2011年12月26日

「SNS@中学校」に読みとる現代のインターネットと子どもたち

 12月14日〜25日にかけて朝日新聞教育欄の「いま子どもたちは」というコラムでSNS@中学校という特集が10回に渡って掲載されていた。
 「いま子どもたちは」というコラムは現代の10代の生態(というのは大げさかもしれないがそんな感じ)をリアルに切り取った特集として以前からずっと読んでいてスクラップもしていたりするのだが、今回のSNS@中学校は思うところがいくつもあったので自分が中学生だったころなんかと比較しながらちょっと色々と書いてみたい。

 結論から言えば、自分のときも今の子どもたちもネットとの向き合い方は簡単ではない。彼らは物心ついたころにはブロードバンドが当たり前という世代にあたり、いまではスマートフォンやソーシャルメディアブームの渦中にいる。モノは違えどインターネットの世界ではその時々にブームはあったし、新しいものがでてきたら大人であっても子どもであっても簡単ではない。
 デジタルネイティブと呼ばれる世代は(自分も含めてだが)そうではない世代よりも確かに情報に長けているかもしれないが、言いようもない不安や怖さも同時に抱えている世代でもある。
 そういう意味では、確かにメディア環境やネット環境は変化したかもしれないが、子どもたちがネットに触れ、それらになじんでいくプロセス自体は大きく変化しているとは言えないのではないか。あくまでSNS@中学校というコラムを読んでの感想なので、全体に敷衍できるかどうかはもちろん定かではないが、示唆的な特集ではあった。
 いくつかの項目に分けて雑感を書いていきたい。

■インターネットと恐怖心
 第2回「怖い 絶対やりたくない」というコラムと、第5回「いきなりケータイ教えちゃうの?」というコラムが子どもがネットに触れるときの恐怖心の一例としては分かりやすくて面白い。第2回では「中学生にネットの話を聞くと、『怖い』という言葉がよく出てくる」という文章が印象的だった。
 対称的に、第8回「知らないから『危ない』と言う」では大人が子どもに追いついておらず、知らないものには近づくなの論法で子どものネット利用を忌避する様子が書かれている。
 おそらく子どもと大人ではネットに対する恐怖心の持ち方が違う。どちらもこわい、と表現することは簡単だが子どもが勝手に知らないところに行くのを大人が恐れる気持ちはネットに限ったことではないだろう(*1)し、子どもは子どもの感覚で怖さを認識したり、ネットには膨大な大人がいることの事実に(もちろん有限ではあるが無限に近い感覚があるはずだ)怖さを感じたりもするだろう。
 あるいは、大人たちが(特に親や教師たちが)ネットは怖いという言説を子どもたちに刷り込んでいる可能性がある。

■パソコン派とケータイ派

 違う角度で見たときに対称的なのが第5回の特集で、ここではパソコンからのソーシャルメディア利用者と携帯電話からのソーシャルメディア利用者の感覚の違いを事例として取り上げている。つまりパソコン派とケータイ派で利用の仕方の違いがあり、「少なくともふたつ知っていれば、選ぶことが出来る。(中略)携帯電話しか使わないのか。携帯電話もパソコンも使うのか。その差は大きい」とコラムを締めている。
 簡単に言えばリテラシーの問題だろうと感じた。そしてこれは自分が中学生や高校生だったころの感覚に近い。田舎なのでケータイ普及率は中学の時点では低かったが、高校はクラスのほぼ全員が持っていた。男子はモバゲー、女子は前略やデコログなどのプロフ・日記サイトというように、ケータイ派の利用は分かれていたが、一方でパソコンで音楽データの編集をやったり
 リテラシーの話でいうと個人情報や属性情報の出し方がかなり違うのは高校のときに実感した。女子たちの日記を見ると基本的に本名の下の名前、あるいはフルネームで交流していた。もちろんプロフサイトはSNSではないので(ある程度閲覧制限はかけられるが)誰でも見られるが、誰もが見るというよりは自分たちしか見ない、という前提の下でコミュニケーションをとっていたように感じた。

 実質的にほとんど誰もが見ない以上、これだけなら大した問題ではないかもしれないが、悪い例を出すと炎上する大学生のツイッターの使い方になってしまうおそれがある。つまり、あまりにも個人情報や属性情報を隠さないがゆえに、雑談レベルなら笑って済ませられるようなこともネットにいったん公開してしまう、つまり形式的には誰もがアクセスできる状況にしてしまうことで失態を晒してしまう可能性がある。ここで大事なのはその可能性に自覚的であるか否かであって、リテラシー問題が絡んでくる。
 パソコン派の場合、よほど狭い交流でない限りはインターネットの海の膨大さだとか、本気を出したときの2ちゃんねらーの怖さを経験的に知っていることが多い。いまの中学生がどうかは知らないが、少なくとも自分の中学のころは2ちゃんねるの知名度はネット上で圧倒的だったし、一定の怖れを持つネットの友人は多かった。
 こういうことを知っているかの差は大きい。そしてそれは大学生になってみないと顕在しないかもしれない、というのは今年の数々の炎上事件で把握することができた。 

■インターネットを知っていくということ
 子どもにも大人にも別々な角度で恐怖心があるとか、パソコン派とケータイ派では利用の仕方が違い、またそこから情報リテラシーの差が生まれるのではないかということを雑感的に書いてきた。
 最後に、そうした状況は簡単に克服できるものではないが、メディア環境や情報環境が発達していく中では個別のメディアの使い方というよりもインターネットとは何かであるとか、ネットの交流とは何かという基盤をどのように整備していくかが重要になるだろう。
 家庭での教育を書いているのが第9回「居間でネット 家族が助言も」というコラムだった。小6までは居間でネットをやっていた経験があるので昔を思い出しつつ読んだのだが、家族が過剰に干渉せず、だが放任もしないというのは情報環境に子どもが慣れるためのひとつの術ではあるだろう。
 学校教育ではどういうことがありうるのかだが、特集がSNS@中学校とあるように、10回を通じて中学生のネット事情を追いつつ学校教育とインターネット(あるいはSNS)の先進事例のレポートも同時にやっている。主な対象は埼玉のある中学だが、北海道の中学も数回取り上げられていたりして、首都圏と地方でのネット利用の使い方の差異という意味では面白かった。

 そんな中で第10回「『正しい使い方』結論はこれから」が印象的だった。同級生がSNSのページに顔写真や校名を載せていることに危惧を覚えた中3女子(感覚的には高校時代の自分とかなりダブる)が「正しい使い方」について学校で発表する、というお話。
 とはいえ、「正しさ」とは何なのかが彼女にはなかなか分からない。「『正しい』はひとつとは限らない。使い続ける中で、彼女がいつか自分の言葉を見つける日がくるだろうか」とコラムも締めくくっている。
 おそらく、正しくない利用(顔写真や校名など個人情報や属性情報の無配慮な公開)は彼女にも分かっているのだろう。だが、対であるはずの正しい利用はきれいに共通項があるわけでもないと彼女は気づく。コラムを読んでいて印象的だったのは、こうした「気づき」の部分を彼女が誰かに教えられるのではなく(*2)自分自身で気づいていったことに価値があると思う。

 いまの年下の世代が少し不幸に思うのは、モバゲーやGREEといったソーシャルゲームやニコニコ動画といった動画サイトなど、ネットでの交流がある程度大手のポータルに限定されていることにもあると思う。そうでなければプロフサイトなどで身内の関係をオンラインでも続けるか、というふたつくらいしかたいていの場合選択肢はないのではないか。別の言い方をすると、探せばもちろん選択肢はあるがそれらが”見えない”のではないか。パソコン派は多少見えているかもしれないが、ケータイ派は見えづらいだろう。パソコン派も見えたところで、人が多く集まる大手の交流サイトに集まる傾向のほうがよりあるのではないかと思う。
 大学生の炎上騒ぎで思うのは、かつてならネット上の身内に叱責されて済んだことがmixiやツイッターという大手サイトを使うことによって簡単に捕捉されてしまい(*3)2ちゃんねるに晒され、あっというまに取り返しのつかなくなる、という事態だ。つまり、炎上がいとも簡単に身内の外へ、はるか場外へと拡散していく。
 失敗に不寛容である、といってしまうことは簡単だろう。だが、失敗に不寛容であることと炎上→晒しの経緯を経て個人情報や属性情報が補足されネット上に残り続けるという取り返しのつかない事態になることの間にはギャップがあると思う。
 もちろん犯罪や不法行為の暴露は許されることではないが、「失敗を経験する」ということがいまのネット上でどれほど可能なのかどうかというと、ごくごく限られた範囲でしかないように思う。

 最初に結局そんなに変わっていないのではないかと書いたが、この10年ほどの間に確実に変わったのはこの点であると思う。
 こうした中でできることのひとつは、正しさについて考えることであるという第10回に登場した中3女子のお話はこれからのネット世代に向けての希望でもあるだろう。(*4)考えるのは当たり前と言ってしまえばそうなのだが、大人ですらはっきりと知らないことを子どもたちが子どもたち自身で考えるのは容易ではない。かといって、一方的な啓蒙がいいかというと、体感的な経験という意味では個人的には子どもの主体性に賭けたいと思う。
 それは10回のコラムを通じて感じたことでもあるし、「いま子どもたちは」という特集を読み続けて得た感覚でもある。最初に挙げたネット上のページでも一部を読めるようなので、興味のある方はぜひぜひ。


◆参考記事
(過去エントリー)
「ここ数年のネットユーザーについて思うこと」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51741864.html
「そして2月が終わる」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51755039.html

haruna26「デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話」(『インターネットもぐもぐ』) http://d.hatena.ne.jp/haruna26/20110216/1297867931

*1 たとえば田舎の人間が都市に描くイメージが近いのではないだろうか。見知った顔が大半の田舎と、有象無象の人が行き交う都市では生活感覚が違う。都市のほうが圧倒的に未知、つまり知らないものが多いという状況に、田舎や地方から進出して来た人間が漠然と「こわい」と思うことは珍しくないだろう。

*2 学校での発表にのぞむにあたってSNS企業の社員から助言は受けているようではある。

*3 ソーシャルメディアの特性上、ソーシャルグラフによる”逆探知”が容易なこともあっという間に場外に個人情報や属性情報が拡散する要因にもなっていると思われる。

*4 もちろんこれは一つの希望でしかなくて、その他膨大の、それこそ言葉を操るようにインターネットやSNSを操る(あるいは、操ってしまっている)世代の子どもたちに、正しさとは何かを知る機会をどのように授ければいいのかは分からない。

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