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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』がついに最終回を迎えた。ギリギリの中で追ってくる敵を追い払いつつ、ビスケット以外は目立った死を出さなかった一期は最終話において地球で無事目的を果たす、という分かりやすいカタルシスに包まれていた。だが二期に入ってみるとどうだ。地球と火星のディスコミュニケーションによって無駄な戦争に参加させられたり、身内から裏切りが出たり、あるいはどこまでそもそも身内と呼べるのかというほど組織が大きくなってしまったり。急速に大きくなりすぎた組織は瓦解するのも早いが、二期の場合大きくなりすぎた鉄華団は、戦う相手もまた大きすぎる、という現状に向き合うしかなくなっていく。その最たる敵が、ラスタル率いるアリアンロッド艦隊だった、と見るべきだろう。

 本当に鉄華団が滅ぶしかなかったかは分からない。シノがあのときラスタルを仕留めていれば展開は違っただろう。逆に言うとあのときにラスタルを討てなかった時点で、圧倒的な戦力差の前には滅びの道しかない。シノとラスタルとの、あの一瞬の攻防が終わりの始まりだった。 そしてなにより、監督の長井とシリーズ構成の岡田が組んでいる以上、生やさしい展開など待ってはいない。待っているのは演繹的に導かれる残酷な現実だけだ。その意味では、ラスタルを敵に回してマクギリスと組んだ鉄華団に勝ち目など残っていない。イチかゼロかで言えば、ゼロなのだ。

 さらに言うと、二期は結局のところ政治的な内ゲバでしかなかった。革命は成らずとも、ギャラルホルンをはじめとする火星を統治する政治的な体制は変わっていく。50話のAパートとBパートの間でなにがあったか分からない。敵だったはずのクーデリアと相まみえるラスタルの笑みが意味するところは、平和的な政治闘争の一部分だろう。マクギリスによって艦隊が襲撃されたときも動かなかったラスタルの静の姿勢は、一人の政治家としての強みだと言える。個人的な野心に最後は迷走したマクギリスは、小物でしかなかった。そしてさっきも書いたように、小物と組むことを決めたオルガが舞台を去っていくのも、必然的な流れである。

 では二期にはそうした絶望しか見出せないのだろうか。新しいガンダムは多数登場するが、三日月の操るバルバトスの才能を超えるほどではなかった。その三日月も負傷してからは本領を発揮できないまま、最期を迎えてしまう。であるならば、二期のカタルシスはどこに見出せばいいのだろう。

 という感じでここまでが長い前置きで、ここからが本題。鉄華団もギャラルホルンもつまるところホモソーシャルだよなーと思っていたが、最後の最後にクーデリアとアトラの百合が完成して「二人の母」に見守られるアカツキ、という構図にホモソーシャル解体後の新しい世界観を見せてくれたなって思った。ホモソーシャル自体がどうこうではなく、その意味についてはたとえば岩川ありささんがブログでつづっているように、ホモソーシャルが生み出す希望を見出すこともできる。

婚ひ星(よばひぼし)― 地下室のアーカイブス(岩川ありさBLOG) 

 とはいえクーデリアやアトラ、そしてラフタやジュリエッタといった数々のヒロインたちは、その中では霞んでしまう存在だ。唯一ラフタだけはちょっと立ち位置が違っていて、彼女の場合はむしろ名瀬の作り出した女性のホモソーシャルコミュニティを象徴する存在でもある。だからこれらのヒロインの中で、彼女だけは性別役割分業を果たしてはいない。アキヒロに恋心を抱き、ちょっとした誘惑を繰り返しこそすれ、彼女は最期まで一個人として戦い、死んでいく。銃後ではなく、最前線で戦うラフタのその美貌と勇気に、多くの視聴者は目を奪われたことだろう。(とてもよかったです、はい)

 そう考えるとジュリエッタの立場もまた面白いものとして見えてくる。最前線に立つのは彼女も一緒だ。しかし、ラフタのナゼに対するそれと比較にならないほど、ラスタルに忠誠を誓うジュリエッタの場合は、むしろ個人を殺している。個人としてではなく、ラスタルの従者として、最前線に立つのだ。情けないお坊ちゃまであるイオクに対しては上から目線で退けつつ、自分がラスタルの最たる従者として、力を証明しようとする。言わば自己実現として、モビルスーツに乗るわけだ。

 50話で三日月とモビルスーツ越しで交わす会話のやりとりが印象的だ。合理的なジュリエッタは、負けるのが分かっていてもなお最期まで戦う三日月の心境が分からない。三日月もまた、頭ではなく体で動いていることをジュリエッタに理解されるとは思っていないだろう。二人ともそれぞれ、ラスタルのため、オルガのため、というところは共通している。ただ、生きているラスタルのために戦うジュリエッタと、死んでしまったオルガのために戦う三日月の間には、決定的な溝がある。三日月の忠誠は、この時点では個人的な欲望でしかない。ジュリエッタの持つ公共的な忠誠とは、次元が異なるのだ。

 反体制的でしかないテロリスト集団のような鉄華団は滅ぼされる敵であり、ラスタルをはじめとする側に理がある。マクギリスのやろうとしたことはある意味では正論だが、しかし政治学的に考えれば、統治の正統性を確保するための手段としてバエルを利用することが妥当かと問われると、やはりラスタルのほうに分がある。歴史は歴史でしかない。そして歴史には異なる「解釈」が存在する。歴史的産物には一定の客観的意味があるかもしれないが、ではそこに統治の正統性を見ていいかとなるとラスタルが語ったようにまた別の話になるだろう。時間を巻き戻せるのならば、マクギリスくんには正統性をめぐる政治学の議論であるとか、あるいは社会学の社会運動論やカルチュラル・スタディーズを勉強してほしいところだろう。(学んだところでラスタルの前には屈してしまうかもしれないが,もう少し善戦できたかもしれない)



社会学 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一
有斐閣
2007-11-21




 まあそれはそれとして、どれだけ物語的に悲しい結末であったとしても、無謀すぎる戦いが実ることを長井も岡田も望んではいないだろう。岡田には『シムーン』という前例もあるし、なにより個人の欲望よりも組織・集団としての目的を最後にもう一度重視したことに意味がある。これはある意味、オルガの不在によって再び強化されたものだ。オルガが死ぬ前にみんなを集めて伝えたメッセージが、オルガが死んだことによってより大きな意味を持つ。一度は組織を去ろうとしたザックがなぜ帰ってきたのかと考えると、組織に対する愛着を完全に失ったわけではなかったからだろう。ハーシュマンの三要素を借りるとザックは二期の間で組織に対する不満の発現、いったんの離脱、そして忠誠からの復帰までを全て見せてくれた。みんなのことを考えられる公共的な精神が、最後に彼ら彼女らを救うことになる。これは自分を殺してラスタルとアリアンロッドのために生きることを選択した、ジュリエッタとも重なる精神であり、思想である。

EMOTION the Best Simoun(シムーン) DVD-BOX
新野美知
バンダイビジュアル
2011-01-28




 最後にクーデリアとアトラについても触れよう。クーデリアも元々の野心だった(と思われる)政治家への転身を果たして、理想の実現に近づいている。自分のためじゃない、誰かのために生きることの尊さみたいなものを追求しようとしている。アトラは自らに宿った三日月の子どもを、育てている。これも誰かのために生きることの、一つの表れだ。そしてそばにはクーデリアがいる。最後の最後に、クーデリアとアトラの「百合」は完成するのだ。

 百合とは離して考えても、二人の母と一人の息子という家族像は、セブンスターズによる合議という貴族制(あるいは寡頭制)を廃止してラスタル閣下のもとで新しい世界へと(より民主的な形で)踏み出した世界に生きる一市民として、新しいイメージを提供しているように見える。とはいえラスタルは軍人出身だから文民統制ではないし、クーデリアとアトラも子育てを始めたばかりだ。この世界には今後再び様々なことが起こるだろう。そこを乗り越えられるかどうかは分からないが、次の世界へとステップを踏んでいることは確かだ。

 最終回を経てもなおプロセスの中にあるというのは政治闘争を描いたロボットものではある意味おなじみの展開ではある。だからこそ、クーデリアとアトラと彼女たちの息子や、もっとも悲しい結末を迎えたラフタ、あるいは最後まで自身の精神を貫徹したジュリエッタといった、全体から見るとマイノリティであったヒロインたちのことを静かに思いながら、この文章も幕を下ろしたいと思う。

 公共的な精神と新しい親密圏。死んでいった者たちのことを悼みつつ、それでもたどりついたこの結末を、肯定的にとらえられるように。

公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一
岩波書店
2000-05-19



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