明治37年

上方落語史料集成 明治37年(1904)一

明治361231日 大阪朝日新聞

◇新春の娯楽界(落語席)

東区:幾代亭(淡路町)落語桂派、第一此花館(平野町)落語三友派、第三此花館(松屋町)落語三友派、第二文芸館(内本町)正三・花丸一座。

西区瓢亭(新町)落語桂派賑江亭(北堀江)落語三友派第二此花館(江戸堀)落語三友派第一文芸館(松島)正三花丸一座

南区金沢席(法善寺)落語桂派紅梅亭(同上)落語三友派養老館(内安堂寺町)落語桂派赤沢席(順慶町)落語

北区林屋席(天神)落語桂派永楽館(北新地)落語三友派

明治3711日 京都日出新聞

遊覧案内 …◎寄席 ▲大寅座 新玉、東玉一座の喜劇▲寿席 鶴賀、梅花一座の新内▲琴書館 山崎琴書一座の講談▲河村座 西洋手品▲笹の家 動物の見世物▲幾代亭 桂派一座の落語▲田村座 活動写真▲第一福真亭 親友派の浮れ節▲第二福真亭 染玉、小鶴、尾上一座の浄瑠里▲第三福真亭 邑井吉右衛門、藤井南竜一座の講談▲第四福真亭 藤川都朝一座の錦影絵▲魯山館 氏原魯山一座の講談▲初音座 足芸▲笑福亭 三友派の落語▲角の家 海士の見世物(以上新京極)

▲菊の家(堀川)笑福亭の連中掛け持▲西陣座(大宮)幾代亭連中の掛け持▲長久亭(千本)吉田清丸一座の浮れ節▲玉の家(堀川)小金井一座の喜劇▲花の家(大宮)吉田清丸一座浮れ節の掛け持▲都座(四条大宮)岡本小美津一座の源氏節▲横矢座(松原)喜劇▲福の家(島原)尾崎東海一座の講談

楽屋風呂 ▲幾代亭の本日の出番は 午後五時三十分(光輔)同五十五分(柳枝)同六時二十分(枝雁)同四十五分(芝鶴)同七時五分(燕太郎)同三十五分(花楽)同五十分(芝楽)同八時十五分(枝之助)同四十五分(扇枝)同九時十五分(年誌)同四十五分(松鶴)同十時十五分(枝太郎)同四十分(文南京)切(文吾)▲幾代亭の文光は昨日何か都合があつて師匠の文枝から名前を返せとの事で元の三笑亭芝楽と改名した

明治3711日 大阪朝日神戸付録

新年の寄席案内 ▲裁判所前の湊亭は桂文都、三遊亭若遊三、東長次郎、春風亭柳寿斎、笑福亭圓若等の落語▲楠社塀の側の旭亭は神田伯猿、木村一瓢等の軍談講釈▲同藤田席は東家力太郎、扇子家豊丸、石井吉三郎、鈴木文雄、市川文夫、山口高尾、扇子家初雄、坂東米八、浅尾竹三郎、栗亭萬寿等の名古屋萬歳▲同西門筋の菊の家は京山小圓一座へ浅川三八等を差加えて浮れ節▲同菊廼亭は團福、勝子、小團、時次郎、小住、久宵等の女義太夫▲三宮雑居亭は京山小圓、浅川三八、廣澤團丸等の浮れ節▲同町の富士館は竹本君栄一座の女義太夫▲生田前の末広亭と小野大安亭は光蝶斎一幸一座の貝祭文

明治3711日 大阪毎日新聞付録堺周報(大阪堺)

◇正月広告/謹賀新年かべ卯住吉力松堺天神片原角

明治3711 山陽新報

◇興行だより 大雲寺町高砂座は東京歌舞伎俳優嵐和三郎、中村時助一座。西中島町旭座は元祖上村源之丞一座の人形浄瑠璃。野田屋町柳川座は市川小圓冶一座の浮かれ節芝居。西中山下千歳座は尾上團十郎一座の浮かれ節狂言。栄町九重館は桂三之助一座の改良落語。西大寺町亀楽席は、皇国一流浮れ節

明治3711日 中国新聞(広島)

◇新年の遊び場 ▲寿座 片岡秀郎、中村雁童一座 ▲新地座 市川蝦三郎、実川実蔵一座 ▲明神座 尾上松童一座 ▲胡子座 泉祐三郎一座の今様狂言 ▲鶴の席 三遊亭圓左、橘家圓三郎、宝井馬琴、同馬瓢、立花家千橘、桃川小燕路、竹本夏子、三遊亭春馬等の東京落語等 ▲大黒座 富士松千代松、同時栄、猪蝶等の身振新内 ▲料芸館 三遊亭圓福、桂三之助一座の大阪落語 ▲栄座 京山染丸一座の浮かれ節 ▲八千代座 柳田次郎一座の改良演劇二輪加 ▲柳座 京山光高一座の浮かれ節 ▲朝日座 松福亭時丸一座の浮かれ節講談

明治3711日 馬関毎日新聞(下関)

当市の興行 市内豊前田町稲荷座は、今元日より歌舞伎芝居市川小海老、岩井松鶴一座にて、又市内豊前田町旭座にては、改良浮連節吉川秀幸一座の初興行ある筈。

明治3713 北国新聞

<弁天座がいろは座と改称>

◇いろは座 豫記の如く今様萬歳尾山福之助一座にて開演。弁天座は、いろは座と改め本日より初興行を為す筈にて。

<編者註>弁天座は明治35622下新町に開場、定員650人。コケラ落しは、天光女の奇術で興行された。

明治3715 神戸又新日報

<七福座全焼>

◇姫路七福座の全焼 姫路市二階町七福座は資金二万圓を以って去年二十九日落成式を挙げ元日より嵐三五郎一座にて初興行を始しばかりなるに一昨日三日拂暁平土間の隅より出火せしにぞ雇人等は消火器のあるに心付かず狼狽の余り楽屋其他隣家等へ応援を求めに行き再び戻りし頃は既に場内一圓の猛火となり居たるが其中に姫路駅の塩津助役は駅員一同を繰り出し消防に尽力せしめ尚團司令部、歩兵第十及び第三十九連隊よりも消防の応援をなし花田警視以下憲兵隊も総出にて消防せしも同処は水の手に不便にして意の如くならず為に火は前なる煎餅商村上治郎作方建坪二十一坪、飲食店藤田春吉方坪数三十坪を焼払い村上庄次郎方を半焼して鎮火せり。損害価格は劇場の分のみにて約一万圓なりとぞ又同座は日本火災と東京火災に七千圓の保険を付しあり原因は前夜打出しの際片付けし火鉢の火が布団に移りしものならんと

<編者註>七福座は、たった三日の興行で全焼。これで姫路の劇場は、山陽座だけとなった。

明治3718 神戸又新日報

◇湊亭 東の旅(梅勝)西の旅(橘松)平の陰(福遊)姫初め(松喬)不明(勝鶴)手切丁稚(福清)不明(福我)曲引(柳寿斎)正月丁稚(若遊三)立切れ(文都)千両蜜柑(福圓)剣舞竹切(長次郎)端唄勅題(若遊三)

明治3718 北国新聞

◇小石座 本日より講談神田伯鶴、三遊亭圓鱗合併にて開演。

明治3718 山陽新報

◇三国同盟奇術 といえるを明九日夕より岡山市千歳座にて興行す。出場の人名は、清国人韓風山、同韓合順、英国人ジョンベール、日本人金房冠一郎、同千代子と名乗れる面々なりと。

明治37110日 大阪朝日新聞

<寄席の変遷(劇通子)>

◇こんな事は暇に倦かして能く調べた上でなければ痒い所へ手は届かぬが、既に予告をも掲げて置いた事だから猶予も出来ず、多忙中に思ひ浮んだままを書いたので、甚だ不完全なものだが、少しは好事家の参考にもなるからマア読んで見てくれ玉へ。茲に言足らぬ所は追々補拾する事にして置かう、そこで先づ

 (一)寄席の構造

から話すとしやうか。近年はどこの寄席でも入口の構へが玄関付の式台作り、桧木の白木作りで、見つけの正面には卓子(テーブル)の上に緞子見た様な巾(きれ)をかけて、貿易品まがひの花やかな花瓶をすゑ、襖には金銀箔を置き、宛然(まる)で神主が出て来て神酒でも戴かせるかと疑はれる。又ズツと中へ通つて見ると、舞台には床の間もあり、相当な軸も懸けてあり、地袋もあれば書院窓もあり、普通の家にしては先づ上等の部に属する座敷の風を移し、場には青畳を敷つめ、結構な座蒲団を敷き、一二上等の席に至つては火入煙草盆でも中々洒落た物を出してをる。だから客種の追々上等に成て紳士客も少なくはない。早くいへば劇場を小規模にしたといふもので、華美な事にかけては中々手を尽してゐる。夫に引換へ昔の寄席と来たら実にお疎末千万なもので、舞台は古木の寄物同様、金目のかゝつたものは一つもなく、正面には摺込の金巾の幕をかけ、床の間は偖置き、ザツとした襖さへもなかつたのだ。木戸口の造りも推して知るべしだ。客は下足番に手数をかけるには及ばず、ゾロ〳〵と土足のまゝで中へ這入ると三筋、四筋の細道があつて、其間には坊主畳を敷いた床几が並べてあり、客は勝手に履物を脱いで其上に上るか又は腰をかけて聞いたものだ。煙草盆といつても鶏の餌を入れる様な素焼の火入、テツクワ火鉢に炭團(たどん)が入れてあつて、客もそれに満足したものだ。寒い晩などには下から冷えて堪つたものではなかつた。

 (二)落語家の舞踊

其代り落語家には中々えらいものがあつて、楽屋の規則なども世の開けぬ割合には能く出来てゐた。随つて中々面白い事であつた。孰れも銘々一派を立てゝ、或ひは素話をする者、囃子を入れる者、人情話をする者、道化た事をいふ者など夫々に得意の芸を持前として、漫(みだ)りに他の畑を荒さず、入替り立替り登壇する中にも自から舞台の配色を謀り、茶屋話をした跡へは野夫(やぼ)堅い話を出し、引続き同じ様な話はせぬ様に楽屋に『出し物帳』といふが備へてあつて、一々既に話したものゝ外題を記し置き、後から来た者は夫を一見して同じ様な物を並べては出さぬ様に気をつけたものだ。素話の跡へは鳴物入り、其跡へは人情物といふ工合に目先の変化を勉めたから、客に取ては少しも退屈を招かなかつた。同じ様な話が続くと幾ら面白く話しても冴えないが、目先を変へるので同じ話でも大層冴えたのだ。落語家に取つても話しよいのだ。舞なども落語家の舞は一流違つたもので、決して立つて舞ふ事はなかつた。足から下は見せなかつた。坐つて舞ふのを立つて舞ふ様に見せるのを味噌にしたもので、足を客の鼻先へあらはすのは失礼だとしたのだ。稍(やや)小局部に跼齪(きょくそく)する様ではあるが、之も一見識で面白いのだ。又舞はいつも落語の中に舞を舞ふべき所があつて舞ふたので、今の様に舞のみをいきなり舞ふ事はなかつたのだ。今も能く話す『稽古屋』と『紙屑屋』とは此類(このたぐい)である。要するに舞や唄は落語家以外の芸人のする事で、落語家はそれを真似るのだといふ事を勉めて明かに示したものだ。

 (三)笑福亭梅香の美談

今は世の中の事が複雑して客の心もあわたゞしいのか、話もシンミリとした実のある話は受けぬといふが、それは疑問で、或ひは芸人の方がそんなものを巧く遣る者がなく、つまり腕がないのかも知れないテ。兎に角昔の落語家はシンミリとした物で落を取る人が多かつた。安政年間から文久へかけて盛名を成した笑福亭梅香は通名を金物屋といひ、元は堺筋の鉄瓶問屋の息子であつたのが、放蕩の末落語家に成つたので、茶屋話は実験がある丈に殊に上手であつた。『親子茶屋』などは此人が作つたので、此話の骨子は親父が息子に意見をする処でホロリとさせ、後の狐釣の処で花やかに客の気を浮かせ、落合の処で腹の皮をよらせるのだから、つまり話が三段に別れて抑揚波瀾に富んでゐる。それを今では手ツ取早く話して、意見の処もホロリとさせる所か肝腎の話の魂を引ぬいて滅茶々々に成つてをるが、梅香の話すのは如何にも上品で、而して面白かつた。此人の作に『五人凧』といふのがある。五人の妾を凧になぞらへて糸が縺れるといふ事に譬へたものだが、是も名作である。『五色曲独楽』といふのは妾の罪悪を鳴らしたもので、肝腎の真が狂うてゐるといふのが落合であるが、余り話が巧いものだから、或客はこれに感じて急に妾に暇を出し、家庭が全く清潔に成つたので、其客は更めて梅香を自家へ招き、お前のお蔭で家内が平和に成つたと礼をいふた所、梅香は其返礼として即席に『三巴』といふ話を作つて、旦那と妻君と妾との互の心の不愉快を説いて、最も凱切(がいせつ)に畜妾の弊害を説明したさうだ。そこで客は愈(いよいよ)梅香の卓見に感服して、実にお前は能く物の道理を知つた人ぢや、落語家にして置くは惜しいものだ、何か真面目な渡世を始めては如何ぢやといふた所、イエ如何(どう)致しまして、私は聞取法問の生噛りで真正(ほんとう)の学問があるではなし、迚(とて)も真面目な渡世は出来ません、矢張似合(にあっ)た様に高座でお客の御機嫌を結ぶのが楽しみですと、客が礼金を差出したのも受取らず、只お酒許りを頂戴して引退つたさうだ。何しろ梅香の話は余程人を感動させたのだ。

 (四)林屋正三の作物

林屋正三といふのも代々名人で、今も其の名跡を継いでゐる者がある様に思ふが‥‥慥か東京の怪談師にも同名の人があつた様だが‥‥前の梅香と同時代の林屋正三はよほど名人であつたのだ。梅香は鳴物を入れて多く茶屋話を得意としたが、正三は全く行方が違ひ、少しも鳴物を借らずに真の素話を得意として人を感動させたのだ。随分客をホロリとさせたこともある。斯ういへば人情話に近い様だがさうではない。滑稽の中に悲哀を取交ぜて感じさせるのだ。今云ふ通り素噺が上手であつたから、江戸へ往つても大評判で、随つて彼地へもいろ〳〵な佳い話を残したのだ。夫れまで彼地には人情噺が多くて端話は少なかつたが、此人が往つたゝめに遽(にわ)かに端噺が流行したのだ。大阪では『子は三界の首枷』と題したのを江戸では『お釜様』と改題し、大阪で『若旦那の髪結床』といふたのは江戸に其まゝ残つてゐたが、其後之を種子(たね)にして『大名うなぎ』といふのを作つた人が江戸にある。又正三が『素人うなぎ』と題して話してゐたのは、其後江戸で『馬乗』といふのに作りかへてをるが、種子は皆正三のものだ。何しろよほど巧かつたと見える。今も其話しを崩さずに‥‥手を入れずに話してくれる人があつたら、却つて古雅で心ある人は喜ぶだらう。

 (五)入込みの出し物

大阪の寄席には今でも芸人の出番に順序があるが、昔は殊にこれがやかましかつて、入込み、中座、後座と区別が画然と立つてゐた。入込みとは客の顔の揃ふまで未熟な若手が賑やかに三味線、太皷の囃子を入れてお茶を濁すので、『初天神』『地獄八景』『桑名七里の渡し』『三十石』などは此入込みの遣るものであつた。一つは客足を引く為に木戸の外からでも聞える様にわざと賑かに囃子(はやし)たのだ。それが一仕切りあつて客の顔も追々揃つて来ると、今度は中座といつて中通(ちゅうどおり)の人が出演し、夫から追々と名人が出て落ついた話しを遣たのだ。これは今でも大した相違はないが、何しろ其出し物が入込、中座と夫々に決つてゐて、入込の話しを中座の者が遣る事は出来なかつた。入込は無暗に見台を叩き立てるから見台叩きともいふのだ。

 (六)初代文枝の熱心

今いふ通り『三十石』は入込みの遣るものであつたが、先代の桂文枝(維新後を盛んに経た人)は之を得意にして、自分が真打に成つてのち、いろ〳〵手を入れて大切に遣つたのが大当り、夫から真打連の出し物に成つた。此文枝は桂文治の門人で、通名を藤兵衛といふた。何しろ近頃での名人で、話しの本文にかゝる前に前を振つてゐるのが(前口上の事)大層上手であつた。此人がまだ万光といふた時分、二階の一室に楯籠(たてこも)り、鏡を前に置き、時分の顔を映しては話しの稽古をしたところ、我れながら可笑しい顔をするので堪らなくなつて思はず吹出したが、イヤ〳〵自分で自分の顔を笑ふ様では迚も高座で客が己れを見て笑ふのを堪へる事は出来ぬ、又自分が笑うては客を笑はす事は出来ぬ道理だと悟つて、更に大いに稽古を励んださうだ。其くらゐ熱心なものだから、暫時に発達して遂に盛名を揚げたのだ。此前口上を巧く遣る事は先代の文都も真似てゐた。迚も師匠ほどには往かなかつたが、マア〳〵熱心丈に能く遣つてゐた。併し此文枝が『三十石』を大切に遣る事に成つてから、前にいふ出し物の順序といふものは狂ひ始めて、入込みの遣る物も真打の遣る物も区別がつかぬやうに成つて来た。或人が文枝に此事を詰(なじ)つた所、イヤさうではありません、昔から物には変遷があつていつまでも旧株を守つてゐては時尚に適ひません、何でも新機軸を出さねば発達しません、進歩しません、殊に話しの種はどんな疎末なものであつても、夫を巧く活して話しの位を上げるのが我々の務めです、又真打の遣てゐるものでも前座の者即ち入込み連が身分相応に話しこなせば、夫も矢張手柄で、第一自分の研究になりますと答へたさうだ。之を見ても見識のあつた事が分る。其時分から文枝の人気は素晴しいもので、何処の席でも文枝が出さへすればギシ〳〵と客が詰込んで怪我人がある位であつた。それに徳望もあつた人だから、寄席の主人は何処でも文枝の画像を床の間にかけて祀つたほどであつた。以て一班を知るべしだ。 (未完)

明治37111日 大阪朝日神戸付録

第一第二湊亭は来る十五日より今の圓若、文都、長次郎一座の上に常磐津林中、文字兵衛一座を加うるとの事なり

明治37116日 大阪朝日神戸付録

朝日座の呂昇一座は今十六日も前日と同じ語りものにて開演し更に明後十七日より東京演芸會一座にて興行の筈その番組は 落語(春風亭三生、三遊亭圓松、春風亭柳之助)近世刺客新話(松林圓生)芝居噺(春風柳三)扇舞(井上亀子)女義太夫(豊竹玉喜代)講談(神田鯉昇)奇術(春風小一柳)音曲(橘家花圓喬)御膳講談(三代目松林伯圓)長唄(富士田千之助、杵屋君三郎一座)

明治37117日 大阪朝日新聞

<寄席の変遷(劇通子)>(続き)

 (七)笑福亭の松鶴対抗

茲に又此文枝の全盛時代に売出して文枝と対抗した人がある。それは笑福亭松鶴である。新町で楊弓屋を出して通名を火消壷といつた。頭部の形が似てゐたからだ。文枝は名人でも芸の行儀が悪かつたが、此人は左ほどではない。天性咽喉がよいものだから音曲を入れた艶物を得意とし、自作の唄などを話しの中に挟み込んだ。文枝が彼の『三十石』を流行らした所から、此人も文句入りの『三十石』といふ小唄を作つて喝采を博し、之を利器として文枝の勢力に対抗したのだ。此唄も世間に能く流行(はやっ)て素晴しい人気を取り、何方(どちら)が勝とも団扇が上げられぬほどであつた。併しどちらかといへば此人の方が高座は上品であつた。

 (八)笑福亭松橋の新派

此松鶴の門人に松橋といふのがあつた。後に円笑と改名したが、此人は元紺屋の形置職で、職の暇な時には天満市場から菓物を買出して来て一種面白い売声をしては桃を売つた事もあり、夏祭りの時などは大阪の名物ともいふべき流し喜劇をした事もあるが、生れついての器用人ゆゑ何をさせても芸にそつがなく、遂に落語家に成つて松鶴に入門したが、前に桃を売つてゐたものだから落語家に成てのちも通名を桃屋といふた。松鶴の歿後其名を継いで師匠の三十石の唄をうたひ、其中へ文枝の三十石をも加味したのが人気に叶うて、是も一時世間を騒がした。併しながら此人の芸は先の師匠よりはケレンがあつて、俳優の様に眼をむいて睨んだり、高座の上を這廻つたり、余程芸が荒れてゐた。真打に成ても其通りであるから、自ら他の者も之を見習うて一般に此身振り仮声が甚だしく成て来る。そこで彌よ落語家仲間の芸風が一変して、以前よりはズツと陽気な代りには落ついた所はなくなつて、梅香、正三(他に菊枝、吾竹、慶枝、菊丸、花丸などいふ名人もあつたが、此事はこゝにはいはぬ)などの様な真の落語を以て自分の生命とする芸風は殆んど地を払つて仕舞つたのだ。夫が追々現今に及ぼして遂に今の様に芸が荒(すさ)んで来たものらしい(尤も他にもいろいろ原因はあるが)。

 (九)今昔の比較

現今の落語界が殆んど頽廃の極に及んで、寄席を落語許りで維持する事は出来ず、手品や義太夫や音曲や種々雑多の異分子を交へて始めて人気を繋いでゐるのは万人の認むる所であるが、これといふも一つは今の落語家の技倆が一般に拙劣に成つて、天晴名人と尊重すべきほどの偉人傑物があらはれず、話の種子が同じ物許りで、別に新奇な名作を求めるでもなく、自分で作る事は猶出来ず、偶に作れば古物の焼直し、二度と再び聞く気は出ず、イヤでもお客が飽て来たのだ。東京でも同様の有様である。そこで大阪で何か異つたものを聞(きき)たいといふ時は先づマア東京の芸人でも呼よせるの外はない。去(さ)すれば少しは異つた稀(めず)らしい物が聞れるので客受もよし、席主も争うて東京に供給を仰ぐといふ事に成てゐるが、実に思へば思ふほど情けない次第である。昔は大阪に前に陳べた様な名人が沢山あつて、江戸へ往ても鳴したのに、今では大阪に名人がなく、却つて東京から通常の凡人(円遊などは例外)を稀らしがつて呼よせねばならぬとは‥‥大阪に名人さへ輩出すれば別に東京に供給を仰ぐには及ばぬのだ。殊に常磐津林中で候のイヤ何がしで御座るのと、落語家以外の人を迎へて寄席の命脈を繋ぎ、落語の領分を削り取られるに至つては、時勢の然(しか)らしむる所とはいひながら落語界に取つては実に憐れな次第である。噫!振へよ落語家、励めよ落語家。他の芸林も頗る寂寞を感じてゐるが、殊に落語界は俊才、英器に乏しうて、一番情けない様に想はれるのも、一つは僕の贔負眼かも知れない。(をはり)

明治37118 神戸又新日報

湊亭の常磐津林中 当地の寄席で常磐津林中社中を呼びしは今回が初めての上に久しぶりの林中をれば初日は午後八時に早一杯の大入りとは幸先宜し。さて最初の落語橘松の「伊勢参り」、團輔の「軽業」は聞かず松喬の「聾の川渡り」は念入りだけに面白く聞かれお添物の「テヤテヤ講節」は愛嬌福清の「根問」は軽くやってのけ小福の「十徳」は相変わらずというべく舞の六歌仙はこの先悪達者にならねばよいがと毎毎ながら注意しておく。福遊の「魚の狂句」は申し分なく埃叩きの講釈と蓄音機の真似事は当人の十八番だけにいつもながらの大受け。若遊三の「転失気」は未だ生若きところあれども東京ツ子という看板で見物人はとにもかくにも承知せり。小福松の「味噌豆」は團輔そのまま舞の海晏寺は新檢留丸仕込みに度々見せらるるものなれど嬉し柳寿斎の曲引は所謂千篇一律なれどもあきのせぬが妙なり。福圓の「孝行糖」は極あっさりに演じたが熟練の効見にたり。長次郎の柴笛と剣舞は例によって例の如くという他になし。圓若の「五月人形」は自然に持前の音曲が入るところ妙いうべからず。今年の勅題にとて歌いしは曽呂利の作、圓若の調べにて「(二上がり)古の苔むす巖に芽生して今は小松も動きなく根ざしの色や千代八千代」、御可否はともかく例の美声なれば面白く聞かれたり。福我の「日の下露」は時局を当て込んだ際物なれば見物人大喝采。文字のある男は違うと隣桟敷の人が褒めていたりき。文都の「子別れ」さすが真を打つ人だけに得心させたり。さて最後は待ちかねの常磐津林中、千歳太夫、三味線岸沢文字兵衛及びその門弟にズラリと高座に並びしところは真に局面一変の感ありて水に打ちたる如く静まり返り得意の「乗合舟」は数年前大黒座にて聞きしまま耳底に残って忘れられざるもの。実に抑揚自在にして乗合客を一々活動せしむ。殊に萬歳に至っては他に類と真似人のなき専売物、只々感服の外なし、尚他を聞いて細評することあらん

明治37122日 京都日出新聞

○楽屋風呂 ▲幾代亭の枝太郎、年誌、扇枝等は近来カケ持が多いところから一昨日から自転車の稽古を初め出したと

明治37122 北国新聞

◇中島座(七尾) 東京演芸会一座にて、明二十三日より開演。顔触れは左の如し。

時世講談(松林陵鶴)音曲流行節(松の家鶴子)落語人情噺(三遊亭圓叟)改良新作話日英同盟踊り三府流行節(やッつけ楼双枝)人情美談(神田伯鶴)東京茶番狂言(助六、近八、時松)

明治37123日 大阪朝日神戸付録

神戸共遊會 神港倶楽部に於いて明二十四日(日曜日)午後五時より催す共遊會の番組は新年の御祝儀(大阪演芸社中)清国新奇術(帰天斎正蝶)二○加(大阪演芸社中)浄瑠璃三十三所壷坂市内の段(大阪弓場しゑ當年八歳、糸鶴澤松童)舞梅の春(中検牛若地方歌、若吉、若春、三味若力、若龍、君之助)剣舞本能寺、十六男児、山(愛武館員佐藤正道、蓮楽正光、蓮葉正秋、永井正春)柴笛外声曲(東京東長次郎)舞曲(東京坂東鶴之助)浄瑠璃太閤記十段目尼崎の段(大阪竹本南部太夫、糸野澤勝太郎)落語ポンチ絵写(三遊亭圓枡)・・

明治37128日 大阪毎日新聞

<切符制度の導入>

◇第一此花館の改良実行 一昨二十六日の紙上に記載に置きたる落語三友派の改良は、今後愈々実行する事となり、まづ手始めに平野町第一此花館を切符制度として、一等二等三等の切符を発売し、一等二十五銭、二等十五銭、三等十銭、右以外場代桟敷代茶火鉢代等一切申し受けず、出方を毎夜十名と限り、その演題は木戸口に張出し、午後六時開場十時三十分閉場、即ち一人の時間四十分、余裕に一度読み切りの噺を演じ得る仕掛けなりという。猶十歳以下の子供は入場を謝絶し、出方十名の内二名は、音曲、高座の膝隠し及び提灯を廃するなど、細則は他に多しという。併し客に対する取扱の改良のみにて、肝心なる落語家自身の改良を真先にやらぬ以上は、落語は迷運を挽回せん事、先ず困難なるべし。

<編者註>桂派の方も、二十九日の晩に、文枝、小文枝等幹部と、西村等席主が集まり、この切符制度について協議した模様。

明治37129 新朝報(豊橋)

河原座は昔々亭桃太郎一座にて来る二月一日より開場、芸題は探偵小説贋造紙幣(女道楽師青柳葉嬢)音曲噺義太夫今様寝床(桃太郎)にて其他初日の番組は左の如し

御祝儀替我石段の場(楽屋総出)狂歌歌傘の曲(柳太)手跳音曲ドンガラ(ぽんた)音曲四の字きらい(若蔵)和尚しくじりてんしき手踊(小柳冶)浅草公園八景阿保蛇羅経(目玉)ステテコ踊(文平)茶番假声(米枝)等皆々大車輪にて勤むるとの評判ジャーイ

明治37129 神戸又新日報

◇湊虎亭 湊橋西詰湊虎亭にて、午後五時より講談松月堂楳林(ばいりん)会主となり、講談・落語・女義太夫の大会を催す。出演者は、大阪講談連・湊亭三友派一座・西門菊廼亭の一座なりと。

明治37129日 馬関毎日新聞

◇桃中軒一座 小倉に於て興行中なりし桃中軒雲右衛門は、二日前門司に来り、同市日の出座に於て、桃中軒一流の浪花節開演中にて、非常なる人気を受け、毎夜大入札止めの有様にて、本社出張員へも優待券を送りたり。

明治37130日 大阪朝日新聞

◇二月一日より三友派各席へ東京下りの三遊亭小遊三、常陸坊歌麻呂(音曲噺し)の二名が出勤するが、常陸坊は横綱常陸山に養はれ、其お蔭にて芸人となりしとか。

◇第一第二の両文芸館へも同日より東京下りの大隈柳玉といふが出席するが、これは医師上の珍物にて、日露事件を得意として講演する由。

◇桂文枝は自分の名前を小文枝に譲り、其身は故人にあらざる名をつける由。

明治37130 北国新聞

<稲荷座が尾山座と改称>

◇尾山座改名披露宴 並木町なる稲荷座が今春より尾山座と改めたる事は既報せし通りなるが、今度お馴染の革新派一座を以て花々しく改名披露の興行をなすべく昨日より開演せしが、一昨夜並木町の小松軒に於て、座が披露を兼ねて同一座の顔繋ぎの宴を催したり。午後七時半頃座定まるや座主の挨拶あり。配膳置酒となり、東廓芸妓連の座間を周旋するあり、同夜十一時頃一同手打をなして散会せるが、非常の盛会なりしという。

明治37130日 馬関毎日新聞

◇演芸だより 市内裏町弁天座にては、新演劇合同團一座にて、先日より新たに大西伝磯、谷垣次郎其他数名の俳優を加え興行中なるが、非常なる好人気なり。田中町明治座にても、新演劇太陽團大橋幸太郎一座にて。豊前田町旭座の吉川秀幸一座の浮連節は、一昨夜限りにて打上げたり。

明治37131 新愛知(名古屋) 

富本席 来る二月一日より東京より三遊亭左圓遊の一座と清国人大奇術吉慶堂李彩合併にて開演の筈

明治3721日 大阪毎日新聞

◇第一第二文芸館は、本日より大隈柳玉、瀧川鯉橋が加入。又靱館は本日より、互楽派の連中にて興行する事となり、従前の一座に、柳玉、鯉橋は出勤する筈なり。

明治3721日 大阪朝日神戸付録

◇神戸市内興行物 ▲楠社の西門筋菊廼家は京山若廣、京山光勇、京山花丸、吉川玉吉、廣澤小菊丸、吉川辰圓、京山若丸一座の浮れ節▲菊之亭は久吉、小住、時廣、小國一座の女義太夫▲楠社塀側旭亭は呑山、呑玉の講釈▲多聞通二丁目第一湊亭は笑福亭福三、圓徳、米喬、福我、圓松一座の昔噺▲三宮雑居亭は京山若丸一座の浮れ節▲富士館は君江一座の女義太夫▲第二湊亭は第一湊亭と同じ▲生田前末広亭は熊勝一座の二輪加▲大開通弁天社内亀甲亭は若留一座の新内手踊▲駒ケ林八幡亭は西洋手品

明治3721日 京都日出新聞

○楽屋風呂 ▲幾代亭は本日から入場料を切符制度としたが一等二十五銭二等十八銭三等十二銭で本日から既記のアイヌ土人ペリカも出勤する筈だ其の出演の時間は午後六時(光輔)六時廿五分(枝雁)六時五十分(枝之助)七時卅分(年誌)七時五 十分(燕太郎)八時三十分(文光)九時五分(扇枝)九時卅分(ペリカ)十時十分(枝 太郎)十時卅五分(分南京)切(文吾)▲笑福亭の米朝、明学、歌之助は昨日限りで大阪へ帰り本日から柳寿、若遊三等が出勤する筈

明治3726日 神戸又新日報 

◇湊亭 七度狐(梅勝)十□切(福清)なたねきり(團輔)野崎参り(福遊)そこつ長屋(圓松)三百餅(勝鶴)桜の宮(松喬)日露(福我)三人片輪(若遊三)唖の魚釣り(福三)春雨茶屋(福圓)曲引三曲調(円篤)剣舞竹切(東長次郎)転宅(米喬)小話手踊り(小福松・小福)

明治37211日 神戸又新日報 

◇柳座 本日より斬新電気応用理学的大奇術士一宮斎光國の一座。木戸二銭五厘、上場三十八銭、中場二十八銭の安値段

明治37214日 大阪朝日新聞

<寄席改良法の実施>

◇改良風は遂に寄席仲間をも靡かせて、平野町の第一此花館は来る十五日より切符制度を施行して、座布団、火鉢代をも木戸銭の中に搗交ぜ、一等二十五銭、二等十五銭、三等十銭と定め、毎日午後六時に開演す。出席芸人の数も従来二十余名なりしを十二三名に減じて十分に働かせ、落のある話を途中で切るが如き不都合を為さしめず、曽呂利、文団治、福松等の立物は必ず出席する由。又同日より同席へ立花家橘之助が連彈の橘童を連れて出席、初日より三日間は川上音二郎が出席して改良の趣意を演説する由にて、座布団其他の器具を新調したりと。

◇南地法善寺の桂派金沢席にても同日より改良法を施行して諸般の設備を一新し、桂文枝も出勤する事になり、芸人と出し物を選み、成丈斬新なるハイカラものを演ずる由。

◇第一、第二両文芸館は明十五日より東京下りの土橋亭りう馬、青木とき子嬢が出勤し、大隈柳玉は日露戦争に関するものを演ずる由。

明治37214日 京都日出新聞

<はじめ館開場>

氏原一は元第一福真亭を借り受け「はじめ館」と名付け明日から浮れ節を興行する筈

明治37214日 神戸又新日報

藤田席 明日より改良俄歌蝶、亀蝶、力太郎、雙六此外若手連中一座にて芸題は左の如し

明治37217 神戸又新日報

◇朝日座 本日より西門藤田席で御馴染みの改良俄栗亭玉翁(ぎょうくおう)一座に大門亭半玉等が加わり日露事件を脚色して見せ且戦勝の祝意を表するため木戸銭一人二銭、上場八銭にて行き次第二階は五銭の大安売なりと

明治37220 台湾日日新報 

○軍資金献納芸人大会 在台北の諸芸人等は日露戦争に就て軍資金献納の為め来る二十一日より二日間栄座又は淡水館にて諸芸大会を催さんと北投の万朝ら斡旋の役を背負ひ東奔西走中なるも其種類は常盤津、講談、落語、義太夫、三曲合奏,演劇,舞,二〇カ、薩摩琵琶、剣舞等なりといふ

明治37224 神戸又新日報

◇神戸倶楽部 今廿四日午後五時より共遊會を開催する筈なるが番組は左の如し

軽口金山(大阪信の家社中)萬歳寶の入船(大阪余興屋連中)俄都の花(大阪尾崎、延太郎、金玉)娘義太夫壷阪の段(大阪豊竹時廣、糸同團初)・・三人一体滑稽落語(大黒座木村座中福田茂、岩田龍の助、加島太郎)・・力士の出合引抜ト松(大阪尾崎、金玉、延太郎、平賀)

明治37224日 香川新報(高松)

玉藻座 数日前より開場の日英清三国人同盟の演芸大会は清人の手品術、英人ジョンベールの二上がり新内、都々逸等日本謡曲等中々の大当たりなりしが、昨夜にて打揚げ閉場なるが、続いて當市有志の招聘により泉祐三郎一団乗り込み、今様能狂言の大会催さるる筈。

明治37226日 大阪朝日新聞

<二代目桂文枝、文左衛門と改名する>

◇桂派の寄席金沢席が改良実施の事は曾て記載したるが、同派の棟梁文枝は猶進んで幾代席、永楽館等にも三月一日より改良法を実施する事に決し、時間は毎日午後七時より十一時までとし、重立たる芸人のみを出席させ、風俗壊乱其他の不都合なきを期し、其禁に触るゝ者は夫々に処罰を加へ、優等者には月毎に顔順を昇進せしめ、給金をも増し、専ら芸道の上進を謀る由にて、客に対しては例の切符制度を用い、成べく安価に入場せしむ。因にいふ、桂文枝は既報の如く今度門人小文枝に名前を譲り、自分は紀州の出産なるを以て紀文を気取り桂文左衛門と改名する事に決したり。或る贔負客は此事を聞いて紀文が吉原妓楼の屏風に「此所小便無用花の山」と記したるに擬らへ「花の山」を「人の山」と更へて美事なる短冊を寄せ、大入を祝したりと。

明治37226日 新愛知 

富本席は本日より例の昔々亭桃太郎一座の落語興行

明治37228日 大阪朝日新聞

◇三友派各席は三月一日より旅行中なりし米喬、曲引法師柳寿斎が出勤し、桂残月は日露情話を講演する由。

明治37228日 神戸又新日報

◇神戸倶楽部 軍資金献納演芸會というを来る三月二日三日両日開演するという出演者は左の如し

素人浄瑠璃、俳優(実川延三郎、坂東鶴之助、実川正太郎)落語(笑福亭圓篤)改良二○加(栗亭玉翁一座)中検柳原福原芸妓連

上方落語史料集成 明治37年(1904)二

明治3731日 大阪朝日新聞

◇松島の第一文芸館は今一日より東京下りりう馬、柳朝、左円遊、清国人李彩等出席して、本日の収入高は悉く恤兵部へ献納す。又第二文芸館及び靱舘も同様献金の計画あり、前記各席より名古屋富本席へ出張する正三、円光一座及び尼ケ崎清水座へ出張する花丸、藤誠一座も同様、一日間の収入を献納する由。

明治3731日 京都日出新聞

幾代亭へ本日から出勤する長唄杵屋君三郎、富士田千之助一座の今晩の出しものは鞍馬山と大薩摩新曲旅順口を演る筈で同席にては午後八時迄にお出の客は日露軍艦比較表を一部宛進呈するそうだ

明治3731日 神戸又新日報

<大隈柳丈>

湊亭出演大隈柳玉の談(はなし) 東京下谷の徒土町で一時医者の玄関を構えた身が好きな道は仕方のないもので、□然匙を投げて芸人界に飛込み改良落語や人情噺を演って居るという評判の大隈柳玉は何かと素養のある男だけ言うことも確乎で正に芸界の一名物たるを失わぬ又本人は大兵肥満な体ではあるし鼻下の八字髭から見ても何となく医者らしい夫れに大隈という苗字だけに「伯爵々々」と来客から声懸りがある本人益々得意に髭を捻って詭弁を揮っているが今其言う所を聞けば下の如くである。

「私は何うも落語家が好きで大学の第二医院へ通う時分から看護婦集めて俺の噺を聞けつて其真似をしましたが原因で此芸人病に感染しましてトウトウ痼疾(こしつ)となって了いました。ズット前に川上音二郎一座の青柳捨三郎が落語家になった時にそんなら俺もやろうなんて始めました。それから面白くなって来て本業は放擲って斯道へ入りました。今度は大阪で御社の新聞を見まして神戸に参ったら此「日露戦争」という講談を喋りたいと思って前に端書を差上げたような訳でございます。処が是は警察署へ筋書を出さなっくちゃならないもんですから初日の間に合いませんでした明晩から遣らせて戴きます・・・今晩の出し物ですが、猶且(やはり)商売柄で衛生のお話です口や耳や手や足が肛門と喧嘩した上同盟しまして胃腸に食物を停滞させて大いに肛門の総攻撃をするッてやうが筋なのです・・・書くことですが近頃は何も致しておりません過日可笑い話があります東京金物新報から何か一席書いて呉れッて注文されまして早速書いて送ったらお前は喋るより書く方が少しはマシだなんて言われました私も今度の戦争には是非一番奮発して従軍したいという考えを致して居ります・・・。」

明治3731 北国新聞

◇新富座 清元浮世節(歌女丸)道化諸芸物真似(扇之助)浮名の別れ尺八の曲(柳太)胡弓の曲引(若蔵)落語大勝利踊(小柳治)落語名題役者左團次菊五郎松助八百蔵声色(米枝)落語朝野開説(華嬢)落語河原の花見音曲色々(扇好)時世新古日露開戦(邑井貞吉)

<編者註>興行の途中で、双枝一座も加わる。

明治3731日 香川新報

玉藻座 泉祐三郎一座は二十八日初日を出す筈なりしも都合により昨日開場せし。

明治3732日 香川新報

◇戎座 丸亀市南条町の同座は昨日より日露二○加、手踊、落語等の催しあり。中外無料なりと。

明治3736日 北国新聞

◇新冨座の若蔵と小柳治合奏の胡弓曲引きと尺八三味線は、慥(たしか)に霊妙なる者で、華嬢の一口噺は愛嬌のよいのと面白いので、喝采を博し、貞吉の講談、やッつけ楼双枝の改良落語と土人踊は、非常の人気を引いて居る。

明治3737日 北国新聞

◇寶座 今晩より日露戦争実記講談、即席滑稽落語、日露新作噺、人情噺、風流日露戦争大勝利踊、一口問答、東京茶番等を橘かをる、笑福亭□太郎、三遊亭遊好、橘家橘松外数名にて興行。

<編者註>三月十一日迄開催。

明治3739日 新朝報

河原座の桃太郎一座 豊橋河原座にては今九日よりおなじみの桃太郎一座にて興行する由にて

御祝儀寶の入船かげ芝居(楽屋総出)狂家人かさの曲芸(柳太)牛ほめ音曲いろいろ(ぽん太)四の字きらい生人形(若造)落語百種手おどり(小柳冶)公園八景あほだら(圓玉)長命ステテコおどり(文平)ほまれの俥人情ばなし(真生)盆の曲さらの曲芸いろいろ(若造、小政)今様日露はやり歌(桃太郎)日本大勝利即席ばなし(大一座)

明治37310日 北国新聞

<双枝、金沢移住>

◇例のやッつけ楼双枝は、今度当地永住の見込みで、河原町八十六番地に世帯を持ち、業間には看板暖簾其他書体随意揮毫の需(もとめ)に応ずるそうだ。双枝の妻は、花柳都と云い、故花柳寿輔直伝の手踊及び音曲の指南をするとの事だ。

明治37312日 大阪朝日新聞

<桂小文枝、三代目桂文枝を襲名する>

◇三代目文枝 桂派落語家の棟梁文枝退隠して小文枝に三代目文枝を襲がせたる事は既報の如し。小文枝は初代文枝の弟子(その頃六歳)にて小文といひしが、初代文枝子なかりしかば我子の如くいつくしみ、成長の後は我が名を継がせよと遺言して死したるよしなれば、二代目文枝師匠の名を継ぎたる時、小文枝と改め、今度先師の遺言通り三代目を継がせたるなりといふ。尚同人は右披露として十六日法善寺金沢亭、十七日新町瓢亭、十八日淡路町幾代亭、十九日天満林家、二十日内安堂寺養老館に諸芸大寄会を催し、その上り高を恤兵部へ義捐するつもりなりといふ。

明治37314日 京都日出新聞

幾代亭出勤の光輔枝之助は予備の召集に接し過日出発したが光輔は野戦衛生隊一中隊へ編入ぜられたるが枝之助は此程補充隊に組込まれしを慨し戦列隊へ編入を志願しておると幾代亭への手紙にあつた

<編者註>光輔は、後の桂三八(本名中川淳吉)、枝之助は、除隊後、後八から文福を経て、二代目桂燕枝(後圓枝、本名永岡辰之助)

明治37315日 大阪朝日新聞

◇アイヌ婦人の演芸 今十五日より桂派の寄席金沢、瓢亭、幾代の三席へ出演するアイヌ婦人は、北海道胆振国有珠郡有珠村のトチミ(二十一年)といふ者にて、父をムコウチヤク、母をフチウとよび、幼少より音曲を好み、近頃は江刺追分節を専門とし、日露戦争の読込の浪花節、同ホウカイ節及び土語の歌曲をも取交ぜて演奏す。芸名はヘリカ(土語美人の義)と呼ぶ。収入の幾分は恤兵金に献納する由。

明治37318日 大阪朝日新聞

◇文芸館 目下清国人演芸開催中の寄席同館は、第一、第二両舘館十七日収入金を軍資に献納する都合なりと。

明治37325日 京都日出新聞

<京都幾代亭で、文枝文左衛門改名披露会>

文枝改名披露会 一昨夜(二十三日)、新京極幾代亭に於て催したる大阪桂派の文左衛門、文枝の改名披露会は盛会なりしが同亭の内外には文楽座の摂津大掾等より寄贈の旗など飾立て景気を添へたり演芸は大虎座の正子、馬鹿八の軽口、福真亭の小八重の浄瑠璃、琴書、一の講談、幾代亭定連中の落語に引続き琴書の紹介にて二代目文枝改め文左衛門、小文枝改め三代目文枝の両人は改名の挨拶を為し、文枝の名義の責任ある等を述べ東京の長唄連中の大薩摩速鳥艇に引続き新蝶、市丸、東米の俄ありたり

明治37323 香川新報

◇屋島座 この程来取急ぎ工事中なる當市内町の舊東座は近々其の竣工を告ぐる筈にて、屋島座と命名する由。

明治37320日 神戸又新日報

◇神戸倶楽部 本日午後五時より下山手通神港倶楽部にて軍資金奉公演芸會を催すという其番組は左の如し

▲軽口道中八景(大阪余興屋社中)▲大和魂誉の旗上げ(大阪金一)・・・▲落語(三遊亭若遊三)▲演説日露時局に就いて(木村猛夫)・・・▲俄廓の調伏(信の家松錦、金玉)・・

明治37327日 大阪朝日新聞

◇落語家献金 三代目桂文枝となりたる落語家小文枝は、改名披露に際し金十五円を報効義会へ、同額を本社恤兵募集部へ孰れも寄付したり。

明治37330日 大阪毎日新聞

<松の亭開場>

◇安堂寺町松の亭の開業式 女浄瑠璃豊竹呂昇の定席なるが、松の亭と改称し、三十一日より開業式を興行する由。

明治3741 神戸又新日報

◇湊亭 第一第二湊亭共に本日より桂家残月(日露戦争物語)春風柳之助(稽談)清国人吉慶堂李彩(奇術)を加える由。右の内李彩の奇術は当地初めての出演にて伏見宮殿下を始め奉り上つ方の御上覧を賜りたることもある由なり

明治3741日 馬関毎日新聞(下関)

◇桃中軒雲右衛門の開演 再昨夜来、当地裏町弁天座に於て桃中軒の浪花節を開演。

明治3741日 山陽新報(岡山)

◇千歳座 西中山下千歳座にては、本日より大阪桂派合併落語おなじみ西国坊明学一座の音曲演芸を開演。初日早々より一座得意の軽妙な咽喉を聞かせるとかや。

明治3742日 京都日出新聞

幾代亭の光輔は先日予備兵で召集され入営しておつたが一昨日除隊となり昨夜から出勤する事となつた又同席の昨日からの出番の時間は 午後六時四十分(光輔)七時(福篤)七時二十分(柳枝)七時四十分(芝楽)八時(枝雁)八時二十分(枝之助)八時四十分(扇枝)八時五十分(ペリカ)九時十分(文吾)九時三十分(燕太郎)九時五十分(年誌)十時二十分(枝太郎)十時四十分(長唄)十一時(文南京)切(幻灯)

笑福亭の落語の昨夜からの出番の時間は 午後六時三十分(真三)七時(吾喬)七時二十分(立花)七時四十分(鶴松)八時(花円喬)八時二十分(春団治)八時四十分(たぬき)八時五十分(芝楽)九時十分(福丸)九時二十五分(文之助)九時五十分(歌丸)十時十分(円太郎)十時三十分(柳三) たぬきと云ふは花円喬の小供で本年四歳だが流行唄其他面白い事を演るそうだ

明治3743 富山日報

◇旭亭 今三日より旭亭に於て、東京講談桃川燕龍、同神田鯉昇、落語三遊亭圓七、同立花家橘松、二○加軽口立花家梅喬、同三遊亭七笑、同橘かほる等にて開演するよし。

<編者註>四月二十六日迄。その後、立花家橘松(後の三代目圓馬)が日露戦争へ従軍。圓馬の記録は、「仁戯和栄集②圓馬の旅記録」に収録。

明治3745日 新朝報(豊橋)

河原座の講談 同座にては一昨三日より神田小伯圓、藤井臥龍の講談興行

明治3745 神戸又新日報

<李彩>

グラフィックス2支那人李彩の手品 市内多門通りの第一湊亭・三宮社内の第二湊亭に開演中の清国曲芸師李彩(二十六)というは、清国北京宣武門外上針街生まれにて彩子という曲芸の師匠に就き、六歳の時より学びえたるものにて科学応用の魔術とは大いに異なり熟練のみの技芸にて同人は三十三年中に王福順・王福林という弟子二人を伴い欧米に渡りし後、一昨年十一月中初めて大阪に来たり道頓堀にて一興行したる後東京へ赴き新富座・明治座・歌舞伎座その他所々の席へも出たるが明治座にては去る宮殿下のご覧になりし程なりと。尚弟子二人は東京より帰国させその後は一人にて当地へ来たり、本月十五日限りにて又大阪三友派各席へ出演し直ちに帰国するという。

明治3747日 大阪朝日新聞

◇義勇奉公 落語家桂派の立花家円三郎は道楽に覚えし毛糸細工にて大黒形の軍艦帽を造り、元値三十二銭のものを五十銭にて知人に売り、利益の十八銭(一箇に付)を積立て、去月第一回の利益金五円零四銭に兄の円馬の出金五円を合し恤兵として本紙に託贈せり。

明治3747 北国新聞

◇双枝は、各宴会に招かれて、受けがよく、中々に流行(はや)って居るそうだ。

明治37412日 香川新報(高松)

◇常盤座 丸亀富屋町の常盤座にては今度音曲人情噺の元祖と称する曲亭馬琴の一座にて昨夜より開演せり。

明治37412日 香川新報

◇玉藻座 同座に開演中なりし伊藤綾之助一座は一昨日を以って打上げ丸亀市戎座に乗込む由なるが、本日よりは西国坊明学一座の落語家が来たり開場の筈にて、明学作のロシアこい歌はこのようなものだと。

国のいしづへ日本の花よ 大和魂はどこ迄も、 ロシアこい、ロシアこい

岩に松さへ栄へる日本  敵に恐れる事はない、ロシアこい、ロシアこい

下は氷の地植の海に   上から打ち出す玉の雨、ロシアこい、ロシアこい

日本魂で打ち出すからは 覗ひはずれぬ敵の艦 ロシアこい、ロシアこい

人は愛国名は末代に   支那を助けに出づる日本 ロシアこい、ロシアこい

日本萬歳海軍ともに   錦の御旗をかがやかす、ロシアこい、ロシアこい

すすむ日本は千とび迄も やがて一とび都迄  ロシアこい、ロシアこい

明治37415日 香川新報

玉藻座 西国坊明学の琵琶演奏、日露戦争談、尺八、篠笛吹奏其他桂派の落語手踊など殊に評判よく初日以来毎夜可なりの入りにて木戸三銭、割四銭、枠二十銭、桟敷四十八銭なり。

明治37416 神戸又新日報

◇神戸倶楽部 共遊會は明十七日午後七時より第二回軍資金奉公演芸會を催すと云う番組は左の如し

▲御祝儀寶の入船・・▲奇曲芸(大阪奥田社中)・・▲今様狂言(東都泉祐三郎)・・

明治37417日 新朝報

今日の休日 弥生座の杉山一座の新演劇・・・・東雲座の松井源水・・・・河原座の小辰丸の浮れ節・・・

東雲座の松井源水 東京浅草公園にて居合を抜き独楽を廻し歯磨を売る松井源水は高名なる者なるが三遊派の落語家連中を加わり各所の寄席に於て絶妙なる独楽の曲芸を演じ喝采を博しつつありし源水は同名異人にて前記の源水には義弟なりとの事なるが此男其後多年欧米諸国を巡回して各所に興行の都度各国皇室大統領等の賞賛を得し由にて帰朝後は各所に興行をなし此頃中は静岡濱松等にて大いに好評を得しが一昨日豊橋に乗込み直らに興行の予定なりしが荷物延着のため順延し今夜より東雲座に開場すべく独楽曲芸にては日本無双との事なれば初日より観客満場の盛況ならん

明治37417 北国新聞

◇やッつけ楼双枝は、今度木町二丁目へ移転したそうだが、東廓の浅野屋女将、矢作屋主人、諸江屋、江戸屋などという側の引立で、同人妻花柳都の門人も殖(ふ)えたそうだ。

明治37425 神戸又新日報

◇湊亭と藤田席 二三日以来市中の士気が上がって停車場などは非常に賑わいであったが、その界隈の第一湊亭は中々好人気であるから一寸覗いてでて楠社西門の藤田席へも首を突っ込んだがこれも又相当に賑ひであった相変わらず見た所評を書いておこう。

◆湊亭 丁度三遊亭若遊三が出てきたが落語はその名の如くお若輩でお古い上ただ単ににやけて気取るだけのもの。故人菊五郎と圓蔵・芝翫のセコナ声色に至っては鼻を詰まざるをえず。江戸っ子の多い神戸では少と…。笑福亭福我の軍事落語は大受けである。とにかく新派の落語をやる勇気はあっぱれ。ご愛嬌には「春雨」替え歌をやって戦争物の流行唄を印刷した小雑誌を一同の客に呈するとはいよいよもって如才ない男というべし。次は桂家残月の身振り講談だが源氏節の身振り、浮かれ節の身振り、萬歳芝居ときて今度は講談の身振りとなっては昔の「ご記録読み」から今の「御前講談」とまで価値をあげた先生連はなくだろう。しかし東京ではギャフンにもせよ大阪三友派に年も年も尻をすえられた技量と新派の講談をやるだけは感服だが如何に写真でも上下の付かないのは素人按摩の如しである。後は圓篤の曲引きであったが今度はお次の掛け持ちとした。

明治37428 京都日出新聞

幾代亭は来る一日から橘之助、朝寝坊むらく、橘童と云ふがお目通りを為す筈で橘之助は清元が得意で橘童と云る七歳の少女の上調子を弾く筈で同席の文南京、年誌、文吾、燕太郎等は伏見の大手町末広亭へ出勤する由

明治37430日 大阪朝日新聞

◇来月一日より三友派各寄席へ清国奇術師及宝山、李桂芬、軽業師一徳斎、美蝶等出勤し得意の芸を御覧に供する由。

◇桂派各席にては棟梁の文枝改め文左衛門が病気の為多く欠勤勝なりしが、各席とも切符制度に改めたる今日、従来の如く一二の席へのみ出席するは其派の為でなしとて、来月より各席へ半箇月宛出勤する由。


上方落語史料集成 明治37年(1904)三

明治3751 新朝報

<豊橋東栄座開場>

東栄座の舞台開き 豊橋町東新町なる同座の新築工事は不日竣工の筈にて近日盛大なる舞台開きを行う由なり

<編者註>舞台開きは六月十日

明治3751 北国新聞

◇新富座の源水一座は豫記の如く本日花々しく町廻りをなし、午後六時より開演の筈なるが、定めし大人気の由なるが、木戸銭五銭にて場代なしの勉強なりと。

三ッ面足踊(助六)二人道中(□寿)放独楽茶碗屋敷(小源水)獅子の曲(松助)曲独楽(助十郎)落語(松楽)大相撲の独楽(源水、小源水)音曲唄曲弾(右多助)曲独楽大道具大仕掛水芸早替(源水、小源水、助十郎)

明治3751日 京都日出新聞

幾代亭の本夜よりの出番の時間は 午後六時三十分(柳枝)七時(福篤)七時廿五分(枝雁)七時五十分(年誌)八時二十分(枝之助)八時五十分(むらく)九時二十分(芝楽)九時五十分(枝太郎)十時廿分(橘之助)切(文吾)

明治3752日 京都日出新聞

笑福亭の落語の昨夜よりの出番の時間は 午後七時(真三)七時三十分(小三四)七時四十分(立花)八時(福太郎)八時十五分(花円喬)八時三十分(鶴松)八時四十五分(芝楽)九時五分(春団治)九時廿五分(福丸)九時四十分(円太郎)十時(小団治)十時廿五分(文之助)

明治3754 香川新報

<高松屋島座開場>

屋島座の初興行 新築落成を告げし當市屋島座は愈々今四日より華々しく開場する筈にて。請元は當市の島岩、役者は新俳優岩尾義郎の率いる改正義團一座にて

<編者註>五月十日、十一日の香川新報によると、落成式は九日で、十日より開場。

明治37515日 新愛知(名古屋)

富本席 明後十七日より曽呂利新左衛門、三遊亭圓子、同遊輔、同小圓子、桂小團冶、桂文我、春風亭柳寿斎等の大一座にて落語講談を口演する筈

明治37520日 大阪新報

三友派の音曲家圓若はこの頃毎夜法善寺の紅梅亭で本社千人県賞征露の歌の当選一二等を例の美音で唄つている

三友派の催しにかかる落語かちかち會は来る二十二日紅梅亭にて開演し當日は朝日座の高田が改良の趣旨について一場の演説をなすよし

明治37522日 大阪朝日新聞

◇三友派落語家のかちかち会は今二十二日南地法善寺境内紅梅亭にて開き、高田実の渡韓土産を始め米朝、文都、文団治、福松等及び宝山、李桂芬の清国人も出演の筈。

明治37526日 大阪朝日新聞

<桂米喬死亡

◇桂米喬死す 三友派の落語家桂米喬事井上辨次郎(四十五年)は昨日高津九番町の自宅に於て脳充血のため死亡せり。同人は文団治の弟子にして人気取りなりしに惜むべし。

明治37526日 大阪新報

<桂米喬死亡

桂米喬死す 高津九番町二百七十二番屋敷井上辨次郎(四十五)といえば昨今の事だから閉塞隊員が吉野、初瀬の戦死者でもあるかのように思われるけれど、これが全く三友派の愛嬌男桂米喬字は鰐皮の本名で、同人は第一第二の両此花館を始め堀江の賑江亭、北の新地の永楽館などを掛持に遠慮なく聴衆の頤を脱させていたが、一昨夜も第一此花館と永楽館では「忠臣蔵辻八卦」第三此花館では「小倉船」を話して十二時過宅に帰り何の事もなく寝床に就たに、昨朝六時頃アツと一声叫んだを名残に夢でも見ているかのような顔をして往生安楽を遂げたから跡に残つた女房のおとみとはエエ死ぬなら死ぬと何故断つて下さらぬ遺言でもあれば鰐皮だけに切て剥製にして水族館の参考品でもするものをというたかいはぬか、何にしても長女のおうの(十四)長男市次郎(九つ)の二人を抱えて泣の泪である。死因は脳充血という事だが平素大酒を好んだ男ゆえ昨夜何れかにて飲過したのかも知れねど、楽屋では予て関係ある北新地永井席の芸妓福太郎の惚気などを吐散し最も元気よく見えたから昨朝死んだと聞いて三友派の連中は夢のような思いだした。同人は二十三の時笑福亭文蝶の弟子となり、文蝶が生瀬となつた時、文蝶と襲名し、其後更に文冶の弟子となり米喬と改め、一時京都の笑福亭に出勤していたが二十五年に今の如く米喬となり、鋳掛屋、転宅などの外前記の数種の得意として饒舌、電燈を甞めるなどの人気取の一つであつた。葬式は今二十六日正午自宅出棺、阿倍野の墓地へ葬るとの事だ。但し同人に就ては他に面白い話があるから次号に改めて記すとする。

明治37年五526日 大阪毎日新聞

<桂米喬死亡

◇桂米喬死す 三友派落語家愛嬌者の桂米喬事本名井上郎(四十五)は昨日午前六時突然脳充血に襲われ、黄泉の客となれり。同人は元来古物商なりしも、性分落語を好み、二十六歳の時、始めて文團治の門に入りて米紫と称し、去る二十五年米喬と改名したるにては、初めは大煎餅と仇名を得たりも、近頃はその大あばたの為に、鰐皮と呼ばれて高座に花を添えおりしが、一昨夜は第一此花館と永楽館にて忠臣蔵辻八卦、第三此花館にて崇禅寺馬場踊り深川、賑江亭にて小倉船を演じたるもの、この世の喋り納めなりしと。定めて今後は、閻魔の庭に大王の臍を捻らせるならん。因みに同人の自宅は南区高津九番地にて、男女二人の子供なる由。落語界の今日同人を失う事惜しべし思うに、三友派にとっても少なからず打撃ならん。

明治37530日 京都日出新聞

幾代亭は来月清国北京順天府正陽門外大街西雲居寺西首路北永徳堂の者李持芬(三十三年)と同天津西関大街中間路南餘慶堂の者及宝山(十九年)と云ふ二人の奇術師初目見し尚桂文平が定連中の外に出勤する由

同席に出勤中の立花家橘之助、同むらくは和歌山へ東京芸妓連中は東京へ何れも本日中で帰る由

堀川の菊の家は今明夜幾代亭の定連中と東京芸妓島次、小〆、のんき、太郎、すゞ等の掛持を為す筈

明治3761日 大阪朝日新聞

◇三友派第一第二此花、賑江、永楽、紅梅の五席へは今一日より久々にて東京の若柳燕嬢、松柳亭鶴枝の両人が出演する。

◇文芸館各席は自今切符制度に改むるよし。

明治3761 京都日出新聞

幾代亭は本日より伊藤潮花と云ふ軍談師が一枚加はる事となり同席の枝太郎、扇枝、枝之助、光輔、支那人文南京は本日より彦根新席座へ乗込み

笑福亭は本日定連中の上へ長唄富士田千之助、三味線杵屋君三郎、上調子同美千之助、笛住田万松、小太鼓富士田喜千之助の連中が加はる
和歌山へ旅稼ぎをする三遊亭円遊は、昨日当地に立寄り本日和歌山へ乗込む由。

明治3762日 京都日出新聞

幾代亭の落語連中の本日よりの出番は 午後六時五十分(しん馬)七時二十分(光輔)七時四十五分(柳枝)八時十分(文平)八時三十分(潮花)八時五十五分(芝楽)九時二十分(枝雁)九時四十五分(燕太郎)十時五分(年誌)十時三十分(文吾)十一時(清国人) 

明治3763日 新朝報

河原座 東京落語連中にて一昨日より開演毎晩大入りの盛況なる由

明治3766 北国新聞

宝座 東京怪談三遊亭圓橋一座

いろは座 落語(文里)大阪名物万歳(喜久松、梅太夫)西洋手品(光徳女)音曲噺(新吾)月の世界(三洲)三味線曲引(馬鹿八)大勝利万歳(喜久松、福升)

明治37614 北国新聞

◇新冨座は、一昨日より、三遊亭圓橋の怪談にて開演。

明治37615日 大阪新報

<桂團若死す>

落語家團若の戦死 去月十五日吾戦闘艦初瀬が沈没の際戦死を遂げたる同艦乗込みの三等水兵大原丑松氏といえば唯名誉の軍人としてその英名を伝えられるのみであるが更にそれ以上に注意を引くべき氏が反面について興味深い物語りがあるのだ。氏は當市南区今宮戎の町の出生で稼業は真面目な大工職なりしも従来遊芸を嗜み深く所謂好きこそ物の上手とやらツイ仮初の小唄一節も不思議と声調律に適い所詮素人芸として徒(いたずら)に朽果てる器にあらずと人も許せば自らも信じ夙(つと)に落語の群れに入つて得意の長廣舌(ちょうこうぜつ)と天性の美音に聴衆の耳を傾けせんと期し去る三十四年四月伝手を求めて三友派の桂梅團冶に師事せんと図つた。すると梅團冶も氏の技量を認め更にその師たる文冶に紹介し芸名を團若と改め一流の音曲を以て同派の各席へ上ることとなつたその高座における面影は今尚斯道通の記憶に存ずるであろうが適齢に際して平素水泳の巧みなるより寧そ籍を海軍に連ねんと決心し張扇持ちし手にオールを握つて美音も遂に壮烈なる軍歌を唄う身になつた。氏の戦死を聞くより三友派の落語家一同は来る二十一日南地千日前竹林寺において氏のために追悼の御施餓鬼會を催すとのことだ

明治37618 神戸又新日報

◇戦時の寄席 市内の寄席は落語講談とも陳腐極まるもののみである。中には一人二人新派の空気を呼吸する者があるにせよ陳腐連古株の勢力に圧倒されて了うは遺憾である。然るに東京では戦時を利用して大分不景気を回復して来た此際當市でもチト其道の者が奮発したらば宜かろう。今東京各寄席の景況を記して其参考としよう。・・・・▲落語の方で突飛なるは本名阿武隅三之助という医者にて芸名を柳玉と称し此程より関西の方へ買われて行き市内の或席へも出たが田舎では「濁士(ニコラス)皇帝」を高座に演じて到る処大喝采であったが毎度津田三蔵が出ねば客が満足せぬゆえ三蔵に狼退治をさせたり扨は狐退治、狸退治、猫退治とそんな事にて長く引張ったがマサカ東京では是れが出来ないので昨今工夫中・・(後省略)

明治37619 北国新聞

新富座 大岡政談丹羽屋、四谷怪談(三遊亭圓橋)

明治37622 神戸又新日報

◇湊亭 昨夜より三遊亭圓遊立花家橘之助朝寝坊むらく立花家橘童三遊亭小遊太が加わり大一座となりたり因み前記橘童というは以前福一とて同席にありしものなりと。

明治37623日 京都日出新聞

慈善演芸会 京都救済院にては救済資金を得んため来る廿五、廿六日の両日午後七時より先斗町の歌舞練場に於て慈善演芸会を催す由其番組左の如し

第一日 開会の辞、幻灯、落語(枝之助)講談(浜田東洋)剱舞(桜木四郎)落語(扇枝)浄瑠璃(千代登、咲治)講談(氏原一)喜劇(大寅座連中)落語(芝楽)剱舞(東冠三郎)講談(琴書)浄瑠璃(第二福真亭連中)舞(燕太郎)落語(枝太郎)長唄(富士田千之助、杵屋君三郎)胡蝶の舞(東玉、芳春)

第二日 開会の辞、幻灯、講談(琴海)落語(文)剣舞(□□)浄瑠璃(第二福真亭連中)落語(芝楽)講談(琴書)喜劇(大寅座連中)剣舞(文南京)講談(一)音曲噺(年誌)浄瑠璃忠臣蔵(千代登、咲治)落語高砂屋(文吾)長唄…[原紙破損]…

明治37623 神戸又新日報

◇湊亭のホメ評 来月からは前の「下駄箱」を廃してテ-ブルとし、洋服落語・筒袖踊りという新案の相談中とは天晴れの勇気なる湊亭は一昨夜から東京の三遊亭圓遊・橘家橘之助・朝寝坊むらくを差し加えた。松喬の戦争の唄、文都の茶々話、福圓の「下に居ろ節」福我の新落語は皆面白いけれどお馴染みだけに評なし。むらくの「塩原多助」は圓朝の俤あり。橘之助の「三都節」は舞子姿時代の色衰えず今に書生連を唸らすは恐ろ感寸。福一改め橘童の曲弾きは出し物「鞍馬山」より橘之助が天狗ならん。圓遊の「地獄巡り」は唯無性に嬉しく聞いたが、相変わらずクスグリが新しいことのみで、笑わざるを得ずであった。例の鼻は、例によってデッカク愛嬌たっぷりで、切りに「ステテコ」元祖の妙技を見せたは、これまた嬉しかった。今度に限り皮肉評はヌキで只ホメ評だけにしておこう。(三人隊)

明治37626日 京都日出新聞

幾代亭 来月一日より目下神戸朝日座にて開演中の三遊亭円遊、立花家橘之助、同橘童、橘家円三郎、朝寝坊夢楽、春風亭鶴枝、橘家三好、同遊好、同小遊三、同好遊一座が出勤する由にて其の間同席の定連中は広島へ出稼ぎするとか

笑福亭 例年七八月の内に円遊が席へ出勤する約束なりしに本年は三友派との悶着より延いて桂派の幾代亭へ出勤する事となりしより同席にてはそれでは困ると言出し交渉の結果円遊だけは同席を掛持ちする事となれり

明治37628 京都日出新聞

笑福亭 席主高橋某は先に三ケ年の契約にて同席を現今の席主真野友吉に貸与する契約を為せしに拘らず過日来真野へ無断にて貸家の広告を為し又昨日突然同席の明渡しを真野へ言渡したるより興行の習慣を無視した遣方だとかいつて悶着中なりと

上方落語史料集成 明治37年(1904)四

明治3771日 新愛知

富本席 同席は今夕より桂家残月、桂家團朝、桂家文朝、同團三郎、同團冶、同小團冶にて開演する筈にて、桂家残月は日露戦争九連城より南山、得利寺、熊極城に至る実況を演ずる由

明治3771日 京都日出新聞

興行世界 ▲幾代亭 は本日より円遊、橘之助の東京落語連中が出勤するが其の出番時間は 午後七時十分(毎夜替り桂派定連)八時十五分(小遊太)八時四十分(遊好)九時五分(むらく)九時卅五分(橘童、橘之助)十時五分(三好)十時廿五分(円三郎)十時五十分(円遊)切(総一座東京茶番)▲千本座 幾代亭の東京落語連中の掛持ちは其出演の時間は 午後七時三十分(毎夜替り桂派定連)八時(遊)八時三十分(小遊太)九時(円遊)九時廿五分(円三郎)九時五十分(遊好)十時二十分(むらく)切(橘之助)▲第一福真亭 本日より湊家扇朝、京山大隈、笑福亭福助、吉田奈良女一座の浮れ節▲第二福真亭 は従来女義太夫を掛け居りしが本月よりは松林新伯知、松林日三一座の戦時講談

明治3771 神戸又新日報

◇湊亭 湊亭にては、圓遊橘之助むらく橘童小遊太等は昨日限り抜けて新たに福松・渡辺無外と清国人奇術師の李桂芬(りけいふん)・及宝山(きょうほうざん)の二人が入り、しかしてこれまでの張扇拍子木等を廃して、いずれもテ-ブルに対して文明開化流にご機嫌を伺う事となれり。尚通券を入口にて売る事とし万事改良を加えたりとい

明治3771 大阪朝日神戸付録

落語の定席湊亭は第一第二湊亭とも一日より入場料を切符制度となし演台は卓を据えて議長あり弁護士あり代議士あり何れも洋服厳しく発言者が其中に起(た)って一場の落語を演べ終ると代議士は珍客より其欠点の指摘を請い弁護士は発言者の弁護に努む。結局議長の採決によりて発言者に欠点ありし時は其罰として指摘者に発言者より景品を呈するなり。因みに今回乗込みたる清国人李桂芬(りけいふん)は独楽が巧みにて及寶山は手品軽業に妙を得居れり。

明治3772日 大阪新報

玉突紅梅館 三友派落語定席南地法善寺内紅梅亭は今回南区阪町千日前東へ入る所に玉突遊戯場紅梅館というを新築なし本日午前九時より開館披露のため玉突競技大會を開催するよし

明治3772日 京都日出新聞

笑福亭の三友派落語定連中と円遊の落語の昨夜よりの出番は 午後七時(新左)七時四十分(福太郎)八時(芝楽)八時三十分(福井)八時五十五分(鶴松)九時十五分(春団治)九時四十分(文之助)十時十分(円太郎)十時三十分(円遊)切(長唄連中)

明治3773 神戸又新日報 

はなしかの武装落語 市内裁判所前第一湊亭は本月一日より落語研究会というを始めたるが、笑福亭福松の発起して所謂下駄箱と称する見台を叩き立てる事を廃し時節柄武装をして各洋服姿にてテ-ブルに向かい鹿爪らしく演じる事とせり。福松は下の如き語れり。

私ども仲間が進歩したら洋服でテ-ブルの立ち読みということは前々からの素志でございましたが、今度研究会をするについてこれをよい機会として思い切って洋服にしました。これは自慢する様ですが、東京二も大阪にも未だ類のないのです。神戸はハイカラのお土地柄ですからキット人気に適らうと存じて、席主菊野も大奮発で木戸銭も切符制度にしました。所がおかしいのは、一座十六七人いる中で福我・長二郎・無外以外は洋服を着たことのない者ばかりで、團輔などは洋服は襟首が窮屈で冷っこいから冬は風邪をひくだろうと申しまし、福圓は裁判所の小使みたいだと言われまして昨晩は「乱暴医者」の噺の内鳥の真似をするのに袖が無いものですから両手を広げてパクパクやりましたが、誠に不格好な風でした。という私が何にも彼にも生まれて洋服というものを着たのはこの度始めてで、女の身振りには困りました。これは何とか工夫中でございます。今度の売り物ですが、支那人二人の奇術でございます。太夫は、北京順天府正陽門外大街西雲居寺西首路北承徳堂の李桂芳(四十)で、若太夫は天津西関大街中間路南余慶堂の及宝山(十九) と申して叔父甥の中だそうです。名古屋で興行していたのを大阪の賑江亭が連れて来ましたので今まで私が一座した支那人の中では今度のが一番上手だと思います。

明治3773日 新愛知

富本席 目下興行中の落語家桂家残月一座は軍人の労を慰むる為今三日午後一時より五時迄軍人に限り無料にて観覧せしむる由。尚興行中の土曜日曜は軍人に限り総て無料なりと云う。

<編者註>七月十四日迄興行

明治3773日 京都日出新聞

笑福亭の仕打真野友吉に対し席主高橋が去る二十五日に突然明渡を求めたる事を先斗町の後藤清次郎が聞き興行不振の際仮令一回位約束に違反したりとて明治の言渡は不人情なりとて席主を説く処ありて引続き真野が借る事となりたり

明治3775日 大阪朝日新聞

<三遊亭円子

◇落語家訴へらる (前略)三友派の落語家にて音曲を得意とする芸名円子事須永藤三郎は、昨年十月頃、紀州和歌山で興行中、同市元寺町南の町の正木貞二郎といふ人に贔屓を受け、数次同家へ出入して持前の法螺を吹き、お髯の塵を払ふうち、同人の女房雪江(十九年)といふが円子の口前に載せられて法螺の返礼に恋風を吹かし、(後略:堺の巡業先まで追いかけて行き、調子に乗って雪江を宿屋へ留めて悦に入っていると、やがて追手がかかり、貞二郎より姦通及び誘拐罪で告訴されたという話。「馬面のヒンなり男の艶聞なれば早くも悪事千里を走りて新聞に出るも道理ぞかし」とある)

明治3775日 大阪新報

<三遊亭円子

三遊亭圓子の艶罪 三友派の人気者東京落語家三遊亭圓子事須永藤三郎(四十)が誘拐罪によつて告訴せられたるよしは既に本紙へ記載せしが今その次第を聞く所によれば数年来和歌山へ出稼ぎ中同市元寺町東の丁正木清次郎方の贔屓を受け滞在中は日夜出入して得意の弁舌を技芸で御機嫌を伺い居る内主人清次郎が昨年十月頃より病の床につきしを機会とし妻ゆき江(二十一)の容色勝れたるに目をつけ色と欲との二道かけ南の町野中とらを媒介者として不義の艶書を送り遂に人知ず割なき契(ちぎり)を結ぶにいたり関口という匿名を以て帰阪後も絶えず音信を通じ居りしが尚飽足らでか本年六月十七日ゆき江を誘い出して堺の某宿屋に潜伏なし居たる内早くも正木家よりの保護願により堺署の手に取押えられ女は実夫へ引渡されしが流石に家柄の素封家だけ姦通の告訴も起しかね他人の妻女誘拐として起訴したる次第にて目下尚厳重に取調べ中なるが圓子は當時なお腐り絡みし堀江油屋席お千代拍の屋形に入浸り流石にもそれとは明さず身のふる果(はて)を案じ居るよしお千代果してそれと知りなばまた一悶着おこるならんと楽屋通の素刃抜をそのまま

明治3778日 大阪新報

<三遊亭円子

三遊亭圓子の取調べ 誘拐の嫌疑により當裁判所森下検事の手において取調べ中なる三遊亭圓子は検事局にて尋問を受くる度毎に一流の手真似可笑しく扇をパチツかせとも雪ちゃんとの馴れ初めはなぞと黄ろい声を振立ててノベツ幕なしに饒舌り続ける滑稽講釈に検事を初め書記も共に思わず吹出すという始末で結局雪江よりの艶書を示され抜差しならず恐れ入しかば一時帰宅を許した上更に告訴人の妻雪江を取調ぶるはずなりと

明治3779 神戸又新日報

◇湊亭 落語研究會は若手落語家の勉強の為設けたものにてお愛嬌として福松も之を演じ居れるも贔屓連は福松の落語が余りに短しと苦情あるよりタップリ聞かせるとにせりと

明治37710日 大阪毎日新聞

<寄席の大恐慌①>

◇諸芸人の大恐慌 この頃の諸芸人の鼻の下は、大道の打水よりも早く干上がる模様にて、いづれの劇場に到るも寄席に到るも、出るは吐息と愚痴ばかり。もしこのまま進みゆかば、旅順の陥落よりも先にまづ己が没落する覚悟あわれなりという。戦争にともなう不景気に加えて、九十三、四度の間を上下するこの頃の暑さにては蒸すが如き劇場寄席の中に、団扇使いの手めぐるしきを自ら求むる客の数の次第に少なくなるは、自然の道理にして、これは独り今年の夏に限りたる訳にはあらねど、例年に比して当期の不景気は予想の外なりとど。現に目下開場なしをる道頓堀の角、朝日、弁天の三座の如き、入場者は平均三百の上を出ず、一昨夕の朝日初日などは、百五六十の入りなりしとは、その不景気察すべく。落語の方にても、淡路町の幾代、三友派の平野町の此花館両席とも毎夜百名の入場者を見ることは日曜にてもおぼつかなく、平均六十五六のところにて僅かにお茶を濁しをれし、従って親玉株たる芸人連は当地の籠城おぼつかなく、俳優にては右團治、福助の伊勢路落ちを始め、大隅、伊達、長子などの太夫連の名古屋落ち、落語家福松その他の神戸落ち、文三枝雀一座の伊丹池田西宮方面の田舎落ちなど、全て当地を後ろに尻に帆かくる落ち武者引も去らず。落ち武者とならずに踏み止まるは、旅稼ぎの買手さへなきものなるこそ哀れなれ。平素余り時候と客数に影響を及ぼさぬ講釈席の如きすら、皆目入場者のなきところから、居つきの連中は次第に逃げだし始むるより、席亭にては是非なく入代りに、やはり当地へ逃げ来れる東京の松林若圓などを出席さすれど、これすら天満大工町の寶来亭の如き大席にて、昼夜通し百人を呼ぶ事難しという。これらの原因より少しく小金を持てる寄席などは、暑中一二ヶ月間臨時休業して涼風の立つ秋を向えて新たに蓋を開かんと計画する向きも二三ばかりその他の寄席にては急にかけものを一変して一時の人気を引かん目論見むなしく、既に老松町に人気全市を圧する秋月新劇とかの老松座も、茶好一座の俄とかけ代え、天満亀の池の落語席林家席如きは、ものもあろうに錦影絵と一変したり。淡路の幾代は来月より東京下り、その影武者の圓遊、橘之助一座の興行と代えて、桂派落語は暫く三々五々と旅に落行すむる筈なりたりと聞く。尚地方方面の景況も聞くにしたがって報道すべし。

明治37712日 京都日出新聞

<寄席の大恐慌②>

不景気と諸芸人 此頃新京極其他の俳優、落語家、俄師、講釈師、義太夫其他何れの芸人も非常の大恐慌にて何れの劇場も寄席も出るのは金のみならず吐息と愚痴にて固め居れり若し今日の侭にて暫時恢復せざらんには旅順の陥落よりも席の陥落が早いだらうと言ふ者ある位にて、実に哀れ果敢なき有様なり殊に昨今の如き蒸すが如き暑熱は劇場寄席に取つては疫病神に等しく例年の事とはいへ本年は戦争といふ原因さへ添たるなれば殆など堪つたものに非ず△現に開場中の明治座、朝日座、歌舞伎座の如きも入場者は平均四百内外にて日々の定払さへ出来かぬる有様なり△落語にて幾代亭は定連中が何れの地方も不景気にて旅稼ぎも駄目と見込み休席為しおる跡へ東京の落武者円遊、橘之助の一座が掛り一年振で円遊の鼻と橘之助の糸とで不景気の割合には好人気をしめ居るも是とて例年に例なき半額券を配布するとかあらゆる運動を為し居る結果とは心細き限りなり△笑福亭は定連中と円遊が掛け持ちを為し居るが幾代ほど客は呼ばず其の上円遊が木戸一人半額を取つて行くより残る金を十数名のものに分配する訳、お話にならず△講談は二銭五厘か三銭位の木戸料なるより日露戦争開戦当時は他の色物と異り毎夜〳〵大入にて少しく遅く行けば入場するを得ざる有様なれど昨今は奈何せしものか頓と入場者なき事となりたり△其の他浮れ節で厶れ、新内で厶れ、浄瑠璃で厶れ、悉皆不景気の影響を受け死んだやうにて其結果仕打席主の手許も手詰り例年前貸しをする盆金も本年はさういふ訳に行き兼ぬるより各芸人は五二会より夏衣裳を受出す迄もなく其の日々の生活に困難し居れり 

明治37713日 大阪新報

<三遊亭円子

圓子の図々しさ加減 偖かわり合いまして余りかわりばえもなき三遊亭圓子事須永藤三郎が姦通の結果他人の妻女を誘拐せし為告訴をうけるにいたりしことは過日の紙上に掲載せし処なるが今回告訴人が家名を思いて告訴を取下げたるを得たりとして図々しくも左の如き正誤文を送り来りぬ 
 明治三十七年七月五日発行貴社新聞第五千四百四号第三頁欄内に於て三遊亭圓子の艶罪と題し自分に於て和歌山市元寺町東の町正木の妻ゆき江と人知れず割なき契を結ぶに至り尚本年六月十七日ゆき江を誘い出して堺の某宿屋に潜伏中正木家よりの保護願により堺署の手に取押えられ云々正木より妻女誘拐として告訴を受けたる旨御掲載相成候へ其自分に於てはゆき江と情を通じたること無之のみならずゆき江には決して正木の妻には無之こと判明し正木は係検事の諭を受け本日を以て其告訴の取下を為す事と相成以上の始末にして前記貴社新聞の記事は大に事実相違の廉有之間此全文御掲載の上正誤被下度候也                       
 明治三十七年七月九日
 三遊亭圓子事 須永藤三郎 大阪新報社御中
 
我社は新聞紙条例の規定によつてその全文を掲載すれども而もこれを以て事実を抹消せしものと信じるは愚の極というべく同人が有夫姦を敢てして遂に法廷を煩わすに至り罪科まさに定まらんとする前において特に検事より告訴人を撫め圓子より謝実なるに条例を唯一の楯として強て他を枉(ま)げてまでも己れの曲非を隠蔽(いんぺい)せんとするとは図々しさの極にしてその心事の陋劣(ろうれつ)なる誠とに憐れむべきことというべし

明治37714日 大阪新報

北新地落語席永楽館では来る十五日から従来の三友派連で大道具入の落語に人形を遣い切に落語家の常盤津、三味線人形遣いという風替りで御機嫌を伺うそうだ

明治37715日 大阪新報

三友派落語研究會 本日より連夜北堀江賑江亭に於て三友派に属せる落語家全部を集め落語研究會を開催する由

明治37715 北国新聞

◇寶座は本日より、林家正楽一座の人情噺にて開演すべく、木戸銭等は例の大勉強の由。

◇春日座は例の三遊亭圓橋の怪談引抜早替りにて本日より開演の筈。

<編者註>この正楽は、上方の六代目正楽ではないようだ。その他の演目は、「相撲侠客美人の生埋」「旗本五人男」

明治37718日 大阪朝日新聞

◇三友派の内、西区北堀江の賑江亭は十六日より諸芸研究会を興行。同派の北の新地永楽館は同日より落語家の浄瑠璃に人形を入れ三味も落語家。

◇桂派の各席は戦捷祝賀として木戸の大割引を為したるが、猶同派の円馬、文屋の両人は□三日前負傷兵を慰める為、予備病院へ出演せしが、自今折々之を催す事になりしと。円馬曰く、高座を降りてからユツクリ各兵士について戦地のお話しを聞きますと、中々私共の話しよりは面白く且高座の材料のなる事も多いですと。

明治37718日 京都日出新聞

<噺家芝居>

落語家芝居(千本座) 一時流行した落語家芝居や素人芝居は数年来頓と演らさりしが昨今の不景気に何か趣向を凝らせ夫を呼物とせんとて幾代亭の落語家連中が去る十五日から千本座へ出勤して其大切に太閤記十段目を演ずるとの事に一昨夜一寸覗きたり扨初菊(枝太郎)重次郎(燕太郎)は両人とも舞の素養あるだけにか終始抜目なく実に申分なく但燕太郎は台詞廻が悪い丈に一割の損なり母皐月(枝雁)は思ふたよりは旨く全く其性格を具へて遺憾なし操(福篤)は不格好にして藁人形に似たるに顧ず振を見せようとし合はぬ浄瑠璃を強て合さんとする杯愈々以て見苦し一座の車輪が之が為に毀はされたり久吉(年誌)可もなし不可もなく先づ落語家の芝居なり光秀(文吾)の現われ出たるより重次郎の物語を聞く段迄は申分なく大きく遣つてのけ天晴〳〵唯だ平素多病の為めか声に力なきが遺憾なり加藤正清(文南京)花道の出より六法の工合は清国人としては感服せり台詞は奇妙なるも一生懸命の働き寸毫の隙なく非常の出来(ふく)

明治37720日 馬関毎日新聞

◇興行だより △裏町弁天座は、昨晩より日露戦争活動写真を開催せり。△岬の町掛固屋は、昨日より渡辺一座の曲馬大芝居を開演せるが、久し振りの興行なれば、定めし大入なるべし。△豊前田町稲荷座は、本日より歌舞伎芝居松嶋屋松暁一座にて。△同町旭座は、先日より改良浮連節小天狗一丸一座にて、毎夜大入なり。

明治37723 大阪朝日神戸付録

姫路芸苑 三遊亭圓遊、橘之助、むらくの一座は二十一日同地船場旭館に乗込み町廻りをなしたる上同夜より開場したるが頗る上人気なり

<編者註>圓遊の京都幾代亭、笑福亭は二十日迄。

明治37723 京都日出新聞

幾代亭は本夜より定連中に三代目文枝と英国人ヒエステーン、ブランシ嬢が加はる当興行は七日限なるがブランシ嬢は日本の歌舞音曲を演る筈出番の時間は 午後七時三十分(福篤)七時五十分(扇枝)八時二十分(燕太郎)八時四十五分(文吾)九時十五分(年誌)九時四十分(枝太郎)十時十分(ブランシ嬢)十時二十五分(文枝)十一時十分(文南京)

明治37726日 大阪朝日新聞

◇今明の両日間、天神境内宝来亭にて松林若円が東京帰りのお名残として諸芸大会を開き、補助として西尾魯山以下数名の講談師若柳燕嬢、桂、三友両派の落語家出演する由。

明治37726日 大阪新報

三友派の分離 由来わが浪花の落語界といえば三友、桂の両派が各々斯道の名人上手を網羅し互いに相敵視して鎬を削ること茲所に幾年か世に不景気の風は荒めど笑う門には福の吉兆で一年三百六十余日張扇の音に和して溢るるばかりの笑声が聞こえていたが、時なるかな時節は戦争という多事の世となり一般に興行物の打撃は意想の外の不印を見るにいたり殊に両派の各席は殆んど昨日の盛りに較べて客の数がお茶子の数よりも少ない位搗て加えて増し行く暑さに例年の休み月も近くなり所詮これではと桂派は既に三騎五騎と田舎落ちと極まり残りは僅かに三友派の一連それも近頃景気ではと仕打の懐中に直接の影響を及ぼし引いては給金の値下げ交渉まで持上げるにいたつたが既にその以前から種々なる原因によつて悶着中であつた文團冶一派は遂に談判の破裂からこの際断然袖を連ねて分離することとなつた一門は梅冶、米冶、小冶、團蝶、文蝶、花咲、雁篤以下の顔触で立派に新なる団体を作るの意気組だそうだが同派各席でもこれを機として来月は休み月なるにも拘らず殊に東京連ばかりを出勤させて打続けることに内定したそうだ勿論この内情については随分面白い縺れもあるらしいから再探の上で逐一素刃抜くことにしよう

明治37727日 大阪朝日新聞

<二代目桂文団治、三友派を離脱>

◇文団治三友派を去る 高座の上では狐を馬に乗せた様な取り止めもない事を饒舌れども、クルリと廻つて楽屋の中を窺へば至極真面目に気むつかしい顔をする向もあり、表面(うわべ)ほど呑気でないのは落語家なり。殊に三友派の棟梁株文団治と来ては不消化な漢語で無学な客を威かす程あつて、動もすれば小理屈をひねり廻し、苟くも自分の腑に落ちない事はドコまで詮議をせねば止まぬ気象なるが、近来同人は三友派各席主に対して給金増しの事を持出し、之を採用せねば我が門弟を率ゐて退派すべしと主張せしを、或る者の仲裁にて捻じ伏せ中なりし所、去月十五日英国婦人ブランシ嬢を三友派各席へ出勤させるにつき、其の下座は東京流の三味線でなければ勤まらぬとのことにて、席主は馬生の女房を其候補者に充てんことを相談せしに、文団治は之れを聞いて、出演者の出入れは一々我々棟梁株へ相談すべき筈なるに、無断にて処置するは不都合なりと苦情の種子を蒔き散らして、門弟にも檄を伝へ、同十五日の大紋日に出演を断り、席主へ大打撃を加へんとしたれば、席主は驚いて、実は事の決定を待つて相談すべき心得なりしと弁解し、其日は辛くも無事にすませ、更に四五日前に至り総会を催して協議せしに、双方持説を取つて相降らず、遂に談判破裂して、文団治は席を蹴立て立ち去りぬ。依て三友派の各席は福松以下の一座へ東京の円遊、むらく、橘之助等を迎へ入れて第一、第二此花、紅梅の各席に拠らしめ、永楽館は小児の諸芸会、賑江亭は錦影絵を持込んで八月興行の材料に充てる事に決し、文団治は門人米団治、梅団治、真生、金之助以下を率ゐて和歌山地方へ乗出し、来月十五日頃には帰阪して千日前の改良座と内本町の平林座とへ出演すべき心組なりとか。

明治37727日 大阪新報

<三友派分裂の真相>

落語三友派分離の真相 取敢(とりあえ)ず一昨日紙上に掲載した三友派中の桂文團冶一門が袖を連ねて断然分離するという紛紜の真相として聞得し所によればこの悶着は昨日や今日の問題ではなく従来一道の暗流はやがて今回の破綻を生すべく萌しつつあつたのでこれが逐一を説明するには勢い同派創立の時代から書き起さねばならぬ。顧れば今から十一年の昔し吾大阪では桂派の全盛が殆どその絶頂に達して居た頃所謂烏合の衆を以てこれに當るべく組織せられたのが即ち三友の一派で、名目の起因は仕打側で堀江の賑江亭主人藤原重輔と南地法善寺内の今嘉席(現今の紅梅亭)主人および内平野町のあつた神明席主人の三人、真打が笑福亭松鶴、笑福亭福松、月亭文都の三人であつたため双方に意味が通じるよう「三友」の二字を選んだのである。その當時文團冶は四方に馳せて不遇を喞(かこ)つ同業者を狩集め兎に角新たなる一座を組織した功労あるため夙(つと)に同派の元老株として理事に任じ専ら各席の出番を取極めるという重要な地位に置れる事となつたがこの烏合派は時効に投じて年一年と隆盛(りゅうせい)に赴き、漸々(だんだん)勢力の出来るに連れ理事の羽振は実に非常なもので多くの演芸者は自分の出番を都合よく繰合して貰わんため知らずへ文團冶に阿諛追従(あゆついしょう)して師匠へと崇めるにつれ自身にたいしても同派の栄枯盛衰は吾掌中(しょうちゅう)にありと自然権威を恣(ほしいまま)にすることとなつた。所が同派は鰻上りの繁盛で連中も殖(ふえ)る寄席も殖る一派の光りが文團冶をしていよへ増長の鼻を高めしむるに到り一挙手一投足も渠(かれ)の意に満ざる限りは不平の限りを鳴らして休まず夙(つと)に一門の「平相國(へいそうこく)」とまで綽名せらるるに及んだ一面から見れば技芸といい人気といい到底福松等と轡(くつわ)を並べて併馳(へいち)することが出来ないだけ仕打側でも只徒(いたず)らに渠の増長を許そうはずなく給金の不折合、戦時の不景気で、それやこれや皆今日の原因を重ぬる動機となつた。近く一例を揚ぐるは先月の十五日から眼色毛色の異(かわ)つたフランシ嬢という外國人の音曲噺を加えることになつたが何分唄が東京仕込だけに當地の囃子方では絃に合うまいとの考えから差當り囃子見習いの金原亭馬生の女房に下浚えをさせた結果兎に角初日だけは各席へ同道して囃子方へ絃の呼吸を飲込ませる事に内定したが念のため一応理事の文團冶へ届けた所が渠は純然たる囃子方にも拘らず見習風情が余りに僭越(せんえつ)すぎると青筋を立て憤り今晩から各席の囃子方一同へ休席を命ずるとまで激昂(げっこう)した所が仕打側においては、斯(かく)までの怒(いかり)を買うべき問題ではない強(し)いて心にも止めなかつたが理事という役目の表一応の事情は弁解するが宜かろうと藤原が福松と同道して文團冶に面会を遂(とげ)たがその以来役員會の席上でも渠は自慢勝手の意見を吐散して中座するなぞ傲慢の動作は最早や一同の眼に余り左までの不平ある上は敢て留むる必要もなしとなすがままに放任しサテこそ自然分離の結果を見るに到つたのだ最も文團冶一門中にも師匠の動作を否認して再び同派へ返り忠する者もあるらしいが渠はこの際好個の舞台を定めん千日前の井筒、内本町の平林座その他に運動中だそうだが果して成功するや否や尚この紛紜(うんうん)については種々複雑な内情が纏綿(てんめん)して居るとのこと順次聞込むに従いて更に筆を把(と)ることとしよう

演芸だより▲来阪中の講談師松林若圓はお名残として今明両日間天満天神裏門の寶来亭で講談落語の読切會を催し魯山一派、三友派、桂派社中の東京連が出席するそうだ

明治37729 大阪新報

演芸だより▲落語三友派を分離した文冶一派は来月から千日前改良座によつて旗揚げをするそうだが一門悉く三友派の出勤を謝つたにも拘らず冶一人だけは何故か踏止つて相変らず御機嫌を伺いつつある▲人気者の小冶も師匠の系閥に引かれて一時分離する事になつたがこの際一先づ落語を廃業して文團冶との関係を断ち遠らず三友派へ裏切りをする決心だそうな▲この悶着を余所にして神戸菊廼亭へ出勤中の福松一座は改良落語という触込みで見台を卓(テーブル)に代え洋服で高座に顕われなるべく高尚な咄しばかりを演り余興にはフロツクコートに鉢巻してカツポレを踊るという風替りで喝采を博しつつあるそうだ

明治37730日 大阪新報

来月一日より連夜三友派の平野町此花館、上町第三此花館、南地紅梅亭の出番は左の通り改まつた

圓遊、橘之助、むらく、花楽、清国人李月山、及寶山、圓子、一圓遊、遊輔、福松、松光等

最も今回より出演の時間をながくして充分興味ある談話を聞かすそうだ

明治37731日 大阪朝日新聞

◇北区曾根崎新地永楽館にては此度熊本県より小田登美子(十三年)、其妹仙子(十一年)、弟昇(七年)の三人来りて、日露戦況の講話会を開き、余興には吹奏、音楽、文字の揮毫第手風琴等を演ずるよし。

◇桂派幾代席にては明日より改良浪花節岡本鶴治一座。

◇三友派の第一、第三此花及び紅梅亭にては円遊、橘之助、むらく其他、賑江亭は日露戦争富士川正都正一座の幻灯会、第二此花館は竹本小巴一座の女浄瑠璃等なり。

明治37731 神戸又新日報

◇湊亭 明一日よりは神戸では聞けぬ大阪桂派の達者と言われる桂南光と桂文屋小南枝鶴福助手遊の外、先頃朝日座にて好評なりし橘家三好という愛嬌者が加わり珍しき一座なり。しかして従来の顔ぶれ福松・福我・福圓・松喬・團輔・小福松・その他前座迄一座残らず岡山市の千歳座へ乗り込むという。

明治37731 大阪朝日神戸付録

◇圓遊一座 目下姫路市に於いて大人気を占めゐる三遊亭圓遊一座は當地姫路予備病院に収容中なる傷病者に対し得意の滑稽話を聴かし慰籍せんものと右の旨出願せし処遺憾ながら多人数を容るべき室の不足せる為許可にならざりしも院長は同一座の厚意を各傷病兵に伝えしと云う

上方落語史料集成 明治37年(1904)五


明治3781 大阪朝日神戸付録

◇神戸興行物 ▲神戸楠社西門筋菊廼家は廣澤菊丸、都家小三司、吉川辰圓、京山孝一、京山虎一、廣澤虎吉一座の浮れ節▲楠社西門筋菊廼亭は團菊、團十、團花、栄三、時廣、藪千賀、栄昇一座の女義太夫▲楠社塀側旭亭は朝日堂左南陵、南右の講釈▲神戸地方裁判所前第一湊亭は桂派南光、文屋、東京三好等の昔噺▲三宮雑居亭は岡本梅丸、吉川辰圓、廣澤菊丸一座の浮れ節▲同町富士館は竹本小團一座の女義太夫▲同神社内第二湊亭は桂派南光、文屋、東京三好等の昔噺▲生田前末広亭は光蝶斎一幸の貝祭文▲兵庫中道亭は小南陵、南瓢、小魯山の軍談講釈▲弁天社内亀甲亭は尾上團十郎一座の浮れ節

明治3781日 京都日出新聞

幾代亭の本日よりの出勤者は春風亭若葉、三遊亭□七、橘家金之助、三遊亭円馬、一酔亭花金、松林若円なり

明治3783日 大阪新報

三友派分離の文團冶一座は一日から千日前の改良座と内本町第二文芸館で開場して居るが都合によれば来月から娯楽派へ合同して内本町、松島の両文芸館へ出席するかも知れぬ

明治3785日 京都日出新聞

笑福亭は仕打真野より庵主高橋へ返し高橋は表北側掻餅屋をも買収し表を取拡る由普請出来の上は高橋の手にて曾我家の改良喜劇を催すとの事

明治3787日 大阪新報

三友派落語の曾呂利新左衛門、圓若らは一座を組織して名古屋に向けて乗込む筈なりという

明治3787日 新愛知

富本席 大坂落語曾呂利新左衛門一座に、笑福亭圓若と云う美声の音曲家を加え昨六日より開演

明治37810日 大阪新報

法善寺紅梅亭、平野町此花館、和泉町松屋町の第三此花館に出勤して居る圓遊一座の東京連はこの暑さにもめげず好人気で橘之助の絃と咽喉は相変わらず旨いもの橘童(十歳)というは素福松の弟子で福市といつた子供で近く橘之助の仕込に大人も及ばぬ程の腕前後来実に恐るべき天才だ圓遊の滑稽は往時に比べて幾分か艶はあせたが円熟の技は益々老妙の域に達して来た

明治37810 神戸又新日報

◇柳座 本日午後五時より、従来出演中の俳優が浄瑠璃その他諸芸大寄せを催し、余興には林家正楽の落語、桂三之助の十五本扇舞ありという。

▲摂洲合邦辻(実川実太郎)▲お駒才三鈴ケ森(嵐立三、市川莚女)▲太功記十(中村玉若、三味線片岡我幸、留丸)▲日吉丸三(中村福圓)・・(前省略)・・▲落語(林家正楽)▲東京初下りステテコ十五本扇子(桂三之助)

<編者註>この桂三之助は、後の桂ざこば(本名小倉幸次郎)と思われる。その後も神戸に滞在した後、大阪三友派の定席「藤田席」に出演。その後、大阪の桂派に参加した模様。

明治37810日 馬関毎日新聞

◇興行だより △豊前田町旭座は、一昨夜より早川筆丸一座の浮連節を開演せり。△岬の揖固屋の女角力は、非常なる大人気なりと。△田中町掛固屋の大曲馬芝居は、再昨夜限りにて打上げ。△其他の各座は目下休業中なり。

明治37814 京都日出新聞

幾代亭の文枝、枝太郎、文吾、年誌、枝之助、福篤等一座へ明十五日より大津の梅の家へ出勤…座主金井は円遊、橘之助、むらく、遊輔、ブランシ嬢を連れて明後十六日より名古屋の谷本席へ乗入

明治37815日 大阪朝日新聞

◇本日より開場の各席は賑江亭が竹本団之助一座の女葉恵小供浄瑠璃、永楽館が豊竹呂昇一座、第三此花館、紅梅亭が従前の落語に東京下り三升家三馬が乗り込み、第一此花館は従前の落語に東京の小貞水が加はる筈。

明治37815 神戸又新日報

◇柳座 明十六日より柳座において、桂派落語にて開催。出演は、桂文三・枝雀・雀三郎・小文三等なり。

<編者註>八月二十二日迄興行。

明治37816日 新愛知

富本席 三遊亭圓遊一座は今十六日より開演。連中の重なるは立花家橘之助、朝寝坊むらく、立花家橘堂、一睡堂花堂、三遊亭遊好、三遊亭しん馬、三遊亭小遊太、英国人ブランシ、清国人馬玉川等なりと。

明治37817日 大阪朝日新聞

◇小共演説田村の一座(香川県の奇童田村巌(十年)と熊本の小田三姉弟一座)は一昨夜朝日座を打上げ、今日より法善寺金沢席へ加はり興行の筈。

明治37818日 香川新報

玉藻座 落語の笑福亭福松一座は一昨日限り打上げしが、尚本夜より同座にて日露戦争活動写真を始む。

明治37820日 大阪朝日新聞

◇堀江賑江亭は本日夜より豊竹呂昇一座の女浄瑠璃開場。

◇桂派の各席にて暑中休暇をなせし各席も愈来る九月一日より開場する由。其出席者の中には東京初下り元東京土佐太夫の稽古に掛り、目下在阪して大隅太夫の稽古に係る女義太夫が現はれるといふ。

明治37821 神戸又新日報

◇神戸の盆興行 盆の興行の重なるものを併べると△三宮歌舞伎座 車輪芝居改正義團の新演劇で目下本紙に連載中の小説「金鶏勲章」を演じて居る△相生座 熱海一座の新演劇芸題は別項の通り△兵庫柳座 桂文三一座の落語△第一第二湊亭 桂派桂南光一座の落語△藤田席 俄と萬歳合併の大一座△明治座 白澤廣の一座を相談中だという

明治37822日 大阪毎日新聞

◇目下中国筋へ出稼ぎしている当地落語家連中の評判聞くに、笠岡の曙館の笑福亭圓篤一座は中人気。尾道湊座の枝三郎、かしくの一座は好人気、岡山千歳座の福松一座はこれもまず相当の人気なる由。

明治37826 北国新聞

◇松林若圓、圓馬、金之助等の一座は、福井照手席にて開演中の由。

明治37827 北国新聞

◇圓遊と橘之助一座は、一昨日名古屋を打上げ直ちに帰京せりといえり。

明治37831日 大阪朝日新聞

◇暑中休業中なりし桂派の各席も九月一日より開場する事となり、文枝、文三、南光、さん馬、円馬、円三郎、万光の外、文左衛門も高野の山籠りより帰阪して各席を半月づゝ廻る事となり、此度東京より加はりし女太夫土佐鶴が大隅太夫の門人となりて竹本隅と名乗り、法善寺金沢と新町瓢亭の二席に出勤して、専ら文士の手になりし日露戦争物の新作義太夫を聴かすといふ。又一興なるべし。

◇三友派の第二此花館は九月一日より女義太夫にて開場、同派の第一、第三此花館、永楽館、紅梅亭等各席は、文団治一派分離したる為、福松一門、曽呂利一派に信濃家半玉、宇治の家茶好の軽口、真竜斎小貞水の講釈、春風柳寿斎の曲引を始め、柳亭燕路、三升亭小勝、三遊亭遊朝外数名を東京より招き、九月一日より花々しく開場すといふ。

◇文団治一派は別に三友派を組織し、来月一日より文芸館及び千日前井筒席に出勤する筈なり。

明治3791日 大阪新報

暑中休業中なりし落語桂派は定席淡路町幾代亭、南地法善寺金澤亭、新町瓢亭、天神内林家、安堂寺町養老館は本日より連夜開場する由にて出演者は左の如し

文左衛門、文枝、南光、圓馬、文三、さん馬、三好、圓三郎、枝雀、萬光、枝鶴、千橘、小文三、文屋、三五郎、福助、雀三郎、文平、梅橋、雀之助、雀太郎、竹本隅八、岡本小美家、同美家吉

明治3791 大阪朝日神戸付録

◇神戸興行案内 ▲生田前末広亭は未定▲三宮町雑居亭は岡本鶴次、鶴圓、吉川鳥龍、松福亭福助等の浮れ節▲同町富士館は豊澤奈良梅一座の義太夫▲同社内第二湊亭と第一湊亭は笑福亭福我一座の外に独楽廻しの松井助十郎、三省亭からく、笑福亭勢楽、笑福亭鶴松なり▲楠社塀側旭亭は南海、玉田玉翁の講釈▲楠社西門筋菊廼家は岡本鶴二、浪花家小寅丸、吉田奈良女、岡本鶴圓、笑福亭福助一座の浮れ節▲楠社西門筋菊廼亭は時廣、藪千賀一座の女義太夫▲兵庫弁天社内の亀甲亭は菅の家兄弟一座にて身振狂言▲中道通の中道亭は軍談講釈▲三川口町の近江亭は菊路一座の浮れ節

明治3791 北国新聞

◇新富座 お伽噺(圓三)壮士の血漢(若葉)白石新吉原(金の助)陰の裏表音曲(花圓喬)戦況報告講談(小伯知)奇術百種(ライオン)大開戦春の魁梅原機関兵伝(若圓)

明治3792日 大阪朝日新聞

<大阪三友派の旗揚げ>

◇大阪三友派 今度浪花三友派より分離して一旗幟を樹てたる落語家文団治は、四十余名の同門を糾合し、「大阪三友派」と称して落語の改良発達を図るべき所存の臍を固め一、昨夜南地明月楼に一味徒党を招致して発会式を挙げたり。

明治3792日 京都日出新聞

○興行界 ▲幾代亭の定連中の落語の出番は 午後六時五十分(しん馬)七時二十分(福篤)七時四十五分(花王)八時十五分(枝雁)八時三十分(燕太郎)八時五十五分(扇枝)九時廿五分(芝楽)九時五十分(枝太郎)十時廿五分(年誌)切(文吾)

明治3797日 大阪朝日新聞

◇今度一派を起したる大阪三友派の桂文団治一座及び関係者七十余名は、本日午前七時住吉神社に参詣し、遼陽占領の祝捷式を挙げ、併せて皇軍の武運長久を祈り、終つて一同祝酒を汲むべきを廃して之が費用を在阪の傷病兵に寄付する由。又同派は今後日曜日毎に傷病兵の病院に到り、五六名宛交代にて落語を演じ以て其鬱屈を慰むるよし。

明治3798 北国新聞

◇新富座の若圓一座は、遼陽占領の祝賀として、半額即ち一人金五銭宛となしたれば、毎夜大入という。

明治3799日 大阪朝日新聞

◇小田兄弟及び田村巌の一行は今夜より淡路町の幾代亭と法善寺の金沢席とへ出勤し、一週間興行の上東京地方へ出発するよし。又同派の桂文左衛門は久しく高野山に滞留せしが、来る十五日帰阪桂派各席に出勤するといふ。

明治3799日 大阪新報

先頃朝日座に出演せし幼年演説家田村巌、小田昇、小田仙子は今度東京の某より招聘され来る十月京都を経て東上するにつき當地御名残として今晩より一週間淡路町幾代亭、南地法善寺境内金澤亭の桂派落語一座に加わつて時局に関する演説をなす由

明治37916日 大阪朝日新聞

◇桂派の金沢、瓢亭の二席に出演なして居りし東京初下り女太夫竹本隅八は、昨十五日夜より天神境内の林家席及び淡路町の幾代席の両席へ出勤する事となり、例の日露の新作ものを連夜取替へてやるさうだ。又同派の頭領桂文左衛門は高野山より帰り、病気の為出勤し得ざりしが、是又十七日より法善寺金沢席へ出勤。金沢及び幾代亭に出勤せし小田兄弟、田村巌の小児演説は十六日限打上げ、京都新京極の戎座へ小児浄瑠璃長広と共に出演する事となれり。

明治37916日 大阪毎日新聞付録堺周報

卯の日座の落札 宿院卯の日座の貸借は本月にて契約満期の処入札の結果今の座主吉村佐吉継続する事となれりと

明治37927 京都日出新聞

<笑福亭が大阪三友派の定席となる>

笑福亭はいよ〳〵立花家円太郎が借受来る一日より大阪三友派の落語定席とす

明治37928 神戸又新日報

◇湊虎亭席開き 舊湊川改修工事の為普請中なりし湊橋の講談席湊虎亭は此程落成したれば来る十月一日より神田伯龍・同伯猿・石川一口の一座にて講談の興行をなす由。尚本日午後六時より席開きとして講談(大阪講談師)落語(湊亭一座)娘義太夫(菊廼亭一座)の諸芸大会を催すという。

明治37930 北国新聞

<一九が、新富座の座主となる>

◇竹本一九新冨座主となる お馴染の東京娘義太夫竹本一九は其の後富山にて開演中なりしが、今度当地大手町の某贔屓客の後楯(うしろだて)にて新町の新富座を買受けて座主となり同座に修繕改良を加えたる上一座の顔揃えにて明十月一日より花々しく其披露開演をなすべしとなり。

<編者註>新冨座は、浅野川西側の下新町に、明治二十六年二月に開場した寄席で、定員三百十名という記録がある(金沢の百年 明治編)。竹本一九が座主となっているが、実際の経営は夫の竹本常太夫(本名八代竹次郎)が行っていたらしい。座主が芸人でしかも芸通であった事から、九州博多の「川丈座」と並び一九席は、地方の寄席ではあるが、当時の芸人の一流が集まった。「新富座」から「一九席」と名前を改称されたのは、もう少し後の様で、明治三十九年八月の新聞記事から「一九席」に変っている。後尾張町に移転するが、昭和九年に閉館した。

明治37930日 大阪毎日新聞

◇三友派に明一日より下記の連中が出演する。

新講談邑井貞吉、常磐津東家小満之助、少義太夫竹本長廣、人情噺右圓改め三省亭花楽、日露戦争演説田村巌、東長次郎、笑福亭勢楽、笑福亭福我

上方落語史料集成 明治37年(1904)六

明治37101日 大阪朝日新聞

◇桂派の竹本隅八は本日より安堂寺町の養老館と天満天神の林家席とへ出勤する。同派一統の者は近来落語界の矯正策として他の演芸は成るべくせぬ事に誓約したさうな。大いに可し〳〵

◇三友派の各席へは今夜より邑井貞吉(講談)、東家小満之助(常磐津)、田村巌(軍事演説)、竹本長広(小供義太夫)、三省亭花楽(人情噺)、東長二郎(柴笛、剱舞)等が出演する。

明治37101 神戸新聞

<神戸の三友派抗争はじまる>

湊亭の福松派(対)藤田席の文團治派 これまで湊亭を定席として代わる代わる乗り込んで人気ありし浪花三友派は会長の如き地位を占めていたりし笑福亭福松とその参謀官の如き桂文團治との間に意見の衝突ありて今回分離して二派となる事となれり今その次第を聞くに福松は常に門人等を戒めて席主より借金をするな僅かの金の為に酷く頭を押さえられて身動きもならぬ苦しみをせねばならぬ事ありと云う風にてもしも席主より借金をして居る門人ありと聞けば早く返せ返せとせき立てるという風なると引きかえ文團冶は芸人は席主から借金をする位のものでなくては駄目だ席主が借金をさせるのもツマリその芸人に見込みがあるからの事だと云うにありて福松とは全く正反対の意見なるより大いに衝突し遂に今回二派に分璃する事となり福松は元の通り浪花三友派なる名義にて此花館、賑江亭その他をうち文團冶は大阪三友派と名乗りて松島の文芸館その他二三の席を打つ事となせり而して當地に居たる團輔は湊亭の席主及び福松に非常に引立てられたる身なるにも拘らず文團冶の弟子なれば湊亭を出て別に一派をなし文團冶を大将にして藤田席を定席となし左の連名にて今夜より蓋を開ける事としたり

△桂文我、南枝、三助、團之助、團吉、團輔、林家正六、桂都若、春團冶、林家正楽、正三外に小福松改め小文

かくと早くも聞き込みたる湊亭の席主は文團治は兎も角も團輔が我に反対してか様の仕打に出ずるは近頃怪しからぬ事なると思えど今更に苦情を言うべき事にもあらねばその一座に勝とも劣らざるよき一座を乗り込ませ藤田席に退治して華々しく開場せんとの意気込みにて早速大阪へ交渉して東京にて人気のある落語家三升家さん馬並びに講談師の曲亭馬琴それに曲引き春風亭柳寿斎及び笑福亭圓若を乗り込ませてやはり本日より開場する事としたりと。

明治37101 神戸又新日報

◇湊亭 第一第二湊亭とも本日より笑福亭無外・同鶴松その他一座(但し福我と長次郎だけとも本日よりは大阪行き)の上に笑福亭圓若春風亭柳寿斎曲亭馬琴三升家さん馬が加わり、福圓・松喬も大阪より帰り新参で御機嫌を伺うとの事。因みに先に大阪三友派落語家の分離したるは種々の事情もあれど三友派の統領福松は出方連たるものは座主より金銭を前借すべからずと云い、文團冶は座主より借金するほどでなければ座主より重きを置かれずと主張し文團冶等は別に一派を組織したるが別項の如く藤田席に於いて旗揚げし團輔も笑福亭を破門されて藤田席に馳せ参じたるなりとのハナシなり

藤田席 西門藤田席にては本日午後六時より三友派文團治一座の落語にて十五日毎に新顔を差し替える由なり。顔ぶれは左の如し

小福松改め小文・文我・南枝・三助・團之助・團吉・團輔・林家正六・都若・春團治・林家正楽・林家正三

<編者註>林家正六は、後の二代目立花家花橘(菱川一太郎)。又、三助(後の初代ざこば)、都若(後の四代目小文吾)は最初は桂派に加入せず、神戸の大阪三友派の席に出演していた。

明治37102日 京都日出新聞

幾代亭は昨紙記載の東京連の外に[本]隅久と云る娘義太夫が加入する事となり昨夜よりの出番は午後六時(花生)六時三十分(しん馬)六時五十分(福篤)七時十分(枝雁)七時三十分(燕太郎)七時五十分(助平)八時十分(扇枝)八時三十五分(隅久)九時(年誌)九時廿五分(枝太郎)九時五十分(燕路)十時二十分(芝楽)切(文吾)

笑福亭の大阪三友派の落語一座の昨夜よりの出番は午後六時(真三)六時二十分(団三郎)六時五十分(立花)七時十分(花円喬)七時三十分(福太郎)八時(新朝)八時三十分(小円)八時五十分(円太郎)九時十分(米朝)九時三十分(米団治)九時五十五分(団朝)十時二十分(文朝)十時五十文(文都)

明治37102 神戸又新日報

◇湊亭 第一第二湊亭は昨日より出演する曲亭馬琴は三遊亭圓馬の高弟にて人情噺の妙手なるが神経談尾上多見十郎などは客受け頗る宜しと

明治37103 神戸又新日報

◇湊亭 藤田席という桂派の定席が出来て楯突くことヽなった以上は湊亭も今は唯我独尊主義で澄まして見てゐる訳には行かない所から本月は舊一座の上へ新作、馬琴、さん馬、圓若など滅多に揃わぬ粒を一列に揃えお負けに福圓、松喬等の帰り新参を加えて総隊進めッの大奮発これで首尾よく桂派を撃破し藤田席を陥落せしめ万歳を唱えて凱旋し得るや否やは後日の沙汰なれど、そんな事は何(どう)でも宜し只之が為め一倍の利を得るものは聴衆で一座の励みが付いてゐるだけに至極面白く感じられる。競争というものは実に妙な訳のものだ。否即ち競争心のみとは限らぬ落語家一同時勢に鑑み自ら大に奮闘せる結果でもあろうが兎に角喜ばしき現象といはねばならぬさて初日のネタは無外の鬼薊、福圓の寄合酒、圓松の指影絵、鶴松の按摩炬燵、新作の虱茶屋、馬琴の人情話尾上多見十郎、松喬の悔やみ丁稚、さん馬の泥棒の挨拶、圓若の稽古屋音曲尽しで何れも得意のもの丈り且つ最も熱心に演じたれば満場殊の外大受け此分で中たるみのせぬようヤツタリ銘々評は客す(○○生)

明治37104 神戸又新日報

藤田席と落語 福松派と分離したる桂文團治は文都米團治文之助米朝文我璃喜松藤誠圓光慶枝正三小圓等と東京の馬生金之助圓太郎等で大阪千日前へ打って出た途端に当市楠社西門の藤田席に乗り込んで福松派の湊亭と勝敗を決する事となった。同派が第一に勉強する所は木戸銭八銭で桟敷も二十銭として芸人は半カ月交代で客を飽きさせぬ様に勤める事である。今月上席は正三の老練話文我の芝居話当地初めての三助が手踊り南枝の五目浄瑠璃等売物である下席から清元の金之助や文團治も廻って来るそうだ。席主の勉強した所は今までの俄とは客種が違うからと言って畳は全て新しく取り替え高座は無論作り直し芸人は出来る限り掛け持ちはさせぬそうだが場所がよいだけに勉強したならば勝利を得るだろう。

明治37107 神戸又新日報

◇藤田席 既記の如く文團冶一派は場所の宜しきと一座魂限りの大車輪にて客足中々に宜しきは万歳なり。さて先夜覗きし所にて團之助の「遊山船」軽いものなり。「團輔」の「古手買い」勉強だけ買ってやるべし。都若の「魔風」は老練余興の日露の軍艦の大津絵手踊りは聴客大喜びなり。三助の「預かり相撲」落ちが新しくステテコは大受け。南枝の「景清」グッと腕を上げたり。小福松改め小文の手踊りいつもながら可愛らしい。春團治の「初天神」は確かなもの。文我の芝居噺を聴き落とせしはチェ-残念至極。

明治37109 神戸新聞

圓若の新作 湊亭なる笑福亭圓若が新作なりとて謡い居れる端唄あり調子は本調子にてその文句は左の如し

「露の国、廣きとて、荒野の原や生い茂る、草葉に結ぶ露の玉、輝く朝日の旗影に、脆くも落ちてはらはらと、消えて跡なき哀れさよ」

明治371015日 大阪朝日新聞

<笑福亭福松死亡

◇落語家福松逝く 三友派の真打として浪花落語家の牛耳を執りたる笑福亭福松は、肋膜炎症に罹り、大阪医学校病院に入院加療中、薬餌の効空しく昨日逝けり。近頃文団治の一派分離して旗幟を樹てたる際、三友派の此一将を亡(うしな)ひたるは惜しむべし。左に同人の事を記して手向とせん。

福松は北区梅ケ枝町に生れ、父は銅細工師、母は産婆を業とし、今尚健在なり。三四歳の頃より遊技他に異りて、頻に俳優の真似など為し、両親は一時彼を軽業師の上乗とせし事もあり。その後俳優とする考へにて俳優某の弟子としたるも、是等は同人の器にあらざりしにや、間もなく廃止し、七歳の時落語家梅丸の弟子となり、又一年ばかりにてかの三十石乗合船を話して喝采を得たる二代目松鶴の弟子となりたるが、それこそ同人が今日の名を得るに至りし始めにて、当時笑福亭福松の名を与へられ、天満亀の池の席に出勤して聴衆に頤を解かしめ、落語界の麒麟児と称賛されたり。それより漸次饒舌ることに長じ、二十年前福松の評判は都下に高く、常に御得意の紙屑屋と踊の手ある大文字屋を演じてます〳〵喝采されたり。偖十年前文都、松鶴と共に三人三友派を組織して今日に至り、門弟には松光を始め二十余人を有して一方に覇たるに至りしこそ豪(えら)けれ。一昨年文都を失ひ、今亦福松逝き三友の名、今は僅に松鶴の一友を余すのみ。其松鶴こそ福松の兄弟子松僑が三代目松鶴を襲ひし者にて、福松とは常に意合はず、仲間亦松鶴を容れざりじが、此頃調和する人ありて福松に松鶴の名を襲はしめ、先代の石碑建立の事などまで話纏まりしに、アヽ福松は其事を見ずして逝きぬ、年四十七、前途ますます長い舌を振つて落語界に貢献する所多かるべきに、紅葉より先に散り失せしぞ痛ましき。

明治371015 大阪新報

<笑福亭福松死亡

笑福亭福松逝く 浪花落語三友派の領袖(りょうしょう)として曾呂利、文團冶と共に三友の礎(いしずえ)を固めし以来桂派と対峙(たいじ)して滑稽諧謔(かいぎゃく)の辨、老巧圓熟の枝に人気を集注しつつありし笑福亭福松は去月二十六日より病の床に臥(ふ)して自宅に療養中日は一日病勢の進むに連れ更に府立大阪病院に入りしが薬石効無く昨十四日午前四時暁寒き秋風に連れ四十七歳を一期として桐の一葉と落ちて空しく鬼籍に入りしぞいたましく病名を骨膜炎なりとか渠は安政五年を以て市内北区梅ケ枝町に生れ本名を國島福松という天性の好こそ物の上手にて幼年より落語を以て身を立たんと志し時の名人二代目笑福亭松鶴(後の圓笑)の門に入り本名を其儘福松と名乗り十四歳にして一枚看板に上りしが程なく京都に赴き新京極に笑福亭と称する新席を開き自ら真打となつて同じ軒続きなる幾代亭と高座に鎬(しのぎ)を削りしが恰も當地に三友派創立の挙ありと聞き馳せ帰つて一座に加わり以来、孜々(しし)として芸道の奨励と後進の養成に勉め近来座長として一派の巨壁(きょはく)と称せらるるに到りしよし。曩(さき)には名物男の米喬逝きて日尚浅く今またこの人気物を喪(うしな)いし同派の不遇は実に痛ましさの限りなり

明治371016 神戸又新日報

<笑福亭福松死亡

◇笑福亭福松死す 大阪落語三友派の頭領笑福亭福松は去月の二十六日より肋膜炎にかかり治療中なりしがその薬石効もなく、去る十四日遂に黄泉の客となる文都を失い米喬逝きて間もなきに今又名物男を失う芸界の為惜しむべき限りなり。当地湊亭に出演中の門弟福圓・福我・福清・笑三その他圓若・松喬等はいずれも昨夜終列車にて本日の葬儀に加わる為上阪せし筈。

明治371016 神戸新聞

<笑福亭福松死亡

笑福亭福松死す 浪花三友派の真打として大阪の落語界を牛耳を執(と)りたる笑福亭福松は肋膜炎症に罹り大阪医学校病院に入院加養中、薬餌)(やくじ)の効空しく死亡したる由。福松は大阪北区梅ケ枝町の生れ父は銅細工師母は産婆を業とす。三四歳の頃より遊技他に異なりて頻りに俳優の真似など為し居たるが七歳の時落語家梅丸の弟子となり一年ばかりしてかの三十石乗合船の上手二代目松鶴の弟子となり笑福亭福松の名を貰い天満亀ノ池の席に出勤して聴衆に頤を解かしめ落語界の麒麟児と賞賛されたり。それより漸次喋ることに長じ十年前文都、松鶴と共に三友派を組織して今日に至り門弟に松光以下二十余名あり年四十七

明治371016 大阪新報

<福松と璃喜松>

笑福亭福松の葬儀 同人死亡の顛末は前号紙上に記載した通りであるが葬送はいよいよ今十六日の正午を以て南区笠屋町の自宅を出棺なし安倍野共同墓地へ埋葬するはず▲會葬者には浪花三友、桂の両派を初め一端相敵視したる大阪三友派の文團冶も訃(ふ)を聞て直ちに同家を訪づれ、懇(ねんご)ろに呈示(ていじ)を述べ同派一統も揃うて會葬の列に加わるそうだ▲中でも大阪三友派の桂家璃喜松は故人のために千日前の小屋芸人から拾い上げられ笑福亭を名乗つて一本立となつた恩義を忘却し先般分離の際文團冶方へ返り忠をした薄情さを福松も生前非常に立腹して居つた所から今回も同人ばかりには師匠の意志に悖(もと)るという筋から、来訪を拒絶し、棺前(かんぜん)の線香をも許さないはずさそうだ

明治371016日 京都日出新聞

<笑福亭福松死亡

笑福亭福松逝く 大阪にて落語三友派の領袖として曽呂利、文団治と共に三友の礎を固めし以来桂派と対峙して滑稽諧謔の弁、老巧円熟の技に人気を集注しつゝありし笑福亭福松は去月二十六日より病の牀に臥して府立大阪病院に入りしが薬石効なく一昨十四日午前四時四十七歳を一期として鬼籍に入りぬ病名は骨膜炎同人は安政五年大阪梅ケ枝町に生れ本名を国島福松といふ天性の好こそ物の上手にて幼年より落語を以て身を立んと志し時の名人二代目笑福亭松鶴(後に円笑)の門に入り本名を其侭福松と名乗り十四歳にして一枚看板に上りしが程なく京都に来り新京極に笑福亭を開き自ら真打となつて幾代亭の桂派と高座に鎬を削りしが恰も大阪に三友派創立の挙ありと聞き馳せ帰つて一座に加はり以来孜々として芸道の奨励と後進の養成に勉め近来座長として一派の巨擘と称せらるゝに到りしよしこの人気者を喪ひし同派の不遇は痛ましさの限りなり

明治371016日 京都日出新聞

笑福亭の落語の昨夜よりの出番は午後六時(しん馬)、六時三十分(団三郎)、六時四十五分(立花)、七時十分(花円喬)、七時三十五分(文雀)、七時五十五(福太郎)、八時二十分(しん朝)、八時五十分(米朝)、九時三十分(円太郎)、十時(小ゑん)、十時廿分(三八)、切(文都)
◇福楽亭は昨日より笑福亭福楽、同八百蔵一座にて開場。

西陣座は笑福亭連中のかけもち

明治371017 大阪新報

福松の葬儀と落語日曜會 笑福亭福松の葬儀は予定のごとく昨日午前十時を以て自宅を出棺したるが會葬者は文枝、文團冶を初め各派の同業者等多からしが位牌の役は門人福市が勤め未亡人は剃髪して泪ながらに葬送したるよしそのため昨日開會の予定なりし同派日曜會は本日に延期し既報の時間、番組にて催すはずなるよし

明治37年10月17日、18日、19日 大阪毎日新聞

<落語界の大波乱>

◇大阪落語の大波乱 落語三友派の座長笑福亭福松死亡の為に、大阪の落語界は非常の紛紜(ふんうん)を極むることとなりたり。三友派は先に首脳の一人桂文團治と別離したる結果、今頃同派にありて殆ど観客の人気の過半を背負いたる落語家の十中八九を文團治の為に持去られて、残るは僅かに福松の一派あるのみ。他は東京連の落ち武者を総合して漸く連夜の高座にお茶を濁さしめいたるに、今その福松を失いたることなれば、同派にとりては、事実由々しき一大事にして、必然の結果は互解か衰微か。天下分目の場合というべし。然して、この三友派が今回の大打撃は、引いて一方の桂派及び先に分離したる文團治一派に影響を及ぼすこと、極めて多大なれば、今左に少しその間の消息を記載し見ん。

三友派の首領として福松没後、当然座長の任にあたる者は、曾呂利新左衛門なるべし。されど新左衛門が技芸と人気と加うるに、仲間中との折合は到底座長として彼を同派の首領にもってくるに足るべきにあらず。必ず新左衛門以外別に何処よりか福松に代わるに足るべき首領を求め来らざるべからず。これ三友派が目下の苦心の最大眼目にして、又他派との影響をひくべき首領なり。もし福松の死亡をして、今数ヶ月以前にあらしめれば、同派は当然分離以前の文團治が統率するところとなり、何等の差し支えを生ぜざるべきも、今既に福松死亡したればとて、文團治に再び復帰を依頼し行くというが如きことは、同派の面目としても行い得べき事にあらず。

よしこれを行い得たりとするも剛腹の文團治が容易に承諾すべしとも思われねば、ここは唯二三の人の空想にのみ止まる説ならんか。既に文團治一派に求むること能(あた)はずとせば、他にこれを需(もと)むるところは桂派なるべし。桂派は、座長文枝隠居して、小文枝その跡を襲えりといえども、目下甚(はなは)だ振いをれるとは言うべからず。現に数ヶ月以前、同派の重鎮として且つ軽々しくその進退を決せざる三遊亭圓馬の如きすら同派の衰退に溜まりかねて、密かに三友派と手を携えん約束を結ばんとせし事さえありたり。この話は端なくとも、実弟圓三郎の軽挙の為に打ち破られたるも、今の月亭文都は桂派より移りて、三友派の人となれる二股の男なり。分離したる文團治一派の者こそ、容易に復帰を承諾せざるべけれど、桂派の連中にして、機会さえあれば三友派に鞍替えと内々野心を抱けるもの極めて少なからざるべければ、今回の福松の死亡を機として、必ず彼よりもその意を洩らすべく、これよりも又喜びてその意を迎えんものの生ずるとせば、福松の死亡は独り三友派にとりて由々しき大事なるのみならず、桂派にとりても又打ち捨ておきがたき大事件なり。

 桂派目下の形成より言えば、圓馬と文三は同派の死命を扼(やく)する両雄にして、少なくともその中の一名を失うは、片腕をもぎとらるるよりも苦しかるべし。人気者としては、他に猶枝雀あり。又近来メキメキと腕を上げて売出中の枝鶴あれども、これらはただワイワイ連中のやや勝れるものに過ぎれば、今その両雄中の一人圓馬が三友派に合せんとせる素振りあるを、耳にしたる同派の各席主は極力これに異議を差し狭み、遂に責を実弟圓三郎の軽挙に帰して、漸く食い止めるを得ることとなしたるも、大勢は既に動きそめたり。桂派は枕を高くして眠るべからず。されど福松没せず、文團治別離せざる以前においてすら、早くもかくの如き野心を抱きたる三友派が、今福松没し、文團治去れる目下の窮境において、いかんぞ桂派のあるものに対し、再び味方に引き入れるるの策を繰り返さずして止むべき。・・・・三日以前より、早くも密々、この交渉を開始し、桂派の某、又ある条件の下にこれを入れんとする模様もありとか聞こえたり。その誰なるやは今暫く読者の推察に任さんも、これがやがて桂派にとっては、大なる打撃ならずとせず。一説によれば、三友派は福松没後すると共に、直ちに同派重立る者の大集会を開き、座長の候補者の選定の会議をなしたるに、東京の落語家三遊亭圓遊を呼び下して、同派の座長とする議を出だせるものあり。賛成者以外に多く、或いはかかる奇現象を見るに至るやも図り知れざる形勢を生じをれるという。しかし圓遊が果たしてかかる申込みを承諾するやいなやは、別問題なること勿論なるものも、この問題の裏面には、数々なる魂胆を蔵せることは、火を見るよりも明らかにして、現に今猶同派にある音曲専門の圓若の如き、この議に関しては、非常の熱心なりという。圓若は喉の美なるとは正反対に腹黒く、謀計に富る男なれば、彼の真生が文團治に取り入りて、遂に過般福松と文團治の分離の第一線を創せると同じく、圓若又二代目の師匠福松の死亡を機として、ここに圓遊を呼びきたり。己れその秘書役に座りて、同派の全権を握らん野心あるに相違なしと言えるものあれど、真意の如何は保すべき限りにあらず。文團治一派については、猶別に記載するところあるべし。

 桂文團治の一派は、今最も得意の時なるべし。その寄れる寄席の位置と、その寄席の主人は甚だ面白からず。又甚だ服すべからざるものなれど、兎に角敵として立てる三友派は、不意に首領を失って周章し、影響は引いて桂派に及べる今、理は期せずして、漁夫の同派に落ち着きたる場合となれり。京都にある新京極の笑福亭は、元三友派に属せる寄席なりしに、如何なる故にや、今春来表を閉ざして、借家札の斜めに貼られる悲境に陥り入りしを、文團治の別離するや直ちに、配下の橘家圓太郎をして借り受けしめ、文都その他を派して、新たに文團治一派の定席としたり。独り京都の笑福亭を己の属席と成せるのみに止まらず、更に手を神戸まで伸ばして、新たに楠社西門南の俄席藤田席をも己の属席となし、門下の團輔一派をして、これによらしむることとなしむ。神戸はこれまで三友派の独占地にして、桂派の如きしばしば新席を設けては失敗し至るに、突如文團治の一派のここに打って出たるは、我も人も意外に思えるところなりき。その結果の如きは暫く置き、同派最近の活動としては注意すべきに事にあらずや。しかもこれは只表面の活動のみ少しく、その裏面を伺えば、目下の同派配下の各落語家の受け入る給金は、これを分離以前の三友派時代に比ぶれば、著しく低額なることは事実なれば、何事をおいても先づ金額の多少によりて、進退を決する落語家の今後猶久しく目下の現状に甘んじて、文團治の為にあくまで尽くす心の果たしてあり得るや否やは、容易に断定しがたい問題にして、ものこの際何等かの機会ありて、首領文團治は願として動かざるも、第二流位の同派連中にして、三友派もしくは桂派に移るものを生ずる事ありとすれば、福松の死は、三友派桂派を動かすのみに止まらず、飛び火は思いもかけぬ文團治派の上にも燃え移らんとす。三友派は何人を首領に据えんとするか。桂派は何人を失い、何人を得るに至るか。そもそも文團治一派は如何の態度を以てこの乱戦場、裡に望まんとするか。注目して、今後の雲行きを見ることとせん。

明治371020日 大阪朝日新聞

◇大阪落語界の革新 寄席の建築、高座の装飾等の外に、従来些の進歩をも認めざりし大阪の落語界は、文団治が三友派を去りたると笑福亭福松が死去したるとに由りて、稍(やや)革新の実を見んとする傾向あり。是まで三友派は曽呂利、福松、文団治の三頭を首領として、夫に付属せる門人を中心とし東京よりむらく、橘之助及び柳派に属せる落語家を色彩として一座を組織し来りたるが、今は福、文二頭を失ひたるが為、その補充を悉く東京より招く事となり、夫々準備に着手し、已に小勝、遊朝、貞吉、駒之助等の一流株を招き、更に幾多の新株を交へ、その中心として旧来居残りたる曽呂利、遊輔、円若の一派を配したれば、前の大阪七、東京三の組織は一変して、東京七、大阪三の有様を呈し来り、従つて高座の上にもやゝ活気を生じ来れり。東京の落語と大阪の落語(大阪にも二三の上手はあれど)とその品格、口調の上に非常の相違あるは云ふまでもなければ、大阪の落語に飽きたる人は此組織の変化を歓迎する様あり。東京落語の輸入は取りも直さず大阪落語革新を意味するなれば、桂派にても東京連を招かんとする傾きあり。寄席好の人々は大に恭悦し居れりといふ。序にある落語家、東京の不景気を嘆じて当地の某に寄せたる書簡の端に「世の中が明るくなれば寄席は暗」とありしとぞ。

明治371021日 大阪朝日新聞

◇大阪の落語界は大に活動を初めたらしい。文団治の分離と福松の病死とは確に其動機と為つた。話財の改良、落語家の修養など将来大に勉めねばならぬ事だ。二十世紀式の面白い話も聴きたい。

明治371029 京都日出新聞

笑福亭へ来月出勤の連中は円太郎一座に金原亭馬生、桂梅団治、笑福亭慶士、手品師桂家都若等と決定し連中は一日より西陣座とも掛持する由

明治371030 大阪新報

松屋町通安堂寺町の松の亭は来月一日より大阪落語三友派の一座にて開場の筈

明治371031日 大阪朝日新聞

◇三友派各席へは来月一日より東京よりノン〳〵亭柳升、三遊亭若遊三、同小伝遊の三名来り、外に笑福亭梅香、小供義太夫団司を加へてお聞きに達すといふ。松屋町安堂寺橋の松の亭は従来呂昇一派にて興行し来りしが、一日より三友派一座にて開演す。

明治371031 大阪新報

明一日より浪花落語三友派の定席永楽館、此花館、第三此花館、賑江亭、紅梅亭等へは従来の他新たに東京初下りノンノン亭柳升、三遊亭小傳遊、笑福亭圓光改め梅香らが連夜出勤をなす由

上方落語史料集成 明治37年(1904)七

明治3711 京都日出新聞

○興行界 ▲幾代亭は今夜よりは定連中の外に春風亭梅枝、三遊亭右ゑんが出勤す且木戸銭は非常の勉強にて九銭に直下

明治37111 大阪朝日神戸付録

◇神戸興行物 ▲神戸楠社西門藤田席は桂文團冶一座の内へ桂残月、桂歌の助、三遊亭新朝の三名を差加え興行すると▲楠社塀側旭亭は木村一瓢、神田伯龍の講談▲楠社西門筋菊の家は京山小市、吉田小奈良、吉田奈良丸、廣澤菊圓一座の浮れ節▲同楠社西門筋菊廼亭は國玉、吉代、小住、藪千賀、君江一座の女義太夫▲湊町虎家は旭堂南陵、神田白猿の講談▲中道通中道亭は木村一瓢、神田白林の講談▲神戸地方裁判所前第一湊亭は曲亭馬琴、三遊亭三馬、笑福亭福我、三友亭紋弥、春風亭柳寿斎、三遊亭鈍輔、笑福亭若輔一座の昔噺▲神戸三宮社内第二湊亭も第一湊亭と同じ▲三宮町雑居亭は吉田奈良丸、廣澤菊圓、湊家小扇次一座の浮れ節▲同町富士館は豊澤小藪一座の女義太夫▲生田前末広亭は光蝶斎一幸一座の貝祭文にて一日より興行の筈

明治37112 神戸新聞

湊亭 これまでの一座の上へ笑福亭福我が大阪より帰り来りて高座に現わるヽとその他は頓輔、紋弥等が加わり即ち、福圓、松喬、福我、無外、馬琴、三馬、頓輔、紋弥、柳寿斎と云うような顔触れにて昨夜より開場したるが中々の好人気なり

明治371115 京都日出新聞

幾代亭の落語の今晩よりの出番は午後五時五十分(しん馬)六時四十五分(枝雁)七時十五分(燕太郎)七時四十分(扇枝)八時十分(右円)八時四十分(年誌)九時十分(枝太郎)九時四十五分(梅枝)十時十分(芝楽)切(文吾)

笑福亭の落語の今晩よりの出番は午後六時(真三)六時二十五分(団三郎)六時五十分(文若)七時十五分(慶枝)七時三十分(立花)七時五十分(花円喬)八時十分(都若)八時三十分(三八)八時四十分(福太郎)九時(梅団治)九時三十分(円太郎)切(馬生)

明治371117 大阪毎日新聞京都滋賀付録

新京極福楽亭は今度落語席として十五日より三遊亭馬之助一座に今度分離したる大阪桂派の若連を加へ開場したるがその顔触は三遊亭馬之助、桂小文治、清元端唄音曲春の家小まん三笑亭芝橘、笑福亭里鶴、桂文若、三雀、和歌之助、藤三、八百蔵、立川三橋

明治371121 大阪毎日新聞京都滋賀付録

大入 △福楽亭馬之助一座落語の出席時間は左の如しなほ同亭および第一第二福真亭は共通の割引切符を配布しつゝあり入込み(文若)六時四十分(三雀)七時(里鶴)七時二十分(八百蔵)同四十分(馬之助)八時二十分(小文治)九時二十分(芝橘)同四十分(小万)十時(馬之助)

明治371130日 大阪朝日新聞

◇浪花三友派の各席へ十二月一日より東京下りの円遊、馬琴の二人が出席。

明治371130 大阪新報

<桂梅團治死す

大阪落語三友派の一員なる桂文團冶の門人梅冶事菅井友次郎は前月京都出勤中より胃癌に罹り南区笠屋町の自宅に治療中一昨日午前六時行年四十九歳を一期として永逝し昨日葬儀を営みたり

明一日より浪花三友派の各席へは従来の他に東京より三遊亭圓遊、三友亭馬琴等の新顔を馳加わわり連夜出勤なすよし

明治37121 大阪新報

浪花落語三友派の曾呂利新左衛門は一両日前東京へ上り愈々本日より連夜両国の立花家、日本橋の大路次、神田の白梅亭などへ出勤をする由

明治37121 神戸又新日報

◇藤田席 落語定席となりし同席は本日より今迄の顔に、桂生瀬、桂しん吾改め立花家立花、笑福亭小圓の新顔を差加え相変らず御機嫌を伺う由なり

明治37121日 京都日出新聞

幾代亭は本日より小野残月、川上元二郎、柳亭小美治、春風亭梅枝が加はる

笑福亭は本日より氏原一も加はる

千本座は本日より笑福亭連中の掛持

明治37122 馬関毎日新聞(下関)

◇興行だより △田中町明治座は明后六日より、歌舞伎芝居三枡源五郎一座にて開演。△豊前田町稲荷座は、新演劇鳳凰團立花松章一座にて可なりの人気なり。△同町旭座は、女浄瑠璃竹本梅吉一座にて相当人気なりと。

明治37123 京都日出新聞

幾代亭の落語家の出番は午後五時三十分(吾喬)六時十五分(しん馬)六時三十分(枝雁)七時(小美作)七時十五分(燕太郎)七時四十分(芝楽)八時五分(梅枝)八時二十五分(枝太郎)九時(残月)九時三十分(年史)十時(川上)切(文吾)

明治37123 神戸又新日報

◇湊亭 相変らずお賑やかにやっている湊亭本月の顔触れは福圓、松喬、福我、無外等の上に春風亭柳寿斎、桂小文冶、三遊亭小傳遊、浮世亭萬歳を加え御機嫌を伺う

<編者註>浮世亭萬歳は、桂派を抜け出した桂枝鶴(後の四代目笑福亭松鶴)

明治37128日 京都日出新聞

笑福亭は来る十一日より諸芸大寄にて大切「霜夜鐘十字辻占」其役割は按摩草按(文我)金助(福太郎)おかね(三馬)杉田薫(慶枝)豊二郎(団三郎)ちぼの蓑松(真三)

明治37129 京都日出新聞

幾代亭と大虎座とは明十日より聯合忘年諸芸演芸会を催す事となり幾代より大虎へ廻る連中は枝太郎、文吾、年誌、芝楽、燕太郎、大虎より幾代へ廻る連中は東玉、尾半、市丸、馬鹿八、正玉にて幾代へは山崎琴書も手伝ふ由

明治371213日 大阪朝日新聞

<近眼の柳枝>

◇柳枝の自惚損 火消壷の名を取つた初代笑福亭松鶴の門人にて、初めは松柳と云ひしが、師匠死去の後西京にて桂柳枝と改めた本名桃田芳松(五十八年)は、南区難波稲荷町に住居し、相変らず落語家をやつて居た処、其長男の清八(二十六年)が同所鉄眼寺前に桃田日栄堂といふ化粧品、洋酒店を開きゐるので、親父に何(い)つ迄「扨て代り合ひまして」と下駄箱を敲かせて置くのも本意でないと、先頃柳枝を西京より呼寄せ、隠居として店番をさせありしに、此柳枝は大の近眼なれば、日々失策をする上、娘達が買物に来れば只さへ下つた目尻を一層下げてウダつくより、是ではならぬと、此度店番を止めさせて、小遣取りに店の代物を売歩かせる事とせしに、行先にて話が長くなり、二軒の得意で日を暮すといふ始末なれど、小遣取の事なれば其侭打捨て置きしに、ツイ一両日前の事、化粧品の荷を脊負ひて新町辺の前々よりの贔屓先を廻り、酒を振舞はれて夕方足元フラ〳〵と帰り道、(後略:十八九のハイカラ娘に声かけられ、料亭で待ち合わせの約束をし、喜び勇んで出掛けたが、、精神科の看護婦がその娘を迎えに来たという話)。

明治371216日 大阪朝日新聞

◇浪花三友派各席への出演者は三遊亭円遊、其他旧席付き東京落語なるが、忘年の余興として本日より大切に茶番狂言一幕を加へ各席にて演ずるよし。役者は二日目交りにて、外題は「隅田の夕暮」「当世玄治店」「義太夫稽古場」「我と我罪」「夜半の霜消」等なり。

明治371216 大阪新報

浪花三友派の各席にては忘年の余興として本日より連夜大切に道化茶番を仕組み一芸題二日目替り各席交代にて演ずる由

明治371216 神戸又新日報

◇藤田席 文團治派の同席にては昨日より忘年会といえる名称にて毎夜出し物を替え大いにふざけて見せる由。

ご祝儀掛合噺(團二・團吉・正六)軽口(三助・南枝)人形噺(立花・團輔・正楽)浄瑠璃掛合(正六太夫・三助太夫・團輔太夫)三味線(花沢立花・野沢小圓)掛合墨付け噺(小圓・團輔・行司は團吉)中入り一座芸廻し(正六・立花・南枝・正楽・團輔)滑稽情実談話(生瀬)

明治371221日 山陽新報(岡山)

◇千歳座 岡山市西中山下千歳座にて、今二十一日より大阪桂派連桂文枝一座連中にて開演する由。

◇亀楽席 岡山西大寺町亀楽席にては、昨晩一夕、去る十七、十八両日、高砂座に開場せし有志演芸会の招に応じ来岡したる講談師森林若燕の戦地講談を演じたる筈。

明治371228 神戸又新日報

◇藤田席 来春元日より替る落語連の顔触れは左の如し

團寿・團吉・正六・小正楽・真二・楓橋・三助・團輔・小文・正楽・源氏節美住太夫・浄瑠璃三八&清菊・真生

明治371230日 大阪朝日新聞

<三代目笑福亭松鶴、竹山人と改名して浪花三友派に加入する>

◇浪華三友派の各席へ出勤する筈なりし三代目松鶴は、二三の門人を引連れ愈新年より出勤する由。

〈編者註〉1231日付に「三代目笑福亭松鶴は今度浪花三友派の各席へ出勤するにつき竹山人と改名する由」とある。またこの時、桂派に預けていた愛弟子の桂枝鶴を呼び戻し、笑福亭枝鶴と改名させている。のちの四代目笑福亭松鶴である。

明治371230 北国新聞

◇新冨座 一月二日より川上音治郎等一座の新講談落語連。音曲落語(光二)曲芸落語(小一郎)岸沢浄瑠璃(小美佐)音曲落語手踊(花圓喬)改良落語(右圓)衣装はなし(小如燕)音曲落語(二人楽)西洋新話人情噺(川上元治郎)

明治371231 大阪新報

浪花落語三友派の各席へ従前の出方圓子、圓若、松光、遊輔、小勝、小満之助、柳升、一圓遊、紋彌、茶好、半玉、曾呂利新左衛門等の他に笑福亭松鶴改め竹山人及び馬生、残月、松喬、龍子、燕嬢を加え一日より連夜開演するよし

一月の市内各興行物 ▲桂派 淡路町幾代席、法善寺金澤席、新町瓢亭、天満林家席、内安堂寺町養老館 ▲浪花三友派 北堀江賑江亭、法善寺紅梅亭、平野町第一此花館、江戸堀第二此花館、和泉町第三此花館、北新地永楽館 ▲大阪三友派 千日前春木亭、松島第一文芸館、内本町第二文芸館、順慶町赤澤席

  


参考資料】

<桂派矯風会一覧(明治37年)>

112日 金沢亭  
 番組:延要伯(小文三)、竜の都(文屋)、無学者(枝鶴)、大工裁判(文三)、余興手踊(手遊・小南)、
 守り神(小文枝)、粟田口(円馬)、親子の情(南光)。

214日 瓢亭  
 出演者:雀三郎、小文三、三五郎、枝雀、南光、千橘、円三郎、三好、文三、円馬、小文枝等。

313日 幾代亭  
 出演者:枝鶴、万光、小文枝、文三、円馬、南光。余興陸海軍星祭(円七・千橘・円三郎・三好)。

49日 金沢亭  
 出演者:小文三、文屋、枝雀、文枝、小美家、美家吉、文左衛門、円馬、文三等。

58日  瓢亭  
 出演者:文枝、円馬、文三、さん馬、万光、枝雀、三五郎、岡本小美家、美家吉等。

515日 天満林席(報効会寄付臨時矯風会) 
 出演者:扇之助、三五郎、枝鶴、枝雀、南光、さん馬、三好、円三郎、千橘、文枝、文左衛門、円馬、文三
 等。

612日 幾代亭  
 出演者:枝鶴、枝雀、南光、文枝、文三、円馬、文左衛門等。

109日 金沢亭  
 出演者:文屋、枝鶴、南光、文三、万光、円馬、文枝、文左衛門、富士松小高、同高蝶等。

1113日 瓢亭   
 番組:蜜柑売(文屋)、今道心(枝雀)、八足(文三)、子供将棋(文枝)、子供浄瑠理先代御殿(長春)、
 吹よせ(文左衛門)、粟田口(円馬)、両富(南光)。

1211日 幾代亭  
 番組:小倉船(雀の助)、浮世値問(枝雀)、味噌蔵(文枝)、貧家餅搗(南光)、自慢大食(文左衛門)、
 粟田口(三遊亭円馬)、二代目阿波太郎(桂文三)。

〈編者註〉大阪朝日新聞・大阪毎日新聞より作成。因みに1211日の矯風会は第34回となっている。

<三友派日曜会一覧(明治37年)>

124日 平野町此花館 
 出演者:福三、梅団治、一円遊、遊輔、璃喜松、里朝、米団治、福松、馬生等。

221日 紅梅亭 
 出演者:福二、米朝、歌丸、文都、小遊三、むらく、橘之助、福一、文之助、円若、新左衛門等。

320日 平野町此花館  

〈編者註〉三月の日曜会については以下のような記事がでている。

「落語家の奮発 三友派の落語家は従来毎月一回日曜会と云ふを設けて落語の改良会を為し来りしが、今回同派の各寄席申合せ、日曜を奉公会と改め、其揚高を恤兵金に供する由にて、その第一回は明後二十日正午より三友派総出にて平野町第一此花館にて開くといふ」(大阪朝日318

「三友派落語家の日曜会を奉公会と改称する事は既に記載したるが或人から昔噺のかち〳〵山に因み勝々会にしてはとの勧めに会員等は賛成し更に勝々会と云ふ名称にて明廿一日正午より平野町第一此花館にて開催する事となり。出演者の顔触れは団之助、歌之助、真生、文都、むらく、米団治、馬生、円若、福松、残月等にて番外には新俳優福井茂兵衛山岡如萍の演説と巽糸子が舞を演じ、その収入金は恤兵部へ寄付する由」(大阪毎日320

1017日 平野町此花館 
 出演者:笑福亭福遊、同福我、三省亭花楽、三遊亭遊朝、同円子、三升亭小勝、三遊亭遊輔、邑井貞吉、曽呂
 利新左衛門、竹本長春、東家小満の助、田村巌等。

〈編者註〉当所十六日に開催予定だったが、笑福亭福松の死をうけ、一日延期された。「三友派の落語日曜会は座長福松死亡の為、一日を延して今十七日開会することになりたり」(大阪毎日1017

1120日 永楽館 
 番組:歌根問(新作)、古手買(福三)、橋場の夢(若遊三)、高尾の名香(松光)、明治奇人(邑井貞
 吉)、□魂(梅香)、兄弟出世鏡(小勝)、音曲関所(円若)、武蔵鐙(柳升)、長唄(富士田千之助・杵屋
 君三郎)。

1211日 紅梅亭 
 出演者:福遊、紋弥、福三、梅香、遊輔、柳升、小満之助、円遊、茶好、半玉等。

〈編者註〉大阪朝日新聞・大阪毎日新聞より作成。

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