二十四年ぶりに友と再会した。カナダに一年滞在していたとき知り合った日本人で、当時はトロント大学の学生だった。フェイスブックで友達に分類され、子供を抱いた画像が送られて来た。
私は毎晩寂しく、ろくに稼ぎもないのにガールズバーで散財している。その日は花金で、塾のバイトが終わると、またも独りでいるのに耐えられなくなった。
「何してる? これから飲まない?」
「マジっすか」
わらをもつかむ思いでメッセージを送ると、すぐに好意的な返事があった。
子供を風呂に入れてから来るというので、指定された神保町のアイリッシュパブに入って待つ。店内は、付近の会社で働く三十、四十代の男女でにぎわっていた。私には無縁な空間だ。程なく表れた旧友は、中年の顔になっていたが、持ち前の社交性が社会の荒波に鍛えられ、一層生き生きとしている。
「トヨさん、お待たせ」
入り口で大きな声を出してから、こちらのカウンターに来るまでの間、二、三組の男女に声を掛けられていた。私には全く理解できない世界だ。私は女がいたらすぐちょっかいを出すので、男女混合の集団行動というものが存在しない。しかも、それに干渉せず、集団ごと付き合っている。
彼は外資系IT企業にヘッドハンティングされていた。六本木に河岸を変えると、黒人の店長や白人の客たちと気さくにおどけている。トロントで私を知っていたという日本人男性を呼び出す。今は大手広告代理店で勤めているという。私が嫌われていたことを初めて明かされた。一つ大人になろうと、和解の印に名刺を差し出すと、「ちょっと、名刺を切らしていて」と背広姿で返される。自分が社会の敗北者であることを確認した。
翌晩、バイトの帰りにスーパーでユリの花を買った。カナダで私が好きだった女子高生が黒人と結婚したとの報告メールが来ていた。混血の子供とのスリーショットの画像を添えられて。踏んだり蹴ったりの現実を見せられる。やけ酒を飲みながら桑田佳祐の『声に出して歌いたい日本文学』を聴いていると、石川啄木の『一握の砂』に次の歌詞があるのを知った。
「ともがみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」
周りがどんどん立派になっているのに、私は定職にも就けず、独り老いている。どこか狂っているのだろうが、このようなときに花を買う感性だけは正常のようだ。

