定価とは、奴隷階級が商品取引で「ずる」できないようにする細工だと思っている。日本でこれが隅々まで浸透したのは、行列を守らされたりするのと同様、働き蜂として位置付けられている証しと理解する。


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 それでも、定価がありがたく感じることがある。先日、沖縄を訪ねた際もそうだった。二日間、神聖な小島に滞在した後、那覇市内に来た。小雨が降っていたので、土産物を下見しようとアーケード内の商店をのぞく。すると、気の早い店員が出てきて、商品をビニールから出したり、服のサイズを探したりする。私はこういうのが苦手だ。


 アーケード街を進むと、市場にたどり着く。魚介類や豚肉、海草などが、所狭しと並ぶ。隣にいた女性は、実に交渉がうまい。島ラッキョウのブースで、男性店員に試食用を差し出される。

 「ふん、おいしい。じゃあ、これは」


 隣にある白菜漬けを指差すと、今度はこちらをようじに付けて向けられる。

 「これ、二つでいくら」

 「二つだと千七百円だよ」

 「おまけして」

 「じゃあ、千四百円で」


 女性の図々しさに敬服した。私などは、試食したラッキョウのみそが手に付いただけで嫌だ。それで買わなければ、「食い逃げされた」とののしられるはず。これを恐れ、商品を触るのも気が引ける。


 最終日、土産物を買いに市場を再訪した。ようやく晴れたが、繁華街はほこりっぽく、ごみごみしている。しかも、外人だらけ。街中が汚らわしく感じ、帰京時に使おうとしたマスクを着ける。市場に足を踏み入れるが、買う気が起きず、引き返した。


 搭乗までの四時間をホテルのロビーと空港で過ごす。土産屋で海ブドウを八百四十円で買った。市場では三百五十円だったが、大満足である。私は生来の奴隷階級だろうか。