明治27年

上方落語史料集成 明治27年(1894)1月~3月

明治261231日 大阪毎日新聞

◇一月興行物 (大阪)

法善寺金沢席、淡路町幾代席 桂文枝一座の落語

法善寺井筒席、堀江賑江亭 文都、福松一座の落語

松島日の出席 円馬一座の落語

明治2711日 京都日出新聞

◇寄席案内(京都)

 幾代席 桂藤兵衛、枝太郎、藤竜一座の落語。

笑福亭 木鶴、藤枝一座の落語。

〈編者註〉

桂枝太郎は二代目文枝門人となって枝太郎と改名し、生涯この名を名乗った。目が細いので「象の眼」と綽名された。また多く京都に住み、先斗町の枝太郎として知られる。

藤竜は四代目三遊亭円生の門人三遊亭円輔。明治二十三年に東京から円生と共に来たが、円輔はそのまま京都に留まり、桂藤兵衛の新京極幾代亭に腰を落ち着けた。のち藤兵衛の弟子となり、明治二十五年二月に海立亭龍門と改名し、この度桂藤龍と改めた。

木鶴は二代目笑福亭木鶴。初め初代桂文枝門人で文里、のち二代目笑福亭松鶴門人となって二代目木鶴とな
 る。新京極笑福亭の真打格を勤める。

藤枝は前名小文吾。藤兵衛の門人となって藤枝と改名した。藤枝の名はこれが初出。「らくだ」で有名な後の名人四代目桂文吾である。藤兵衛の弟子となったのなら本来幾代亭に出るべきだが、なぜか笑福亭に出ている。後の記事は幾代亭になっており、間違いかも。

明治2711日 扶桑新聞

◇名古屋新年初興行

▲末廣座は守太郎、雷子、右若、雛太郎、徳次郎、巌次郎、橘蝶、紫好等の一座にて本日午前十一時より大入昼夜通し▲寶生座は喜楽、松童、左升等の一座にて午前九時午後五時より大入昼夜興行 ▲新守座は河蔵、橋三郎、璃升等の一座にて本日午前九時午後五時より大入昼夜興行 ▲弘法座橘町の同座は坂東鶴太郎、嵐豊司等の一座にて本日午後一時大入 ▲音羽座は岡本美根登司の説教源氏節手踊 ▲笑福座 橋詰町の同座は岡本美代司一座にて本日午後六時より説教源氏節手踊▲京枡座 代官町の同座は岡本みさ鶴一座の説教源氏節手踊 ▲正福座 宮出町の同座は岡本美住都女同上 ▲富本席は阿波女浄瑠璃竹本新緑一座にて今一日より ▲旭亭 旭郭の同亭は曾呂利新左衛門定席の本看板を掲げ文福が取締をして本日より杉本席 杉の町の同席は曾呂利と文福などが旭亭とかけもちにて ▲橋又座 外田町の同座は昼が正流斎南窓一座の講談夜が吉川虎丸一座の浮れ節 ▲若松座 旭廓も吉川虎丸の浮れ節▲桔梗座 大須の同座は浪花屋辰丸の浮れ節 ▲開慶座 橋詰町の同座は吉川辰丸の浮れ節 ▲寿亭 久屋町の同亭は昼席小林天山の講談夜が諸芸新年大会 ▲東雲座 古渡町の同座は圓寿の自慢噺

明治2711日より旭亭定席と杉本座 「桂文我出席控」

◇一月一日より名古屋花園町旭亭定席と名古屋杉本町杉本座を掛持ち。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新之助、桂文橘、桂福助、四山坊瓢、桂小文福、骨亭新作、骨亭新右、笑福亭円光、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉桂文我は昨年十月から今年四月中旬まで名古屋で曽呂利新左衛門の一座に加わっている。かれの「出席控」の三冊目(二冊目は紛失)がちょうど明治二十七年一月一日から始まっており、期せずして四月までの曽呂利の名古屋及び地方巡業の全貌を知ることが出来る。こうしたことは非常に珍しいので、この期間に限り「桂文我出席控」(藝能懇話別冊第二巻)により逐次出番を掲載しておきたい

桂文福は名古屋の文福。明治九年頃に名古屋に来て、そのまま居付いた。晩年、息子小文福に二代目文福を譲り、本人は、富本席の席主となった。骨亭新之助、新作(のち三代目文字助)、新右(のち三代目文来)は曽呂利の弟子。曽呂利は骸骨と綽名され、しゃれこうべの絵を好んで描いているので 洒落て弟子たちに「骨亭」などという亭号を付けたのであろう。文橘は昨年から曽呂利の一座に出ているが詳細不詳。四山坊瓢髭の家なまづであろう。詳細不祥。笑福亭円光二代目桂文昇門人文舎から三代目笑福亭松鶴門人となって円光となる。明治三十七年、浪花三友派に復帰する時に三代目(四代目トモ)梅香と改名。仇名は「呑んだくれの梅香」。本名飛呂秀吉。

明治2713日 大阪朝日新聞

◇隣の福 難波新地塀の側にてヘラ〳〵と饒舌て暮すへラ〳〵の万橘は、旧臘のおし詰、支那産の蓮根の至つて美事に肥りしものを買ひ調へ、船場の或る贔負先へ歳暮の進物に持ちゆき、「旦那相変らず明年も後贔負に」と例の如才なき挨拶ぶりに、旦那ホタ〳〵と笑ひ、「オヽ万橘か、宜う来た、エ何ぢや歳暮のお遣ひ物かナ、夫は夫は気の毒な」と、風呂敷打開き品物を見て眼に稜(かど)立て、「万橘、是りや蓮根ぢやないか、蓮は仏の供物で祝進物には大の忌物、但し己を早く仏にせうとの心で持て来たか」と、思の外大の不興、万橘恐れ入つて掌の皮剥ける程擦つて天窓(あたま)を下げ、「決して〳〵左様な意で持参は致しません、此蓮根と申すものは一年々々増殖るもので、御当家の御財産も此通り増殖(ふえ)て〳〵弥(いや)がうへに増殖るやうと存じましての事で」と、商売柄の舌を爰一生懸命と廻らするに、旦那は増殖るものと聞てハツト手を打ち、「成程増殖るを延喜に持て来て呉れたのか、夫ならお目出たしぢや、ヨシ〳〵夫は有難い」と打て変つた機嫌に、鱈腹酒まで侑められ、最早お暇といふ頃、「是は蓮根のお壥頭(ため)ぢや」と手の切れるやうな五円札一枚投出され、万橘夢に牡丹餅より嬉しく、額で畳をコツコツ叩き廻り、喜び勇んで宅に帰り、家内を始め近所隣りへも此咄しを仕廻りしに、ツイ近辺の市川段助といふ役者、是を聞て羨しがり、余も一ばん万橘のやうな事をして正月を楽々迎へねばならぬとは思ふものゝ、贔負先とてはなし、旦那といふてはなし、差詰め親方の許へ持てゆく外なし、扨何が宜からうと女房を呼び、「何でも根の太いものが延喜が宜からうから、難波の市場へ往て見計らひで買ふて来よ」と銭を渡せば、女房は呑込み、早速市場へ駆ゆき、根の太いものをと一生懸命走り廻り、漸々風呂敷にドツサリ包んで買ひ戻り、「サア是を持て往てお壥頭をどつさり貰つてお出なさい」と前へさし出すを、段蔵、品は何ぢやと開き見れば、太りも太りし京大根なりしかば、段蔵は手を拱(こまぬ)き「親方の許へ大根とは何うであらうナ」

明治2717日 扶桑新聞

旭亭の祝興行 名古屋旭廓花園町の旭亭へ曾呂利新左衛門が定席として出勤後恰是来四月にて満一周年となるに付き其祝興行を明七日に繰上げ昼席に祝意を表する為め木戸銭無料

清栄座の講談 名古屋市清水町の清栄座にて昨日午後六時より小林天山が出勤

明治27113日より富本席 「桂文我出席控」

一月十三日より名古屋市七軒町富本席。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新之助、桂文橘、桂福助、四山坊瓢、骨亭新右、笑福亭円光、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉「一月二十日より落語研究会となる」とあり(120日付「扶桑新聞」参照)、また「一月二十四日、新之助が女房をつれてドロドロ(逐電)仕候」とある

明治27117日 京都日出新聞

◇幻灯興行 下京区堀川通り六角上る玉の家席にて、一昨夜より富士川都正社中の日耳曼国大幻灯の興行を始めたり。

〈編者註〉富士川都正は江戸時代より何代か続いた錦影絵の芸名。大阪では御霊の尾野席がその定席であった。

明治27120日 扶桑新聞

富本の落語研究会 名古屋市富澤町の富本席にて今晩より曾呂新一座の落語研究会を興行し戯長が曾呂新、便誤(べんご)なまづ、大戯獅(だいぎし)が文福、便獅(べんし)が圓光、文我、新右、新之助、新作、文橘で穴さがしの聴客へ景物を澤山との評判〳〵。

◇三遊亭大龍[圓龍]曾呂新一座に加わる 東京滑稽洒落一等通話という大分通がった肩書を持てるだけに、人の頤を外す事には中々妙を得て居ると評判の高い三遊亭大龍を、這回態々東京より曾呂新の定席名古屋旭郭花園町の旭亭に招寄せ、今廿日午後六時より出勤さすと云えば、諸君其御つもりで頤の用心よしか。

〈編者註〉三遊亭圓龍は長野県出身。最初上方で土橋亭龍喬(司馬龍喬)。明治十八年正月から東京に出向き、三遊亭円朝の門に入り円龍を貰い、地方廻りを専らにしたあと明治二十一年長野に帰り、同地の東亭の席主を兼ねた。本名藤井久五郎。道具入り怪談芝居噺を得意にしていたようだ。なお曽呂利一座に加わるとあるが、曾呂新の定席の旭亭へ出席しただけで、一座として行動は共にしていない。

明治27121日 扶桑新聞

ブラックの素性 過日の扶桑に名古屋へ乗込む事を記し置きし人情噺しのブラックは愈々来月上旬即ち陰暦正月を当込んで乗込み澤山名古屋の好芸諸君に珍らしがられる筈にチャンと手順が付いて居る由なれば其乗込よりチョイト鳥先にカアカアと囀つて娯覧に入れる同人の素性サテも抑も(そもそも)ブラックは名をばヘンリーと云い我邦(わがくに)の文久元年十一月廿二日英領豪太利州阿陀利斯府に生まれたり家代々英国海軍士官を奉職し殊更祖父ブラックの如きは九歳の幼童にして海軍士官候補生となり廿一歳の若きを以って既に鎮守府司令長官の栄を担し有名の人なるが父ブラックは性海軍を喜ばず豪州に渡航して商業を営みぬ。ヘンリー、ブラックは其時に生まれしなり然れど父は屡々商業上に算を失し大いに損耗を招きしより其妻子を豪州に留めて己れ独り我邦へ来航し横浜に於いて日進シンジ誌という新聞紙を発刊せしは実に明治五六年の頃なりけり当時我邦にては未だ活版業の開けざる時代にしあればブラックは刻苦して黄楊(つげ)の材に文字を彫り之を活字にして新聞紙を造りしなり是実に我邦に於ける新聞紙の魁先と謂うも悪しくはあるまじ幾ばくも無くして時の議官細川潤次郎氏ブラックを周旋して太政官の雇に採用し月俸六百圓を給す依てブラックは新聞事業を廃絶したり。此時ヘンリー、ゼームス、ブラックは母と共に父を慕って我邦へ来り。英語の教授など為しつつありしが父が横浜に於いて死去の後は我邦の風光が其心に適するの余り遂に帰化の念を起し一日も早く日本人の名義を得たく思いしかども法律上是非なく荏苒歳月を送り遂に昨年五月廿七日を以て東京府平民石井某の養子となり名を貌刺屈と称するに至りぬ。天性磊落粗放なれば教授などは面倒なりとて然しも名たたる門閥の身を以て断然足を芸人社会に投じたるに其看板一度都下に見はるや到る処に喝采の声喧しく僅か三年の短日月を以て忽地三遊派の部将と立てられ芸名赫々以て今に至り曩には外人の故を以て三府五港外の興行を許されざりしに今は東京府平民として将に名古屋へ来たらんとす好芸の吾々どもヘンリー何うも嬉しい事でごゼームス

明治27128日 京都日出新聞

◇新京極興行もの案内

幾代席 藤兵衛、文如、藤竜一座の落語

笑福亭 藤枝、木鶴、金竜の一座にて落語を演じ、切には毎日替りにて武三四山の段、将門古御所、千本桜、忠三の道行等一座大車輪にて扮作するよし。

〈編者註〉文如は桂文如。六代目桂文団治門人から桂藤兵衛門人となり、今年五月、藤誠と改名する(下記参照)。金竜は立川金竜。昨年から笑福亭に出ているが詳細不祥。

明治27127日 扶桑新聞

貌刺屈の読物 愈々来二月上旬名古屋へ乗込み昼は富澤町の富本、夜は南桑名町の千歳座に出勤の筈なる石井貌刺屈の読物は昼が東京金港堂の出版に係る貌刺屈の続き物の内「孤児」是れは薄命の一児養育院に成人の後或商家に奉公し千辛万苦倫敦の都へ出て狗盗のために救われ終に其仲間に引入れられんとせしも一片の真心は能く此小児の目的を貫徹せしめて富貴の人となる立志的の珍話。夜が「劇場新話」是れは英国の一紳士が有名なる女俳優に恋着し終に其本夫を殺害し一旦其目的を達したるも天網恢々疎にして漏らさず刑法の制裁に依て其生命を果たすという面白い艶物

明治2721日 扶桑新聞

貌刺屈一座の大入 好芸諸君の待ちかねたまう石井貌刺屈一座は愈々来六日即ち陰暦正月元日午後一時より富澤町の富本席に於いて昼席の蓋を開け同日午後六時より南桑名町の千歳座に於いて夜席大入と確定サテ其演物は予ねて記せし「孤児」(富本)と「劇場新話」(千歳)の上に昨年東京の春木座及び大阪の角座にて大喝采を得し歌舞伎十八番の内の幡隋院長兵衛を千歳座の大切に見せる事となりし趣きなるが一体同丈は圑菊左三大優に意外の贔屓を受け居り此幡隋院長兵衛の如きは圑十郎の指南にかかるものにて初めて春木座で勤めし時丈の圑洲張が大いに看客の満足を買い非常に大当りを占めし狂言なり。此役割を左に掲げん

長兵衛(貌刺屈)白井権八(快楽亭快楽)雲助(同小みく)飛脚(柳亭左楽

又貌刺屈前座の落語家は快楽亭快楽、同小みく、同平楽、桂小南、同延若、柳亭左楽等なり。

〈編者註〉快楽亭快楽は本名町田銀次郎。後の二代目談洲楼燕枝。名人燕枝もこの頃はブラックの前座として旅廻りをしていたようだ。小みく、平楽もブラックの門人、詳細不祥。桂小南は若田秀吉の小南か。同延若は不詳。柳亭左楽は昨年118日付「扶桑新聞」にあった談洲楼燕雀(きどりや燕雀)だと思われる。名古屋で柳亭左楽と名乗った(東京の四代目柳亭左楽とは別人)。俗に名古屋の左楽と呼ばれ、怪談噺を得意とした。息子も名古屋出身で、小左楽から勝太郎を経て気取家延若と名乗り、大正から昭和初めの大阪で、反対派から吉本興行部に所属して活躍した。

明治2721日 扶桑新聞

富本席の浮れ節と圓龍一座 名古屋市富澤町の富本席にては今一日夜より五日間吉川辰丸一座と吉田小てつ一座と吉川虎丸一座合併にて浮れ節興行を興行又陰暦正月元日より昼は別項の通りで夜は東京人情怪談芝居噺大道具早替りにて三遊亭圓龍一座が久々の見参サテ其一座の面々は三遊亭小圓、同龍左、同龍右、アジャマジス、桂文若などなど申す

〈編者註〉三遊亭小圓は初代三遊亭小円遊門人。龍左、龍右は円龍門人か。桂文若は不詳。

明治2723日 扶桑新聞

曾呂連一座の恵方詣り 名古屋旭郭旭亭を定席とする曾呂新一座の連中は今三日の節分に牛歳に因む趣向を凝し揃いの扮装にて龍泉寺へ恵方詣りの滑稽道中を為すというイヨウ曾呂新丈、丈の前歯が何処やら牛歳に縁みありという訳か當年はエロウ気張りますねえ

明治2726日より川嶋座 「桂文我出席控」

二月六日より名古屋ビハジマ(枇杷島)川嶋座。出席者は桂文我、桂文福、桂文橘、四方山瓢、骨亭新右、笑福亭円光、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉「二月六日より富本席へ三遊亭円龍出席。文我、文福スケに入る」

明治2726日 扶桑新聞

◇名古屋興行案内

▲寶生座 大須境内寶生座は嵐吉三郎、片岡松童、中山喜楽等にて午前十時開場 ▲新守座 本重町新守座では嵐佐十郎、中村獅漢、坂東のしほ、澤村四郎五郎等にて▲京枡座 竪代官町京枡座では坂東寿昇、姉蔵、喜三郎等にて午前十一時より ▲末廣座 末廣町末廣座では嵐佳香、坂東太喜蔵、嵐橋三郎、山崎河蔵等にて ▲千歳座 南桑名町千歳座では午後六時より石井貌刺屈の人情噺と幡隋院長兵衛▲弘法座 橘町弘法座では女優坂東小光等にて午後一時開場 ▲笑福座 橋詰町笑福座では岡本美狭松、西川鍵次郎等にて午後五時説教源氏節手踊 ▲梅本座 東芳野町梅本座では中村勝治等の説教源氏節手踊▲富本席 富澤町富本席では昼石井貌刺屈の人情噺夜は三遊亭圓龍怪談大道具旭亭 は曾呂新一座が恵方行脚の土産話

明治27210日 京都日出新聞

◇栃面屋弥治郎兵衛 新京極大虎座に出勤の俄師初春亭馬鹿八は、此度栃面屋弥治郎兵衛と改名したるに付、来月七日は同座に於て改名披露をなし、大坂より尾半小半等の俄師多人数入来りて大会を催ほし、膝栗毛の俄か大会をやらかし尚浄瑠璃会を催ほすよし。

〈編者註〉この弥治郎兵衛は、二代目と思われる。

明治27218日 扶桑新聞

ブラック旭亭に出勤 昨晩まで同市南桑名町の千歳座で大当りを占めた快楽亭ブラック一座は今晩より旭廓花園町の旭亭に出勤する事となり今度はブラックが議長で穴探し研究会を開き穴探しの聴客に景物を出すと云うが陳腐な穴探しなんどより外に何か舶来の珍趣向は無いものかなア

明治27219日より十日間、戎座 「桂文我出席控」

二月十九日より岐阜(県)笹土居戎座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉218日付「扶桑新聞」には「曾呂新一座の出馬 サアサア例の牛歳の好きな曾呂利新左衛門一座は今晩より岐阜市へさして出馬なし蛭子座へ乗込んで一番うまく当込んと大奮発」とある。蛭子と戎は同義。

明治27221日 大阪朝日新聞

◇改良講談会 本日午後五時より平野町御霊社内尾野席に於て石田淡堂といふ人が歴史上確実なる事実に基き関ケ原戦記、妙国寺切腹、高田屋嘉兵衛等の講談を演ずる趣きにて、此頃共楽会にて喝采を博せし新落語家美以坊存念も業平文治伝と沢の紫とを面白く演ずるといふ。併し本日は傍聴無料のよし。

明治27227日 京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代席 桂藤兵衛、春風亭柳朝、春の家小松一座の落語、清元節。

笑福亭 木鶴、可楽、円三一座の落語。

〈編者註〉春風亭柳朝は二代目春風亭柳枝門人で、明治十三年に二代目柳朝を襲名した。春の家小松は少女の音曲師で柳朝の娘。明治二十四年にも一緒に来ている。可楽は三笑亭可楽。本名原田熊次郎。東京の可楽代々、また京都の可楽(原吉弥)とも無関係。息子の佃屋白魚とともに京都に来て、笑福亭に腰を落ち着けた(明治2641日の註釈参照)。円三のち五代目橘家円太郎となる斎藤徳次郎。このころ四代目円生門人で円三を名乗っていた。この後長く京都に在住し、一時期新京極笑福亭の席主となっている。

明治2731日より八日間、末広座 「桂文我出席控」

三月一日より八日間、岐阜県美濃国関末広座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

明治2734日 扶桑新聞

曾呂新の留守番に圓龍 同市旭廓花園町の曾呂新定席旭亭は目下曾呂利新左衛門不在に付き其留守番を三遊亭圓龍が引受け例の人情怪談を近日より開演との評判〳〵。

明治2739日より五日間、大黒座 「桂文我出席控」

三月九日より五日間、岐阜県岐阜柳ケ瀬町大黒座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

明治27311日 扶桑新聞

富本席 同市富澤町の富本席へ這回三遊派にて有名なる東京美術百花園立花の早業人情噺一徳斎美蝶、三遊亭圓玉、常盤家喜美代、養老瀧太郎、春風亭竹枝等の一座が大阪乗込の途中俄に立寄出勤する事になり即ち今十一日晩より初お目見得との評判〳〵。

〈編者註〉一徳斎美蝶はしんこ細工、三遊亭圓玉は四代目三遊亭円生門人、常盤家喜美代は不詳、音曲師か。養老瀧太郎は手品師。春風亭竹枝は二代目柳亭燕路門人、本名吉川常。この一座大阪へ乗り込んだ形跡なし。

27313日 京都日出新聞

◇弥次郎兵衛の改名披露 新京極大虎座の俄師初春亭馬鹿八は今度栃面屋弥次郎兵衛と改名したるに付き、去る十十一の両日同座にて披露の大会を開き、大坂よりは団十郎、尾半、小半、東蝶、其他数名の俄師来り、藤兵衛、文如、琴書其他数名の落語講釈師等出席して初代弥次郎兵衛の失策話など演じ、両日とも祇園先斗等の拍子連詰懸け非常の大入なりし。

明治27314日より六日間、廓座 「桂文我出席控」

三月十四日より六日間、三重県伊勢国桑名くるハ(廓)座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

明治27315日 新愛知

曾呂利丈の一座 旭廓の旭亭を定席とし居る落語家曾呂利新左衛門の一座は先に岐阜市へ趣き同地の蛭子座にて十日間の興行で懐中を温め夫より末廣座にて八日間興行し是亦評判好く尚大黒座にても興行し昨日より勢州桑名町の廓座へ出勤六日間興行の上四日市の喜楽座へ乗込み来る三十日帰名の上来月一日より旭廓の旭亭へ出勤との事岐阜、桑名、四日市とも那(あ)の一座なら大人気は勿論なるが一座中の滑亭新右が情婦(いろ)の為めに膝栗毛の弥次喜多八を出来した一件あれど明日

明治27321日より九日間、喜楽座 「桂文我出席控」

三月二十一日より九日間、(三重県)四日市喜楽座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉この巡業の間、新右が度々宿の下女に夜這いをしたこと、そのことで新作ともめたことなどが「出席控」に書かれている。因みに文我は曽呂利のことを敬意をこめて?「曽呂利さま」と書いている。曽呂利も宿のおきぬさんに夜這いしたらしく、「曽呂利さまがつまむおきぬ」とある。

明治27322日 扶桑新聞

圓龍一座 曾呂新不在中の留守居とも云うべき名古屋旭廓花園町旭亭の圓龍一座は圓龍の愛嬌で中々大受けなるが丈は明二十三日一寸帰京し二週間東京表を嬉しがらせて再び来名大勉強との触出しなり

明治27328日 扶桑新聞

三遊亭圓龍は同市旭亭にて興行中なりし。三遊亭圓龍はしばらく帰京して再び来名するとの噂ありしも何ら都合あった模様を変へ此程中島郡一ノ宮町へ乗込みしとなり

明治27330日 京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代亭 藤兵衛、橘之助等の落語、音曲

笑福亭 木鶴、松団治等の落語

〈編者註〉橘之助は立花家橘之助。有名な女流音曲師。松団治は『落語系図』に二代目桂文団治門人欄に「松団治 小文字父なり」とある。小文字はのちの初代小春団治。現在は花柳芳兵衛が初代小春団治と認知されているが、『落語系図』には小文字が初代で、芳兵衛は二代目小春団治となっている。


上方落語史料集成 明治27年(1894)4月~6月

明治2741日より五日間、大富座 「桂文我出席控」

四月一日より五日間、名古屋伝馬町大富座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

明治2746日 大阪朝日新聞

◇新京極のいくよ席桂藤兵衛一座立花家橘之助が加り例の美音を聞せるよし。

明治2747日より旭亭定席と寿座 「桂文我出席控」

四月七日より名古屋久屋町寿座。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

四月七日より名古屋花園町旭亭定席。出席者は桂文我、桂文福、骨亭新作、桂福助、桂小文福、桂文橘、骨亭新右、曽呂利新左衛門。

〈編者註〉414日、文我は曽呂利一座をぬけて大阪へ帰り、浪花三友派の席に出る。

明治2747日 扶桑新聞

旭亭 久しく他行中なりし曽呂新帰名せしに付き定席たる旭廓花園町の旭亭にて今晩より

明治27427日 扶桑新聞

盛豊座 名古屋市下園町の盛豊座はお馴染みの曽呂新一座にて音曲昔噺を今二十七日より

明治27428日発行 三府落語家三幅対(関西大学図書館所蔵)

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〈編者註〉この番付は、「日本の庶民文化史料集成⑧」(三一書房)にも掲載されている。但し「桂亭米枝」は「米紫」の誤りと思われるが、この時既に二代目桂米喬に改名している。又、「桂亭玉団治」は、この時既に二代目文枝門に移り、桂伯枝に改名しているなど、この番付の年代は厳格さに欠けるところがあることに留意する必要がある。

明治27429日 京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代席 藤兵衛、文如一座の落語。東京より伯楽を始め二三名新たに乗込み橘之助、四女助等は岡山へ出稼ぎ

笑福亭 木鶴、遊三一座の落語

〈編者註〉遊三は初代三遊亭円遊(ステテコの円遊)門人初代三遊亭遊三。明治二十五年九月、三遊亭円朝の大阪浪花座公演のとき一座の一人として来阪した。

明治2751日 大阪朝日新聞

◇山崎琴書が今度新京極蛸薬師下る処に琴生舘といふ講談席を新築し今一日より開場。

明治2751日 扶桑新聞

圓龍一座 名古屋市久尾町の寿亭にては昨晩より三遊亭圓龍一座の音曲幻燈奇術足芸

明治2756日 大阪朝日新聞/明治27520日 京都日出新聞

<桂文如、藤誠と改名>

桂藤誠◇京都新京極の幾代席にては今度桂文如といふが桂藤兵衛の門人となり名を藤誠と改めたる披露を兼ね、来る八、九の両日手品、俄踊、新内、講談、落語等の大寄を催すよし。(朝日)

◇文如の改名披露 新京極幾代席に於て自得の手品と団子の漢語に名を得たる文如は今度桂藤誠と改名して相変らずおしやべりの中に漢語の大津絵節定九与市の振を演じて毎夜喝采を博し居るよし。(日出)

〈編者註〉写真は、桂藤誠(大福帳51号より)

明治2759日 大阪朝日新聞

◇二厘の纏頭 …船場に名ある商家の息子株、この頃難波新地中筋都席の娼妓黒糸(二十一年)といふを買ひ馴染み、堺行やら奈良見物、何処へゆくにも二人連、(中略)この黒糸は落語家の梅枝が贔負にて、黴の生たオツペケペが何より好きと体よくごまかし、坊子(息子)の顔さへ見ると昼でも夜でも構はず寄席へ連れ出し、梅枝の兀た茶瓶頭を見るを無上に嬉しがり、二三日前にも茶屋の仲居と三人連で淡路町の寄席へゆき、黒糸は梅枝の顔見てうつゝ他愛もなき体なりしが、頓て坊子の耳に口寄せ、纏頭をやれと勧めたれど、坊子は梅枝の落語など更に感服せねば(後略:二厘だけ包んで高座に投げたというお話)。

明治27519日 扶桑新聞

曾呂新の出勤  旭廓花園町の旭亭を定席とせる御馴染の曾呂利新左衛門は病気にて久しく大坂南区九郎右衛門町自宅へ帰り居たるが昨日来名し今十九日より不相変定席に出勤

明治27521日 扶桑新聞

富本席 名古屋市富澤町の富本席にては今十一日晩より東京新下り富士松左校の新内浄瑠璃端唄浮れ節興行

明治27522日 大阪朝日新聞

◇伯円来阪 東京の講談師松林伯円が来阪し、明日より堀江市の側の劇場にて口演するよし。

明治27525日 大阪朝日新聞

◇伯円の来阪に就て 去廿二日の紙上に東京の講談師松林伯円が来阪し北堀江市の側の芝居にて口演する旨本人よりの通信に依りて掲げし処、夫と行違ひに興行元なる道頓堀井筒にて都合により急に老松町の老松席を借受ける事に模様替をなしたるに、伯円は之を知らず本社に通信したるものにて、愈昨夜より老松席に出席する事になりしよし。

明治27526日 扶桑新聞

桂藤兵衛一座 大坂上等音曲滑稽噺の桂藤兵衛一座は京都新京極落語定席いく代亭にのみ数年間出勤し居り他国へ出稼ぎなどは一切為なざりしに這回同席普請中に付き来月上旬より當市富澤町富本席へ出勤の約束纏まりし由にて初日は多分一日か二日との事

明治27526日 新愛知

富本席の大坂落語一座 京阪地方で落語家の隊長株三十石船の上り下りに妙を得て居る桂藤兵衛と云うは京都新京極の幾代席を定席とし数年間休みなしに興行し居りて決して他国へ出稼ぎせし事無りしが此回同席の修繕につき右一座は来月上旬より冨澤町の富本席にて興行の初お目見得其一座は藤兵衛を始め桂枝太郎三遊亭圓助改め桂藤龍、昔々亭桃太郎、笑福亭柳三、桂藤原、同藤扇、同藤若等なりと

〈編者註〉昔々亭桃太郎は最初ヘラヘラ坊万橘門人で万治、四代目柳橋門人となり昔々亭桃太郎を名乗った。のち四代目円喬門人となり花喬となる。本名、生没年不祥。笑福亭柳三は三代目松鶴の弟子。桂藤原は三代目笑福亭松鶴門人で璃鶴から小松鶴となり、のち桂藤兵衛の身内となって桂藤原から藤原年史となった人。のち三代目笑福亭円笑を襲名する。藤扇、藤若も藤兵衛の弟子か。詳細不祥。

明治27530日 大阪朝日新聞

◇京都興行もの 幾代席桂藤兵衛一座は来月三日より休業して名古屋にゆくよし。

明治27531日 京都日出新聞

幾代席 藤兵衛、藤誠一座の落語

笑福亭 燕林、円三、木鶴一座の落語

〈編者註〉燕林は桃川燕林、講釈師。

明治27531日 京都日出新聞/明治2761日 大阪朝日新聞

<ヘラ〳〵坊万橘死亡>

◇ヘラ〳〵坊万橘の往生  赤い手拭赤地の扇で到る処人気を取りしヘラ〳〵坊万橘は此程大坂より東京へ帰りて間もなく卒中病でコロリと往生を遂げたる由。(日出)

◇ヘラ〳〵坊万橘死す  赤い手拭赤地の扇に多くの客を招き、太皷が鳴つたら賑やかだと訳もない事が却て愛嬌ありて人気を取りしヘラ〳〵坊万橘は、当地滞在中より肺病となりしかば、伊豆熱海の温泉に赴き居りしに、去る二十七日療養叶はずして死亡したるよし。同人は元因州候の人足廻しにて、万長親分といひ、常に乾分の二三人も従へて歩行き、随分江戸にて派振を利したる者なるが、廃藩後は業を失ひしため、東京浜松町なる因州邸跡の新開地にて万長亭といへる寄席を開きたれども、元来万長は落噺などを自分がやるを好み、兎角高座へ上りたくなりて、銭取場に坐しては居られざる程の道楽者なるゆゑ、此寄席も長くは続かず、終に円橘の弟子となりて噺家となりし者なりといふ。(朝日)

明治2761日 新愛知

富本席の滑稽噺大一座 藤原忠勝というは世を忍ばぬ本名実業名(まことぎょうめい)桂藤兵衛と云う京阪間の上等落語家の一座は既記の如く愈々明日夜より冨澤町の富本席にて初お目みの興行右につき巴連の幇間林家正三を始め数名が乗込に態々笹島まで出迎うとての大景気にて一座中には枝太郎、桃太郎等云う達者もあり藤兵衛の三十石得意にして上手なものゆえ大入の當日より定めし好人気なるべしと想う

明治2762日 大阪朝日新聞

◇伯円一座 北区老松座にて口演中の松林伯円一座は明三日限にて同座を打ち上げ、一日休みて四日より七週間南地演舞場にて小楠公寄付のため口演を催すよし。其演芸(だしもの)は鼠小僧、楠公記のよし。右終つて伏見に赴き、こゝでも一週間ほど興行のよしにて文殊九郎と寺田屋騒動を読む筈なりと。

明治2765日 新愛知

富本の桂藤一座を聴 三代目桂藤兵衛と云う名は京阪間落語家中にて最(いと)高き名なりと聞く其の桂藤兵衛藤原忠勝腮頓(あごとん)桂藤龍、桂枝太郎、笑福亭柳三、桂藤原等の京都新京極幾代隊の一大隊と共に冨澤町の富本席を舌戦の陣営として乗込みし大入の當日は云うも更なり二日目たりし一昨夜の降雨にも拘らず聴客は吾も己もと同陣営へ押寄せたり浮川舎の入道もイデて、幾代隊の剛の者は如何なる舌戦やなどと来客ありし為め時刻は太(いた)く晩(おく)れしかど九時頃に富本の陣営さして出発したるに柳三の素話し枝太郎、藤原、藤龍等の音曲入何れも一騎當千の剛の者と其の饒舌に驚きしと共に臆面なきにも驚きしが、就中(とりわけ)藤龍の手踊鶴の餌拾い、象の儗(まね)など手に入つたもの藤原の扇の手も面白かりし真打藤兵衛の落語面白く聞(きこ)切に売名を忘れては最も可笑かつたり

明治2767日 大阪朝日新聞

◇松林伯円 伯円は一昨々夜より一週間南地演舞場に於て開演せしが、同夜は其演題の楠公記中大内無礼講より土岐の妻が夫に北条征討のことを聞きて之を父なる北条の家臣斎藤に密告するまでを演じて耳を傾けしめ、又後段の鼠小僧の伝は雪中に蜆売の小児を恵む所なりしが、兼て大得意(おはこ)の演題(よみもの)なれば殊の外に面白く、大喝采を博し、相替らず聴衆多く、此様子にては十日まで連夜大入なるべしと思はる。

明治2768日 扶桑新聞

◇曾呂新の帰名 先日帰名せし曾呂新は、愈々今日から定席への出勤する由なるが、此程の夜突然撥起きて、頻に何やら認め居るを側に眠ていた桂藤兵衛、フト目を覚まし、師匠何を書かしやる(新)金策が出来たよ(桂)夜半に証文を持て往つたとてだめでげすと聞くより曾呂新目の栗玉を引栗返し、チイ、頼むぜ、金なら銀行に沢山在らァ(桂)夫れでも(新)近作の大津絵よ(桂)ハハ、是れは失敬毎度ながら部屋違いという様な訳で、然らば拝見、諷て見ようと桂が例の愛嬌声で、

旭廓の金波楼(きんぱろう)で/逢た始が縁のはし/互に惚て忍び逢/よそのをしりも恋の意地/せかれ逢夜のたのしさは/知れぬが花よ花園町/引て二人が新世帯/嬉し木綿の町住居/添遂て苦労するのも昨日今日/またも世間へ恥書眉毛(はじかきまゆげ)/面(つら)をさらし御園づとめをするわいな。

評に曰(いわく) これだから金策も肝心

明治2768日 新愛知

旭亭へ曾呂利の再勤 久々にて大阪へ帰りしも病気の為め不得止(やもえず)休業し再び當市に来りしかど尚全快せざるに是非なく休業し居たる夫の曾呂利新左衛門は漸くに全快したれば本日より七日間定席たる旭廓の旭亭へ出勤し新作の小話を沢山お土産として饒舌、尚お好みに随い細船というをも囀(さえず)ると云う評判を其儘

明治27610日 大阪朝日新

◇講談に奏楽 南地演舞場にて開場中なる松林伯円の講談は明十一日限につき、同日は大日本株式音楽会社の楽隊を聘し、講談の間に奏楽を催すはずなりと。

明治27610日 大阪毎日新聞

◇落語家の墓参 東区淡路町幾代亭の主人は今度先祖の石碑を上本町の実相寺へ建立したので落語家の文枝を始め京阪神間の落語家一同は今十日賑やかに参詣するとの事。

明治27610日 新愛知

桂藤一座の好評益々高し 此程の紙上にも入道が見聞のまま記載せし當市冨澤町富本席に於て京都新京極幾代席を定席として居る桂藤兵衛藤原忠勝の一座日に増し大人気にて一昨夜の如きは折角なれど聴客を木戸より断りし位いの景気藤兵衛が伊勢参宮の滑稽三十石を大津絵節の中に刻みての面白さ後の売名を忘れてが一つの呼物なれど中には穿つたのもあるが固辞付たのもあつて聴客は笑わせたり前の藤龍、藤原、桃太郎、枝太郎等実に何れも揃つて居るので尚中旬頃までは必ずや打続けるとの評判々々大評判

明治27613日 大阪朝日新聞

◇伯円寄付興行の結果 松林伯円の一座が南地演舞場にて一週間催したる小楠公の寄付興行は総上り高金百八拾二円三十銭にて、其内より諸入費を引去り総純益五拾三円八十二銭一厘を小楠公へ寄付したるよし。右伯円一座は今十三日より五日間堺宿院卯の日座の劇場に出席し、伯円は鼠小僧、楠公記等をよむといふ。

明治27617日 大阪毎日新聞

◇大阪文芸会は本日午後一時より例の備一亭にて開き会員仙石温知氏の東行を餞し且つヘラ〳〵坊万橘の追悼を修する由なり。

明治27617日 扶桑新聞

◇桂藤兵衛一座 今十七日より旭廓花園町の旭亭に於て、有名なる桂藤兵衛一座のお名残興行。

〈編者註〉実際は18日より興行、2より富本席にて興行。

明治27618日 新愛知

曾呂利の伊勢行 旭廓の旭亭を定席として居る落語家曾呂利新左衛門の一座は同亭を一先(ひとま)づ一昨夜限りにて打揚げ昨日直ちに勢州津市の津観音境内なる綠座へ出勤相変らず後家泣かせをやると其の配下好男子には新右、新作あり、オホン土産を見よとサ

明治27619 新愛知

◇林家正三の記念碑 日外(いつぞや)の紙上に揚げし事ある、當市の落語家取締兼幇間巴連の電燈長林家正三は、存生中己が碑石を建設せんものと、予ての宿望にて在東京の河原崎権之助其他の人々に請ひ、九代目市川團十郎の揮毫にかかる碑石を、愈よ橘町七面堂境内に建設すべき事となり、来る廿一日右地鎮式を行ふと云ふので本人は大歓び。ピカピカ頭部を掉立て、吾子がお手前ものゝ、義歯の脱るのも知らぬ程なりと云ふが、林家正三の名は落語社会に高し然れば是も一の記念なるらむ。

正三の建石七面山妙善寺














明治
27623日 新愛知 

林家正三の碑石に就いて 既載の如く當市内諸芸人取締林家正三事水野鎌吉の電燈長が存生中に建碑せんとの事にて一昨日橘町の七面堂境内の建碑の地鎮式を行ひしになかなか盛挙なりしと就て三巴(さんば)と云へるが右盛挙を祝して「五月雨や主人自らおくり膳」と即吟したりぞ。

〈編者註〉   日蓮宗七面山妙善寺にある林家正三の碑。同じ並びに、三代目富士松魯中、三代目中村翫雀の墓がある。

明治27622日 大阪毎日新聞

◇落語家円三郎の気転 神戸多門通りの寄席日の出座へ出て居る円三郎と云ふ落語家は、一昨夜寄席を勤めてから同業者の小山三と二人連れ、楠公社内の氷店水新の椅子に腰をかけ世間話しの其中に、小山三は真面目になり、「如何(どう)でへ円さん、朝鮮事件も大分面黒くなりさうだが、夫に付けても彼の支那人と云ふ奴は憎いぢやないか」と清国人攻撃を初めると、円三郎も調子に乗り「全体私はちやん〳〵と摺違ふてもむか〳〵する位ちやん〳〵は嫌らひだ」と云ふを、最初から彼方の椅子にかゝつて居た支那人三人が聞咎め、「貴郎(あなた)私国(わたしくに)ナゼ悪く云ひます」と段々理屈を述べ立て、腹を立て、後には掴みかゝらんとする権幕に、円三郎も小山三も驚いたが、其処は落語家だけに、円三郎はにこ〳〵笑ひ「貴郎そんなに憤るもんじやないよ、今私の云つたのは此男の事だ。此人の名は小山三だから楽屋ではさん〳〵と云ふのだ、夫でさん〳〵と今も云つて居たるを聞誤まつたのだ」と誤魔化すと、支那人はグウと詰り、目を丸くして呟やきながら立去りしとの事なるが、一時はなか〳〵の勢ひなりしと。

〈編者註〉三遊亭円三郎は三遊亭円朝門人二代目円三郎で、円馬の実弟。後の橘ノ円。小山三を名乗った噺家は数人いるが、この小山三はどれに該当するか特定できず。

明治27626日 京都日出新聞

◇松林伯円の講談 講談壇上の団十郎ともいふべき東京の松林伯円は、今度新京極四条上つ坂井座に於て五日間興行する事になり、本日を以て開演の初日となせしが、講談の間には大坂より聘し来りし音楽隊の合奏ある由にて。伯円は昨日午後二時五十分に着京し、釜座夷川上る馬淵清勝氏方へ投宿せり。其前講及び本講の読ものは左の如し。

義士銘々伝(松林円狸)西郷隆盛伝(同 円玉)朝鮮事情胡茄ふく風(同 左円)嗚呼忠臣楠公記(松林伯円)余興として安政三ツ組盃

明治27627日 大阪朝日新聞

◇伯円は昨日より五日間京都新京極堺座に出勤し、安政三組盃と元寇軍記を読み、講談の間に大阪より聘したる音楽隊の奏楽をなすよし。

明治27627日 扶桑新聞

旭廓花園町の旭亭にて此頃中興行の桂藤兵衛一座昨日にて十日間となり打揚げの筈の処聴客への御礼とあつて今二十七日一日だけ大勉強芸競べ尚大切に楽屋総出にて三十名の掛合を聴かせる由

明治27628日 扶桑新聞

旭亭の顔付 前号記載の如く今二十八日より開場する旭廓花園町旭亭源氏節の顔付は左の如し

富士松左校、岡本美根路、富士松鍵吉、愛の家鈴の助、桂文橘、笑福亭鶴の助、岡本美根尾

〈編者註〉岡本美根路、富士松鍵吉は名古屋の芸人。笑福亭鶴之助は三代目松鶴の弟子で、後二代目文里。息子は二代目小文里。妻は、手品師の松旭斎天光女。

明治27629日 大阪朝日新聞

◇桃川燕林 同人は来月一日より昼法善寺の今嘉席、夜堀江の賑江亭に出勤し、今嘉にては佐倉宗五郎と朝鮮史談、賑江亭にては百猫伝と相馬騒動を読むよし。


上方落語史料集成 明治27年(1894)7月~9月

明治2773日 大阪朝日新聞

◇燕林は一昨夜より北堀江賑江亭に出席。東京にて屈指(ゆびおり)の講談師なれば昨今の暑さにも拘らず一杯の入のよし。尚昼は法善寺の今嘉に出で、是また上景気のよし。

明治2773日 扶桑新聞

當市の幇間巴連は此一座に加わつて各自の天狗鼻を看客に測量し貰はんとの野心より、昨日小田原町の林家正三方に集会し、出し物の相談などしたる由。

明治27712日 京都日出新聞

◇幾代席 修繕中休業し居りたる新京極の幾代席は昨日よりお馴染の藤兵衛、桃太郎、藤誠等の一座にて開場。

明治27714日 扶桑新聞

巴連愈々大虎座仁和賀に合併本月下旬當市に乗込む事となり居る京都大虎座仁和賀師正玉、弥次郎兵衛、東寿一座に予て噂の當市幇間巴連の正三、清四、銀二、南蝶が加わる事に相談整い芸題は暑さ避けに極さらさらとした正三の作にて取仕組むと云えば大入開場の上はさぞかし納涼連がドシドシつめかける事なるべし

明治27717日 大阪朝日新聞

◇桃川燕林 此頃中堀江賑江亭にて喝采を博し居たる東京の講談師桃川燕林は今十七日午後五時より淡路町西栄楽軒席にて向ふ一週間を限り出席講演するよしにて松月堂呑玉、西尾魯山等も助に出るといふ。

明治27722日 扶桑新聞

新守座仁和賀の事 昨日も揚げし京都大虎座仁和賀正玉、弥治郎兵衛等と當市巴連正三、清四等合併大仁和賀一座は愈々来る二十八日午後六時本重町新守座に於いて大入開場し十二日間興行と決定せし由なるが尚馬鹿八改め栃面屋弥治郎兵衛名披露のお土産として大入当日の見物人へ目新しき福引景物を出すと云う

明治27722日初日 九条たらちね会会報(「上方落語」昭和313月号)

◇播州姫路建[]町林利席

笑福亭福雀、月亭春松、同春之助、同都遊、同文都、はやし(かこ、むめ)

〈編者註〉笑福亭福雀は初代福松の弟子。万年前座を勤める。月亭春松、同春之助、同都遊は月亭文都の弟子。春松は『落語系図』の編者。春之助の初代は桂枝太郎で、そのあとの春之助。明治二十六年の番付(大阪落語人名録)には月亭文都(東大関)、月亭都遊(西前頭十枚目)、月亭小文都(東前頭三十一枚目)の三名が載っている。

明治2781日 京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代席 藤兵衛、桃太郎一座の落語

笑福亭 新左衛門、文団治、福松一座の落語

〈編者註〉藤兵衛は名古屋では新左衛門の定席に出、仲よくしているが、京都へ帰れば桂派(幾代席)と三友派(笑福亭)に分かれて出ているのが興味深い。

明治27810日 大阪朝日新聞

◇命知らず  二三日前、神戸元町辺の行多某といふ大尽客が、楠公社中の定席湊亭の鹿連数名を引連れ須磨へ海水浴に赴き、海浜病院の広間に陣取りて、サア是から大喰の共進会を開き、第一番の勝を得たる者には褒美として金五円、第二番は三円、第三番は弐円を与ふべしとの仰せに鹿共は勇み立ち…(中略)…第一等は昇馬、第二等は団助、第三等は南枝それぞれ御褒美を頂戴したはよいが、三人とも今にも腹が綻びるやうな気がして苦しさ云ん方なく、這ふやうにして家に帰り、医者を呼べ、薬を買へと呻き苦しむ声凄まじく、其雑用に褒美の金皆になし、差引身体を毀した丈が設けもの。

〈編者註〉昇馬は桂昇馬。二代目桂文昇門人。のち笑福亭福松門人となって二代目笑福亭福我と改名、大正の初めに三代目桂文昇を襲名した。団助二代目桂文団治門人で桂団輔。東京の寄席恵智十席元の養子となり、戦後五代目文吾と称した冨士村彦次郎の父。南枝は、二代目文昇門下で文八から二代目南光門で桂南枝となる。本名日下部清吉。三人ともこのころずっと神戸で活動している。

明治27817  大阪朝日新聞

◇献金の大寄  今明の両日京都新京極の西村席にて講談師錦馬の発起にて恤兵部献金の為め講釈、落咄等の大寄をなし揚高を献納するよし。

明治27817日 大阪毎日新聞

◇落語家の献金 当地で落語家の隊長桂文枝は恤兵部へ献金せんと、船場の幾代、南地の金沢、新町の扇屋等三席主と相談し、同業者にも夫々賛成者を募り、一昨日より五日間献金の為め興行を為し居る由なるが、此興行には係はらず何でも一番此際勉強をして身分相当の献金をせんものと意気込んで居る連中もあると云ふ。

明治27818  大阪朝日新聞

 北堀江賑江亭にて一昨夜より富士川都正といふが幻灯にて豊島の海戦に我兵大勝利の有様を写す処人気に恊ひて大入のよし。また難波新地演舞場にても今夜より廿二日まで毎日午後六時より玉川花遊が幻灯会を催し、同じく日清事件戦闘の有様を写すといふ。

明治27818日 大阪毎日新聞

◇南地演舞場の幻灯会   玉川花遊の一座が南地演舞場にて催す改良幻灯は英人の発明せしものにして、十年西南の戦争及び日清事件の戦ひを写映する由にて本日午後六時より開場すると云ふ。

明治27821日 大阪毎日新聞

◇落語家の献金に就て去る十七日の紙上に桂文枝が発起となり幾代、金沢、扇屋等の三席主と相談して五日間献金の為め興行云々と記載したるは間違ひにて興行はせず同業者と席主等が協議を遂げ既に百円以上も集りしにより恤兵部へ献金の手続きを為したりと云ふ。

明治27829日 京都日出新聞付録

◇新京極案内

幾代席 藤兵衛一座の落語

笑福亭 米団治一座の落語

明治27830   大阪朝日新聞

◇祇園町の大日会   京都祇園町切通し町の有志者は例年の通り同町内に大日如来を安置し、一昨日は縁日なるを以て町内各戸毎に檐釣提灯を出し、笑福亭出席の落語家数名の落語手踊り軽口等ありて非常に賑ひ、京中の大日会にては第一等の賑ひなりしと。

明治27831  扶桑新聞

三遊亭遊生過日扶桑に記せし如く八年前に当地へ来り好評を博し其后東京にて腕否口磨き今では一方の大将となり居れるが明一日より富澤町の富本にて出勤すと云う

〈編者註〉三遊亭遊生は三代目三遊亭円生門人で、三代目円太郎の従弟(文之助系図)とある人か。その他不祥。

明治2799   大阪朝日新聞

◇仲居と落語家の献金  京都新京極落語家桂藤兵衛一座は七日八日の両日の上り高金弐拾余円を献金せしといふ。

明治27913  岐阜日日新聞

一昨夜より今小町関本座へ掛かりし立花家橘之助の寄せは頗る好評にて、柳家朝枝の踊りなどは大受けなり。駒之助(小満之助の常盤津は岐阜の人にも呼吸が分れど、橘之助の清元は惜しい哉、土地の水には合わず。何か無しに唯だ咽喉も腕も素敵なものだと感じて居た連中が多かったが、お負けの都々逸、端唄と来た日には、大分見物を嬉れしがらせたぜと、聞きに行った人の話。

〈編者註〉柳家朝枝は初代柳亭(談洲楼)燕枝門人。かっぽれや松尽くしの踊りで売った。「花色木綿」を得意としていたので泥棒朝枝などと呼ばれた。駒之助は東家小満之助。本名志沢たけ。幼少より寄席に出、音曲にすぐれ、特に常磐津、トッチリトンを得意とした。明治十九年四月ころ四代目都々一(坊)扇歌を襲名したが、小満之助と併用されている。

明治27915  扶桑新聞

富本席の油絵と夜興行   予ねて記したる富澤町富本席の油絵展覧会は愈々明後十七日より開場毎日午前九時より六時迄とし其図面目録は日清事件戦争の写真図十三面及び肖像画七面、勝戦分捕品集写図一面外に日清韓に関するポンチ絵数面との事又同席夜興行には来十七八日頃より東京清元浮世節立花家橘之助初め人情噺し三遊亭圓寿、東家小満之助、立花家都木松等が出勤との事

〈編者註〉三遊亭円寿は円喬改め露の五郎兵衛改め円寿となった本名永瀬徳久で、昨年より立花家橘之助と駆け落ちして名古屋に来ている。立花家都木松は、後の三代目三遊亭圓馬。このころは二代目笑福亭木鶴の門人で都木松を名乗っていたが、橘之助と一座しているので立花家と書かれたものか。この年十二月、正式に橘之助の弟子になり、橘松と改名する。

明治27917  扶桑新聞

旭亭の橘之助  予ねてより記せし旭廓旭亭の立花家橘之助一座が今十八日より無相違開場するとの事なり

明治27927  大阪朝日新聞

<近眼の柳枝>

桂柳枝のしくじり  近眼の柳枝と落語家中の古狸、顔は広く売れたれども、チト老のさかとて捗々(はかばか)しく銭は儲からず、野太皷半分にお茶を濁し、辛き浮世を扇一本で渡り居りしが、当夏以来三月越しの長病にグツスリ喰込み、米は段々高くなる、十三頭(かしら)に人形箱ぶち明けし程多勢の子持の上、女房の出産と物入つゞきに、手の付くだけは借り尽し、危なく腮の干乾とならんとして、病ひ漸々順快に赴き、未だ元の身躰(からだ)にはならねども、斯うしては居られぬと、ボツ〳〵一二軒の席へ出勤するやうになると、病中の借銭全快の上は目鼻つけませうと、当座逃れに突延(つきのば)しありし借金方、朝から晩まで入り替り〳〵詰かけるといふ大世話場に、折角快うなりかゝりし病ひも跡戻りせん有様に、是ではならぬと京都新京極幾代席の心打(ママ)桂藤兵衛方へ手紙もて頼みやりしに、此頃は少し不景気を持直したれば兎も角来(ござ)れとの返事に、ヤレ助け舟と喜び、女房と相談の上、四面工面して如何はしき羽織一まい質受し、余りの金一円ばかりを懐中(ふところ)に、気も心も細ぐけ帯、是だけがつらいと思へど、必死の場合贅沢も云へず、貧乏すぼツこに梅田停車場におし出せば、以前幇間の時贔負になりし堺筋の砂糖屋山大といふお花主を近眼ながらも見とめ、イヨー旦那お久しう、柳枝で御座り升と名告りかければ、山大の主人卑怯にも知らぬ顔も出来ず、西京まで一途(いっしょ)に往かうとの御意有難く、中等の汽車忠度の短冊、ゆき暮れて立寄れば大樹の蔭とおし頂きし青色切符、迚もの事に赤と替て半額だけ正物で欲しいと思へど、さうは云へず、車中さまざまのお世辞ふり蒔き、頓て七条停車場に着き、此侭別れるも気がきかずと、同所の茶店一竜軒へ連ゆかれ、煎抜(にぬき)きの鶏卵(たまご)を口取りにビール二本取り寄せ、床几の上の腰かけ酒に柳枝有卦に入つたかと喜び、頻りに駄洒落をふり廻せば、山大いつまでも居ては剣呑と思ひしか、この爰の払は余(おれ)が帰途(かえり)にして置う、お前は寛緩(ゆっく)り飲で居よと言ひ捨て、俄に人力車に飛乗つて立去りし跡、折角の御馳走残し置くも惜しいものと意穢(いぎたな)く胴を据ゑたる処へ、客の荷物と見え一個(ひとり)の車夫が持つて来りし風呂敷包を何う慌てしか、柳枝過つて漆喰場へ引ツくり返し、カチヤ〳〵と物の破れたる響と共に風呂敷洩れ出たるは清風與平の小鉢一つが微塵なり。ヤア焼物か、之は不調法、何分近眼でと詫び入れども、車夫は中々承知せず、旦那が傍に御座るなら謝罪つて済もせうが、預つたものゝ落度になると談じつけられ、柳枝泣の涙で一円の金を償ひ、有卦と思ふたが無卦であつたかと這々幾代席に来り、これこれの一件で小遣銭もない始末、今夜から高座へ出て貰ひたいと楽屋で失策(しくじり)咄しに実が入つて、今日質蔵から出たばかりの羽織の袂を焼き、近眼の悲しさ、又やりましたと泣笑の顔を其侭高座へ出で、今日の己が失策有の侭を一席饒舌りたるが、思の外大当りを取りしといふ。

〈編者註〉柳枝は曽呂利新左衛門門人で桂柳枝。極度の近眼で、「眼鏡屋」と綽名された。

明治27930日 京都日出新聞

◇新京極案内

幾代席 桂藤兵衛一座の落語

笑福亭 米団治一座の落語


上方落語史料集成 明治27年(1894)10月~12月

明治27107  扶桑新聞

富本の人情噺  予ねて評判を取りし富澤町富本亭に於いて興行中なりし立花家橘之助清元浄瑠璃は今七日限り明夜より改めて三遊亭圓寿一座の人情怪談ばなし

明治271024  扶桑新聞

義捐講談興行  當市橋詰町橋又座に於いて為永栄二、三遊亭遊生、桂文福等の講談師連が上り高を陸軍費献納の目的を以つて不日興行

明治271031日 京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代席 桂藤兵衛一座の外に今度帰朝せし松林伯知の戦地実験逸話

笑福亭 橘屋円三、円馬の一座にて岡本美名亀の清元節

〈編者註〉円馬は二代目三遊亭円馬で、円三は四代目円生に入門する前に、この円馬に師事して小雀、伯馬と名乗っていた時期がある。

明治27112  扶桑新聞

正福座の音曲昔噺  當市宮出町正福座に於いて昨晩より三遊亭遊生の音曲昔噺大入

明治27117日 九条たらちね会会報(「上方落語」昭和313月号)

◇神戸楠公境内湊亭席

林家志ん鏡、桂昇馬、笑福亭光雀、なにはさん友、桂文昇、三笑亭可楽、はなの浪算、海水亭白魚、桂南枝、桂團輔、月亭文都、はやし美さ

〈編者註〉林家志ん鏡は五代目正三の弟子で林家新鏡。後の六代目正楽。笑福亭光雀は笑福亭松光(かんやん)の弟子。のち政右衛門と名乗る。桂文昇は二代目(俗にホヤの文昇)。桂昇馬、桂南枝は二代目文昇の弟子。三笑亭可楽は原田の可楽。海水亭(佃家)白魚は息子。

明治27118   大阪朝日新聞

◇京都新京極の興行ものゝ中、幾代席なる朝鮮戻りの東京の講談師松林伯知の日清事件は好評にて非常の大入。

明治27111617  大阪朝日新聞

◇曽呂利の艶福  お骨の生焼といふ綽名が売物となりて、高座の人気一時此人に集りたるを、自ら骨人と名乗りて大阪三友派の大将株一人で脊負て立ちし落語家の曽呂利新左衛門、何時も〳〵同じ土地の笑ひ声聞くばかりでは面白からず、舌一枚を資本にしていでや有らゆる国々の歌枕に洒落の夢見て呉れんと、去る八月の中旬から讃岐高松の飛梅閣といふに出席して得意の揮毫に喝采湧くが如し。(後略:以下は艷聞。大阪難波新地の自宅に谷口お蝶という歴とした女房がありながら云々とある。また「去年越後の紳商から貰ひ受けた先代の曽呂利新左衛門が豊太閤殿下より頂戴せしといふ五三の桐の銀金具を吸口に付けたる時代の瓢ながら弐拾円の質に入れ」たとある)。

明治271117  扶桑新聞

旭亭の落語  名古屋旭廓花園町旭亭にて今晩より圓光、左楽の一座。

明治271125  大阪朝日新聞

◇宝集家金之助   東京の寄席にて太撥にては綾之助、常盤津にては金之助と云れ、美形と妙音に肩入の多き宝集家金之助、此頃京都に来りて京極の幾代席に出る処、何処も同じ鼻の下の長い肩入にて毎夜客止の大入なりと。

〈編者註〉宝集家金之助は明治十九年頃に六代目司馬龍生と駆け落ちして上方へ来た。のち新古亭眞生と再婚した。美音の常磐津と達者な三味線曲弾きで人気を取り、立花家橘之助、東家小満之助らと並び称せられた。

明治271128   大阪朝日新聞

◇大男 京都新京極の幾代亭へ此程より出勤する事になつた新古亭眞生といふ落語家は、身体肥満の大男にて量目廿三貫あるよしなるが、落語の余興に手踊、音曲等を演ずる処、身体に似合ず至極妙なりとの事。

〈編者註〉新古亭眞生は江戸生まれのいわゆる壮士の出身で、この年に宝集家金之助と夫婦で上方に現れ、以後多く当地で活躍した。よく肥えた体で満身に愛嬌が溢れ、風貌が大山元帥に似ているので大山大将と綽名された。当初は珍芸で売ったが、晩年は落語にも精進している。

明治271129  京都日出新聞

◇新京極興行案内

幾代席 桂藤兵衛の一座に常盤津の美形宝集家金之助を加へ相変らず好人気。

笑福亭 是迄の木鶴一座にて来一日だけ打越し直に普請に着手するを以て来月中休業。

明治271130日 大阪毎日新聞

<桂扇枝が三代目桂文三を襲名する>

◇落語家の改名 桂扇枝は今度師匠文枝が前名なりし文三(三代目)と改名し、来月四日より五日間京都、神戸よりも同業者を招き大寄をして改名の披露をする由なるが、其寄席は南地法善寺内の金沢、淡路町の幾代、新町の瓢亭、北新地の裏町席、天満の亀の池等なりと云ふ。

明治271130   扶桑新聞

盛豊座の人情噺   名古屋下園町の盛豊座にて明一日夜より曾呂利新左衛門及び東京の柳亭左楽、大阪の笑福亭圓光が合併にて

明治271213日 大阪毎日新聞

◇諸芸競争会 中座にて開場する諸芸競争会に出勤する顔触れと演芸の概略は二輪加(尾半、小半、東蝶)役者似声(新庄屋)浄瑠璃(佐の太夫)素人浄瑠璃(勝好、貴鳳、おぼこ、いかば)落語(曽呂利新左衛門)清元(中村玉七)弾語り(実川延三郎)人形道成寺(桐竹紋十郎)吉野山道行(幇間淀八、蝶々八にて振付は扇若と万麿)手踊り(仲太郎、団吉、姉蔵)大切鶴亀(源之助、和三郎、鶴之助)囃子(小三郎、鯉左)等にて明後十五日が初日。また蝶々八と淀八の両人は花飾りせし駕に乗り明晩は乗込みと云ふ趣向にて道頓堀の前茶屋を廻ると云ふ。

〈編者註〉曽呂利は落語はせず、淀の川瀬の歌に合して舞台で画をかいたらしい。

明治271216  大阪朝日新聞

◇我童の病気付たり幇間演劇  京都四条の南座に出演中なる我童が病気の為め…南座は昨日限にて舞納め跡へは祇園新地の幇間と新京極大虎座の俄踊師、同所幾代席の落語家等が合併して明十七日より三日間餅搗演劇を興行するよし。其演芸は矢張忠臣蔵と菊畑なりといふ。役割のうち由良之助(夢助)勘平、定九郎、若狭之助(光吉)にて其他の出演は幇間桃八、梅八、村作、花助、八助、正八、柴舟改め芝六、落語家藤兵衛、枝太郎、俄踊師弥次郎兵衛、正玉、東寿等なりと。

〈編者註〉これは都合によりお蔵になったようである。

明治271218   扶桑新聞

音曲入昔噺  名古屋富澤町の富本席にては昨晩より大坂西京合併の音曲昔噺を興行其出席の面々は笑福亭木鶴、同璃鶴、同小文里、同木三松、同吾市、月亭小文都但し旭廓旭亭とかけもちなり

〈編者註〉璃鶴は三代目笑福亭松鶴の弟子で二代目笑福亭璃鶴(初代は実兄の三代目笑福亭円笑)、のち福松門に入って二代目福松を襲名する。小文里は不詳。木三松は笑福亭木三松。二代目笑福亭木鶴の息子。吾市は五代目笑福亭吾竹門人吾市、或は三代目文吾門人吾一のどちらかと思われるが判断不可。月亭小文都は月亭文都の秘蔵弟子。将来有望な若手だったが、明治35年、数えて35歳で早逝した。

明治271219  大阪朝日新聞

◇曽呂利拘引  中座の諸芸大会に出て居る曽呂利新左衛門、一昨日の午後七時ごろ落語の内に巡査侮辱の言ありしより南署に拘引され、寒い一夜を檻倉で明したるが翌朝説諭の上放免されしよし。

明治271221  京都日出新聞

一昨夜嚶々会の例会を洛東清々館に開きたり会するもの三十余名余興に落語家藤枝の落語、真古亭真生の葉歌手踊、宝集家金之助の常盤津浄瑠璃にて。真生の踊りは天然の形体によりて妙味を増し大に喝采を博し、金之助の常盤津阿古屋琴責の段は、其喉の達者なる上に、三曲の曲引鮮やかにて、行雲を遏め粱塵を飛ばすと云ふ語も斯る処にや用ふべきと評するものお多し。尚添物に同人の都々逸及び鈴と琵琶の音を出すなど、何れも喝采を得ざるはなかりき寒天のことゝて、蛎雑炊の趣向も幹事の注意なりと大に当りを取れるよし。

明治271230日 大阪毎日新聞

◇内幕の煤払ひ 落語家 

昨年に比べては余程不景気にて何れの寄席も客足薄く、其上聴手も戦争がゝつたこそぐりを交ぬとドツと落の来ぬ様になり、また近頃は各自出場の時間に何分と限りがあつて交代する取極めなれば、舞台が楽な様で其実唯いそがしい計り、併し是れは此年末に限つた事でないとして、概して懐中工合は不印なれど、本年は東京より落語家の輸入少なき為め出席する場所多く、上等顔や花方の連中は分割で働らくにも係らず定席の座主からは相当に前借し、其金で餅搗もしたり晴着の新調や受出しをして(紋日過ぐれば直ぐにまげるとも)来る一月の紋日の準備中と云ふ、随分御難の年の暮なれど昨昨年よりはまず好き方なり。


【参考資料】共楽会(南地演舞場)に出た噺家たち 

〈編者註〉共楽会に出演した噺家を大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の出演予告欄より抜き出し一覧表にまとめた。実見記があるものは落語のみを書き抜いた。予告と実際が違っている場合が散見されるが、わかる限り註釈欄で補った。なお共楽会については明治26年の同欄を参照されたい。

【明治27年】

第九回(121日) 

三枚起證(桂柏枝)、鸚鵡がへし(桂文枝)、人情噺し安中草三の伝・続き(三遊亭円馬)

第十回(211日) 

しやくり裁判(桂扇枝)、鞍馬山のお多福(桂文枝)、安中草三(続)(三遊亭円馬)

市川粂八お名残臨時共楽会225日) 

清元(立花家若橘)、円馬の人情噺(三遊亭円馬)

第十一回(318日) 

大名そば(翁家さん馬)、大小論(桂文枝)、安中草三(続)(三遊亭円馬)

第十二回(56日) 

書生車(桂文屋)、初奉公(林家花丸)、守神(桂小文枝)、安中草三(続)(三遊亭円馬)

第十三回(527日) 

三拾石乗合舟(桂南光)、長短(桂文枝)、安中草三(続)(三遊亭円馬)、曽呂利新左衛門

〈編者註〉番組予告には間に合わなかったが、「近来工面よしとなつて寄席を止たる曽呂利新左衛門は同会の招聘に依り今日の会に出席する」527日・大阪朝日)ことになり、「葉歌に合せて絵をかきしは品よき慰みなり」529日・大阪朝日)と書かれている。

第十四回(624日)

 素人車(桂南楽)、鹿政談(桂梅枝)、落語の吹寄(桂文枝)、人情噺し美人の活埋(三遊亭円馬)

〈編者註〉新聞の予告は素人車(桂南楽)となっているが実際は文屋が出席したらしい。「落語にて文屋の根問ひは可なりの出来、梅枝の鹿政談は堅過ぎて講釈(下手な)めきたり、円馬の人情噺美人の生埋は円朝そつくりにて旨いもの、文枝の落語の吹寄は一種言ふべからざる味あり、満場の喝采鳴りも止まざりき」627日・大阪朝日)

第十五回(78日)

 付焼刃(桂談枝)、美人の活埋(続)(三遊亭円馬)、浮世節狸の腹鼓(立花家橘之助)、

〈編者註〉「桂談枝の付焼刃は当人得意の出しものと見え中々の上出来。三遊亭円馬の人情噺美人の活埋は前回に増したる上出来、武士百姓の対話の場の如き己れ其境にあるが如き思ひなりき。橘之助の清元宮比神楽は相変らず大喝采」710日・大阪朝日)

第十六回(811日) 

 美人の活埋(続)(三遊亭円馬)、落語の吹寄(桂文枝)、

〈編者註〉新聞の予告には出ていないが南楽(南光門人)が前座を勤めている。「南楽の落語も好く出来、円馬の美人の生埋は相変らず上出来なりき。文枝の落語黒目潰しは珍らしき出しものなりしが、此れも例(いつも)の如くには行かざりき」(814日・大阪朝日)。「南楽の付焼刃、愛嬌たつぷり、円馬の美人の活埋、談は愈々佳興に入り、文枝の黒玉潰し、従来寄席にて一度もやりし事なき珍物なり」(814日・大阪毎日)

第十七回(1020日)

 伊勢参宮(桂談枝)、美人の活埋(続)(三遊亭円馬)、禁酒の関所(桂文枝)清元四季の山姥、端唄一中
 節、米山(徳永里朝)

〈編者註〉「里朝の清元、端唄、米山など久し振りの事なれば昔馴染の会員は大歓びの様子なりき」(1023
 
日・大阪朝日)。「円馬の美人の生埋、頗るの出来、文枝のたん饂飩あまり皮肉過たるの感あり。里朝の山
 姥、其他浮れ節、結構なる東京土産」(
1022日・大阪毎日)

第十八回(1123日)

 御祝儀(桂南楽)、みいらとり(林家花丸)、清元累(立花家若橘)、美人の活埋(続)(三遊亭円馬)、
 禁酒の関所(桂文枝)

〈編者註〉「落語家南楽の桶まはしも一寸愛嬌となりて面白かりきよし。番組の中にて最も評判佳かりしは円馬の人情話に文枝の落語なりき。一は人情の微を穿ち、一は洒落人の腮を解いたり」(1125日・大阪朝日)。「南楽の大名蕎麦、任に無い出し物といふ評もありしが、割合に能く出来たり。花丸のみいらとり、日清事変など取交ぜて、古き話を新らしく聞せしは手際なり。若橘のかさね、穏やかの出来、浮れ節も面白かりし。円馬の美人の活埋、滑稽演劇のヤンヤと云はせし大騒ぎの後に出て、従容として迫らず、例の温和なる弁舌にて、十分聴客を感動させしは、毎度ながら天晴の技倆。文枝の禁酒の関所、さすがは京阪落語家の泰斗、感伏の他なし」(1125日・大阪毎日)

第十九回(1216日)

 落語(桂南楽)、祝熨斗(扇枝改め桂文三)、美人の活埋(続)(三遊亭円馬)、開化噺と音曲手踊り(新古亭新生)、常盤津廿四孝(宝集家金之助)、尻餅(桂文枝)

〈編者註〉「文三が祝熨斗は当地の落語家の若手盛りとて大喝采なりしが今少し落着て演つたならばと思ふ感あり。真生の音曲に烟草の曲吹きは一種無類にして煙草を喫して後端歌を唄ひ茶を飲み而して先に飲んだ煙草の烟りを吹出すには満場大喝采、踊りも達者なもの。金之助の常盤津狐火、其音声のあざやかなること前の法師連とはまた趣きを異にして花やかなり。後に鈴の音と琵琶の音の弾分けも甘い甘い。円馬の美人の生埋、無遠慮に云へば今少し流暢に演つて貰ひたし」(1218日・大阪毎日)

 

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丸屋竹山人

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