Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

監督:あおきえい
劇場:テアトル新宿

 2007年末から七部作として始動した空の境界の第一章、俯瞰風景。時系列では4作目となり、映画を見る前に小説を読むことは必須となっている。それだけきわめて対象が限定的な作品(同人からスタートしたのである意味当然かもしれないが)を商業ベースとして本格的に行うには上映館を少なくするしかなく、テアトル新宿でのみの上映になった。公開当時香川にいた俺は遠くからふーんと眺めていたのだが去年東京に来て、この度第六章の上映にあたって今までの章が日替わりで上映されるという。重い腰を上げて分厚い小説も読み始め、映画も見始めることにした。ゲーム「月姫」時代からの付き合いの人よりは実際俺のように小説から入る人のほうが多いのだろう、と思う。ゆえに小説ではまった人には映画も確実に薦めたい。逆に言えば小説で挫折した人は映画はもっと挫折するだろう。そういう意味でも対象は驚くほど限定的だ。本作の再上映も人の入りはまばらで、男性が圧倒的に多かった。だが、衝撃は強い。これを見逃すのは勿体ない。今まで俺はそうだったわけだけれど。


 廃墟となったビルで女子高生の連続投身自殺が起こっていた。彼女たちに接点はなく、また遺書もなかった。「遺書はないのは未練がない証拠。あるいは、落ちたくて落ちたのではない」と主人公黒桐幹也の上司蒼崎橙子は語った。一方幹也の友人の両儀式はビルの近くを歩いている途中、屋上近くに浮遊する八つの幽霊を見たという。

 何故落ちるのか?から始まる章である。式は殺人という立場、つまり死に追いやる立場から死と向き合うのに対し、殺人という行為が介入しない自殺(英語的(kill -self)にいえば自己による殺人とも言えるが)は死の中でも特別な位置づけがなされる。相次ぐそれは何を意味する、ということを問いながら何故落ちなければならなかったのか、という根本から蒼崎橙子の語りによって解かれていく。この流れは他の章でも見られる形だが、小説のシナリオの立場としては始めにストーリー全体に通じるテーマを持ってきたことは意味があると言えるだろう。映画でも短い中で橙子の語りを確実にはめこむ事で体を保つことになっている。

 連続自殺が生じる複雑な設定はさておき、何故落ちるのかという視点から落ちると言う行為が生じる手前に焦点が当てられる。目的のある無しを浮遊と飛行という行為に分けるというのも面白かったが、タイトルの俯瞰風景とあるように落ちる前に誰もが俯瞰風景を見る。その時に感じる衝動は、今の時代にも繋がってくるものではないか、と改めて思う。パンフレットにも書かれていたが、俯瞰風景が書かれた当時から今と似たような問題意識は始まっていて、それが特別違和感なく作中にこめられたのだろう。ある種キワモノとも思われる空の境界という作に普遍性を見いだすことが出来たのは不思議な感じであった。映像で見せられた分、小説で読むより自殺者の追体験がしやすくなっていてよりそう感じたのかもしれない。


 小説でも表現方法が難しかったと思われる両儀式という存在へのアプローチは映画では非常にはっきりしている。それは表情、特に目つきの変化と声色の変化ではっきりと示されるせいなのだろう。式ほどこの映画で様々な表情を見せる人物は存在しない。パンフレットで坂本真綾が触れていたが、式への言及は本作ではほとんどなされていない。だからこそそういった変化が式のアイデンティティを示唆しているように思う。監督も短い時間での表現に一番力を入れたかったところなのだろうと思う。

 式が一番はっきりとさせているものは幹也への想いだ。幹也との関係も多くは言及されない中で、行為に身を投じる式が唯一心を許せる存在なのだということがさっき書いた表情もそうだが、式が全体的に醸し出す存在感が幹也といるときは極端に弱くなる。ここまでオンとオフがはっきりしている人間も珍しいと思うほどにだ。そのせいもあるのだろうか、映画の始まりと終わりがはっきりしていて、続きものだけども綺麗に(綺麗すぎるくらいに)簡潔しているのは上手い構成だなあと。上手いというか憎い構成。

 まだまだ始まり、あと6本。疲れるだろうが楽しもう。
このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr Clip to Evernote

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット

トラックバック