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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 公開は2012年だが、2013年になって中野の小さな劇場で観た。単館系らしく小規模な映画の、その丁寧に丹念に作られている脚本と、演出の細やかさに心を打たれた。
 「親密さ」という表題からイメージしたのは、きっと親密になれない男女のお話なのだろうな、ということだった。その予想は、ある程度は当たっていたし、またある程度はそうじゃない、とも言えるだろう。
 あるブログではこの映画を恋愛ものだと書いていた。佐藤亮と平野鈴演じる主役の男女ふたりに着目すれば、確かにそうなのだろうとも思う。このふたり以外でも恋愛関係か、それに近い関係は描写されているし、まあ解釈として間違ってはいない。 
 間違ってはいないが、恋愛ものとして片付けるにしては惜しいものがある。この映画は情報量がとりたてて多いわけではないと思う。それでも255分ある。第一部と第二部という形で切断はあるが、連続するものもある。あくまでそうやって、二部構成にしたことや、その結果トータルで255分になったこと、その意味をまず考えたいと思った。
 というのは、この映画はどのようにして撮られたのだろうか、ということが終止気になっていたからだ。なぜこのシーンが映されるのか。なぜこのシーンはあのような構成になっているのか。内容そのものよりも、その外側にある形式が最後の最後まで気になって仕方なかった。

 第一部はフェイクドキュメンタリー的だ。「親密さ」と題された演劇を作るまでの過程を、一日一日描写していく。途中で役の配置が変わったり、ある役者は個人的な理由を抱え劇団を去り、演出家と脚本家は苦悩し、対立する。それ自体は、あるひとつのものを集団で作り上げていく過程においては、ある意味ではありふれているのではないかとも思う。
 第一部の終盤、予告編でも映されている佐藤と平野が深夜〜明け方ごろの時間に長い道路を歩くロングシーンで、やっとこの映画のテーマ(のようなもの)をつかめた。そしてそのあと第二部の演劇「親密さ」へと続いていく。
 舞台も役者も役名も、もちろん第一部とは異なる。演技に入る前の彼らと、演技に入ったときの彼ら。同じ人物の違う側面を第一部と第二部でわたしたちは目撃することになる。とはいえ、前者の演技に入る前の彼らも、スクリーンの前にいる者からしたら演技なのだ。
第二部では単に演劇のステージが映されるだけでなく観客も用意されている。演出家をつとめる平野鈴はその観客席から演劇「親密さ」を見守ることになるのだが、では他の観客は何者なのか。彼らも演技なのか、あるいは本当に彼らもスクリーンの前にいるわたしたちと同じ観客だったのか。(あとで調べると実際に東京のどこかで上映された演劇を撮影したもののようだと分かった)

 途中、「言葉のダイヤグラム」という詩が引用されるシーンが何度かある。この詩のなかにある言葉をスクリーンの俳優を通じて聞き、改めて画面と向き合うことでようやく、これは言葉にまつわる物語なのだろう、という位置づけが自分のなかでできあがった。ここでいう言葉は、つづられたものというよりは、口頭から出るものであることが大半だ。
 この映画は言葉を届けることそれ自体を問う物語でもあるし、言葉は届かないという事実ととどうやって向き合っていくかという物語でもある。佐藤亮と平野鈴の対立は、目に見えて分かりやすい対立ではあるけれど、当の彼らにとってみれば切実で繊細なものだ。どうやって打開すればいいのか。どうやれば、分かり合えるとまではいかなくとも、お互いの気持ちを届け合うことができるのか。ひとつの確固たる意志があるとき、それはあまりにも難しい。妥協することは容易ではない。
 第一部の終盤のあのシーンは、そのシンプルな撮影の方法にしては響くものがある。それは、第一部で描かれていた二人の関係の破綻と修復が、一つの結実を迎えた場面がここだからだろう。

 人と人との境界。それは、この映画が映画と演劇の境界であったり、フィクションとノンフィクション(ドキュメンタリー)の境界を表現しようとしていることからくるものかもしれない。第一部は演劇とは何かを問うように、役者達は稽古を進めていく。
 いや、問うようには正確ではなく、問われているのはおそらくスクリーンをみつめる観衆の側だ。普段見ることのない舞台裏を、それがつくられたもの(フィクショナライズされたもの)であったとしても、ひとつの現実のように見せつけられる。
役を深めるために、あるいは役者同士の距離を近づけるために、演出家である平野鈴はあるときは講義(レクチャー)を、あるときはインタビューを行う。意味があるのかないのかは誰にも分からない。ある役者は、公演まで間がない中にこんなことをしていていいのか、と疑問に思う。うまいな、と思ったのは口に出して場を気まずくさせるのではなく、メールで特定の他人に伝えるという手段をとっていることだ。
 こうやって人は容易にすれ違っていく。けれども、すれ違いのない人間関係などないのだ、とも思う。前述したように、集団で何かをなそうとするときに、そして妥協が容易ではないときに、すれ違わないはずがないのだ。
 それでも「親密さ」の獲得はできるはずだという希望もまた、第一部の終盤を見ることで感じることができる。安心して観衆は、第一部を見終え、休憩を挟んだあと、第二部の演劇にうつることができる。

 第二部の演劇「親密さ」もまた、言葉とすれ違いの物語だ。ここではもっと具体的に、詩を朗読する場面が登場する。詩は必ずしも私的なものである必要はないが、他でもないわたしの言葉として人に届けるときに、詩は私的なものに依拠しがちなのかもしれない。そのとき言葉は、陳腐でもありきたりなものでもない、唯一の何かに変容する可能性を持つ。
 この演劇ではまた、あなたは誰なのか、わたしは誰なのかを問うことも主題になっている。アイデンティティとは与えられるものなのか、獲得するものなのか。そしてそれは固定的なものなのか、変容する可能性を持つのか。唯一なのか複数なのか。
 まとめると、始まりを否定することでも肯定することでもなく、「いま、ここ」を常に問い直していくことの可能性を秘めているのがアイデンティティではないのか。わたしは常にひとつのわたしではないし、あなたもまたそうではない。あなたの前にいるわたしは、他のわたしではきっとない。
 わたしが特別なあなたをみつけたとき、そこですべてが承認されるかというと、そうでもない。関係性の問い直しは続いていく。分かり合えるかもしれないし、分かり合えないかもしれない。思いは届くかもしれないし、届かないかもしれない。
 ほんとうに、何もかもが不確定で不安定の海のなかにあって、そのなかを人はただただ泳いでいるだけなのかもしれない。

 それでも思いがある限り、救いもまたどこかにあるのではないか。思いの強さはそのまま祈りになる。
 そんなことを、2時間10分の演劇「親密さ」を見ながら考えていた。思いを届けるために、詩という手法をとるのはひとつの手だ。誰かに手紙を書くのもありだろうし、ネットに文章を垂れ流すのもありだろう。もっとも簡単でプリミティブで、そしてもっとも相手に伝わらないかもしれない方法である、声にして届けるということでもいい。
 演劇という特性ゆえか、多くの会話が展開される。その会話は、ただのおしゃべりのような会話かもしれないし、すれ違うばかりのケンカのような会話かもしれないし、お互いの理解をちょっとずつ深めていく対話のようなものであるかもしれない。場面や状況といった形で文脈をコンスタントに変化させながら、会話が生み出すもの、あるいは生み出さないものを観衆は実感していく。思いを伝え、届けることがいかに難しいか。そして、届いたときの感動がどれほど素晴らしいものか。
 インディーズ映画には商業映画と比すとどうしても様々な限界や「弱さ」があるのだろうけれど、最後まで真摯に作られた映画(と、そのなかにある演劇)には、拍手を送らずにはいられない。おかげで長い長い映画の終わりを、幸福な思いで迎えることができた。この映画を目撃できてほんとうによかったと、ただただ思える。

 さて、主役二人の「親密さ」は実現したのだろうか。第二部の演劇が全編終了したあと、エピローグ的な形でつづられる佐藤と平野による山手線と京浜東北線の追いかけっこが面白い。
 途中までは併走してその後分かれてしまうこの路線を使ったのはいくつかのねらいがあるのだろうけれど、第一部における二人の関係性を見た後に目撃する無邪気なおいかけっこの意味のほうが、よほど大きい。
 第一部の終盤で隣同士を歩いていたふたりは、エピローグではまったく違う道(乗っている路線もそうだ)を歩いていることが分かる。けれども、ここも一つの点でしかないかもしれない。
 未来は分からない。それに、たとえ二人の歩く道が違っていても、きっと以前よりは互いのことを思い合っているのではないだろうか。はしゃぐような無邪気な追いかけっこは、第一部のときの二人にあったギスギスとした感覚とは程遠い。
 それと、演劇が終幕するころに平野鈴が流していた涙とその表情に、一人の観客として心を打たれた。演技なのか実際なのかは分からないが、彼女にはきっと、彼女にしか見えないものがあったのだろう。

 その尊さを、思いやろうと思う。

※2013年に別のところで書いたものをリライトして再掲しました。
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