明治23年

上方落語史料集成 明治23年(1890)1月~5月

明治2311日 大阪毎日新聞

◇大阪の落語席

千日前井筒席は曽呂利新左衛門、笑福亭福松の落語。

淡路町幾代席は文三、文都の落語。

明治2311日 日出新聞

◇京都新京極の落語席 

幾代席は桂藤兵衛、桂文如、桂枝太郎、三笑亭芝楽、林屋菊丸、文明改め桂藤喬、笑福亭柳三、桂文鯉
  
の落語。

笑福亭は笑福亭円笑、三遊亭円喬、桂文福、同玉団治、桂都勇、岡本円徳(曲引き)、岡本宮吉、同みか

ん(新内)。

〈編者註〉

曽呂利新左衛門はもと桂文之助、明治十九年に曽呂利新左衛門と改名した。

笑福亭福松は初代福松。豆狸の綽名で知られる。

文三は二代目桂文三。一時林家木鶴を名乗っていたが、昨年三月に文三に復帰した。

文都は初代桂文都。のち月亭文都と改名する。 

桂藤兵衛は三代目藤兵衛。新京極幾代亭の真打を勤める。

桂文如は六代目桂文治門人、のち桂藤兵衛門人となり藤誠と名乗る。

桂枝太郎は名前を随分変えた人だが、二代目文枝門人となった時に枝太郎と改名した。多く京都に住み、

先斗町の枝太郎として知られる。

三笑亭芝楽は師匠の三代目笑福亭吾竹が五代目三笑亭可楽を襲名した時、自身も笑福亭吾妻より三笑亭芝

楽と改名した。

林屋菊丸は初代林家菊丸の実子で二代目菊丸。盲人。文才に恵まれ「後家馬子」「猿廻し」等の新作を

作った。

文明改め桂藤喬(藤京トモ)は不詳。名前より桂藤兵衛の門人となって改名したと思われる。

笑福亭柳三は三代目笑福亭松鶴門人、後に慶士となる。

桂文鯉は曽呂利新左衛門門人。

笑福亭円笑は二代目笑福亭松鶴。明治十三年頃に円笑と改名し、講談師としても活躍した。

三遊亭円喬は政談演説上りの三遊亭円喬(本名永瀬徳久)、このころ京都笑福亭の真打株として活躍。こ

の年五月に露の五郎兵衛と改名する。

桂文福は名古屋の文福。明治十三年の番付(楳の都陽気賑ひ)に「愛知 桂文福」とある。このころ京都

へ来ていたが、三月には名古屋へ戻っている。

玉団治は二代目文団治門人、改名を重ねた後、三代目桂文都を襲名する。このころ玉助(輔)と併用して

いる。 

桂都勇は桂文都(後の月亭文都)門人、三代目三遊亭円馬の父。

明治2311日 日出新聞

◇落語家の門閥家 目下東京の桂文治と云へば、昔し尻取文句の流行し節、下谷上野の山葛、かつら文治は落語家で、デン〳〵太鼓に笙の笛とまでに唄はれたる程のものにて、其先代は上方より出で、今の文治の祖父に当る文楽は桂大和大掾とて嵯峨大覚寺の御伽衆に加へられたるまで却々(なかなか)いはれのある男なれど、時世時節の変遷(うつりかわ)りは妙なもので、近世は三遊派、柳派世に出で、桂派は兎角用ひられぬ様になり、東京などにては何処の席へ出ても、ウンアノ桂文治が出をつたか、面白くもねへとて不人気なる故、斯くては末々に家名を汚すやうな事あつては先代へ対し相済まぬから、今の内に然るべき者へ名跡を譲らん、幸ひ其名跡を譲るには、京都には今に随分桂派の用ひられをれば、京都に来り桂派のものに相談せんと近日の内に当地へ来る由。

〈編者註〉東京の桂文治は六代目文治。明治四十一年に大阪の二代目桂文団治に七代目を譲って三代目大和大掾と改名する。名前を譲る話がこんな早くにあったというのは興味深い。また譲る相手は明治十三年頃からずっと上方にいる五代目翁家さん馬だったという(21日・大阪朝日)のも初耳である。

明治23115日 金城新報

◇改良落語家大勉強会 近頃社会百般の事業は、日を追て進歩の運びとなり総て改良の途に就たる。今年は国会開設の初期にもあり、神武天皇即位二千五百五十年に相当する今日ゆゑ、落語家の如きも幾分の改良を為ざる可らずと、當市の有志松浦豊三郎氏が会主となり、来る十八日午後五時より一週間南桑名町千歳座に開く改良落語家大勉強会は、東京大阪京都當市は更なり、各地方の落語家の給金定めとも言ふべき大勉強会にして、聴衆をして随意詰問討論をなさしむ由にて、勝し者には箪笥、長持、炬燵櫓、反物、服紗、手拭、提灯等を景物として進呈するよしにて、弁護人はおなじみの橘家圓太郎にして、議長否戯長には石原烈氏(芸名日本舎あづま)を聘するより、開場の上は聴衆先を争いて続々詰懸け、満場立脚の余地なき迄定めし盛況を呈するなるべし。

〈編者註〉橘屋圓太郎は東京のラッパの圓太郎とは別人で、旅廻りの新潟の祭文語り出身の圓太郎。

明治23119日 金城新報

◇千歳座の改良落語大会 一昨十七日夜より開き始めたる當市南桑名町千歳座の改良落語大会は、中々の盛況にて木戸前には大いなるアーチを造り、国旗を交差し其体裁極めて宜しきが、場内に入れば、正面に弁士右側に戯長、左側に紹介人、一段下に議員、弁護人等夫々席を設け、花道の傍らに多くの景品(箪笥、長持、戸棚、ブランケット、箒、駒下駄、提灯等)を陳列し、一見人をして目先替りの観を起さしめぬ。一座には、戯長に日本舎東男(石原烈氏)、弁護人に橘家圓太郎、又富士松司馬吉、林家琴馬等十数名の連中にて、詰問討論勝手次第、勝し者には夫々賞品を与ふると云ふ趣向ゆゑか、傍聴人の受も善く一昨及び昨の両夜とも、来聴人は無慮六七百名に達せし程の賑ひなりしといふ。

〈編者註〉日本舎東男、富士松司馬吉、林家琴馬は不明。

明治23121日 香川新報 

◇滑稽音曲噺 東京人情音曲噺という長鱈しい看板で再昨夜から初まった片原町天神社内の寄席飛梅閣では翁文冶、二代目桂文之助(子供)、桂福之助、立川三玉斎、立川小三枝等が代り合いまして五機嫌を伺う相です。

尾道文治の墓尾道文治②〈編者註〉この文治は、東京の六代目文治ではなく、所謂「尾道文治」「旅文治」と思われる。花柳芳兵衛師が「上方芸能」36号(昭和497月)に発表した「さまざまな桂文治」によると、明治38年に九十三歳で尾道で亡くなっており、尾道の千光寺の入口には、2メートルもある大きな「桂翁文治之碑」と書かれた石碑があったらしい。又文治の墓は信光寺にあり、墓石には「丹頂文治芸姓桂亨年九十三歳」と書かれてあるらしい。写真は、尾道文治の晩年の写真と今も残る文治の墓。

立川三玉斎は、名古屋の人で、二代目三玉斎の弟子で、三木蔵から四代目三光を経て、三代目三玉斎を名乗った。師匠の三玉斎や兄弟子三代目三光ほどの芸の持ち主でなかったようで、京阪の一流席に出演する事はなかった。立川小三枝は三玉斎の弟子と思われるが不明。二代目桂文之助(子供)、桂福之助は不明。

明治23130日 大阪毎日新聞

◇難波福の講談 講談師の四代目石川一口氏は来月一日より北区老松町字大ろうぢ梅枝席に於て浪花潟噂侠客と云名題を以て目下本紙に掲載中なる難波の福松の一代記を演ずる由。

明治2321日 大阪朝日新聞

東京に居る落語家にて有名の桂文治は、今度当地にいる翁屋さん馬に其名を譲り、自分は夢のや露葉と改名し、今少し暖かになれば京大阪より北国地方を巡廻(まわ)るとの事。

明治23220日 香川新報

◇二輪加 当市片原町飛梅閣に於いて昨夜より大蝶一座の二輪加を興行せり。

明治23225日 大阪朝日新聞

関西新聞雑誌同業懇親会 昨年冬期に開くべきを順延となれる同会は、今度神戸の又新日報、神戸新聞、日本魂三社の会主にて一昨廿三日午後第一時より同所諏訪山中常磐楼に於て開会せしが余興には会主の配慮を以て桂梅枝、同小文吾、同玉助、翁家三馬、笑福亭梅香等の落語の催し杯あり。世間のあら、人情の真相、説去り説来るの間、流石口の好からぬ記者も瞠若唖然たる所あり。誠に平日の議論気を離れ、罪もなく半日を消して会の散ぜしは午後七時頃なりき。

〈編者註〉桂梅枝は二代目桂文枝門人文喬より二代目桂梅枝となる。オッペケペーの梅枝。小文吾は桂小文吾。二代目文三門人で、後三代目藤兵衛門人藤枝、藤茂栄から四代目文吾となる。玉助はのち三代目文都となる玉団治のことで、この頃玉助(輔)と玉団治を併用して名乗っていた。笑福亭梅香は二代目松鶴門人九鶴から文之助(曽呂利)門下で梅香となる。のち上京して四代目円生門下で三遊亭海老丸。

明治23225日 香川新報

◇二○加 当市片原町天神社内の飛梅閣の二○加はお馴染の大蝶一座にて五覧(ごらん)になったお方は能く五承知ならんが、一番玉三の滑稽が面白いという評判です。

◇素人浄瑠璃 再昨廿二日、廿三日の両夜当市片原町の東座にて当市中の素人浄瑠璃の温習会ありしに陰暦正月の遊び時といいロハという辺よいか出たわ出たわ非常の大入にて太夫は勿論出方の者等も流石は竹本の節の昔も今も変わらぬ栄へと喜んで居たという。

明治23311日 金城新報

◇本月六日の夜より当市富沢町富本席にて、毎夜興行中なる東京の上等落語家三遊亭圓橘の一座は頗る上人気にて、圓橘の続話「順礼の仇討」は毎夜二席づつを演じ、愈々佳境(おもしろい)処計りで、人情を穿ち得て至極妙妙。又た伯馬の滑稽演説は、笑わせる中に自然と風刺あり。清橘の音曲、是又ヒヤヒヤの声を発(あげ)させ、其他文福、小夢等の援兵ありて、何れも口と腕の達者なる一騎当千の三遊隊、三扇と三橘の旗章を春風に翻し、凱歌発(あ)げるは瞬間(またたくうち)で芸評。

〈編者註〉三遊亭円橘は三遊亭円朝門人で、二代目三遊亭円橘。円朝門下の四天王。音曲の名人立花家橘之助の師匠。伯馬は二代目三遊亭円馬門人で、三遊亭伯馬。のち五代目橘家円太郎となり京都で活躍する。小夢は朝寝坊小夢。幇間で、落語家時代は、朝寝坊夢助の弟子。

明治23313日 日出新聞

笑福亭 新京極六角の落語席笑福亭では、本年一月から同席の元祖とかいふ笑福亭円笑が居座り、三遊亭円喬等と共に落語をしていたが、御ヒイキ厚き旦那さま方のお蔭を蒙り、可なり席も賑ふので、円笑は復席祝ひをかね、一昨日から今夜まで三日間諸芸の大寄を催しをるが、これは又格別に人気よろしき由。就ては明十四日より更に川上音次郎丈が一枚加はり人情ばなしをなす上、円喬も亦オツペケペー踊をやらかす筈なるが、桂藤兵衛のとは少し目先のかはつた処がある由なれば、一寸また来客受がするならんといへり。

〈編者註〉笑福亭円笑(もと二代目笑福亭松鶴)の最後の新聞記事で、翌年八月八日に死亡した。川上音二郎はこのころ京都にいて、浮世亭○○の名前で寄席に出たりしている。オツペケペーは三代目桂藤兵衛が元祖。

明治23325日 日出新聞

新作オツペケペー節 オツペケペーの元祖なる新京極幾代席の座長桂藤兵衛が、今度新作したるオツペケペー節は、おかげ参りを当込みたるものゝ由。慰み半分左に記す。

今年はお蔭の廻り年。外宮内宮の二柱。祓ひ玉へと禰宜さんが。真面目な顔して掛巻も。五十鈴川の水上に。鎮座在す御神は。ズンと神代のその昔。鈿女手力雄猿田彦。太々神楽を囃子立。天の岩戸を出玉ふ。皇国の大御神。今に日本輝きて。徳は四海を天照す。八十末社の宮めぐり。八百と万の神々へ。円金攫んでお上げなさい。比丘尼坂より間の山。杉ぢやお玉ぢや投げさんせ。チヤン〳〵坊主に赤髯さん。束髪権妻丸髷さん。商人さんからお百姓さん。茲処ばかりぢや投さんせ。指輪に帽子金時計。序に革嚢も投げさんせ。オツペケペー、オツペケペツポウ、ペツポウポー。お先へゆくのか阿波出もの。代々講から和歌栄組。御神酒に酔てる猩々講。赤の手拭頬冠り。舞々車に走り餅。芸妓舞子の□迎(さかむか)ひ。十円米食て陽気だね。粋な年増の手を引て。抜けまゐりお楽しみ。ホツトイテお蔭だよ。オツペケペ、オツペケペツポウ、ペツポウポー。八十末社の神々が。高天原に会議して。天津銀行立たげな。一円づゝの一株で。雪隠の神まで株を持ち。八百万円集るさうだ。大層だな。御蔭参りの旅人に。貸しさうな。借らなきや神罰当るげな。六十年目に返しなさい。有難い。ペラ札が。ペラ〳〵空から天下る。拾ひなさい。馬車や人力施行籠。蝙蝠シヤツポン紅手拭。お負に蓑笠草鞋で。筍掘りではあるまいし。貰ふても。着るのに困だろ。目川の田楽姥が餅。ハツタイ豆茶に串団子。一膳飯屋に立飲屋。上等旅籠の無代価で。即席料理に食すげな。古市芸妓が惣踊り。お後でタラ腹酒のます。愉快だよ。土器娼妓が五百人。炮烙会社を組織して。お寝間の枕も有志だよ。おぬけなさい。真個かね。嘘ぢやげな。オツペケペ、オツペケペツポー、ペツポーポーーー。

明治23326日 香川新報

◇飛梅閣の怪談 当市片原町天神社内の寄席飛梅閣の怪談お化の所業は是迄の幽霊とは風が変わって面白いという評判。

明治23327日 香川新報

◇今度、当市片原町東座にて興行する京山恭之助一座のうかれ節は、昨日が初日の筈なりし。

明治2343日 京都日報

今日のお慰さみ

新京極笑福亭 改良落語。

新京極幾代席 桂藤兵衛の落語。 

五條大橋鶴の屋席 桂藤兵衛一座の落語。

新町三条上る福の屋席 枝太郎、文字助、文里、文屋等の落語。

千本通り一条下る長久亭 藤兵衛一座の落語。

〈編者註〉文字助は三代目桂藤兵衛の門人二代目桂文字助。本名杉山長造。東京の噺家で、この頃京都に来て、三代目藤兵衛の弟子となり、文字助と名乗った。明治二十四年頃廃業した。文屋は二代目桂文枝門人、初代桂文屋。軽口の笑福亭松右衛門の実子。本名桂陀羅助。

明治2343日 香川新報

◇飛梅閣の怪談 ながなが御贔屓の当市片原町天神社内の怪談落語は昨夜より横浜の出来事なる洋人殺しを出し、お化は其の殺された西洋人にて是れまでの焼酎火のドロドロで無く新工夫の焼火に凄味を見せ、アアラ恨めしや民谷伊衛門という処を西洋人だけに凡て洋語で遣かすというが、圓山応挙は地下に何と言うで居るか兎も角一度行って見てお遣りなさい短い夜ではあれど。

明治23420日 神戸又新日報

興行だより 

○播半座 北長狭通りの同座は例のジャグラ操一一座の東洋奇術にていつもながら大入。

○伊筒太席 多聞通りの同席は桂玉助、桂小文吾、桂南若、林屋新昇、林屋新鏡、笑福亭梅香、桂延三、林屋正楽、第三世松鶴一座の落語にて是亦相変わらず人気は沢山。

○湊亭 楠社内の同亭は笑福亭福我、笑福亭福梅、桂米紫、鶴賀八十松(女太夫新内)、吾妻家璃光、三遊亭遊馬、笑福亭松光、桂文我一連の落語にて毎日毎夜諸人の頤を脱さしめ居れり。

〈編者註〉

桂南若は二代目桂南光(後の仁左衛門)門人。

林屋新昇は五代目林家正三門人、林家新昇、様々に改名を重ねたのち桂枝雁となる。 

林屋新鏡(林家新鏡)は五代目正三の弟子で、後の六代目正楽。本名織田徳治郎。五代目松鶴の義父。

桂延三は不詳

林屋正楽は五代目正楽で、のち五代目正三となる。

第三世松鶴は三代目笑福亭松鶴のこと。

笑福亭福我と笑福亭福梅は軽口。

桂米紫は二代目桂文団治門人、後に二代目桂米喬となる。

吾妻家璃光は不詳。音曲師か。

三遊亭遊馬は二代目三遊亭円馬門人の三遊亭遊馬か?

笑福亭松光は二代目笑福亭福松門人。「かんやん」の松光。

桂文我は初代桂文我。「桂文我出席控」の筆者。

明治23426日 日出新聞

新京極の幾代席にては、今度いよ〳〵これまでの連中の外に、東京の三遊亭円生、同遊生改め円輔、円太及び清元の富士松佐賀蔵の四枚を加へ、来月一日からお目通りをさせるといふ。

〈編者註〉三遊亭円生は三遊亭円朝門人、四代目三遊亭円生。三代目三遊亭円喬より明治十五年に四代目円生を襲名した。円朝門下の四天王の一人。

遊生改め円輔は四代目三遊亭円生の門人三遊亭円輔。円輔はこのまま京都に留まり、桂藤兵衛の新京極幾代亭に腰を落ち着けた。のち藤兵衛の弟子となり、明治二十五年二月に海立亭龍門と改名、のち桂藤龍となった。円太は四代目三遊亭円生門人で三遊亭円太。生太郎から南生を経て円太となる。

明治2351日 京都日報

幾代席はは桂藤兵衛一座へ東京三遊派の錚々四代目円生と門人円太、円輔、清元佐賀蔵が加はり人情続き噺し。因に云ふ、此円生は三遊亭円朝の門人にして以前は円喬と称し、三代目円生死去の後ち其芸名を継ぎ四代目円生の名を相続せり。滑稽の軽口は勿論人情物が得意なり。

明治2351日 金城新報

◇富本席の人情噺 御存知の當市富澤町の富本席に於て今一日夜より、東京の人情噺し笑福亭語竹の一座が興行し、芝居掛りの新作物を毎夜の続噺し、尚ほ當市の林家正三、朝寝坊小夢、桂文福、立川三玉斎、花澤梅園等が補助に入ると云へば、大入の當日より聴客は沢山富本に富みを来たすでありましょう。

〈編者註〉笑福亭語竹は東北仙台で活躍していた噺家。(当ブログ「東北にいた笑福亭の噺家」参照)。林家正三は名古屋の正三。

明治2353日 日出新聞

幾代の落語 一昨日より新京極の幾代に出席したる東京の三遊亭円生の長助ころしは、流石円朝の一弟子の直打(ねうち)十分あれど、円輔の五人廻しは今一息喰ひ足らず、代りに手踊は軽くて前受もよく、殊に鶴の餌拾ひは妙々との評あり。又円太の重言坊は口達者なれど、前談の直打よりなく、佐賀蔵の新内は上方人の受よろしからずとかいへり。

明治2356日 金城新報

◇久松座と富本 當市八百屋町の久松座にて一昨夜より興行中なる竹本越路太夫の門人越八の女浄瑠璃は、頗る人気があつて今六日夜は御所桜弁慶上使が越勝、お七吉三八百屋が綱巴津、太功記十段目が越八なり。又た富澤町富本席に興行中の笑福亭語竹其外正三、小夢、文福、三玉斎、京寿の一座は素敵な人気にて、毎夜晴雨にかかわらず大入とは全く面白きゆゑで・・・。

明治2358日 日出新聞

都々逸坊のお目見え 新京極六角の笑福亭にては、浮世亭〇〇事川上音次郎が出席するので昼夜大入りを占め、此程一万何千の蔵入をせし程なるが、尚ほ此上にも大入りを占んと、小満之助こと四代目都々一坊を一枚加へ、堅いものと和かいものとを混交て御機嫌を伺ふとの事なれば、弥まし人気沢山なるべし。

〈編者註〉小満之助は初代東家小満の助。本名志沢たけ。幼少より寄席に出、音曲にすぐれ、特に常磐津、トッチリトンを得意とした。明治十九年四月ころ四代目都々一(坊)扇歌を襲名した。

明治2359日 大阪朝日新聞

南区西櫓町に住居する今井嘉吉と云へる男は、道頓堀五座芝居の中売を渡世にする者なるが、同人は至極篤実なる性質にて、一種奇妙なる気風あり。先年櫓町竹田の芝居より出火して焼死人四十余名に及びしを、残らず姓名を取調べ、我が先祖の過去帳に記入して仏壇の内に納め、毎夕香花を手向て追善をなし居たりしに、昨冬千日前にてへら〳〵小屋が潰れ、数名死人のありし由を聞き、その姓名をも過去帳に記して明暮供養をなし、尚近日我菩提所にて大施餓鬼を営むよし。

〈編者註〉今井嘉吉は明治二十五年ころ法善寺西の席(泉熊席)の席主となり、今嘉席と改称する。のち原田ムメに譲り、紅梅亭となる。

明治23510日 日出新聞

新京極の幾代席は今の円生一座は本月限りにて、来月早々よりヘラヘラの本家本元例の三遊亭万橘が来るとのこと。

〈編者註〉初代三遊亭万橘。明治十三年頃、赤い手拭い、赤地の扇子を手にへらへら踊りを始めたところ大流行し、へらへら坊万橘と呼ばれるようになった。明治十六年七月に来阪し、大阪でもヘラヘラブームを巻き起こした。

明治23511日 日出新聞

笑福亭 相変らず人気沢山な新京極笑福亭では、今度小満之助こと四代目都々一坊が一枚加つたので一層の大入を占たるが、何しても婦人は愛嬌があつて仕合せなものサ。扨て都々逸坊は先年見た時と違つて大分身体が肥満た処からして、声はチト‥‥併し三絃の調子は愈よ出でゝ、愈々甘味と申さうか。

次に若宮万次郎子の演説、青柳捨次郎氏の落語は何れも書生連のヒヤ〳〵を博し、円喬改め露の五郎兵衛どのゝ人情ばなし、東京弁でサラ〳〵とした処はシツコイものを食た後でのお茶漬心地。其処で当座の隊長川上音次郎丈は、落語よりも黒幕付の露の五郎兵衛に連引させて談る新内ぶしと同丈自作のオツペケペー節とで非常に人気を取つたといふ。又大切の滑稽討論会も随分賑かで面白いとの評判、何さま那して何日までも人気の落ぬ処を見れば、何処かに甘味ところがあるのか、新地や先斗町、扨は宮川町筋の芸妓までが‥‥因みに記す同席では今明日中から一座総出で都おどりはヨーイヤサをご覧に入るといふ。

〈編者註〉円喬改め露の五郎兵衛 円喬は政談演説上りの自称三遊亭円喬(本名永瀬徳久)で、四代目円生の前名三代目円喬の流れをくむものではない。この改名はクレームがあったか、遠慮したか、それはわからないが、いずれにしろ四代目円生の来京と無関係ではなかろう。永瀬の円喬はこののち円寿、円相、全亭武生と改名後、明治三十一年に六代目朝寝坊むらくを襲名するが、露の五郎兵衛を名のったことはあまり知られていない。

明治23513日 金城新報

◇落語に浄瑠璃 富澤町富本席で久し振りの顔揃ひをステテコ交らず、味噌泣かせを交じず、純粋の落語聞かせたので大當りを占めた笑福亭語竹、林屋正三、立川三玉斎、朝寝坊小夢などの一座は、引続き大須二王門前福寿亭で興行する事になれば又々大當りで、毎夜客止めといふドエライ景気。又當市の女義太夫で、初代の落語家延玉に似た処で名を号(つ)けたぶつくり愛嬌女義太夫竹本土佐吉一座は、今十三日の夜から車の町白廣座でデデンデデンの始まり、又富本では圓朝門人三遊亭遊喬一座の初御目得東京落語の開場を、近日より為すとの事。

〈編者註〉三遊亭遊喬ははじめ二代目三遊亭円馬門人で遊馬、のち三代目三遊亭円遊門人となり遊喬となる。

明治23518日 日出新聞

蓼喰ふ虫も何とやらで、四条大橋近辺の去る料理屋の仲居で三十七八ばかりのお何とやらんは、幾代席に出ている桂中納言藤原の忠勝とは浮世を憚かる仮の名、実本名は元川伝吉といふ頤の短かいオツペケペーの元祖に思ひつき、一昨夜幾代に来て藤兵衛がお得意の円金掴んでお投なさいとおかげまいりのオツペケペー節を遣つている処へ、彼のお何は一円銀貨を紙に包み、舞台へポイと放たので、藤兵衛は軈て楽屋へ引込み、包を披いて見ると、一円銀貨の包み紙へ何やら女の手で書てあるので、其文言を読で見ると、席が果たら蛸薬師のまで待つているサカイ必ず来とおくれやすとの文言に、藤兵衛はホク〳〵喜び、早速蛸薬師の前へ往た処、果して一人の婦人が居て、(編者註:以下色恋話ゆえ省略)。

〈編者註〉三代目桂藤兵衛(本名元川伝吉)は「桂藤兵衛尉藤原忠勝入道顋無斎」と称していた。

明治23520

<五代目三笑亭可楽(京の可楽)死亡>

●五代目三笑亭可楽(京の可楽) 本名原吉弥。生年不詳。明治のはじめごろ京都で笑福亭小三馬と名乗り、のち笑福亭吾竹と改名する。『落語系図』は二代目笑福亭吾竹門人三代目吾竹としているが、実際にだれの指導を受けたのかは不明である。また代数も三代目ではなく四代目である可能性が高い。明治十七年ころ吾竹より五代目三笑亭可楽と改名する。自身は五代目と称していたが、このとき東京に五代目可楽を襲名した平田芳五郎がおり、東京の可楽の代数には数えず、京の可楽と呼んで区別されている。芸風は伝わっていないが、明治二十年ころより三代目桂藤兵衛とともに新京極幾代席の真打として活躍しているから、かなりの力量があったと思われる。弟子に三笑亭芝楽(辻村藤三郎)がおり、かれが師匠の追福のために石碑を建立したという記事(1123日付「京都日報」)があり、それにより京の可楽の死亡した日を確定した。以下にその記事を掲げる。

落語家の義挙 新京極の幾代席に出勤する落語家にて、米山節の名人に此人ありと知られたる三笑亭芝楽丈は、感心にも先に本年五月二十日に死去せれれたる師匠三笑亭可楽丈の追福の為に、専ら石碑の建立を周旋せらしが、該石碑は高四尺余り周り三尺余の自然石に高原院可楽日光信士と金字にて立派に彫刻したる者なるが、昨日愈出来上りたれば、本日菩提処なる東大谷に据付る由。又同丈は該供養として同夜幾代席へ出席の序手、来客一統へ何か思付の景物を出さる由なるが、其景物[の]多少は兎も角も同丈が義心に賛し皆さん今[日]はゾロ〳〵と同席へ入ラツシヤイ。」

〈参考文献〉橋本礼一「上方で三笑亭を名乗った噺家たち」(『藝能懇話』二十一号・平成28年所収)

明治23521日 日出新聞

新京極幾代席に出勤の三遊亭円生一座は、一先づ本月中にて東京へ帰り、更にぎん蝶、朝正、山正、左文、左鏡等の一座が来月一日から出勤し、同中旬よりはヘラ〳〵の元祖万橘も出席する筈なりと。

〈編者註〉ぎん蝶は二代目富士松ぎん蝶、盲人、三代目柳亭左楽の弟。朝正、山正は不詳。左文[丈ヵ]、左鏡は二代目柳亭左楽の弟子か?

明治23530日 神戸又新日報

有声共楽会とは何ぞ 過日来浪花の地に杖を駐めし仮名垣猫々道人魯文翁(六十二)が、東帰の名残りに京阪神間の人々と倶に書画雑俳の雅筵を、来月三日午前十時より晴雨を論ぜず、大坂南区竹屋町なる市川右団治方に於いて開く其会の題名なり。余興に八雲琴、手品あり、新聞艷舌は川上音次郎、即席落語は曾呂利新左衛門、流行音曲は都都逸女扇歌[都々一坊扇歌]、上るりは高島屋門弟中、これを勤むこれ有声の共楽ならん。又百人一首の福引に百種の景物を来客に呈するとは、翁が百歳の寿尚四十年余を壮健に送らん事を祝しての趣向かどうか。翁が知己に配りし扇面の自筆は「老楽の軒端あゆみやころもがへ魯叟」

上方落語史料集成 明治23年(1890)6月~12月

明治2361日 日出新聞

本日より雁首をさしかへる新京極の落語席幾代の連中は、菊三、新吾、文鯉、柳川、菊丸、文屋、文如、文字助、遊生、芝楽、藤京(文明改め)、藤兵衛にて、其中遊生といふは今度円生のかはりに東京より来りしものなるが、はなしの筋もよく、声もタツプリなる方なれど、三遊亭派にては品格に乏しければ、今少し落付き、切(せめ)て十徳でも衣(き)ては如何といふものあり。又同席は円生の出勤中、三銭の木戸を五銭にしたるため、何ぼ何でも此節がら‥‥とて、たま足を踏客もありし様になりたる故に付、今度は三銭に引下げたりといふ。

〈編者註〉菊三は林家菊三。初代林家菊丸の弟子か。713日付「日出新聞」に死亡記事が出ている。新吾、柳川は不詳。遊生は先の「遊生改め円輔」のことか? 藤京(文明改め)は上掲11日付「日出新聞」には文明改め「藤喬」とあり、何れが正しいかは不明。

明治2368日 日出新聞

落語家の政談演説会 目下営業停止中なる新京極笑福亭の落語家浮世亭〇〇事川上音次郎丈は、同じ落語家仲間なる若宮万次郎、青柳捨次郎の両丈と共に、来る十日午後七時より四条南劇場にて政談演説会を開くよし。

明治23610日 京都日報

ぼや〳〵 新京極六角下る怪談席玉助の一座、笑福亭にて昨日午後二時頃砲発一声するや忽ち黒烟立昇り既に大事に相成べき次第なりしが、近隣の者を始め各寄席に居合せしものも出て寄てたかつて漸く消し止めたり。其の発火の原因は、昨今該席は川上音次郎の情談も停止の事なれば、円生と切に玉助怪談を興行なし居りて、其怪談用に充つ焔硝に火気が移りて発火せしものなるよし。一時は近所の寄席の見物人が騒ぎ立て、非常に混雑を極めたりと。

明治23621日 中外電報

落語研究会 新京極幾代席にては、昨夜より落語研究会を催し、戯長、弁士、弁護人、狂戯員等をおき、落語の穴を拾ひたる来客には景法のまね景才、ふぬ景才、はぬ景才、ずばぬ景才等に照し、相当の景物を出す由にて、昨日は広告のため、同座の連中が得もいはれぬ姿して大幟を押樹て鳴物入りにて、各遊廓を廻り半額券千枚を撒布したりといふ。

明治23710日 日出新聞

笑福亭 新京極六角下る笑福亭にては、今度露の五郎兵衛が会主なりと曽呂利新左衛門の一座に林家花丸を加へ、尚ほ別客として東雲舎愛民、世界亭弘道及び眠軒舎〇〇が出席し、明十一日より興行する由。

〈編者註〉林家花丸は初代林家菊丸の実子で、兄が二代目林家菊丸。史料は少ないが、明治二十六年の番付では西前頭三枚目(二代目桂文団治の次)に位置し、かなりの実力者であったことが推測できる。

明治23711日 香川新報

◇自由二輪加 明十二日より当市片原町の古天神社内肥梅閣に於いて大坂下りの光玉斎の一座が自由二輪加を興行する由。

明治23713日 日出新聞

<林家菊三死亡>

芝楽、菊三の骨を喫る 新京極幾世席に出勤しいたる林家菊三は、永らく病気の床に就きをりしが、定業来りて遂に死亡し、一昨日花山の火葬場へ葬送りたるが、其途中桂藤兵衛藤原忠勝が籠の後をおして、夏祭りの儀兵衛を気取りしより、何がさて供立ちの落語家連中は各自洒落出してワイ〳〵と火葬場に至り、休息中にも八々をするものもあれば、酒を呑でケンを打つもあり、或は巡礼、紙屑買ひと有ツ丈(ありったけ)の駄洒落は丸で芸廻しをするやうなりしが、軈て骨が焼上りしとて骨拾ひに出たる中の芝楽が、ヒエ薬なりと云ひながら、今焼上つたまゝの菊三の頭骨をボリ〳〵と食出したには、流石の一同も胆を潰したが、芝楽は尚ほ食足らでや、咽喉仏をソツと山菓子の袋に入て茶屋に持帰りおきしに、吾喬はそれとも知らず一途に山菓子なりと心得、之も亦右の骨をバリ〳〵と食たので、一座再(にど)吃驚したりといふ。斯いふ連中にかゝつては今に生きている人間迄をも喰か、オウ怖やの〳〵。

〈編者註〉林家菊三の死亡を伝える唯一の記事。明治十三年の番付(楳の都陽気賑ひ)に東前頭十五枚目に「林菊三」とあり、そこそこの地位を得ていたと思われが、噺家としての活躍は殆んど伝えられていない。吾喬は不詳。

明治2381日 日出新聞

興行物掃寄(編者註:落語席のみ記載)

幾代席 藤兵衛、芝楽の落語。

笑福亭 旭堂勝の改良講談。

明治2383日 香川新報

◇肥梅閣 片原町古天神社境内肥梅閣にては去三十日より圓馬一座の浮節を興行し居るに人気よく相当の入りなりと。

◇帰天斎一学 先頃延寿閣にて御贔屓になりし同人の一座は郡河郡琴平にて興行中の所昨日にて同地を打上げたれば再び当市に来り明四日より以前の如く延寿閣にて相替らずの御贔屓を仰ぐという。

〈編者註〉円馬は二代目三遊亭円馬ではなく、旅回りの噺家であろう。

明治23813日 新愛知

◇人情はなし 此程富澤町富本座に興行したる翁家さん馬、三遊亭遊生は今十三日夜より大須境内福寿亭にて興行し三味線曲引を寿楽がなすとの事。

明治23814日 京都日報

新京極幾代の席は永らく落語の討論会をなせしが、今度は桂藤兵衛一座に三遊亭鶴染を加へて明十四日より通常の昔噺。

〈編者註〉三遊亭鶴染は不詳。

明治23823日 金城新報

◇諸芸種蔵大掃除とは無雑作のようだが、舊半季の片付興行、イヤそうではない。今度林家延笑が立川三光と改名した披露をかね勝鶴、文福などが補助となつて、今晩から大須仁王門前福寿亭にて音曲落語大入。

〈編者註〉林家延笑は二代目と思われる。この人が立川三光を襲名したという事は、五代目という事になる。しかし、どちらにしても、名古屋の二流落語家の感あり。笑福亭勝鶴は晩年神戸にいた勝鶴と同一人物かどうか不明。同一人物だとすると、本名藤堂新一郎。東京の落語家で、二代目小勝の弟子で小勇(遊)と名乗ったが、下阪して三代目松鶴の弟子となり、梅鶴から勝鶴を名乗った人。しかし、二代目梅鶴から勝鶴への改名は、明治三十年頃と思われ、その前に先代がいた可能性もある。

明治23826日 大阪朝日新聞

阿呆陀羅経読の慈善家 身は盲目ながら二つの木魚をポコ〳〵鳴し、毎日阿呆陀羅経を読歩き、木魚より叩き出したる金を貯へ置て、貧民の救助費に充て居る南区日本橋筋五丁目宮本長兵衛芸名都市丸(以下略)。

明治23830日 日出新聞

浮世亭〇〇 本名川上音次郎氏は久しく新京極笑福亭にて人気を取りしが先般来名古屋より東海道を処々に興行し此頃は横浜蔦座に於て滑稽演劇をなし居る処初日より評判宜しくして日々大入りなり。近日東京へ打て出づる積りなりと〇〇贔負の方へ知らせて呉れとも何とも本人より申し来らざれど聞くがまゝに記す。

明治2399  香川新報

◇延寿閣の政談演説会 監獄亭自由童子と云へる称号を以って一昨七日当市片原町延寿閣に開きし政談演説会は傍聴人三、四百人にて政府と人民の関係、胴欲非道の心柄、官吏の職務と云へる三題を演せられしが其の口調は余程滑稽交わりなれば欲耳に入り易きとの評判なりし。

明治23918日 金城新報

◇諧謔と頓才にて米蔵へ紙袋は冠らせねど、臍を大風呂敷に包んで西国へ輸出さす、京阪一等の落語家桂文之助事曾呂利新左衛門は、今度浪速の虎列刺除け旁々上京の途次、当地へ来るを幸い、ひと取らえられての一興行。今晩から大須門前福寿亭で滑稽落語の開場をするとの事。諸君、耳をなめられにお出掛け。

明治23920日 日出新聞

興行物 昨今新京極辺の諸興行物は見物人至りて少なく、笑福亭の落語は文団治などの新顔が加はり居るに拘らず、毎夜の入は場内の半に満たず。幾代席も略ぼ同様なり。

〈編者註〉文団治は二代目桂文団治、後の七代目文治。

明治23929日 扶桑新報

◇東京にては三遊亭圓朝、大阪にては曾呂利新左衛門丈、東阪両府の落語の統領、且文筆に奇才あって、新作落語の妙案を折々新聞、雑誌に著はし、有名益々世に高きその一方の大将曾呂利新左衛門丈が、当市にて興行中の娯愛顧にと、昼寝の隙かなぐり書き、目下目につく中であづきの大流行を題とした一口落語の新作を社員の許へ寄送されたれば、秋の夜の陰気払いに、今日ではない明日記載す。諸君、お臍の宿替せぬ用心をしてお待ち下さい。

明治23101日 新愛知

◇橋又座 當市巾下の橋又座に於ては、西京での名人という講談師田川琴龍にて興行の由。尤もこれは當市の講談師小林天山が万事周旋したという。

明治23101日 日出新聞

新京極本日の諸興行 

幾代席 桂藤兵衛一座の落語。

笑福亭 桂文団治一座の落語。

明治231012日 扶桑新聞

◇予て当市富沢町の富本席に興行中なる大阪改良落語家曾呂利新左衛門は、今夜、同人の十八番鳴る「天下一浮れの屑撰り」を噺すと云えば、是れは聴きもの。

明治231014日 扶桑新聞

◇日本扶桑自由講談専門学校教師中止解散博士、木村武之佐丈は、明晩より当市車の町の白広座に於て、「二月の壮士花か雪か」「徳島県士族・米沢勝子女史の伝」ニ題を演じる由。

明治231021日 扶桑新聞

◇徳永里朝 えんかいな節を天下に流行せしめなる大坂にて有名なる音曲師徳永里朝は、一昨年東京に上り、柳派の落語党に加はり、又寄所に出勤して縁腕(えんかいな)節を弘め大いに評判を博したるが、今度日本橋区高砂町歌澤節の家元三代目芝金の門に入り、歌澤芝朝斎と改名となりたり。

〈編者註〉徳永里朝は盲人の音曲家。琴、三味線の名手で、明治五年頃から寄席に出演し、曲引や「米山節」「縁かいな節」で売り出した。レコードも多く残している。このころ三代目歌沢芝金の門下となり歌沢芝朝斎と称している。

明治231024日 新愛知

◇二○力の手打 末廣座で大當りをし引続き本重町新守座で、一昨日から大入をした大坂二○力の大一座は、今度又同一座中へ更に大坂から手打連というを招き加え舊時専ら大坂で流行せし手打を一幕加えて見せるという。此手打というは、天保嘉永頃大坂の大手笹瀬等の贔屓連中(當地の大笹花岡真蘇木などと同断)が、毎年顔見世(舊十一月)毎投頭巾揃え立役者と一々を見物に引合せ、拍子を鳴物に合せ如くに面白く囃子もの(とは申さずともご存知ながら)にて、目今は衰えたるも手打といつては大坂にてやかましく且つ中々むつかしき古実のあるものなりと。知新温古の一斑又目新しき見物にこそなん、尚同手打には當地の正三、夢助、小夢、銀次郎などの各幇間なども加わるとの事にて、いよいよこれは二十五日から始めます由。

〈編者註〉林家正三、朝寝坊夢助、朝寝坊小夢、林家銀次郎(銀次)は元落語家で、名古屋で巴連という幇間仲間の会を結成して、時々落語会も催していた。夢助は京都の幇間で、小夢の師匠。

明治231026日 新愛知

◇白廣座 當市魚の棚車の町の白廣座に於ては、今晩より當地の落語家立川三光の一座打揃つて、如智湧會(ぢょちゆう)と名付け開演する由にて。顧客の顎を脱させお臍の宿替をさせる中に、世の中を全て圓くさせ喧嘩口論ムシリ合い摑み合い蹴飛ばし競べなどは一切無い様に、其上笑えば胸膈(?)が開いて無病息災になり、落語家の顔を見れば家内和合なると云妙な呪いもなると云うから、お誘い合されてお早くとお運びをお願いしますと頼まれもせぬ口上左様ツ。

明治231027日 新愛知

◇音曲人情面白話し橘家圓太郎一座は富澤町富本座にて今晩より大入。

明治23111日 扶桑新聞

◇当市巾下の橋又座にて大入を占めたる扶桑独立講談長木村式之亮丈は、昨夜より五日間日延、其傍聴料は貧民救助費に充てんとの都合なりと。

明治23111 日出新聞

諸興行の吹寄せ 

幾代席 藤兵衛、芝楽連の落語。

笑福亭 桂文団治、小団治等の落語。

〈編者註〉小団治は二代目桂文之助、三升家紋右衛門が名乗った名前だが、ともにこの時期には合致しない。

明治231116日 京都日報

今日の遊び場 

幾代席 桂藤兵衛の一座。

笑福亭席 木鶴、小団治一座の昔噺。

〈編者註〉木鶴は二代目笑福亭松鶴門下の二代目笑福亭木鶴。四十年近く新京極笑福亭に出ている。役者出身で芝居噺や怪談噺を得意とした。また落語芝居では常に大役を独占したという。本名岡田文里。

明治23123日 日出新聞

芝居と寄席 新京極の寄席は笑福亭へ今までの連中の外に、松福亭[笑福亭]福松を加へ、また幾代にては遊生の代りに枕積の達者もの桂小藤太(横文字改)が代り合ひまして御機嫌を伺ひ、又大虎座にては新内小馬井と物真似師松朝の二顔が加はりて大切に楽屋のこらず代り〴〵に顔を出して各々十八番の芸尽しをする筈なりとか。

〈編者註〉桂小藤太は三代目桂藤兵衛門人、桂横文字より小藤太と改名した。

明治23127日 扶桑新聞

◇来る十一日頃より当市富沢町の富本席において、東京上等新講談師・美髯の評ある猫遊軒伯知丈が興行す。

明治231214日~19日<幇間・俄師・落語家芝居・京都四条北座>

外題:「仮名手本忠臣蔵」大序より七段目まで/「所作事 達競矢倉賑」 

【配役】

大序 鶴ケ岡兜改め段

足利直よし(富士田八助)・高師直(嵐璃朝)・顔世御前(粟亭東寿)→(桂文雀)・塩冶判官(和田政
  八)・若狭之助(橘家光吉)・そう式(市川芦光)

二幕目 建長寺の段

加古川本蔵(桂文団治)・若狭之助(笑福亭木鶴)・所化(市川団五平)・所化(坂東小玉)

三幕目 恋歌の意趣

高師直(初春亭正玉)・鷺坂伴内(桂藤兵衛)・塩冶判官(尾上梅昇)→粟亭東寿・若狭之助(富士田八助)・早野勘平(橘家光吉)・加古川本蔵(実川菊枝)・腰元おかる(橘家花助)・共の奴(坂東小玉)

四幕目 扇ケ谷の段

石堂馬之丞(梅村梅八)・薬師寺次郎左衛門(笑福亭福松)→嵐璃朝・塩冶判官(初春亭新玉)・大星由良之助(初春亭馬鹿八)・斧九太夫(市川左海)・原郷右衛門(嵐璃朝)→笑福亭木鶴・千崎弥五郎(尾上梅昇)→桂しん吾・矢間重太郎(和田政八)・竹森喜多八(市川市昇)→実川菊枝・大星力弥(橘家馬士作)・顔世御前(粟亭東寿)→桂文雀

五幕目 恩愛の二ツ玉

斧九太夫(桂文団治)・千崎弥五郎(桂米団治)・早野勘平(笑福亭福松)・百姓与一兵衛(橘家花助)・ 
  猪シ(市川米竹)

六幕目 財布の連判

原郷右衛門(嵐璃朝)→笑福亭木鶴・千崎弥五郎(市川市昇)→桂志ん吾・早野勘平(三笑亭芝楽)・一文
 字屋才兵衛(嵐当昇)→桂文雀・ぜげん渡六(尾上梅昇)・種がしま六兵衛(富士田八助)・狸の角兵衛
 (梅村梅八)・めっぽう弥八(初春亭馬鹿勇)・母おかや(中村天丸)・女房おかる(桂米団治) 

→粟亭東寿

七幕目 大尽の錆刀

大星由良之助(市川市昇)・斧九太夫(橘家花助)・鷺坂伴内(橘家馬仕作)・矢間重太郎(嵐璃朝)・千崎弥五郎(尾上梅昇)・竹森喜多八(市川左海)・大星力弥(和田政八)・寺岡平右衛門(実川菊枝)・亭主才助(嵐当昇)・伯人おかる(粟亭東寿)・中居お市(初春亭馬鹿勇)

〈編者註〉『近代歌舞伎年表 京都篇』第二巻より作成。番付が二枚存在し、→はその異同を示す。幇間、俄師、落語家合同で、区別のつかないものもあるが、上記の出演者のうち落語家は桂文雀、桂文団治、笑福亭木鶴、桂藤兵衛、笑福亭福松、桂しん吾、桂米団治、三笑亭芝楽であると思われる。米団治は二代目桂文団治門人で二代目桂米団治、後に三代目桂文団治となる。桂しん吾は曾呂利新左衛門か二代目文枝の弟子。桂文雀は舌切亭すずめから改名した小宮山健吉の文雀しか知らないが、時代が合わない気がする。かれより前に文雀を名乗る噺家がいたか、或は番付が文如と間違えて書いた可能性もある。なぜならこのころ京都で活躍していたのは文如で、文雀の名前は明治三十年代にならないとどの新聞にも出ないからである。

 この芝居に関する記事が二つあるので以下に掲げる。

明治231212日 京都日報

北演劇にて 来る十五日より催す顔見世は先づ幇間にては光作、馬士作、花助、落語家にては幾久代席より桂藤兵衛、芝楽、文如、笑福亭の福松、文団治、米団治、大虎座の馬鹿八、正玉、東寿、大坂よりは天丸、米昇等(ネツカラ付の玉揃)が加はり、演ずる世界は忠臣蔵の通しの由。定めし桂中納言藤原忠勝氏の鷺坂伴内、馬鹿八の由良之助、東寿のおかる杯はゝなしの千両の直打は今より請合、イヨー成田屋、成福屋、音羽屋。

〈編者註〉米団治は二代目桂文団治門人で二代目桂米団治、後に三代目桂文団治となる。

明治231218日 日出新聞

芝居便り 四条北座の素人芝居は思ひしより大受にて、大入を占むるゆゑ、これではもつと興行ずには居られぬワイと昨十七日から三日の間日延とは発奮〳〵。但し笑福亭福松が大坂へ立帰たので、福松の勤めて居た猪打の勘平を米団治に振かへ、米団治役の弥五郎をしん吾が勤むるよし。

   ※          ※          ※

明治231219日 大阪毎日新聞

◇[広告]弊亭儀諸君之御庇を以てますます繁昌仕候段奉深謝候。然る処本年も彌々余日無之差迫り、諸事繁多に相成候ニ就き、本月廿一日限り休業仕、猶又明治廿四年第一月一日より従前之通り相始め候間、四方の諸君不相変賑々敷御入来之程奉希上候也 大阪東区せんば  十二月十五日 落語館 幾代亭

明治231221日 金城新報

◇滑稽討論会 本夜より當市八百屋町の久松座において滑稽討論大会を開会する由なるが、其討論題は、女子に惚らるる場合と借金取りに責めらるる場合と何れがつらきや、集会所にて屁を放ると欠伸を為る何れが失敬なるや外数題にて。弁士は桂鶴團次、林家圓玉、内田健次郎、戯長は社会亭東洋等の人々にて、傍聴者の質問に対し議長が答弁に苦しむときには其償いとして反物、桶其他の品物を出すと云ふ。

〈編者註〉桂鶴団治は初代文団治の弟子で、後文鶴と改名する。大正初期、神戸の寄席に出演していた記録あり。林家円玉は名古屋の延玉か不明。名古屋の円玉(延玉)の記事は、明治十年以降はこれが初出。この二人、119日付「金城新報」にあった日本舎東男、富士松司馬吉、林家琴馬同様、一流の席には出られない芸人であったようだ。

明治231224日 大阪毎日新聞

◇市内落語寄席の弊風 と題して退屈山人てふ人より小言タラタラの投書を見るに、従来市内の各噺小屋の中には往々一月の三ケ日其の他の紋日と称する日には木戸銭を倍増し、或は半倍に値上げして来客の感情を害するの弊風あり。是れ東京の寄席等には見度くても無い事にして、些細の儀なれど幾分か土地の名誉にも関する訳ゆゑ、早や一月も数日の前にあれば、其の向きの人々は元日匆々より此の悪弊を矯正して貰ひ度し云々とあり。果して事実さうした訳なら甚だ不都合、吾々も亦山人と同感なれば、こゝに一寸一言致し置くこと然り。

 

プロフィール

丸屋竹山人

カテゴリー
  • ライブドアブログ