2016年09月14日

2016年の新海誠がはじまった場所として ――『雲のむこう、約束の場所』(日本、2004年)



 一番最初に見た新海作品が『秒速5センチメートル』で、確か大学一年の冬だったと思う。大学から馬場歩きをする途中のTSUTAYA高田馬場店のアニメコーナーでプッシュされていたから手をとった、くらいの動機で今回レビューする『雲のむこう、約束の場所』や『ほしのこえ』を見るのはそのあとの話だ。ようやくリアルタイムで劇場で見たのが『星を追う子ども』で、そのあと『言の葉の庭』、『君の名は。』と続けて劇場で見てきた。

 『君の名は。』のプロデューサーをつとめた東宝の川村元気は『Febri』vol.37ののインタビューで、『秒速』までの三作をアーリーワークス三部作と読んでいるが、テーマ性や規模感を考えるとそういうふうにとらえるのが妥当なのだろう。言及はなかったが、そこに『彼女と彼女の猫』や『遠い世界』をつなげてもいい。明らかに飛躍が見られる『星を追う子ども』以降の作品とそれ以前はなにかが違う。そういえばコミックスウェーブフィルムの川口代表(伊藤Pだったかもしれないが)も、『秒速』までで新海誠はやりたいことをやってしまった、とどこかで語っていた気がする。

Febri Vol.37
一迅社
2016-09-10


 いつものように前置きが長くなってしまったが、劇場公開二作目となったのが『雲のむこう』である。ほぼ一人で完成させた『ほしのこえ』から2年経ち、いまにつらなるチーム新海としての最初の作品だともいえる。30分に満たない『ほしのこえ』は短編と言っていいだろうから、約90分の尺を持つ本作は新海にとっての実質的な劇場デビュー作と言ってもいいかもしれない。アマチュアからプロへと歩みだした一作なのは間違いないし、インディーズからメジャーへというような規模感を制作陣だけでなく内容の中にもこめている。

 これから先の長い目で見ると圧倒的な知名度と観客動員を獲得した(現在進行形で、している)『君の名は。』はある意味二度目のデビューと言ってもいいかもしれないが、その12年前、ちょうど干支が一回りするくらいの時期に『雲のむこう』が公開されていたというのはなかなか面白い。そしてこれも『Febri』で新海自身が語っているように、『君の名は。』は『雲のむこう』をリバイズしたようなものでもあるのだ。

自分としては、稚拙さが目立つ――特に、物語面での手つきの危うさばかりが気になってしまう作品なのですが、個人的に今回の『君の名は。』は、この『雲のむこう、約束の場所』の語り直しという気持ちが強いんです。夢での淡いつながりであったり、出会うべき人と夢で出会う時間であったり・・・・・・。『雲のむこう、約束の場所』を作ったときに感じた「もっとうまくできるハズなのに」という思いが『君の名は。』になっているのかな、と思います。あと、今の作品につながるビジュアル的な手法も、この作品の制作を通じて身につけたもので、今の制作チームの基礎ができたのもこの『雲のむこう、約束の場所』だと言える。 『Febri』vol.37(一迅社、2016年)、p.41


 このように2004年は2016年の始まった場所だ、ととらえるのは自身の作品に饒舌な新海が自覚的に語っている。新海は2005年に『雲のむこう、約束の場所 新海誠2002―2004』というロングインタビュー集も刊行しているが、一人の個人としての彼自身の原点でもある故郷のこと、学生時代のこと、ゲーム会社である日本ファルコムに就職してからの日々のことなどをかなり饒舌に、具体的に語っている。



 他にも不定期に日記をつけていたことや過去の恋愛話など、最近の、とりわけ『君の名は。』関連のインタビューで見る新海誠の弁には見えてこない別の饒舌さがあるのは、この当時がほんとうに世の中に出てきた瞬間だったからでもあるだろう。『彼女と彼女の猫』や『ほしのこえ』で賞賛を浴びる中で、まだアニメーション監督として一人立ちを始めたばかり。新海自身は自分自身をキャラクターに投影することはないとたびたび語っているが、『雲のむこう』に登場する藤沢浩紀と白川拓也はこの当時の新海の一部が入り込んでいるように見えてしまう。

 あらすじを整理すると、『雲のむこう』の舞台となっている日本は現実とは異なる戦後を迎えた世界で、青森と北海道の間が国境になっている。北海道は蝦夷と呼ばれ、ユニオンという国家群の統治となっていて、アメリカと対立している。擬似的な冷戦が90年代になっても続いたままになっている、とも言えるだろう。この世界の青森で生まれ育った浩紀と拓也は蝦夷にそびえるユニオンが作った高い一本の塔まで飛びたくて、小さな飛行機を自作する。二人はともに沢渡佐由理にほのかな恋心を抱いており、浩紀のちょっとした勧誘が佐由理を飛行機を作る二人のラボに招き入れる。しかし飛行機は完成せず、時は流れていく。

 その後、3年後の浩紀や拓也の姿が描かれるが、佐由理は謎の眠りについたままになってる。浩紀は東京に拠を移して拓也とは疎遠になっているが、あることをきっかけに佐由理との3年越しの再会を目指す浩紀と拓也が再び出会うことで物語は再び動き出して行くのだ。浩紀は東京で懇意にしている女子がいるが、佐由理という過去の片想いを引きずったまま忘れられない。一人暮らしの部屋では佐由理が得意だったバイオリンの練習をするシーンが一つだけあるが、殺風景で雑然とした部屋の中で奏でられる(おそらく独学ゆえにあまり上手とは言えない)バイオリンの音色は、虚しく響いていく。ただこの音は、佐由理の奏でていた音をやはり喚起させるものになっている。そうした象徴的なシーンが、第一部にあたる青森編にあるからだ。

 新海が『Febri』で語っているように、佐由理は3年間もの間長い夢を見ている。夢の中では一人きりで、閉じ込められたままになっているが、不意に浩紀と再会を果たすこともできるのだ。『君の名は。』では夢の中で入れ替わっているという設定(さらに、それが夢ではなかった、というトリック)になっているが、夢の中では現実でかなわないことが実現される、そしてそれは恋心(のようなもの)が元になっている、というのは似ていると言えるだろう。入れ替わりを繰り返すことで惹かれていく瀧と三葉とはまた事情が異なるが、遠く離れているからこそかすかな想いが大事になってくるという点も非常によく似ている。浩紀と佐由理は必然的に一人で過ごすシーンが多いゆえにモノローグを多様する結果になってはいるが、『秒速』とは違ってそれは一方的な感傷ではなく、二人が想い合うことによるものだ。『君の名は。』のラストシーンは『秒速』で描かれなかったアナザーという指摘を多く目にしたが、『君の名は。』の原点が『雲のむこう』にあることを考えると、想い合う二人が最後は感動的な出会いを(『雲のむこう』の場合は再会になるが)果たすのも、ある意味予測できたことかもしれない。

 個人的にもう一つ重要だと思っているのは、群像劇仕立てだということだ。これについても新海は『EYESCREAM』増刊で饒舌に語っているが、『彼女と彼女の猫』では1人(主人公である「彼女」)、『ほしのこえ』では2人(ノボルとミカコ)と来て『雲のむこう』では3人を主役に据える展開になっているということ。その上で、3年という時間のスパンを経て浩紀と拓也の二人の成長を異なる形にして表現していること。先ほど挙げたロングインタビュー集でも度々文学作品に言及しているが、いわばビルドゥングスロマンとしての長編映画としてとらえることも、おそらく新海のねらいの中にある。個人の成長と挫折を分かりやすく表現したのはもちろん次の『秒速』になるだろうが、その原型もいくらかつまっているのが『雲のむこう』だと言える。



 ここで浩紀と拓也を違った形で表現するのはそれぞれ違う形で佐由理へのアプローチを探っていたから、という結論になるのだけれど、それ以上に10代の男の子の歩く姿として分かりやすく対立軸を作ったのだろうな、と思いながら見ていた。浩紀の純粋さも、拓也の挫折も、度合いは違うけれど二人がそれらを同時に持っていたとしてもおかしくはない。その上であえて違う姿を書いて見せたから、今後の新海作品でもなかなか見られないであろう「男同士の拳での殴り合い」という描写も生まれている。それは一方的に孝雄がなぐられる『言の葉の庭』のケンカシーンとは違っていて、拳を通じてでしかお互いの思いをうまく表現することができない10代の未熟さと、同時に青春の痛さを表現していることになっている。

 今回はいままでのレビューと違ってだいぶ文章がとっちらかってきたのでそろそろまとめに入りたいが、技術的にも経験的にも未熟だったと本人が振り返る『雲のむこう』は確かに気になる点も多い。アメリカやユニオン、蝦夷といった地名を散りばめながら、あるいは拓也に研究員という役割を与えながらもそれらは結果的にさほど重要ではない、という結末になること。また、浩紀が東京に行った理由もはっきり語られないし、佐由理が眠り続けていることと塔の中に平行世界があること、などもまあはっきりは解明されない。そういったあいまいさが魅力にもなっているが、風呂敷を広げたわりには小さく落とす、という形式に良くも悪くもおさまっている。そういえばベラシーラと名付けた飛行機はなぜあんなにきれいに飛んだのだろうか、とか。

 とはいえそうした疑問や問題点を置いておいても、個人的に一番好きなのはこの作品だ、と言える。そういえば以前この映画について一度触れたことがあったのを思い出した。

 「ほしのこえ」はひき離されていく男女のコミュニケーションを描き、「秒速5センチメートル」では時間軸を少年少女の成長過程と合わせることで、次第に離れていくふたりを描いた。他方、本作は離れてしまったふたりがもう一度出会う物語だ。「秒速5センチメートル」では、もう出会うことはないと分かるまでの過程が描かれることとは対照的に見える。しかし、再会したふたりにも、「秒速」のような形での別れが今後成長するにつれて起きないとは言えない。
 こういう見方をすると、「雲の向こう」から「秒速」は地続きの印象を受ける。どちらの主人公も、成長してあとは東京で暮らしているというのも印象的だ。未成熟な出会いの物語は地方の小さな町で描かれるが、成熟した一個人は東京のような大都会で、誰かとつながっていなくても生きていかなければならない。




 大人になってしまった姿までを描いた『秒速』の痛みも捨てがたいし、神木くんが『君の名は。』関連の取材でことあるごとに語っているように貴樹には貴樹のカッコよさや美しさがある。ただそれを差し置いても、地方から東京へ、そしてまた地方へと舞台を移して10代の成長と挫折を、あるいは「あの日交わした約束」のようないずれ忘れてしまうかもしれないことを鮮やかにかつ繊細に描ききった『雲のむこう』が好きだと思う。雲の美しさ、抜けるような空や冷たい空、スピードスケートと光る氷。そうした背景美術の美麗さという新海の持ち味は存分に発揮されていて、そうしたこととこの映画の持つテーマが未熟な部分を差し置いても光っている。そのことを、『君の名は。』のようなできすぎた傑作を前にして、もう一度覚えておくということも重要なのではないか。

 『EYESCREAM』では『雲のむこう』の制作は最後の一ヶ月は合宿のような形で行われたと語られている(p.20)。疲れたけど楽しかったと振り返る制作のエピソードは、いま振り返ると青春そのものだろう。だからこその拙さと輝きを、覚えておきたいのだと改めて強く思う。2016年の新海誠がはじまった場所として。

 ちなみにこのタイミングでBS11での放映が決まったようで、新海誠からの独占コメントも流れる模様。見ましょう!!!(今週の土曜日の20時〜22時です)


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大きなものにまっすぐ立ち向かっていく ――『君の名は。』(日本、2016年)




雲のむこう、約束の場所
新海 誠
エンターブレイン
2005-12-26






雲のむこう、約束の場所 オリジナル・サウンドトラック
アニメ
コミックス・ウェーブ・フィルム
2005-02-03

2016年09月11日

手は届く距離にあるのか ――『言の葉の庭』(日本、2013年)



 『星を追う子ども』で少しレトロな香りのするジュブナイル風ファンタジーへとジャンプした新海誠。そのジャンプが必ずしもすべてうまくいったわけではないが、あれから5年経ち『君の名は。』という新たなジャンプへとつなげるためには重要なステップだったであろうことをこの前のレビュー記事では確認した。その5年間の狭間、2013年に「新緑の季節限定」という前振りで公開された中篇作品が『言の葉の庭』という作品だった。15歳の高校一年生タカオが、27歳の謎の女性ユキノに雨の日の新宿御苑で出会い、惹かれていく。究極的にはそれだけにすぎないというシンプルな筋立てを、しかしながらいままでの新海作品には見られなかったような新鮮なキャラクターで身を結んでいく。これまで新海作品に登場した新宿という場所そのものを中心的な舞台に据えながら、恋の手前のような感情の揺さぶりがあまりにも美しい緑の風景と合わせて描かれていくのだ。

 さてここではタカオではなくユキノの造形から掘り下げてみようと思う。27歳であるユキノは、15歳のタカオにとって「世界の秘密そのものみたいに思える」存在として表現される。「学校、バイト、家事、学校、バイト、家事」の繰り返しであるタカオにとって、仕事(バイトとは異なる)や社会というものとの接点をはっきりと持っているであろう27歳の大人は、ちょうど一回りという歳の差以上に大きく、届かない存在に映る。少し年上の魅力的な女性というモチーフは必ずしも珍しくはなくて、たとえば『雲のむこう、約束の場所』には拓也の所属している研究所の先輩研究員であるマキさんがいるし、『秒速5センチメートル』には花苗の姉や貴樹の社会人時代の元恋人である水野理沙などがいる。今回新しいのは彼女たちのような年齢を生きるキャラクターが主人公の前に登場してくることだろう。

 一つはあえて距離を作ることにある。距離というのは『ほしのこえ』でデビューして以降一貫して新海が取り組んできたテーマであって、物理的な距離であったり心理的な距離であったり、あるいは時間的な距離が男女を隔てていくことで切なさを演出してきた。『雲のむこう』の場合は擬似的な三角関係のような距離もあるし、『秒速』の場合は過去の痛みを引きずる自分自身のリアリティと向き合わねばならないという心の距離が映画の第三章で提示される。『言の葉の庭』の場合はこうした距離の描き方とはかなり違っていて、二人が新宿御苑で会うということ、それが繰り返されることで見かけ上は距離が近づいているようにも見える。靴の採寸をするためにユキノの裸足を計測するシーンがその距離の近さを象徴するハイライトとも言えるわけだが、しかしながら雨が降っている間にしか会えない、という時間の残酷さも現として存在する。『秒速』の第一章では雪が主人公に立ちはだかったわけだが、自然現象を用いて男女の間の距離を演出するという作法ももはやおなじみと言っていい。そして今回の場合、梅雨という季節を前景化して描写することで、おなじみの作法をさらに洗練させていると言えるだろう。

 話を戻そう。その上で二人の間に生まれる距離は覆すことのできない12歳という年齢差だ。これはただの時間の差を意味するのではなく、最初に少し触れたように二人が所属している社会の差の途方もなさ、を表しているように思える。だからこそタカオは、ユキノを 「世界の秘密そのものみたいに思える」と感じるわけだが、歳の差が生み出すその魅力は同時にタカオにとってとうてい超えることのできない距離を意味しているのだ。このアンビバレンツがあるからこそ、終盤の二人のやりとりにつながっていくのだ。ユキノはタカオの好きという気持ちに真っ当から応えることができない。自分自身も自覚しているタカオへの感情をひた隠しながら、「ユキノ先生でしょ」というように、社会的な自分の立場を示すことしかできない。

 「手は届く距離にあるのか」というブログタイトルの問いに移ると、結論からいえばノーだ。二人の間には目に見えない心理的な距離と社会的な距離が厳然と立ちはだかっているからこそ、手は届かない。もちろん触れたり会話することはできるが、本当に欲しい物には手が届かない。では二人はあきらめるしかないのか? この映画が最後に示すのは、それもノーだということだ。タカオは最後の階段のシーンで、初めてユキノに対して思いをぶちまける。ソースを忘れてしまったけれど、一本で撮ったというここのセリフ回しは非常に見事で、入野自由という声優の凄みが伝わるシーンでもある。そうして文字通り、ここで一気に感情をぶちまけることで心理的な距離を社会的な距離を不意になくすことに成功しているのではないか。いや、確かに距離はあって、とりわけ社会的な距離は変わりようがない。けれども、距離の前であきらめてしまうことと、行動することは違う。シンプルではあるが、「行動すること」は『星を追う子ども』でも重要なファクターだったわけで、『言の葉の庭』でもまた行動する主人公が最後に登場するのは筋書きとしては悪くない。

 エピローグでタカオはこうつぶやく。「自分の足で歩けるようになったら、会いに行こう」と。これは社会的な距離が大きく変化したら、と言い換えることもできるはずだ。自分の足で歩く、ということは自立するということであり、自立するということは社会で一人の人間として生きていくことができる、ということだ。ユキノが故郷に帰ることで「学校の先生と生徒」という社会的な関係は消失してしまったが、「27歳の教師と15歳の高校生」という距離は変わらない。だからこれらが大きく変化したときに、特にタカオの側で変化したときに、ようやく二人はまた会えるのだろう。条件が違うので雑な比較になってしまうが、成長しても距離が変わるどころかどんどん深みにはまっていった貴樹とは違い、タカオの場合は自分で距離を克服することができる。それは立ちはだかる距離をどうにかしたい、と願う人たちにとって一種の希望にもなっているように見えるし、地理的な距離と時間的な距離と、さらには記憶の忘却という距離を克服しようとした『君の名は。』の瀧と三葉を思い起こすこともできるのではないかと思う次第だ。


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新海誠と新宿




小説 言の葉の庭 (角川文庫)
新海 誠
KADOKAWA/メディアファクトリー
2016-02-25



言の葉の庭 Memories of Cinema
新海誠、コミックス・ウェーブ・フィルム
一迅社
2013-06-21




2016年09月05日

呪いから祝福へ、あるいは生きている者にとっての死 ――『星を追う子ども』(日本、2011年)



 ニコ生の特番だったかなにかはちょっと具体的に忘れてしまったが、『君の名は。』に至る前に『星を追う子ども』でジャンプをしたことが生きた、と新海自身が語っていた。『君の名は。』のレビュー記事で『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』との関連や影響は指摘したが、目に見えないところで『星を追う子ども』からの影響がはたらいているとは想定外だった。そんな流れの中でちょうどAbemaTVで新海特集をやっていたこともあり、公開から5年以上経ってようやく『星を追う子ども』を再見するに至った。この5年間一度も見返すことがなかったのは当時映画館で見たときのあまりものインパクトの薄さだったのだけれど、今回はこの時の落胆のような感覚が多少は薄れたかなと思う。

 明らかに分かりやすく宮崎アニメのような異世界ファンタジーをなぞりながら(Abemaのコメント欄でもナウシカ、ラピュタという指摘が多々あった)それでも新海誠なのだからキャラクターのエモーショナルな切実さがどこかで生きてくるだろう、と思いながら見ていた。特にわりと前半部分で「死ぬことは生きることの一部だ」という印象的なセリフが飛び出すところが肝だろう。おそらくこの作品にとって重要なのは生きることと死ぬことといった二分法的な対応ではなく、生きる者にとっての死とは何かであったり、その逆で死者にとって生きる者とは何か、という問いを提示することだ。その分かりやすい形として、妻を亡くした森崎という新任の先生や、シュンという新しい友人を手にしながらすぐに喪失をも経験してしまう明日菜のふたりをダブル主人公に据えているところだ。

 目的は異なるものの(そもそも明日菜は目的が何かすら分かっていない)喪失という出発点から地下にあるとされる異世界、アガルタを目指す2人。その2人を結果的に招き入れることになったシュンの弟シンと共に、3人の冒険活劇は始まっていく。ここまでは王道とも言えるファンタジー映画路線だが、前述したように明日菜には目的がそもそも分かっていない、というのがポイントだ。分からないのにアガルタへ行くのか、あるいは分からないからこそ理由を探しにアガルタへ行くのか。視聴者としては明日菜はいったい何をしたいのか? という不思議な思いを抱えながら行く末を見守ることになる。

 ナウシカやラピュタや、あるいは『もののけ姫』でもいいのだけれど、明確にこれをする、しなければならないと言った目的を抱えているジブリ映画の主人公たちとは違って、「自分でもよく分かっていないがここではないどこか遠くへ行きたい存在」であるのが明日菜なのだ。こういう風に見ると、ジブリ映画の構造をなぞりながらも主人公の目的というポイントで一線を画すことができているし、この「どこか遠くへ行きたい」欲求は『秒速5センチメートル』でも『雲の向こう、約束の場所』でも、あるいは『君の名は。』でもそれぞれの形で散見されている、新海誠らしいポイントの一つ、と言ってもおおげさではないだろう。

 この映画らしい特色と言えば呪いという言葉がよく出てくることだろう。アガルタの人たちは過去の歴史的経緯から地上人(地上で生きる人たち)たちとの交わりを嫌う。彼らが訪れることは不吉な予兆でしかない。そしてはっきりとした正体は明かされないが、夷族と呼ばれる骸骨のような生き物たちも地上人を嫌う。夷族とアガルタの人間はまったく別の種族だが、地上人を忌み嫌うところはよく似ている。森崎も明日菜も招かれざる客人であって、アガルタからすれば呪われた存在であるに等しい。一方でそうしたアガルタ人たちの保守的な姿勢に森崎だけでなくシンも批判的な態度をとる。これは一種の呪いを克服しようとするパフォーマンスのようにも見える。

 とはいえ呪いを克服した先に即座に福音があって祝福があるかというとそうではない。森崎の当初の目的である死者の復活には意外なほど容易に(成り行き的に、ではあるが)たどり着く。皮肉なことに明日菜を利用することで森崎は目的を一度は達成してしまう。しかしそこで逡巡がある。明日菜を利用することを、自分自身はほんとうに望んでいたのか? という迷いだ。そして明日菜だけでは足りないことにも気づく。死者の魂は生者の魂より重い。

 一方で明日菜に皮肉すぎる結末のように思えた森崎の目的の達成(瞬間的にであるにせよ)は、明日菜へも気づきをもたらす。思い返せば重要な場面で叫びであったり、叫びに似た慟哭がこの映画を大きくもり立てようとする。新海らしい幻想的で華美な美術描写であったり、ファンタジー的な世界観の構築を担う様々な生き物たち(ケツァルトルという神の容貌はまさにジブリ映画の神々を思い出す)に目をとられてしまうが、新海映画にとって重要なのは個々のキャラクターが持つエモーションであり、それを一気に爆発させるところだろう。いままでのようにおなじみのモノローグが息をひそめているからこそ、エモーショナルな展開に痛さはない。ベタな切なさと感動が、身を揺さぶってくる。

 ここでようやく最初の問いに戻ることが出来る。「明日菜はアガルタでいったい何をしたかったのか?」だ。これは「明日菜はアガルタでいったい何を得たのか(そして失ったのか)?」という問いに変換することもできるだろう。淋しかったんだ、と彼女は最後に悟る。ではなぜそれに気づくことができなかったのか。それはシュンを失ったこと、かつて父親を失ったことに対して正面から向き合うことができなかったからだ。彼らはもういないという現実を、まっすぐに見つめることができていなかったからだ。

 祝福は生きている者に与えられる。しかし、それは容易に得られるものではない。生きている者が死に向かい合うことで初めて得られるものではないのか……。森崎も明日菜も、最後には同じ地平に立って祝福の意味を悟ったに違いない。呪いと表裏一体の祝福。でもやはりそれは、生きている者に与えられるもの、であるはずだと。

 最新作『君の名は。』に引きつけて書くならば、『君の名は。』にも突如満ちてくる死の匂いに対して、そこから逃げずにどう立ち向かうかが立花瀧と宮水三葉の未来を決める重要な要素だった、というところだろう。二人が逃げなかったこと、逃げずに来たるべき「大きなもの」に立ち向かったからこそ、エピローグでのかつてない祝福が二人に訪れる。はじめに『星を追う子ども』との関連は想定外だったと書いたが、どちらも死が生きる二人を大きく突き動かしているところは非常に似ている。自分がそうだったからというのは置いておいても、ぜひぜひ、この機会に再見を、と思わなくもない。


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2016年09月03日

大きなものにまっすぐ立ち向かっていく ――『君の名は。』(日本、2016年)



 新海誠の新境地というか、これまでとは違う、という反応を目にするたびにどれくらい違っているのかということはこれまでの作品をほぼすべて(NHKでかつて放映されていた短編作品にも目を通している)見てきた者からすると大いに気になった。ただ、その前に、本編に入る前に客層の若さというかきらめきみたいなものにちょっと目をやられてしまったところが一番の新鮮なインパクトだった。

 たとえば『秒速5センチメートル』が公開されたのは2007年のことだが、新海誠の映画がこれほどまでに若い女の子たち(家族連れで幼いと言ってもさしつかえない女の子もいた)が見に来る映画になりうるのだろうかとは思わない。もちろん作風というのは変わっていくし、映画という多くの人や組織が関わるメディアは監督個人の意向よりもそれ以外のファクターのほうが大きいとしても珍しくはない。『シン・ゴジラ』に次いでこの夏の東宝作品として公開されるまでの詳しい経緯はよく知らないが、少なくともいままでとはスケールの異なる環境で『君の名は。』という映画は作られた。だからこそ公開館は数多く、俺が見たイオンシネマ高松東という地方都市のイオンシネマでも普通に見ることができた。そしてパンフレットは売り切れている。これだけで十分、自分にとっての新海誠経験としてはことごとく新しい。

 その上で、というかそれ自体が過度な先入観になったわけではないのだけれど、むしろこれは新海誠の集大成と言ったほうがいいんじゃないか、という思いのほうが強かった。それはモノローグで始まるプロローグから再びモノローグで始まるエピローグに至るまでのほとんどすべてで、環境が大きく変わっても新海がやろうとしていること自体はそれほど大きくは変わっていないんじゃないか、という思いだ。これまでの新海作品を簡単に振り返ってみると分かりやすい。

 前作『言の葉の庭』で27歳の雪野先生という新しいヒロインを用意しつつも、10代の男の子を主人公に据えるという流れは『言の葉の庭』や『秒速』や『雲の向こう、約束の場所』でも珍しくはない。瀧と三葉という同世代のダブル主人公という形も、『ほしのこえ』や『雲の向こう』を経験してきた新海ファンにはおなじみのことだ。そしてその二作同様、二人の距離は離れたものとして描かれる。『ほしのこえ』ではただただ遠ざかっていく距離に抗うことはできず、それでも思いを乗せたメッセージは届かせようとする切ない気持ちを表現していて、対して『雲の向こう』ではいったん距離に対してあきらめを示しながらも再び接近していく少年の感情をビビッドに表現していた。

 『君の名は。』の二人にもはっきりとした距離がある。三葉は飛騨地方の糸守という小さな小さな町に住む高校生で、瀧は東京の四谷のマンションに住んでいる高校生だ。三葉の描写が具体的で分かりやすいが、まだ10代で一人暮らしをしていないともなると、必然と行動範囲は狭くなる。家か学校かその周辺か、そしてさらに小さな町ゆえにどこに行っても知っている人がいる、という環境。「東京のイケメンに生まれ変わりたい」と叫ぶ三葉の言葉は、閉塞感という言葉を当てはめてもいいかもしれない。その閉塞感に目を向けているかどうかは分からないが、現町長でもある三葉の父親とは対象に映る。テッシーと呼ばれている勅使河原という男子も同様で、土建屋の父親という、地元にしっかりとした足場があるからこそ地元からは逃れられない。あとはその環境に、一定の満足をするか(勅使河原)やはり不満をぶちまけるか(三葉)、といったアプローチの違いがあるくらいだろう。

 もっとも、現実には行動範囲の狭い三葉にできることはそれほど多くない。「夢の中」での瀧くんとの入れ替わりで東京生活を体験することはできるが、夢は現実ではないから永続しない。果てしない遠くからこちらにやってくる新しい彗星の比喩は、まあそれは単なる比喩ではないのだけれど、たどりついたら何かが変わってしまうという現実へのインパクトを内包している。急接近する彗星の美麗さに人は見とれるが、それがあまりにも大きすぎる凶器にもなってしまうことまでの目配せは容易に持ち得ない。

 この映画では距離だけではなく時間のトリックを使うことで彗星に立ち向かおうとする。二人の力で彗星を阻止しようとかいうセカイ系的な発想ではなくて、もっと現実的に彗星に立ち向かおうとするのが面白い。もちろん、そこには超現実的な、神話的な力なくしては成り立たないので、その意味ではこの映画の、特に後半部分はSFでありファンタジーだ。こんなことなどありえない、というべきだろう。それでも、たとえば三葉が古典の授業で学ぶ万葉の和歌がヒントになったり、三葉自身が宮水という神職の血を受け継いでいることなどの設定があるからこそ、神話的な力に現実的な可能性が宿る。もちろん繰り返すように現実ではありえないけれども、『君の名は。』の世界では起こりえてもいい。そうした小さなリアリティが、三葉と瀧、そしてテッシーやサヤちん、あるいは奥寺先輩や司たちを巻き込んだ作戦の成功を予感させると言ってもいい。

 この三葉たち糸守サイドの行動力も面白くて、三葉、テッシー、サヤちんがそれぞれの得意分野を生かしてこそ小さな町で(そして小さな町だからこそ)威力を発揮していく様は痛快だろう。「おれたち犯罪者だな」とつぶやくテッシーの不思議な高揚感は、三葉やサヤちんにも共有されているだろう。そして瀧たち東京サイドのキャラクターは電車という普段乗り慣れた移動手段で飛騨地方を訪れ、ラーメン屋の店主と偶然出会うことで糸守へのアクセスを獲得する。

 このように、歩くか自転車か原付かといった自力の手段で行動する糸守サイドと、電車と車を乗り継いで現地に近いところまでアクセスできる東京サイドでは後者の金銭的な優位さ(バイトをしているとはいえ学生がふらっと新幹線に乗れるだけの資金を持っているのは素朴にすごい)といった対照性も観察できたりするけれど、東京サイドの、とりわけ瀧の行きたい、近づきたいという感情が原動力になっていることは新海誠らしい主人公像だと改めて思う。『秒速』第一章で明里と岩舟で再会した貴樹は彼女を守る力が欲しいとつぶやくが、瀧の場合にも同じ感情が宿っていたことだろう。そして当時の貴樹と違い、瀧には守ることができる力を持ち得ているのだ。もちろん、これは同様に三葉にも、だ。

 力があったところでそれをうまく使えなければ目的は達成されない。OPで走るアニメはいいアニメ、なんていう文句があったりするが、この映画では後半になるほどよく走る。三葉も瀧も、ほんとうにこの二人はよく走る。走っている間に壮大にこけてしまう三葉を見ると痛々しいが、こけたからこそ掌に目を向けることもようやくできるのだ。彗星が落っこちてしまうその前に、瀧だけが知っている悲しい結末が訪れる前になんとかしたい。誰かを守りたいという力は、まずその思いの強さがあってこそなのではなかったか。あの日の遠野貴樹に問うてみるのはやや酷かもしれないが。

 ねりまさんは「フィクションが距離を突破する」というブログ記事の中で時間の流れだとか運命だとかそんなものを軽々と超え、私たちがこれまでに歩んできた道のりのなかに埋もれていた大切な何かが輝きだす。そのような瞬間の可能性が含みこまれるこの世界だから、僕らはたぶん、生きてゆけると触れているが、今回新海が試みたことは非常に多彩になってはいるけれども根本的な部分ではかなりシンプルに寄っているんだな、という感覚は確かにある。そしてそれはいままで新海が試みてきたことの延長にあって、「埋もれていた大切な何か」を探し求めるのはおなじみだろうし、「瞬間の可能性」に賭けたくなる気持ちは『秒速』や『言の葉の庭』を見てきた視聴者にとってはやはりおなじみだろう。新海作品が見せてくれる希望や期待は、ビビッドな感情をいかに魅力的に、かつリアルに切り取るかによって達成しうる。三葉も瀧も、重要なところではもうこれ以上ないくらにまっすぐに無邪気に走る。そんなやりとりしている場合かーというようなシーンも、二人にとっては必死にもがいてきたからこそなのだ。それが悪いだなんて、誰も言わない。

 まとめると、確かに新しい新海誠はいっぱいあっておなじみのファンには驚くところも多いだろうが、本編における重要なポイントはいままでの新海ファンにもなじみのある要素が多々ある、というところだ。東京サイドの瀧くんの行動範囲が三葉に比べると広いようでなんだかんだ新宿区内(代々木、新宿、四谷周辺)におさまっているところも、にやにやしてたまらないところだろう。そしてそこには「バスタ新宿」の存在する2016年の新宿の風景がきっちり収まっている。アニメーションでありながら現実の風景を記録することができるのも、新海誠のこれまで試みてきた方法の成せる業だろう。それも含め、2007年でも2013年でもなく、2016年の新宿をとらえた『君の名は。』を見てほしい。2016年の千駄ヶ谷にもはや雪野先生はいない。それでも瀧くんがいて、奥寺先輩がいて、司がいる、2016年にしかない、きらめいた街の姿を。それは「いまはもうない」(by 瀧)風景が積み上がってできた、いまにしかない風景であるはずだ。

 それにしても、エピローグにおける『秒速』と『言の葉の庭』を合体させたようなシークエンスは古参ファンを泣かせすぎでしょ! そして『Angel Beats!』最終回のラストシーンを思い出しました。
 

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 「大きなものにどう立ち向かうか」ということや、今回はあまり触れなかったが分かりやすく3.11後の世界観を書いたなあという思いがあった。もう一つ、モチーフになっている(これもあまり触れていないが)忘れてしまうこと、ということに対しての向き合い方をとらえるならばやはり『その街の子ども』がいい。まあ、向き合うのは全てが終わったあとなので『君の名は。』とはアプローチが全然違うんだけど、故郷を失って東京に出てきた彼女がいつか元いた場所を振り返らないとも限らないよな、とは思う。

その街のこども 劇場版 [DVD]
森山未來
トランスフォーマー
2011-06-03


関連記事:その街のこども ―実感としての1995年 【2010/2011年,日本】

 あと、以前tumblrで「新海誠と新宿」という短いエッセイ的なものを書いているのでこちらも。『言の葉の庭』公開前夜に予告編を見ながら軽く新宿という舞台をとらえてみた的な感じです。
2016年08月25日

走ることについての覚え書きPART2 ――長い距離を走ることの魅力と、1万時間の法則批判

 以前「走ることについての覚え書きと『脳を鍛えるには運動しかない!』のインパクト」という記事を書いたが、今回もランニングやスポーツにまつわる本を続けて3冊ほど読んだので、「走ることについての覚え書き」のパート2という感じでお送りする。
 今回取り上げるのは次の3冊。










 前2冊はいずれもマラソンを超える距離を走るレースについての本だ。ウルトラマラソンや100マイルレース、そしてトレイルランニングといったレースを概観していく。
 『EAT&RUN』は副題にもある通り、「僕」ことスコット・ジュレクが自伝的に書いた一冊で、学生時代にクロスカントリースキーの選手だった自分自身の生い立ちや、多発性硬化症を患い、次第に介護が必要になるまでに病状が悪化していく母について記述するなかで「走ること」へと情熱を傾けるようになるまでを非常にエモーショナルに書いている。
 そう、エモい。この本の肝はそのエモさだろう。レースをともにする友人たちとの関係、愛したはずの妻と別れ、そして再び恋をするまでのいきさつ。家族への愛。あるいは、日本人ランナーが食糧としてたずさえていたおにぎりへの感動、などなど。ランニングそのものに興味がなくとも、最初の部分を読んでスコット・ジュレクという一人の人間の人生に興味を持つことができたなら面白く読める一冊になっているのではないか。
 章末には短いコラムも挟まれていて、ランニング初心者へ向けた諸々のアドバイスもはさまっている。クロカンの選手だったジュレクはなにも元々ランニングの専門家ではない。彼とて、素人からのスタートなのだ。

 ウルトラランナーでもありヴィーガンでもある彼はタイトルに付してある通りEATの側面からも切り込んでいく。長い距離を走るには身体を形作る食べ物こそが重要だ、というシンプルな指摘だ。
 このへんはヴィーガンでない自分にとっては参考程度でしかないわけだけど(立場的にはダルビッシュがよく言ってるように日本人はもっと肉を食って筋肉つけろ派である)、おそらく食べ物を完全菜食という形でシンプルにすることも、ジュレクにとっては重要なルーティーンになっている。日々のすべてが100マイルもの距離を走るレースにつながるわけだから、確かに重要でないわけがない。
 まさに「食べることと走ること」によって幸せを獲得したジュレクという人間のストーリーが、そのまま本になっているといったところだろう。



 対して走ることの楽しさというのが次の『激走! 日本アルプス大縦断』からひしひしと伝わってくる。これは副題にもある通りトランスジャパンアルプスレース(TJAR)という、2年に1度8月に行われる8日間で415キロを走行するレースを追ったNHKスペシャルの書籍化なのだけど、日本海から太平洋の静岡まで415キロというとてつもない距離に、逆に『EAT&RUN』で提示される100マイルという距離が小さく思えてしまう不思議さがあった。
 いやまあそれはたまたま続けて読んだからなのだけど、今年のレースの覇者にもなった望月将悟はわずか5日間で駆け抜けるのだからもうわけがわからない。
 NHKオンデマンドで当時の放映(2012年)の内容も残っているので見てみたのだけど、全員フルマラソンを3時間20分以内(セレクションの基準の一つ)という強者揃いの中でも群を抜いて速く、いくつもの日本アルプスの山々を軽装で軽々と駆け抜けていく様は天狗か忍者のようにも見えてしまう。

 一方で望月以外の選手にも目を向けると、望月以外に対しては逆に非常に親近感の沸く選手たちが多い。Nスペ本編ではレースを追うことがメインになっていて、あまり選手個々の掘り下げはできていなかったが、書籍版のほうではランニングを始めたそもそものきっかけや、TJARに出るようになるまでのきっかけ、あるいは選手間同士の交友関係など、人間くさい部分についての書き込みが多く、とても身近なものになる。
 驚いたのは、多くの選手が元々は運動が得意でないか嫌いであり、望月のように子どものころから山を駆けるのが大好きで、といった選手のほうが少数派であることだ。たまたま友人や同僚に誘われて、あるいはダイエットのために、あるいは素朴に健康のためにといった形で足を踏み入れたランニングの世界にあれよあれよとハマってしまい、TJARのような過酷なレースに至った、というわけだ。
 という話を読んでもイマイチ最初の動機とのギャップがありすぎだろう、と思ってしまうが、しかしさっきのスコット・ジュレクを思い出してみれば納得がいく。彼のコラムにもあったが、誰もがいきなり長い距離を走れるわけがない。それがふつうだ。だからこそ、最初は歩いてもいいからちょっとずつ進むこと、そして走ることに目的や楽しさを見出すこと。
 それができれば、そしてそれがずっとできるのであれば、415キロという途方もないレースにたどりつくことだって不可能ではない、のかもしれない。それくらい、選手それぞれが山を走ることを楽しんでいるのが印象的だった。過酷に見えるのは事実だろうけれど、それを楽しむことができるのは素晴らしい体験にちがいない。



 最後の一冊、デイヴィッド・エブスタインの『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』は様々なアスリートの能力を遺伝子レベルで分析するという一冊。専門書ではなく一般向けに書かれているので、分厚いが読みやすく、かつデータや引用論文の数も豊富だ。特定の何かや誰かではなく、スポーツやアスリートそのものに魅力を覚えている人にとっては、読み応えがあるだろう。
 とはいえ個人的に一番関心を覚えたのは、「1万時間の法則」に対する疑義や批判だ。

参考:"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

 上のまとめでもあるように、最近ではいわゆるビジネス書でもたまに目にするが、はたしてそれはどれほど事実に敵っているのだろうか、という点を具体的に指摘していく。1万時間の法則が誰によっていつ提唱されたか、そしてそれがどのように浸透していったのか、といった言葉のルーツから始まり、実際のアスリートの練習時間を調べ上げて10000時間にはるかに満たない時間でトップレベルにのぼりつめたアスリートを反証として提示していくあたりは、まさに科学的な方法による批判と言えるだろう。
 この部分だけでも読む価値が大きい。つまり、単に10000時間練習したからといってプロになれるわけではないし、プロもみなが10000時間練習したわけではない。プロとアマチュアを分ける差異はもっと別なところ――たとえば遺伝子(ハードウェア)やトレーニング(ソフトウェア)――にある。
 遺伝子という言葉を付加しているが、本作の結論は遺伝子がすべてを決定するという話ではなく、アスリートの才能にとって遺伝子は非常に重要だが、それはあくまでハードウェアであり同時にそのハードを持って生まれたアスリートを育て上げるためのソフトウェアが必要だ、という穏健的な結論なのである。
 その結論にいたるまでの膨大な研究の蓄積が楽しい。4年に1度のオリンピックを見て楽しむようなライトなスポーツファンでも、この本に出会うことでさらにスポーツそのものの魅力にハマる。かもしれない。

 最近週に一回のヨガは継続しているものの暑さのせいでランニングがちょっとおろそかになっており、さらに春先に買ったクロスバイクの影響で・・・といった中で、再び走ることの面白さやスポーツそのものの魅力に触れさせてもらった。
 涼しくなったらちゃんと走ろうな、俺。長い距離を走ることはなんだかんだ言って楽しい。そして自転車も楽しい。
 「まだまだ遠くまで行こう」(by 大空あかり)