2010年12月08日

クルスク家のテーゼの再考 ――絶望と希望の隙間で

 2年ぶりにSeraphicBlue(以下セラブル)についての記事を書こうと思う。当時はどう解釈して良いかが分からず衝撃という二文字を抱えて、口が開いたままにエンディングを迎えたのをよく覚えている。ラストは夜通しプレイし、エンディングを迎える頃には朝日が昇っていたのも印象的だった。頭の中はそれほどすがすがしい気分ではなかったけれど。
 2年ぶりに書こうと思ったのは、当時からこのことについてはうっすらとながらずっと頭の片隅にあって、まだ答えが出ているかどうかはよく分からないものも今書ける範囲で書こうと思ったからである。頭の片隅に葬ってしまうよりも、一度形にしたかったからというのもある。おそらく、この観念については一生考えなければならないしことあるごとに意識せざるをえない、普遍的なものでもある。古くは鴨長明、今では誰だかよく分からないし普段生活をしていて意識することはほとんどないのだけれど、だからこそ忘れてしまわぬように書いておきたい、というのがねらいのひとつ。
 書きたいことはクルスク家の示したテーゼについて。ケイン、レオナ、そしてアイシャをめぐる物語。
 
 「中毒性と乱用性を持つ物語だからこそ、放たれる言葉の持つ力は大きい」と2年前の記事で書いている。その最たるものがあるが、終盤もいいところなのでネタバレ勘弁。ゲームに興味があってネタバレ知りたくないというかたはご注意を。

 
あらゆる悲しみや苦しみから救われる真の救済。それを為す真の愛。
“生まれて来ない”事、“生み出さない”事を。
故に言った。
そして願わくば、この愛が此処に在らざる子供達に届かん事を。
生命を誕生させない事で、
全ての悲しみや苦しみから、守り救う事が出来る。
未来永劫に渡る、“無”に於いての安寧の眠りを与える事が出来る。
それが私達の思う、愛と贈り物。


 この台詞はクルスク家のレオナがEp43のステージ、アイシャの空でヴェーネたちに投げかける言葉である。本来は死して怪物となったアイシャに投げかけるはずの、親心としての言葉を。
 そして親心は続く

 
子供は生まれて来た時に泣いているでしょう?あれはそういう事。
能くも私を産んで呉れたな。
ハイリスクを背負わされてまでの
不確かな幸せなんて、欲しくなかった。
真なる愛と救いの中で、永遠の無で在りたかった。
怒りと、嘆きと、悲しみ。それこそが彼らの産声。
ならば私達は生命を否定し、そして実際に行動を起こそう。
忌まわしき生命の美学<イデオロギー>の下に
振るわれる暴力より、無力な子供達を守る為に。
世界を無に還す。


 この言葉に対してフォクシーやヴェーネのように吐き捨てるのは簡単だし、あるいはヤンシーやミネルヴァのように違う、そんなはずはないと対抗することもそれほど難しくはない。あくまで、対抗することにおいては。
 ただ、この言葉を、このイデオロギーを完全に看破することなどあるだろうか?おそらく人類がユートピアのような世界を作り上げないことには不可能だろう。世界は不幸と悲嘆と、絶望に満ちている。それ自体は疑いようが無く、その大半は他ならぬ人間によってもたらされている。
 幼い頃に夢や希望を持てと教育され、素晴らしい未来があるに違いないと教え込まれたあげく、見るのは人間同士が惨めに争う姿だ。その産物である絶望に対して、幸福な立場にいる人間は目を向けようともしない。そんなものは知らない、とでも言わんばかりに。セラブルにおいてはイーヴル(遺伝子異常で人間が怪物と化した姿)をめぐる思惑が好例だろう。いわば”失敗作”として天から地上に放り投げられ、天はそれを無視する。地上は天に敵意を向けるし、それを煽る者も出てくる。イーヴルを何か別のことに置き換えれば、容易に想像できる不幸のなすりつけ合いである。

 失敗作の1人であるアイシャ(後に最強の怪物、イーヴル・ディザスティアとなる)が不幸のなすりつけ合いの延長として刻まれている以上、レオナの親心をそんなものはばかげていると簡単に片付けてしまうことはおそらくできない。反論できるに足ほど、それほど綺麗な世界を、提示できていないのだから。そしてそれ自体は不可能だろう。
 こっちの世界に置き換えてみれば、人口はまだまだ増えるし新しい憎しみは生まれていく、歴史は当然のように繰り返していく。いつどこで、誰が不幸に巻き込まれるかは分からない。リーマンショックは人間の手の制御できない世界の象徴であると言っていいし、市場にはもはや神すらいない。

 この2年間考え続けて出した結論は、レオナの言葉を一方では受け入れ、他方では反抗していくという二律背反を抱え続けることしかできないということ。複雑化する現実を前にできることはそれくらいのことだと思っている。だが、坂上智代が言ったように、決して絶望はしない。絶望することはすなわち、レオナを肯定するようなものだ。
 あきらめたらそこで試合終了ですよ、ということはスラムダンクで15年以上前に書かれていることだ。世界はめまぐるしく変わっていく中で、決して絶望しない覚悟を持つのは簡単じゃないことも自明のことだろう。
 それでも、そうすることでしかレオナに、ひいてはクルスク家に対抗することはできない。そしてひいては、アイシャの供養にもなる。こっちの世界にも彼女に準じるような不幸を持った少女は、数え切れないほどいるのだから。

 絶望を生み出すような現実を作り出したのが人間だとするなら、生まれてきた人間の問題であるならば、これから生まれ来る者に当然責任はない。逆に言えば、これから生まれ来る人に対してこっち側の人間が向き合っていくべきだろう。不可能かもしれなくても、そうするしかない。
 不可能なら意味がないとレオナは言うかも知れない。そんな世界は結局のところありえないのに何の意味があるのか、と。
 だからこそ希望を提示する、希望を捨てないでいるというのは青くさいのだろうか?全てを変える希望などありはしないが、いつかレオナをぎゃふんと言わせるような世界を提示するためにもがき続けたいと思う気持ちを無駄にしたくない。自分が若いから、というのもあるかもしれないが。
 
 最後少しキレイというかエモーショナルにすぎるかな?とも思いつつ。
 そう遠くないうちに、ヒロインであるヴェーネとダークヒロインであるエルに関するエッセイでも書く、かも。今回ヴェーネのレオナに対する反論についても深く書こうとしたけど長くなりすぎる気がするのでパス。
 まあなんというか、このゲームが内包している問題意識はすさまじいということが再確認できた。次回作は難航しているようだが、完成を願いつつ、本稿を締める。


*参考
・Blue Field http://www2.odn.ne.jp/~caq12510/
→制作者天ぷらさんのサイト。Seraphic Blueは2004年に公開された3作目の作品である。前2作は今はDLできない。俺は持ってるけど未プレイ。
・Seraphic Blueまとめウィキ http://www21.atwiki.jp/seraphicblue/
→キャラについての説明をかなり端折っているので、人間関係などの参考にどうぞ。簡単に言えばクルスク家がボス、それ以外の言及しているキャラはプレーヤー側のいわゆる仲間
・Seraphic Blue文章版
→プレーヤーの一人が作成したゲーム内の台詞をそのまま引用し、編集したもの。ブログを書く際には参考にしました。初版は2007年公開のようですが、今はもう手に入らないようです。残念。

 

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