2015年12月28日

2015年コンテンツ回顧

●小説(国内)
1.米澤穂信『王とサーカス』
2.滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』
3.柴崎友香『パノララ』
次点:渡航『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』11巻(ガガガ文庫)

 2014年に『満願』で各種ミステリベストを制した米澤が『さよなら妖精』の10年後を書いた小説で再びランキングを制するという結果に。『満願』はまだ読んでないのでなんとも言えないけれど、『王とサーカス』はある意味では『さよなら妖精』の正統な続編だし、しかしまったく別物の小説に仕上げているというぜいたくさが味わえる。
 レビューで長く書いたので短くまとめるが、『さよなら妖精』が青春の屈折だとするならば『王とサーカス』はプロフェッショナルとしての屈折であろうし、守屋がマーヤに接近しつつおれたところと、太刀洗がネパールで出会う人々に対するアプローチの困難さは類似するものが多い。しかしほとんどなにもできなかった守屋と異なり、10年後の太刀洗には様々な武器がある。そこがプロフェッショナルの挫折と格闘を書いたこの小説の大きな醍醐味となっているし、ミステリーとしても非常に面白く、読者を引き込ませてくれる。舞台設定にはかなり難儀しただろうが、日本とは違う異国であることを基盤とした物語に大いに魅了された。
 滝口は今年三島賞と芥川賞にノミネートされ、年明けの芥川賞にも「死んでいない者」がノミネートされるなど勢いにのっている。ジミヘンとロードノベルと3.11後の東北といったやや詰め込みがちなこの中編小説にも、滝口の持ち味である時間と空間のトリックが自在に発揮されていて読むのが楽しい。同じく時間を操作した小説である『パノララ』を書き上げた柴崎にも、新しい魅力を存分に感じることができた。
 次点はこちらもこのラノ三連覇という記録を打ち立てた俺ガイルをセレクト。みんなの関係性がちょっとずつ変わっていく。学年的にまだ高校生活は続いていくわけだが、別れの日は近いかもしれない。雪解けの春はすぐそこにある、のか。

王とサーカス
米澤 穂信
東京創元社
2015-07-29




パノララ
柴崎 友香
講談社
2015-01-15




●小説(海外)
1.ミッチェル『風と共に去りぬ』(新潮文庫、全5巻)
2.ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』
3.ラモーナ・オースベル『生まれるためのガイドブック』
次点:ケン・リュウ『紙の動物園』

 ミッチェルの有名作を鴻巣さんが新訳で、ということで読んでみたが思った以上に楽しく読めた。細かいところでどこが現代的な訳か、というところまでは意識しなかったし、戦乱に巻き込まれるなかでの生活という時代特有の要素は大きいわけだけど、めげずに自立していくかつてはおてんばだった少女と、様々な誘惑をちらつかせるレット・バトラーという対比は作劇としても分かりやすくて魅力的。
 ボラーニョは白水社から訳出が続いていて読むのが追い付かないけど、架空の文学者辞典を一個の物語に仕立てる手腕は驚くし、そして面白い。あの超大作『2666』にもつながる人物があるとのことだが、まだあの長すぎる小説を再読する勇気はまだない。ほんとうにぽっかりと時間ができたときにまたむさぼるように楽しみたい。
 オースベルのこの本も白水社から出ているので海外小説は白水社ばかり読んでいたかもしない。あと新潮社。オースベル自身はまだ若い女性の作家だが、生まれるまでと生まれてから死ぬまでの人生のライフステージを細かく切り取って一つのオムニバス小説として仕上げたこの本は本国でもなかなかに評判らしい。いくつかの英語の記事を読んでみたが、一つは若い女性らしいビビッドさ(妊娠や出産をめぐる視点など)が小説にいかされてるのは間違いないということ。それだけでは単に女性らしい、という以外の要素にもふんだんに想像力を働かせて物語を書く力がある、つまり普遍的な小説かとしての能力を有しているからこそ評価されているのだろうと思う。訳されているのはまだ本書だけのようだが、新訳を楽しみにする海外作家がまた一人増えたのはとても嬉しい。
 ケン・リュウは初めて読んだが、個人的にSFの短編ですぐれたものを書ける書き手は高く評価したい。SFというジャンルはアイデアをつめこめば長くなってしまいがちなので、シンプルに短くまとめられる才能は貴重だ。本の内容については、表題作と「もののあはれ」が素晴らしかった。

風と共に去りぬ 第1巻 (新潮文庫)
マーガレット ミッチェル
新潮社
2015-03-28








●評論、学術、ノンフィクション
1.渡辺直己『小説技術論』
2.筒井淳也『仕事と家族』
3.マルティ・パラルナウ『ペップ・グアルディオラ』
次点:魚川祐司『だから仏教は面白い!』

 なおみーの本は保坂和志以降の現代小説の一トレンドをおさえた「移人称小説論」が読めるのでオススメ。
 筒井淳也はシノドスなどで文章を読んだことはあったがまとまった本を読んだのはこれが初めて。最近良作が続く中公新書ならではの堅実さとクオリティの高さ(もはや新書ではない感じ)を体現した一冊。仕事と家族がいかに両立されえないかを様々なパターンを提示して分析した上で各国の政策や取り組みを見ながら未来図を考えるという意義のある一冊。突破口はさほど大きくないが、それでもなにかをしなければ仕事と家族の関係はどちらもが疲弊して終わるだけだ。
 パラルナウのペップ本は密着したからこそ書ける充実の一冊で、訳も読みやすく本の価格を考えると十分元をとれた一冊。ペップがバイエルンを率いるのは今季で一区切りかもしれないが、だからこそいまのうちに読むべき価値のある本。
 ニー仏さんは単著を二冊出すという年だったが、配信を書籍化したこの本がとても読みやすく分かりやすく、そして面白いというなかなか完璧な本だった。『ゼロポイント』のほうはまだ積んでるので読まねば。

小説技術論
渡部 直己
河出書房新社
2015-06-23








●マンガ
1.アキリ『ストレッチ』
2.東村アキコ『かくかくしかじか』
3.冬目景『マホロミ』
次点:武者サブ『冴えない彼女の育てかた 恋するメトロノーム』、志村貴子『淡島百景』

 『ストレッチ』に泣き、『かくかくしかじか』に泣き、『マホロミ』が4巻というコンパクトなサイズで美しく完結したことに感動した一年だった。
 『ストレッチ』は非常に実用的で、電子書籍で落としたページをめくりながらベッドの上で身体を動かしまくりました。東京のどこかにありそうな日常を書きながらも実はポスト3.11を生きる二人でもあるということが物語の端々に挿入される。そうした重要な過去が現在に与える影響は実はさほど大きくないけれど、時おり矢のように突き刺さってくる。そのときに一人なら耐えられないかもしれない、でも二人なら、という希望的な日常が、様々なゆるふわなエピソードを心理的に補強してくれるメタメッセージになっている。最後の別れの瞬間までこうした構造は大きく変わらないし、ミステリーじゃないからいくつかの謎が解かれることもない。ただ、日常は変化とともにあって、変化する日々をこれからも生きていくしかない。でもそうした変化も、この二人ならきっと大丈夫なんじゃないか。別れのシーンにはいくらかの悲しさがあるが、不思議な安心感がある。その感情が、とてもいとおしい。
 『かくかくしかじか』については描くことを書くことに置き換えたら非常にズキズキくるストーリーで、自分はなぜ書こうとしているのかであるとか、書くことを続けられるのかとかをいやでも考えてしまった。マンガのようにドラマチックなエピソードがさほどあるわけではないけど、東村アキコの出身大学の卒展を以前金沢に行ったときに見たことを思い出したし、彼女が宮崎出身で地元宮崎の風景がマンガの中に描かれているのを見ると、宮崎出身の重要な友人を思い出さずにはいられなくて、いくらかセンチメンタルにもなったりした。
 冬目景は結果的に『マホロミ』と『イエスタデイズをうたって』をほぼ同時に完結させることに成功した。しなこ先生派としてはやや納得がいかないまでも、ある意味物語のスタート地点に戻ったというか、同じところを違う視点で眺めるような、きれいな幕切れだったのかもしれない。『マホロミ』はもう少し続けることもできただろうけど、これはこれで建築の歴史をめぐる青春模様としてのコンセプトが一貫していてよかった。人と人の間にあるものを書くのが基本的にこの作家はうまいわけだけど、そこに時間や歴史といった次元が加わると物語にぐっと奥行きが広がっていくところがとても好きだった。
 次点の恋メトはまあ詩羽先輩好きとしては極上のスピンオフなので。志村貴子は例年に見ないほど精力的に本を出した(画集も出している)一年だったが、どこかの学校の寮生活を連作形式で書いた『淡島百景』が『青い花』のような学校と少女たちの関係性や生きざまをめぐる物語をアップデートした感じでとても好み。









淡島百景 1
志村貴子
太田出版
2015-06-19


●アニメ
1.SHIROBAKO
2.響け!ユーフォニアム
3.グリザイアの楽園
次点:THE IDOLM@STER シンデレラガールズ

 アニメの個別評価については冬コミ新刊の『Fani通 2015上半期』で詳しく書いたのでできればぜひそちらを、と思いつつ、そのなかで触れられなかった『SHIROBAKO』について少しだけ。
 このアニメを一言でまとめるのは難しいけれど、P.A.WORKSがポスト青春期の物語として提示したい一つのイメージが宮森あおいとその仲間たちに投影されていたのだろうと思う。お仕事ものとしては『花咲くいろは』に次ぐ第二弾という触れ込みだが、花いろは高校生たちの青春群像劇という要素が途中まではかなり強かった。(最終的には女三代記として朝ドラ的な展開に回帰していく)
 その点、『SHIROBAKO』は学生ではないキャラクターたちのお仕事奮闘記であり、地方からの上京物語でもあるし、高校から社会人へといった形で引き継がれる関係性をベースにしたいままでのP.A.WORKSにはなかったような青春ものでもある。
 で、社会人のお話を書きながら同時に青春ものとしても仕立てるにはドラマが欠かせないわけだけど、そのドラマを書くための舞台がアニメ制作業界だったのは制作陣がもっとも知りうることのできる環境という点ではリアルな物語に仕立てあげやすい。
 結果的にはリアルとフィクションが混在したようなアニメになっているわけだけど、それはアニメという手段(実写ではないということ)を選んだ強みをいかした結果でもあるはず。そして至るところにアニメに対する情熱や愛が満ちあふれている。そこがなにより『SHIROBAKO』の強みになっただろうと思う。
  
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2015-06-17


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●映画
1.Mommy
2.心が叫びたがってるんだ
3.海街Diary
次点:セッション

 キャラクターの躍動と、筋書きの読めなさ。『わたしはロランス』とは違う意味で、でもにたようなことを『Mommy』を見て感じた。うまくまとめることができなかったのでレビューは書いてないけど、ちゃんと映画館で目撃してよかった、と思えた映画には仕上がっている。
 ここさけは期待値以上に楽しめたし、海街も原作の質感を損なわない形で一本の映画として魅力的な作品になっていた。ただでさえ綾瀬はるかや長澤まさみが同じ屋根の下で、という画としての面白さがあるわけだけど、それ以上に彼女たちがしっかりキャラクターになっていた、そのことがとても楽しく、そして味わい深く見ることができた大きな要因だと思う。

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2015-12-02




海街diary Blu-rayスペシャル・エディション
綾瀬はるか
ポニーキャニオン
2015-12-16




●展覧会
1.風景画の誕生展@Bunkamuraミュージアム
2.マグリット展@京都市美術館
3.春画展@永青文庫
次点:チューリッヒ美術館展@神戸市博物館

 展示されているものだけの素晴らしさを語るならマグリット展や春画展のような大規模かつ貴重な展覧会を挙げるべきだろうけど、風景画の誕生展が面白かったのは絵画を一つ一つ見ながら歴史に裏付けされた明確なストーリーを味わえるところだ。教養主義的でもあるなあとは思ったものの、最近美術史に関する本をいくつか読んだタイミングとしてはもっとも面白く見ることのできた展示がこれだった。


 以上、こんな感じ。小説は今年もかなり読んだが新しいものよりも古いものを多く読んだ気がする。その上で海外小説の割合を意識的に増やしていったので、来年もうまいことバランス取りながら読んでいきたい。英米だけじゃなくてドイツ、フランス、ロシア、ラテアメあたりも。
 音楽だけは去年と一昨年同様、2015年のアルバム10枚的な感じで別記事にしてまとめようかと思っているので、次回。
2012年12月18日

2012年コンテンツ回顧

 例によって年の瀬恒例の。
 そういえば週末に文フリの記事がはてぶやらRTやらを複数いただいたようで、139PVという過疎ブログにしては年に一度もない3ケタをいただきました。どうもありがとうございました。当ブログを初めて閲覧した人も多いと思いますが、今後もひいきにしていただけると助かります(ぺこり

 それでは本題へ。小説→アニメ→映画→音楽の順。

【小説】
柴崎友香「わたしがいなかった街で」(『新潮』4月号掲載、のち「ここで、ここで」を併収して単行本化)
松家仁之「火山のふもとで」(『新潮』7月号掲載、のち単行本化
綿矢りさ「ひらいて」(『新潮』5月号掲載、のち単行本化
次点:岡本学「架空列車」(第55回群像新人文学賞受賞。『群像』6月号掲載、のち単行本化)

わたしがいなかった街で
わたしがいなかった街で


火山のふもとで
火山のふもとで


ひらいて
ひらいて


架空列車
架空列車


 新潮にやたら固まってしまったが、群像と新潮のなかからいくつか読むということを意識して続けた一年だったのでこうなりました。この2冊なら大学図書館で読めるしね。
 ただ、衝撃の発表でもあった円城、伊藤の『屍者の帝国』は買ったまま大事にしてあってまだ読んでません。年越ししながら読むかという心づもり。あと、現在進行形で読んでいる長谷敏史『BEATLESS』もなかなか評判のいい大作なので、こういうぬけもれはあります。
 他に売れた本のなかで気になってるというほどのものはあまりないかなあ。このミス2013も発売されてたのでぱらぱらとめくったが、もう昔みたくミステリーだからというだけで食指が伸びなくなったのを感じる。なんでかしらん。SFは今も昔も大好物なんだけどね。

 閑話休題。柴崎はいくつか読んでいたのだが今年発表したこの長編が圧倒的でした。オチが弱いんじゃね、という感じはするけれども「いま、ここ」を相対化することから始まり、「いま、ここ」と物理的、時間的に遠いどこかとの距離を見据え、縮まらないと分かりつつ想像力を膨らませようというその試みは2012年のいま必要なんじゃないかな、とも感じる。まあ、こういう見方で小説を評価していいのかどうか問題はあるかもしれないが。詳しくは投稿したエントリーをごらんになってください。
 松家さんの処女長編は、処女作とは思えないほど丁寧で重みのある文章で書かれおり、派手さはないが濃密な人間ドラマがひとつの空間と夏の浅間山を舞台に展開されていく。うまく言葉にはできないが、読書しててよかったと思わせてくれる一冊。文字を、言葉を味わいながら人と人とのドラマを読むことは、最上の楽しみだなあと。
 綿矢は同時期に『群像』にも「人生ゲーム」という短編を発表したり、『かわいそうだね?』で大江健三郎賞を受賞したり、かなり充実した一年だったんだろうと思う。どこかで大江との対談も読んだが、大江が綿矢にこめる期待感をひしひしと感じた。

【アニメ】
氷菓
坂道のアポロン
モーレツ宇宙海賊
次点:夏色キセキ、夏雪ランデブー





 1クール平均10前後は見ているのでアニメは現在放映中のものも含めて40本近くは見たかな。一時期は一日を終えて深夜アニメを見るのが生きるモチベーションだったりもしたので貴重な栄養分だった。これからもたぶんそう。今クール放映中のPSYCO-PASSがどう終わるのかによって個人的ランキングが変わってくるが今クールは個人的に小粒な印象。あーけど中二病見てないのでなんとも言えないか。
 夏色キセキ以外は原作ものということで、2011年に比べるとオリジナルアニメの勢いは若干そがれたかなという気はする。もちろんいくつか見てないのもあるのでそれ以上はなんとも言えないが。シンフォギアも途中まで見たが録画の失敗を繰り返したので完走はしてない。

 スロースタートの印象が強かったが愚者のエンドロール編以降じわじわと盛り上げ、クドリャフカ編でピークに達した後、一話完結のものをいくつか続けて一年間の物語をしめくくるという非常に全体の構成がきれいだった。スロースタートなのは原作ゆえの影響もあるのでまあ仕方ないし、ちゃんと見続けることで十分楽しませてくれた。ちょっとというか、ここまで千反田えるってあざとかったっけ?とは思ったものもw まあ原作でも『遠回りする雛』ではなかなかあざとさを発揮していた記憶はあったが。
 ベストエピソードはチョコレート事件の21話。最終回の22話もきれいだったが、伊原摩耶華好きとしてはこのエピソードは至高。原作にない演出もいくつかあったり、ゲーセンでやってるゲームがバーチャロンそのままだったりと、1話のなかでここまでつめこむか、という回でもあった。さすが京アニ。

 シンフォギアにしろ「TARI TARI」にしろ(「夏色キセキ」も部分的にそうか)アニメと音楽の関係が今年は目立っていたかも知れない。そのなかでも坂道のアポロンは音楽の面では丁寧に作られていた印象。時代考証的な問題はあるようだし、まああるかなという気はするが(あんまり50年前の空気感じゃなかったしなあ)最後まで楽しかったです。最後のほうが駆け足になるのはノイタミナなのでしゃーない。
 モーレツパイレーツは最初の方はほとんど見てなかったけど、ニコ生の一挙放送で見て追いつき、そのあとテレビで最後まで楽しく見た。小松未可子という、今後楽しみな声優かつ歌い手と出会えたというだけで個人的には収穫が大きかったが、役割を自覚し、だんだん役割が体に合ってくる、という過程を2クール使ってちゃんと描けていたのでお話としてもいいまとまりになっていったのがこのアニメだった。

 次点のなかからは夏ものの2本。夏色キセキもじわじわと個人的な評価を上げていった作品で、最初は日常系かと思ったら日常系のテイストを生かしつつ、ジュブナイル的なSFの要素もあるという、しっかりとしたストーリーの軸があったからこそうまくいったアニメ。
 夏雪ランデブーは六花ちゃんかわいいよ六花ちゃんでFA。大原さやかは至高。

【映画】
(邦画)
ヒミズ
次点:桐島、部活やめるってよ





 映画館で見たのが多くないのでこんなところかな。ヒミズは染谷くんと二階堂ふみがとても生き生きしていてよかったと思います。「かぞくのくに」を結局見に行けなかったのが大きな後悔。ちゃんと時間作れというお話ですね。
 桐島はいろんな意味で話題の尽きない(語り甲斐があるという意味で)作品なので、人とあれやこれや言いながら見ると楽しそうだなーと思います。

(洋画)
ものすごくうるさくて、ありえないほど近い [Extremey Loud and Incredibly Close]





 これも主演の男の子のオスカーくんがすばらしかった。別にショタコンでもなんでもないがこれはよかった。映画館とニコ生の有料放送で2回見た。

(ノンフィクション)
相馬看花 第一部
次点:フタバから遠く離れて







 「相馬看花」はエントリーに書いたので省略。
 「フタバから遠く離れて」はある人が薦めていたこともあって見たのだが、非常に淡々と出来事を見つめている。もちろん、出てくる人、主に双葉町からの避難民の方の語りはあるし、井戸川町長へのインタビューなども試みてはいるが、時間の経過が残酷なまでに感じられるのは現状がよくなっていっているようには思えないからだろう。
 ではやるせないのか、と言えばそうでもない。町長も住民の多くも、戻ろうとしているし戻りたがっている。確固たる地元というものを持つ人たちにとって、ずっと生きてきた地元を離れ、ある日突然どこかで生きていくしかないという現実をつきつけられたのはそれ自体かなり酷なことだ。


(アニメ)
伏 鉄砲娘の捕物帖
ヱヴァQ
ねらわれた学園
次点:おおかみこどもの雨と雪

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 下半期に上映されたものが固まったが、春に上映されたものでいくつか見てないのもあるので(BLOOD-Cとか図書館戦争とか)こんな感じ。あと見ていなくて気になってるのだとゴティックメードかな。年内に見る時間があるか。
 この3作はいずれもブログエントリーに起こしているので詳しくはそちらを。まどマギ劇場版をあえて外したのは総集編という重みが強いので、単体として評価するならこっちかな。
 おおかみこどもは後半の展開がすさまじかった。12年間を2時間に圧縮しているなかでどこまでを表現するのかと思ったけど、前半部の説明的な展開とは違って後半部分はかなりドラマチックな展開。あの広く壮大な絵の中で見せる手腕はさすがだなあと感じた。
 おおかみこどもとまどマギとヱヴァが重なったこともあったし、見ていなかったものも含め劇場アニメの収穫は多い一年だったように思う。テレビアニメが2011年に比べると勢いがやや弱かった印象がある(個性の強い作品は多かったと思うが)し、来年も年明け以降STAR DRIVER、花咲くいろはなどなどが予定されていることもあり、劇場でのアニメを見る機会は来年も多くありそうだ。ああ、今年の最終週には青エクも上映が始まるんだったか。
 
【音楽】
(メジャー)
宇多田ヒカル「桜流し」
古川本舗『ガールフレンド・フロム・キョウト』
Tomato 'n Pine『POP SONG 4U』
次点:中島愛『Be with you』、livetune feat.初音ミク「Tell Your World」

 耳が幸せという基準で選んだらこの3つになりました。桜流しはもう100回以上聞いてるんじゃないかと思われます。古川さんの2ndもエントリーに書いたけどほんとにすごかった・・・
 トマパイのPSP4Uがでたときには、まさか解散するとは思ってなかったので最初で最後の3人でのアルバムになったんだなあと思うと宝物かもしれないな。それは言い過ぎか。





PS4U(初回生産限定盤)(DVD付)
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Be With You(初回限定盤)(DVD付)
Be With You(初回限定盤)(DVD付)



(同人)
QUADROPHENIA『slow』
fhana『New World Line』
沙野カモメ『夏の星空 E.P.』
次点:acane madder『ライトガール』

 エレクトロニカを好きになってよかったと再確認させてくれたアルバムをチョイス。宮沢もよよさん、村上くるるさんといっサークル所属のメンバーにLeggysaladくんがリミックスで参加していたりわっふーである。いまはとらのあなの通販で手に入れられるようです。


 そのLeggysaladくんも所属しているfhanaの『New World Line』もすばらしかった。歌っているボーカリストが好みすぎてもうね、という。「kotonoha breakdown」もかなりの回数聞き込んだなあ。monoral in the stereoというバンドのボーカルをつとめていたtowanaさんが2曲歌っているのもよくて、モノステのライブは2年前に1回見たことがあるがこのときよりも格段に歌が上達しているのが分かる。独特なはかなさと甘美さを持った声そのままに、迫力もついてきたなという感じ。amazonでも流通しているので手に入れられます。
New World Line
New World Line



 今年も精力的に製作をしていた沙野カモメさんですが、一番お気に入りはこの4曲入りのE.P.でした。冬に出した『science(non)fiction』もすごく好きなアルバム。カモメさんの曲は公式サイトで視聴できたり購入できたりダウンロードできるのでぜひぜひ。


 週末のボーマス23でようやくげっとした茜さんの2ndアルバムを次点として滑り込みで。コンセプトも素敵だし、茶ころさんと夏さんのアートワークも素敵だし、茜さんの音楽に出会えてよかったと再確認。


 というわけで、こんなところかな。今年は読んだ小説の数は減ったが見た映画とアニメの数はたぶん増えてるはず。来年はあまりゆとりのない一年になりそうだけど、まあ合間合間にいろんなコンテンツに触れていたいなと思います。というか触れないとひからびる体質だろうしなあ。
2012年06月30日

福島のリアリティをみつめた日―「相馬看花 第一部」と「飯舘村一年」

「相馬看花 ―第一部 奪われたときの記憶―」
監督:松林要樹
出演:田中京子ほか
公式サイト:http://www.somakanka.com/
見:オーディトリウム渋谷


 この前の日曜日の午後、渋谷のオーディトリウムという映画館で「相馬看花」という、3.11以降の南相馬を追いかけたドキュメンタリー映画を見てきた。はじめていったけど、ユーロスペースの入ってる建物としてなんとなく納得。
 先月の朝日夕刊でこの映画のことを知り、機会を見ていくつもりだったのだが、ちょうどこの日は批評家の佐々木淳と監督である松林要樹が対談する、というセッションが上映後にあったので行ってきた。日曜日の昼間にもかかわらず、という言明もあったけれど、日曜日の昼間だからこそ見に行けたとも言えるのでまずはその点に感謝したいところ。

 映像の構成はシンプル。監督が南相馬で偶然であったという田中京子さんという市議会議員の方の撮影から始まり、田中さんを介して出会った人たちを継続的に追いかけるというもの。そういう経緯もあるので登場人物はさほど多くはないが、その分濃密だ。2時間と言わずもっともっと、彼らのことを知りたいと思うほど、出てくる人たちが魅力的なのだ。もちろんその魅力を引き出したのは監督の腕によるところも大きいだろう。
 ドキュメンタリーの醍醐味は事実をリアリティとして残すことにあると思うが、ドキュメンタリー「映画」である醍醐味はテレビ局の事情のようなものが介在しない、純粋に監督個人の作品として見ることができるところにもあると思う。いろいろな制約がある以上、マスメディアが撮影、放送するドキュメンタリーほど大味ではないかもしれないが、大味でないことの魅力がつまった2時間になっている。テレビだと脚色や演出がご都合主義的に入る場合があるし、それ自体が悪いわけではないがリアリティとは何か、を考えると難しい問題になる。
 とはいえ、機動性をいかしたからこそ生まれた映像もいくつかある。たとえば田中さんや末永さんの生活する避難所を定点観測している映像は、マスメディアのニュース映像とは比較にならないほど濃密なものである。体育館のなかでひとりひとりが線量を測定する映像もなかなか衝撃的だった。状況は大きく変化した。それでも生きている人たちがいる。変わったことも、変わらなかったことも、両方が混在している。

 この前土地をめぐるエントリーを書いたが、監督も同じようなことに興味をもって南相馬を撮り続けたのではないか、と思いながら見ていた。つまり、土地の人を映すことによって、その人を通じてあぶり出すものを映像として生み出すことである。登場人物のひとりであるかつて市議会議員をやっていた末永武さんや、約10年間福島第一原発で仕事をしていたという粂忠さんの語る物語は、土地の歴史(の一部ではあるとしても)そのものでもあるのだから。
 このへんの話は上映後のトークで佐々木敦が指摘していたことでもある。佐々木さん曰く、この映画が素晴らしいのは分かりやすく告発しようとしているのではないこと。そこにいる人のたいへんさをストレートに伝えるのではなく、土地の記憶のようなものを引き出そうとしている。そこには時間の広がりがあるのではないか、と。(*1)
 時間の広がりを感じるには、まずは長く生きた人に問うことなのだろう。

 文章にしてみて改めて思ったが、この映画を見て感じたことは多い。しかし、この映画の内容をうまく文章に起こすことができない。粂さんの柔和な表情と表現豊かな方言も、末永さんの熱意も、言葉にすれば短くおさまるが感じたことをそのまま書くことはいまはできないな、と。
 大づかみとしてはいままで書いてきたようなことが映画の中には投影されている。伝えたい、という監督の思いと、語りをもって伝えたいという南相馬の人たち。映像は文字通り、人の息づかいを伝えることのできるメディアであるということを、改めて感じた。

*******

 同じ日の夜に、NHKのETV特集で「飯舘村一年 〜人間と放射能の記録〜」という番組を見た。昼間に109分、夜に90分、計200分ほどこの日は福島をみつめ、考えた一日になった。
 この特集の構成は全村避難後のそれぞれの人々の状況を追う形をとっていて、主に仕事と子育てをめぐるエピソードが多い。住むことは働くことでもあり、働くことは住むことでもある。住めないなら外で働くかいいのか、働くならどこに住むのがいいのか、子育てをするためにはどうすれば・・・という幾多の迷いが映像におさめられている。90分の間のほとんどは重たい空気が覆う。

 空気の重たさについてもそうだが、ETV特集としてはこの切り口をとったんだろうなと率直に感じた。リアリティを伝える以上に、その様相を伝えること。語りを引き出しつつ、エモーショナルな言明を引き出す。佐々木さんの言葉を使えば、たいへんさに重きを置いているように見えた。
 とはいえ、強調しすぎる結果になっていないのは、ETV特集的な(といっていいのかどうかはあやふやではあるが)ストイシズムのようなものを感じる。NHKスペシャルは時々前のめりするというか、伝えたい思いありきの番組構成になることがしばしばあるが、ETV特集のよさはある程度ストイックに現実を伝えること。その現実は、他の番組ではカットされたり扱われないような対象であり、継続的であることだと思っている。

 福島をみつめる一日を過ごしながら、映像としてそれを見ることの可能性と限界についても思いをめぐらした。当たり前だがあくまで福島で起こっていることのほんの一部であり、あえて福島という言葉を使って書いているが厳密にはもっと具体的な地名(市町村である南相馬や飯舘、あるいはもっと小さい範囲で)で語るほうが適切だろう。
 とはいえ、現実に福島あるいはフクシマとして認識が及んでいるのも事実だ。こうなってしまっているという前提をある程度考慮しつつ、引きずられないような形で、これからも福島をみつめていたいと思う。

 自分が福島に初めて足を踏み入れてから、5ヶ月半ほどが経つ。(*2)
 直接訪れてできること、分かることはあるが、あくまで個人には限界もある。だからこの日のように、コンテンツを通じて福島をみつめること、厳密にはコンテンツのその先にある福島のリアリティをみつめることを、これからも続けていきたいといまは考えている。
 映画「相馬看花」第一部に関しては来週金曜まで渋谷で上映中のようです。また、DVDがここ(http://tongpoo-films.shop-pro.jp/?pid=42899723)で購入できるよう。

*1 手元のメモを元に構成したので、トーク内容は書かれている言葉通りそのままではないです。ご容赦。
 
*2 福島を訪れた2日間をエントリーにしたものはこちら→「鈍行列車のたしなみ nach ふくしま」(2012/1/10)
2012年06月25日

家族をテーマにしたドラマを2本見ての雑感

 NHKが2011年に放送した単発ドラマを最近2本見た。ひとつは「風をあつめて」という障害児と親の物語、もうひとつは「生むと生まれるそれからのこと」という若い男女が結婚、出産に至るまでのプロセスのお話。たまたまどっちとも家族の物語だったのはほんとうにたまたまだと思うけど、面白かったのでややメモ的に。

風をあつめて http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/8000/68593.html
 熊本で実際にあったお話で、筋ジスの娘をふたり授かった親の葛藤と格闘、再生の物語といったところ。
 1時間しかなかったのでどうしても尺の短さが結果的に目立った。その上でいくつか指摘しておくと、まずはよく突き当たる問題ではあるのだろうけど普通さとは何ぞやという問題。
 普通さを望み、願うこと自体は排除される必要はない。とはいえ、目の前にいる娘と向き合ったときに何を思うか。このへんは直接の産みの主体である母親と、多少距離のある父親とは齟齬があって、やや対立もする。このへんの過程は見ていてリアルだなあと思っていた。

 普通さを願うのは障害児だからだろうけれど、こうあってほしいと願ったり望んだりというのは父親にしろ母親にしろ、いまとは違う状態へのないものねだりはどの家族でもおそらく起こりうる。
 そのときに、まずは目の前の現実を受け入れて、愛せるように前向きにとらえるという方向性にどうやって向けていくのか。この過程はひとつの理想ではあるが簡単なものではない。一方では子育てを含む家事、一方では仕事という役割がいわゆる日本型の多くの家庭では分担される中で、2人が一致点を見つけながら協力するというのはやはりひとつの理想でしかないのかもしれない。
 ただ、子どもを媒介することで理想にちょっとでも近づきたいという動機づけにはなるのかもしれないな、と最後のほうに父親が医療機器メーカーの社長と話したセリフだとか、阿蘇山の噴火口まで子どもを背負って登る様子を見ていて感じた。

 父親役の安田顕はチームバチスタの印象が個人的に強かったが、バチスタの役ほど強くはない、それこそふつうのひとりの父親としての役も悪くなかった。

生むと生まれるそれからのこと http://www.nhk.or.jp/drama/umuto/
 端的に脚本が面白い。というのと、柄本佑と関めぐみという個人的に好きなふたりの若手俳優が主演をした、っていうのもあって、見るのはこれが2回目だったんだが2度見でも全然面白かった。1回目はやや流して見た形になっていたので、前回よりは筋をつかみながら見ることはできたし。
 「風をあつめて」はもっぱら子どもが産まれてから育て上げる格闘というプロセスが描かれていたが、このドラマはまずは恋人、そして夫婦になるという過程がコメディチックに主演の二人が演じていくというプロセスをとっている。

 線を引くっていう言葉がナレーション(このドラマはやたら解説的なナレーションがしょっちゅう挿入されるのだが面白いのでもっとやれという気分にさせられる)ではいるのだが、柄本佑も関めぐみも、それぞれ変人扱いされて育ったふたり、という設定。そのふたりが仕事をきっかけに出会う。出会ってしまう。
 出会って交際するようになり、同棲も・・・という客観的には順調なプロセスのひとつひとつがお互いの価値観のぶつかり合いでもある。そういったお互いの内面同士の格闘が、個性的な主役ふたりの間で繰り広げられることによって非常に華があるし、端的に面白い。
 ナレーション含め全体をコミカルにしている理由はいくつかあるのだろうけど、話の後半は子育てに向けた準備(病院や子育て教室に通ったりとか)にあてられていることがひとつかもしれない。子どもという今までとは違う第三者を新しく登場させる(正確には登場を予感させる)ことによって、ふたりの関係を前進させる意味がある。線引きの限界にもつきあたる。
 それと、子育てっていう共同作業、あるいは分担といったきれいに線引きしきれない行為をコミカルに演じさせることによって、意外とおもしろくね?とさせる効果もあるような気がした。義務感でも責任でもなく、その行為自体の魅力を考えて作られているような感じ。親仲間とのコミュニケーションという未知との遭遇は、このドラマの中ではコミカルに表現してこそだったと思う。
 
 とはいえ。とはいえ、やたら喋る柄本佑と関めぐみの演技あってこそ。つまり素の彼らが表れてこそ子育てに向かう意味もある。すり減りすぎず、自分を殺しすぎず。完全な自然体とはいかないまでもらしさを残しながら。最後までらしさの残った演技をするふたりはなんだかんだ楽しそうにしか見えない。なんとなく、リア充乙、だなと。
2012年06月15日

土地の物語を掘り起こすことは可能か

 NHKのBSプレミアムで毎週金曜日に放送している「新日本風土記」という1時間番組がある。(*1)
 紀行ものでもあり、ちょっとしたドキュメントでもあり、といった番組で、土地の風景と人間模様という俺の好きなものがふたつも組み合わさっているので毎回見るのを楽しみにしている。1年前の番組改編で始まった番組だが、今年も生き残っているのを確認したときは本当に嬉しかった。


 
 この番組の特徴はいくつかあるが、ひとつは今回の表題にもした「物語を掘り起こす」という趣旨があるんじゃないかと思っている。
 風土記と題しているだけあって、土地に根付いたものを毎回放送するわけだけど、歴史的にそれこそ太古まで振り返ることもあれば戦前戦後までのときもある。いずれにせよ、いまあるところから物語的に辿ることのできる歴史を、毎回土地を変えて放送している、というのが特徴。
 で、そういうのって一定程度歴史的な土地に限るんじゃないか、と最初は思っていた。実際最近の放送でも吉野や熊野が扱われたりするだけあって、ある程度何が来るかは予想できるところがないわけではない。ないわけではないが、あくまでも(ここが一番の醍醐味だと思うけど)ありのままのいまを伝えようとする。
 ありのままのいまを伝えようとするときに、しばしばその土地に住む人々の物語が語られる。いわば歴史的なものと対比すると小さな物語、といっていいのだろう。ただ、歴史的なものや土地に根付いた風土的なもののなかで改めて語り直そうとしているのが面白い。21世紀になったとしても、思ったよりもわたしたちの生活は非歴史的なものではないじゃないか、と思わざるをえない。
 儀式や祭といったハレの行為はその典型だろう。あるいは、日常的な行為であっても外の目線をはさむことで新鮮にうつることは多い。風土性が高くローカルなもの、はユニークネスになりうるからだ。

 時々膨大なNHKのアーカイブが番組の中に挟まれるのだが、そうやってNHK的には過去と今を照らし合わせようとしていることが伝わってくる。ありのままいま、というのは時間的に、そして空間的に丁寧に切り取ることで新しく表現することができる。
 もうひとつ、NHKの強みなのは全国津々浦々、横断的であることだ。この前「桜前線の旅」という回があったのだが、南から北までその土地に特有の様々な桜と、桜を見る人々を映し届けるというたぶんNHKにしかできないだろうことをやってのけていた。
 最近はまとまった旅行というものができていないので、番組を通して追体験した気分にひたっている。それが終末金曜日の夜というのはなかなか悪くない。

*******

 ここからはほとんど思いつき。希望的観測もちょっと入り交じった感じの文章になるかもしれないがご容赦。最近某所でげんえいくんと都市とか地域とかのお話をすることがあって、そのあと少し考えたことをとりあえずまとめてみた。(*2)
 もう少し、土地と物語についての思いつきをだらだらと書きつづってみる。

 土地の住民の高齢化だとか、若い人の減少などでじょじょに語られないようになる物語があったとして、そのいくつかはただ埋没するしかないというのが、これからの地方が経験することではないか、という感覚がある。
 文化や産業の担い手がどんどんいなくなる、というお話でもあるが、単純に人が減っていくということは今まであった様々な営みの継続性に、程度の差はあれど危機が生じてくるのではないか。小さく、保守的な土地やコミュニティであるがほどに、継続性は重要である。
 たとえば3.11と東北。3.11後に語られた東北地方の沿岸部の物語を、皮肉なことに3.11をきっかけとして知ることができたという部分は大きい。これは天災というケースであり例外的で大きなショックとも言える。逆に言えば、物語は天災によってあっというまに失われていく可能性もあるということを示したともとれる。これから先はどうなっていくのだろうか、というと未来はきれいに開けてはいないだろう。あれから15ヶ月が経ったわけだが、外の世界ではだんだんと記憶が薄くなっていくばかりだ。
 もちろん、栄枯盛衰というほど大げさではないが、時間の流れ(震災は特別な事象ではあるが)に逆らえない部分も大きい。そうなっていく、ということに個々の人間が抵抗することはそれほどたやすくない。資本主義的合理性が強力だからとかそういう話とは無関係にしても。

 だからといって過度に情緒的になる必要はない。情緒的になって未来に何かを残していきましょう、と大声を上げるのは一面的なものであって個人的にはあまり好きではない。そうではなくて、NHKが番組の中でカメラを回し続けるように、誰かのフィルターに依存することになったとしてもありのままの、誰かがそこで生きていた証のようなものをアーカイブしていくことが重要ではないのかな、と思っている。
 最近「リトケイ」(「離島経済新聞」の略称)というミニコミのようなものを初めて知ったんだが、この中では日本にある有人島の生活がミニコミという性質上ほんんの少しずつではあるが語られている。外の人間によって掘り起こされている、といってもいいと思う。広告的な色合いが濃すぎると忌避したくなる感覚があるのだけどね。最近ちょっと島ブームみたいなのがあるし。(*3)
 簡単に言うと、伝えられるものは伝えていく。まだ掘り起こされてない物語をひとつずつ記録していく。そうやって土地と時代のリアリティを残すことと、次の世代に受け継がれていくことがその土地にしかないダイナミズムを生んでいくような気もしている。
 あるいは、次の世代に受け継がれないにしても(物語を拒否する自由はあるだろう)当該の土地の外の人間に何かを伝えることもまだまだ可能だと思う。P.A.WORKSが「花咲くいろは」や「true tears」でやろうとしたことに、ちょっとヒントがあるような。彼らの試みは、実際の土地を舞台にしているというだけの聖地巡礼にとどまらないだろう。

 単に伝えることや表現することに意味があるというわけでもない。ひとつ思いつく価値は、次の世代や後生にいまのリアリティを届けること。そしてその中の誰かが憧れのような気持ちを抱くならもうけもんだし、もっと一般化していうと次の世代の人たちが人生設計や職業選択をしていくなかで、そのヒントとしてより具体性を与えられるのではないか。
 地方や田舎で暮らそうみたいなブームがあるようなないような気がいろんな媒体に触れていて思う。だけど、単なるイメージや憧れにとどまらず、もっとプラクティカルな実際的なところに落としていかないとイメージや憧れに実際に辿り着くことは難しいんじゃないか。要は、どうやってそうなるの、という話をもっともっとしていかないとふわっとしたままで終わってしまうんじゃないかな。
 こういう試みは最近だと自治体やNPOなんかが職業体験的なことや移住促進の取り組みはしているし、そういったところにアクセスしやすくはなっているだろうな、とは思う。まあ上にあげたリトケイのようなミニコミなんかも含めて、具体的な情報を発信する試みと、実践の機会を提供するという試みがどんどん広がっていけば個人としては学卒→企業に就職、以外にもいろんな可能性が生まれるかもしれないし、都市部と地方の差を少しでもやわらげることにつながるかもしれない。
 
 最後は少しメディアやコンテンツの話になってしまったが、素朴に語る行為も意味があると思う。誰かに何かを伝えるために時間と労力を割くのはそれはそれで価値があるが、近くの誰かに語るというシンプルな行為を忘れないでいることも、ただでさえソーシャルな時代にはそれなりに意味があることなのではないだろうか。クチコミマーケティングがそうであるように、身近な人の影響力は軽視できないからね。

*1 正確には58分ほど。2011年4月にBSプレミアムで放送開始。定期的に放送しつつ途中で再放送をはさむというNHKらしいスタイルなので一回見逃してもあとで期待できる番組でもある。

*2 記事を書こうとしたきっかけは彼との会話だったけども、ここで書いた内容(新日本風土記含む)はここ1,2年くらいぼんやり考えてきたことでもあった。ゼミでは地方自治論を専攻してたので、おのずと地域社会や都市論のような具体性を持った土地の話を扱うことが多かったし、より興味関心を持つようになった。その中で言えば彼とかあの人とか、よりリアルなイメージを持ってきてくれたことが今になってみると大きい。東京にいてここではない場所のリアルさを感じる機会は、そうそうあるものじゃない、と。あとになってみて改めて思う。

*3 宣伝というわけではないが地元の小豆島での試みだと去年あたりから「小豆島ガール」というサイトの人たちがいろんな活動をやっているようでブログもわりとちゃんとチェックしている。時々知ってる人が出てくるし。リトケイのvol.1でも取材を受けていたようで有名になったんだなあと思った。
2012年05月18日

視野の偏りと広がり、あるいはふくざつなげんじつについて知ること

 たとえば中学や高校の部活や勉強がそうであるように、何かひとつのものごとに集中している状態や、その努力はわりと好感を持たれやすいと思う。あの人頑張ってるな、と。
 つまり何をしているかが分かりやすいし、本当に頑張っているかどうかは別として運動部の場合は運動部でない人からしたらそれっぽさがにじみてているようにも思える。中学までは運動部だったけど高校の時は部活なし状態だったので、急にあっち側とこっち側の距離を実感した。
 いま分かりやすいものが何かを考えると仕事だろうなあと感じた。あるいは社会人だとかサラリーマンといったらいいのかもしれないが、どこかに属して仕事をするということは肩書きがあるという意味でまず分かりやすい。どこに属しているかを見れば何をしているかがなんとなく分かるし、そのあと職種(営業だとか開発だとか)を見るともう少しイメージがふくらむ。もちろん、分かることには限界がある。

 GWと、この前の週末にもうすでに社会人(多くは会社人としての)になっている歳の近い人と飲む機会がなんどかあった。自分がまだ学生をやっているので単純に彼ら彼女らの話を聞くのは新鮮で楽しいというのと、どうしてもなにかもやもやしたものも感じずにはいられなかった。なんとなく、会う前から分かっていたことではあるが。
 まず、働いていると忙しくて時間がない。まだ研修の人が多いようだけど会社によって研修のハードさはまちまちで、帰宅しても課題などで時間が拘束されるので実質的な可処分時間は少ないケースが業界によっては顕著らしい。
 この状態をある特定のことに集中できる機会ととらえることはできるだろうし(そもそも研修の目的のひとつはそれだろう)他方で他のことができない時間が続くことにもなる。研修所やホテル住まいという人も珍しくないようで、時間のみならず場所も制限されてしまうらしい。わーお。
 大学生だったころにいわゆる大人の人の、彼ら彼女らのの仕事の話を聞くのは新鮮で楽しかった。ただ、たまに仕事の話しかできないのではないかと思うこともあった。彼らは仕事以外の世界や社会のこと、あるいは流行や文化などなどのことはどれほど見えているのだろうか。端的に言うと、どれだけ視野の幅を持っているのだろうか。

 ことわっておくと、別にそれが悪いことだと言うつもりはない。かつての自分を思い出してみればヘビーなネットユーザーだった中学時代のほうが、強制的に勉強させられそれこそ場所や空間的な自由もあまりなかった高校時代はよほど視野が狭かったと思う。ただその分密度の濃い時間を過ごせることもある。一種のトレードオフなのかもしれない。厳密に検証してみないと分からん部分はあるが。
 だからGWの飲み会で会ったある人が「ごめんね、仕事の話ばっかりしてて」と言ってたのがとても印象的だった。「そうなってしまっている」ということを当事者だった意識しているらしい。それでも俺が会ってきた大人の人たちの一部がそうであったように、どんどん仕事に傾倒していく人は一定数はいるのだろう。(*1)
 
 個人的な信条としては常にいかに多様性を担保するか、をとても気にしている。どこかしらに偏ってしまうことはある程度仕方ない。ただ、偏りのある人生だけは送りたくない。だからいろんなことに手を出しているし、いろんな分野や肩書きの人と会う。それが楽しいから、ってのは大きいけどね。
 幸運にもというのは変かもしれないが、出会って来た大人のなかには仕事をガツガツやる社畜バンザイみたいな人もいたが、学生とは違う資金力を生かしていかに遊ぶかを考えている大人も多かった。よく学生時代にしか遊べないので遊んでおけ、みたいな紋切りな話をよく聞くが、嘘やろそんなんめっちゃ遊んどる大人がおるんだが・・・と思っていた。いやまあ確かに宅飲みとかオールとか長期の旅行とか、学生でしかできない遊びはあるんだけどさ。
 いま思うと、遊んでいる大人の人たちはどうやって仕事と両立しているのか聞いておけばよかった。体力的にムチャしている部分はあったりするんだろうけど、とても充実しているように少なくとも俺の目からは見えた。要は学生は遊ぶもので、社会人になると遊ばず仕事オンリー、みたいなイメージを容易に覆された。だから逆にあえて過剰には遊ばずにいまは勉強に集中しよう、と思えたのかも知れない。

 話が少し横道にそれたが、今回一番書きたかったのはタイトルにもあるようにわたしたちは何を見ているのか。あなたの目には何が映っていますか、ということだった。(*2)
 他人について知るためにはその人がブログを書いているかソーシャルメディアをガンガン使ってでもしてないかぎり、話を聞くのが一番手っ取り早い。応答もはやいし、相互作用だし。仕事をきっちりしていても仕事の話を全然しない人もいるし、仕事しかしてないので仕事の話しかできない人もいる。仕事をほどほどに趣味や活動に時間を費やしてその話をする人もいる。数として限られている自分の経験から考えても、これはもうほんとまちまちだと思っている。
 話していて楽しいのは視野を持っているひとかな、と最近は考えている。仕事でも趣味でもなにかに傾倒している人の話を聞くのも面白いが、それ以外への発展性が乏しかったりする。ただ、視野が広いのと奥深いのでは語り口は変わってくるし、結局はその人自身の言葉で語れるかいなかが話の面白さを決めると思っているので、そのへんがしっかりしている人の話には視野の幅はさし置いて引き込まれるし、こちらもつっこみのしがいがある。別にこれは難しい話や堅苦しい話にかぎらず恋愛の話でもそう。
 
 ある友人は「最近はインプットばかりなのでアウトプットしたい」とも言っていた。仕事的な意味でインプットはどんどん増えていくのだろうが表出する場所は新人だと確かにほとんどないに等しいのかもしれない。このもやもやに、いずれ俺も直面することになるんだろうか。
 まあそんなこんなで働く人のひとりになっていくこと、のほんの一部分を追体験させてもらった休日の日々だった。学生をまだ続けているのでいわゆる社会人としてのスタートが遅くなるけど、こうやって後発の利益を得られるのは悪くない。ただ歳を食うと新卒市場ではあまり好意的には見られないという点はあるから、結局これもトレードオフのようなものかもしれない。
 人生とは避けられないトレードオフ(あるいはトレードオフのようなもの)に直面しつつ、いかに自分なりに最適なバランス配分をおこなっていくか。よく言う言葉でいうとセルフマネジメントしていくか、ということの継続なのかもしれない。こんなことは就活してたときにはなかなか実感できなかったので、立派な後発の利益のひとつだろう。
 仕事の経験はやってみないと得られないが、仕事の経験のない人がどうやって仕事をできるようになるのか。同学年の友人知人たちのその過程は見守りたいしなんかあったらサポートしたいというか話くらいは全然聞けると思うので、今後ともよろしく。

 結局俺はいくつになっても、あなたが見ているものは何なのか、そしてそれについて何を考えているのかについてとても知りたがっている、ということだ。
 これは完全に、俺の個人的な欲求だけどね。 

*0 そういえばこれで4本目のコミュニケーション論にもなるのかな。論というよりはまあエッセイではあるが。で、いままで書いたのを以下に列挙。3つめはゼロ年代のインターネットとコミュニケーション、みたいな感じだけど。
2011/10/15 「コミュニケーションの隙間、揺れ動きながらも前へ
2012/1/16 「インタラクティヴな日々を送る
2012/2/28 「ほんとうと嘘モノの混淆がインターネットの楽しさだったころ

*1 たとえばこの調査(「第5回リタイアメントスコープ2010 日本の結果と国際比較」,2010年 http://www2.axa.co.jp/info/news/2010/pdf/101001b.pdf)によると日本人は退職後も経済的不安から仕事をしたいと考える人が他国よりも多いらしい。もちろんその分可処分時間は失うわけだが、年金だけでは不安という部分もあるのだろう。若い人は特に年収不安という状況なので仕事の比重はある年邸を越えるとガタッと下がるのではなく一定程度続くのかもしれない。

*2 いまあらためてなおちゃんさんの「視界をシャッフル」を読み直したらとても面白かった、というのもある。あのとき見えていた、そうだと思っていた視界がどれだけ小さなものであったか。常に多様性を担保して、彼女のいうぐらぐらするようなこともきっと人生には必要なのではないだろうか、と。
2012年04月20日

アニメを見る動機、理由、そして期待

 コラム的にちょっと書いてみる。いつもよりは長くなくするつもりでどうぞ。
 アニメを見るのは今も昔も好きだし、最近は深夜アニメからニチアサと呼ばれる少年少女向けのアニメまでわりといろいろと見るようになったが、かつては熱心に見てたかというといまよりももっと限定的だ。それはいろんな理由があるだろうけどまたあとで。
 
 あえて留保する必要もないかもだが、ここでいうアニメはたとえばポケモンとかコナンとか、最近だとワンピースとかそういう多くの人に見られているようないわばマスカルチャーや子ども向けとしてのアニメは省く。サブカルチャーというのもあれだけれど、多くの人がふつうに見ているわけではないものを扱っていく。
 で、いちばん最初に見たのはなんだったかなんだが、正確に最初かどうかは別としていまおもうと入り口だったんだなあと思うアニメがひとつある。
 カードキャプターさくら。NHKで99年から放映されていたCCさくらを、たしか土曜日の夕方に毎週見るのが当時の楽しみだった。NHKという意味でもオタク向けなのかどうかの線引きは結構難しい(ふつうの人が見ようと思えば見られる時間帯だし)けど、受容されているのはオタクが多いだろうという意味で入り口はここかな、というところ。
 もう一つ候補をあげるならおジャ魔女どれみ。これも99年から放映されていたが、リアルタイムで見てた時期とレンタルビデオで見てた時期があるので正確には覚えていない。あと、これは自分で見ようと思って見たのではなくて妹が見ていたのを後ろから眺めていただけである(という言い訳 とりあえず、当時も今もおんぷちゃんはかわいいと思っているよ。

 入り方はこうだったけど、のめりこんだのは中学3年のころかな。部活を引退したころくらいだと思う。夕方にちょうどスクールランブルが放送されていた時期で、卒業直前からはネギま!や舞-Himeが放送されていた。いま思うとなつかしいね、このころの感覚。萌えという言葉が一般流通するちょっと前、ってとこかな。
 地方民にしてはアニメを見ているほうだとたぶん思う。香川は民放5局がぜんぶ見られて、そのなかでもテレ東系列のテレビせとうちが見られたのでほんとうにお世話になった。いまだとニコニコがネット配信したりしているが、当時ネットでアニメを見る方法はGyaoくらいしかなかったんじゃないかなあ。ようつべの登場が2005年で、そのころはちょっとずつアニメの動画が違法アップされてたりはしたけど。
 高校のころにぐっと見るアニメが増えたのはそういう話題をできる相手がいたから。というかやたらオタクが固まってたので(腐女子の友達もいたし)あのクラスでよかったとわりと真面目に思っている。このころは中学時代よりもネットをしてなくて、ネットでなにが流行ってたのかについては高校時代の記憶がごっそりぬけてたりする。ニコニコを最初に見たのも大学入ってからだしね。

 話が飛んだが、まあ俺の場合はたまたまそういう環境があったから、ってのが大きい。なににしてもそうだろうなとは思う。スポーツであれ音楽であれ、友達がやっていたからだとか、親の薦めだとか、子どものころは自分の半径いくばくかの距離の影響がなんだかんだ大きい。
 ネットもやってたけど、ネットで興味を得るというよりは興味があるからネットをしたり、その手の人たちと交流するという感じだった。いまのようにソーシャルメディアが盛んだと傾向が前者になるのかもしれない。
 中学や高校時代はアニメを見るのは純粋に楽しかったから。大学時代以降は批評っぽい見方だとか、誰が監督や脚本をしているかだとか、それ以前よりはコンテンツのひとつとして見るようになったかも。
 あとは、息抜き。高3の一番受験でめんどうくさい時期にグレンラガンの再放送を深夜にやっていて、かじりつくように見ていた。寝る時間を惜しんでもそれでも見たいと思わせる魅力がアニメにはある。もちろん録画はするんだけど、それでも生でちゃんと見たい。布団にくるまって、目をこすりながら。ARIAとの出会いもそんな感じだったかな。
 コンテンツとして見る見方と息抜きとして見る見方の両方がいまはあって、だんだん忙しくなる中でも後者だけに寄ったりはしたくないなあとは思っている。

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 という感じで、新しいかどうかはわからんがちょっと違う試みの文章を届けてみました。
 最後にせっかく新クールなので、いま見ている新アニメの雑感などを書いておきます。全部で7本。
 
◆宇宙兄弟
 原作漫画の映像化には定評のある日テレ、ってところだろうか。安定した滑り出しで、音楽も悪くないなあと思いながら見ている。
 何話やるのかわからないが展開もまっすぐ進んでいるので、こんごの起伏がどうなるのかなというところ。原作は読んでないが有名なので知っていてとりあえず見ようか、という感じではあるが日曜朝という安定感も相まって良作にはなりそう。

◆坂道のアポロン
 これも原作は漫画みたいだが、ノイタミナらしいラインナップという感じ。いわゆるオタク向けではなく、幅広く受け入れられるような良質なコンテンツを届けようという意志は伝わってくる。
 音楽は菅野よう子が担当しているのだがOPを歌うYUKIが抜群にいい。これを聴いてこのアニメはちゃんと見よう、と思った。ジュディマリ時代もアニソンは歌っているが、YUKIの伸びのある幅広い音域は菅野音楽とよく似あう。
 内容はノイタミナにしては展開がまっすぐ進んでいるなあという感じ。どれだけ主要な登場人物がでてくるか原作読んでないのでまだよくわからんが、うまくまとまりそうではある。演奏シーンはすごくきれいで丁寧。

◆エウレカセブンAO
 大化けするかどうかはわからないがワクワクする1話ではあった。どこが鬱屈したというか、もどかしさのなかを疾走するのはベルフォレストにおけるレントンをほうふつとさせる。
 あとはあえて政治ネタを放り込んでいるなかで沖縄をどう扱うか、ってとこかな。まあ、あくまでフィクションなのでネットの反応がちょっと過敏な気はしている。

◆夏色キセキ
 まだ1話だけしか見ていないし先行きはよくわからんが、スフィアの歌う音楽はよい。よい。スフィアはよい。それだけでも見続ける。

◆ふしぎの海のナディア
 これもまだ1話だけだが90年代のNHKっぽさ(少年少女向けファンタジーをにおわせつつ、SF的ガジェットに手を抜かない)を感じさせるので純粋に楽しみ。夕方に見るアニメだな。

◆モーレツパイレーツ(2クール目)
 最近ニコ生の一挙放送を見て2クールからちゃんと追っかけることにした。笹本祐一がかかわっているのにチェックしてなかった俺乙、というところかな。ふつうにギャグありだが、線のしっかりしているアニメなので下手に崩れることはないだろう。茉莉香がだんだんそれっぽくなっていく様は、ARIAにおける成長していくウンディーネをみているような感じがしている。

◆氷菓
 来週からなので予告編を見た印象だけだが、千反田えるのビジュアルがちょっと意外。あんなにかわいくしていいんだろうか、いやまあわるくはないが。
 ホータローが中村悠一ってのはどうかなあと思う気はするが、あとは原作を京アニがどう料理するかね、というところだろうな。

 あ、あとかんなぎの再放送を見ているのと、ヨルムンガンドを追っかけるかも。EDなぎさんだし。fate/zeroは気になるけどいつかstay nightからあらためて見るということでどうかひとつ。ちらっと見たところ背景の書き込みはさすがufotableだなあと思った。
2012年02月28日

ほんとうと嘘モノの混淆がインターネットの楽しさだったころ

 twitterで@QB0という有名なアカウントがあるんだけど、その中の人である十姉妹氏が少し前からブログをやっていて、それを眺めるのが日課になっていた。最近ちょっと漏れがあってまとめて読んでいたら興味をそそる文章があったので少し語ってみる。

 「ボクが「わたし」だった頃」という、インターネットにおける疑似人格とか疑似恋愛の話を書いているんだけど、本質は最後の4つめのエントリーで書いているように「依存」をどうとらえるか、にあると思いながら読んだ。(*1)
 内容自体は2ちゃんねるまとめなどでも転がっている話だし、実際ありそうだけど、ないかもしれない話だと思う。平たく言えばネット恋愛と病気を絡めたお話なので、気になっている方は読んでいただければ、と思う。その内容の正否とかを問うつもりはここではまったくない。常にほんとうと嘘は混じり合っているものだし、それは特別インターネットに特有なものではないからね。
 というわけでここからはネタバレありなのでご注意を。

 前提としてあると思うのは、掲示板文化とはなんだったのか、というところだろう。このお話がどれだけ昔のことかは分からないが、有名なのはもちろん2ちゃんねるだ。ただ、多くの人は2ちゃんねるよりも有象無象存在していた個人サイトのBBSや、ゲームの攻略サイトであったり、何かのファンサイトであったり、いずれにせよ2ちゃんねるほど大規模ではなくて、明確な管理人がいるようなところでコテハンを使いながら交流をしていたんじゃないかと思う。
 今でもある程度の規模はあるだろうが、mixiが登場して以降は少し様相が変わってきているはずで(ちゃんとした統計があれば知りたいものだ)たぶんmixiが登場するころかその少し前の話なのだろうと思う。2000年前後から、2000年代中盤まで、といったところだろうか。
 いまではツイッターやfacebookもでてきているので、個人情報はとてもオープンになっている。個人的には、なって”しまっている”ような気さえしている。

 で、そのころの掲示板はひとつは文字通り掲示として使うためにあった。用は伝達事項のような感じや、来訪者の足跡みたいな感じで、スレ立てをする方式ではなくてツイッターのタイムラインに近い。個々の応答はあるが、誰もが横並びに書く感じ。
 もうひとつはスレというものを誰かが立てて、その下に多くの人がレス(返信)をつなげていく方式がある。この場合、レスが一定程度に伸びるとたいてい新しいスレがスレ主によって立てられる。人気のスレだと1時間もすればあっという間に埋まってしまう。2ちゃんねるを見れば分かりやすい。
 もちろん一定規模の掲示板でなければスレが埋まる、という現象すらないだろうが、十姉妹氏の記事を読むと常連と呼ばれる人たちが一定数いて、毎夜毎夜わいわいとしていた様子がうかがえる。
 同じ頃にチャットも流行っていたが、チャットはかなり流動的だ。スレはレスはどんどん伸びていくがスレ自体はストックとして残る。あとで見返すこともできる。多数がわいわいコミュニケーションするという意味では似ているけど、チャットはいまのツイッターに近いシステムだったと言える。

 長々と書いてしまったが、掲示板とチャットのいずれにも共通することで言えば個人の特定がしづらいことにある。IPアドレスを表示させる形式もあるが、たいていは名前で特定することしかできない。文体である程度分かるとはいえ、その人が本当にその人なのかは見分けづらい。いわゆるなりすましがしやすい。
 ソーシャルメディアもなりすまし問題がないわけではないが、多くの人がソーシャルメディア上でブログ、ホームページ、日々の活動の情報を公開し、それがストックとして残り続けている以上はなりすましは簡単にはできない。(*2)リスト機能はその人の繋がりを表しているし、どういう属性を持ちうるのかが他者によって定義されるのはソーシャルメディアのひとつの特徴と言えるだろう。
 そしてもちろんそんなことは掲示板ではできない。それではちょっと知らなさすぎる、ということで前略プロフィールといういまでいうプロフサイトの大御所がよく作られていた。ただ、どこまで一般的だったかは分からないし、ソーシャルメディアのような他者による定義も不十分だし分かりにくいので、一定の限界はあったと言える。プロフィールに嘘を書いてもばれないからね。

 こうした前提で十姉妹氏の記事の「その4」を読むと、彼が体験したことがほんとうなのか否か、の判断はきわめて難しくなる。インターネットがこわい、とマスメディアなどで騒がれ続けた要因もおそらくこのへんにあるのかなあと思っていて、要はどこの誰とも分からない人とネットの外で会うというのは一定のリスクを伴うことになるのだ。
 ソーシャルメディアは個々人が情報開示を積極的に行うことによって、こうしたリスクを下げ、対面の精神的コストも下げているように思う。嘘であることを始めに示している人もいるが、基本的に多くの人は事実やほんとうのことを書くので、誰かが嘘を言っていると疑うことはあまりない。妄想のことを書く人はいるが、その人にとってはそれがほんとうなので、主観的な意味で嘘を書くひとはかなり少ないだろう。
 ただ掲示板やチャットなんかでは、嘘をつきやすいことを逆手にとって嘘を楽しむ文化があった。男性が女性になりすます「ネカマ」もそのひとつと言っていいだろう。
 こう考えると、十姉妹氏が体験したことはほんとうでもないし、嘘でもないということになるのではないかと考えるのが妥当ではないだろうか。もちろんこれは現実世界でもそうであるが、コミュニケーションにおいては見栄を張る場合もあれば自虐する場合もあるから、ほんとうと嘘は入り交じっているものだ。そしてネット上の掲示板においては、その混淆を持続させることができる。演技と言っていいかもしれないが、どこまで嘘モノなのかは誰にも分からないかもしれない。

 十姉妹氏とやりとりしていたと思われる人(女性であると仮定する)がコミュニケーションを求めていたのは確かだろう。それこそ「依存」するように毎夜毎夜出没する理由は病気が原因かどうかは分からないにしても、求めていたはずだ。そして彼女は十姉妹氏と親しくなった。
 美談とも悲話とも言える結末にどうこういうつもりは最初に書いたように俺にはない。ただ、いまの2ちゃんねるがそうであるように、ほんとうかもしれないし嘘なのかもしれないお話が流通する、というその土壌は10年以上前から脈々とあって、そうしたことを特に古参のネットユーザーは楽しんできたはずだ。勝手な推測かもしれないが、大事なのはほんとうか嘘なんかではなく、おまえと話すことなんだという感じだと思う。
 そして周知のように、こうした感覚はソーシャルメディア隆盛のいま再びはっきりと可視化されている。ツールやインターフェイスはどんどん進化するが、本質はそれほど変わっていない。もちろん、ツールが変わればかつてできなかったことができるようになる一方、かつてありえたことが難しくもなるけどね。
 掲示板では上で書いたような半匿名状態だったけど、常連と呼ばれる固定の層になるとある程度扱う話題もノリも共有されるし、思っているよりも親しくなったり踏み込んだ話ができたりする。俺がいたコミュニティでは進路とか恋愛の話も珍しいものではなかった。実名じゃないとうんぬん、という人はこういった時代を経験してほしかったな、と思う。いまさら無理だけどね。
 
 こうしてふりかえると、『ウェブ進化論』の梅田望夫が夢見たインターネットは日本においてどこにもなかった、は言い過ぎかも知れないが彼の場合夢の見方を間違っていた可能性が高い。(*3)雑な見方だとは思うが、総表現社会というよりは総コミュニケーション社会というほうがふさわしいとさえ思う。
 いまからさらに10年後にいまを振り返ると、またなつかしい話が出てくるのだろうと思う。他人の体験になつかしさを感じるのは、その文脈をリアルタイムで共有していたからに他ならない。どこかにありそうなお話の魅力は、もしかしたらここにもありえたかもしれないという夢想にある。
 あのころは楽しかったという回顧厨的な振り返りではなく、あのころも楽しかったし、いまも楽しい。けれど、あのときの独特の空気はやっぱりちょっとなつかしいなあ。そんな感想を、十姉妹氏の記事を読みながら感じていた。
 
 10代の前半の、幼くも未熟だが若々しい感性のころにインターネットに触れられたことを幸せに思っている。(*4)誰と出会えるか分からないこわさもあったが、それをはるかに上回る好奇心があったのは確かだ。田舎に住んでいて行動範囲も狭い当時の自分が好奇心を満たすことができたのはインターネットのおかげに他ならない。
 もちろん10年前とかの当時交流していた人の大半とはもうほとんど交流はない。それでも、中学時代から知っていて、大学生になり上京して初めて出会えた人たちも何人かいる。ソーシャルメディア隆盛以降はオフ会が当たり前になってしまったが(東京に住んでいるという利点ももちろんあるだろうが)オフ会というよく分からないけど面白そうな場所に出て行くワクワク感は、ただただなつかしいの言葉で語れてしまう。 

 いろいろ書いたけどなつかしい気持ちを思いだし、かつ面白い話を読めたので楽しかったです、というところです。
 十姉妹氏は社会派の記事も書いていて、素朴な文体だが聡明さも感じさせるのでそういう方面で興味が有る方はぜひぜひ。リーダビリティに優れているので、そのへんはさすがだなあと思う。といいつつも俺は俺の文体を貫きます。
 

*1 「その1」のリンクだけひとまず貼っておきます→http://ameblo.jp/jyusimatu105/entry-11169052831.html

*2 本当にその人が書き込んでいるのかどうかまでは分からないので、そういう意味ではなりすましはできるのかもしれないが別人になることは困難だろう。

*3 このへんの、日本に独特のインターネットの特性みたいな話は最近読んだ『希望論』の中で濱野智史が詳しく述べている。

*4 こういうふうに書くと80年代はよかった的な回顧厨っぽくなりますねすいませんね!

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2011年12月29日

2011年コンテンツ回顧

 例年のようにベスト3を挙げつつ簡単に振り返ろうと思います。もちろん独断と偏見で。
 去年のはこちら

【小説】
恋する原発(高橋源一郎)
リリエンタールの末裔(上田早夕里)
きことわ(朝吹真理子)
次点:希望(瀬名秀明)
 
 あれ、と思ったのはいずれもちゃんとした書評を書いて公開していないこと。上田さんと高橋さんは最近読んだので時間的に、ではあるが朝吹さんと瀬名さんの本はいろいろと語りたいことはあったが書かずに年末を向かえることになったのは小さな後悔かもしれない。
 いずれに共通するのは、小説の可能性というものを各人各様に示している。高橋源一郎は圧倒的な批評性を、上田早夕里は他者や世界と向き合うことを、朝吹真理子は人と言葉をまつわる関係性を、瀬名秀明は科学と技術と人の生き方を。
 小説、あるいは文学というものがこれからも読まれるとするならば、徹底的に何かと向き合うことでしかなしえられないのかもしれない。ここで文学論をぶちまける気も能力もないが、そんなことを感じた一年だった。個人的な事情もあって読書量は倍近く前年より増えたが小説のウェイトは下がった。ある程度下がること自体は来年以降も続く傾向だろうが、定期的に摂取していきたいと思う。
 言葉や物語を愛しているということを、あらためて気づかされた一年でもあったしね。


【映画】
その街のこども
モテキ
八日目の蝉

 うえふたつがそういえば両方とも森山未来だなあ、と書いていて気づいた。その街は半年ほど前に記事にしたので省略します。
 モテキはいろいろな意見があるだろうけど、ドラマ的な尺を意識した盛り上げ方も使いつつ、大掛かりに展開することのできる映画的な魅力もあわせもっていたと思う。監督の大根仁と原作者久保ミツロウのコミュニケーションのよさやプロモーションのうまさも手伝って内容的にも興行的にも成功した貴重な一作と言える。ドラマや原作もそうだが元ネタを入れ込みまくっているので、実際どんな人が見たんだろうかというのは気になるが。
 八日目の蝉は宣伝乙ですねわかります。ドラマよりはいいできに仕上がっていると思うので、未視聴の方はぜひぜひ。ただなぜ劇団ひとりがあの役をやったのかがなぞだった。黒歴史という意味ではまあ分からないでもないが(ほめてる 

【音楽】
Perfume『JPN』
NIKIIE『*(NOTES』
坂本真綾『Driving in the silence』
次点:トリプルH『HHH』
 
 最初のみっつは順当に決まったかな、という感じ。年末に出たHHHもすばらしいのだが(最近聴きまくっている)オリジナルではないのでうえみっつと比較して次点、という感じ。ぱふゅーむは安定のystkサウンドをもうひとつ前進した。王道のテクノポップ調の曲がありながらも前作『△』のスタンスも崩さず、十分に楽しませてくれた。アルバム単位で聴くのは久しぶり、くらいのほうがいいのかもしれない。
 ちょうど1年前にラジオで知ったNIKIIEは今年はほんとうに飛躍の年だったと思うし、1stアルバムにしてはすばらしいクオリティのポップスを仕上げてきた。ライブも精力的に行っていて、来年も期待されるシンガーソングライターだろう。ここからがあたらしい勝負かもしれない。
 まあやはこの前記事を書いたので省略。もはや何も語らず、ただただ聴き入る冬でいたいと思う。



【アニメ】※まどマギはのぞく
輪るピングドラム
放浪息子
花咲くいろは
次点:UN-GO、アイドルマスター

 振り返ってみればオリジナルアニメが席巻したアニメだった。まどマギ然りあの花然りピンドラ然り、「強い物語」の復権がいいことなのかどうかは分からないが、そのいずれもが震災後に描かれたという事実は残る。あとは各自がどう受け取るかの問題ではあるが、示唆は多かったはず。まどマギはちょっと自分のなかでの評価が定まりきっていないのと、これを挙げると他を挙げられないという理由で除外します。
 今年は放浪息子と花いろと、まどマギでもうおなかいっぱいだったんだが最後の最後に輪るピングドラムという化け物に出会えたのは幸福以外のなにものでもないと思っている。本当に素晴らしかった。アニメの最終回で涙がほんのり浮かぶという体験は初めてかもしれない。というかたぶん初めてだと思う。
 花いろは4月〜9月というちょうどメンタル的に不安定な時期の素敵な栄養剤だった。それだけでなくロケハンの成果が遺憾なく発揮されていたり、子どもと大人を一緒に描きながらひとつの群像劇に仕立て上げるシナリオ作りはさすが岡田磨里、と改めて関心した。
 そしてピングドラム。謎解きに関してはこの記事で書いたし、当たっているところや当たってないところもあったりとかするわけだが、最後まで見終えてもあまり何かを語る言葉が出てこない。思うことは山ほどある。
 UN-GOはあの花以上にノイタミナらしさ、つまりドラマのようなアニメーションを作ることに成功していると個人的には思っている。あの花は意図的にターゲットをしぼっているが、UN-GOはある程度幅広い層にも受け入れられると思うし。school food punishmentとノイタミナの相性の良さも改めて感じた作品だった。
 アイマスは2クール後半以降の展開が白眉だが全体としては評価が難しいな、と。ダンスシーンはすばらしかったと思う。
 
【スポーツ】
有馬記念

 現場にいたというバイアスもあるんだけど、レース後に降り出した雪や続いて行われたブエナビスタ引退式なんかもあわせてこれしかないという気がした。
2011年12月26日

「SNS@中学校」に読みとる現代のインターネットと子どもたち

 12月14日〜25日にかけて朝日新聞教育欄の「いま子どもたちは」というコラムでSNS@中学校という特集が10回に渡って掲載されていた。
 「いま子どもたちは」というコラムは現代の10代の生態(というのは大げさかもしれないがそんな感じ)をリアルに切り取った特集として以前からずっと読んでいてスクラップもしていたりするのだが、今回のSNS@中学校は思うところがいくつもあったので自分が中学生だったころなんかと比較しながらちょっと色々と書いてみたい。

 結論から言えば、自分のときも今の子どもたちもネットとの向き合い方は簡単ではない。彼らは物心ついたころにはブロードバンドが当たり前という世代にあたり、いまではスマートフォンやソーシャルメディアブームの渦中にいる。モノは違えどインターネットの世界ではその時々にブームはあったし、新しいものがでてきたら大人であっても子どもであっても簡単ではない。
 デジタルネイティブと呼ばれる世代は(自分も含めてだが)そうではない世代よりも確かに情報に長けているかもしれないが、言いようもない不安や怖さも同時に抱えている世代でもある。
 そういう意味では、確かにメディア環境やネット環境は変化したかもしれないが、子どもたちがネットに触れ、それらになじんでいくプロセス自体は大きく変化しているとは言えないのではないか。あくまでSNS@中学校というコラムを読んでの感想なので、全体に敷衍できるかどうかはもちろん定かではないが、示唆的な特集ではあった。
 いくつかの項目に分けて雑感を書いていきたい。

■インターネットと恐怖心
 第2回「怖い 絶対やりたくない」というコラムと、第5回「いきなりケータイ教えちゃうの?」というコラムが子どもがネットに触れるときの恐怖心の一例としては分かりやすくて面白い。第2回では「中学生にネットの話を聞くと、『怖い』という言葉がよく出てくる」という文章が印象的だった。
 対称的に、第8回「知らないから『危ない』と言う」では大人が子どもに追いついておらず、知らないものには近づくなの論法で子どものネット利用を忌避する様子が書かれている。
 おそらく子どもと大人ではネットに対する恐怖心の持ち方が違う。どちらもこわい、と表現することは簡単だが子どもが勝手に知らないところに行くのを大人が恐れる気持ちはネットに限ったことではないだろう(*1)し、子どもは子どもの感覚で怖さを認識したり、ネットには膨大な大人がいることの事実に(もちろん有限ではあるが無限に近い感覚があるはずだ)怖さを感じたりもするだろう。
 あるいは、大人たちが(特に親や教師たちが)ネットは怖いという言説を子どもたちに刷り込んでいる可能性がある。

■パソコン派とケータイ派

 違う角度で見たときに対称的なのが第5回の特集で、ここではパソコンからのソーシャルメディア利用者と携帯電話からのソーシャルメディア利用者の感覚の違いを事例として取り上げている。つまりパソコン派とケータイ派で利用の仕方の違いがあり、「少なくともふたつ知っていれば、選ぶことが出来る。(中略)携帯電話しか使わないのか。携帯電話もパソコンも使うのか。その差は大きい」とコラムを締めている。
 簡単に言えばリテラシーの問題だろうと感じた。そしてこれは自分が中学生や高校生だったころの感覚に近い。田舎なのでケータイ普及率は中学の時点では低かったが、高校はクラスのほぼ全員が持っていた。男子はモバゲー、女子は前略やデコログなどのプロフ・日記サイトというように、ケータイ派の利用は分かれていたが、一方でパソコンで音楽データの編集をやったり
 リテラシーの話でいうと個人情報や属性情報の出し方がかなり違うのは高校のときに実感した。女子たちの日記を見ると基本的に本名の下の名前、あるいはフルネームで交流していた。もちろんプロフサイトはSNSではないので(ある程度閲覧制限はかけられるが)誰でも見られるが、誰もが見るというよりは自分たちしか見ない、という前提の下でコミュニケーションをとっていたように感じた。

 実質的にほとんど誰もが見ない以上、これだけなら大した問題ではないかもしれないが、悪い例を出すと炎上する大学生のツイッターの使い方になってしまうおそれがある。つまり、あまりにも個人情報や属性情報を隠さないがゆえに、雑談レベルなら笑って済ませられるようなこともネットにいったん公開してしまう、つまり形式的には誰もがアクセスできる状況にしてしまうことで失態を晒してしまう可能性がある。ここで大事なのはその可能性に自覚的であるか否かであって、リテラシー問題が絡んでくる。
 パソコン派の場合、よほど狭い交流でない限りはインターネットの海の膨大さだとか、本気を出したときの2ちゃんねらーの怖さを経験的に知っていることが多い。いまの中学生がどうかは知らないが、少なくとも自分の中学のころは2ちゃんねるの知名度はネット上で圧倒的だったし、一定の怖れを持つネットの友人は多かった。
 こういうことを知っているかの差は大きい。そしてそれは大学生になってみないと顕在しないかもしれない、というのは今年の数々の炎上事件で把握することができた。 

■インターネットを知っていくということ
 子どもにも大人にも別々な角度で恐怖心があるとか、パソコン派とケータイ派では利用の仕方が違い、またそこから情報リテラシーの差が生まれるのではないかということを雑感的に書いてきた。
 最後に、そうした状況は簡単に克服できるものではないが、メディア環境や情報環境が発達していく中では個別のメディアの使い方というよりもインターネットとは何かであるとか、ネットの交流とは何かという基盤をどのように整備していくかが重要になるだろう。
 家庭での教育を書いているのが第9回「居間でネット 家族が助言も」というコラムだった。小6までは居間でネットをやっていた経験があるので昔を思い出しつつ読んだのだが、家族が過剰に干渉せず、だが放任もしないというのは情報環境に子どもが慣れるためのひとつの術ではあるだろう。
 学校教育ではどういうことがありうるのかだが、特集がSNS@中学校とあるように、10回を通じて中学生のネット事情を追いつつ学校教育とインターネット(あるいはSNS)の先進事例のレポートも同時にやっている。主な対象は埼玉のある中学だが、北海道の中学も数回取り上げられていたりして、首都圏と地方でのネット利用の使い方の差異という意味では面白かった。

 そんな中で第10回「『正しい使い方』結論はこれから」が印象的だった。同級生がSNSのページに顔写真や校名を載せていることに危惧を覚えた中3女子(感覚的には高校時代の自分とかなりダブる)が「正しい使い方」について学校で発表する、というお話。
 とはいえ、「正しさ」とは何なのかが彼女にはなかなか分からない。「『正しい』はひとつとは限らない。使い続ける中で、彼女がいつか自分の言葉を見つける日がくるだろうか」とコラムも締めくくっている。
 おそらく、正しくない利用(顔写真や校名など個人情報や属性情報の無配慮な公開)は彼女にも分かっているのだろう。だが、対であるはずの正しい利用はきれいに共通項があるわけでもないと彼女は気づく。コラムを読んでいて印象的だったのは、こうした「気づき」の部分を彼女が誰かに教えられるのではなく(*2)自分自身で気づいていったことに価値があると思う。

 いまの年下の世代が少し不幸に思うのは、モバゲーやGREEといったソーシャルゲームやニコニコ動画といった動画サイトなど、ネットでの交流がある程度大手のポータルに限定されていることにもあると思う。そうでなければプロフサイトなどで身内の関係をオンラインでも続けるか、というふたつくらいしかたいていの場合選択肢はないのではないか。別の言い方をすると、探せばもちろん選択肢はあるがそれらが”見えない”のではないか。パソコン派は多少見えているかもしれないが、ケータイ派は見えづらいだろう。パソコン派も見えたところで、人が多く集まる大手の交流サイトに集まる傾向のほうがよりあるのではないかと思う。
 大学生の炎上騒ぎで思うのは、かつてならネット上の身内に叱責されて済んだことがmixiやツイッターという大手サイトを使うことによって簡単に捕捉されてしまい(*3)2ちゃんねるに晒され、あっというまに取り返しのつかなくなる、という事態だ。つまり、炎上がいとも簡単に身内の外へ、はるか場外へと拡散していく。
 失敗に不寛容である、といってしまうことは簡単だろう。だが、失敗に不寛容であることと炎上→晒しの経緯を経て個人情報や属性情報が補足されネット上に残り続けるという取り返しのつかない事態になることの間にはギャップがあると思う。
 もちろん犯罪や不法行為の暴露は許されることではないが、「失敗を経験する」ということがいまのネット上でどれほど可能なのかどうかというと、ごくごく限られた範囲でしかないように思う。

 最初に結局そんなに変わっていないのではないかと書いたが、この10年ほどの間に確実に変わったのはこの点であると思う。
 こうした中でできることのひとつは、正しさについて考えることであるという第10回に登場した中3女子のお話はこれからのネット世代に向けての希望でもあるだろう。(*4)考えるのは当たり前と言ってしまえばそうなのだが、大人ですらはっきりと知らないことを子どもたちが子どもたち自身で考えるのは容易ではない。かといって、一方的な啓蒙がいいかというと、体感的な経験という意味では個人的には子どもの主体性に賭けたいと思う。
 それは10回のコラムを通じて感じたことでもあるし、「いま子どもたちは」という特集を読み続けて得た感覚でもある。最初に挙げたネット上のページでも一部を読めるようなので、興味のある方はぜひぜひ。


◆参考記事
(過去エントリー)
「ここ数年のネットユーザーについて思うこと」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51741864.html
「そして2月が終わる」 http://blog.livedoor.jp/burningday/archives/51755039.html

haruna26「デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話」(『インターネットもぐもぐ』) http://d.hatena.ne.jp/haruna26/20110216/1297867931

*1 たとえば田舎の人間が都市に描くイメージが近いのではないだろうか。見知った顔が大半の田舎と、有象無象の人が行き交う都市では生活感覚が違う。都市のほうが圧倒的に未知、つまり知らないものが多いという状況に、田舎や地方から進出して来た人間が漠然と「こわい」と思うことは珍しくないだろう。

*2 学校での発表にのぞむにあたってSNS企業の社員から助言は受けているようではある。

*3 ソーシャルメディアの特性上、ソーシャルグラフによる”逆探知”が容易なこともあっという間に場外に個人情報や属性情報が拡散する要因にもなっていると思われる。

*4 もちろんこれは一つの希望でしかなくて、その他膨大の、それこそ言葉を操るようにインターネットやSNSを操る(あるいは、操ってしまっている)世代の子どもたちに、正しさとは何かを知る機会をどのように授ければいいのかは分からない。