2011年12月05日

3人のこどもたちと残り3話のゆくすえ―そして少女に託された期待

 評判の「輪るピングドラム」は最初からしっかり見ているが終わりに向け最近一気に加速を始めたので終わってしまう前に改めて何かしら書いておこうと思う。そんなに暇でもないので厳密な批評はやらないし、そのうち誰かがやるだろうので、今気になっていることを書いていく、という感じで。話ごとの感想はネット上に膨大にあるので、春休みにでもじっくり読み返したいとは思っている。
 このアニメはあの事件に明確に言及していることもあって、また主人公3人の子どもと大人という意味でも社会派アニメと言えるだろうし、良い意味で90年代っぽさ(音楽は80年代だったりするし、面白い)を醸し出していたり、意外とベタなんじゃないかと思われる展開もあるような気がする。EDにARBの曲を用いたり、14話では某有名漫画を思うシーンがあったり、二次創作的にはめ込んで展開される様はベタさとも繋がっているように思う。そしてそれは決定的なところで差異という意味でオリジナリティを作り出すことができれば、より意味のあるベタさになるだろう。
 さあ、どうなるかね、というのは文章の後半で書いてみたい。

 まず最初に気づくのは、1クール目の日常を描く描写と2クール目で核心に近づいていく様を描く描写のトーンの違いは際だっている。ある意味これはKey作品のような泣きゲーが得意としてきた、平和な日常を提示してどん底に突き落とす展開、とダブって見えなくもない。ただこれは終わってみないとなんとも言えないのだが、ベタに類推するとそうなってもおかしくはないと思っている。(*1)
 21話である程度示されてしまったが、重要なのは陽毬がどのような役割を担うか、あるいは演じるかだろう。日本のアニメは往々にして少女という表象に物語の運命を託してきたし、ゼロ年代にはセカイ系という形で広く受容された。ピングドラムはセカイ系ではなくその真逆の社会系、つまり社会との接点を丁寧に(時には必要以上に)描写することで物語を押し進めようとしている。
 気づいたときには脳天気とも言える「せいぞんせんりゃくううううう」の一コマがなくなってしまっていることも、展開の変容を表していると言える。もっとも、日記帳を手に入れるという当初の目的が達成されてしまったことも要因ではあろうが。

 登場人物は限られているが、限られた中で密度の濃い人間関係を描いているし、それが物語の核心に直結するだろうことを考えると、社会系という大きな風呂敷でもある程度うまくたたんで軟着陸させることはできるはずだ。アクロバティックな展開があってもいいとは思うけど、伏線の回収を意識するとある程度無難に落ち着く可能性は高い。これもどっちに転ぶかはまだ少し分からないが。
 21話まで見てきてはっきりしたのはあくまで中心は3人であって、徹底して彼らと彼女のための物語だと受け取るほうがより話の筋を理解しやすいと思う。両親だったり眞俐先生、多蕗さんや時籠ゆり、などなど大人の登場人物は深夜アニメにしてはかなり多いと思うが、ある意味アニメだからこそ中心にいるのは高倉家の3人の子どもたちであろうし、3人以外はある意味脇役と言ってもいいだろう。もうひとりの子どもであるりんごちゃんがどう絡むかはちょっとよく分からないし、どちらかというとストーリーの誘導役、特にあの事件に結びつける存在としての役割が大きかったように思う。

 そしてこの3人のみに注目してくると見えてくるのは、これは加害者の物語なのか被害者の物語なのか、その両方なのかそのどちらでもないのか、という象限だ。1995年の”あの事件”(*2)を想起させるテロが物語の中で起こっていて、高倉夫婦は主犯格として関わっている。その子どもである3人は加害者、被害者のどちらに属すのだろうか。
 社会的な見方をするともちろん加害者ということになるだろう。多蕗の復讐は高倉「夫妻」ではなく高倉「家」に向けられているのが印象的なように、また95年の”あの事件”後にオウムの子どもたちがバッシングや入学拒否を受けたように、子どもは当然のように家族の一部と見なされるのが宿命である。
 とはいえ、子どもたちのみに注目すると両親を失った時点で社会的な弱者である。オウムと違うのはその点で、大人の世界の中で子どもが生きるのではなく、子どもの世界と大人の世界が完全に断絶している。1話の始まりは一見すると幸福な食卓を描いていたが、そこに子ども3人しかいないのはいびつだと言えるだろう。(*3)
 フェミニズム的には怒られるかもしれないが、その中でも陽毬はもっとも弱い存在だ。しかも彼女は不治(とされている)の病を背負っていて、薬を飲み続けなければ余命いくばくもない状況に立たされている。この点に関してはなぜどのように病気を背負っているのかが明言されていないし、彼女の生存戦略の道筋はいまのところ立っていないから、残り3話の焦点のひとつにされてくるだろう。
 
 21話が明らかにしたのはもうひとつ、逃げる冠葉と、追う陽毬、待つ晶馬という構図だ。冠馬は陽毬を想い、陽毬は晶馬が運命の人であり、晶馬と冠馬は決定的に対立した。(*4)
 そしてこれは19話から顕著だと思われるが、「運命」と「愛」という何度も繰り返されてきたふたつの言葉が直結した。この言葉のチョイスも非常にベタではあるし、3兄弟の三角関係という構図もベタではある。3兄弟の生存戦略に向けたキー概念であろうことは今までのサブタイトルを見ても想像できたが、運命と愛を振りかざすと逆に悲劇的な結末すら予測してしまう。それこそ泣きゲーのバッドエンドがそうであるように、バッドエンドではあるが非常にきれいな終わり方をするのは、AIRの名ゼリフを引くまでもない。
 セリフと言えばこのアニメも言葉に関しては強いこだわりを持っているように思う。登場人物の発する言葉はともすれば命がけでもある。そうした必死さが物語を前進させもするし、かき乱しもする。混沌に陥ってないのは革新的な謎を1話ずつほぐすように解いているからだろう。
 
 最初に少し書いたように、もっとも重要な存在は陽毬だと思っている。彼女に救いが与えられるとすればどのような結末になるのだろうか。ハッピーエンドと引き替えに姿を消す、というのはエウレカセブンやグレンラガンや、Seraphic Blueだって社会的な文脈からすると消失にほぼ近い。
 ただ、大人の都合の前に子どもが敗北してしまうという、それこそ現実的にありふれている結末をこのアニメが描くとも思えない。あまり根拠はないけど、もっと挑戦的な作品だろうと思っている。軟着陸かアクロバティックかは別として、陽毬の双肩に形勢逆転が託されたのは21話のCパートが示したとおりだ。
 
 そのCパートで冠葉の思い出の中に生きる陽毬に救われたのは俺だけじゃあるまい。ひとりの少女に期待を託すことの重みがどれだけあるとしても、託さざるをえないし救いがあるといいな、と思ってしまう。
 そうでない結末はそれはそれで見てみたいが、はてさて。最終話はチケットが確保できればパブリックビューイングイベントに行く予定でございます。楽しみだね、本当に。


*1 区別するならKeyが得意としてきた泣きゲーは内面や精神面のコミュニケーションが物語を醸成するが、ピングドラムは主人公たちの外にある大きな社会に巻き込まれていくことで平和な日常が揺らいでいく、という点で決定的に違うだろう。このアプローチは魔法少女まどか☆マギカに近いとも言える。ただそれほど新しい手法という実感はないし(すぐに例を出せないけど)単純に空気系への反動かもしれない。

*2 あの事件です。そしてあの年には阪神大震災があったことを考えると、今年このアニメを企画したのはすごいタイミングだな・・・。今だって災後を生きているわけだ。冠葉と晶馬が95年3月20日生まれというのは設定しすぎな感じもするけれど。

*3 ただし日常系アニメでは大人が登場するほうがむしろレアだったりするけどね。

*4 とはいえ白山神社で殴り合うシーンはめちゃくちゃベタな気はした。いい意味で。あと、OPの映像や歌詞が示唆的なのはなんとなく気づいていたが、2期OPで3兄弟が別々な方向に走っていくシーンがあって印象的だ。追いかけているのか、逃げているのかは分からないが、ばらばらになってしまった彼らをイメージするシーンになっている。現在進行形で走っているという意味では最後までばらばらかどうかは分からないが。

今日の一曲  蜻蛉"MUG SHOT"

 蜻蛉さんの新曲をチョイス。ちょうど21話に重ねて聴くと切なくしみてくる。

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