Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

監督:大森立嗣
脚本:大森立嗣
主演:松田翔太、高良健吾、安藤サクラ


劇場:ユーロスペース


 ああ、こういう映画だったのか、と見終えたあとに思った。正直、この映画はかなり単調である。現実逃避からのロードムービーというのはよくある映画の形だが、ここまで起伏の少ないロードムービーも珍しいんじゃないかと思われる。なぜそこまでシンプルにしたのか、敢えて使い古された設定を使ったのか。パンフレットを先に読んだわけではないのので、映画の行く先がどこになるのかを気にしながら見ていた。正直、最後の最後まで分からなかったんだけれど。あるいは、分かった気になっているだけかもしれない。

 ケンタとジュンは同じ施設で育ち、同じ会社の解体業者として働く日々。仕事先では虐げられ、傷が増える以外には何もない単調な日々が続く。ある日ナンパに繰り出してカヨと出会い、ジュンがその日のうちに一夜を過ごす。女とヤることが一義的に必要なジュン、ただ愛を求めるカヨ、そしてケンタは現実逃避のための破壊衝動にとらわれていた。かつて兄がそうしたように、そして兄のいる網走を目指すために。光の先の、希望を信じて。

 この映画の特徴の一つに会話の少なさが挙げられる。それと同時に、語彙の乏しさも。意図的にコミュニケーションを避けているのか、避けてはないが言葉が出てこないのか、もしくは言葉がなくてもコミュニケーションができているととらえるのか・・・どれか一つの答えにならないのはジュンとカヨの関係性をずっと見ていればよく分かるし、少なくとも、濃密な会話、つまり脚本の素晴らしさによる演出は極力映画として避けているのは伺える。いやまあ、ここまで乏しい会話で2時間持たせるというのも脚本の才能なのだろうか、いやそれを生かすのは監督の腕か。いやこの映画ではどちらも同じ大森さんか。

 現実逃避という要素と合わせて暴力という要素も映画の結末に繋がるキーとなってくる。ケンタにとっての兄の存在、そして頭の悪い自分が唯一即行動に移すための手段としての暴力。あるいは、暴力という象徴的な身体性が前に書いた言葉の乏しさに繋がっているとも言えるだろう。目の前の状況を今すぐ打破するためには、言葉などあてになるはずもない、と。これは今の時代にはあまりにもアンバランスに感じられることでもある。校内暴力が近年増えているというデータはあるが、80年代ほどではないだろうし、暴れている世代よりも引きこもる世代のほうが圧倒的に今の時代は多い。変革よりも不変を、アクティブさよりも消極さを望む。特に前者はかっこわるいとかどうせ無理だ、とかいう言葉で片付けられるのがオチだ。事実、現実は簡単には変わらない。

 逆に言えば、古くさいとも言えるロードムービーのような構成も、時代にそぐわない現実逃避や暴力も、現代へのアンチテーゼととらえるとしっくり来るのだろうか。そういう一面はたとえば20代の失業率の高さや不安定な雇用であるとか、それによる現実から抜け出せない悪循環を考えると分かるんだけれど、その一方でラストシーンをどう解釈すればいいのか個人的には分からない。良くも悪くも突き抜けるべしなんだろうか、あきらめの世代に対する有効な手段がそれなんだろうか。確かに答えはないだろうけれど、答えがないという前提で映画の中のケンタとジュンと描き方を責めるつもりはないが、ストーリーの起伏の少なさによる意外性がなかったせいか、今現在を20代として生きる自分にはしっくりこなかったのである。ストレートに描きたいという大森監督の意志は伝わるし、主演の3人を中心とした演技者の演技も見事になりきっていたが、全体が提示されたまま終わってしまった、という感じが映画を見終えたあとの率直な感想である。

 ただ個人的には、そうしたラストシーンでさえもあるがままの事実を見据えるカヨちゃんの目線を尊重したいとは思う。彼女の大らかさ(無知であるがゆえ、かもしれないが)と積極的に陶酔しようという気持ちは一人の大人としてはふさわしくないだろう。ただ、それらを全て失うと言うことが大人になるということとも違う。カヨちゃんは本作の中で誕生日を迎えるのだが、そうして歳をとるということをかみしめていくことで彼女は彼女なりに、不器用でも大人になろうという意志が見えた。最初ナンパで2人にひっかけられた時の彼女の表情と、ラストの眼前をまっすぐ見据える彼女の表情は歴然とした違いがある。重みも違う。

 つまり、あくまで個人としてはケンタとジュンの映画というよりはカヨちゃんの映画だったのかな、と思う。彼女のフィルターを通して全体を眺めるほうが得るものが多かった。もちろんそうでなくとも得るものはあるだろうが、個人としてはカヨちゃんの目線が強く印象に残った次第であり、そういう見方もアリだと思う。少なくともカヨちゃんは映画の中でただの傍観者というわけではないのだから。

 ケンタとジュンに関しては、終盤のキャンプ場でのワンシーンにやられた。あのシーンで目が覚めた、と言ってもいい。あのシーンに衝撃を受けないほど自分が枯れていなくてよかった。「絶望した」とただ口にするだけの絶望と、北に言って感じる絶望との違いはきっとある。そう、かみしめながら、ああ、やっぱり身体性の映画なんだなあと思いつつラストシーンを見送ったのだった。

 パンフレットをぱらぱらと読んでいるだけでも感じ方がばらばらなのは、映画自体がシンプルであるがゆえに感じ取る側に任されている部分が多いからだろう。良くも悪くも、見た人が感じ取ったことがそのまま映画の評価に繋がる、そういう映画だった。ああ、あと、阿部芙蓉美の「私たちの望むものは」カバーは素晴らしい、演出含め。これは確かに納得のエンディング曲であり、シンガーのセレクトである。ファンだからという理由ではなくて、本当に素晴らしかった。 
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