2011年06月22日

不自由な世界へようこそ、だが人生はこれからも続いていく

小学生のころに見えていた世界は、自前のものだった。「社会的な重要さ」みたいなフィルターを通っていないぶん、多少その世界はいびつだった。でも、当たり前だけどすごくリアルだったんだよね。そりゃあ現実だもの

(「視界をシャッフル」より引用)

「社会人」ってつくづく変なことばだ。前から好きではないことばだったけれど、「社会不適合者テスト」を受けてから、よけいにそう思う。まるで、お勤めしていないと社会の一員を名乗っちゃいけないみたいだ

(「社会との距離感」より引用)

※最初の投稿時に重大な誤読があったとコメントで指摘をいただいたので、一部修正しました。修正後に矛盾を感じた文章は文字の上に斜線をつけています。細かいやりとりはコメント欄をごらんになってください。

 冒頭の文章はいずれもリンクにも貼っているなおちゃんさんのブログの最近のエントリーから引用した。このふたつのエントリーは社会における等身大の自分の儚さや小ささ(そしてそれ自体がネガティブではない)を扱っているように思えたので、印象的なフレーズを並べてみた。

 さて、現実(あるいはリアル)という言葉はあらゆる文脈で使われていると思う。たとえばリアルとネット。どちらも結局同じ人間が使っているわけなのだが、あえて分けることで別の空間やコミュニケーション様式を擬似的に作り出している。
 あるいは、学者の意見などが「現実を反映していない」と批判を受けることがある。特に思想や哲学の分野、いわゆる形而上学のような分野の場合はそうした分野の存在意義が「(あえて)現実を反映しない」ことを前提にしているようにも思う。
 そして多くの場合、現実という言葉は社会に置き換え可能ではないか。現実的でないという言葉は、社会において実現可能ではないということだろうし、社会性がない人、というのはネットでは特に現実(リアル)世界で生きるのに苦労しそうな人、ということもできる。

 とまあ、こういう前提を置いてしまうと社会学をやっている人からおしかりを受けそうだがこのへんは前置きなのでご容赦。本論はこれから。
 「社会とはなんだろう」という問いはひとまず置いておいて、「(社会における)自由とはなんだろう」という問いを立ててみたい。
 そして「自由とはポジティブなものでもネガティブなものでもなく、それ自体は価値中立でフラットである」という仮説を立てる。
 その上で、彼女への返歌というわけではないのだが、現実社会における「自由」と「不自由」という切り口を使いつつ、彼女の言葉の援用可能性を検討してみたい。

 そもそも自由や不自由という言葉ほどうさんくさいものはないなーと長い間思ってきた。ホームレスが軒下で生活を強いられるのはまあ不自由だろうなあとは思うものも、じゃあ家がありぬくぬくと生活する人はみな自由だろうかと言われるとそうとは思わない。家(ないし家庭/家族)ほど外部の視点が入りづらく、小さな権力空間ができあがっている場所もなかなかない。一人暮らしは気楽であるが洗濯炊事掃除をぜんぶ自分でやるのはやはり不自由である。
 結局完全に自由な人など存在しないのだろう。それに近い存在として、たとえばセレブにでもなり豪邸に住み自分の言うことを聴いてくれる奴隷だかメイドだかマネージャー的な人がいてくれるような生活に、別にあこがれたいともなんとも思わない。孤独こそ(特に精神的に)もっとも不自由な、自由を謳歌できない存在のような気もしている。

 「大学生になったらなんでもできるよ。だから今は頑張れ」と言われたことのある高校生や大学受験生は多いと思う。特に高校生の目線からすれば、大学生は本当に自由に見えた。まあ、実際可処分時間という意味ではかなり自由の幅が広いだろう。
 でも、いざ大学に入ってみると、逆に何をしていいか分からない。何から手を着けてイイか分からない。ここに入って本当は何をしたかったんだろう・・・自分の昔の記事を見返してもそれに近いようなことは書いていて、楽しみつつも悩んでいたらしい。(*1)
 たぶんこのときの自分には手に入れてしまった自由を使いこなす能力はなく、まだ高校生の感覚を捨てきれず、明確なものだけを求めていたんだろうなあと思う。だから肩の力を抜くという意味でサークルをやめると、気持ちがすとんとしたというか、やりたいようにやればいいのかという当たり前の事実に気づくことができた。
 大学に入ると大学生独特の空気感もある。そうしたものは往々にしていわゆる「社会」(*2)からは距離を置いている。良くも悪くも。

 リアリティがあるのは、そういう自由を使いこなせない大学生は孤立する。それはいわゆる「大学生」という空気感があるからだ。そしてもちろん、孤独に耐えられる人間とそうでない人間がいる。1年目のドイツ語で途中から3人ほどが離脱したのはなかなかシュールな記憶として自分の中にある。中学とか高校とかで、ある日突然全く来なくなりました、なんて人はいなかったからね。
 高校の時、通学に片道1時間以上かかる(しかも電車が1時間に1本)という委員長は週に2,3回くらいしか学校に来なかったけど。これはまあ、わりと明確に不自由な話である。
 
*******

 何が言いたいかというと、自由の価値も不自由の価値もあなたが決めればいいということだ。個人的にはそれ以上でも以下でもないと思っている(*3)
 なおちゃんさんが言う「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」という言葉を拝借するならば、「何が自由で不自由なのか分からない」と思う、生きていて、本当に。それこそSかMかという性格によっても多大に影響されうるだろうし。
 自由の国と呼ばれるアメリカは、確かに持てる者には本当に自由な空間だろう。だが持たざるものには自己責任の名の下に様々な負担がのしかかる。黒人差別はいつになってもなくならないが、リベラリズムの持つ寛容の精神とは一体どこにいったのかね、と小一時間問い続けたい。自由という言葉を疑ってみると色んなものが見えてくる、それだけ魅力的で、他方で恐ろしい概念かもしれない。
 
 そして別の見方をすると、自由それ自体が人にダメージを与えかねない(*4)ということだ。自由だけが与えられ、使いこなす能力がなかったらなかなかに悲惨かもしれない。ついさっき量の食堂でテレビを眺めていると、ある日突然スターへの階段を駆け上がった女優の転落が描かれていた。地位や金銭が与えた選択の自由は、必ずしも幸福への道筋ではない。
 そう、きっと自由を得ることそのものが人生のゴールだというわけではないだろう。ある一定の目標であっても、手に入れた自由を使って何をしたいか、どうやって幸福を掴むかがおそらく人生の有意義な使い方のひとつである。

*******

 そして、このエントリーを土台として、そのうちSeraphicBlueの正主人公である(と言って過言じゃないだろう)ヴェーネについての記事を書きたい。
 特に以前リンクを貼っていただいたぽろろさんの指摘が非常に的を射ていると思ったからだ。

エンディングにおける描かれ方は最も対比的だ。「ショーシャンクの空に」では義務に縛られ続けた主人公は最後に自由の名の下に救済されるが、「セラフィック・ブルー」において世界の救済者として育てられ、義務に縛られた戦いを続ける主人公ヴェーネは、むしろ縛られ続ける事を望んでいる。戦いが終われば自分の存在意義が消滅すると実感しているからである。戦場を切り抜けた後に現れる日常という「平坦な戦場」に彼女は耐えることが出来ない。そして最後の場面で描かれるのが、自由の下に苦しむ彼女の姿である。物語は希望と絶望の両方を暗示し、明確な帰着を見ないまま幕を下ろす。「ショーシャンクの空に」のラストシーンでは希望の象徴として晴れ渡っていた空も、「セラフィック・ブルー」ではもはや自由という苦しみの象徴でしかない。

論文『語りとしてのビデオゲーム』」(ブログ:ゲーム批評等々)より引用
 
 なおちゃんさんの「視界をシャッフル」というアイデアも、その言葉自体も非常に含意があって面白いなあと思っていた。「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」という暗示をかけることで肩の力を抜いてみたり、いつもとは違う音楽や本に触れたり、帰り道で寄り道したり、そういうことでもおそらくシャッフルすることはできるだろうし。綺麗にシャッフルできなくても視点や気分をごまかすことはできるのではないかと思う。
 ただそれは「自分の目に映らないものと一緒に、私たちは生きているらしい」ということが自明のものとして認識することができれば、の話のような気もした。いわゆるコミュ障や社会性の欠ける人たちに視点をシャッフルしましょう、と言っても彼らにシャッフルできるだけの視点はあるだろうか。シャッフルさせずにこどものように純粋に生きていくことが、いつまでも可能だろうか。
 ただ、あくまで彼女はエントリーの中で必ずしも普遍的に適用させようとはしていない。(*5) だから例外に当てはまる人を例に出すのは論法としてちょっとずるいかもしれない。でもきっと、そういう人たちも社会の一員だと思うし、彼らこそ視点をシャッフルさせると意外な発見があるかもしれない。もしかしたら昔も自分はそうだったかもしれないし。
 
 話をセラブルに戻そう。おそらく、ヴェーネの場合は視界をシャッフルさせることができなかったのではないか。少なくともポジティブにはできなかったがゆえに犯してしまったのが戦後の彼女の行為だ、と見るのはあながち間違ってないように思う。戦中、いやその以前からずっと長い間大きなものや、宿命や使命といったものに身も心も委ねて戦っていった彼女に、「視界をシャッフルしなよ」と言ってもそんな能力や観点などはぐくまれてなかったのだろうと思う。フリッツという理解を得られる存在もいたがそれも完全に無視した。
 それこそ、ジークベルトの言ったように、戦後の彼女の言動は彼女が「救済の道具」でしかなかったことを示しているようにも見える。つまり彼女の場合、救世のための宿命や運命以外に目を向けることをそもそも約束されないし、そうあってはならない、という自己規制をかけていた可能性がある。このへんは次回以降に細かく検討すべきだと思うが、レイクやジーク亡き後の彼女のモチベーションはこうした自分自身との戦いであり、自分の悪しきカウンターパートであるエルとの戦いだったのであろう。

 いつか書くエントリーではヴェーネ・アンスバッハという超越した女性、かつ母的で、天使でもあり、救済の道具でしかなかった(かもしれない)数奇な運命をたどった女性について書いてみたい。

 長々とこのエントリーを書いてきて思うのは、彼女は全くのフィクションの存在ではないという思いがあるからである。
 おそらくヴェーネのような苦しみ、あるいは運命づけられた人間は現実社会にもいるだろう、と。たとえばAKB48の女の子たちは、卒業していったあとに、「ふつうの女の子」として社会の中で幸福な人生を歩めるのだろうか。彼女たちは多くの人々の欲望によって消費されているが、そうして成り立っているAKB48という使命のその後、を考えるのはかなり酷だろう。
 むろん、メンバーの誰にとっても、ではないが。それを克服している卒業生は多くいるだろうからね、そしてそうあれなかった卒業生も。 

 で、そのヴェーネの件はまだどういうエントリー構成にしようかは考えてないし、というかそれ以外にやることいっぱいあるだろうと言われれば本当にその通りなのだが、ちゃんとした文章にはしたいと思っているので少しずつネタや構成をあっためていようと思う。
 セラブルについての記事を2本書いているが、まだ彼女自身には触れていなかった。仮タイトルは「救世の天使に託した希望と欲望」とでも名付けておこう。
 そしてきっかけを与えてくれたぽろろさんには感謝したい。たまたま同じ早稲田という縁もあって昨日初めてお会いしたのだけど単なるゲーム批評にとどまらない、かなり深くかつ広い視座を持っているようで今後も非常に楽しみである。というか俺も単純にセラブル話をできてすげー楽しかった。セラブルと出会って7年経つけど、やっと本当に、というのは嬉しいよね。地味にでもブログを書いていてよかった、とも思えたし、人生よく分からんですなあ。

*******

*1 たとえばこのエントリーとかね なんか大学の勉強は適当にやればよくね?という言葉に素直にうなずけなかったような気がしているし、まあだから今このような状況なんだろうな、と思うけど別にそれが不幸だなんて思ってないよん。


*2 あえてカギ括弧をつけたのは社会という言葉に特異性を持たせるため。この場合は社会通念上、とか社会人、という言葉の持つ社会という意味で使っている。別に会社に入ることだけが社会人じゃないんだけどね。大学生はどうしても学生、というカテゴライズから色んな意味で抜け出せてないとは思うが、それはそれで多めに見て欲しい。あなたたちも昔はそうだったでしょうよ、と。

*3 もちろん、政治的な意味合いが賦されるとまた別の話である。特にバーリンの言う積極的自由のような権利保障の問題はいくらでも論争可能だろうし、あまねく保障可能な一般的な自由なるものの価値を認めないとは言わない。ただ個人レベルに落として考える、ミクロなレベルから出発したときはあなたが決めればいい、と思っている。 

*4 ルソーが『社会契約論』の第1編7章で「社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何ぴとにせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によって服従するように強制されるという約束を、暗黙のうちに含んでいる(中略)このことは、[市民は]自由であるように強制される、という以外のいかなることをも意味していない」(引用は岩波文庫から)と述べているのが印象的だ。社会というものはいくつかの暗黙の内に交わしている約束事によって秩序立っているし、逆にそうしなければ秩序立たないというのは想像に難くない。イメージできないならあなたは中2病に罹患している疑いがあるので、ただちに社会(なるもの)へ目を向けよう。

*5 ああいう書き方をすると誤読していると思われるかも知れないので、はじめに引用した記事から彼女の主張をくみ取ると、おそらく彼女の言葉の射程はごくふつうの社会に生きる私たち自身だろう。そうした意味では一般論と言ってもそうおかしくはないと思う。私たちはふだん、政治や社会と生活とが切り離せないがゆえに、大きなものに目を注いでしまう。その中で「世界にあるのはただの事実だけだ」という目線に立ってみること、いつも大きなものばかり見ているようだけどシャッフルさせてみればどう?という問いかけを彼女はしている。ただ、ヴェーネのように生まれた頃から大きなものを見ざるを得なかった人たちや、小さなものばかり見て来て逆に大きなものが全然見えてない人にも同じように問いかけをしてみることで、彼女のアイデアの可能性を考えてみたかった、というのがこの文章で自分がやってみたかったこと。そして次にヴェーネについて記事を書く際の一つのアプローチにしてみよう、と思っている。だからなおちゃんさんのアイデアが一般論でしかないという意味でイチャモンをつけるわけではないし、むしろ面白いアイデアを使って一般論以外のことがどれだけ言えるのか、言えないのかを自分自身で分析的に記述してみよう、と思ったし、この文章でも少しだけ試みている。
→ここも自分が誤解をしていたようなので、コメント欄のやりとりをごらんになってください。
 

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この記事へのコメント

読みましたよ。なんだかとても恐縮…!ありがとうございます。単純にうれしいー。
誠実に返答させていただくと。
メディアにはアジェンダセッティングの機能があるけど実生活ってけっこうそういうものと関係ないところで進んでいるよね、という意識から書いた記事なので、「自由と不自由」という議論に着地されるのは、ナナメウエというか、思ってもみませんでした。問題意識のちがいが見えておもしろいね。
ただひとつ、重大な誤読がありまして、シャッフルするのは「視点」じゃなくて「視界」だよ!!
新たな視点を加えましょう、というよりは、あなたの視界に入っているものをたまには等価に扱ってみたらいかがでしょう、という提案がしたかったのです。だからこそ「なにが大きくてなにが小さいのかわからない」ということばにつなげたわけで。政治とか社会が大きいものだ、というふうには明記していないはず…!
だからコミュ障のかたがたについても、視界のはじっこにあるものを注視してみたらいかがかしらん、という意味では、まあ援用可能なんじゃないかなあと思います。でも私はマジョリティ側の人間だと思いますし、特別な立場にいる人の気持ちを手に取るように理解できるわけではないので、なんともいえないのだけれど…。
って感じです。お返事になってるととてもうれしいです。
1. Posted by at 2011年06月24日 07:32
予告通り丁寧にお返事(というか弁解?)をしていきます。この記事を書いたねらいなんかも含めて。
あと、いくつか記事の文章を修正、訂正しておきました。明らかに誤読している部分を中心に。

>「自由と不自由」という議論に着地されるのは、ナナメウエ
 正直言うと、始めにそのことを書きたいと思い、そのあとでなおちゃんの記事からもいくかインスピレーションをもらったので、少し中途半端になるのを覚悟しつつも拝借してみようというところでした。
 あとになって視界をシャッフルの話も出していますが、記事自体の入りは「社会との距離感」を読んで書いた部分が大きいです。

>重大な誤読
 ツイッターでも書きましたが非常に申し訳ない・・・これは重大な誤読(というか重大な読み違い)だよね、うん。以後気をつけますほんとうに。
 ルソーとアリが同列に並んでるのはなんでだろう、とは思っていたので納得しました。

>政治とか社会が大きいものだ、というふうには明記していないはず
 イエス、それがほんとうは分からない、ですもんね。一般的に大きいとされているもの、という表記に俺の場合はすべきでした。

>私はマジョリティ側の人間だと思いますし、特別な立場にいる人の気持ちを手に取るように理解できるわけではないので、なんともいえないのだけれど
 このへんはおさえながら書きました。なのでちょっとずるいかもしれない、という留保をつけていると思います。
 最後の話題、そして次に書くかもしれない記事に繋げるために少し無理して繋げた感は自分でもありましたが、自分自身でずるいと記事にも書いたようにアイデアそのものを批判するつもりはないので甘受してくださると嬉しいです。

ご指摘どうもでした!そしていつも読んでくれて(いるみたいで)ありがとう〜。
2. Posted by バーニング at 2011年06月25日 00:36

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