2016年06月30日

瀬々敬久と佐藤浩市によるエモーショルな再構築 ――『64―ロクヨン― 後編』(日本、2016年)



 横山秀夫原作の『64』はまずはピエール瀧主演のNHKドラマ(全5話)で見て、その面白さから原作をとってまた興奮し、今回の映画にという流れになる。前編はタイミングを逃してしまって見ていないのだが(パンフレットだけは買った)、後編では原作やドラマとも違う展開になっているらしいと聞いて見ることにした。パンフレットには横山秀夫のコメントもあるが、改編する内容や展開については横山もいい印象を持っているらしい。主演の佐藤浩市をはじめとするスタッフと瀬々監督とのディスカッションも内容に盛り込まれたとあるだけに、スタッフと役者の共作とも言っていいのかもしれない。さてその結末は。

 この作品は警察の広報官という比較的地味な仕事にスポットをあてながら、ある大きな未解決事件(昭和64年に起きたことから、「ロクヨン」と呼ばれている)を背負ったしまった男たちの物語、という流れがある。ただ厳密には男たちだけではなく、何人かの女性も重要なポジションを果たしているし、刑事ドラマとしては新しいし、そもそも広報官が主役のドラマは厳密には刑事ドラマと呼べない。しかしその広報官である三上は元刑事という経歴を持つだけに、刑事ドラマに期せずして接近していく面白さははらんでいる。広報官という仕事をどう見せるのかというところと、刑事ドラマとしてのコミュニケーションや情熱、あるいは犯人を追いかける展開の面白さといった分かりやすい形の刑事ドラマとの間のバランスをどのようにとっていくかが演出の仕方で変わってくるのだ。

 簡単にまとめると、原作をほぼ踏襲した形のドラマ版と、より刑事ドラマとしての人間くさい、男くさい物語へと加速していく展開を見せる劇場版という差異がある。この点についてもパンフレットを読むと自覚的に構成が作られていて、瀬々自身は原作の魅力を認めながらも映画として成立するにはどうすべきか、という思案を重ねていることを明かしている。主演の佐藤浩市ももちろんその点は織り込んでいるし、他の共演者たちも本作がすぐれた日本映画になっていることを自負する。この時点で、この映画は単なる二度目の映像化というよりは、横山秀夫の原作を日本映画として再構築した、言わばオリジナル要素を多分に含む二次創作、と解釈してもいい。

 三上を演じた主役二人を比較してみよう。ピエール瀧の比較的地味な演技が光ることによって、組織人としての苦悩をあぶり出すことに成功したのがドラマ版だとするならば、組織人としていきる苦悩を持ちながらも刑事としての魂のような情熱と、父親として、というもうひとつの人間くさい要素を解放させる方向に佐藤浩市が歩みを進めていくのが劇場版だ。5話構成ということで原作をややはしょる形をとりながらも、たとえば報道協定をきっかけとしたマスコミとの激闘の様子を丁寧に書いたところが組織人としての苦悩をうまく表出していた。

 このシーンは映画ではドラマ版ほど長い尺をとっていないが、ドラマ版ではもはやループものと言ってもいいくらいの反復した演技を役者に強い、そしてその光景をつぶさにカメラにおさえることで、目に見えて分かる体力と気力の消耗を視聴者に強いインパクトとして訴えることに成功している。地味な撮影であるからこそ大きなインパクトを持つことができるのは、あらかじめ複数の話数を持つ連続ドラマの魅力のひとつだろう。尺そのものは劇場版もドラマ版もさほど大きくは変わらないが、話数という制限を持つドラマの場合では構成の方法がやはり違ってくる。

 パンフレットには直接的な言及はなかったが、ドラマ版はもちろん瀬々監督は「先行研究」として調査済みだろう。その上で構成を変えたからこそ、佐藤浩市の映画として成立する魅力と危うさが共存していると推測できる。もっとも、この二人の名前を最初に見つけたときに思い付いたのは大作『ヘヴンズストーリー』だっただけに、物語の終結に向けてエモーショナルな要素が大きくなっていくこともあらかじめ想像がついていた。最後まで禁欲的だったドラマ版とは対照的に欲を見せていくところでの危うさも同時に存在する。いままでの、組織人としての三上という像を破壊することは視聴者に対してどれだけの説得力を持つのかという危うさだ。

 そこにはドラマ版にはない一つの救済的アプローチがある。それは子どもたちの存在だ。この映画には重要な子どもたち、それも全員娘という形で4人の少女たちが登場する。ドラマ版にももちろん何人かは登場するが、広報官の三上を組織人として描くというアプローチからすると、子どもたちの存在はそれほど重要ではなかった。ただ劇場版では再び刑事化する三上と、父親としての三上をシンクロさせたクライマックスへと足取りを進めていく。このドラマチックさも、そういえば『ヘヴンズストーリー』で大きなインパクトを持っていたアプローチではあった。あの映画といちいち比較するのも意味はないと思うが、あの映画で出演者の一人であった佐藤浩市の頭の中にもなにかよぎるものがあったのではないか。彼自身も受け入れたはずの原作改編は、だからこそ成立したのではないか。

 ドラマ版では新井浩文や山本美月といった共演者たちや、記者会見で三上や捜査二課長たちと激闘を演じた数多くの共演者たちの演技の魅力も相まって、地味な演出の中にディティールの面白さを発見することができた。劇場版でも途中までそのようなアプローチを取りながら、途中から分かりやすくそのアプローチを放棄していく。好きか嫌いかと言われればまだ少し難しくて、ドラマ版の評価の高さを崩したくないのだけれど、とはいえこういう形で三上を書くのもアリだろう。

 それともうひとつ、最後の最後にこれは昭和64年の1月に始まった物語だったということを再確認させる演出がいい。これもかなり映画的なものであろうけれど、この演出は素直に評価していい。甦った「ロクヨン」はそもそも、世代を超えた数々の人々思いが交差した悲劇であり、再会だったはずだ。


2016年05月15日

欠けているものを探しに行こう ――『ちはやふる ―上の句―』、『ちはやふる ―下の句―』(日本、2016年)





 百人一首に載っている和歌にちなんで『上の句』と『下の句』との前後編に分かれて構成されたこの映画は原作をなぞるようにしてかるた部の結成から全国大会までを描いたものだ。とはいえ主役の三人が出会う小学生時代はバッサリとカットされていて、高校入学からの日々に焦点を当てているコンパクトさとセットになっている。そのかわり、小学生時代の思い出がたびたび回想シーンとして挿入されているところが、とりわけ『上の句』では重要な要素になっていると言える。

 千早が中心となって高校に部活を作る、仲間になるまでが『上の句』だとするならば、それはひとつの青春群像だ。しかし『下の句』はまた少し違った趣を見せる。今度は『上の句』で描いてきたキャラクター個人個人が躍動したり、あるいは思い悩んだりする。つくえくんや肉まんくんにはもはや気負うものはないし、かなちゃんも自分のやり方で着実に力をつけていき、みんなを見守る母性を醸し出す。問題は主役の三人で、いくらか予想されたような千早のフリーダムさが周囲を混乱に巻き込んでいく。近くに新太がいない以上、ストップをかけられるのは太一しかいない。しかしその太一も、そして新太にも克服しなければならない課題があるのが、ありていだが青春っぽくていい。

 若宮詩暢を演じる松岡茉優は『下の句』から初登場するが、瑞沢高校かるた部の輪の外にある彼女の存在が重要なのは悩める千早と新太の二人を駆動する(あるいは、かき回すと言ってもいいかもしれない)存在になっているところだ。アニメでもそうだったが、どこか上から目線で周囲をもはや相手にしていないかのように見える彼女の目線、振る舞いは松岡が非常にうまく演じており、真剣佑演じる新太の福井弁に負けず劣らず、松岡演じる詩暢の京都弁のドS感がたまらなくいい。ネイティブじゃないので二人の方言のナチュラルさについての判断は難しいが、大きな違和感なくハマっている印象を受けた。

 『上の句』ではゆるやかに成立しているように見えた三角関係は、『下の句』序盤での福井訪問をきっかけに少しあやしくなっていく。まっすぐすぎる千早には太一しか見えていない。その上で、詩暢というまだ出会わぬ存在を過剰に意識してしまう。過去の友人も遠すぎるライバルも、簡単に言ってしまえば手に届かない範囲の存在という意味では同じだ。幻想にすら映る。その彼女を冷静に認識できるのは太一しかいないが、太一もうまい策を持てておらず、かるた部というチームがガタガタになっていく展開は若さゆえの脆さでもあるのだろう。

 この二人と新太に欠けているものは知らぬ間に一人相撲してしまっているという現実に対する客観視だ。もちろん、一番欠けているのは千早で、彼女は一人で克服することなどできない。だから北央学園への出稽古でボロボロになるが、そのときにようやく彼女は一人でもがいていたことに気づく。対して太一は太一で、部長というなにか責任めいたものを背負ってしまう。要は、まだできたばかりのかるた部に仲間意識こそあれ、チームマネジメントの能力くはそなわっていないということだ。だから仲間の誰かが混乱しているときに、適切な解を出せない。

 三人とも、最終的には自分で答えを見つける。しかしその過程で、自分が一人ではないということを確かめる。千早にとっては無論二人がいるし、新太には千早がいて詩暢がいる。太一には千早がいると思っていたが、遠いようで近いところに因縁の相手である新太がいることを強く実感する。そしてかるた部の仲間たち。部のマネジメントはまだまだ不十分だろう。原作やアニメでは進級してからさらに部員が増える。映画のこのメンバーがどういふうにうまくやっていくかが気になるところ。
 
 新太、太一、千早がそれぞれ自分自身に欠けているものに気づくとき、物語は一気に加速していく。それはもちろん、三人の関係の変化からも逃れられないということだ。現時点で決定的なのは、太一は新太を一人のライバルとして改めて意識したと言うこと。原作やアニメのやや先取りとも言えるこの演出は、仮に千早を抜きにしても二人の関係が成立しうることを示すことにつながった。そして新太と千早の変化は、クイーンたる詩暢をも刺激していく。いや、刺激せずにはいられない。たとえ17枚の大差をつけて千早に勝ったとしても、「しのぶれど」の札を奪われた恨みをきっと、詩暢は忘れはしないはずだ。

 『下の句』の公開初日にめでたく続編の製作が決定したようだが、じっくりといいものを作り上げてほしい。高校一年の夏までの間だけで終わるのはさみしすぎる。なにより新太はまだほとんど札をとっていない。そして、詩暢の出番も、彼女の本気もまだまだ見たいところだ。気長に楽しく、続きの物語が見られることを待っていよう。





2016年05月10日

ある意味では日常系として ――『ヤクザと憲法』(日本、2015年)



監督:土方宏史 (※土の字は正確には土に、をつけたもの)
プロデューサー:阿武野勝彦
映像強力:関西テレビ
制作:東海テレビ放送
見:ソレイユ・2


 現代の日本アニメには日常系というジャンルがあって、その元祖が『あずまんが大王』であるとか、多くが原作を四コマまんがに持つとかするのだけれど、その日常系というのはかなり極端にまとめると特別な(=非日常的な)出来事があまり起こらない風景を描く作品だ。具体的には、主人公たちが暮らす学校や自宅のある街からほとんど出ていかなかった(『けいおん!』シリーズ、『ゆゆ式』など)り、そもそも空間的な移動をほとんど起こさない(『GJ部』や『じょしらく』のAパートなど)場合であったりといくつかのパターンに分類されるが、『ヤクザと憲法』もまたそうした日常系の作品群に位置づけることが案外可能なのではないかと思いながらこの特殊なドキュメンタリー作品を見ていた。

 96分の尺を持つ『ヤクザと憲法』は一般的なテレビシリーズのアニメに換算すると大体4話分強と言ったところだろう。パンフレットを見ると、ちょうど4つのタイトルがつけられそうだ。すなわち、第1話「ヤクザとドキュメンタリー」(映画そのものの導入)、第2話「ヤクザと警察」(警察とヤクザの攻防史と、現代の警察、暴対法の成立や暴排条例との関連)、第3話「ヤクザと弁護士」(法廷に立つ機会の多いヤクザとっての顧問弁護士の存在について)、そしてクライマックスとなる第4話「ヤクザと憲法」(ヤクザにとって権利とは、人権とは何か)といった感じだ。

 パンフレットにあるディレクターズノートを見ると、「ヤクザと憲法」というタイトルそのものはあとづけのものらしい。そもそもねらいは彼らの日常を撮影することであって、あとは「アマノジャク」な「ドキュメンタリーの神様」にゆだねようというスタンス。大阪の堺市にある二代目清勇会の事務所が撮影の舞台に選ばれた経緯やどのような取材交渉があったかは明らかにされてない。ただ、3点だけ。取材の謝礼はなし、収録テープ等は事前に見せない、モザイクは原則なしということは視聴者にも明らかにされる。要は、可能な限りの素を撮影しますがそれでいいですか、というヤクザ側からするとあまり好ましくない条件に見える。現に、清勇会の上位組織に当たる東組を撮影スタッフが訪れた際は(東組には取材許可を出していなかったせいかもしれないが)露骨に撮影を拒絶される。

 おそらくは東組のような対応がこの世界のベターなのだろうと思う。映画の中でもヤクザと警察権力をめぐる戦後史と現在がおおまかに紹介されるが、ヤクザにとってはより生きづらい社会になっているのは間違いない。存在自体は違法ではないが、ちょっとでもなにかしらの権利を行使しようとすると摩擦や衝突が起き、たとえ小さなことでも警察は立件しようとする。その実例として、清勇会の構成員が自家用車の修理代を保険会社と交渉していた際に、詐欺なのではないかと疑われるシーンがある。この構成員の生活にしばらく密着したあとのこのシーンはちょっとした緊迫感をはらむことになる。彼が違法性のある行為をただちにしたわけではない。しかし「ヤクザである」ということそれ自体がすぐさま困難になってしまうのだ。

 困難になっているのはとりわけ自由権だろう。近隣との関係を考えると居住移転の自由があるとはとうてい言えないし、銀行口座を作ったり保険を契約したりといった経済的自由も暴排条例以降はかなり困難になっている様が窺える。予告編でも少し明かされているが、会長である川口和秀が彼の自室で取材スタッフに明かす事例は権利侵害だと言ってもおかしくない事例ばかりだ。暴対法条例はなにも構成員だけを縛るものではなく、家族のような関係者にも影響を与えてしまう。とするならばヤクザの子どもは、親がヤクザというだけで保育園に入れなかったりするのだろうか。

 山口組の顧問弁護士を引き受けたことで茨の道を歩むことになった弁護士(正確には、現在は元弁護士である)山之内幸夫は微罪で逮捕された前例を持つ(裁判で無罪を勝ち取っている)弁護士だ。彼の中にある違和感、おかしいという衝動がヤクザの弁護士を引き受けたという同期だと語るが、そのことが結果的に他の顧客を減らし、仕事を減らし、複数いた事務員もベテランの女性一人という小さな小さな法律事務所へと変えてしまう。それでも、大阪人ゆえなのかどうかは分からないが、巨大な権力というものに対して抵抗しようとするその身のこなしの軽さはすがすがしいものがある。ある一つの縁が結びつけた山口組の弁護士という経歴は、山之内自身の人生も大きく変えるものになっていく。

 さて、ここまで来てこの映画における日常系という話に戻ろう。一つは明確なストーリーラインを持つことなく、大阪の堺市と大阪市から大きく外に出ることもなく撮影が行われているという点だ。大きく分けて、清勇会の事務所と、山之内弁護士事務所の二つの空間が撮影の主になり、そこでの語りであったり、くつろぎであったりを丹念に撮影している「だけ」のドキュメンタリーにすぎない。しかしそこにはやはりヤクザの世界というものがはっきりとあって、冒頭で流れている甲子園の映像とテーブルで動くお金からは、巨人の元選手が何人も関わったとされる野球賭博を容易に想像できる。(もちろん、想像できるだけで、賭博という言葉はただの一回も出てこない)

 もう一つ、あくまでヤクザの日常を撮影しようというスタンスだからこそ生まれた映像が多々あふれる点だ。ヤクザの生活空間というものは不思議なもので、そもそも構成員は組織にとって従業員なのかどうなのかも定かではない。どのような形で仕事が発生し、収入が発生し、また負担が発生しているのかもよくわからない。しかし彼らは当たり前のようにタバコを吸い、酒を飲み、若手構成員の入れてくれたコーヒーをすすり、本や新聞を読んだりする。もちろん厳しく明確な上下関係があるがゆえに怒号がとびかうこともあるし、それ以上の行為も起きたりする。しかしそこまでいってもやはり、カメラの前で明確な違法行為、それこそクスリであったりギャンブルであったりが行われているわけではない。もちろん、銃すら出てこない。

 つまり一見すれば何も起きていない、かのように見える。合法的な形で排除することをもくろむ警察にとってはもちろんそれは面白くない。だから小さなことでも穴を見つけるとつけいろうとする。実際に警察はある日突然やってくる。それこそがこの作品の中での唯一の非日常と言ってもいい。もう一つあげるならば葬儀のシーンだろうか。日常系のアニメに死を直接的に表現するシーンはふさわしくない。ただ、これがヤクザが主役ならば、死は身近にあってもおかしくはない。それすらも日常なのだ、というのはこれもフィクションの見過ぎだとあるメガネの構成員に怒られるかもしれないが。

 もう一度、何も起きていないかのように見える、という印象に戻ろう。日常系アニメの面白さはそうした何も起きていないかのような、無限にも続くと思わせるコミュニケーションの連鎖だ。そしてその面白さはこの映画とも共通してくる。つまり、ヤクザという特殊(に思える)な世界におけるコミュニケーションと人間ドラマ。それこそが、何も起きていないかのように見える映画の中で確実に繰り返されている確かなことであり、この映画の変えがたい魅力だ。事件そのものが魅力なのではない。このよく分からない、窮屈になっていく社会の中でも衆院選の投票日にはしっかり足を運ぶようなヤクザがいるということも含め、彼らの日常の風景をありありと見ることそのものが、このドキュメンタリーにとってもっとも重要な行為ではないか。あらゆる想像を頭の中ではりめぐらしながら。
2016年04月25日

高坂麗奈へとたどりつくまでの奇跡的な軌跡 ――『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(日本、2016年)


監督:石原立也
脚本:花田十輝
出演:黒沢ともよ(黄前久美子役)、朝井彩加(加藤葉月役)、豊田萌絵(川島緑輝役)、安済知佳(高坂麗奈役) 他
制作:京都アニメーション
見:イオンシネマ綾川



 公開初日からネット上の評判は芳しく、自分のよく知っている人たちの何人かが初日に足を運んでいたためこれはいかなくてはと思い、綾川のイオンシネマまで足を伸ばして鑑賞してきた。この前は宇多津のイオンシネマで『同級生』を見ることができたし、高松市内では難しくても少し足を伸ばせば評判のアニメ映画を直に見られる環境が香川にもあるということは悪くない。かつての、たとえば『時をかける少女』を見に行ったのが夏ではなくもはや秋だった10年前を考えると、少し隔世の感もある。

 ということはひとまずさておき、テレビシリーズを劇場版に再構成したこの映画はクライマックスからうまく引き算した形の完成度となっていた。ということは後半部分、とりわけ終盤の京都府の吹奏楽コンクールとそれに至るまでの一連の展開(県大会出場者を選ぶためのオーディション、県大会までの「ガチ」な練習の日々、高坂麗奈と中世古香織によるトランペットのソロパートをかけたオーディション)が中心となる。アニメの話数で言うと9話以降の5話分に、映画ではほぼ半分の時間を費やしていた。ちなみに9話のひとつ手前にあたる8話は、(もはや説明するまでもないかもしれないが)あがた祭りの喧騒から離れた麗奈と黄前久美子による象徴的な「愛の告白」に至るシーンだ。

 麗奈と久美子の関係を強固にする象徴的な8話や、サンライズフェスティバルを描いた5話をいずれも前半に織り込んで後半の県大会にぶつけてくるということは、過剰なだけの説明を省略しているという戦略につながっている。ねりまさんがブログの中で触れているように、「『黄前久美子が高坂麗奈を知ることを通して変化する物語』を軸に再構成されている」のがこの映画の構成であり、戦略だろう。(*1) つまり、二人が同時に登場する様々なシーンを描くことで捨象されてしまうキャラクターたちが多数存在することによって劇場版は成り立っていると言っていい。1年生4人組のうち川島緑輝や加藤葉月の目立つシーンはさほど多くない。特に前半では久美子を含めた3人の絡みが描かれていたが、麗奈の存在感が増してくるにしたがって緑輝や葉月の登場回数は減っていく。

 他の先輩キャラクター、たとえばポニテ先輩という愛称でネットでは知られている中川夏紀の葛藤はほとんど描かれないままにオーディションのエピソードへと入っていく。吉川優子が高坂麗奈を前にして語ったように、現2年生たちは部の中でかつて小さくはない騒動を起こした学年であり、夏紀もその2年生の一人だ。夏紀や優子たちの苦悩や、あるいは部長と副部長の関係である小笠原晴香と田中あすかの間の葛藤にも入りこまない。もはやなかったかのようにされることで、逆にクライマックスである県大会へのダイナミックさを生み出す。

 こうした展開の軸になっているのはまぎれもなく麗奈であり、その麗奈を映し出しているのは彼女にこがれてやまない久美子の視点だ。久美子が見る麗奈、それは中学三年生時のコンクールで麗奈が流していた涙の意味を久美子が知るまでの軌跡。もっと言えば、久美子が「あのときの麗奈になる」までの軌跡だと言っていいだろう。あのとき麗奈の持っていた悔しさを素直に共有できなかった久美子は、約1年経ってようやく自分の中にもっと上手くなりたいという気持ちを知る。それは後に麗奈が久美子に対して語った特別になりたいという気持ちと重なっているし、さらには中三のときの涙の意味を知るに至る要因でもあるのだ。一年かけてようやく、そして不意に、久美子はあのときの麗奈の立っていたところに立つことができた。その時の久美子に涙が浮かんでいることも、彼女が思わず走りだしてしまっていることも、一年前の麗奈の立ち位置にたどり着いたからこそだろう。

 このへんはねりまさんがテレビシリーズの感想記事で詳しく書いていることと重なるのでこれ以上はあまり触れない。(*2) その上で、久美子という視点をひとつ外すと劇場版ではもう一人麗奈に並び立とうとする存在がいることに気づかされる。それがトランペットの3年生、中世古香織だ。再オーディションを滝先生が提示したときに、手を挙げたのも唯一彼女だった。優子曰く、2年生の時の彼女はもっともトランペットがうまかったにも関わらず序列でコンクールでソロパートに入ることができず、結果として全然練習していない3年生が当時のソロパートに入ってしまった。だから香織は最後である3年生の夏こそ絶対にソロで吹きたいと思っているはずだ、と。優子が多くのことを代弁してしまうがゆえに香織自身はあまり多くのことを語らないが、あのとき音楽室で真っ先に手を挙げた彼女の思いの裏に様々な思いがあることは、優子の話を聞く限り想像に難くない。

 劇場版が描き出そうとした奇跡的な軌跡は二つ。一つはすでに触れた黄前久美子の場合であり、もうひとつは中世古香織の場合だ。久美子にとっての奇跡は他の同級生がいなさそうな北宇治高校を選んだのになぜか麗奈がいたこと。香織の場合の奇跡は、一度は落選したはずのオーディションで再チャンスが与えられたことだ。ともに一年前、久美子は中3の夏、香織が高2の夏に得られなかったものを得るための軌跡だということが、つまり二人には一年間という時間の積み重ねがあってようやく高坂麗奈にたどり着くことができるという過程が非常に面白い。軌跡のたどるアプローチは全然違うのに、高坂麗奈という天才的なルーキーを、もはや無視することはできないのだ。その実力と、奔放でしかしながら魅力的なキャラクターゆえに。

 久美子の場合とは違い、香織の場合は二度目の奇跡は起きない。いや、起こさせないことを自分で選択するのが香織の場合だ、とも言えるだろう。滝先生は練習用に貸しきったホールを使って、他の部員の前で麗奈と香織との再オーディションを実行する。閉ざされた教室という密室ではなく、他の部員という公然とした場面においてならばもはや異論はないだろうとの思いからだ。しかし実際に滝先生は大勢の「みんな」ではなく、他でもない香織自身に決断を迫る。この滝の考えが非常にうまいなと思ったのは、みんなではなく自分で決めさせることで、みんなの納得と同時に香織自身の納得を重視したからだ。仮にみんなが香織を選んだところで香織が香織自身を選ぶことができるかどうかと言えば、それは違う。香織自身も麗奈の演奏を聴いている一人の当事者である以上、その自分に嘘をつくことは相当に難しい。ましてや自分の能力に自信に満ちてやまない、麗奈のいる前では。

 テレビシリーズから追加的に作られたエピソードでは、オーディション落選組の中にも小さな奇跡が生まれていたことを舞台裏の視点で描いていた。(*3) 劇場版では構成の都合上、基本的に表側を描くことしかできない。だから夏紀も、1年生4人組では唯一選外となった葉月も存在感は薄い。けれども、コンクールに出られる、出られなかったは別にして全員が吹奏楽部の部員ではある。だから最後に起こった最大の奇跡を、制服の異なる(コンクール組は冬服だが落選組は夏服)彼ら彼女らは分け隔てなく喜びを分かち合っている。まぎれもなく「みんなの奇跡」になったのは、香織と麗奈のオーディションの結末を、香織の決断をみんなで分かち合ったからではないだろうか。この事実の大きさを、劇場版で改めて感じることができたし、そういう風に仕向けた戦略なのだろうと解釈することができる。

 基本的な軸は麗奈と久美子に置きながらも、みんなで起こした夏の奇跡にするために再オーディションのエピソードを盛大に配置する。テレビ画面、あるいは配信画面ではなく、劇場というこれもまたひとつのホールで再オーディションのトランペットソロパートを聴く時の緊張感はたまらないし、麗奈と香織を見守る観客もまた、他の部員たちの視点ときれいに重なっているのではないだろうか。たとえその結末をテレビシリーズで見て知っていたとしても、あれほど広い場所でたった一人で奏でられるトランペットに思わず聞き入られずにはいられない。

 結局のところ言いたいことはこうだ。劇場に見に行ってこそこの劇場版の価値が上がる、というか限りなく映画館仕様に再構成されている。サンライズフェスティバルも8話も再オーディションも、全部あの大画面で見ることができるのだ、という喜びをもう一度体験することができる。ポニテ先輩好きとしては劇場版の生み出した戦略や新しい解釈に不満がないわけではないが、中世古香織というキャラクターをすごく好きになることができたのは新鮮が驚きであり、喜びだった。麗奈とはまた違う強さを香織が持っていることにようやく気づくことができたし、もっと上手くなりたいという久美子の思いはきっと、みんなにもシンクロしているはずだと強く確信できる。

 最後に一つだけ。コンクールに向けた練習中に、「ずっとこのまま夏が続けばいいのに」とついこぼしてしまったときの田中あすかのちょっとしたもろさが、とても好きだ。彼女とてパーフェクトではない、だからこそとても。


◆注釈
*1 ねりま「彼女を知る、そして私も変わる――『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』」(2016年4月24日)
 『アイカツ!』の有栖川おとめ役や文化放送A&Gでやってる番組なんかを見ても黒沢ともよすげえ、とよく思うわけだけど、この映画の後半に向けてギアを変えていくあたりはなかなかに圧巻で、「クライマックスの「上手くなりたい」という魂の叫びはより強烈に胸を打つ」というのはほんとうにそのとおりだった。テレビシリーズで見て知っているはずなのに、と。

*2 ねりま「特別さ」と二つの涙 ――『響け!ユーフォニアム』感想」(2016年2月13日) 
 高坂麗奈や黄前久美子の「特別さ」の探究(あるいはそれによる十字架)と同じ京アニの『氷菓』を並べるあたりはねりまさんらしい面白い見方だなと思った。『氷菓』のことを考えると、青春というのは多数者の平凡と少数者の特別さによって形作られるなのかもしれない。『響け!ユーフォニアム』と絡めてみれば、吹奏楽という「チームプレ−」にはどちらも必要な存在だ。

*3 BD、DVDの最終巻にあたる7巻に収録されているエピソード。葉月の明るさと元気さはとても好きだったので、彼女のその持ち前のエネルギーが大活躍するのがとても楽しいエピソード。舞台には立てなかった彼女にとっても、夏は輝く。
2016年04月20日

異質な相手だからこそ可能性が生まれる ――加藤秀行『シェア』(文藝春秋、2016年)


 表題作の「シェア」が芥川賞候補になっていたので読んでみたのだが、これが予想外に面白く、受賞するのはおそらく滝口悠生だと読んでいたがこちらも別な角度からもっと評価されていい小説だと思った。純文学として読むにはいささか軽さが際立ってはいるものの、表題作の「シェア」も、文学界受賞作を受賞した「サバイブ」も異質な他者と共存する方法をめぐる小説だ。前者が女性同士、後者が男性同士のホモソーシャルになっていて、百合ともBLとも読めなくないような構造になっているが、同性である相手に不思議と惹かれていくのはなぜなのかであったり、それぞれ仕事、家事という関係で共同して生活する中に何が見つかるのだろうか、という探求は文学的な好奇心に満ちている。

 「シェア」は池袋でAirbnbのような民泊システムを立ち上げて運営する元IT企業勤務のデザイナーであるミワと、ベトナム人留学生であるプログラマーのミーの物語。タイトルにあるシェアは私とミーの共同作業のことをも表すのだろうが、民泊という形で見知らぬ誰かと部屋をシェアするという意味もこめられている。あともう一つ、ミワが元夫との間で元夫の立ち上げた会社の株をシェアしているという状況をも指すかもしれない。いずれにせよ、シェアによる可能性と窮屈さの先に何が見えてくるのかという探求だ。

 池袋の前は荒川の一軒家で民泊を運営していた二人だが、ご近所の視線というマイナス要因によって池袋のマンションへと方向性をチェンジする。「サバイブ」もそうだが、同性同士の関係を書きながら外部から異性がやってくることで物語が加速していくところもポイントだろう。私は元夫との関係をなんとかしなければならないし、ミーはいつのまにか同じマンションで一人暮らしをしている男子大学生から分かりやすい好意を向けられてしまう。それでもそんなことは小さな壁でしかない二人にとってはロジックを使って乗り越えていこうとする。ミワもミーも、基本的に現代的でエネルギッシュな女性だ。男なんて、という思考は常に垣間見えるし、ミーの場合は日本社会なんて、という俯瞰すら持っていたりする。

 ミワはミーのそうした怖い者知らずなところに私は汗をかいたりするが、ミーは奔放なままに大学生との「勉強会」や就活の面接にも行ったりする。楽勝という本人の言と私の実感が食い違うところはまさにコモンセンスや慣習の違いがあらわになるところだろうけれど、私とミーの関係はしかしそうした差異があるからこそ成立していることが逆に強調されるのではないか。ミーは奔放ながらもミワを慕い、日本でミワのビジネスを支える。ミワはミーの奔放さと素直さを嫌いになれないどころか惹かれてゆく。もちろんふたりがどうなる、というタイプの小説ではないが、日本社会で女性が、しかもミーのような異国の女性が「活躍」するなんてのはまだまだ難しいだろう。能力があったとしても様々なものが彼女たちと阻む。だけれど、だからこそ、二人なら大丈夫だと言える強さを二人は持っている。

 対して「サバイブ」のダイスケは客観的には持たざる者だ。しかしともにハイスペックで高年収の亮介、ケーヤ(と、犬のマイケル)との共同生活の中では彼は持てる者になる。家事は万能、料理も洗濯も掃除もばっちりこなす。請われればフットサルチームの助っ人にも参戦する。自分自身が二人のような存在と同居することに違和感を捨てられないダイスケは女じゃなくていいのか、と聞くがお前でいいよ、と返されるのだ。飲食店で働くフリーターのダイスケにとっては、亮介とケーヤの与えてくれる承認は単なる存在の肯定ではなく、自分自身も持たざる者ではない、という自負を与えてくれることだろう。

 そのダイスケの前にレナという女性が現れる。彼女もまたハイスペックで高年収の部類で、高級マンションで一人暮らしをしている。「頭を使う人と時間を共有すると成長するのよ」(p.178)と語る彼女は奨学金女という異名を持っており、慶應大学在学時に授業料免除を得るために努力をしたという、天才肌とは違うタイプだ。対して、亮介とケーヤの過去はあまり明らかにされない。ダイスケと二人の会話の中で昔どうだったの、という話題が出ることもあるが、亮介とケーヤの現在はいくらか見えている程度だ。だからこそ終盤にダイスケが下した決断に対するケーヤの態度と亮介の態度の差異にダイスケは驚く。二人を保証するものがなんだったのかを、垣間見ることになるのだ。

 「シェア」における異性、つまり男性キャラクターはあまり好意的に書かれないしさほど魅力的とは言えなかった。対して「サバイブ」のレナは非常に魅力的だ。彼女がダイスケの何を気に入ったのかは最後にほんの少し明らかにされるだけだが、同じハイスペックな高年収クラスタの亮介とケーヤとは少し違う匂いがする。彼女自身が努力の人であり、また自分自身の努力の可能性と限界をはっきりと見据えているからだろうか。(それはケーヤに欠けていたことかもしれない)

 いくら近くにいたとしても、他人はしょせん他人かもしれない。しかし他人だからこそ見えてくる可能性がある。それにどれだけ賭けることができるだろうというのが、ミワとダイスケの持っていた問いだ。二人はそれぞれ違った決断を下すが、どちらが正解とは言えない。決断はいずれまた成さねばならないかもしれない。ただ重要なのは、身近な他人とのコミュニケーションの密度だ。お互いをもっと知っていくこと、それができなければ可能性はしぼんでいくが、それさえできれば可能性は開けていく。たとえば、「サバイブ」のダイスケがレナに対して抱く好奇心、つまり彼女と彼女の部屋に見た「コード」に。


文學界2015年6月号
文藝春秋
2015-05-07