私は宮崎県生まれなんですが、以前から不思議に思っていたことがあるのです。

それは、九州は7県なのに、なぜ九州なのか?
なぜ七州ではないのかということなんです。


四国は香川県、徳島県、愛媛県、高知県と4つでちゃんと四国になっていますよね。

皆さんはどのように思っていましたか?


九州は、古くは筑紫の国、豊の国、火の国、日向の国の4つに分割されていました。


しかし律令時代(645年~701年)に入ると9国に分割されたのです。
それは筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈の9国です。


注:
律令は大化の改新(645年)から整えられて、大宝律令(701年)で完成しました。
天皇を中心にした中央集権的な統治制度である
つまり全国的に通用する法律、すなわち律令で支配を広げたのです
律令時代は、日本独自の政治秩序の確立に成功した時代なのです。




平安時代の諸国の数は66でそれ以前は58から成っていたようです。

京都祇園祭の起こりの理由のなかに(諸国の数66本)とされています。


注:祇園祭の始まり
世に疫病が蔓延した平安時代の貞観十一年(869年)、占部比良麻呂の勅によって諸国の数である66本の矛を神泉苑立て、疫病を追い払う御霊会が行われた事が神事の始まりと言われています。



その詳細は

九州は
律令体制下の地方行政区画の五畿七道の中の一道である
西海道であった。


注:
五畿内(大和・山城・河内・摂津・和泉)
七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)


西海道(さいかいどう)は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隈
の9国と岐・対馬の2島からなっていました。



西海道には大宰府が置かれました。
大宰府は西海道を統括し、また国防上の理由で置かれた機関なのです。

1019年刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1274年文永の役
1281年弘安の役


などの際に大宰府は十分にその役割に応えることが出来たのです。



明治に入って廃藩置県(1871年7月14日)が行なわれ、


9国が廃止されて今の7県が置かれたのです。




筑前・筑後・豊前の一部が福岡県に。豊前・豊後が大分県に。肥前の東部が佐賀県に。肥前の西部が長崎県に。肥後が熊本県に。日向が宮崎県に。大隈が鹿児島県に。



このように9国から7県になったのですが、呼び名は相変わらず昔ながらの九州と呼ばれているのです。



今日はこれで終わりです。

いかがでしたか?


律令時代は9国だったんですね。
それが明治時代の廃藩置県で7県になったんですね。