責の段、菅原車場の段、源平躑躅扇屋の段に天城山ダンマリの一場を添(そえ)興行する筈。

明治191216日 朝日新聞

◇劇場通信  又一昨日より開場したる道頓堀中の座の講談師、落語家の合併芝居を見物したる者の咄しにては、二〇加でも無く軽口でもなく、一種無類の芝居にて、中にも忠臣蔵茶屋場にて徳永里朝(法師)の大星力弥は、杖の入さうな心地せられて、是さへ可笑きに、山科さして急ぎけるといふ上るりに連て引込みになる処杯は、盲目の上に舞台馴ざると、見物人のワイ〳〵云ふに逆上(とりのぼ)せけん、花道に彳(たたず)みしまゝ這入る方角を忘れ、暫く思案せし上、手と足にてさぐりながらうろうろとして這入りしは、実に抱腹絶倒にてありしとの事なるが、是では上るりの文句も山科さして探(さぐ)り入ると改めねばなりますまい。

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明治191222日 大阪日報

神戸通信 楠公社内の落語席にては、本年も最早歳末に迫りたればとて、従来の一座へ更に、文枝、松鶴、南光、小文枝、木鶴、南北、染丸、梅枝、枝の助一座が加わり、昨日より来る二十七日迄開席する筈なるが、いかさま近来珍しき大寄席と云い且つは本年の聴おさめ、しゃべり納めとて聴衆も芸人も大奮発にて初日より中々の賑わいなり。

〈編者註〉木鶴は三代目林家木鶴。小文吾から二代目桂文三を襲名したが、二代目林家木鶴の養子となり木鶴と改名した。明治二十一年には元の文三となり、明治二十四年に夭折した。南北は音曲の東西庵南北(南北斎とも)。染丸は後の三代目桂文三。『落語系図』に「二三日林家染丸となり」とおかしな記述があるが、明治十八年暮れから二十一、二年にかけて吾市改め林家染丸と名乗っており、二三年の間違いであろう。しかしこの染丸は正式な改名ではなかったらしく当時から染丸代々には数えられていない。梅枝は二代目桂文枝門人で二代目桂梅枝。俗にオッペケペーの梅枝と云う。枝の助は初代桂枝之助。後に二代目桂円枝になる二代目枝之助の前の枝之助で、『落語系図』明治十九年頃桂派連中の写真に写っている。

明治191225日 朝日新聞

◇西国坊明学 十八人芸を以て聞えし西国坊明学は久しく東京に赴き居たりしが、此程当地に帰り、来る一月一日より桂文枝の一座に加はり久々に出席するといふ。

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丸屋竹山人

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