2016年07月19日

【第155回芥川賞予想】混戦の中でリードしている村田沙耶香と崔実の争いか

 久しぶりに事前に全部読んだので、発表直前ながらちゃんと予想してみます。芥川賞は最近ほぼ毎回当ててきているが果たして。
 全部読んでいるのと、今回は全部手元にあるので受賞した作品については長めのレビューも書いて載せたいなと思っている。

◎崔実(チェ・シル)「ジニのパズル」
○村田沙耶香「コンビニ人間」
▲高橋弘希「短冊流し」
△今村夏子「あひる」
×山崎ナオコーラ「美しい距離」

 
 タイトルに書いたように、実力と実績から考えても村田沙耶香が一歩リードしているように見える。というか、もはや中堅と言ってもいいくらいだ。(ナオコーラもその部類だが)
 その上であえての本命は「ジニのパズル」で。講談社がここまでガンガン押してくるのは想定してなかったが、ガンガン押されている作家自身のルックスと言い、粗削りながらも逆にそのエッジの効いた感じがハマってくる「ジニのパズル」は強い。
 ひとつ分かりやすい弱さがあるとすれば、ステファニーというアメリカでのホームステイ先の女性に回想を話す、という構造をとりながらも、その構造があまりうまく言っているとは思えないこと。悪くもはたらいていないが、ジニにとっての二度目の退学、というエピソードを引き出す以上のものがあるのか。
 とはいえ、90年代後半を舞台にしたこの作品の空気感は、在日朝鮮人の学校生活という政治的にも際どい路線の小説としてはかなりビビッドだ。勢いを感じるし、宇多田ヒカルの「Automatic」やソニーのMDウォークマンという固有名を持ち込んでくるあたりの時代の空気感も匂わせる。

 村田の「コンビニ人間」は「殺人出産」を書いてきたような最近の村田に比べると控えめにうつるものの、村田が書いてきたこれまでのヒロイン像である社会からズレまくりながら自分の境地を信じていきるよくわからない強さ、みたいなのは感じることができる。
 「コンビニ人間」の主人公は非コミュに見えて妹や同僚たちとのコミュニケーションに長けているあたり、表面的にはうまくやれているわけだ。学生時代はうまくなじめなくても、社会に出てから地味な強さを見せていくタイプのヒロインは、自身がコンビニ店員でもある(少なくとも「であった」)村田自身の思いや経験がいささか投影されているようにも見える。私小説では決してないのだけれど。

 実力的にこの次に来るとすればナオコーラだろうが、ガンとなった妻の看取りをいくらか新しい、かつ社会批判的な切り口で書いた面白さはあるがそれ以上のものをあまり感じなかった。
 対照的に、かなり短い部類ではあるが同じく死の匂いを感じさせる高橋の「短冊流し」のほうが感情の繊細さを事細かに書けていて好感を持てる。オリジナリティや短いがゆえの弱さはあるものの、キャリアは浅いながら三度目の候補となった今回、二作受賞なら高橋が来てもいいだろう。
 今村夏子の「あひる」もいささか風変わりな家族小説であるが、日常のささいなやりとりの中に不穏さを織り込んでいくスタイルは上手さを感じる。もっと長いものを読んでみたい。

 以上、ざっと見てきたが村田を追随する崔のあとに三者が続くという感じだろう。崔を本命にしているが、あるとすれば崔と村田の二作受賞が妥当ではないかと踏んでいる。
ナオコーラと今村夏子は今回はない、という見立ての上で高橋が穴を開ける可能性も微レ存。

ちなみに直木賞は米澤穂信しか読んでないので、とってくれたらとても嬉しいです。
2016年07月17日

物語の持つ力を信じることができるのか ――相沢沙呼『小説の神様』(講談社タイガ、2016年)



 『卯月の雪のレター・レター』という短編集を手に取ったのが最初の相沢で、本作が二冊目になる。ちなみに講談社タイガから出ているのは野崎まど、紅玉いづきを経て三冊目で、『卯月の雪』の解説を書いていたのが紅玉だったことも考えると紅玉が相沢を読め、と言っているようなものだと勝手に理解した。本作『小説の神様』はそのストレートすぎるタイトルを体現したようなヒロインが美少女転校生として登場する一方、かなりひねくれたタイプの主人公が対峙するエンタメとなっている。

 千谷一夜という名義で中学生のときに作家デビューを果たしたもののデビュー作の売り上げは芳しくなく、二作目も出せずに数年が経過した。高校では友人の九ノ里に誘われて部員不足で廃部寸前の文芸部に参加するものの、書くことへの意欲は戻らないまま。そんな中で同じクラスにやってきた小余綾詩凪は、同い年でありながら不動詩凪として人気作をとばす売れっ子の作家だった。あることをきっかけに彼女と話をするきっかけを得るがそのときには小説に対する価値観で対立し、決別。しかし二人に共通する編集、河埜の提案によって、新作の共作を試みることになる。

 最悪の出会いを経たあとに一緒に仕事を試みることは果たして可能なのか、という問題もあるが分かりやすいくらいに対立していく二人の価値観の相違は分かりやすい。千谷は自分の小説が売れなかったことや、病気で長期入院中の妹への思いから売れる小説に絶対的な重きを置くようになる。これが本音なのかは別として、千谷の言うことは出版不況や書店の閉店や取次の倒産が相次ぐ昨今の状況下では一面的なただしさを持っている。さらに彼の父がかつて(あまり売れない)小説家だったことも、売れることへの執着は強くなっていく。

 対する(とはいっても仕事の関係上対立してばかりでもいられない)小余綾に「小説の神様」が見えるのだと語る。その彼女が振りかざす正論は少しずつ千谷のゆがんでしまった心を砕いていく。彼女はも物語の力を純粋に、そして強烈なまでに信じるタイプの作家で、その強力な新年は作品の中にも投影されているし、なにより作家としての、個人としてのかのじょを形作るアイデンティティーにもなっているところがヒロインとしての魅力にもつながる。千谷は何度か「天は二物を」と彼女を評してつぶやくが、では次に容姿端麗で成績もよく、なんでもできるように見えてしまう彼女がなぜ物語の強さにこだわるのか? という問いが千谷の中に生まれていく。

 千谷はもちろん小説を、書くことそのものを捨てたわけではない。捨てたわけではないから、自分とはあまりにも違う小余綾の姿勢に対立してしまうし新しい部員の小説指導も引き受けてしまう。千谷のデビュー作を好きだと言った小余綾の言葉には動揺するが、その彼のデビュー作の文庫化を機に再び目の前が雲っていく。こういう時代に作家という仕事を引き受けてしまった人間の辛さが分かりやすく表れているし、そのことを自覚的に書いている相沢が憎らしくもなる。

 とはいえ、共作がスタートし、対立を重ねながらも少しずつ接近していく中での断絶は、『小説の神様』という物語の核心部分に深く入っていくきっかけにもなる。物語をつづる人間にとって、小説とはどういうものなのか。そして読者にとって、物語はどのような意味を持つのか、っという根源的な問いだ。もっとも、これらの問いはそもそも意味がない、と当初の千谷の言うように蹴落としてしまうことも可能だろう。だからこそ、あえて、あえて向き合うことができなければ、これらの問いへの答えはみいだせない。

 最近読んだ川上未映子の『安心毛布』というエッセイに、この小説の核心につながるような一節があったので引用してみよう。

 なにとも比較できないなにか。誰かにとやかく言われようのないなにか。学校や職場以外の場所にこそ、仕事や人間関係以外のものにこそ、自分にとって素晴らしいものがあるという自信をもつこと。(中略)なにかひとつ、誰にもわかってもらえない自分だけの大事なものを見つけることが、明日また、学校や職場でがんばるためのちからになると思うのだ。人からどう思われようと、決して揺るがないものをひとつだけでいいから胸にもっておく。それは本当にわたしたちが困ったときに、わたしたちを必ず助けてくれるちからになる。(川上未映子(2016)『安心毛布』中公文庫、p.92)


 翻って『小説の神様』は物語の力を信じる者と否定する者の間の物語だった。どちらが優勢なのかは言うまでもない。重要なのは、一度見失ったものでも再び見いだすことができるかもしれない、というところだろう。千谷の場合それは小余綾や妹、それに九ノ里や成瀬といった文芸部員の存在によってもたらされた。きっかけを与えてくれた河埜の存在も大きい。しかしこれだけだとちょっといい話で終わりかねない。だからこそ、千谷のみが再生することだけが本作のねらいではない。小余綾もまた、再生を必要とするのだ。

 基本的に千谷に一人称で書かれるがゆえに、小余綾についてはあまり多くのことが触れられない。だから彼女についてはある意味では、叙述トリック型のミステリーだと言えるだろう。その謎を解くことで、「小説の神様」に対するこだわりのゆえんもまた見えてくるようになる。共作を始めたばかりのころ、彼女が発する言葉が印象的だ。

 物語を読むことで、心に湧き上がる力があるのなら。それを用いて、現実に立ち向かってほしい。苦しいことも、辛いことも、物語があるのなら、人は必ず立ち向かえるから(p.128)

 本作の終盤で小余綾はあることに苦しむ。千谷は彼女を救おうとするが、真に彼女の救えるのはかつての彼女自身の、物語に対する思いの強さなのかもしれない。それは川上未映子がエッセイで書いたことにも通じる。物語を必要とするのは、もちろん純粋にそれが読まれうるという時もあるだろうけれど、物語が選ばれる時にこそ、確かな力を発揮するのかもしれない。小余綾の信念は一見すれば青臭いけれど、それこそが大事な時こそ。

安心毛布 (中公文庫)
川上 未映子
中央公論新社
2016-03-18

2016年06月30日

瀬々敬久と佐藤浩市によるエモーショルな再構築 ――『64―ロクヨン― 後編』(日本、2016年)



 横山秀夫原作の『64』はまずはピエール瀧主演のNHKドラマ(全5話)で見て、その面白さから原作をとってまた興奮し、今回の映画にという流れになる。前編はタイミングを逃してしまって見ていないのだが(パンフレットだけは買った)、後編では原作やドラマとも違う展開になっているらしいと聞いて見ることにした。パンフレットには横山秀夫のコメントもあるが、改編する内容や展開については横山もいい印象を持っているらしい。主演の佐藤浩市をはじめとするスタッフと瀬々監督とのディスカッションも内容に盛り込まれたとあるだけに、スタッフと役者の共作とも言っていいのかもしれない。さてその結末は。

 この作品は警察の広報官という比較的地味な仕事にスポットをあてながら、ある大きな未解決事件(昭和64年に起きたことから、「ロクヨン」と呼ばれている)を背負ったしまった男たちの物語、という流れがある。ただ厳密には男たちだけではなく、何人かの女性も重要なポジションを果たしているし、刑事ドラマとしては新しいし、そもそも広報官が主役のドラマは厳密には刑事ドラマと呼べない。しかしその広報官である三上は元刑事という経歴を持つだけに、刑事ドラマに期せずして接近していく面白さははらんでいる。広報官という仕事をどう見せるのかというところと、刑事ドラマとしてのコミュニケーションや情熱、あるいは犯人を追いかける展開の面白さといった分かりやすい形の刑事ドラマとの間のバランスをどのようにとっていくかが演出の仕方で変わってくるのだ。

 簡単にまとめると、原作をほぼ踏襲した形のドラマ版と、より刑事ドラマとしての人間くさい、男くさい物語へと加速していく展開を見せる劇場版という差異がある。この点についてもパンフレットを読むと自覚的に構成が作られていて、瀬々自身は原作の魅力を認めながらも映画として成立するにはどうすべきか、という思案を重ねていることを明かしている。主演の佐藤浩市ももちろんその点は織り込んでいるし、他の共演者たちも本作がすぐれた日本映画になっていることを自負する。この時点で、この映画は単なる二度目の映像化というよりは、横山秀夫の原作を日本映画として再構築した、言わばオリジナル要素を多分に含む二次創作、と解釈してもいい。

 三上を演じた主役二人を比較してみよう。ピエール瀧の比較的地味な演技が光ることによって、組織人としての苦悩をあぶり出すことに成功したのがドラマ版だとするならば、組織人としていきる苦悩を持ちながらも刑事としての魂のような情熱と、父親として、というもうひとつの人間くさい要素を解放させる方向に佐藤浩市が歩みを進めていくのが劇場版だ。5話構成ということで原作をややはしょる形をとりながらも、たとえば報道協定をきっかけとしたマスコミとの激闘の様子を丁寧に書いたところが組織人としての苦悩をうまく表出していた。

 このシーンは映画ではドラマ版ほど長い尺をとっていないが、ドラマ版ではもはやループものと言ってもいいくらいの反復した演技を役者に強い、そしてその光景をつぶさにカメラにおさえることで、目に見えて分かる体力と気力の消耗を視聴者に強いインパクトとして訴えることに成功している。地味な撮影であるからこそ大きなインパクトを持つことができるのは、あらかじめ複数の話数を持つ連続ドラマの魅力のひとつだろう。尺そのものは劇場版もドラマ版もさほど大きくは変わらないが、話数という制限を持つドラマの場合では構成の方法がやはり違ってくる。

 パンフレットには直接的な言及はなかったが、ドラマ版はもちろん瀬々監督は「先行研究」として調査済みだろう。その上で構成を変えたからこそ、佐藤浩市の映画として成立する魅力と危うさが共存していると推測できる。もっとも、この二人の名前を最初に見つけたときに思い付いたのは大作『ヘヴンズストーリー』だっただけに、物語の終結に向けてエモーショナルな要素が大きくなっていくこともあらかじめ想像がついていた。最後まで禁欲的だったドラマ版とは対照的に欲を見せていくところでの危うさも同時に存在する。いままでの、組織人としての三上という像を破壊することは視聴者に対してどれだけの説得力を持つのかという危うさだ。

 そこにはドラマ版にはない一つの救済的アプローチがある。それは子どもたちの存在だ。この映画には重要な子どもたち、それも全員娘という形で4人の少女たちが登場する。ドラマ版にももちろん何人かは登場するが、広報官の三上を組織人として描くというアプローチからすると、子どもたちの存在はそれほど重要ではなかった。ただ劇場版では再び刑事化する三上と、父親としての三上をシンクロさせたクライマックスへと足取りを進めていく。このドラマチックさも、そういえば『ヘヴンズストーリー』で大きなインパクトを持っていたアプローチではあった。あの映画といちいち比較するのも意味はないと思うが、あの映画で出演者の一人であった佐藤浩市の頭の中にもなにかよぎるものがあったのではないか。彼自身も受け入れたはずの原作改編は、だからこそ成立したのではないか。

 ドラマ版では新井浩文や山本美月といった共演者たちや、記者会見で三上や捜査二課長たちと激闘を演じた数多くの共演者たちの演技の魅力も相まって、地味な演出の中にディティールの面白さを発見することができた。劇場版でも途中までそのようなアプローチを取りながら、途中から分かりやすくそのアプローチを放棄していく。好きか嫌いかと言われればまだ少し難しくて、ドラマ版の評価の高さを崩したくないのだけれど、とはいえこういう形で三上を書くのもアリだろう。

 それともうひとつ、最後の最後にこれは昭和64年の1月に始まった物語だったということを再確認させる演出がいい。これもかなり映画的なものであろうけれど、この演出は素直に評価していい。甦った「ロクヨン」はそもそも、世代を超えた数々の人々思いが交差した悲劇であり、再会だったはずだ。


2016年05月15日

欠けているものを探しに行こう ――『ちはやふる ―上の句―』、『ちはやふる ―下の句―』(日本、2016年)





 百人一首に載っている和歌にちなんで『上の句』と『下の句』との前後編に分かれて構成されたこの映画は原作をなぞるようにしてかるた部の結成から全国大会までを描いたものだ。とはいえ主役の三人が出会う小学生時代はバッサリとカットされていて、高校入学からの日々に焦点を当てているコンパクトさとセットになっている。そのかわり、小学生時代の思い出がたびたび回想シーンとして挿入されているところが、とりわけ『上の句』では重要な要素になっていると言える。

 千早が中心となって高校に部活を作る、仲間になるまでが『上の句』だとするならば、それはひとつの青春群像だ。しかし『下の句』はまた少し違った趣を見せる。今度は『上の句』で描いてきたキャラクター個人個人が躍動したり、あるいは思い悩んだりする。つくえくんや肉まんくんにはもはや気負うものはないし、かなちゃんも自分のやり方で着実に力をつけていき、みんなを見守る母性を醸し出す。問題は主役の三人で、いくらか予想されたような千早のフリーダムさが周囲を混乱に巻き込んでいく。近くに新太がいない以上、ストップをかけられるのは太一しかいない。しかしその太一も、そして新太にも克服しなければならない課題があるのが、ありていだが青春っぽくていい。

 若宮詩暢を演じる松岡茉優は『下の句』から初登場するが、瑞沢高校かるた部の輪の外にある彼女の存在が重要なのは悩める千早と新太の二人を駆動する(あるいは、かき回すと言ってもいいかもしれない)存在になっているところだ。アニメでもそうだったが、どこか上から目線で周囲をもはや相手にしていないかのように見える彼女の目線、振る舞いは松岡が非常にうまく演じており、真剣佑演じる新太の福井弁に負けず劣らず、松岡演じる詩暢の京都弁のドS感がたまらなくいい。ネイティブじゃないので二人の方言のナチュラルさについての判断は難しいが、大きな違和感なくハマっている印象を受けた。

 『上の句』ではゆるやかに成立しているように見えた三角関係は、『下の句』序盤での福井訪問をきっかけに少しあやしくなっていく。まっすぐすぎる千早には太一しか見えていない。その上で、詩暢というまだ出会わぬ存在を過剰に意識してしまう。過去の友人も遠すぎるライバルも、簡単に言ってしまえば手に届かない範囲の存在という意味では同じだ。幻想にすら映る。その彼女を冷静に認識できるのは太一しかいないが、太一もうまい策を持てておらず、かるた部というチームがガタガタになっていく展開は若さゆえの脆さでもあるのだろう。

 この二人と新太に欠けているものは知らぬ間に一人相撲してしまっているという現実に対する客観視だ。もちろん、一番欠けているのは千早で、彼女は一人で克服することなどできない。だから北央学園への出稽古でボロボロになるが、そのときにようやく彼女は一人でもがいていたことに気づく。対して太一は太一で、部長というなにか責任めいたものを背負ってしまう。要は、まだできたばかりのかるた部に仲間意識こそあれ、チームマネジメントの能力くはそなわっていないということだ。だから仲間の誰かが混乱しているときに、適切な解を出せない。

 三人とも、最終的には自分で答えを見つける。しかしその過程で、自分が一人ではないということを確かめる。千早にとっては無論二人がいるし、新太には千早がいて詩暢がいる。太一には千早がいると思っていたが、遠いようで近いところに因縁の相手である新太がいることを強く実感する。そしてかるた部の仲間たち。部のマネジメントはまだまだ不十分だろう。原作やアニメでは進級してからさらに部員が増える。映画のこのメンバーがどういふうにうまくやっていくかが気になるところ。
 
 新太、太一、千早がそれぞれ自分自身に欠けているものに気づくとき、物語は一気に加速していく。それはもちろん、三人の関係の変化からも逃れられないということだ。現時点で決定的なのは、太一は新太を一人のライバルとして改めて意識したと言うこと。原作やアニメのやや先取りとも言えるこの演出は、仮に千早を抜きにしても二人の関係が成立しうることを示すことにつながった。そして新太と千早の変化は、クイーンたる詩暢をも刺激していく。いや、刺激せずにはいられない。たとえ17枚の大差をつけて千早に勝ったとしても、「しのぶれど」の札を奪われた恨みをきっと、詩暢は忘れはしないはずだ。

 『下の句』の公開初日にめでたく続編の製作が決定したようだが、じっくりといいものを作り上げてほしい。高校一年の夏までの間だけで終わるのはさみしすぎる。なにより新太はまだほとんど札をとっていない。そして、詩暢の出番も、彼女の本気もまだまだ見たいところだ。気長に楽しく、続きの物語が見られることを待っていよう。





2016年05月10日

ある意味では日常系として ――『ヤクザと憲法』(日本、2015年)



監督:土方宏史 (※土の字は正確には土に、をつけたもの)
プロデューサー:阿武野勝彦
映像強力:関西テレビ
制作:東海テレビ放送
見:ソレイユ・2


 現代の日本アニメには日常系というジャンルがあって、その元祖が『あずまんが大王』であるとか、多くが原作を四コマまんがに持つとかするのだけれど、その日常系というのはかなり極端にまとめると特別な(=非日常的な)出来事があまり起こらない風景を描く作品だ。具体的には、主人公たちが暮らす学校や自宅のある街からほとんど出ていかなかった(『けいおん!』シリーズ、『ゆゆ式』など)り、そもそも空間的な移動をほとんど起こさない(『GJ部』や『じょしらく』のAパートなど)場合であったりといくつかのパターンに分類されるが、『ヤクザと憲法』もまたそうした日常系の作品群に位置づけることが案外可能なのではないかと思いながらこの特殊なドキュメンタリー作品を見ていた。

 96分の尺を持つ『ヤクザと憲法』は一般的なテレビシリーズのアニメに換算すると大体4話分強と言ったところだろう。パンフレットを見ると、ちょうど4つのタイトルがつけられそうだ。すなわち、第1話「ヤクザとドキュメンタリー」(映画そのものの導入)、第2話「ヤクザと警察」(警察とヤクザの攻防史と、現代の警察、暴対法の成立や暴排条例との関連)、第3話「ヤクザと弁護士」(法廷に立つ機会の多いヤクザとっての顧問弁護士の存在について)、そしてクライマックスとなる第4話「ヤクザと憲法」(ヤクザにとって権利とは、人権とは何か)といった感じだ。

 パンフレットにあるディレクターズノートを見ると、「ヤクザと憲法」というタイトルそのものはあとづけのものらしい。そもそもねらいは彼らの日常を撮影することであって、あとは「アマノジャク」な「ドキュメンタリーの神様」にゆだねようというスタンス。大阪の堺市にある二代目清勇会の事務所が撮影の舞台に選ばれた経緯やどのような取材交渉があったかは明らかにされてない。ただ、3点だけ。取材の謝礼はなし、収録テープ等は事前に見せない、モザイクは原則なしということは視聴者にも明らかにされる。要は、可能な限りの素を撮影しますがそれでいいですか、というヤクザ側からするとあまり好ましくない条件に見える。現に、清勇会の上位組織に当たる東組を撮影スタッフが訪れた際は(東組には取材許可を出していなかったせいかもしれないが)露骨に撮影を拒絶される。

 おそらくは東組のような対応がこの世界のベターなのだろうと思う。映画の中でもヤクザと警察権力をめぐる戦後史と現在がおおまかに紹介されるが、ヤクザにとってはより生きづらい社会になっているのは間違いない。存在自体は違法ではないが、ちょっとでもなにかしらの権利を行使しようとすると摩擦や衝突が起き、たとえ小さなことでも警察は立件しようとする。その実例として、清勇会の構成員が自家用車の修理代を保険会社と交渉していた際に、詐欺なのではないかと疑われるシーンがある。この構成員の生活にしばらく密着したあとのこのシーンはちょっとした緊迫感をはらむことになる。彼が違法性のある行為をただちにしたわけではない。しかし「ヤクザである」ということそれ自体がすぐさま困難になってしまうのだ。

 困難になっているのはとりわけ自由権だろう。近隣との関係を考えると居住移転の自由があるとはとうてい言えないし、銀行口座を作ったり保険を契約したりといった経済的自由も暴排条例以降はかなり困難になっている様が窺える。予告編でも少し明かされているが、会長である川口和秀が彼の自室で取材スタッフに明かす事例は権利侵害だと言ってもおかしくない事例ばかりだ。暴対法条例はなにも構成員だけを縛るものではなく、家族のような関係者にも影響を与えてしまう。とするならばヤクザの子どもは、親がヤクザというだけで保育園に入れなかったりするのだろうか。

 山口組の顧問弁護士を引き受けたことで茨の道を歩むことになった弁護士(正確には、現在は元弁護士である)山之内幸夫は微罪で逮捕された前例を持つ(裁判で無罪を勝ち取っている)弁護士だ。彼の中にある違和感、おかしいという衝動がヤクザの弁護士を引き受けたという同期だと語るが、そのことが結果的に他の顧客を減らし、仕事を減らし、複数いた事務員もベテランの女性一人という小さな小さな法律事務所へと変えてしまう。それでも、大阪人ゆえなのかどうかは分からないが、巨大な権力というものに対して抵抗しようとするその身のこなしの軽さはすがすがしいものがある。ある一つの縁が結びつけた山口組の弁護士という経歴は、山之内自身の人生も大きく変えるものになっていく。

 さて、ここまで来てこの映画における日常系という話に戻ろう。一つは明確なストーリーラインを持つことなく、大阪の堺市と大阪市から大きく外に出ることもなく撮影が行われているという点だ。大きく分けて、清勇会の事務所と、山之内弁護士事務所の二つの空間が撮影の主になり、そこでの語りであったり、くつろぎであったりを丹念に撮影している「だけ」のドキュメンタリーにすぎない。しかしそこにはやはりヤクザの世界というものがはっきりとあって、冒頭で流れている甲子園の映像とテーブルで動くお金からは、巨人の元選手が何人も関わったとされる野球賭博を容易に想像できる。(もちろん、想像できるだけで、賭博という言葉はただの一回も出てこない)

 もう一つ、あくまでヤクザの日常を撮影しようというスタンスだからこそ生まれた映像が多々あふれる点だ。ヤクザの生活空間というものは不思議なもので、そもそも構成員は組織にとって従業員なのかどうなのかも定かではない。どのような形で仕事が発生し、収入が発生し、また負担が発生しているのかもよくわからない。しかし彼らは当たり前のようにタバコを吸い、酒を飲み、若手構成員の入れてくれたコーヒーをすすり、本や新聞を読んだりする。もちろん厳しく明確な上下関係があるがゆえに怒号がとびかうこともあるし、それ以上の行為も起きたりする。しかしそこまでいってもやはり、カメラの前で明確な違法行為、それこそクスリであったりギャンブルであったりが行われているわけではない。もちろん、銃すら出てこない。

 つまり一見すれば何も起きていない、かのように見える。合法的な形で排除することをもくろむ警察にとってはもちろんそれは面白くない。だから小さなことでも穴を見つけるとつけいろうとする。実際に警察はある日突然やってくる。それこそがこの作品の中での唯一の非日常と言ってもいい。もう一つあげるならば葬儀のシーンだろうか。日常系のアニメに死を直接的に表現するシーンはふさわしくない。ただ、これがヤクザが主役ならば、死は身近にあってもおかしくはない。それすらも日常なのだ、というのはこれもフィクションの見過ぎだとあるメガネの構成員に怒られるかもしれないが。

 もう一度、何も起きていないかのように見える、という印象に戻ろう。日常系アニメの面白さはそうした何も起きていないかのような、無限にも続くと思わせるコミュニケーションの連鎖だ。そしてその面白さはこの映画とも共通してくる。つまり、ヤクザという特殊(に思える)な世界におけるコミュニケーションと人間ドラマ。それこそが、何も起きていないかのように見える映画の中で確実に繰り返されている確かなことであり、この映画の変えがたい魅力だ。事件そのものが魅力なのではない。このよく分からない、窮屈になっていく社会の中でも衆院選の投票日にはしっかり足を運ぶようなヤクザがいるということも含め、彼らの日常の風景をありありと見ることそのものが、このドキュメンタリーにとってもっとも重要な行為ではないか。あらゆる想像を頭の中ではりめぐらしながら。