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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 ファンタジーならば異端、あるいは人外と呼ばれるような存在はさほど奇異にはうつらない。だからこそファンタジーと言うべきだろうし、異端ぞろいが物語を作り上げていく(それこそ「ロードオブザリング」のような)ことが作品そのものの魅力であろうと思う。
 リアルな世界を描写するときには逆の論理がはたらく。異端は異端として徹底的に奇異にうつる。そして多くの場合、敵視される。日本においては外国人であっても十分に異端視されるわけだが、それ以上の存在であるならばなおさらであろうし、同質さを重んじる日本社会ではそうあってしかるべきなところが多分にあるのかもしれない。いやまあ、単純に日本には限定できないだろうけどね。「シザーハンズ」を見れば異端の生きづらさと招かれる悲劇は十分に普遍性がある。

 映画2本レビューは今年は何回かやってきたが、たまたま今回も異端との出会いから始まる物語、それも両方ともアニメーションだった、というのもありまとめてレビューしてみたい。「ねらわれた学園」はまだ公開していないが、たまたま早稲田で試写会が行われたこともあって鑑賞してきた。ちょうど明日から公開のようなので上映館はそう多くないが機会があればぜひ。
 少し先走ったがいつものようにまず別々に感想を書いておく。

ねらわれた学園(2012年、日本)
監督:中村亮介
脚本:内藤裕子、中村亮介
主演:渡辺麻友(ナツキ役)、本城雄太郎(ケンジ役)
原作:眉村卓『ねらわれた学園』
公式サイト:http://neragaku.com
見:早稲田大学小野記念講堂




 パンフレットや予告編からすでに絵の綺麗さが何よりのウリなんだろうな、と感じていたがこれはほんとうにすばらしかった。試写会でのトークショーで何度か触れられていたが、アニメーションだからこそできる構図のおもしろさや奇抜さを、青春ものの作風に乗せきったんだろうな、というのが率直な感想。
 ある意味、リアリティに欠けるくらい表現が過剰なシーンが多々ある。多々あるのだが、くどさを感じないように見えるのは丁寧にシーンを映しているからだろう。あまりにもめまぐるしいと過剰さばかりが目立つが、音楽をうまく利用しながら(特に主題歌にもなっているsupercellの「銀色飛行船」がほんとうにすばらしかった。この人の泣きメロはほんとうにずるい)時には静かに、時には勢いをつけて熱くシーンを彩る。単に感情を乗せると言ったところで、熱さを描くだけでは緩急がつかない。そのところを意識して表現しようとしたのは伝わってきた。

 原作を読んでないので原作の内容とはうまく比較できないが、あらすじを見る限りかなり書き換えていることは伝わってきた。とはいえ、現代的ではあるとは思うけれどももうすでに手垢がついてしまったことにトライしようとしているので、真新しさというほどの真新しさは感じない。
 ざっくり言うとコミュニケーション、具体的には人と人の感情の伝え方と言ったところで、異端者である未来から来た京極が”テレパシー”を使って学校の生徒を洗脳する一方、ケンジは京極に真正面に向き合おうとする。敵としての京極をいかにぶん殴るか、というかなり王道じみたことをやろうとしているのかな、と思っていた。
 思っていたのだが、結果的に途中からあらかじめ設定した二項対立を捨て去ろうとするのがおそらく本作の一番の魅力なんだろうと思う。結果的に京極が提示するものはかなわない。しかしそれは、ケンジに否定されるものでもない。

 それでは、残ったものはなにか。確実に残ったのは異端と出会ったという経験だろう。ケンジにとっても、ヒロインのナツキ(CVまゆゆ)にとっても、異端と出会う、交流する、自分とはまったく違う相手を知っていくという経験が生み出すものそれ自体が本作の肝の部分なのかなあ、と見ながら感じていた。
 強烈なメッセージ性を残すわけでは決してない。どちらかというと、視聴者に向かって問い直そうとする作品だろう。京極が提示するもの、ケンジが貫くもの、どちらにも一理はあるし、欠点もある。そのなかで、そのどちらかを選ぶということよりは、その両方を視聴者が画面を通じて眺めていくなかで、思い起こされるものがあるとすれば、わたしたしは目の前の人とどのように向き合えばよいのだろうか、というシンプルで答えのない問いだ。もっとも、この問いに対して一番真摯だったのは”永遠のおとなりさん”たるナツキだったのかもしれない。
 少し残念だったのは後ろに座ってた人もぼそっと言ってたんだが京極のテレパシーなる能力がどういう風に具体的に広まっていくのかがよく分からんというところかな。テレパシーを使って洗脳、という分かりやすい構図ではあるけれど、具体的なところはよく分からんぞというところで。あとナツキを筆頭に、一部のキャラが引きこもってしまう謎は結局明かされなかったがあれもなんだったんだ。

 あとトークの中で監督だったと思うけど新海誠のように作画にエモーショナルな感情を乗せた、とも言っていた。オープニングからしばらく続く印象的な桜の表現は、「秒速」を意識したのかなと見ながら思っていたのでなるほどねという感じ。
 新海の「秒速」と違うのは、「秒速」が達観しているように見せるところをそうは描かない。感情とそれに付随する行動に関してはまっすぐに描ききる。その部分は、新海が「星を追う子ども」で「秒速」とは違う姿勢を見せたところに近いのかもしれない。
 「秒速」に共通しているのかもしれないのは、ナツキの物語でもありケンジの物語でもあるというところだろう。どちらかだけではない、ふたりの目線それぞれに映ったものを描くことで完成している。「秒速」もその目線がなければ、第三部はただのノスタルジーとして終わっていただろう。

伏 鉄砲娘の捕物帖(2012年、日本)
監督:宮地昌幸
脚本:大河内一楼
原作:桜庭一樹『伏 贋作・里見八犬伝』
主演:寿美菜子(浜路役)、宮野真守(信乃役)
公式サイト:http://fuse-anime.com/
見:シネ・リーブル池袋




 ああ、カラフルだなあと思いながら見ていた。鮮やかといってもいい。「亡念のザムド」の宮地昌幸なのでうなずける。江戸の、徳川家定(本人もしっかり登場する。というかラスボス)の治世だから19世紀にはなっているのだろう時代を、とてもとても立体感を伴って劇場化している。広がる町、流れる川、真ん中にはでっかいお城と来たら舞台としては十分だ。
 桜庭一樹原作ではあるがまだ読んでなくて、映画のほうが先に公開されてしまったのでどうしようかなあと思っていたが予告編を見て気になったのと、池袋はチャリ圏内なので見に行くかーということで見てきた。

 陸奥の国から江戸の兄を頼って上京した鉄砲娘こと浜路。その日目撃したのは伏と呼ばれる人外の首の数々。八犬伝が下敷きにあるだけあって8人(8匹)いるらしい伏は残り2人。そのうちの1人、信乃とたまたま出会ってしまい・・・というところから物語は始まっていく。
 わりとありがちな始まり方ではあるが、その王道さは浜路の初々しさと快活さ、そしてその浜路に声を吹き込む寿美菜子によってテンポよく始まっていく。このテンポのいい始まり方はアニメ独特なところだろうと思うし、「ねらわれた学園」もそうだったが出会いのシーンのすがすがしさは、今後展開されていく物語にわくわくさせられる。要は掴みが肝心というところだけど、この2作品はその点はとてもよかった。

 本物か偽物か、ということが途中から問われ始める。贋作・里見八犬伝という歌舞伎が作中で演じられるのだが(そしてこのなかで信乃は重要な役割をする)そこでは伏がどのようにして生まれ、それがどのような悲劇性を持っているのかが語られる。
 悲劇を内包した存在としての信乃は、つまりは人でもなければ犬でもないまがいものでもある。中途半端といってもいいのかもしれない。伏は伏として肯定されず、何度も書いているように異端として扱われる。異端として扱われた者の末路は、往々にして悲劇に他ならない。
 「ねらわれた学園」の京極は異端ながら転校生として順調に受け入れられていくのに対し、伏である信乃は違う。伏もふだんは人間の装いをしているのですぐにバレることはないが、殺生行為に及ぶことが度々あるので確実にターゲッティングはされる。どこかよそよそしくしながら生きなければならないのが常である。
 信乃にはその自覚がある。自分が生きるためには殺生をしなければならないことも自覚しているし、抑制できなくなってしまったときは自分にとって特別な人間に対してもさえ牙を剥きかねないことへの負い目もある。

 浜路はどうか。浜路にとって江戸で出会うあらゆるものが新鮮だ。一介の田舎者の彼女は、江戸っ子ひしめく江戸の街中ではある意味異端かもしれない。だからこそ江戸に来て早々のシーンは白眉だと改めて感じる。
 ただ、田舎者の浜路には偏見がない。出会ったしまった存在である信乃に対して芽生えていく感情に、彼女は正直に行動する。それこそ、走る。とことん走るクライマックスは、江戸城を山にたとえた前半のセリフが文字通りそのまま生きてくる。彼女にとっては疾走する場所があること、追う存在があることはいままで続けてきた狩猟の仕事そのものでもある。公私混同はどうにも好都合だ。

 振り返れば「闘う(or戦う)少女像」を桜庭一樹はずっと描いてきたし、浜路もそのなかの一人として位置づけられるのかもしれない。今いる場所で、手の届く範囲で、精一杯の闘いをする。時には仲間が生まれ、時には敵も生まれ、時には孤独になりつつ、目の前の現実と闘う。それが桜庭一樹が初期からずっと描いてきた少女像だった。
 もっとも、浜路をとらえる際にはそれだけではたりない。もうひとつ桜庭作品、特に『赤・ピンク』や『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』に顕著だった少女と少女の脆い関係性という点は、浜路には適用できないだろう。むしろ兄である道節とのどたばたアクションや、信乃に惹かれていく乙女心・・・といったように、桜庭作品として色づけしなくても十分エンターテインメントとして見応えのあるふうに仕上がっているなあ、と感じた。

 それでも桜庭らしさをあえて見いだすとするならば、少女としての浜路の成長を丹念に、そして等身大に描いている点だ。飾り気がなく、あるがままの少女としての浜路の魅力は桜庭ならではだと思う。鉄砲を持っているだけあって彼女は桜庭作品のなかでは十分強い部類に入るだろう。しかしそれは表面的な面であって、鉄砲以外の面ではまだまだ少女でしかない。
 信乃以外でもうひとり生き残っていた伏である、凍鶴とのやりとりにうまく表現されていたように、大人にはまだしばらく遠い。あるいは、冥土という、瓦版売りであり滝沢馬琴の孫娘であるという少女との出会いが、自分にはない能力を持つ存在として、そして同世代の女の子としての関係性を生んでいく。自分と自分の兄、そして作中には登場しない祖父の存在以外ほとんど知らなかった浜路が、楽しみながら、あるいは苦しみながら江戸での生活を吸収していく。そうやって少女の成長過程を描く試みは、何より桜庭一樹が初期から大事にして来た点に他ならない。

感情を乗せて走るキャラたち 

 このふたつの作品はストーリーの内容的にはとてもシンプルとも言える。登場人物が極端に多いわけでもなければ、「ねらわれた学園」は湘南のとある学校とその周辺の町を、「伏」は江戸のある時代の、江戸城周辺の町からほとんど離れることはない。
 しっかり定まった舞台のなか、いわば登場人物たちにとって日常の空間を物語化しようとしているのがこの2本だったわけだが、異端の存在が日常を一気に展開させていく。「伏」の終盤がまさにそうであるように、いわば祭り化すると言ってもいいかもしれない。空間全体を巻き込むには異端者がそこにいる、という以上に、異端者を中心に周りが動かされていくという構造が映像としても派手にうつる。

 両方の映画に共通するのは、やたらと走るシーンが多いことだ。「伏」の場合、鉄砲娘である浜路も”伏”である信乃も、それぞれの理由を持ちながらスクリーンを疾走する。「ねらわれた学園」のケンジは、アニメーションだからというのもあるだろうがやたらとアクションが多い。試写会のあとのトークショーで、中村亮介監督がいかに感情を乗せるかを作画的に工夫したかと言っていたが、作画ももちろんだがケンジの動きひとつひとつに中学生という年若さ以上の何かがこもっているように感じとれた。
 「時をかける少女」もそうだったが、実写化が何度もされた原作つきの映像作品をあえて現代にアニメにする魅力は、この無尽蔵にスクリーンを動き回る主人公の実現でもあるのかな、と感じたくらいだった。

異端と出会うことの意味
 
 思えば「おおかみこどもの雨と雪」も異端者としてどう生きるか、の物語であった。完全に異端として生きるか、人になりきるかの選択があった分、伏である信乃や凍鶴の生きづらさとは質が異なるが、それでもふつうの人とは違う生き方を強いられたのは雨と雪が特殊な存在であったからだ。
 たまたま今年異端や人外を描くアニメ映画が続いたのことについてはとりあえず置いておくが、異端を描くことは翻ってわたしたち自身を見返すことでもあるのだろう。異端の目を借りることで、雨と雪の生きづらさや、伏の生きづらさ、京極の切実さをようやく理解することができる。人同士であれば気にしなかったことも、彼らの存在があることで気にせざるを得なくなる。それはもしかするとどうでもいいような些細なことかもしれないし、実は重要なことなのかもしれない。いずれにせよ、わたしたちはどこかで排除の論理を働かすことで生きているというどうしようもない事実だけは目の前に残される。
 
 だからこそ、「ねらわれた学園」のテーマがコミュニケーションだったように、異端と出会うことの意味もまたコミュニケーションなのではないだろうかと思う。「ねらわれた学園」の場合はテレパシーを使うか否かという意味でコミュニケーションが問われた部分はあったが、それ以上に未来から来た京極と現代を生きるケンジやナツキたちとの間にある常識の違いに個人的には関心が向いた。それは演劇のメタファーが途中挿入されるシーンがあることからも、ある程度意識的に表現している部分ではあるのだろう。
 たとえば寛容になりましょう、と言われたところで自分以外の何者かに対して寛容になれるのならそもそもケンカも殺人も排斥も差別も戦争も起こりようがない。いかに寛容になることが難しく、それが重要で、そしてそのためには相手を知るという根本的なことから始めないといけないか、についての自覚があって初めて寛容であるということには意義がある、と気づくことができる。
 ちゃんと向き合ってコミュニケーションしましょう、ということそのものにもだから意味がないに等しい。コミュニケーションの重要性に気づくのは、どうしようもなくコミュニケーションできない相手と出会ったときか、この人にはどうしても思いを伝えたいと感じるとき。「ねらわれた学園」も「伏」も、このふたつを同時並行的に、そして爽やかに鮮やかに青々しく描くことに成功している。

あとがき

 2本並行してあれこれ書いているとやたーら長くなってしまったがこの2本はせっかくなので合わせて書いておきたかった。言うほど批評的に書いてない気もするし、切り口をまとめたことはよかったのか悪かったのかもよく分からないが、この2本はそれぞれ似たような理由(まとめて書いた部分)と別々の理由(個別に書いた部分)の二重の意味でオススメなのでどうぞ、というところ。
 どっちもアニメでしかできない表現をぞんぶんに発揮していて面白かったので、アニメ好きでよかったなあとしみじみしながら見たというのもあった。原作をそれぞれに改変した上、という点は原作の魅力が損なわれずに(どっちみ未読なのでおそらく、ではあるが)アニメとして、映画としてのオリジナルの魅力も両方発揮できていたのだと思う。
 まどマギとかエヴァQとか009とかスマプリとかタイバニとか、けっこう大型アニメがこの秋は多いので今回扱った2本はちょっと影が薄いような気がするのでなおさら書かねばと思ったりもした。声優面ではねら学は小野Dや花澤さんが出てるし、伏では主演の寿美菜子ちゃん筆頭になぜか桂歌丸まで動員するという謎の豪華さなのでこれはこれで見ておいて損はないだろうと思う。
 ねら学は大学での試写会、という性格もあってか若い人が多かったけど女性が半数近くいたのは少しびっくりした。伏はアニメ映画にしては年齢層が高かったというか、そのへんは桜庭一樹原作の効果なのかなと感じた。
 あ、けどなんだかんだまどマギはやっぱりすごかったですはい。時間の都合で後編しか見てないけど、まどかってこんなにすごかったのかあああと思い返しましたまる。

 とまあ、そんな感じで今年の秋はアニメ映画がいつになく方策だなあと感じていたが、この記事を読む限り実際そのとおりらしい。年間通じてみてもスマッシュヒットしたおおかみこどもがあったあとにエヴァQ、というのはジブリの新作がなかった年にしては、業界的な興行で十分貢献しているといえるのかもしれない。いやまだエヴァはこれからだけども。あと根強く人気なプリキュアもけっこう人が入っているようだしなあ。
 個人的には年内はあとタイバニをどこかで見られたら、と思ってるけどどんなもんでしょうか。テレビ放映全然追えてないんだけどね。
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