2016年08月25日

走ることについての覚え書きPART2 ――長い距離を走ることの魅力と、1万時間の法則批判

 以前「走ることについての覚え書きと『脳を鍛えるには運動しかない!』のインパクト」という記事を書いたが、今回もランニングやスポーツにまつわる本を続けて3冊ほど読んだので、「走ることについての覚え書き」のパート2という感じでお送りする。
 今回取り上げるのは次の3冊。










 前2冊はいずれもマラソンを超える距離を走るレースについての本だ。ウルトラマラソンや100マイルレース、そしてトレイルランニングといったレースを概観していく。
 『EAT&RUN』は副題にもある通り、「僕」ことスコット・ジュレクが自伝的に書いた一冊で、学生時代にクロスカントリースキーの選手だった自分自身の生い立ちや、多発性硬化症を患い、次第に介護が必要になるまでに病状が悪化していく母について記述するなかで「走ること」へと情熱を傾けるようになるまでを非常にエモーショナルに書いている。
 そう、エモい。この本の肝はそのエモさだろう。レースをともにする友人たちとの関係、愛したはずの妻と別れ、そして再び恋をするまでのいきさつ。家族への愛。あるいは、日本人ランナーが食糧としてたずさえていたおにぎりへの感動、などなど。ランニングそのものに興味がなくとも、最初の部分を読んでスコット・ジュレクという一人の人間の人生に興味を持つことができたなら面白く読める一冊になっているのではないか。
 章末には短いコラムも挟まれていて、ランニング初心者へ向けた諸々のアドバイスもはさまっている。クロカンの選手だったジュレクはなにも元々ランニングの専門家ではない。彼とて、素人からのスタートなのだ。

 ウルトラランナーでもありヴィーガンでもある彼はタイトルに付してある通りEATの側面からも切り込んでいく。長い距離を走るには身体を形作る食べ物こそが重要だ、というシンプルな指摘だ。
 このへんはヴィーガンでない自分にとっては参考程度でしかないわけだけど(立場的にはダルビッシュがよく言ってるように日本人はもっと肉を食って筋肉つけろ派である)、おそらく食べ物を完全菜食という形でシンプルにすることも、ジュレクにとっては重要なルーティーンになっている。日々のすべてが100マイルもの距離を走るレースにつながるわけだから、確かに重要でないわけがない。
 まさに「食べることと走ること」によって幸せを獲得したジュレクという人間のストーリーが、そのまま本になっているといったところだろう。



 対して走ることの楽しさというのが次の『激走! 日本アルプス大縦断』からひしひしと伝わってくる。これは副題にもある通りトランスジャパンアルプスレース(TJAR)という、2年に1度8月に行われる8日間で415キロを走行するレースを追ったNHKスペシャルの書籍化なのだけど、日本海から太平洋の静岡まで415キロというとてつもない距離に、逆に『EAT&RUN』で提示される100マイルという距離が小さく思えてしまう不思議さがあった。
 いやまあそれはたまたま続けて読んだからなのだけど、今年のレースの覇者にもなった望月将悟はわずか5日間で駆け抜けるのだからもうわけがわからない。
 NHKオンデマンドで当時の放映(2012年)の内容も残っているので見てみたのだけど、全員フルマラソンを3時間20分以内(セレクションの基準の一つ)という強者揃いの中でも群を抜いて速く、いくつもの日本アルプスの山々を軽装で軽々と駆け抜けていく様は天狗か忍者のようにも見えてしまう。

 一方で望月以外の選手にも目を向けると、望月以外に対しては逆に非常に親近感の沸く選手たちが多い。Nスペ本編ではレースを追うことがメインになっていて、あまり選手個々の掘り下げはできていなかったが、書籍版のほうではランニングを始めたそもそものきっかけや、TJARに出るようになるまでのきっかけ、あるいは選手間同士の交友関係など、人間くさい部分についての書き込みが多く、とても身近なものになる。
 驚いたのは、多くの選手が元々は運動が得意でないか嫌いであり、望月のように子どものころから山を駆けるのが大好きで、といった選手のほうが少数派であることだ。たまたま友人や同僚に誘われて、あるいはダイエットのために、あるいは素朴に健康のためにといった形で足を踏み入れたランニングの世界にあれよあれよとハマってしまい、TJARのような過酷なレースに至った、というわけだ。
 という話を読んでもイマイチ最初の動機とのギャップがありすぎだろう、と思ってしまうが、しかしさっきのスコット・ジュレクを思い出してみれば納得がいく。彼のコラムにもあったが、誰もがいきなり長い距離を走れるわけがない。それがふつうだ。だからこそ、最初は歩いてもいいからちょっとずつ進むこと、そして走ることに目的や楽しさを見出すこと。
 それができれば、そしてそれがずっとできるのであれば、415キロという途方もないレースにたどりつくことだって不可能ではない、のかもしれない。それくらい、選手それぞれが山を走ることを楽しんでいるのが印象的だった。過酷に見えるのは事実だろうけれど、それを楽しむことができるのは素晴らしい体験にちがいない。



 最後の一冊、デイヴィッド・エブスタインの『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』は様々なアスリートの能力を遺伝子レベルで分析するという一冊。専門書ではなく一般向けに書かれているので、分厚いが読みやすく、かつデータや引用論文の数も豊富だ。特定の何かや誰かではなく、スポーツやアスリートそのものに魅力を覚えている人にとっては、読み応えがあるだろう。
 とはいえ個人的に一番関心を覚えたのは、「1万時間の法則」に対する疑義や批判だ。

参考:"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

 上のまとめでもあるように、最近ではいわゆるビジネス書でもたまに目にするが、はたしてそれはどれほど事実に敵っているのだろうか、という点を具体的に指摘していく。1万時間の法則が誰によっていつ提唱されたか、そしてそれがどのように浸透していったのか、といった言葉のルーツから始まり、実際のアスリートの練習時間を調べ上げて10000時間にはるかに満たない時間でトップレベルにのぼりつめたアスリートを反証として提示していくあたりは、まさに科学的な方法による批判と言えるだろう。
 この部分だけでも読む価値が大きい。つまり、単に10000時間練習したからといってプロになれるわけではないし、プロもみなが10000時間練習したわけではない。プロとアマチュアを分ける差異はもっと別なところ――たとえば遺伝子(ハードウェア)やトレーニング(ソフトウェア)――にある。
 遺伝子という言葉を付加しているが、本作の結論は遺伝子がすべてを決定するという話ではなく、アスリートの才能にとって遺伝子は非常に重要だが、それはあくまでハードウェアであり同時にそのハードを持って生まれたアスリートを育て上げるためのソフトウェアが必要だ、という穏健的な結論なのである。
 その結論にいたるまでの膨大な研究の蓄積が楽しい。4年に1度のオリンピックを見て楽しむようなライトなスポーツファンでも、この本に出会うことでさらにスポーツそのものの魅力にハマる。かもしれない。

 最近週に一回のヨガは継続しているものの暑さのせいでランニングがちょっとおろそかになっており、さらに春先に買ったクロスバイクの影響で・・・といった中で、再び走ることの面白さやスポーツそのものの魅力に触れさせてもらった。
 涼しくなったらちゃんと走ろうな、俺。長い距離を走ることはなんだかんだ言って楽しい。そして自転車も楽しい。
 「まだまだ遠くまで行こう」(by 大空あかり)


2016年08月16日

東京の限界とワシントンという福音の先で成すべきことは ――『シン・ゴジラ』(日本、2016年)



 自分がゴジラ映画を見たのはいつ以来だろうとパンフレットをめくってみるとご丁寧に作品リストがあって、どうやら1998年の『GODZILLA』以来だということが分かった。もちろんこれはハリウッドで作られた(最初の)ゴジラ映画であるので厳密には除外すべきなのかもしれないが、それはさておき16年。いや、おそらく金曜ロードショーか何かで見ているからもう少し短いだろう。それにしても、もう一度リアルタイムにゴジラ映画を見るという体験を自分自身が選択するとは思わなかった、というのが率直な感想。

 ゴジラ以外の膨大なキャラクターによる会議劇というのが事前に仕入れたイメージだった(ネタバレは気にしない派)なので、庵野がどうこうというよりも政治家、官僚、自衛隊、研究者、そしてその他諸々の関連諸機関といった面々たちの会議の様子が気になってしょうがない。政治学ではアクターやプレイヤーといった概念は非常に重要で、ある事象を分析するときに関係するアクターやプレイヤーを整理することで誰がステークホルダーなのか?を特定するのは非常に重要な要素だ。それだけで論文が書けたりする場合だって珍しくないだろう。なのでたとえば会議という場面で誰が発言権を持つのか、その権力はどこから生じるものなのか、などなど、着眼点はあまりにも多い。

 もっともシンプルにまとめるならば、一番のステークホルダーはおそらくアメリカであり、ワシントンだろう。日米安保という逃れようのない呪縛的な同盟と日本に数多く存在する米軍基地のおかげで、対ゴジラという局面においてアメリカが参戦しないわけがない。もっともこれはタイミングというのが重要で、アメリカの存在が脅かされない程度においては参戦する必要がない。それはコストでしかないからだ。もはや日本、東京だけではとうてい太刀打ちできないのではないか、という局面において、なかば東京の意表をついた形で参戦してくる。もっと分かりやすく言えば石原さとみ演じるカヨコの登場もあまりにも唐突だし、いつのまにか巨災対の面々へすっかり溶け込んでしまえるフレンドリーさもなかなか末恐ろしいのだけれど、こういう唐突すぎる「強引さ」と、「友情」という傘をかざす同盟関係は現実の日米関係をかなりうまく批評的にとらえていると言えるだろう。

 政治学、行政学のみならず国際関係論的にもリアリティを担保しているこの映画は、「ゴジラ」という仮想敵を有しているからこそ成立する。パンフレットでもゴジラという虚構以外をいかに現実的に表現するかという点にかなり腐心しており、陸、海、空それぞれの自衛隊との撮影交渉などはまさにこの国の安全保障の核心に迫っていると言えるだろう。ゴジラは現実化しないかもしれない。でもはたして、ゴジラがいないとしたらこの国は常に平和なのかというと、そうではない。庵野がリスペクトしたという1954年のファーストゴジラは、始まったばかりの戦後にも放射能という見えない恐怖が存在し続けているという未だ消えない不安だったに違いない。だからこそ、よりリアルに、限りなくリアルにというスタンスは、たとえゴジラがいないとしてもこの国が持たねばならないものを真摯に表現することに成功していると言えるだろう。

 では何度も連呼される「想定外」の事態が起きたとき、この国は何ができるのだろうか。一つは、東京という中心的な場所を失っても耐えうるオプションを備えておくことだろう。千代田、港、中央区といった都心三区は二度目のゴジラ上陸によってことごとく破壊され、永田町から脱出をはかった総理をはじめとする閣僚たちもゴジラの前にあっけなく倒れてしまう。さらに市ヶ谷という自衛隊にとってもととも重要な場所も破壊されてしまう。それでも地下鉄の駅構内に逃げた矢口や尾頭たち巨災対の面々たちは、立川を新たな拠点とすることで活動を再開する。市ヶ谷が死んでも神奈川が生きていれば自衛隊の機能は死なない。そして筑波や理研が生きていれば、化学的なアプローチでゴジラに対抗することもできる。さらに実に360万人もの避難民を発生させて日本各地が混乱に陥る中、ある意味でこの映画は東京(都心)一極集中に対するアンチテーゼを投げかけているのかもしれない。それだけ、東京が死ぬということに対するダメージが大きすぎるのだ。

 もう一つ、ではどのような戦略がゴジラに対して有効なのだろうか。ここでは巨災対のトップであり、立川に移動後は臨時ではあるが特命の担当大臣にも就任する矢口蘭藤と、内閣総理大臣補佐官であり立川からは官房長官代理をつとめる赤坂秀樹の思惑の差異が表れる。矢口はこの国を救うことと、被害を最小限にとどめることの両立を目指す。対して赤坂は、手段はどうあれ、ゴジラを倒してこの国を救えればいいと考える。矢口に対して明確な反対をすることはないのだが、矢口のやり方を冷ややかに観察している目と口調はなかなかに印象的だ。

 矢口を演じる長谷川博己はかつて『鈴木先生』を演じたときの冷静さよりは、エモーショナルな存在になっており、頭はキレるが好感を持たれるタイプだろう。しかし政治家として誰かの上に立つ存在になると、赤坂や、あるいは友人の泉(与党の政調副会長)のほうが上手と言えるだろう。この差異はおそらく狡猾さ、つまり自分のとった戦略は政治的な意味での自身の将来を保証しうるかどうかというところまで見据えているかどうかだろ。立川に移動したあと、泉が気持ちを高ぶらせる矢口に対して「お前こそ落ち着けよ!」と声をかけるシーンは、実は冷静ではいられない矢口の脆さと、そうした彼の人間くささがあふれているいいシーンだった。ダカラこその矢口のやり方というものがこの映画の後半一時間に凝縮されていると言っていい。最終的には中ロをはじめとした国連安保理まで巻き込むことになるゴジラ対策の決着はいかに。

 また映画のパンフレットの話になるが、まるでどこかのアスカさんのように異国から急に現れそして輪の中に押し入っていくカヨコの存在はかなり重要だ。ともすれば東京という狭い世界の話になってしまいな会議劇を、もっと広いグローバルな視点から捉え直す必要性を感じさせる。東京対ゴジラであってはいけないし、世界対ゴジラであってはいけない。日米対ゴジラというラインを貫徹させなければ、ゴジラを倒せない。これはもうどうしようもないくらいに日米安保の呪いとしか言いようがないが、対ゴジラを乗り越えるためには福音と言ってもいい。少なくとも赤坂と矢口のどちらの立場に立ったとしても有効であり、強大なパワーであることは間違いないだろう。さっきの筑波や理研の例ではないが、使えるリソースは使ってこそだし、もちろんそのための狡猾さは必要だ。

 カヨコ演じる石原さとみがパンフレットで語っている言葉が非常にいい。ディティールにこだわればいくらでもこだわるところができるし、後半はとりわけ大味になるシナリオも捨てがたい。けれども、最後に石原さとみが語っている言葉こそ、現代に生きるわたしたちにできる一つの希望なのではないだろうか。最後に希望は必要だと、誰かが昔言ってた気がする。この国が民主主義の形式をとっている以上、わたしたちにこそできることはある。
 
石原さとみ:この映画をきっかけに自分が生きる未来の為にもっと深く学んでいこうと決意しました。この映画は、皆さんの経験や知識で捉え方や感想が変わる作品だと思います。どこに引っかかり、誰のひと言に怒りや悲しみを覚え、なぜその感情になったのか、そしてゴジラはいったい何なのか。是非、観終えた後にそれぞれの感想を言い合う時間を持っていただけたら嬉しいです。
 

関連作品

 最後に希望がどうだという話と、今回はあえてあまり踏み込んでないけど3.11をいくらか意識した映画(『シン・ゴジラ』の場合最後の避難所と思われる体育館のシーンはかなり重要だろう)として園子温監督の『希望の国』を思い出した。これは希望という言葉とは残酷な展開も含んでいるが、戦後はまだ続いているように3.11という災後もまた続いている現代の日本にとっては重要な作品の一つだろう。

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 もうひとつ、「想定外」の事態と「東京の限界」というイメージから思い出したのは福井晴敏原作、阪本順治監督の『亡国のイージス』でした。小説が99年、映画が2005年なのでどちらももう10年以上前になるわけだけど、いま見返すとまた違ったものが見えるかもしれない。



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2016年07月27日

【第155回芥川賞】生きづらい世界を生き延びるために ――村田沙耶香「コンビニ人間」(『文学界』2016年6月号)



 村田沙耶香の書くヒロインは往々にしてどこかズレていることが多い。多くの場合小さいころのトラウマ(性的なものが多い)やあまりよろしくない家庭環境の影響を引きずったものであることが多く、自身の性的な衝動でたまりたまった鬱憤を解消していく。それが攻撃的であり、暴力的になることも珍しくない(『ギンイロノウタ』や『しろいろの街の、その骨の体温の』など)が、ではそれは彼女たちだけが悪いのか? というと、もちろんそうではないだろう。表面的には見えてこないものにこそ、すべての原因はある。

 それなのに、きっと彼女たちは表面的にしか理解されない。彼女たちが他人に理解してもらえないかのように振る舞うせいかもしれないが、かといって、というアンバランスでもろく壊れやすい日常を、村田沙耶香はずっと書いてきた。「殺人出産」や「消滅世界」のようなSFテイストを盛り込んだ小説にしても、仮にある規範が日常化された場合の社会を書いただけで(たぶん)、社会とのズレやそこで生まれる日常の奇異さをある意味では愛するかのようにまるっと引き受けてしまうところが村田の書く小説の魅力ではないかと思う。

 デビュー作から 『しろいろの街の、その骨の体温の』までは、いくつかの例外はあるが多くの場合において少女と呼べるほどの年齢の女性が主人公だった(小学生や中学生から、大学生まで)が、『殺人出産』以降の村田は主人公の選択においてそのスタンスを明らかに変えてきている。もっともそれは、単なる作風の変化によるものかもしれないし、より社会に対して大きなインパクトを与えるために大人の目線を導入したいという欲望かもしれない。

 「コンビニ人間」が面白いのは、かつてなら性に敏感で、男をもてあそぶようなキャラクターを主人公に据えることも珍しくなかった村田が、交際経験なしの非コミュな36歳女性というキャラクターを主人公に据えたことだろう。ある意味、セックスの意味を根本から否定するかのような「消滅世界」の延長、もしくはセックスをごくごく限定的にとらえた「清潔な結婚」(『殺人出産』所収)の問題意識とも地続きのように見える。

 そんなことを考えながら、ひらりささんがKAI-YOUに書いた記事(B&Bで行われたイベントのレポート)を読んでいるといくつか腑に落ちることがあった。
 不倫SF『あげくの果てのカノン』米代恭 × 芥川賞受賞の村田沙耶香 対談「イヤな人ほど愛おしい」

 たとえば次のやりとり。
「この世にはパターン化されている恋愛もいっぱいあるんだけど、わたしはなんでもありだと思っているんです。既婚者同士が『他の人とセックスしてOK』と同意しているならそれでいいと思うし、処女だけど人工授精で子供を産むみたいなのもアリだと思う。本人たちの間のなかで解決していることなのに『世界がそうだからという理由でさばく』というのが一番グロテスクで怖いこと」(村田さん)

「『コンビニ人間』のラストも、世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする話ですよね。それって本当に勇気がいること。だけど村田さんはそういう選択もアリということを教えてくれる。それが素晴らしいなと思います」(米代さん)

 これまでの村田の書いてきたキャラクターの中にも生きづらさを抱える主人公は多くいた。たとえば『ギンイロノウタ』に所収されている二つの中編では、いずれも独特な家庭環境の中でストレスを抱えながら生きる少女を書いていた。少女たちは自室で破壊衝動をヒートアップさせ、そして外の世界へと出る。外へ出ることが究極的には生き延びるための方法だったのだろう。あるいは 『しろいろの街の、その骨の体温の』では教室という息苦しい場所から逃れ、郊外のニュータウンという「しろいろの街」に価値を見出していく。ある閉ざされた空間は、生きづらさや息苦しさの象徴でしかない。

 ここまできてようやく「コンビニ人間」の内容に入っていくことができる。この小説がこれまでの村田の小説と違って特殊なのは、コンビニという空間こそが生きることのできる場所だ、ということだ。コンビニの外の世界は生きづらい、息苦しい場所である。それは社会規範や常識というものが支配する場所であり、どこに行っても逃れようのない現実が待ち受けているからだ。ゆえに18年間コンビニバイトしかしてこなかった古倉恵子は、よく言えばコンビニに最適化されてしまったキャラクターだと言える。そしてそのことが、彼女にとっては至上なのである。

 なぜならば彼女もまた村田沙耶香がこれまで書いてきた多くの少女たちのように、家庭や学校という空間になじんできたとは言えないからだ。その生きづらさや息苦しさから逃れるために、しかしながらこれまでの少女たちのように性の衝動に任せるほど異性の男子とのコミュニケーションに長けているわけではない。彼女がコンビニを選択したのは大学生になってから初めて経験したバイト、という点では偶然のようだが、その偶然が彼女にもたらしたのは福音だったのだろう。

 かくして新店オープンから足かけ18年、店長が何人も入れ替わる間に自分だけが店に残り続けるとなれば、まぎれもない「コンビニ人間」だと言っていい。白羽という誰からも嫌われるタイプのキャラクターに言い放つ最後の言葉は、古倉恵子というキャラクターを適切に、再帰的に表現していると言えるだろう。かつて『しろいろの街の、その骨の体温の』のレビューで「村田沙耶香は「途上」の人間を書くのがうまい」と評したことがあるが、彼女の場合はもはや途上ではなく完成されていると言っていい。白羽という「異性」に出会っても結局は彼女の本質は変わらなかったじゃないかという批判は賞の選考でもあったようだが、その不変さこそが平倉圭子が18年間にわたって築き上げた強固さに他ならない。彼女が容易に変わっていたとしたら、そのほうが批判されるべきだろう。

 36歳で交際経験もなく仕事もコンビニバイトの経験しかまともにない彼女の不変さは、地元の友人たちからも奇異の目にさらされる。かばってくれる妹が地味にけなげなのがいい。敵ばかりではないのだ。そして地元の重たい空気を吸ったあとにコンビニに吸い寄せられていく姿が、いかに生き生きとしていることか。

 先ほどの引用で米代恭が述べている通り、古倉恵子の姿は「世界の常識からみて自分が間違っていてもわたしの世界はここなんだという選択をする」んだということがよく分かるし、彼女もそのことが分かっていないわけではない。だからこそ地元の友人にもうまい言い訳を使う(その言い訳の元ネタは妹のアイデアだったりする)し、適当にやりすごす程度のコミュニケーションはできるのだ。しかし、かといってコンビニ人間である以上、コンビニの外の世界(異性だとか)にも過剰な関心を持つことはない。逆に、コンビニという世界を利用して生き延びるということが、もっとも適切な選択肢だと言えるのだ。もちろん、主観的なレベルにおいて。

 思えば数々のSF路線はキャラクターを構成する主観も客観もがすべて現代とはずれていく話であったわけだけど、改めて現代に舞台を置いたときに主観的なレベルでの周囲とのズレを書くことは、ズレを形成してしまう客観を疑うには有効な方法だった。クレイジーを通り越してエクストリームな路線に走っていた村田にしてはマイルドだと思った今作も、見方を変えれば同じ路線にあるかもしれない。

 もし、村田沙耶香という作家の真骨頂はまだまだこれからなのだとしたら、それは本当に楽しみでならないし、ここまできたら思い切ってどんどんエクストリームな方向に行ってもいい。文壇は適切な評価を下せないかもしれないが、行くところまで行く村田を見てみたいと、初期からのファンとしては期待せずにいられない。ひとまずは芥川賞受賞を祝いつつ。

 あと、今日が単行本『コンビニ人間』の発売日で、すでに電子書籍化もされているようなので、リアルないしネット書店で見かけた方はぜひ一読を。ある意味、これも現代文学の最前線です。

コンビニ人間 (文春e-book)
村田沙耶香
文藝春秋
2016-07-27



しろいろの街の、その骨の体温の
村田沙耶香
朝日新聞出版
2013-03-11



消滅世界
村田沙耶香
河出書房新社
2016-01-08



殺人出産
村田沙耶香
講談社
2014-11-28




2016年07月19日

【第155回芥川賞予想】混戦の中でリードしている村田沙耶香と崔実の争いか

 久しぶりに事前に全部読んだので、発表直前ながらちゃんと予想してみます。芥川賞は最近ほぼ毎回当ててきているが果たして。
 全部読んでいるのと、今回は全部手元にあるので受賞した作品については長めのレビューも書いて載せたいなと思っている。

◎崔実(チェ・シル)「ジニのパズル」
○村田沙耶香「コンビニ人間」
▲高橋弘希「短冊流し」
△今村夏子「あひる」
×山崎ナオコーラ「美しい距離」

 
 タイトルに書いたように、実力と実績から考えても村田沙耶香が一歩リードしているように見える。というか、もはや中堅と言ってもいいくらいだ。(ナオコーラもその部類だが)
 その上であえての本命は「ジニのパズル」で。講談社がここまでガンガン押してくるのは想定してなかったが、ガンガン押されている作家自身のルックスと言い、粗削りながらも逆にそのエッジの効いた感じがハマってくる「ジニのパズル」は強い。
 ひとつ分かりやすい弱さがあるとすれば、ステファニーというアメリカでのホームステイ先の女性に回想を話す、という構造をとりながらも、その構造があまりうまく言っているとは思えないこと。悪くもはたらいていないが、ジニにとっての二度目の退学、というエピソードを引き出す以上のものがあるのか。
 とはいえ、90年代後半を舞台にしたこの作品の空気感は、在日朝鮮人の学校生活という政治的にも際どい路線の小説としてはかなりビビッドだ。勢いを感じるし、宇多田ヒカルの「Automatic」やソニーのMDウォークマンという固有名を持ち込んでくるあたりの時代の空気感も匂わせる。

 村田の「コンビニ人間」は「殺人出産」を書いてきたような最近の村田に比べると控えめにうつるものの、村田が書いてきたこれまでのヒロイン像である社会からズレまくりながら自分の境地を信じていきるよくわからない強さ、みたいなのは感じることができる。
 「コンビニ人間」の主人公は非コミュに見えて妹や同僚たちとのコミュニケーションに長けているあたり、表面的にはうまくやれているわけだ。学生時代はうまくなじめなくても、社会に出てから地味な強さを見せていくタイプのヒロインは、自身がコンビニ店員でもある(少なくとも「であった」)村田自身の思いや経験がいささか投影されているようにも見える。私小説では決してないのだけれど。

 実力的にこの次に来るとすればナオコーラだろうが、ガンとなった妻の看取りをいくらか新しい、かつ社会批判的な切り口で書いた面白さはあるがそれ以上のものをあまり感じなかった。
 対照的に、かなり短い部類ではあるが同じく死の匂いを感じさせる高橋の「短冊流し」のほうが感情の繊細さを事細かに書けていて好感を持てる。オリジナリティや短いがゆえの弱さはあるものの、キャリアは浅いながら三度目の候補となった今回、二作受賞なら高橋が来てもいいだろう。
 今村夏子の「あひる」もいささか風変わりな家族小説であるが、日常のささいなやりとりの中に不穏さを織り込んでいくスタイルは上手さを感じる。もっと長いものを読んでみたい。

 以上、ざっと見てきたが村田を追随する崔のあとに三者が続くという感じだろう。崔を本命にしているが、あるとすれば崔と村田の二作受賞が妥当ではないかと踏んでいる。
ナオコーラと今村夏子は今回はない、という見立ての上で高橋が穴を開ける可能性も微レ存。

ちなみに直木賞は米澤穂信しか読んでないので、とってくれたらとても嬉しいです。
2016年07月17日

物語の持つ力を信じることができるのか ――相沢沙呼『小説の神様』(講談社タイガ、2016年)



 『卯月の雪のレター・レター』という短編集を手に取ったのが最初の相沢で、本作が二冊目になる。ちなみに講談社タイガから出ているのは野崎まど、紅玉いづきを経て三冊目で、『卯月の雪』の解説を書いていたのが紅玉だったことも考えると紅玉が相沢を読め、と言っているようなものだと勝手に理解した。本作『小説の神様』はそのストレートすぎるタイトルを体現したようなヒロインが美少女転校生として登場する一方、かなりひねくれたタイプの主人公が対峙するエンタメとなっている。

 千谷一夜という名義で中学生のときに作家デビューを果たしたもののデビュー作の売り上げは芳しくなく、二作目も出せずに数年が経過した。高校では友人の九ノ里に誘われて部員不足で廃部寸前の文芸部に参加するものの、書くことへの意欲は戻らないまま。そんな中で同じクラスにやってきた小余綾詩凪は、同い年でありながら不動詩凪として人気作をとばす売れっ子の作家だった。あることをきっかけに彼女と話をするきっかけを得るがそのときには小説に対する価値観で対立し、決別。しかし二人に共通する編集、河埜の提案によって、新作の共作を試みることになる。

 最悪の出会いを経たあとに一緒に仕事を試みることは果たして可能なのか、という問題もあるが分かりやすいくらいに対立していく二人の価値観の相違は分かりやすい。千谷は自分の小説が売れなかったことや、病気で長期入院中の妹への思いから売れる小説に絶対的な重きを置くようになる。これが本音なのかは別として、千谷の言うことは出版不況や書店の閉店や取次の倒産が相次ぐ昨今の状況下では一面的なただしさを持っている。さらに彼の父がかつて(あまり売れない)小説家だったことも、売れることへの執着は強くなっていく。

 対する(とはいっても仕事の関係上対立してばかりでもいられない)小余綾に「小説の神様」が見えるのだと語る。その彼女が振りかざす正論は少しずつ千谷のゆがんでしまった心を砕いていく。彼女はも物語の力を純粋に、そして強烈なまでに信じるタイプの作家で、その強力な新年は作品の中にも投影されているし、なにより作家としての、個人としてのかのじょを形作るアイデンティティーにもなっているところがヒロインとしての魅力にもつながる。千谷は何度か「天は二物を」と彼女を評してつぶやくが、では次に容姿端麗で成績もよく、なんでもできるように見えてしまう彼女がなぜ物語の強さにこだわるのか? という問いが千谷の中に生まれていく。

 千谷はもちろん小説を、書くことそのものを捨てたわけではない。捨てたわけではないから、自分とはあまりにも違う小余綾の姿勢に対立してしまうし新しい部員の小説指導も引き受けてしまう。千谷のデビュー作を好きだと言った小余綾の言葉には動揺するが、その彼のデビュー作の文庫化を機に再び目の前が雲っていく。こういう時代に作家という仕事を引き受けてしまった人間の辛さが分かりやすく表れているし、そのことを自覚的に書いている相沢が憎らしくもなる。

 とはいえ、共作がスタートし、対立を重ねながらも少しずつ接近していく中での断絶は、『小説の神様』という物語の核心部分に深く入っていくきっかけにもなる。物語をつづる人間にとって、小説とはどういうものなのか。そして読者にとって、物語はどのような意味を持つのか、っという根源的な問いだ。もっとも、これらの問いはそもそも意味がない、と当初の千谷の言うように蹴落としてしまうことも可能だろう。だからこそ、あえて、あえて向き合うことができなければ、これらの問いへの答えはみいだせない。

 最近読んだ川上未映子の『安心毛布』というエッセイに、この小説の核心につながるような一節があったので引用してみよう。

 なにとも比較できないなにか。誰かにとやかく言われようのないなにか。学校や職場以外の場所にこそ、仕事や人間関係以外のものにこそ、自分にとって素晴らしいものがあるという自信をもつこと。(中略)なにかひとつ、誰にもわかってもらえない自分だけの大事なものを見つけることが、明日また、学校や職場でがんばるためのちからになると思うのだ。人からどう思われようと、決して揺るがないものをひとつだけでいいから胸にもっておく。それは本当にわたしたちが困ったときに、わたしたちを必ず助けてくれるちからになる。(川上未映子(2016)『安心毛布』中公文庫、p.92)


 翻って『小説の神様』は物語の力を信じる者と否定する者の間の物語だった。どちらが優勢なのかは言うまでもない。重要なのは、一度見失ったものでも再び見いだすことができるかもしれない、というところだろう。千谷の場合それは小余綾や妹、それに九ノ里や成瀬といった文芸部員の存在によってもたらされた。きっかけを与えてくれた河埜の存在も大きい。しかしこれだけだとちょっといい話で終わりかねない。だからこそ、千谷のみが再生することだけが本作のねらいではない。小余綾もまた、再生を必要とするのだ。

 基本的に千谷に一人称で書かれるがゆえに、小余綾についてはあまり多くのことが触れられない。だから彼女についてはある意味では、叙述トリック型のミステリーだと言えるだろう。その謎を解くことで、「小説の神様」に対するこだわりのゆえんもまた見えてくるようになる。共作を始めたばかりのころ、彼女が発する言葉が印象的だ。

 物語を読むことで、心に湧き上がる力があるのなら。それを用いて、現実に立ち向かってほしい。苦しいことも、辛いことも、物語があるのなら、人は必ず立ち向かえるから(p.128)

 本作の終盤で小余綾はあることに苦しむ。千谷は彼女を救おうとするが、真に彼女の救えるのはかつての彼女自身の、物語に対する思いの強さなのかもしれない。それは川上未映子がエッセイで書いたことにも通じる。物語を必要とするのは、もちろん純粋にそれが読まれうるという時もあるだろうけれど、物語が選ばれる時にこそ、確かな力を発揮するのかもしれない。小余綾の信念は一見すれば青臭いけれど、それこそが大事な時こそ。

安心毛布 (中公文庫)
川上 未映子
中央公論新社
2016-03-18