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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

新潮 2013年 03月号 [雑誌]
新潮 2013年 03月号 [雑誌]


・『新潮』3月号掲載の綿矢「大地のゲーム」を読んであれやこれや考えてたら案外に時間が経っていてこわい。いくつかはメモ的に書いたのであとで文章にしたいと思う。主要人物に固有名がないのはなぜか。なぜ「私」は「リーダー」に惹かれ、にもかかわらず殺意を持つようにいたったのか。

・なぜこのテーマを選んだのか。設定を近未来にしたのは(あくまで記述される設定レベルで描写として近未来っぽさはないが)なぜか。なぜ綿矢は利他性ではなく利己性を肯定するような筋書きにしたのか。なぜゲームという言葉を用いてこの小説を書いたのか。

・あらすじを読んで内容に入ったものの、ミニマルな人間関係とその変容を一人称で記述していくという意味では綿矢らしいといってもいいスタイルなのだと思う。前作「人生ゲーム」(『群像』2012年8月号掲載)とはゲームという意味合いがだいぶん違うが、ゲームという仮定を置いて書くという狙い自体は似ている。

・生きることと死ぬことが繰り返し語られるし、登場人物たちは多かれ少なかれ直面せざるをえないが、主人公の語りのせいか深刻なものとしてはとらえられない。深刻さよりは、まだ見ぬ何か、経験していないものへの好奇心に近いものを感じる。

・結末から逆算して読めばどんな形であれ生にしがみつくことを肯定しているように思えるが、必要以上に場所にこだわった「私」と多くの登場人物たちのことを考えると、手触りで生々しい生を実感できるレベルで生きていくことにひとつの(儚い)希望を見いだしたかったのだろうか。

・小さな場所にしがみついても大地の圧倒的な広大さにはかなわない。その上で私たちは生きるしかないし、生きていられることの価値がある。ってところなのかな最後の一文はと思うが、全体的に大きな皮肉に思えるのは大地のゲームと言い切っているせいか、語りのせいか。

・いずれにせよここ最近の綿矢は単に精力的なだけじゃなくてなにかしら強い打ち込みを入れてきてるんだろうなというのは感じる。今後も期待しつつ、息切れしないようにと願う。改めて旧作ちゃんと読まないとなー。

・ある大学(明示されない)が舞台になってるけど14、15、16号館が拠点になるとか政経学部が正門近くとか「本キャン」という呼称があることを鑑みてあああそこだなと脳内変換余裕でした。まあ出身校だしな。

 という感じのことを、読み終えて、メモを紙にとったあとついったに連投しました。あれこれ考えつつ、この中篇の核となるねらいはどこにあるんだろうか(そもそもあるのか否か)を考えたら上のようになった、というところ。いくつかのねらいは読んでて感じとれたし、「大地のゲーム」というタイトルや、「私」が最後のほうのシーンで言及する内容を考えると逆算的に読み取れることはある。

 はじめに幼い兄妹の会話が挿入される。本編とはどのような関係なのか最初は分からないが、後半にさしかかったころの「私」の語りによって、少しずつこのはじめの短いやりとりが思い出されるように作られている。誰もいなくなってしまった世界で、はたして生きることができるのだろうか。それはどのような世界なのだろうか。その世界へほのかなあこがれを抱く幼い「私」に、死や破滅など、終わりを見据える美学を感じとれなくもない。

 逆に言うと、「私」自身がその世界を見据えるためには他の誰よりも確実に生き残って、生き続けなければならない。こうした見方をとると、やや中2的な匂いもする美学というよりは、生に確実に執着しようとする「私」の像が浮かぶ。再びあのできごとが起こったあとの「私」の行動を考えると、誰よりも”生きててよかった”と口にするひとりの人間でもある。

 前置きがやたーら長くなったので簡単にあらすじを書くと、はっきりと明示されていないがいくつかの情報から近未来の日本であると考えられる。それも原子力発電をあきらめて自然エネルギーですべてをまかなうようになり、明るすぎる街を知らない世代の人たちが暮らす日本である。いまから地続きの、何十年か先の日本だ。その日本で、「私」たちが通う大学の夏休みの直前に大地震が起きる。数万人規模の死者を出し、自宅が倒壊したり家族や親族を亡くす学生が続出し、学生たちの一部が自宅に帰れず(あるいは、意図的に帰らず)大学の校舎に寝泊まりをして生活するようになる。復旧が進むなかボランティアに繰り出す学生も出始め、大学での生活を自治する学生組織も生まれる。「リーダー」と呼ばれる男はその中心で、文字通りヒーロー的な活躍を見せていた。そして、中止にはならなかったものも12月のクリスマスのあとにずれこんだ学園祭の開催まで、あと少しとせまっていた。

 「私」や「リーダー」や、あと「私」の恋人である「私の男」など、主要人物の固有名を明らかにしない構成にしている。名前を与えられている登場人物は何人かいるがさほど多くはなく、大学にいる学生という形で集団として扱われる。学生という大きな集団のなかに、「リーダー」を支持する者たちや、疑う者たちなど様々登場するが、3人の主要人物に名前が与えられていないのはどういうことか。「私」の一人称で進行する語りの特性上、もっとも重要な存在である。名前がないということによる入れ換え可能性は、つまりは同じ状況に置かれたときに誰もが「私」や「リーダー」のようになりうる、ということを意味しているのかもしれない。この3人は個性的に描かれるが、かなりステレオタイプな個性である。とりわけ「リーダー」は、都市部の大学生なら聞いたことのある「意識の高い学生」を彷彿とさせなくもない。そして間違いなく、3.11のときにもいた。

togetter:学生緊急事態対策本部(#set_j)に対する肯定的コメント
togetter:学生緊急事態対策本部(#set_j)に対する否定的コメント

 「私」が「リーダー」に次第に惹かれていく様を「私」の語りで追体験していくのが話の流れなのだが、このふたりは一見かなり非対称に見える。「私」の性質はさきほど述べたとおりだが、「リーダー」はリーダーで、絶対に自分が死ぬとは思っていない類の人間として描写される。

おれは自分の人生を食い尽くす(p49)

 自己犠牲という言葉を超越するほど利他的に行動し、発言し、政治的活動に近い活動(演説、ビラ配り、演劇など)も行う。「私」は学祭で上映する演劇の手伝いをすることによって「リーダー」に近しい場所に接近していく。そこで「私」が気づくのは、「リーダー」が高い理想を掲げ、声を上げる一方、彼の周りにいる学生達は、支持不支持関係なく無責任であるということだ。「リーダー」というカリスマ的存在に頼ることで、彼を媒介にして存在理由を見いだすのが周辺の学生であって、「リーダー」と同じ理想を持ち、共に行動しようとしている人が多くないことを「私」は知る。一見多くの人に囲まれているようで、誰よりも孤独な存在になっている「リーダー」に対し、「私」は思う。

私は弱い。でもあなたの苦しみを背負いたい。(p54)

 「リーダー」は自分のことを万能だと思っているわけではないが、責務によって自分を動かしている。無力とは思っていないだろう。他方で「私」は、自分以外の人のための利他的行動を自分がとれないことを、大地震のあとの行動を通して自覚していく。

でも私にはできない。したくない。(p46)

 ミニマルな人間関係が思わぬ方向へ向き、若さゆえの欲をつきつめていったら突拍子もない展開になったのが『ひらいて』だった。今回の結末は、比較的落ち着くであろうところに落ち着いているように見える。「リーダー」をよく思わなかった「私の男」は何かしらのたくらみを実行しようとするし、「私」はある程度それに同意を与える。

 この「私」のブレ、つまり「リーダー」に惹かれながらも、リーダーを嫌う「私の男」をも肯定するのは、はっきりとした態度が決まらず、起きている事態に常に影響を受けながら変容している「私」を表しているようにも思う。「私の男」とつきあうようになった経緯は書かれていないし、さほど仲のよい存在とも書かれていないが、タイプの違う異性が近くに二人いる、という状況が「私」の実存を支えているのは間違いないのだろう。

 ここであらためて表題にした、「私」のねらいは結局なんだったのだろうか、というところに立ち戻ってみよう。ブレが意味するのは、どちらかを選ぶことのできない「私」の弱さといってもいい。弱さが自覚できているからこそ、身近な存在にしがみつこうとするという意味では、大地震のあとの出来事を通じて生に執着するようになって、と考えることができる。

 しかし、これはあくまで「大地のゲーム」と名付けられている小説なのだ、というところにも立ち戻る必要がある。

私たちは、何度でも大地の賭けに乗る。(p77)
 
 これは物語のかなり終盤の「私」の語りからの引用だが、大地という広大で圧倒的な存在に対して、小さな存在でしかない人間はまるで大地というゲーム盤に乗せられた駒のように見える、ととらえることもできるだろう。ゲームから退場していく多くの死者たちと、生き残ってゲームを続ける生者たち。次がいつくるかは分からないからこそ、次に備え、次におびえる。あるいは、次が来ることなど露とも思わない人もいる。これがゲームであると認識している「私」はおそらく前者なのだろう。「私」のこの自覚は、最初の会話に戻ることでようやくはっきりとつかめる。対して、生きることに精一杯な「リーダー」は後者に近い。

 生きることへの執着が、終わってしまった世界のあとを生き続けるためという絶望的な中にうまれるかすかな希望から生まれている。ストーリーの中の「私」はかなり淡々としていて、冷静に周りを見ている。「私」自身が直接的で具体的な何らかの行動をとるわけではない。ただ、傍観しているだけではなく、内に秘めた決意だけははっきりと固まっていく。それを誰かに明かすことは想定されていないし、そのつもりもないのだろうと思う。ただ利他的に、自分の欲を果たすために生きるようになるまでの、「私」の物語なのである。

 たぶんアフター3.11的な切り口で大きな枠組みから語ることもできるのだろうとは思う。ただ、「私」が行き着いたのは自分の中の決意を固めるという、小さくても強固な希望であり、ある意味ではそれしかないとも言える。何かを果たそうと思った人間は先に倒れていき、変容しながらも私性を貫く人間が生きのびる。もっとも弱さを自覚している人間が実はたくましかった、というのは皮肉以外の何でもないのかもしれないが、どうやって生きてもある日突然訪れてしまう死に、人は究極的には抗うことはできない。最低限、大地のゲームに勝ち続けるということを、自覚しないかぎりにおいては。 


※追記(2013/2/28)
 アクセスがいつも以上に伸びてるなあと思ってログを調べたところ、ちょうど最近の日経新聞の春秋欄に載ったことも一因のようで、せっかくなのでリンクを貼っておきます。
 日経はふだんチェックしてないのでこの記事を書かなければ春秋欄を見ることもなかったんだな、と思うと不思議な巡り合わせにも感じますね。
日本経済新聞 春秋 2013/2/24付

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