Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

監督:井上剛
脚本:渡辺あや
主演:森山未來、佐藤江梨子

鑑賞劇場:シネマロサ


NHK公式サイト 映画公式サイト

 これは阪神大震災をテーマにした映画であるし、そうでない映画でもある。

 という前ふりを、ログを見ると2月25日の深夜に行っていたらしい。このあと個人的に進路的な意味でごにょごにょしたあと、3.11を目撃する。できるならばその前に完成させておきたかった文章でもある。
 この映画について語る限り、3.11に言及する必要はない。ただ、今生きているのはまぎれもなく3.11後の世界だ。阪神大震災から14,15,16年と時が経ち、記憶の風化という文字や震災後に生まれた世代が増えてきているという文章を新聞などで見かけた気がするが、3.11後にどれだけ95年1月17日とその周辺が語られたかは、改めて言及するまでもないだろう。

 ・・・と、こうやって文章を繕うことと映画自体の評価にはあまり関係ないような気がするので、まずは映画そのものから振り返ることにしたい。震災論はあとでいい。
 言いたかったのは、3.11以前に書いておくことができれば、それ以後に見直して何か発見があったかもしれないな、というところかな。極端に以前以後を区分けする必要もないと思うが、意識レベルでは否が応でも切り離せない。
 
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 映画ではあるのだが元は2010年、あれから15年の日にNHKが放送したドラマである。いくつかの映像を付け加えたものが映画として公開された。
 少なくとも、いつもの俺ならそのときに何か書いていていいはずだ。ただツイッターを見てもほとんど何も書いてはいない。神戸という土地に多少は馴染みがあるが、自分のこととしてとらえるにはあまりにも95年の1月は幼すぎた。
 とはいえ何も語ることがなかったわけじゃない。地元でも震度4は観測したし、この震災と3月の地下鉄サリン事件は幼いながらに社会というものを感じた初めてのきっかけだった。同世代で同じような感慨を持つ人はそれなりにいていいと思う。

 この映画もそういった意味では、あの日を直接語る映画ではない。ただただ、追体験していく。社会の中の出来事ではなく、自分のものとして追体験していく。
 美夏を演じる佐藤江梨子の関西弁も、勇治を演じる森山未來のぎこちなさも、特別な誰かではなくてどこにでもいたはずの一個人を演じることに徹しているように思えた。そしてもはや、見ていると彼らが演じているのか役そのものなのかが分からなくなる、という心地よい矛盾を抱えることになる。

 彼ら自身の抱えている矛盾もある。ふたりとも15年という年月の間立ち寄ることはなかった。15年ぶりに訪れた理由がいっぽうにはあるが、他方にはほとんどない。必然と偶然が絡み合っていくがゆえに、抱えている矛盾が露呈していく。
 その様がものすごくリアルなのだ、という気がした。ぎこちない関西弁から露呈していく過去。この映画は物語があるようでない。ふたりが偶然出会って、あの日から15年後の朝に向かって街を歩く。撮影方法からしても映画と言うよりはドキュメンタリータッチにも思える。エフェクトを駆使したり、カメラワークを意識したりということがほとんど感じられない。
 美夏と勇治のようなふたりはどこにでもいるようで、でもどこにでもいないかもしれない。

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 忘れてしまうこととか、歴史になってしまうこととか、それ自体は必然だとしても当事者として考えるとなんとも言えない気持ちになるんだろうね。だからエンディングに本当の1月17日を持ってきたことのインパクトは虚構と現実の交差以上の意味がある。
 もう15年も経ってしまって前後の世代が経験という意味で確実に断絶している。もちろんそれぞれの思いがあるんだろうけど、経験した人の感じるもどかしさのようなものはどんどん積もるのかもしれないな、と。美夏が三宮の変化を見たときの違和感が象徴してるように。
 冒頭に書いた阪神大震災の映画でもあるしそうではない、という意味はこのへんにあると思っていて、つまりはあくまで阪神大震災という実際の出来事や神戸、三宮、長田、御影という舞台を下敷きに、あるいは媒介にしつつ、美夏と勇治の出会いを淡々と描いていく。淡々と、と書いていいくらいスタンスがはっきりしていて、かつ生々しい。脚本で書かれた言葉ではあるのだろうけれど、どこかにあったはずの出来事、のように思わせる意味はおそらく現場で語られているから、という側面も大きい。そして語りを続けるにつれ洗練されていく関西弁も。

 『Prelude 2011』で宇野常寛が書いている「巨大なものをどうとらえるか」という視点は間違っていない。とらえきれないことは分かっていて、だからずっと抑圧または逃避していて、ふたりの距離はぎこちないし、会話はかみ合わない。
 ただ、その上でも美夏と勇治は語ろうとする。自分の言葉で、記憶をたどりながら心を開いていく。そうして少しずつ寄り添おうとしているときに、「巨大なものをどうとらえるか」という視点では足りない何かがあるような気もした。
 語ることによって目指す到達点としての巨大なものという実感は映画を見ていてあったが、あくまでそれは結果にすぎないのではないか。あるいは、巨大なものをとらえようとしつつ、自分の中の何かを堀り出そうとしているように見えた。

 ソーシャルワークや心理学でナラティブアプローチ(*1)というものがあるが、語りによって醸成される物語という点ではこの映画も近しいものがある。とはいえ、語られるものがもたらすのは不幸か幸福かは分からない。それすら分からないからまず語る、というところに映画の主眼は置かれているのだから。
 その語りが「巨大なもの」に向かう一方、自分自身の過去という内省的なところにも向けられている。そしてその語りはとにかく生々しく具体的だ。美夏がかつての友人ゆっちについて語るシーンやゆっちの父親に会いに行くシーンは、フィクションを見ているような感覚が全くなくて、これはきっとどこかで語られたはずのエピソードだろう、という感慨のほうが強かった。

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 もっと率直に感想を書くならば、この映画には苦い記憶を掘り返す暴力性もあったと思う。とはいえ15年も経ってしまうとほとんど当事者や神戸、阪神地区以外の人にとっては忘れてしまっていた遠い記憶である。自分自身も当時の記憶がほとんどない中で95年の冬、を思い出さねばならない、という不思議な感じがした。
 その上で感じたのは、日本に住む限り地震という災害からは逃れようがないし、たとえ語られなくなったとしても次がいつ来てもおかしくないなあ、という感覚だった。だから1ヶ月後に本当にあれだけの大災害を体験し(いわゆる被災地ほどのインパクトではなかったにせよ)、目の当たりにしたけれど、想定外という感覚は全くなかった。いつか来るはずだろう出来事を、自分の中ですんなり受け入れることができた。

 関東でも長く続く余震などからくる心理的不安を抱える人が多くいる中で、順調に日常生活に戻れた要因なのかなあとも思っている。他の人がどう感じたか分からないが、ラストシーンで浮かんだ95.1.17という数字が想起させたのは、メメント・モリ、刻まれたものを忘れないように、というメッセージだった。
 とはいえ完全に日常に引き戻してしまうと忘れてしまうことの効用のほうが大きかったりするので(常に考えていたら身動きとりづらいよね、とか)難しいのだけれど。ただ、ある人に言われたのだが、いずれも直近でなかったとは言え阪神大震災と3.11のふたつの地震を震度4と5弱という、大きすぎず小さすぎない数字で経験したという事実は、これからの人生で多かれ少なかれ意識せざるをえないのかもしれない。

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 この映画を見た雑感と実感はこんなところだろう。3.11のことも頭に入れつつ、できるだけそこから切り離して書いてきた。3.11で何かが変わったというよりは、上に書いたように宿命的な現実に引き戻されたという部分が大きいだろうという思いもあるし。
 70分少々という長さというのもあってドラマと映画合わせると5回以上は見ているが、細部へのこだわりが多々あるので見るたびに感じるものが変わってくる。地震云々はおいておいても、一生付き合っていく作品になるかもしれないな、と感じている。
 あとはまあ、最近のNHKはドラマに関して本気出し過ぎだよね、と。

 この記事を一通り書き上げたあとに最大震度5弱の地震が関東地方で起きるのだから、まあそういうことなのであるよ、と改めて。


*0 あとがき的な話をすると、95年は阪神大震災とは別に自分自身に大きな影響を与える出来事があったので、ラストシーンで数字が浮かんだときは何かとこみあげるものがあった。今でも弱い影響は続いているし、何よりあのときの出来事が今の自分を規定し、場合によっては突き動かしているとも言えるし、というか自分自身のアイデンティティと切り離せないことでもあるので、この映画とは全く関係ないけれど95年という数字が自分に与えた影響は大きい、というお話。オウムとも当然いっさい関係ありません。身近に育ってきた地元の友人知人はほとんど把握していると思うが、地元を離れてから具体的な話をしたことはほとんどなくて、自分の中でもある種抑圧してきた部分もあったのかもしれないなあ、という感じはしていた。同時に、自分以外の誰かも語らずに抑圧している過去なるものはあるのだろうなあ、ということもぼんやりと感じた。もしかしたらぽろっと誰かに話すかもしれないけれど、全てを語ろうとすると無駄に力が入るからきっと語ることはないだろう。そっと、これからも向き合っていけたらいいな、と思っている。たぶん95年当時の自分もそう感じた、もしくは大人にそう言われたはずなのでね。

*1 社会福祉実践におけるナラティブアプローチに関してはたとえばこの文章が参考になる。どういった歴史的背景と問題点を含んでいるかが整理されている。 http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~akiyak2/narrative.pdf
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