Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

    原作で久美子たちが二年生に進級したシリーズのうち、「リズと青い鳥」というタイトルで別立ての作品にするという発想はなかった。簡単に言えばスピンオフということなのだろうけれど、スピンオフと言うときには通常メインがあってのサブ、であるはずだ。しかしこの映画の場合、メインであるものはきれいに捨象されている。いわば影だったものが光になり、新しい物として立ち現れるような感覚。

  「リズと青い鳥」と題された楽曲も原作も架空のものであるため、いわゆる童話として知られる青い鳥の物語とは異なる。影響は受けているだろうが、「リズと青い鳥」という作中作と、同タイトルのこの映画のシンクロを楽しむ、という仕立てだ。傘木希美と鎧塚みぞれの二人は、とりわけユーフォ二期では重要な役割を果たすものの、脇役には違いがなかった。よく目立つサブキャラという意味では、夏紀や優子の関係だってそうだ。でも久美子や麗奈たちから始まるストーリーと比べると脇道になる。その脇こそが重要でしょうというところがまず非常に山田尚子っぽいと思った。

    山田尚子っぽさとは何かと言うと難しいというかそれだけで長い文章になってしまうが、『たまこラブストーリー』や『聲の形』から読み解くとすると、誰かのために決断することや誰かに依存することを肯定しているように思う。いや、そこまではいかなくとも、依存関係の生み出す力への信頼はあるだろうと思う。なので今回のぞみぞれを主役に選んだことには違和感がないというか、そうきたかーという思いが強い。だが原作者の武田綾乃は、この二人の関係を以前よりもさらにゆさぶってくる。言うならば、何らかの形で関係性の変化が生じようとする、その少し前の出来事だ。その武田綾乃の揺さぶりに対して、原作のストーリーを大きく変更することなく正面から受け止めた形となったのが劇場版だ。

  出来事はいくつかのさらに区切られたシーンによって構成されているが、いずれも非常に静かなものだ。この映画では音楽室での演奏シーンはあるが、コンクールまでは描かれない。オーディションの存在は言及されるが、実際に描写されるのはその前後でしかない。前述した音楽室での練習風景を含め、全般的に非常に静かな雰囲気がただよう。だから今回も、agraphの奏でるサウンドが、映画そのものを力強く下支えしている。

  なぜ静かなまま描くのか。ひとつは、この映画が希美とみぞれの日常を切り取ったドキュメンタリータッチで描かれるから、とも言えるだろう。なにかのインタビューでも山田尚子が実際にこれはドキュメンタリーだと語っていたが、ドラマではないという意味では確かにそうなのだと思う。コンクールに向けた練習風景は描写されるもののコンクールそのものは描写されない。あるいは、本編の主人公であった黄前久美子や高坂麗奈も、ほんのわずかしか登場しない(しかしそのごくわずかな登場シーンには明確な意味はあった)。このように、ドラマ、劇性と呼ばれるようなエピソードは、ほとんど挿入されない。

 それは『聲の形』でもそうであったかもしれない。原作では小学校時代を大幅にカットしていたり、高校生になってからの映画の製作や、それに伴ってかつてすごした小学校を訪れるというイベントも挿入されていたが、あくまで『聲の形』も本筋は濃密な人間関係を描写することであり、それ以外のものはあとからついてくるように構成されていたと言ってよい。とりわけ濃密な人間関係の描写は、彼ら彼女らの高校生活において微細に変化していく内面を執拗なほどに提示してくる。

 そしてもちろん、『リズと青い鳥』においても内面は重要だ。とりわけ静かで寡黙で、信頼のおける友人にしか感情を吐露しないみぞれと、底抜けに明るくて人望があるが、本音の部分では何を考えているかは定かではない希美。ユーフォニアムシリーズ本編でもこの二人の関係が決定的に変わったわけではなく、一種の和解はしたものの、どちらかと言えばそれは古い関係を取り戻したにすぎなかった。そこで武田綾乃はもう一度二人に問いかける。君たちの本音が見たい、と。

 2017年秋クールに放映された『Just Because!』を引き合いに出すならば、高校3年生における進路選択というものはそれぞれの感情を揺さぶるには十分だろうし、人間関係にも大きく変化をもたらしていくことになる。しかしそれは、何かを選択するという行為から逃げていては達成できるものではない。みぞれにとって希美という「理由」があることはみぞれにとって非常に楽な状態であり、選択から逃げられる状態でもあった。しかしそれではみぞれは自身の才能を縛りつけてしまうかもしれないことを、コンクールの練習に向けた中で指摘される。こうして自分を縛っているものの存在と、彼女は向き合う必要に迫られるのだ。

 希美もまた、いつまでも同じようにみぞれと人生を歩めないことはわかっている。彼女はある種の天然とも言えるだろうが、きっと頭がいい。自分自身がみぞれに与えているイメージを自覚しながら生きている彼女も、志望校という選択、一般の大学が音大かという選択に、みぞれがいるがゆえの選択に迫られる。底抜けに明るくて、常に笑顔をふりまく彼女には東山奈央の声が本当に良く似合うのだが、それもまた彼女の持つ一面でしかないことを、みぞれも、そして優子や夏紀はよく分かっている。

   タイトルにある誰かのためには生きられないが、は誰かのため「というだけでは」生きられない、くらいの意味だが、その変わりに自分の人生を選択するということを肯定的にとらえたい、というのが最初にも触れたように山田尚子の真髄なのだと思う。人生に明確な正解はないとしても、選んだことと選ばなかったことは常に自分の人生の目の前にある。それらを引き受けながら生きることを、否定するべきではないのだと山田尚子はこれまでもつきつけてきた。
 
   これも方々で指摘されていることだが、ローファーを履いた足で音を立てながら歩くシーンが映画にはよく登場する。その足音はかぼそくて不安がちにも見える。かつてルソーはアイデアを求めてあちらこちらをひとりでさ迷い歩いたと著書に残しているが、希美やみぞれの場合はどうだろうか。彼女たちのさまよう先にはどんな未来があるだろうか。

   そんなことも考えながら映画を見ていたが、それぞれの選択が二人を分かつとしても、それは彼女たちが孤独になるわけではなく、新しい関係を結びなおすことなのだと思う。美しい結末は彼女たちの選択に対する祝福であり、未来へのはなむけでもあるのだろう。二人の、それぞれの人生が幸せなものでありますように。
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